2020年12月14日月曜日

【読書感想文】車と引き換えに売られる食の安全 / 山田 正彦『売り渡される食の安全』

売り渡される食の安全

山田 正彦

内容(e-honより)
私たちの暮らしや健康の礎である食の安心安全が脅かされている。日本の農業政策を見続けてきた著者が、種子法廃止の裏側にある政府、巨大企業の思惑を暴く。さらに、政権のやり方に黙っていられない、と立ち上がった地方のうねりも紹介する。

 堤未果さんの『日本が売られる』『(株)貧困大国アメリカ』、高野誠鮮、木村秋則両氏による『日本農業再生論』などで書かれていたことが、いよいよ現実になろうとしている。
 日本の農業が海外の大手企業に売られようとしている。日本政府の手によって。

 モンサント社というアメリカの会社があった(今は買収されてバイエルになった)。
 グリホサートという農薬を作り、その農薬に耐性を持つ遺伝子組み換え作物などを販売している会社だ。
 グリホサートは人体に害をもたらすことがわかり、今は世界各国で使用が厳しく規制されている。また遺伝子組み換え食品も安全性が証明されていないため、遺伝子組み換え食品であることの表示がスーパーやレストランで義務化されている。

 が、世界的な流れに逆行するように、グリホサートの仕様基準をゆるめ、遺伝子組み換え食品を販売しやすくしている国がある。日本だ。

 これまで見てきたように、世界では有機栽培への流れが加速している。アメリカやEU、韓国はもちろん、ロシア、中国もあらたなビジネスチャンスとして国を挙げて後押ししている。世界のそういった流れのまったく逆を行くのが、驚くことに日本だ。
(中略)
 2017年1月、厚生労働省は、突然グリホサートの残留基準を緩和した。  小麦はそれまで5ppmだったのが、一気に6倍に引きあげられて30ppmに、ソバは0.2ppmから150倍の30ppmへ、ひまわりは0.1ppmから400倍の40ppmへそれぞれ緩和された。
 厚生労働省は、グリホサートに発がん性などが認められず、一生涯にわたって毎日摂取し続けても健康への悪影響がないと推定される一日あたりの摂取量として設定したという。もちろん、額面通りに受け取ることはできない。
 第五章で記したように、EUをはじめとして、世界はグリホサートの使用を禁止する方向へ動いている。アメリカの裁判でもモンサントが発がん性を認識しながらも隠蔽を行っていたことが明らかになり、巨額の賠償金を命じられている。世界の動きを知らないのか。

『売り渡される食の安全』には、日本の農業が世界の流れに逆行する姿がくりかえし書かれている。

「国家が主導して遺伝子組み換え作物を使わせようとする」
「既存の種を保護するための法律を撤廃し、種子保護のための予算を削減する」
「グリホサートの残留基準を緩和する」
「遺伝子組み換えでないことを表示するための基準を達成不可能なレベルに厳しくして、実質的にすべての食品が表示できなくする」
といった、政府・農水省の動きが紹介されている。

 そんなばかな、とおもうだろう。
 なぜ日本政府が率先して食の安全を海外に売り渡そうとするのか、と。
 そんなことをするはずがないじゃないか、と。

 だが、著者(元農林水産大臣)は、政府が食の安全を売り飛ばしている背景をこう分析している。
 たとえばアメリカが日本車に高い関税を課すのを避けるために、代わりに農業を差しだしている、と。日本の農業市場を明け渡すことで、工業製品への関税をお目こぼししてもらおうとしているのだと。

 これは著者の推測だが、だいたいあっているだろうとぼくもおもう。
 たとえば今年(2020年)、日本政策投資銀行が日産自動車へ融資した1800億円のうち、1300億円に政府保証を付けていた。もしも日産自動車が返済不能になっても1300億円は国が補填する、ということだ。税金を使って一企業を保護しているわけだ。
 コロナで困っている企業、団体、個人は山ほどいるのに、国が真っ先に保護しているのは自動車メーカーだった。
 また、医療機関がひっ迫している中でGoToキャンペーンをやっていることを見れば、ある業種を守るために他の業種を切り捨てることぐらいは今の政府なら平気でやるだろうなとおもう。


 海外では厳しく規制されている農薬・遺伝子組み換え食品が日本では積極的に売られている。
 とすれば、農薬・遺伝子組み換え作物を作っている企業からすると日本は絶好の狩り場だ。どんどん参入する。
「日本の食べ物は安全」とおもっているのは日本だけで、世界的にはまったく信頼されていないということが『日本農業再生論』にも書かれていた。




 農業や水は生命に直結するものなので、経済的な損得だけで判断してはいけない。「半年間農産物の供給がストップしますがつらいのはみんな同じです。がんばって乗りこえていきましょう!」というわけにはいかないからだ。
 割高になっても安定的に供給するシステムを守っていかなくてはならない。

 だが、ここ十年ほどの日本政府は規制緩和の名のもとにどんどん農業や水や医療といった市場を海外に向けて開放している。
 参入が増えれば価格は下がり、一時的に消費者は恩恵を被るだろう。だが万が一の事態に(たとえば世界的大凶作になったときに)資本家たちは「日本市場は利益にならんから手を引くわ」となる可能性がある。
 そうならないように種子法を含む様々な法律で(一見不利益に見えても)インフラを守ってきたのだが、その仕組みがどんどん破壊されている。

 どう考えても話が逆だ。
 自動車は自由競争に任せればいい。日本の自動車が売れないなら代わりの産業を築かなくてはならない。じっさい、国を挙げて自動車産業を保護しているうちに、非ガソリン車の分野で日本メーカーはどんどん遅れをとろうとしている。そりゃそうだろう。売れなくなっても国が守ってくれるんだもの。

 人類の歴史を振り返れば、たとえば19世紀なかごろのアイルランドではジャガイモ飢饉によってもたらされた飢えや伝染病によって、100万人を超える犠牲者が出たとされている。主食としていたジャガイモが、北アメリカ大陸からもちこまれたと見られる葉枯病でほぼ全滅となったことが原因だった。当時のアイルランドでは、1種類のジャガイモだけが栽培されていたようだ。瞬く間に蔓延していった葉枯病に対抗しうる手段は残念ながらなかった。
 第二次世界大戦後、ロックフェラーなどの財団が「緑の革命」として、イリ米と称して化学肥料を多用させて多収穫を目指す品種がアジア一円に広がった。ところがウイルスに感染して、アジアのお米は全滅に近い被害をこうむった。幸い、インドにあった一品種がウイルスに耐性を持っていて、救われた。日本でも、第一章で記したが、93年の冷害で甚大な影響が出た。このような例は枚挙にいとまがない。
 多様な品種が存在するからこそ、予期せぬ気候変動や突然のウイルスの感染、病害虫の大量発生などから、生きていくうえで欠かせない米を救うことができる。日本は地域ごとに土壌や気候の多様性に富んでいる。特定のエリアでしか栽培されていない品種は、地域振興を進めていくうえでの看板をも担ってきた。くり返しになるが種子法によって、米作りが公的な制度や予算で支えられる状況が維持されてきたからにほかならない。
 種子法の廃止や農業競争力強化支援法によって、民間企業の進出がさらに促されればどうなるか。
 株式会社では利益を生み出すことが何よりも優先される。コストや労力をかけて数多くの品種を維持するよりは、同一品種を広域的かつ効果的に生産していくだろう。政府が掲げる品種数の集約が進めば、リスクが高まることは自明の理なのである。

 今回のコロナ騒動を見れば、自然を予測・制御することは不可能だとわかる。

 均質な遺伝子を持った作物を育てていれば、病気の蔓延や害虫の大量発生などがあった場合に全滅してしまう可能性がある。
 たとえば日本にあるソメイヨシノはすべて元は一本の樹なので、遺伝子がまったく一緒だ。ソメイヨシノに強い病気が流行ったらあっという間に全滅してしまうだろう。ソメイヨシノなら「花見ができなくて残念だ」で済むが、米や小麦なら命にかかわる。

 農業に関しては非効率でも多様性を残し、国が保護しなきゃいけないよね。
 今回のコロナで、「ムダがないと何かあったときに対応できない」ということがみんな骨身にしみてわかっただろうし。


【関連記事】

【読書感想文】「今だけ、カネだけ、自分だけ」の国家戦略 / 堤 未果『日本が売られる』

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』



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2020年12月11日金曜日

【読書感想文】今ある差別は差別でない / 北村 英哉・唐沢 穣『偏見や差別はなぜ起こる?』

偏見や差別はなぜ起こる?

心理メカニズムの解明と現象の分析

北村 英哉  唐沢 穣

内容(e-honより)
必然か?解決可能か?偏見や差別の問題に、心理学はどのように迫り、解決への道筋を示すことができるのか。第一線の研究者が解説した決定版。


 まるで教科書のような本だった。
 もっとはっきり言うと、つまらない。国籍、障害、見た目、性別、性嗜好、年齢などいろんな分野の差別・偏見の問題を網羅的に取り扱ってはいるのだが、網羅的すぎて引っかかりがないというか……。
 教科書を読んでいるみたいだった。
 うん、そうだった。教科書ってつまらなかった。ひととおり過不足なく書いてるんだけど、その過不足のなさがつまらなかった。おもしろいのは〝過剰〟な部分だからね。




 この例のような微かな偏見や、その偏見を手がかりとした差別は現実にも実行されている。ただし、差別をしている者は、自分が差別しているという自覚をもたず、自分のことを平等主義的だと信じ込む傾向があり、彼らはさらに、差別される側に同情的であり、少数派集団の人たちに対しての好意や同情を積極的に示そうとすることもある。この無自覚の偏見がふとしたはずみで表に出ることもあるが、そこで本人が自分の偏見や差別に気づくとは限らない。ここでの偏見や差別は何らかの形で正当化され、差別した当人は自分のことを平等主義的だと思い続けることができる。たとえば、少数派集団の一人に嫌な感じを抱いたとしても、その感情が自分の偏見から生じた敵意や嫌悪であるとは考えず、そのときやりとりしていた相手の個人としての言動が自分に嫌な感じを抱かせるものだったと考えることができ、結果的に当人の偏見は放置され、微かな差別が続いていく。

 これは常々おもっている。
「自分は差別をしていない」「これは差別とおもわれたら困るんだけど」みたいなことを言う人間こそが差別丸出しの発言をする。
 差別であることを責められても「誤解を招いたのであれば申し訳ない」と謝罪にならない謝罪で切り抜ける。

 人は差別や偏見からは逃れられないのだとおもう。なぜならそれこそが知恵だから。
「集団Aのメンバーが悪いことをした。集団Aのまた別のメンバーも悪いことをした。集団Aは悪いやつらだ」
と判断することで、人間は生きぬいてきたのだから。
 偏見を持たない人間は生きられなかった。「先月あそこに行ったやつが死んだ。先月べつのやつが行って死んだ。でもまあおれは大丈夫だろう」と考える人間は命を落とす確率が高くて子孫を残せなかった。
 偏見を持つ人間の子孫が我々なのだから、偏見を持たないわけがない。
 ぼくもリベラリストを気取ってはいるが内心では××や△△をバカにしまくってるし。

 偏見を持たないのはバカだけだ(これこそ偏見かもしれないが)。
 必然的に差別もなくならない。
 そもそも差別だって合理的な理由をつけられる場合がほとんどだからね。「高齢者が身体的能力も知的吸収力も衰えるので採用しません」ってのは年齢差別だけどほとんどの人はそこに一定の合理性を感じるだろう。

 だから「差別をなくそう」ではなく、「差別感情がなるべく実害につながりにくい世の中にしよう」ぐらいの目標を立てたほうがいいよね。




 以前、『差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準』という文章を書いた。
 世の中には「許されない差別」と「許される区別」がある。

 たとえば「女性だから採用しません」は、力仕事とかでないかぎりは言ってはいけないことになっている。
「〇〇地域の人は採用しません」もダメだ。
 でも「三十代までしか採用しません」は原則ダメだがほとんどの会社がやっている。
「応募資格:大卒以上」は堂々と掲げられている。
 大卒以上がよくて男性のみがダメな理由を論理的に説明できる人はいないだろう。なぜならそこに論理的な違いはなく、「今まで慣例的におこなわれてきた線引きかどうか」だけで判断しているからだ。


『偏見や差別はなぜ起こる?』では、差別が起こる理由として「システム正当化理論」が紹介されている。

 ジョン・ジョストらは、我々がこのような不公正な現状に折り合いをつけようとするプロセスを、システム正当化理論(systemjustificationtheory)で統合的に説明しようと試みている。この理論によると、人には現状の社会システムを、そこに存在しているという理由のみで正当化しようとする動機(システム正当化動機)がある。なぜなら、人は不確実で無秩序な状態を嫌うがゆえ、たとえ現状のシステムに問題があったとしても、それを織り込んだうえで予測可能な社会の方がはるかに心地よいと考えるからである。現状の社会秩序の肯定は、恵まれた、社会的に優位な集団の成員にとっては自尊心の高揚にもつながり精神状態を安定させる。恵まれない、社会的に劣った集団に属する成員にとっては、現状の肯定は自尊心を低下させ精神状態の悪化につながる。しかし同時に、現状を受け入れさえすれば、「なぜ私はこのような恵まれない集団に属しているのか」という、個人レベルでは解決が困難な問いからは解放される。個人や所属集団の成功に対する関心が薄い場合、恵まれない劣位集団において現状のシステムを受け入れる傾向はさらに強くなるという。

 この説明はすごくしっくりくる。

 そうなのだ。
 我々は絶対的な正/悪の基準を持っているような気になっているが、そんなものはない。
「今あるものは正しい。今認めらていないものは悪い」で判断しているだけだ。

 だから「男子校・女子校はOK。でも血液型A型しか入れないA型校は差別」とおもってしまうのだ。本質的な違いはないのに。

 自分の信ずるもの、頼るものの一つが権威や現状の社会のあり方そのもの(現状肯定)であった場合には、これを批判する者が敵に見えてしまう。自分が大切にするものの価値を貶める言説に出会うと屈辱感を感じる。ここにも現状肯定派と改革派との根深い対立の芽がある。本来、同じ社会で生きる者は、互いに知恵を出し合って、みんながより生きやすく、住みやすくしていく改善策があるのならば、改善とその方法を議論し、共有していくことが理想的であろう。しかし、現状を肯定するあまり、そうした「改善」についてもみずからの存立基盤を脅かす批判をなすものとして、過剰に警戒し、敵意を抱くといった反応が呼び覚まされることがあるのだ。
 議論を勝ち負けの勝負、競争と見てしまうと、たとえみずからが利益を享受するような改革であってもみずからが提案、主導したもの以外はすべて敵意をもって対するといった非合理的な対応が現実に現れることになる。議論や交渉という場をどのような枠組み、フレーミングで理解するかといった解決態度の違いによって不毛な対立を続けたり、それを避けたりすることができるのだ。

 この姿勢は政治や政策に対する議論でもよく見られるよね。
 今のシステムを最良のものとみなして、それにそぐわない案は(たとえ改善案であっても)すべて否定する姿勢。

 日本政府を批判すると「そんなに日本が嫌なら日本から出ていけ!」という人たち。
 日本が好きだからより良くしたいのに……という正論はそういう人には通じない。なぜなら彼らにとっては常に「今が最良」なのだから。


 偏見・差別に関する議論よりも、この「システム正当化理論」についてもっと深掘りしてほしかったな。
 システム正当化理論に関する本を探してるんだけどなかなか見つからないんだよな……。


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差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準

刺青お断り



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2020年12月10日木曜日

牛のいる生活

 父母はともに昭和三十年生まれだ。
 だが生まれ育った環境は大きく違う。

 母の父は建設省(今の国土交通省)の国家公務員だった。地方都市を転々としていたが、その暮らしは決して苦しいものではなかったようだ。
「休みの日になると父の取引先の人が来て、庭の手入れをしてくれた」
「犬が死んで悲しんでいたら、その話を聞いた父の取引先の人が犬を贈ってくれた」
など、今の時代だったら贈収賄で完全アウトな話を母から聞いたことがある。
 当時は役人に贈り物をするのはあたりまえだったようだ。

 一方の父の育ちはまったく違う。
 福井県の小さな村で育った(今は町になっているが)。農家。
「囲炉裏を囲んでごはんを食べていた」
「冬は家の中に牛を入れていた」
 といった、日本昔話みたいなエピソードを持っている。農家なので、乳牛でも肉牛でもなく役牛だ。トラクター代わりの牛。
 豪雪地帯なので冬は雪をかきわけて小学校に通い、歩いて通える距離に中学校がなかったので中学生で既に下宿をしていたそうだ。

 母が手塚治虫の漫画やアニメに夢中になっていた頃、父は中学生にして下宿をする日々。とても同じ時代を生きた人とはおもえない。

「うちは親父が農閑期に運送業をやっていたので村の中で一軒だけ電話を引いていた。それが自慢だった。村中みんなうちに電話を借りに来た」と語る父と、
「電話なんかどの家にもあった。その頃うちは子どもたちがチャンネル権争いをしていた」と語る母。

 まったく生い立ちがちがう。
 たぶん結婚当初はいろいろたいへんだっただろうな。価値観がちがいすぎて。


 父は大阪の大学に出てきて、大阪で就職した。大阪で働き、横浜や東京やカイロに単身赴任をしていた。
 今は郊外の家でPCを使いリモートワークをしている。家に牛はいない。

 幼少期と老年期でここまでちがう暮らしをしている人は、人類の歴史をふりかえってもそう多くはいないだろうな。


2020年12月9日水曜日

【読書感想文】ぼくやあなたたちによる犯罪 / 加賀 乙彦『犯罪』

犯罪

加賀 乙彦

内容(河出書房新社ホームページより)
ある日突然、何処かでそっと殺意が芽生える! さりげない日常に隠された現代人の魂の惨劇が、様々な人間模様の底から露わにされて行く――。名作「宣告」に続く犯罪小説集。

 医学者であり犯罪学者でもある作家による犯罪小説集。
 フィクションではあるが実在の事件をモデルにしているらしい。

 残忍な連続殺人犯などは登場せず、ごくごくふつうに暮らしていた善良な市民がある日突然殺人、放火、窃盗といった犯罪に手を染める姿を丁寧に描写している。

 ぼくは犯罪に手を染めたことが(まだ)ないし、身内にも犯罪者は(たぶん)いないので想像するしかないのだけど、人が犯罪に走るときってこんな感じなんだろうなーというリアリティを感じる。

 こないだ河合 幹雄『日本の殺人』という本を読んだ。
 それによると、殺人犯の大半は人殺しが好きな凶悪犯などではなく、ごくふつうに生きていた人たちが何かのはずみで手をかけてしまったケースだ。殺すのも家族や顔見知りが大半で、「見ず知らずの人を殺す」というのはニュースで大々的に報道されるから印象に残りやすいがじっさいは例外中の例外なのだという。

 この『犯罪』で描かれる事件も、おおむね現実に即している。犯罪とは無縁の生活をしていた人が何かの拍子にかっとなって殺してしまう。
 『大狐』という短篇では狐に憑かれたような状態になって人を殺してしまう男が出てくるが、まさに「狐に憑かれた」「魔が差した」としか言いようのない殺人事件はあるんじゃないだろうか。自分でもなぜ殺したのかわからない、というような。
 ぼくは人を殺したことはないけど、「あのときなんであんなに怒ったんだろう」「つい乱暴な物言いをしてしまったけど今おもうとぜんぜん大したことじゃなかった」とおもうことがある。たぶん、たまたま寝不足だったとか腹が減ってたとか、原因は些細なことなんだろうけど。

 たいていの場合はそれでも「家族に怒鳴ってしまった」ぐらいで済むのだろうが、めぐりあわせが悪ければ人を傷つけたり、あるいは殺してしまうこともあるかもしれない。
「あのときはちょっと言いすぎたな」と「かっとなって殺してしまった」は別次元の話ではなく、地続きのものなのだ。

 ほとんどの殺人は、平気で人を殺せる別人種による犯行ではなく、ぼくやあなたのような人たちの失敗なんだおもう。


『犯罪』は犯罪学者が書いたものだけあって、そのへんの書き方がすごく丁寧だ。

 また分析も教訓もなく、ただ事実をもとに想像で補いながら淡々と事実と当事者の心境の変化を書いているのも誠実な態度だ。
 素人にかぎって「犯罪者の心理」を決めつけるけど、そんなことわかるわけがないんだよね。真実など誰にも(加害者当人にも)わからないんだから。


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【読書感想文】殺人犯予備軍として生きていく / 河合 幹雄『日本の殺人』

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』



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2020年12月8日火曜日

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