2021年7月21日水曜日

ファスト映画と映画予告編

 少し前の話になるが、ファスト映画を公開していた人が逮捕された、というニュースを目にした。

 ぼくはその記事でファスト映画なるものを知った。
 ファスト映画とは、映画を10分程度に短縮してあらすじをつけたものだそうだ。
 昔ニコニコ動画で『時間がない人のための~』って動画が流行っていたが、あれだ。

 存在すら知らなかったぐらいなのでぼくはファスト映画を観たことはないが、まあ現代の需要にかなっている動画だなとおもう。

(断っておくが逮捕された人をかばう気はない。逮捕された人はYouTubeで収益を得るために権利者に許可なく映画を切り貼りしていたらしいから完全アウトだ)


 手っ取り早く結末を知りたい、はずれを引きたくない、みんながおもしろいという映画だけを知りたい。
 そういう欲求はどんどん強くなっている。
 小説でも映画でも「感動の物語」「号泣必至」「あっと驚くどんでん返し」「最後の一ページで衝撃を受ける」みたいなちゃちいコピーがあふれている。

「うるせえ。感動するかどうかは見てから自分で決めるわ」とおもうぼくのような人間は少数派なのかもしれない。
 まあぼくも本を買う前にAmazonで星の数をチェックしたりするので、他人の評価を気にしてないわけじゃないんだが……。


 それはそうと、違法に作られたファスト映画がYouTubeにはびこっていると聞くと、これは悪いやつがいっぱいいるというより、映画製作会社の怠慢なんじゃないかとおもってしまう。

 手間暇かけてファスト映画が作られるのは、それが再生されるからだろう。
 需要はある。時間をかけずに映画をダイジェストで観たいという人がいっぱいいる。

 だったら違法アップローダーではなく、権利者がそれに応えてやればいい。


 音楽でもマンガでもお笑いでも、どんどん無料配信でお試しをさせている時代だ。そっちのほうが売れるから。
 あたりまえだ。内容がわからないものは買いづらい。無料版で興味を持ってこそ有料版を買うのだ。ぼくはラーメンズのDVDを全巻持っているが、最初に観たのはニコニコ動画だかYouTubeだかに上がっていた違法アップロード動画だった(今はラーメンズのDVDの内容は全部公式がYouTubeに載せてるけどね)。

 だから映画も、DVDを販売している会社が無料ダイジェストを作ればいい。それによってDVDが売れたり、同じ監督や俳優の作品が売れたりするだろう。


 え? 映画には既に予告編があるって?

 ……あのさあ。
 そうだ。おもいだした。前から言おうとおもってたんだった。
 映画の予告編。あれ何?

 聞くところによると配給会社が勝手に作ったりしてるらしいね。
 あれたいていひどいね。無茶苦茶だよね。内容とぜんぜん関係なかったりする。
 前半のぜんぜん重要でない台詞が、まるで映画全体を決定づける重要な台詞であるかのように使われたりする。
 へたすると本編の夢のシーンとかが、予告編ではまるでクライマックスシーンであるかのように使われていたりする。大嘘じゃん。

 まあ、ちょっとだけ制作側の事情もわかる(ちょっとだけね)。
 映画の予告編は、劇場で他の映画の公開前とかテレビCMとかで使われる。つまり、予告編を観る人は、観ようとおもって観てるわけではない。強制的に予告編を見せつけられているわけだ。
 だから、ネタバレをするわけにはいかない。
「まっさらの状態で観たかったのにー!」と言う人もいるから、ネタバレには気を付けなくてはいけない。本当のクライマックスシーンを使うわけにはいかない。本当のクライマックスシーンを使ったら「ああ、ラスボスはこいつなんだ」とか「最後は崖から落ちるんだ」とかバレちゃうからね。
 そこで苦肉の策として、前半~中盤の「ちょっと盛りあがるけどさほど重要ではないシーン」を、さもクライマックスシーンであるかのような予告編にするんだろう。
 作り手の苦労はわかる。だからある程度はしかたない。かつては


 そう、「予告編はいろんな人が見るからしかたないよね。ネタバレしてほしくない人も目にしちゃうわけだから」で済まされてたのは昔の話。
 今はそうではなくなった。
 YouTubeの動画は(インストリーム広告と呼ばれる5秒経つとスキップ可能な広告も含めて)、途中で停止・スキップができる。
 ユーザーの意思にかかわらず半ば強制的に見せられる&停止不可能な映画館の予告やテレビCMと違い、YouTubeの動画は避けられるし停止できる。

「観たくなければ観なければいい」が通用するのだ。
 だから予告編の中にちょっとぐらいのネタバレは入れてもいい。もちろん謎解きがおもしろさの中核を占める作品ではだめだが、アクション映画やサスペンス映画であればだいたいのストーリーを説明してもさほどおもしろさは損なわないだろう。むしろ「こういうストーリーだったら観に行こう」という人が増えるんじゃないだろうか。

 あらかじめどんな話か知った上で観たい人はたくさんいるのだ。


 違法なファスト映画がはびこるのは、権利者の怠慢があるんじゃないだろうか。
 権利者が公式にファスト映画を作ってYouTubeにアップすればいい。収益にもなるし、DVDの売上にもつながるだろう。
 それをしないから「ニーズはあるのに供給がない」ことになり、違法なアップローダーが現れるのだとおもう。

(これは素人の意見。じっさいは監督や役者の契約で「ファスト映画をつくってYouTubeにアップロードする」ことまで規定していないことがほとんどだろうから、そうかんたんにはいかないんだろうけど……)


2021年7月20日火曜日

かちかちオリンピック

 むかしむかし、あるところにミュージシャンがいました。
 ミュージシャンは少年時代に他の生徒に対して加害行為をおこなっており、それを雑誌のインタビューで誇らしげに語っていました。

 それを知ったうさぎは怒りました。
 うさぎはミュージシャンとも被害者とも何の関係もありませんが、ぜったいにミュージシャンを許すわけにはいきません。

 そこでうさぎはミュージシャンをオリンピック会場に誘いこむと、ミュージシャンの背負った柴に火打ち石で火を付けました。「ここはかちかちオリンピックだからかちかち音がするんだ」

 ミュージシャンは大炎上。背中に大やけどを負いました。
 うさぎはさらにミュージシャンの背中にとうがらしをすりこみ、泥船に乗せて沈めました。
 沈んでゆくミュージシャンを見てうさぎはゲタゲタと大笑い。わるものをやっつけたのです。

 めでたしめでたし。うさぎは次のわるものをさがしにいきました。


2021年7月19日月曜日

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

2020年6月30日にまたここで会おう

瀧本哲史伝説の東大講義

瀧本 哲史

内容(e-honより)
「君たちは、自分の力で、世の中を変えていけ!僕は日本の未来に期待している。支援は惜しまない」2019年8月に、病のため夭逝した瀧本哲史さん。ずっと若者世代である「君たち」に向けてメッセージを送り続けてきた彼の思想を凝縮した“伝説の東大講義”を、ここに一冊の本として完全収録する。スタジオ収録盤にはないライブ盤のように、生前の瀧本さんの生の声と熱量の大きさ、そしてその普遍的なメッセージを、リアルに感じてもらえると思う。さあ、チャイムは鳴った。さっそく講義を始めよう。瀧本さんが未来に向けて飛ばす「檄」を受け取った君たちは、これから何を学び、どう生きるべきか。この講義は、君たちへの一つの問いかけでもある。


 経営コンサルタントや投資家の経歴を経て、京大などの准教授を務めた瀧本哲史氏が、東大でおこなった講義を本にしたもの。

 一回の講義を本にしたものなので、正直情報量は多くない。何かを知りたいならこの本よりも、瀧本氏が執筆した本を読んだほうがずっといいとおもう。
 ただこの本からは〝熱意〟みたいなものは感じることができる。もちろん活字にしているので生講義に比べれば何十分の一でしかないんだろうけど、それでもたしかに息遣いが感じられる。
 音は悪くてもライブ盤CDのほうが迫力を感じられるように。




 パラダイムシフトはどんなふうに起こるかという話。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。


 ぼくの知り合いのおばあちゃんの話。
 もう九十歳を過ぎていて完全に認知症だ。最近のことをまったくおぼえていなくて、三分おきに何度も同じ話をくりかえす。
 選挙の時期になると、息子がおばあちゃんを投票所に連れていく。もちろんおばあちゃんはどんな候補者が出ているのか、誰がどんな政策を掲げているのかはまったく知らない。三分前のことをおぼえていないのだからあたりまえだ。でもおばあちゃんは投票用紙に「自民党」と書いて投票箱に入れる。数十年間ずっとそうしていたから。
 このおばあちゃんに、いまさら考え方を変えさせることは無理だろう。仮に自民党が消滅したとしても、おばあちゃんは投票所に足を運べるかぎりはずっと「自民党」に票を入れつづけるのだろう。

 これは極端な例だが、そこまでいかなくても人が考えを改めるのはむずかしい。賢い人でも。いや、賢い人ほど。
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、多くの情報を得た人は、「元々の自分の考えに近い証拠」を信じ、「元々の自分の考えにあわない証拠」を切り捨て、ますます自説に執着するそうだ。
 さらに認知能力の高い人ほど自己正当化がうまく、議論によって考えを改める傾向が低いのだそうだ。


「人の常識はそうかんたんに変わらない」は悲しい現実だ。
 けれど「時代が変わって構成員が変われば世の中の常識は変わる」は希望でもある。

「若いやつは苦労すべき。少ない給料で長い時間を働くことで成長できる。おれもそうやって成長した」「女は家庭を守ってなんぼ。子どもには母親がずっとついていることが必要。わたしもそうやって家庭を守ってきた」とおもってるおっさん・おばさんに考えを改めさせるのはすごくむずかしい。ほぼ不可能といっていい。
 しかし旧い価値観の持ち主が社会から退場してゆくことで、ちょっとずつ世の中は変わっている。少しずつだけど、学校でも会社でも根性論は消えつつある。路上で他人が近くにいても平気でタバコをばかすか吸うおっさんももうすぐ死滅してくれるはず。明るい未来だ。


 しかし「時代が変わって新しい価値観が主流になるとき」には自分も年寄りになって「あいつら古い考えを押し付けんなよ。早く現世から退場しろよ」とおもわれる側になってるわけで。ううむ。やはり未来は明るくないのかも。




 歯に衣着せぬものいいも、講義をそのまま本にした「ライブ盤」ならではの魅力かもしれない。

「人生において読んでおくべき本はないですか?」と学生から訊かれて「そんな本、ない」「そういうバイブルみたいな本、大っ嫌いなんですよ」とかバッサリ切り捨てているのも読んでいておもしろい。

 霞が関の仕事は、国民の代表である選良の人たちからの合意を得るというゲームではなく、向こうは動物園の猿で、こっちは猿の飼育係であると考えるといいんですね。
 猿の飼育係の仕事は、自分は人間だと誤解してる猿に餌をあげて、「明日は休みで家族連れがたくさん来るからよろしくお願いしますね」みたいな感じで機嫌を取ることじゃないですか。
 言うこと聞かない猿に飼育係の人がキレて、「おまえは猿のくせにいいかげんにしろ!」とか言ってバシッとやったら、猿いじけちゃいますよね(笑)。

 政治家って高学歴な人が多いからついつい賢い人にちがいないとおもってしまいがちだけど、ぜんぜんそんなことないよね。ほんとに賢い人は政治家になんかならない。選挙のたびに四方八方にぺこぺこ頭下げて、当選しても党の言うがままになって、何かあれば批判が殺到する政治家になるなんて、賢い人間のすることではない。
 自分に利をもたらすよう政治家をうまく操縦することこそ、ほんとに賢い人がやることだよね。瀧本哲史さんみたいに。




 この講義は基本的に「自分で考えろ」ってことしか言ってない。
 さっきの「読んでおくべき本などない」もそうだけど、具体的に「こうしなさい。これをすればうまくいきますよ」みたいな助言は一切出てこない。これはすごく誠実な態度だ。
「○○すればうまくいく」って言うのは詐欺師だけと相場が決まってるもんね。

 地図ではなく、方位磁針のような本。おおざっぱな方向性だけは教えてくれる。ただしどのルートを通ればいいのか、目的地まではどれぐらいの距離なのか、そもそも目的地が何なのかは一切教えてくれない。

 読むと何かをしたくなる本。特に若い人におすすめしたい本。もちろん「すべての人が読んでおくべき本」ではないけどね。


【関連記事】

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



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2021年7月16日金曜日

【読書感想文】平凡な悲劇 / ジャック・ドワイヨン『ポネット』

ポネット

ジャック・ドワイヨン(著)
青林 霞(訳) 寺尾 次郎(訳)

内容(e-honより)
交通事故で母を失った四歳の少女ポネット。突然のことに、ポネットは母の死が理解できない。叔母の家に預けられ、従姉弟たちと一緒に生活するが、ポネットはその遊びの輪にも加わらず、独り草原で母を待ち続ける。そしてベッドの中でお祈りを繰り返す。「神さま、どうかもう一度、ママに会わせて下さい…」四歳の少女が自分の言葉と感覚で死というものをひたむきに理解しようとする姿。静謐で真摯な思索に満ちた、珠玉の物語。

 1996年公開のフランス映画の原作だそうだ。
 交通事故で母親を亡くした四歳の少女ポネットの心の動きを描いた物語。

 ぼくも親として、「自分が死んだらこの子たちはどうなるだろう」「妻が死んだら……」「ぼくと妻がそろって死んだら……」と考える。
 ただ結論としては「どうしようもない」としか言いようがない。生命保険には入ってるし、祖父母は健康だし、ぼくの姉や妻の妹もいるから、まあ最低限の暮らしは送れるだろう。悲しむのは悲しむだろうけど、その心配をしてもどうしようもない。悲しまないようにすることなんてできないし、悲しまなかったらそれはそれでぼくがつらいし(死んでるからつらさも感じないけど)。


 ぼくは幸いにしてまだ親の死を経験していないけど、親の死、とりわけ母親の死というのは身を切られるほどつらいものあることは容易に想像がつく。
 ぼくの父は、父親(ぼくの祖父)が亡くなったときの葬儀では泣いていなかったが、母親(ぼくの祖母)の葬儀では号泣していた。
 この感覚、なんとなくわかる。ぼくの父はべつに父親に対して情がなかったわけではないとおもう。父にも母にも情は感じていたはずだ。だが情の質が根本的にちがうのだとおもう。
 理屈の上では父親も母親も同じく血がつながっている。でも母親は父親よりもずっと特別な存在だ。なにしろかつては自分と文字通り一体化していたのだから。

 だから、祖母が亡くなってもまったく泣かなかったぼくも「母親を亡くした父親の気持ち」を想像して涙が出た。


 穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中で、こんなことを書いていた。

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。

 もういいおじさんになった穂村氏でさえ、母親をなくしたときは他では決して埋められない喪失感を味わったという。それぐらい母親の「愛」はとほうもない。傍から見ているとたまにぞっとするぐらいに。

 おじさんですら号泣する出来事なんだから、四歳である ポネットが母親を亡くす、しかも何の予兆もなく交通事故である日突然に、というのはとうてい受け入れられる出来事ではないだろう。
 我が子(二歳)を見ていてもおもう。幼い子にとって母親は「最愛の人」どころの存在ではない。ほとんど我が身の一部なのだから。




 かわいそうではあるが、『ポネット』は退屈な物語だった。
「こんなに幼くして母親を亡くすなんてかわいそうに」と子を持つ父親として同情はしたけど「とはいえ一定の確率で起こりうることだし、つらいけど時間をかけて乗りこえていくしかないよなあ」とおもう。そしてポネットもしばらくは母の死を受け入れられないがちょっとずつ新しい生活に慣れてゆく。 

 あらすじとしては「母親を亡くした四歳のポネットちゃんはなかなか現実を受け入れられませんでしたが、いとことの会話や寄宿舎での新しい生活を通して徐々に現実を受け入れてゆくのでした」というだけの話で、毎日世界のどこかで起こっている出来事だ。個人としては悲劇だがマクロでみれば「よくある話」だ。申し訳ないけど。

 映画で観ればまたちがった感想があったのかもしれないけど、小説としては平凡すぎてまったくおもしろみに欠けるものだった。あとポネットを放置して現実逃避する父親がひどすぎる。


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【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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2021年7月15日木曜日

【読書感想文】SF入門に最適な短篇集 / 柞刈 湯葉『人間たちの話』

人間たちの話

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
どんな時代でも、惑星でも、世界線でも、最もSF的な動物は人間であるのかもしれない…。火星の新生命を調査する人間の科学者が出会った、もうひとつの新しい命との交流を描く表題作。太陽系外縁部で人間の店主が営業する“消化管があるやつは全員客”の繁盛記「宇宙ラーメン重油味」。人間が人間をハッピーに管理する進化型ディストピアの悲喜劇「たのしい超監視社会」、ほか全6篇収録。稀才・柞刈湯葉の初SF短篇集。


 SF短篇集。




『冬の時代』

 ザ・SFという感じの作品。氷河期が訪れて日本中が凍りついた世界。そこを旅するふたりの少年。
 ディティールの緻密さとかは感心するけど、正直この手のSFは食傷。「○○が起こった後の世界」って定番中の定番だからな。よほど新しい仕掛けがないときつい。

 椎名誠SFの『水域』や『アド・バード』に似てるなーとおもってたら、作者本人の解説によると『水域』を意識して書いたものらしい。なるほどね。




『たのしい超監視社会』

 おもしろかった。
 オーウェル『一九八四年』のオマージュ。
『一九八四年』で書かれるのはオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの国に分割された世界で、作品の舞台はオセアニア。『たのしい超監視社会』は(おそらく)同じ世界のイースタシアを舞台にした小説。

 イースタシアもオセアニアと同じように独裁者が統治する監視社会なのだが、ここに暮らす若者には悲壮感はない。なぜなら彼らは物心ついたときから監視社会で暮らしていて、他の世界を知らないから。さらに日々の暮らしは少しずつ良くなっているので、社会に対する不満はさほど持っていない。

 今の中国の若者がこんな感じに見えるよね。そもそも民主主義を知らないから民主主義がないことを不自由とすらおもわない。政治的な自由はないが経済成長しているから特に不満はない。そんなふうに見える。もちろん内心はわからないけど……。

 区役所の正面壁には歴代総統の肖像画が並んでいる。オールバックで白髪交じりの初代、その息子で癖っ毛の二代目、その息子で在任中の三代目。総統が逝去すると最も優れた党員を後継に選ぶ党則になっているが、今のところ公正な選考の末に、前総統の息子が選出されている。
 儒教文化の根強いイースタシアでは祖先を敬うことが通例で、肖像画においても父を上回ることは許されない。このため二代目の肖像画は初代の半分、三代目はそのまた半分となっている。等比級数の総和は有限であるため、たとえ千代続いても肖像画を飾るスペースは足りる。この方式が国家体制の永続性を体現していると言える。

 ディストピア小説でありながら、タイトルの通り主人公たちは楽しそう。
 まあ今の我々だって、別の時代・社会の人間からしたら「この時代の日本人はぜんぜん自由じゃないのにそのわりには何も考えずに楽しくやっていたんだなあ」と見えるかもしれないね。




『人間の話』

 これはいちばん好きだった。

 地球上の生物は元をたどればみんな同じ系譜の上にいる。もともとは共通の祖先から枝分かれしたのだから。
 だからこそ孤独を感じる。他の星にまったく別の経路で発生した種を追い求める。

 ……という一風変わった主人公が、親に捨てられた子ども(甥)を引き取り育てることになる。
「地球外生命体」と「親に捨てられた子」がどうつながるのかとおもったら……。なるほど、こうリンクするのかー。感心した。
 ひとりの人間の境遇を「地球上の生物すべて」に重ねあわせる。なんて壮大な発想なんだ。

 小説を読む楽しさのひとつって「自分とはまったく価値観のちがう人の思考に触れる」ところだとおもう。もちろん小説だから実在の人物の思考ではないわけだけど、よくできた小説は「すげえ変わってるけどこんなふうに考える人もこの世のどっかにひとりぐらいはいるんだろうな」とおもわせてくれる。
 この小説はまさにそんな物語だった。




『宇宙ラーメン重油味』

 タイトル通り、SFコント風の作品。
 〝消化管があるやつは全員客〟を合言葉に、宇宙のありとあらゆる生物(地球人の感覚でいえばとても生物とはおもえないようなのも含む)にラーメンを提供する店の奮闘を描く。
 はたして重油にシリコンや重金属をつけたものをラーメンなのかという疑問はさておき。

 ばかばかしい描写はおもしろいのだが、説明に終始しているのが残念。これに起伏の富んだストーリーがあればなあ。




『記念日』

 ある日突然ワンルームの室内に巨大な岩が出現する……というストーリー。
 マグリットの『記念日』という絵に触発されて書かれたものらしい。

 これも出オチ感がある。室内に岩が出現したところがピークで、これといった展開はない。「習作」って感じの短篇だった。




『No reaction』

 生まれたときから透明人間である主人公の日々をつづった小説。

 反作用は受けるが作用は与えることができない、という設定は新しい。しかし野暮なことをいうけど、生まれたときから透明人間だったら交通事故とかですぐ死んじゃうだろうな。

 透明人間に性欲というのは無用だ。少なくとも透明人間の男が不透明な女の子と交わって子孫を残すことはできない。無用なはずだが、きっちり存在する。まったく厄介なことだ。
 不要な機能がある理由というのはだいたい、他の目的で作られたものを急ごしらえに転用したせいだ。もともと生物種というのは女がメインで、男というのは女と女の遺伝子の交換を媒介するための運び屋にすぎない。だから男の体は女をベースにちょっと下半身をいじっただけの手抜き製品で、使いもしない乳首が残ってるのはそのためだ。
 このことから類推するに、おそらく透明人間というのは不透明と独立に生まれたものではなく、不透明がなんらかの原因で透明化して生じたものだと思われる。そうでなければこんなにも形が似ているはずがないし、透明人間に不要な性欲が備わっているはずもなく、布団もかけずに眠っているマキノにベタベタ触れている理由もない。

 こういう細かい設定を丁寧に書いているので無茶な設定でありながら妙な説得力がある。ほらをまき散らして煙に巻くのがうまいのは作家としてすぐれた資質だ。

 しかし「食事をどうしているか」が一切書かれていないのが気になる。作用を与えることができないのなら咀嚼も消化もできないわけだが……。
 触れていないということは、作者もうまい言い逃れをおもいつかなかったのかな。「食事をしなくても生きられる」だったら透明人間じゃなく幽霊になってしまうしなあ。
 移動方法や性欲や学習については細かく説明しているのだから、食事についてもうまい説明を与えてほしかったな。惜しい。




 豊富な科学知識に裏づけられた本格的なSFでありながら、どの作品も重たすぎず、肩の力を抜いて読める。
 とっつきやすくて、けれども奥が深い。SF入門に最適な短篇集じゃないでしょうか。


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【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』



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