2021年1月12日火曜日

片付けられない人の片付け術

 部屋が汚い。
 子どものおもちゃであふれかえっている。

 二歳の次女が散らかすのはしかたないが、七歳の長女のものもあふれかえっている。いや、こっちのほうがひどい。

 学習机とおもちゃ箱があるのに、ものであふれかえっている。机の引き出しはぱんぱんだし、机の上はいろんなものが乱雑に積みあげられていて今にもくずれおちそうだ。もちろん机で勉強なんてできないから宿題は食卓でやっている。

 ある日、長女が「お気に入りの耳かきがない」と言ってきたのを機に、机が汚すぎるから耳かきが見つからないのだと言い、いっしょに大掃除をすることにした。

 ところがいっこうにはかどらない。

「これは?」
 「いる」
「これは捨ててもいいやろ?」
 「だめ」
「さすがにこれはいらんやろ?」
 「だめ、置いとく」

 ぜんぜん処分できない。捨てていいと言われたのは折り紙の切れはじとかお菓子の包み紙といった「正真正銘のごみ」だけで、他の「ほぼごみ」は捨てさせてくれない。

 ビーズ、髪留め、ちゃちなアクセサリー、モスバーガーのワイワイセットについてくるおもちゃ、空き箱やヨーグルトの容器で作った家、ガチャガチャの景品、もう終了したプリキュアシリーズのグッズ、書き損じた手紙、もう全部解きおわったパズルの本、付録目当てで買った二年前の雑誌……。
 リサイクルショップに持っていっても全部で十円ぐらいにしかならない(それどころかお金をとられるかもしれない)ようなものばかりだ。
 これらを一括処分したいのだが長女の許可がおりない。


「半年以上使ってないものはこの先も使うことないから捨てよう」と言っても首を縦にふってくれない。
 とはいえ、勝手に捨てることはしたくない。ぼく自身、過去にごみのようなものを集めていたし、今もぼくの机の上はしょうもないものばかりだ。
 子どもの頃、大切にしていたものを母親に勝手に捨てられて嫌な思いをしたこともある。そしていまだに根に持っている。親子とはいえ、他人のものを勝手に処分してはいけない。

 捨てないなら片付けてと言っても、わかったといって机の上にとりあえず置くだけ。それは片付けとは言わん!


 このままではらちがあかない。深いため息をついた。

 そのとき、ふとひらめいた。
 大きめの段ボール箱を持ってきて、娘に渡す。
「しばらく使わないけど捨てたくないものは全部この箱の中に入れて。この箱に入ってるものは捨てないから」

 すると、それまでいっこうに片付けが進まなかったのがうそのように、どんどん机のまわりが片付きはじめた。

 そうなのだ、ぼくも同じ人種だからわかるが、片付けられない人というのは
「たぶん使わないけどいつか必要になるかもしれない」
ものを捨てられないのだ。
 だから、「使わないけど捨てるわけでもない場所」を作れば、あっというまに片付けられるのだ。

 これでよし。とりあえず部屋はきれいになった。


 問題は、この「使わないもの箱」に入れたものをいつか処分させてくれる日がくるのだろうか、ということ。

 そしてもうひとつの問題は、あれだけ大掃除をして片付けたのにやっぱり耳かきがどこにもないということ……。


【関連記事】

子どもを動かす3つの方法

片付けの非合理性


2021年1月8日金曜日

【読書感想文】そのまま落語にできそう / 山本 周五郎『人情裏長屋』

人情裏長屋

山本 周五郎

内容(e-honより)
居酒屋でいつも黙って一升桝で飲んでいる浪人、松村信兵衛の胸のすく活躍と人情味あふれる子育ての物語『人情裏長屋』。天一坊事件に影響されて家系図狂いになった大家に、出自を尋ねられて閉口した店子たちが一計を案ずる滑稽譚『長屋天一坊』。ほかに『おもかげ抄』『風流化物屋敷』『泥棒と若殿』『ゆうれい貸屋』など周五郎文学の独擅場ともいうべき“長屋もの”を中心に11編を収録。

 以前読んだ山本周五郎の小説『あんちゃん』は、実力はあるのに無欲な主人公がつつましく生きていたが、優しいので女にはもて、他人のピンチを救ったことで正当に評価されて大出世……というポルノ小説ばかりが並んでいたが、『人情裏長屋』のほうはもっとバラエティに富んでいておもしろかった。

 とはいえ『おもかげ抄』『人情裏長屋』『雪の上の霜』あたりはその手の〝お天道様は見ている〟系の単純な勧善懲悪小説なんだけどね。


 しかし化け物と暮らすことになる『風流化物屋敷』、乞食を殿様に仕立てあげて大家を騙す『長屋天一坊』、怠け者の男が幽霊を貸す商売をはじめる『ゆうれい貸屋』なんて、まさに落語そのもの。
 これ、ほとんどそのまま落語にできるんじゃないかなあ。星新一氏が何篇か落語作品を書いているけど、それと似た味わい。

 個人的には『長屋天一坊』が特におもしろかったな。話が二転三転するし、登場人物も「成金で強欲な大家」「器量が悪く好色な大家の娘」「おつむの足りない乞食」「いたずら好きな長屋の住人」と役者がそろっている。


 今『落語っぽい』と書いたけど、昔は落語や講談と小説の区分ってそれほどはっきりしてなかったんじゃないのかな。文字で読むか噺を聴くかのちがいだけであって、中身はほとんど同じようなもので。

 それが、小説のほうは時代に合わせてどんどん変化していったのに対し、落語だけが取り残されてしまった。いや、落語だって変化はしてるんだけど、そのスピードは小説に比べてずっと遅い。なんだかんだいってもいまだに古典落語のほうが主流だもん。
 ぼくも古典落語は好きだけど、もっと変化のスピードを上げないと落語の世界に未来はないとおもうな。


【関連記事】

【読書感想文】時代小説=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

【CD感想】星新一のショートショートを落語化 / 古今亭志ん朝・柳家小三治『星寄席』



 その他の読書感想文はこちら


2021年1月6日水曜日

焼きそば屋が存在しない理由

 焼きそばが好きだ。

 ぼくの住む大阪は粉もん文化だと言われ、そこかしこにお好み焼き屋やたこ焼き屋がある(お好み焼き屋は京都のほうが多いとおもう。学生が多いからだろうか)。

 お好み焼きもたこ焼きも嫌いではないが、焼きそばのほうがずっと好きだ。
 だからぼくはお好み焼きに行けばたいてい焼きそばを頼むし、たこ焼き屋でも(メニューにあれば)焼きそばを頼む。

 ふとおもったのだが、焼きそばの地位は低い。

「お好み焼き屋」や「たこ焼き屋」はあっても「焼きそば屋」はない。あくまで焼きそばはサブメニュー。主役ではない。
 焼きそば屋ってないのだろうかと調べたが、やはり「焼きそば出しているお好み焼き屋」ばかりが検索にヒットする。どこまでも焼きそばは二番手なのだ。
 焼きそばが有名な店があったとおもえば上海風あんかけ焼きそばとか。そういうんじゃないんだよ、ぼくが探してるのは。ごくごくふつうの焼きそばの名店はまず見当たらない。

 焼きそばをメインにしているのは、祭りの屋台ぐらいだ。


 なぜこんなに焼きそばの地位は低いのだろう。うまいのに。焼きそばを嫌いな人はほとんどいないのに。
 その理由を考えた。

 ひとつは、作り方がかんたんなこと。たこ焼きのように専門の機材もいらないし、お好み焼きよりも手間がかからない。
 なにしろそばと豚肉とキャベツと人参・ピーマン・もやしあたりを放りこんで炒めるだけだ。あらかじめ具材を切っておけば三分でできてしまう。屋台にうってつけだ。

 もうひとつは、これは焼きそばの最大の長所でもあるのだが、誰がつくってもうまいことだ。
 具材の大きさがばらばらでも、ちょっとべちゃべちゃでも、ちょっと焼きすぎて麺の一部が焦げても、ちょっと味が濃くても薄くても、焼きそばはうまい。ほぼ失敗しない。
 特製のダシとか秘伝のタレも必要ない。市販のソースで十分うまい。塩でもうまい(ぼくはソースよりも塩のほうが好きだ)。

「かんたんでまずくならない」は焼きそばの最大の長所だが、同時に短所でもある。
 かんたんで誰がつくってもうまいがゆえに、焼きそばは軽視されている。だから焼きそば専門店もないのだ。


 全国的にはあまり有名ではないが、明石焼きという食べ物がある。本場・明石では玉子焼きというらしい。
 卵と小麦を溶いたものを球状に焼いて中にたこを入れたもの。たこ焼きとほぼ同じものだが、たこ焼きよりももっと大きく、もっとふわふわしていて、ソースではなく出汁につけて食べる。

 明石焼きを作ったことはないが、見ただけで「こりゃあ素人には作れないな」とわかる。
 めちゃくちゃふわふわしていて、このふわふわ感を保ちつつきれいな球形にするのはいかにも難しそうだ。卵と小麦と水のバランス、火加減、職人の技術、どれひとつ欠けてもあんなにきれいな球形のふわふわにはならないだろう。
 出汁にもこだわりが感じられる。コクがあり、なんとも優しい味。出汁だけ飲んでもおいしい。
 何より明石焼きには専用の機材がいる。たこ焼き器よりも大きな穴の空いた銅板。
 一家に一台はたこ焼き器を持っているという関西の家庭でも、明石焼き用の鉄板を持っている家はまずない。

 そんなわけで、明石焼きは〝粉もん〟でありながら格調が高い。
「小腹が減ったなあ。たこ焼きでもつまむか」とはなっても
「小腹が減ったなあ。明石焼きでもつまむか」とはならない。
 明石焼きはそうそう気軽に食えるものではないのだ。たこ焼きのようにあらかじめ作っておくことができないから注文してから出てくるまでに十分以上は待たされるし、出汁につけて食べるのでたこ焼きのように歩きながら食べることもできない。
 関西人は「たこ焼きのうまい店」を知らない。なぜならたこ焼きはそのへんで売っているのを気が向いたときに買ってつまむものであって、わざわざ食べに行くものではないからだ。だが明石焼きの有名店はいくつもある。
 たこ焼きは軽食だが、明石焼きは食事なのだ。


 明石焼きと焼きそばのうまさは大して変わらない。どっちがうまいですか? とアンケートをとれば両者は拮抗するだろう。
 原価も大して変わらない。
 にもかかわらず焼きそばの地位が低く、明石焼きが格調高い扱いを受けているのは、ひとえに「作ることの難しさ」によるものだ。

 その点、寿司はうまくやっている。
 寿司はたしかにうまいが、刺身を酢飯の上に乗っけただけの料理だ。誰でも作れる。それなのに、刺身の何倍もの値段を平気でとる。
 あれが成立しているのは「寿司を握るのは難しい」と客に思わせているからだ。
 板前が何十年も修行して絶妙な力加減で握っているからこの味わいが出る、という話を流して、それを客に信じさせることに成功したからこそばか高い値段をふっかけることができるのだ。

 焼きそばも、地位向上のためには「焼きそばを作るのはむずかしい」と一般消費者に信じこませなくてはならない。
「キャベツ五年、人参十年、そば一生」みたいな言葉を流布し、
「中学出て焼きそば職人について四十年修行し、やっと店を持たせてもらえるようになりやした」みたいなストーリーを作り、
「焼きそばは一本、二本じゃなくて、一花、二花と数える」みたいな謎のルールを押しつけ、
「ソースはクロ、紅しょうがはクレナイ、かつお節はウオと呼ぶ」みたいな無意味な隠語を使い、
「キャベツの切り口を見れば職人の腕がわかる。通はキャベツから食べる」みたいなくそどうでもいいマナーをふりかざすようにすれば、
焼きそばも寿司のように高級料理の扱いになるはず。

 ま、そんな焼きそば屋にぼくは行きたくないけど……。


2021年1月5日火曜日

交通事故履歴


 小学五年生のとき。
 友人と自転車リレーをしていた。コースは住宅地の道路一周。車道を全速力で走るのだ。
 車道を全速力で下っていたら、前から自動車が来た。ぶつかったが、両者ともあわててブレーキをかけていたので衝撃はほぼなかった。
 すみませんすみませんと謝って逃げるようにその場を離れた。
 車道を全速力で走っていたのでこっちが悪いのだが、もし怪我でもしていたら9:1で自動車の過失になっていただろう。向こうからしたらとんだ災難だ。


 高校二年生のとき。
 自転車での通学途中に、信号のない横断歩道で自動車とぶつかった。
 このときもあわててすみませんすみませんと謝って逃げるようにその場を離れた。「車を傷つけてしまった!」という気持ちで頭が真っ白になっていたのだ。
 よくよく考えてみれば、飛びだしたこちらも悪いが、横断歩道で一時停止していなかった自動車のほうが責任は重い。
 後で気づいたら自転車のタイヤが曲がっていて修理に金がかかった。だがこちらから逃げてしまったので後のまつり。
 修理代ぐらいもらえばよかったと後悔したものだ。


 二十二歳のとき。
 はじめて買った自動車で他の自動車とぶつかった。交差点での衝突事故。向こうのほうが優先で、こちらが一時停止を守っていなかったのでぼくが悪い。たしか過失割合は9:1ぐらいだったとおもう。
 就職した会社を数ヶ月でやめて、気持ちが落ち込んで心療内科に通っている時期だったので、余計に落ちこんだ。
 警官のおっさんに「なに? 仕事を辞めて病院に通ってる? 心療内科? どうせコンビニ弁当ばっかり食べてるんだろ。だからだよ。ちゃんとしたもん食べないとだめだぞ」とめちゃくちゃ理不尽かつ事故とまったく関係のない説教をされて腹が立った。


 二十七歳のとき。
 朝五時、出勤途中。雨なのにスピードを上げていたため、信号で止まれず前の車に衝突。停車中の車に後ろから衝突したので10:0でぼくが悪い。
 ぼくの乗っていた車はエアバッグが飛びだして廃車になった。
 幸い相手に怪我はなかったが、歩行者がいたら殺していたとおもうとぞっとした。めちゃくちゃショックを受けて二度と車を運転したくないとおもった。ついでに自動車通勤必須の仕事もやめようとおもった。


 こうして並べると、過失の差はあれど、ぼくがスピードを出しすぎていなければ防げていた事故ばかりだ。
 基本的にスピードを出しすぎる性質なのだ。
 よく「ハンドルを握ると性格が変わる」というが、これはぼくには当てはまらない。なぜならぼくはせっかちで、歩いているときも「おらおらどけどけ」と思いながら歩いているからだ(ぶつからないようにはしているが)。

 自分でもよくわかる。ぼくは運転に向いていない。
 だから今は車を所有していない。もう八年ぐらいハンドルを握っていない。完全なペーパードライバーだ。
 これから先も、自動運転車が実用化しないかぎりは車を所有することはないだろう。


2021年1月4日月曜日

【読書感想文】徹頭徹尾閉塞感 / 奥田 英朗『無理』

無理

奥田 英朗

内容(e-honより)
合併で生まれた地方都市・ゆめので、鬱屈を抱えながら暮らす5人の男女―人間不信の地方公務員、東京にあこがれる女子高生、暴走族あがりのセールスマン、新興宗教にすがる中年女性、もっと大きな仕事がしたい市議会議員―。縁もゆかりもなかった5人の人生が、ひょんなことから交錯し、思いもよらない事態を引き起こす。

 衰退しつつある郊外の都市を舞台に、職業も年齢もばらばらの五人の生活を描いた小説。


(ネタバレあり)


 妻に不倫をされて離婚した地方公務員は人妻買春サークルにはまり、女子高生は引きこもりの青年に拉致監禁され、悪徳商法のセールスマンは同僚が殺人を犯し、新興宗教の会員である女性は対立する宗教団体の陰謀で職を失い、市議会議員は悪巧みが市民団体に暴露された上に近しい支援者が犯罪に手を染めてしまう。

 女子高生と新興宗教会員以外は自業自得とはいえ、はじめは小さなきっかけだったのにどんどん深みにはまり、気が付けば引くに引かれぬ状況に追い込まれる。進むも地獄、退くも地獄。そしてさらに突き進んで状況は悪化してゆく一方。

 人間が道を踏み誤るときというのはこういうものなのだろう。いきなり大犯罪に手を染めてしまうのではなく、「いつでも引き返せる」とおもっているうちに気づけば退路を断たれている。傷口を浅くしようとあがくことで、どんどん傷口を広げてしまう。

 ギャンブルで身を持ちくずす人だって、いきなり全財産をつっこんですべてを失うわけではない。はじめは小さな負けなのだ。

 この前、河合幹雄『日本の殺人』というノンフィクションを読んだが、殺人犯の大多数は犯罪志向性のある人間ではなく、たまたまめぐり合わせが悪かったために近しい人を殺してしまうのだという。
 破滅への道は、ぼくやあなたのすぐ横で口を開けて待っているのだ。




 同じ著者の『ララピポ』も、転落人生を描いた小説だった。著者はこういうのが好きなのだろうか。

 とはいえ『ララピポ』はまだからっと乾いていた。ユーモアもあった。
『無理』のほうはじとっとしている。『ララピポ』が真夏なら、『無理』は冬の曇天という感じ。とにかく気が滅入る。

『無理』の舞台であるゆめの市が、もう救いがない。人も企業もどんどん出ていき、街にあるのは大型ショッピングセンターと観覧車だけ。公務員以外にろくな働き口がない。店はつぶれ、バスの本数は減り、生活保護受給者が増えたため受給資格は厳しくなり、若者は都会に出ていき、残るのは行き場のない人間だけ。
 これはフィクションだが、似たようなことが日本中あちこちで起こっている。そしてこれは日本全体の縮図でもある。


 後味の悪い小説はけっこう好きなんだけど、『無理』は読んでいてちょっと息苦しかったな。終始閉塞感が漂っていて。
 ラストも事態はまったく好転せず、かといって悪事が自分にかえってくるような勧善懲悪パターンでもなく、悪事とは無関係なひどい目に遭って終わりという投げやりな展開。とことん救いようのない小説だった。

 個人的には嫌いじゃないけど、小説を読んですかっとしたいという人にはまったくお勧めできません。


【関連記事】

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

【読書感想文】奥田 英朗『家日和』



 その他の読書感想文はこちら