2021年2月5日金曜日

【読書感想文】動物を利用した「昔はよかった」 / 河合 雅雄『望猿鏡から見た世界』


望猿鏡から見た世界

河合 雅雄

内容(Amazonより)
物質文明化が異常な速度で進むだけの愚かな人間たちに警告を発し、自然との共生を勧めるサル学者のエッセイ。

 著名なサル学者によるエッセイ。

 はっきりいってつまらない。
 猿の生態にかこつけて、昔はよかった、最近の若者は外で遊ばないから大事なことを知らない、今の教育は詰め込みばかりでなっとらん、という戯言をくりかえしているだけ。もちろんその主張に根拠はない。数字も示さずに「最近凶悪な犯罪が増えているのは〇〇が原因だ」と言っている(凶悪犯罪は戦後一貫して減りつづけている)。

 まだ老人の戯言を垂れ流しているだけならまだしも、他の動物の生態の都合のいいところだけを取り出して、裏付けっぽく見せているのが気に入らない。

「他の動物は〇〇をしている。人間も見ならわなくてはいけない」
「他の動物は〇〇だ。人間は高等な生物なのだから同じことをしてはいけない」
と、正反対の論理を使って「昔はよかった」を主張しつづける。

 たとえば、こんな感じ。

 しかし、すべての動物社会が、うば捨て山的な思想で貫かれているのではない。高等になるにしたがって、年寄りになんらかの社会的役割をもたすことによって、生存の意義を与える方向に向かっている。アカシカでは、群れのリーダーシップをとるのは、年老いた雌である。危険が迫ると彼女は警戒音を発し、先頭を切って逃げ、群れを安全な方向に誘導する。
 マントヒヒは、一夫多妻型のハレムがいくつか寄り集まってバンドという大集団をつくり、複雑な社会組織をもっている。ハレムのリーダー雄は屈強な壮年の雄であるが、年がいくと若い雄と交代し、ハレムを出なければならない。彼はハレムに所属しないひとり者として、バンド内にとどまり、子どもとつれだったりしてのんきな日々を送る。
 しかし、バンドに危険が迫ると、この元の老リーダーが宋配をふるう。川が増水して渡れなくなったとき、元リーダーが集団を指導し、ずっと上手につれていって浅瀬を見つけ、全員を渡河させたという記録がある。彼は平常はなんの役にもたたない隠居だが、長年の間に蓄積された経験は誰よりも豊富で、すぐれた生活の知恵を身につけている。集団の若いリーダーたちは、力では勝っても、その点ではずっと劣っている。集団のメンバーはそのことを知っていて、危急に際しては、年老いた元のリーダーのいうことをよくきくのである。
 どうやら、動物が高等になるにしたがって、年寄りを無用の者として捨て去るよりも、彼らがもっている豊富な生活経験を活用するためのなんらかの役割を与える、という方向に向かって進化していくようだ。これは単に経済的な面からのみ年寄りを見るということではなくて、社会全体のしくみの中に年寄りを機能的に位置づける、ということに他ならない。

 出たよ、動物の生態を利用した都合のいい解釈。
 たしかに、群れにおいて年寄りの知恵が役立つことはある。
 だが、その前提として「群れにおいて年寄りの占める割合がすごく小さい」「時代を超えて伝達できる文字を持たない群れである」ことが条件としてある。

「マントヒヒを見ならって年寄りの経験を活かそう!」と主張するのなら、まずはマントヒヒと同じように年寄りの数を減らして、マントヒヒのように文字をなくすことを主張するべきだろう。

 都合のいいところだけ取りだして説教の材料にするんじゃねえよ。
 動物は道徳の教科書になるために生きてるんじゃねえぞ。




 元本の刊行は昭和61年(1986年)。
 この時代はまだこんな野蛮な意見が活字になっていたんだーという目で見るとおもしろい。

 日本の女性は、野や山を散策することがなんと少ないことだろう。木々や花の美しさを、光と風、鳥のさえずりの中で感じ、自然と心の自在で精妙な交流の中で、新しい美を発見し、造形として創作するために、春の一日をけもののように低山をほっついてほしいと、私はつねづね思っている。

 ひゃあ。
 じゃあおまえが金出して女性を雇って春の一日をほっついてくれるよう依頼しろよ。




 前半はサルの生態をまじめに論じていたのに、ネタがなくなってきたのか、後半はサルとほとんど関係のない老人の戯言エッセイになっている。
 前半はおもしろかっただけに残念。

 霊長類は、嗅覚の世界を退化させていった動物である。霊長類の先祖は地上で暮らしていた食虫類(モグラなど)であるが、七○○○万年ほど前に樹上で生活するものが現われ、サル類に進化した。地上での生活では、においは大変重要な働きをする。鹿など多くの動物は、臭い腺を持っていて、それを木の幹や株にこすりつけ、自分やグループの存在を示す。
 地上生活は二次元の世界での暮らしであるが、樹上生活は三次元の生活空間での暮らしである。そこでは、においは四方八方に拡散してしまい、サルたちの社会生活にはあまり役に立たない。最も重要なのは視覚である。枝から枝へ跳び移るについても、両眼で距離を見定めないと失敗して木から落ちてしまう。そこで、サルはあまり必要でない嗅脳を退化させ、その代りに視覚系を発達させた。

 なるほど。
 二次元だとにおいの強いほうに向かって進めばいつかは発信源にたどりつけるけど、三次元だとななめ上からにおいが漂ってきても「においの強いほうに一直線に進む」ってことができないもんね。
 それよりも視力のほうが重要だと。

 しかし人間の暮らしは基本的に平面だ。ビルやマンションに住んでも、移動は平面移動しかしない。おまけにバリアフリー化で都市からどんどん段差がなくなっている。

 こうなると、それほど視力に頼らなくても生活できる。街中に住んでいたら遠くを見る能力は必要ない。
 今後、人間の視力はどんどん退化していくかもね。すでにそうなりつつあるか。


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2021年2月4日木曜日

シッダルタとタッタの友情


 手塚治虫の『ブッダ』を知っているだろうか。釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の生涯を描いた不朽の名作だ。

 ぼくは小学三年生ぐらいではじめて『ブッダ』を読んだ。母親が買ってきたのだ。
 母はかつて漫画大好き少女だったので、ぼくにやたらと手塚治虫作品を読ませたがった。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『プライム・ローズ』『奇子』『日本発狂』『紙の砦』『きりひと讃歌』『シュマリ』……。次々に買い与えられた。

 『奇子』『きりひと讃歌』『シュマリ』あたりは性描写もけっこうどぎついしテーマも難しいので小学生に読ませるようなものじゃないと今になっておもうのだが。
 しかしそのおかげでぼくは漫画のおもしろさと戦争の恐怖と大人の性の営みと人生の無常観と医療やアイヌの知識をすべて手塚治虫作品から学んだ。

 ぼくが熱心に読んだ作品のひとつが『ブッダ』だった。
 もちろん、仏教の思想を理解できたわけではない。だが手塚治虫『ブッダ』はそんなこと理解できなくてもただ単純にストーリーがおもしろいのだ。


『ブッダ』にはタッタというキャラクターが出てくる。手塚治虫が創作した完全架空のキャラクターだ。
『ブッダ』の主人公はもちろんブッダ(シッダルタ)だが、タッタは準主役級のキャラクター。裏の主人公といってもいい。
 なにしろ序盤ほとんどブッダは出てこない。全7部のうち第1部はブッダが生まれるまでの話なので、ブッダは胎児/乳児だ。序盤はチャプラというキャラクターとタッタが奮闘する話だ(序盤の主人公はチャプラだがチャプラは第1部のラストで死ぬ)。

 このタッタ、シッダルタとの関わりが深い。王子だったシッダルタを城から逃がすのもタッタだし、タッタがシッダルタの命を救ったこともある。シッダルタの親友といってもいい間柄だ。

 タッタはシッダルタに非常に近しい存在でありながら、他のキャラクターとは決定的に違う。それは、決してシッダルタの教えに染まらないことだ。
 シッダルタの教えに触れた人はみんな、最後はシッダルタの考えに教化される。敵国の王だったパセーナディやビドーダバやビンビサーラも、ビンビサーラを毒殺しようとしたアジャセ王子も、殺人鬼だったアナンダやアヒンサーも、執拗にシッダルタの命を狙ったダイバダッタも、みんな最後はシッダルタの教えに帰依している。もちろん、その他の登場人物もほとんどみんなシッダルタを師とあおいでいる。

 ところが皮肉なことに、シッダルタといちばん関わりが深いタッタだけは、最期までシッダルタの教えに感化されない。「シッダルタは立派なやつだ」と認めて一番弟子を自称しているものの、自分の考えは変えない。欲のままに生き、盟友・チャプラを殺したコーサラ国を憎み、復讐なんてやめろというシッダルタの忠告を無視して戦地に赴き、戦死する。最期までシッダルタの教えを理解することはなかった。


 ずっと近くにいながら最期までシッダルタの教えに染まらないタッタ。
 ぼくはそこに本物の友情を感じる。

 友だち関係には二種類ある。相手と似たファッションをして、相手の趣味をいっしょにやり、どこへ行くにもいっしょ。こういう付き合い。
 もうひとつは、それぞれ好きなことをして、それぞれ好きなところに行き、気が乗らなければ無理に相手に合わせることはない。気が向いたときだけ会い、会ったところでさしてテンションは上がらない。

 友人関係が長続きするのは後者のほうだ。
 前者はクラス替えや進学や就職のタイミングで疎遠になるが、お互い無理に相手に合わせることのない後者は何十年たっても同じ距離感を保ちつづける。

 シッダルタとタッタはずっと友人だ。年齢も離れているし、出自もちがうし(シッダルタは王子でタッタは乞食)、歩む道も思想もまったくちがう。だがどれほど立場が変わってもふたりの付き合いは続く。
 シッダルタは孤独だったのではないだろうか。なにしろ関わる人みんな自分の弟子になるのだ。周りは説法を求めてくる人ばかり。こんな孤独はないだろう。
 そんな中、タッタだけがずっと変わらない。シッダルタの教えに染まらない。「おまえもうコーサラへの復讐とかやめろや」と言っても「まあそれはええやんか」と耳を貸さない。きっとシッダルタはタッタと話しているときだけは、釈迦ではなくひとりの人間でいられたのではないだろうか。

 タッタが無謀な戦いに挑んで戦死したときにシッダルタは深く悲しみ、それ以降シッダルタはめっきり老けこむ。そりゃそうだろう。唯一対等に話せる友人を失ったのだから。
 タッタが死んだ日は、人間・シッダルタが死んだ日でもある。友人の死によって仏は仏となったのだ。


2021年2月3日水曜日

【読書感想文】人々を救う選択肢 / 石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』

「山奥ニート」やってます。

石井 あらた

内容(e-honより)
#家賃0円、#リモートひきこもり、#限界集落。嫌なことはせず1万8000円(月額)で暮らす方法。「なるべく働かずに生きていく」を実現したニートがつづる5年目の記録。


 和歌山県の山奥で、廃校になった小学校の分校に住んでいるニートたちがいるそうだ。その中のひとりである著者が書いた、「山奥ニート」の生活。

 おもしろかった。
 ぼくもかつてニートだった(この呼び方は好きじゃないので「無職」を自称していたが)ので、著者の気持ちもよくわかるし、あこがれも感じる。

 朝食とも昼食ともつかない食事を終えると、ギターを弾いたり、鶏を散歩させたり、洗機を回したり、なんとなくで日中を過ごしてしまう。
 畑に行って水をやったり、家の改修工事をしたりする人もいる。別に強制ではないので、それだって単に暇つぶしにやっているだけだ。
 日が傾くと、誰かが晩ごはんを作り始める。
 当番は決まっていない。作りたい人が、全員分作る。
 全員が料理したくないという夜もある。そういうときは各自で食事をとるが、数ヶ月に一度あるかどうかだ。
 晩ごはんが完成すると、グルーブチャットで報せを送る。
 食事の時間も決まっていない。
 ゲームに夢中で、深夜になるまで部屋から出てこない人もいる。
 晩ごはんを食べにリビングに来た人は、そのまま酒を飲んだり、一緒に映画を見たり、ボードゲームで遊んだり、好きにする。
 話したくない気分の人は、自分の部屋に帰る。
 そんなだから、同じ屋根の下に住んでいながら、何日も顔を合わせないこともある。
(中略)
 見ようによってはこの上なく堕落した生活。
 でも競争相手もいなければ、管理する者もいないユートピア。

 無職時代、「山奥ニート」という道があることを知っていたら、ずいぶん救われただろう。いざとなれば山奥ニートとして生きていけばいい、とおもうことで。

 だが、じっさいに自分が山奥ニートとして生きていく道を選んだかというと、答えはたぶんノーだ。
 いろんなリスクを考えてしまうから。病気になったらどうしよう。歳をとってからも山奥ニートを続けていけるのだろうか。災害でここに住めなくなったときは。やっぱり子どもはほしいし、子どもができてもニートでいられるだろうか。
 そんなことを考えると、「いろいろ不満もあるけど定職に就いているほうが楽」とおもえるんだよね。

 まあ、これはぼく個人の話で。ぼくはサラリーマン家庭に育って、親戚も会社員と公務員だらけだったので、余計にリスクに臆病になってしまうんだとおもう。


 まあじっさい、無職とサラリーマンの両方を経験した今となっては、サラリーマンのほうが圧倒的に楽なんだよね。就職活動と慣れるまでの間はしんどいけど、慣れてしまえばぜんぜん楽。
 無収入になったらどうしようとか、ずっとこのままではいけないよなとか、周りの友人はちゃんと働いてるな、とか思い悩んでいるほうがずっとしんどい。

 著者は、山奥ニートの暮らしを「ユートピア」と書いている。著者からしたら実感なんだろう。
 でもぼくが同じ境遇になったら、「ユートピア」とは感じられないだろうな。吟遊詩人よりもそこそこの暮らしを保証されている奴隷の方がぼくにとっては楽なのだ。


 この本には、「山奥ニートをやっていたけど今はサラリーマンになった人」が出てくる。
 彼は「ダメだったらまた山奥ニートに戻ればいいや」という気持ちでサラリーマンになったら案外続けられたのだそうだ。彼の気持ちがよくわかる。
 山奥ニートにならなくてもいい。ただ、山奥ニートという選択肢を持っているだけでずいぶん楽になる。



 

 1ヶ月1万8000円。
 これさえあれば、この山奥で生きていける。
 僕らは月にこの1人1万8000円を徴収して、それを食費、光熱費、通信費、その他すべてに充てている。
 生きるだけだったら、これ以外のお金は要らない。
 実際、僕はこの徴収のときくらいしか財布を使わないから、毎回どこに置いたか忘れかけていて焦る。
 ただ現実には、この日本という国で暮らしていくには保険料や税金などかかるから、これよりはもう少し必要になる。
 でも、収入が少なければ、保険料も税金もそれほどかからない。
 僕の年収は約30万円。
 だから、所得税はかからないし、健康保険も月に1500円程度。かなり痛い出費だけど、なんとか年金も健康保険も納められてる。

 都会だと、生きていけるだけで金がかかる。最低限の家に住んで、最低限のものを食べても十万円近くかかる。月に十万円稼ぐのはけっこうたいへんだ。安定して稼げる仕事に就かなくてはならない。

 でも山奥ならもっと安く生きていける。山奥ニートたちの家賃はタダだし、ものをくれる人もいるし、料理もまとめてやっているので生きるのに必要なお金は月1万8000円。
 これぐらいなら定職についていけなくてもなんとかなる。月に二日働けば稼げる額だ。

 こういう暮らし、すごくあこがれたなあ。少なく稼いで少なく使う暮らし。
 ぼくもほんとはそうしたいんだけどな(理想を言うと少なく働いて多く稼ぎたい)。ただ親や妻からの期待や心配を考えると、「仕事するほうが楽」ってなっちゃうんだよね。常識に逆らえるほどの根性がぼくにはないからさ。



 

「山奥ニート」の暮らしに目くじらを立てる人も、世の中にはいるとおもう。
 おれたちの税金で楽しやがって、若いんだから額に汗して働け、今はよくても歳とってから苦労するぞ、って人が。

 でも、ぼくはこういう暮らし方があってもいいとおもう。

「その日」から少し経ってから、僕は福島へボランティアへ行った。
 津波が運んできた泥が詰まったドプの掃除をした。
 ボランティアの寝床を用意してくれたNPOの人に、仕事は何をしているの、と開かれた。
 僕がニートだと答えると、その人はやっぱりねと言った。しかし、馬鹿にした感じは一切なかった。
 やっばりとはどういうことか聞いたら、ボランティアに来る若い人の多くはニートやひきこもりだからだと教えてくれた。
 ニートやひきこもりの人は、大きな力を溜め込んでいる。でもそれを活かせる機会がない。でもこういう非常時では、それが何より助かる」
 そんな風に言っていた。
 確かに、毎日の仕事に追われるサラリーマンはボランティアなんてなかなか来られないだろう。
 働かないアリは、非常事態のための予備の労働力だという話がある。常にすべてのアリが全力で働いていたら、予期せぬ出来事が起きたときに、対応することができなくなる。不測の事態にいつでも対応可能な、暇なアリがいることによって、群れの生存率が上がるらしい。
 アリとヒトを一緒にしていいのかわからないけど、もしかしたらニートも群れのために必要な存在なのかもしれない。

 こんなふうに直接的に人の役に立つこともあるだろうし、そもそも山奥ニートには「いるだけで他の人を救う」という効果もあるとおもう。

 過重労働で自殺したくなったときに「山奥ニートやればいいや」とおもえれば、死なずに済むかもしれない。
「いざとなったら山奥ニート」という気持ちで起業して、大成功するかもしれない。

「この国のどこかで働けるけど働かずに楽しく生きている人がいる」とおもうだけで、生きていくのがずいぶん楽になる。

「七十歳までフルタイムで仕事をしつづけて生きていく」という狭く険しい吊り橋を渡らなくてはいけない。足を踏み外しそうでこわい。でも、ふと下を見たらネットがあって、そのネットの上で山奥ニートたちが楽しくゲームをしている。それだけで救われる。

 本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだけどね。全員がフルタイムで働かなくちゃいけない世の中じゃなくて、正社員でも派遣社員でもパートでも専業主婦でもフリーターでもニートでもフーテンでも、自分にあった働き方をしながらそこそこ楽しく生きていける社会。


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どブラック



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2021年2月2日火曜日

反抗期は親の問題

 子育てをしていて、自分の変化に怖くなる瞬間がある。

 うちの子は七歳と二歳。
 生意気盛りではあるが、まだまだ立場は親のほうが上だ。圧倒的に。
 えらそうにするつもりはないし子どもの意見も尊重したいとはおもっているが、それでも意見が衝突すれば最後は親の意見が通ることになる。

 子どもが「おかしちょうだい」と言い、親が「ごはんの前だからダメ」と言う。不満そうにはするが、最後は必ず親の意見が通る。「みかんで我慢しなさい」ぐらいの妥協をすることはあるが、そのへんの采配は親次第だ。
 子ども側には要求を伝える権利はあるが決定権はない。教師と生徒、社長と平社員のような関係だ。

 そういう関係を続けていると、親はついつい独善的になってしまう。
 冷静に考えると「子どもの言い分もわかるな」とか「自分が前に言ったことと矛盾してたな」とおもうことでも、ついつい貫き通してしまう。
 ああ、言いすぎたな、こっちにも落ち度はあったな、と反省したりもするが先に子どものほうが「ごめんね」と謝ってくる。そうなると「うん、まあ、わかってくれたらいいんだよ」と変に鷹揚な感じを見せてしまう。60:40でこっちのほうが悪いのに「こっちにも10%ぐらいは非があった」みたいな態度をとってしまう。
 大喧嘩をしても最後は子どもが謝るし、その一分後にはケロッとして「おとうさんおんぶしてー」と甘えてくる。だからついついこっちも「おとうさんはえらい」という態度をとってしまう。

 これはよくない。
 このままだと、巷に跋扈している「えらそうなおっさん」になってしまう。

 じっさい、えらそうにするのは快感だ。子どもを叱って、子どもが謝罪をしたときは気持ちがいい。いいことをした、という気になる。
 もしかしたら麻薬を吸ったときと同じ物質が脳内に出ているかもしれない。麻薬吸ったことないからわからんけど。


 今は子どもの立場が弱いので、ぼくが不機嫌にふるまっても、理不尽な叱り方をしても、「ごめんね」と謝ってくる。
 どんなに社長が理不尽なことを言ってきても、(生命とか法律とかに触れないかぎり)最後は平社員が折れるしかないのと同じだ。

 でも、子どもが成長して自我が強くなれば、激しくぶつかることになる。
 いわゆる反抗期だ。
 反抗期なんて名前がついているので子ども側の問題のような気がするが、じつは親側の問題じゃないだろうか。「親がえらそうにしていたら、いつの間にか子どもが強くなって立ち向かってくるようになった」のが反抗期の実態じゃないのか。
 親が「子どもは自分の言うことを聞くもの」「意見が衝突しても最後は子どもが折れる」という意識のままでいるから衝突するのでは。

「会社の後輩に対してえらそうにしていたら、後輩が出世して自分よりも上の役職になってしまい、にもかかわらず昔と同じようにえらそうな口を叩いたら冷遇された」みたいな話だ。どう考えても悪いのは「状況が変わったのに昔と同じ力関係だとおもっている先輩社員」のほうだが、古くからの認識を改めることはなかなかむずかしい。


「自分の上司になったかつての後輩にえらそうな口を聞いてしまうおっちゃん」にならない方法はかんたんだ。
 はじめからえらそうにしなければいい。後輩であっても年下であっても部下であっても敬意を払った接し方をすればいい。

 だからぼくは娘を「さん」付けで呼ぶ。これは今に始まったことではなく、生まれたときから。
 娘はぼくとは別の人間だ。いつかは必ず親元を離れてゆく。人生の先輩としてアドバイスぐらいはするけど、最終的に道を選ぶのは娘でなくてはならない。子どもの人生はおれのもの、とおもってはいけない。
 だからぼくは戒めとして、娘を「さん」付けで呼ぶことを自らに課した。呼び捨てや「ちゃん」付けでは、目下の者として扱ってしまうから。

 娘への「さん」付けは今も続いている。だがそれでも、ついついえらそうにふるまってしまう。親だから子どもにあれこれ教える立場にあるのは当然だが、だからといって親のほうが子どもよりえらいわけではない。そのことをついつい忘れてしまう。

 だからときどきこうして立ち止まって自分に言い聞かせる。娘はおまえのものじゃないぞ。いつか追い抜かれる存在だぞ、と。



2021年2月1日月曜日

【読書感想文】こういうの書いとけばイヤなんでしょ / 真梨 幸子『初恋さがし』

初恋さがし

真梨 幸子

内容(e-honより)
所長も調査員も全員が女性、「ミツコ調査事務所」の目玉企画は「初恋の人、探します」。青春の甘酸っぱい記憶がつまった初めての恋のこと、調べてみたいとは思いませんか?もし、勇気がおありなら―。あなたは、「初恋」のことを、思い出すのが怖くなる!他人の不幸は甘い蜜、という思いを、心のどこかに隠しているあなたに贈る、イヤミス極地点。


「三大イヤミスの女王」なる言葉があるそうだ。女王が三人もいるのかよ、というツッコミはおいといて、湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子の三人だそうだ。
 三者とも作品を読んだことがある。沼田まほかる氏は『彼女がその名を知らない鳥たち』はたしかにおもしろかった。湊かなえ作品は『告白』はおもしろかったが、それ以降は好きになれない。真梨幸子氏の【殺人鬼フジコの衝動』は粗削りだったがふしぎな魅力があった。続編の『インタビュー・イン・セル』は理解できなかったが。

 個人的に、嫌なミステリは好きだが、「イヤミス」をうたい文句にした作品は好きではない。書きたいものを書いたら嫌な味わいになった、著者のおもうおもしろさを追及したら嫌な結末になった。そういう作品が好きなのだ。「イヤミスを書こうとして書いた」作品はつまらない。出版社が「イヤミス」として売る作品はほぼ例外なくつまらない。




『初恋さがし』も「イヤミス」をうたっているだけあって、出来はよろしくなかった。

 たしかに登場人物はほとんどがイヤな人間だ。でもすごくうすっぺらい。「自分より目立つ女がいるから嫉妬して引きずりおろす」とか「いい暮らしをしたいから金持ちを騙す」とか、とにかくわかりやすい。五十年前の少女漫画に出てくる悪役みたいな人物造形だ(五十年前の少女漫画に詳しいわけじゃないが)。

 ザ・悪人みたいな感じなんだよね。だから読んでいて怖くない。吉本新喜劇にカラフルなスーツを着たヤクザが出てくるのを見てもぜんぜん怖くないのと同じ。
「自分も一歩まちがえればこうなるかも」「いつもにこやかな隣人も一枚皮をむけばこんな人かも」みたいな薄気味悪さがない。「悪人」という記号にすぎない。

 こういうの書いとけばイヤなんでしょ、って感じがぷんぷんしたな。




 ストーリー展開は悪くなかったとおもう。
 中盤はけっこう引きこまれた。「えっ、この人が中盤で死んじゃうの?」という驚きもあった。

 しかしその期待も中盤まで。驚きの真相も意外な真犯人もなく、むしろ「えっ、こんなに期待をもたせておいてその意外性のないオチ?」と逆に驚くぐらい。

 やはり「イヤミス」をうたった本には手を出さないほうがいいな、うん。


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