2021年5月31日月曜日

【読書感想文】意志は思考放棄 / 伊藤 亜紗ほか『「利他」とは何か』

「利他」とは何か

伊藤 亜紗  中島 岳志  若松 英輔
國分 功一郎  磯崎 憲一郎

内容(e-honより)
コロナ禍によって世界が危機に直面するなか、いかに他者と関わるのかが問題になっている。そこで浮上するのが「利他」というキーワードだ。他者のために生きるという側面なしに、この危機は解決しないからだ。しかし道徳的な基準で自己犠牲を強い、合理的・設計的に他者に介入していくことが、果たしてよりよい社会の契機になるのか。この問題に、日本の論壇を牽引する執筆陣が根源的に迫る。まさに時代が求める論考集。


「利他」をキーワードに五人の執筆陣が論考をめぐらせた本だが……。

 正直、それぞれが好き勝手に書いているだけなので本としてのまとまりはない。しかも後半の執筆者になるにつれてどんどん話は抽象的・哲学的になってゆく。まあそりゃそうか。「利他」を語るなら、哲学の話になるのは必然か。

 とはいえ「コロナ禍によって世界が危機に直面するなか……」なんて説明文だから、もうちょっと即時性のある内容かとおもったぜ。




 伊藤亜紗さんの文章がいちばんおもしろかった。

 共感といってもいろいろありますが、それが近いところや似たものに向かう共感であるかぎり、地球規模の危機を救うために役立たないのは、彼らが指摘するとおりです。
 加えて共感は、もっと身近な他者関係でも、ネガティブな効果をもたらすことがあります。なぜなら、「共感から利他が生まれる」という発想は、「共感を得られないと助けてもらえない」というプレッシャーにつながるからです。これでは、助けが必要な人はいつも相手に好かれるようにへつらっていなければならない、ということになってしまいます。それはあまりに窮屈で、不自由な社会です。
 以前、特別支援学校の廊下に「好かれる人になりましょう」という標語が書いてあって、愕然としたことがあります。もしこの言葉が、「助けてもらうために」という前提を無意識に含んでいるのであれば、障害者には自分の考えを堂々と述べたり、好きな服を着たり、好きなことをしたりする自由がないということになってしまいます。これは、障害者の聖地カリフォルニア州のバークレーの街角で見かける、髪を紫に染めてタバコを吸いながら悠然と車椅子に乗って進むパンキッシュな障害者の姿とはまったく対照的です。

 よく「相手の立場に立って考えましょう」なんていうけど、あれは良くない。もちろん優しさにつながる面もあるけど、同時に他人の行動を縛るためにも使われる。
「自分があなたの立場に立ったらそんなことはしない。だからあなたもやめるべき!」という方向に容易に進んでしまう。「自分が障害者だったら他人に迷惑をかけないように暮らす。だから障害者はつつましく生きるべきだ!」となってしまう。

 想像力や共感は、他人の行動を制限するためにも使われるのだ。

〝想像力のある人〟が、「自分が車椅子ユーザーだったら電車に乗る前に駅員に連絡をする。だから連絡をせずに駅員に迷惑をかける車椅子ユーザーは非常識だ!」と叫ぶのだ。
 その想像はせいぜい「短期的に車椅子に乗ることになったら」ぐらいで、「一生車椅子に乗って生活する」ことまでは想像できていないことがほとんどなんだけど。

 利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。
 重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。 思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。
 つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になります。「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。

 親切にするとき、見返りを求めてしまう。べつに金銭的なものだけでなく「喜んでもらう」「感謝される」ことを当然のものとおもってしまう。

 被災地に入ったボランティアが、被災者の気持ちを無視して親切心を押しつけようとする、なんて話をよく聞く。利他的にふるまうときこそ他人に迷惑をかけやすいのだ。


 ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』という本に書いてあったが、人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすいそうだ。
 私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「国のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなる。金儲けのために殺人はできない人でも、「国のため」と言い聞かせれば戦争で人を殺せるわけだしね。

 虐殺や残酷なリンチはたいてい〝崇高な目的〟のためにおこなわれる。
 募金活動をしている人が通行人の妨げになっている。
 よりよい未来をつくるはずの人が選挙カーで大音量で自分の名前を連呼する。

〝モラル・ライセンシング〟 という言葉がある。
 何かよいことをすると、いい気分になり、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうという現象を指す言葉だ。
「自分はいいことをしている」とおもっている場合は要注意だ。




 國分功一郎さんの文章より。

 意志の概念を使うと行為をある行為者に帰属させることができます。たとえば「ずいずいずっころばし」という歌では最後に「井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれ」と歌われます。ある少年がお茶碗を割ったことが分かったとしましょう。「自分の意志でお茶碗を割ったんだな?」と訊ねられて、少年が「はい、そうです」と答えると、お茶碗を割った行為はその少年のものになります。そして少年に責任が発生する。自分に帰属する行為であるから、その行為にも責任があるというわけです。
 しかし、実際には少年は母親にガミガミ叱られて腹が立ったのでお茶碗を割ったのかもしれません。そして母親が少年をガミガミ叱ったのは、少年の父親と夫婦ゲンカをしたからかもしれません。夫婦ゲンカになったのは父親が仕事で上司から責められてムシャクシャしていたからかもしれません。そうやって行為をもたらした因果関係はどこまでも遡っていくことができます。
 しかしどこまでも通っていくのでは誰にも責任がなくなってしまう。だから、意志の概念を使ってその因果関係を切断するのです。少年が自分の意志でやったとすれば、因果関係はそこでぷつりと切れて、少年に行為が帰属することになります。切断としての意志という概念は、行為の帰属を可能にすることで、責任の主体を指定することができるわけです。

 ほう。この考えはおもしろい。

「私の意志でやりました」というのは、潔いように感じる。
 だけどそれは、本当の原因を隠蔽する行為でもある。
 もちろん原因なんてひとつじゃないし、やろうとおもえばいくらでもさかのぼれる。最後は「人間が誕生したことが悪い」にまで行きついてしまう。
 だから現実問題としてはどこかで因果関係を切断する必要がある。それが「意志」だ。

 あいつが良からぬことをしようとした。だからあいつが悪い。それ以上はさかのぼる必要がない。
 これはすごくわかりやすい考えだが、危険でもある。もっと奥深くにある原因にたどりつくことができず、また同じ過ちをくりかすことにつながる。

 官僚が文書を改竄した。悪いことだ。
 だが、その官僚の「意志」でやったということになれば、責任を問われるのはその官僚まで。彼に指示した上司も、その上司の上司も、さらには「こんな文書があるとまずいことになるな」と忖度させた総理大臣も、責任をとる必要はなくなる。

「意志」は潔いことではなく、責任放棄、思考停止のための手段なのかもしれない。


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2021年5月28日金曜日

【読書感想文】旧知の事実を再検証しなくちゃいけない徒労感 / 清水 潔 『「南京事件」を調査せよ』

「南京事件」を調査せよ

清水 潔

内容(e-honより)
戦後70周年企画として、調査報道のプロに下されたミッションは、77年前に起きた「事件」取材。なぜ、この事件は強く否定され続けるのか?「知ろうとしないことは罪」と呟き、西へ東へ南京へ。いつしか「戦中の日本」と、「言論の自由」が揺らぐ「現在」がリンクし始める…。伝説の事件記者が挑む新境地。

 

『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 などで知られる著者が(どちらも上質な骨太ノンフィクションなので超おすすめ)、テレビ番組の取材のために「南京事件」を調査することに。その調査報告(+清水さんの個人的な体験)。


 書かれていることに目新しさはない。すでに先行研究者が明らかにしていることを、清水さんが改めて検証したという内容だ。
「裁判所や警察にもまったく知られていなかった真実」をいくつも明らかにしてきた清水さんが書いたものとしては、正直にいって新鮮さがない。
 結論としては「南京大虐殺はあったとしか考えられない」というものだし、その内容はぼくが小学校のときに習ったものとほとんど同じだ。

 じゃあなぜ改めて「旧知の事実」を再検証しなければいけなかったのかというと、それを認めない人がいるからだ。

「南京大虐殺」「南京事件」で検索するとわかるとおもうが、「論争」だの「嘘」だの「デマ」だの「疑念」だのといった言葉が出てくる。『南京事件論争史』なんて本もあって、論争自体が歴史を持っているのだ。

 いやこれを論争といっていいのだろうか。
 もちろんぼくはこの目で見たわけじゃないから「南京大虐殺は100%あった!」と断言はできないが、数々の資料や証言を見聞きするかぎり、「99.9%あったんだろう」とおもうし「なかった!」と断言することは絶対にできないとおもう。

 だって中国側の証言だけでなく、日本人側にもいっぱい「あった」と言っている人がいるし、第三国の記者も証言してるし、虐殺を伝える当時の新聞や日記もある。
 もちろん、細かい状況だとか人数だとかに関しては不正確な部分はあるのだろうが、大筋として「日本軍が中国人捕虜や民間人に対して残虐な行為をおこなった」という事実は否定できないだろう。

 だいたい中国側はともかく、日本人には「虐殺をした」という嘘の証言をするメリットはないだろうし(隠蔽するメリットはいっぱいあるが)。

 第一報を伝えたニューヨーク・タイムズのF・ティルマン・ダーディン記者は、陥落後の15日に船で脱出。上海に停泊していたアメリカ海軍軍艦オアフ号から電信で記事を送稿していた。
 ニューヨーク・タイムズ 1937年12月18日版
 見出し<捕虜全員を殺害><民間人も日本軍に殺害され 南京に恐怖が広がる><中国人による統治と軍事力が崩壊し、南京の中国人の多くは日本軍の入城を期待し、その後に生まれる秩序と統治を受け入れるつもりだった><2日間の日本支配が大きく見方を変えた。無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した。南京を恐怖の街に一変させた><多くの中国人は妻や娘が誘拐され、強姦されたと外国人に訴えた。中国人は必死に助けを求めたが、外国人はなすすべもなかった>
 同じニューヨーク・タイムズ1938年1月9日版では、
<日本軍による大量殺戮で市民も犠牲――中国人死者33000人に>などと特集されていた。もちろん日本人のほとんどはこんな記事を目にすることもなかった。

 にもかかわらず「なかった!」と主張する人がいる。

 写真についているキャプチャがおかしいとか、殺された人数が不正確だとか、細部の疑惑をとりあげて「だから虐殺自体がなかった!」と主張する人だ。
(ちなみによく聞く「当時の南京の人口は20万人しかいなかったのに30万人も殺されたはずがない!」という主張の有効性はこの本の中で明確に否定されている。)


 この本の後半で清水さんも書いているが、求めているものが違うのだ。

「事実」ではなく「イデオロギー」や「損得」を求めている人にとっては、「虐殺があったことを指し示す証拠」なんてものは見る価値がないのだ。
 そもそも「事実」や「証拠」なんて求めていなくて、「虐殺はなかったと信じさせてくれるもの」しか求めていないのだから、多くの研究者がどれだけ丁寧に証拠を並べてても否定派には届かない。

 だから、この本を読んでいると徒労感がぬぐえない。
 清水さんの調査方法は「そこまでやるか」というぐらいに慎重だ(一次資料にあたる、一次資料も誤りがないかあらゆる方法で検証する等)。
 それでも「でもここまでやっても否定派が考えを改めることはないんだろうなあ」と感じざるをえない。

 どれだけ丁寧に証拠を並べても「日本人がそんなことするはずがない」「それでも私はなかったとおもう」で否定されてしまう。はっきりいって虚しい作業だ。まともな研究者からすると、割に合わない作業だ。事実を求めてない人を相手にしなくちゃならないんだから。

 それでも言いつづけなくちゃならないんだろうな。
 さもないと「事実よりイデオロギー派」がどんどん増えていくばかりだから。




 多くの本を読み、多くの歴史を知ったことでわかったことがある。

「人間は命じられれば平常時には信じられないぐらい残虐なことをする」

「人間の記憶は、自分が信じたいものに改変される」

ということだ。

 調査を続けた小野さんから、こんな経験を聞いた。
 一人の元兵士の家を探し当てて訪ねた時のことだ。
 本人はこころよく調査に応じてくれたが、虐殺については最初から完全に否定したという。そこで「日記」の存在を尋ねると、男性はふと思い出したように、奥の部屋からダンボール箱を引っ張り出した。するとその中に三冊の日記があったのだ。男性はそれを開いて読み始めた。ところがあるページまで読み進むと……、突然に日記をバタリと閉じてこう言ったという。
「俺は絶対にこれは見せられない。見せられないんだ」
 彼は急いで日記を仕舞い込むと、二度と出すことはなかったという。
 興味深い話であった。
 紙面には自身の字で記された「何か」があったのだろう。だが、その人はいつの間にか自分の記憶の書き換えをしてしまっていたのだろうか……。

 だからぼくは自分の意思を信じていない。

 南京大虐殺の場に日本兵としていたら虐殺に加担していたかもしれないし、ナチスやクメール・ルージュにいたらジェノサイドに参加していたかもしれない。山岳ベースにいたら仲間を処刑していたかもしれない。

 そして矛盾しているようだけど、こういう「良心への懐疑」を持つことが、周囲に流されて暴力を振るうことへの抑止力になるともおもっている。

 積極的に虐殺に加担するのは「おれはどんな状況におかれてもあんな残酷な行動はとらないぜ!」って信じてる人だとおもうよ、ぼくは。


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2021年5月27日木曜日

【読書感想文】21世紀の子どもも虜に / 藤子・F・不二雄『21エモン』

21エモン

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
おんぼろホテル「つづれ屋」の跡取りで宇宙に憧れる少年・21エモンと、テレポーテーション能力を持つ絶対生物・モンガー、イモ掘りに執念を燃やすアクの強いロボット・ゴンスケなど、豊かなキャラクター性も魅力です。

  七歳の娘のためが半分、ぼくが読みたいからが半分という理由で『ドラえもん』の単行本をどんどん買っていたら、ほとんどコンプリートしてしまった(大長編も含む)。

 そんなときに古本屋で『21エモン』を見かけたのでまとめて購入。
 ぼくが子どものころにテレビアニメをやっていたのだ。好きだったなあ。美空ひばりの『車屋さん』をリメイクしたOPテーマ曲も、「ベートーベンに恋して ドキドキするのはモーツァルト」というわけのわからない歌詞のエンディング曲も好きだった。
 もちろん本編もおもしろかった。21エモンが宇宙で死にそうになるシーンはほんとにドキドキした。


 ……と、「おもしろかった」という記憶だけはあるのだがストーリーはほとんどおぼえていない。
 大人になって改めて読み返して「こんな話だったのか」と新鮮な気持ちを味わった。


『21エモン』の舞台はもちろん21世紀。
 手塚治虫作品もそうだけど、昭和時代にとって〝21世紀〟って遠い未来だったんだなあ(鉄腕アトムなんか2003年誕生だからね)。
『21エモン』のトーキョーは宇宙から観光客がどんどん押しかけてくるし、車は空を飛ぶし、ロボットは人間並みの知能を持って二足歩行している。未来~!

 その割に「宇宙からの電話代は高い」とぼやいたり、宇宙に行った21エモンが地球に宛てて手紙を書いたり、映像はカセットテープを入れ替えていたり、情報・通信の分野は昭和の延長なのがおもしろい。インターネットとか電子メールとかマイクロメディアとかは想像の範囲外なのだ。


『21エモン』は藤子・F・不二雄作品の中ではマイナーなほうだけど、王道の少年SF冒険話だ。
 随所にちりばめられる科学知識や、テンポのよいギャグなど、藤子・F・不二雄らしさが存分に発揮されている。子どもは惹きつけられるよなあ。

 ただ、大人になった今読むと少々退屈な面もある。
 中盤までは「つづれ屋(21エモンの父親が経営するホテル)に泊まりに来た宇宙人の独特な性質・風習のおかげでドタバタ騒動に巻きこまれる」というパターンがくりかえされ、少々飽きる。大人からすると先の展開が読めるし。

 そしてキャラクターが薄味だ。
 21エモンは「宇宙に行きたい」という強い意志を持っている以外はとりたてて特徴のない少年。秀でたものはないが、のび太ほどダメでもない。性格もぼんやりしている。

 マスコットキャラクター的存在であるモンガー。
 どんな環境でも生きられ、何でも食べてエネルギーにでき、テレポーテーション能力を持つというすごい生物でありながら、ドラえもんやオバQほどの個性はない。こちらもあまり我が強くなく、最終的には「ときどきテレポーテーション能力を使ってくれる21エモンの友人」ぐらいのポジションに収まってしまう。
 ちなみに当初は「一週間に一言しかしゃべれない」という設定だったのだが、藤子・F・不二雄先生がこの設定を持て余したのか、途中からべらべらしゃべるようになる(一応理由付けはあるが)。

 モンガーの印象が薄くなっていったのと入れ替わるように、道化役としてのポジションを築いたのが芋ほりロボット・ゴンスケ。
 前半は脇役のひとりだったのに、芋へのこだわり、守銭奴っぷり、プライドの高さ、モンガーとのライバル関係など次々に強烈な個性を身につけてゆき、終盤にはなくてはならない存在になった。

 終盤は、チームのリーダーであり調整役である21エモン、その補佐役であるモンガー、そしてロケットのオーナーでありトラブルメーカーのゴンスケという役割がしっかりしてきて、おもしろくなる。
 太陽系の外まで出かけて冒険の舞台も広がり、生死のかかるピンチに巻きこめられる状況も増える。
 やっとおもしろくなってきた……とおもったらそこで物語が終わってしまう。ううむ、残念。


 七歳の娘は「『21エモン』読んで読んで!」と毎日せがんできて、ぼくも「しょうがないなあ」と言いながら内心楽しんでいっしょに読んだ。娘はその後も何度もひとりでくりかえし読んでいる。

 21世紀の子どもも虜にするなんて、さすがは藤子先生。

 聞くところでは『モジャ公』が『21エモン』の続編的立ち位置の作品らしい。『モジャ公』を読んでみようかな……。娘に言ったらぜったいに「買って!」と言うだろうな……。


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2021年5月25日火曜日

助数詞はややこしい

 助数詞はややこしい。

 助数詞というのはものを数える単位だ。「匹」とか「枚」とか「個」とか。

 うちの長女は七歳なのでもうそれなりに日本語は使いこなせるが、それでも助数詞はよくまちがえる。
「ハトが一匹」とか「靴が一個」とか言ってしまう。

 日本語を学習する外国人も苦労するだろう。
 ぼくも中国語を学んでいたとき、量詞(やはりものを数える単位)をおぼえるのに苦労した。中国語の量詞は日本語の助数詞と同じようでちょっとちがう。
 水やお茶を「一杯」と数えるのは同じだが、「本」は本や雑誌を数える単位だったり、手紙は「通」ではなく「封」だったり、いろいろややこしい。


 そもそも助数詞は何のために必要なんだろう。

 英語にはほとんどない。「two dogs」「three dogs」だ。
(「a sheet of paper」とか「a cup of tea」などの言い回しはあるが)
 べつになくても困らないからないのだろう。。

 幼児はなんでも「一こ、二こ、三こ」で数えるけど、それでいいんじゃないだろうか。
 犬も本も人も家も「一こ、二こ、三こ」でいいんじゃないだろうか(家は今も「一こ、二こ、三こ」だけど)。

 助数詞を使うメリットはなんだろうか。
 考えられるのは、省略できるということである。
 スプーンとコップとテーブルクロスがあるとき、「それ一本とって」といえばスプーンのことだとわかる。「一個とって」ならコップ、「一枚とって」ならテーブルクロスだとわかる。
 英語なら「one spoon」と言わなくてはいけない。
 こういうとき、助数詞はちょっとだけ便利だ。

 とはいえ。
 こういう状況はあまり多くない。
 スプーンとフォークとナイフとお箸があるとき「それ一本とって」ではどれのことかわからない。
 覚える苦労と、メリットが釣りあわない気がする。


 なにより助数詞がややこしいのは、法則がないことだ。
 いや、一応法則はある。
 細長いものは「本」、薄っぺらいものは「枚」、書物の類は「冊」、小さい動物は「匹」、大きい動物は「頭」、鳥は「羽」というように。

 だけど例外も多い。
 ウサギは「羽」、イカは「杯」、タンスは「棹」、蚕は「頭」……。例外はいっぱいある。

 また、同じものなのに状況によって数え方が変わったりする。
 イカ・タコは生きてるときは「匹」で食べ物としたら「杯」、魚も「匹」と「尾」、家は「軒」だったり「戸」だったり「棟」だったり。
「1試合にホームラン3発」とはいっても「年間30発のホームラン」とはいわない。この場合は「30本」になる。そもそもホームランがなんで「本」なのかさっぱりわからない。細長くないし。

 さらには複数を表す単位もある。
「お箸一膳」とか「靴一足」とか「寿司一貫」とか言われるたびに、それってひとつ? それとも一セットのこと? と迷ってしまう。

 なんとかならんもんか。

 せめて人は「一人」、日にちは「一日」、月(暦)は「一月」、年は「一年」、株式は「一株」、米俵は「一俵」、戦いは「一戦」、瓶は「一瓶」、箱は「一箱」、畳は「一畳」、イニングは「一イニング」みたいにシンプルにできないものか。
 しかし「そのものの名前を使って数える」ものはごくわずかだ。上に挙げたものぐらいしかおもいつかない。




 以前読んだ『カルチャロミクス』という本に、英語の不規則動詞はどんどん減っていっていると書いてあった。

 昔は動詞の活用の仕方はばらばらだった。
 だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができた。こっちのほうが覚えるのが断然楽なので、次第に動詞の活用は規則活用に変わっていった。特に使用頻度の高くない動詞は忘れられやすいので、規則動詞になっていったらしい。
 だから今も残っている不規則動詞は、[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、基本的には使用頻度の高いものばかりだ。

 文法は(ほんのちょっとずつではあるけど)単純になっていくのだ。

 だから何百年後かの日本語は、助数詞がずっと少なくなっているにちがいない。
 犬もクジラも鳥も魚も人間も「匹」、椅子も机も鏡も「台」か「個」、シャツもズボンも着物も帽子も靴も「枚」。
 そんな感じで単純化していくにちがいない。

 とおもっているのは、ぼく一匹だけではないはず。

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2021年5月24日月曜日

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Ω

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