2021年7月8日木曜日

【読書感想文】赤ちゃんだったときの喜び / 古泉 智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』

うちの子になりなよ

ある漫画家の里親入門

古泉 智浩

内容(e-honより)
子どもがほしい…。6年間で600万円、不妊治療のどん底で見つけた希望の光。里親研修を受け、待望の赤ちゃんを預かった著者(40代・男)が瑞々しくも正直に綴る、新しいタイプの子育てエッセイ。

 里親になった漫画家によるエッセイ。

 里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
 だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
 同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。

 仕方がないので、赤ちゃんを抱っこひもで抱いて外を歩いた。(中略)歩いている途中、線路を渡ったあたりで足首を蚊に刺された。リズムを崩すと赤ちゃんを寝かせられないのでそのまま歩いた。赤ちゃんの手がだらんとした。線路の横を歩いていると、遮断機が降りて警報がカンカンなり出した。その造断機に近づくと警報の音が大きくなってしまうので、その場で赤ちゃんのお尻を手で歩くリズムで叩いた。電車が迫り来てゴーッと通り過ぎる音と窓から漏れる光で赤ちゃんが目を覚ました。頭を激しく左右に振って電車の行方を追った。せっかく眠ったのに残念に思っていたのだが、またすぐだらんと寝た。赤ちゃんが寝やすいようにゆっくりしたペースで歩いているのにも疲れて昔通の速さで歩いた。そのまま帰宅して妻のベッドに寝かせた。珍しい仰向けでの寝姿はすっかり大きくなっているように見えた。
 このようにミルクで寝ない場合は体を起こした状態で抱っこして寝かせなければならず、やはり寝そべった状態ではまったく寝ない。赤ちゃんの眠りについて考えていると不思議な気持ちになる。

 ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。

 ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
 夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。

 読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
 抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
 それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。

 なつかしいなあ。
 ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。




 前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。

 正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
 交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
 他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
 まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。

 一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
 なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。

 でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。




 子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
 肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。

 どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
 それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
 まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。

「これまでずっと何年も真っ暗な夜道を裸足で歩いているような感覚だったのが、赤ちゃんが来てくれてから光を浴びているような感じがする。まわりが真っ暗でも自分にだけスポットライトが当たっているような感じで、そんな感覚ははじめだけだと思っていたのだが、1か月 以上経過してもなお弱まらず続いている。光の源は赤ちゃんで、今も僕をまばゆく照らしてくれている。3回しか会ったことのない娘は遠くに見える星のような存在だったのだが、うちにいる赤ちゃんは常にビカビカに、全身くまなく照らしてくれる。本当にアホみたいなんだけど、『つつみ込むように』というミーシャの歌が高らかにずっと鳴り響いているような気分です。
いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽くしてこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない。自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑くらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。どっちにしても自分本位の利己的な「誰かのため」なので、決してほめられた話ではありません。

 子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
 特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。

 ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
 血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。

 親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。

 人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。


【関連記事】

ミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて/黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』【読書感想エッセイ】

自分の人生の主役じゃなくなるということ



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2021年7月7日水曜日

【読書感想文】「安全安心」がいちばん危険 / 東野 圭吾『天空の蜂』

天空の蜂

東野 圭吾

内容(e-honより)
奪取された超大型特殊ヘリコプターには爆薬が満載されていた。無人操縦でホバリングしているのは、稼働中の原子力発電所の真上。日本国民すべてを人質にしたテロリストの脅迫に対し、政府が下した非情の決断とは。そしてヘリの燃料が尽きるとき…。驚愕のクライシス、圧倒的な緊迫感で魅了する傑作サスペンス。


 大型ヘリコプターが遠隔操作で乗っ取られ、原発の真上でホバリング。国内すべての原発を使用不能にしないと原発の上に落下させて爆発させると犯人から政府に声明が届いた。
 はたして犯人は誰なのか、そして目的は何か……。


 文庫で600ページ以上の重厚なサスペンス。
 乗り物をジャックするというのはわりとよくある手法だが、「犯人の目的が謎」「人質にとられているのが原発」という要素のおかげでぐっと奥行きが増している。

 これが「バスジャックをした。人質を解放してほしければ十億円よこせ」みたいな話ならわかりやすい。
 警察は人質保護を最優先させながら、犯人逮捕に全力を尽くす。他に被害を出さないよう、周囲の住民には避難を命じる。

 ところが人質が原発だと話はそう単純ではない。

「いいかね、中塚君。地元から問い合わせがあるだろうが、避難の必要があるなんてことは、軽率にいわんでくれよ。今ここであわてて避難させたりしたら、原発の安全性を自ら否定することになるんだからな」
 航空機が落ちても放射能漏れなどが起こる事故には発展しない――『新陽』のみならず、日本全国の原発についてこのようにPRされている。それだけに今回の事態であわてふためくのは、そうした宣伝と矛盾することになるわけだった。

 政府や電力会社は「原発は絶対安全だ」と嘘をついている。
 福島第一原発の事故があった今ではそれが嘘だったとみんな知っているが、『天空の蜂』が刊行された当時(1995年)はまだその嘘が生きていた。まあみんな薄々気づいていたのかもしれないが、少なくとも建前としては「原発は絶対安全だ」ということになっていた。大地震があろうがテロがあろうが職員が発狂しようが事故は起こらない、という設定になっていた。嘘だったわけだけど。

『天空の蜂』の事件はその嘘を巧みについている。
「原発は絶対安全だ」ということになっている以上、テロがあろうが地震があろうが近隣の住民を避難させるわけにはいかない。「原発は絶対安全だ」を錦の御旗にして誘致を進めてきた手前、「原発事故が起こるかもしれない」と口が裂けても言うわけにはいかないのだ。


 えてして、大事故になるのは「危ないかもしれない」ものではなく「ぜったいに大丈夫」なものだ。

「それでいいのか、とは?」
「緊急時避難計画というのは、原発で事故が起きて、放射能漏れのおそれがある時のものです。でも、まだ事故なんか起きてません」 「起きてからより、その前に避難させるほうがいいだろう」
「しかしそれじゃ、事故になると予想したことになります」
「それじゃいかんのか。ヘリコプターが落ちるかもしれんのだろう。事故になると予想するのが当然じゃないのか」
「いや、でも、たとえ航空機事故が起きても、放射能漏れに繋がるような事故にはならないというのが、地元への説明だったんですけど」
「なに?」金山は、不意に水をかけられたような顔になった。目の焦点が一瞬曖昧になった。
「もしここで避難させるとなると、原発に航空機が墜落した場合、放射能漏れを伴う事故に発展することを、県が認めるということになります」
「あっ……」と声を漏らしたのは山根副知事だ。諸田防災課長も、口を開けた。

 多くの国民の反対意見を押し切ってまもなくはじまろうとしている東京オリンピックもそうだ。
「新型コロナウイルスの流行がまったく収まっていない今、オリンピックを開催するのは危険だ。多くの犠牲者も出るだろう。だがそれでも開催する」
というスタンスであれば、まだ被害を最小限に抑えるための手も打てるだろう。観客を入れないとか、外国人の入国を厳しく制限するとか、厳しすぎるぐらいに検査を徹底するとか。ほんとに危険になったら中止にすればいい。

 だが「安全安心のオリンピック」という嘘を建前にしてしまった以上、被害はどんどん大きくなるだろう。だって安全安心なんだもん。検査を徹底するとか完全無観客にするとかしたら「安全安心」という言葉と矛盾してしまうもん。
 オリンピック期間中に感染者数がどれだけ増えても中止にはできない。だってオリンピックは「安全安心」なのだから。感染者増はオリンピックとは無関係ということにしないといけないのだから。


 絶対に安全なものはいちばん危険だ。危険性を認められなくなるから。トラブルが起こったときの解決策が〝隠蔽〟だけになってしまうから。

 原発の嘘、「絶対安全」の嘘を見事に書いた小説だった。
 正直いってサスペンスとしてはさほどおもしろくない(予想通りの展開になるので)が、東野圭吾作品にはめずらしい社会派作品としては成功しているとおもう。




 小説なのでもちろん嘘ばっかりなのだが、「ありえそう」とおもわせるリアリティがあった。作者の腕だね。

 ただ、2021年の今読むと「これはないな」とおもうところが一箇所。
 それは政府の決断が速いこと。
 前代未聞の出来事に、次々と決断をおこなってゆく。その決断には正しいものもあれば保身的なものもあるんだけど、とにかく決断のスピードが速い。


 だけどコロナ騒動での政府の右往左往を見ていたぼくには「そんなわけねえだろ」としかおもえない。
 こんなに素早く意思決定をおこなえるはずがない。責任重大な決断を引き受ける人間が政府中枢にいるわけがない。

 たぶん現実にこんな事件が起きたら、政府は何ひとつ決断できないまま時間切れで最悪の結末に……ってことになるんじゃないかな。オリンピックみたいに。


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【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』



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2021年7月6日火曜日

いちぶんがく その7

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



ただねえ、阿呆は「阿呆っていいね」と言ったとたん腐るというかね。

(杉本 恭子『京大的文化事典』より(森見登美彦の台詞))




そのことをビートルズが教えてくれた。

(東野 圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』より)




そして時には贈るだけではなく、大切なものを燃やしたり、粉々に破壊したり、海のなかに放り投げたりもします。

(伊藤 亜紗 他『「利他」とは何か』より)




今日のピンクグレープフルーツの大半が、放射線によって突然変異を起こしたこれらの植物の子孫なのです。

(ライアン・ノース(著) 吉田 三知世(訳)『ゼロからつくる科学文明 タイムトラベラーのためのサバイバルガイド』より)




そしてその「戦争の始まり」とは、つまりは政治の失敗だ。

(清水 潔『「南京事件」を調査せよ』より)




あんたは自分が変わってると言われたいがために娘に変な名前をつける人間なんだな。

(津村 記久子『まともな家の子供はいない』より)




ねえ、こんな経験してる婆さん、滅多にいないよね?

(桐野 夏生『夜の谷を行く』より)




ダンナの実家に初めて行って料理を手伝わされる嫁みたいな気分だ。

(高野 秀行『移民の宴』より)




中学生は、鳥の群れのようなものだ。

(奥田 英朗『沈黙の町で』より)




「うへ、嫌味言うんだ、そんなやつ、ぶっ飛ばしてやれ!」

(角田 光代『対岸の彼女』より)



2021年7月5日月曜日

【読書感想文】完璧な妻はキツい / 奥田 英朗『我が家の問題』

我が家の問題

奥田 英朗

内容(e-honより)
夫は仕事ができないらしい。それを察知してしまっためぐみは、おいしい弁当を持たせて夫を励まそうと決意し―「ハズバンド」。新婚なのに、家に帰りたくなくなった。甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻に感動していたはずが―「甘い生活?」。それぞれの家族に起こる、ささやかだけれど悩ましい「我が家の問題」。人間ドラマの名手が贈る、くすりと笑えて、ホロリと泣ける平成の家族小説。

「夫が仕事ができないことに気づいてしまう」「両親が離婚するかもしれない」「お盆に実家に帰るのが大変」など、他人から見たらどうでもいいが当人にとっては一大事である〝我が家の問題〟をユーモラスに描いた短篇集。


 離婚とかリストラとかいまさらめずらしい話でもないけれど、それが自分の家族に降りかかることを考えたら頭がいっぱいになるぐらいの深刻な話だよね。

 ぼくも中学生のときに両親の仲が険悪になり、毎晩遅くまで口論をしていた。そのときはぼくもつらかった。原因はわからない。というかひとつじゃなかったとおもう。なぜならありとあらゆることで両親は対立していたから。


 さらにある日、両親から「大事な話がある」とぼくと姉が居間に呼びだされたときは、「ああこれは離婚のお知らせだ。うちの家族はもうおしまいだ。どっちについていくかを決めなくちゃいけないんだ」と絶望的な気持ちになった。
 だが結局両親の話というのは「今まで毎晩喧嘩をしておまえたちにも心配をかけてすまなかった。話し合いは決着がついたから今後はもう仲良くやっていく」という〝仲直り宣言〟で、ぼくはその言葉をまったく信じていなかったのだがほんとにその日から両親は仲良くなり、我が家は一家離散の危機を免れた。それ以降、ぼくが知るかぎり大きな喧嘩は一度もしていない。

 ふつう、「仲良くします」と宣言したからって仲良くなれないものだが、うちの両親はそれをやってのけた。我が親ながら大したものだとおもう。きっとお互いいろんなことを我慢することにしたのだろう。

 それを機に、ぼくは「家族って継続していくことがあたりまえじゃないんだ」と知った。
 子どもの頃は「父親は仕事をして、母親は家事をして、姉とぼくは衣食住を保証されるもの」と疑いもしていなかったけれど、家族なんてたやすく壊れることもあるし、壊さないためには不断の努力が必要なのだと気づいた。




 結婚して子どもが生まれて、ぼくも「家庭を壊さないように不断の努力をする」立場になった。
 特に子どもが生まれてからは、〝自分の時間〟なんてものはほとんどなくなった。家のスケジュールはすべて子ども中心に動く。休みの日も子どもと遊んだり子どもを病院に連れていったり買物に行ったり寝かしつけたり掃除をしたりで、ひとりでどこかに出かけることなどほとんどない。まあぼくは子どもと遊ぶのが好きだし読書以外の趣味もないのでそこまで苦ではないのだが。
 しかし文句は言えない。妻はもっと自分の時間を犠牲にして仕事や家事や育児をしているのだから。

 子育てってほんとに「割に合わない」仕事だよなあ。莫大な時間と金がかかるわりに、望む通りの結果は得られない。〝生物としての本能〟だからやっているだけで、損得で考えれば完全に損だ。

 だから、子どもを産むかどうか迷っている人に「産んだほうがいいよ!」とは言えない。良くないこともいっぱいあるから。

 ただ、個人的な気持ちを言えば「自分の時間を捨てて脇役として生きるのもそれなりに楽しいぜ」とはおもう。




『我が家の問題』収録作品では『甘い生活?』がいちばんおもしろかった(というより他の作品はほとんど心を動かされなかった)。

 十二時過ぎに自宅マンションに帰り、風呂から出ると、パジャマにカーディガンを羽織った昌美がキッチンで何かを作っていた。
「先に寝てていいって言ったのに」
「大丈夫。たいした手間じゃないから」
 うしろからのぞくとうどんを茹でていた。別の鍋ではつゆを温めていて、かつお出汁のいいかおりが鼻をついた。小口切りした浅葱と刻んだ揚げが横に用意してある。こういう一手間を見ると、うれしさと同時にそこまでしなくてもいいのにと思うのは、一人暮らしが長かったせいか。
「ビールは飲む?」
「じゃあ、飲もうかな。ああ、いい。自分で出す」
 淳一は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開けた。「はい」横で昌美がすでにグラスを用意している。
「いいよ。直接飲むから」
「だめ。グラスで飲んだほうがおいしいから」
 確かにその通りなので従った。独身時代は、もちろんグラスなど使わなかった。

 この妻をどう感じるかは、人によってぜんぜんちがうだろうな。

 「よくできた妻じゃん」とおもう人もいるだろうが、「これはキツい」と感じる人のほうが多いんじゃなかろうか。特に男は。ぼくだったらこんなの耐えられない。

 一生懸命働き続けている人が家の中にいたら、こっちもだらだらできないじゃん。
 十二時過ぎに帰ったら、さっさと寝てくれている人のほうがいい。そしたら何も気兼ねせずにせいいっぱいだらだらできる。

 いっしょに暮らすのなら、四六時中きっちりしている人より適度に手を抜いてストレスフリーで生きてくれる人のほうがいいなあ。もちろん限度はあるけど。


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自分の人生の主役じゃなくなるということ

【読書感想文】奥田 英朗『家日和』



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2021年7月2日金曜日

【読書感想文】バカ経団連を一蹴するための知識 / 小熊 英二『日本社会のしくみ』

日本社会のしくみ

雇用・教育・福祉の歴史社会学

小熊 英二

内容(e-honより)
日本を支配する社会の慣習。データと歴史が浮き彫りにする社会の姿!!「この国のかたち」はいかにして生まれたか。“日本の働き方”成立の歴史的経緯とその是非を問う。

 〝日本的な働き方〟というと、どんな働き方を思い浮かべるだろうか。

 終身雇用、年功序列賃金、遅くまで残業、飲み会・接待、会社都合で転勤、六十ぐらいで定年退職して老後は悠々自適な生活……。みたいなイメージを持つのではないだろうか。
 ぼくが子どもの頃思い浮かべていた「ふつうのサラリーマン」もそんな感じだった。というのも、ぼくの父親(大企業勤務)がまさにそんな働き方をしていたからだ。

 だが自分が社会に出てみると、そんな甘いもんじゃないとわかった(いや父親の働き方だって甘かったわけではないんだろうが)。

 まず終身雇用なんてどこの世界の話? という感じだ。
 まあこれはぼくがウェブ系の仕事をしているからでもある。業界自体が新しいこともあり、転職なんてあたりまえの世界だ。一社に五年勤めていたら「長いね」と言われるような世界だから「新卒で入社してから十年以上この会社です」なんて人には会ったこともない。

 当然ながら年功序列賃金もない。もちろん長く勤めていれば給与が上がることもあるが、それはスキルや経験が評価されてのことであり、転職を機に年収アップすることも多い。

 残業や飲み会は会社によるとしか言いようがないが、転勤とか定年退職もほとんど聞かない。全国各地に支社や子会社がある会社がほとんどない上、転職が容易なのだから半強制的な転勤を命じられることもない。

 というわけで個人的には日本的な働き方とは無縁な仕事をしているが、それでもまだまだ世間一般のイメージでは「(特に男は)ひとつの会社で骨をうずめる覚悟で働くもの」という意識が強い。ぼくも就活をするときはそういうもんだとおもっていたし(だから妥協できなくて失敗した)、両親なんかは息子の転職に眉をひそめた。




 しかし〝日本的な働き方〟は、ちっともふつうの働き方ではないことが『日本社会のしくみ』を読むとよくわかる。

 欧米の働き方はまったく違うし、日本でも〝日本的な働き方〟が一般的な働き方だったのは高度経済成長期~バブル崩壊ぐらいまでのごくわずかな期間だけだったことがわかる。
 またその頃だって、終身雇用や年功序列があたりまえだったのは大企業に勤める男性サラリーマンにかぎった話だった。

 一九九三年は、まだバブル経済の余韻が続いていた時期である。その時代でも、三分の一程度の人しか、年金だけでは生活できなかったのだ。
 この三分の一という数字は、経産省若手プロジェクトが試算した「正社員になり定年まで勤めあげる」という人の比率と、ほぼ一致している。前述したように、二〇一九年の厚生労働省の発表では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という人生をたどれば、夫婦二人で月額二二万一五〇四円の年金が受給できる。この金額ならば、貯金から毎月数万円ずつ補なうか、出費をかなり切りつめれば、年金だけでも生活できるだろう。ちなみに二〇一七年の総務省「家計調査」では、「高齢者夫婦無職世帯」の一ヵ月の支出は二六万三七一八円とされている。
 だがこうした人々は、少数派である。定年後のすごし方に悩むとか、生きがいとして働くといったことは、こうした人々に限った話である。
 これは今に始まったことではなく、昔からそうなのだ。『読売新聞』二〇一九年六月一四日付の報道によれば、厚労省の年金局長は一三日の参議院厚生労働委員会で、「私どもは、老後の生活は年金だけで暮らせる水準だと言ったことはない」と述べた。もともと「大企業型」以外の人は、高齢になっても働くことが前提の制度なのだともいえよう。

〝老後は悠々自適な生活〟ができたのは、ごくわずかな時期のごくひとにぎりの人たちだけ。
 隠居なんてほんの限られた金持ちだけに許されたことなのだ。
 十年ぐらい前に「歳をとっても引退できない時代になった」なんてことが声高に叫ばれていたが、歴史的にはそっちのほうがふつうなのだ。




 年齢(≒社歴)を重ねるにつれて出世していき、給与も増えていく。そんな島耕作的なサラリーマン人生は決してポピュラーなものではなく、むしろ例外だった。
 たしかに高度経済成長期は順調に出世コースを歩むサラリーマンも多かった。だがそれはいくつかの歴史的背景に支えられてのものだった。

 当時の四〇~五〇代の男性たちは、戦争と兵役を経験し、軍隊の制度になじんでいた。職能資格制度がこの時期に急速に普及したのは、総力戦の経験によって、各企業の中堅幹部層がこうしたシステムに親しんでいたことが一因だったかもしれない。
 だが彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。(中略)
 そして彼らがこの報告書を出した一九六九年も、日本のGNPが年率一〇%前後で急成長していた時期だった。その時期には、現場労働者レベルにまで「社員の平等」を拡張しても、賃金コストの増大に対応できた。
 だが一九七三年の石油ショックを境に、そうした時期は終わりを告げた。それでも、いったん拡張した「社員の平等」は、もはや撤回できなかった。そのあとの時代には、正社員の範囲だけに「社員の平等」を制限するという、「新たな二重構造」が顕在化していくことになる。

 一般企業が年功序列賃金を実現できていたのは、
「戦死により上の世代が少なかった」
「人口増や高度経済成長により経済規模自体が大きくなっていた」
という背景があればこそだったのだ。
(コストにとらわれなくていい公務員はそのかぎりではないから名前だけの役職者を置くことができる)

 人口は減り、若手よりも中高年のほうが多い現代日本で同じことを実現できるはずがない。元来が無茶な制度なのだから、無理にやろうとおもえばそのしわ寄せは非正規労働者に向かうことになる。

 年功序列や終身雇用制度は、非正規社員が割を食うことで成り立っているのだ。




 海外(欧米だけだが)との比較もおもしろい。

 日本ならば、「大企業か中小企業か」「どの会社か」といった区分が重要になる。だから「A社に就職したい」という言い方が出てくる。A社の正社員になってしまえば平等だ、という「社員の平等」を前提にしているからだ。
 しかし欧米その他の企業では、「社員の平等」というものは存在しない。ここでは、「A社に就職したい」という言葉は意味をなさない。「A社」の現場労働者や下級職員になるのは、むずかしくないからだ。
 その代わり、欧米その他の企業では「職務の平等」とでもいうべき傾向がある。たとえば財務に強い上級職員であれば、A社であろうがB社であろうが、NGOであろうが国際機関であろうが、高給取りの財務担当者になるだろう。逆にいうと、現場労働者はA社であろうがB社であろうが、勤続年数が多かろうが少なかろうが、現場労働者のままなのが原則だ。
 図式的にいうと、日本企業では一つの社内で「タテの移動」はできるが、他の企業に移る「ヨコの移動」はむずかしい。しかし欧米その他の企業では、「ヨコの移動」の方がむしろ簡単で、「タテの移動」のほうがむずかしい。
 こうみてくると、「欧米企業は成果主義が徹底していて収入に大きな差がつく」というのは、経営者や上級職員の話であるのがわかる。また「欧米企業では専門職務に徹するが日本企業はゼネラリスト志向だ」というのは、下級職員にはあてはまるが、幹部候補生レベルの上級職員は必ずしもそうではない。「日本は年功制だが欧米は厳しく査定される」というのは、下級職員や現場労働者には当てはまらないことが多い。

 なるほど。
 たしかに日本の会社ではふつう「同じ会社の正社員であれば平等」である。
 会社であれば定期的に部署移動がある。そうでない会社でも、職種によって極端な賃金格差が生じることはない。同じ年齢・同じ性別・同じ学歴であれば同じような給与体系になる。 

 その一方で、会社が異なれば給与が異なってもしかたないと受け止められる。
 だから転職に二の足を踏む人も多い。会社を移ることで給与が大幅に下がる可能性があるからだ。

 だがアメリカなどでは職務の平等が重要視される。同じ会社の同じ年齢の社員であっても、経営部門か現場労働者かでまったく待遇が異なる。

 どちらが良いというものでもない。それぞれにメリットとデメリットがある。
 だが「社員の平等」があたりまえとおもわれている日本で同じ会社の社員に極端な差をつけるのはむずかしいだろうし、「社員の平等」を実現するためには「親会社と子会社の平等」や「正規社員と非正規社員の平等」などは切り捨てざるをえず、さんざん言われている〝同一労働同一賃金〟も実現するのはかなり困難だ。

 この本の中で著者も書いているが、日本には日本の、アメリカにはアメリカの、ドイツにはドイツの働き方がある。それは経営者の事情、労働者の事情、教育体制、税制、社会保障制度などが混然一体のなった結果として成立しているものだから、「アメリカの企業ではこんな働き方が主流だ。だから日本でも取り入れよう!」という取り組みは無意味だし、強引にやっても失敗する。ゾウの鼻とライオンの牙とウサギの俊敏性だけを取り入れることはできないのだ。


 この本自体には「こういう働き方をするべきだ!」といった主張はない。
 ただ歴史的な背景や各国との比較をもとに「日本の働き方はこうなっている」という説明をしているだけだ。

 でも、目先の利益しか考えていない経営者が「こういう働き方をするべきだ!」と言いだしたときに「バカ言ってんじゃねえよ」と一蹴するための知識を与えてくれる。


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【読書感想文】同一労働同一条件 / 秋山 開『18時に帰る』



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