2020年8月18日火曜日

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

失敗の科学

失敗から学習する組織、学習できない組織

マシュー・サイド

内容(e-honより)
誰もがみな本能的に失敗を遠ざける。だからこそ、失敗から積極的に学ぶごくわずかな人と組織だけが「究極のパフォーマンス」を発揮できるのだ。オックスフォード大を首席で卒業した異才のジャーナリストが、医療業界、航空業界、グローバル企業、プロスポーツチームなど、あらゆる業界を横断し、失敗の構造を解き明かす!

おもしろくてためになる。
いい本だ。
どんなビジネスにも役立つ考え方。全人類におすすめしたい。


医療業界では毎年多数の医療事故が起こっている。命にかかわるものも多い。
多くがヒューマンエラーによるもので、毎年ほとんど数は変わらない。

一方、航空業界ではめったに事故が起こらない。
しかも年々飛行機事故は減っている。
飛行機に乗るのは怖いという人は多いが(ぼくもそのひとりだ)、飛行機はもっとも安全な乗り物のひとつだ。

なぜ医療業界では重大なミスが減らず、航空業界は減りつづけるのか。
それは、航空業界には失敗に学ぶ仕組みがあるからだ。

航空業界では墜落などの重大なミスが起こった場合、徹底的に原因が検証される。
コックピットにはブラックボックスと呼ばれる記録装置があり、機器のデータや操縦士たちの会話がすべて記録されている。この装置は衝撃からも熱からも水からも守られ、飛行機が墜落してもまず壊れることはない。
また墜落のような重大な事故だけでなく、軽微な事故、あるいは「あやうく事故が起こりそうになった」といったケースもすべて記録される。
こうした失敗につながるデータはその航空会社だけでなく、ライバル会社も含めた全世界の航空会社に共有される。

そしてこれがいちばん大事なことだが、航空業界では事故やミスが起きたからといって、当事者を責めない。
ミスの報告はどんどん推奨される。

ミスを減らす方法は、
・ミスは必ず起こるという前提で制度設計をする
・ミスをした者を責めない
・ミスを報告しやすい環境をつくる
・ミスから学ぶ
つまり徹底的にミスと向き合うこと。これがミスを減らす方法なのだ。



ぼくが前いた会社は逆をやっていた。

「ミスをした人間はみんなの前でこっぴどく怒鳴られる」という文化だった。
ミスでなくても業績が悪くなれば、やはり責められた。

当然ながらこれはミスを減らすことにつながらない。
逆に、ミスを隠そうとするモチベーションがはたらく。

   ミスを発見する
 → 罵倒されるのがイヤだから隠そうとする
 → より大きな問題になる
 → 手に負えないぐらいの大事になってからやっと報告される
 → 当然ながらめちゃくちゃ罵倒される
 → それを見ていた他の社員もミスを隠すようになる

という悪循環だった。

だからぼくは今の会社に転職して自分でチームをつくることになったとき、ミスを報告しやすくした。
ミスをした社員を責めない。ミスを隠そうとしたときだけ注意する。

その結果、多少ミスは減った。
大事になる前に食い止められることは増えた。
とはいえまだまだ減らない。

『失敗の科学』には、医療現場を改善した事例として「ミスを報告した人を褒める」という対策が載っている(もちろん明らかにその人物が悪さをした場合はべつだが)。

なるほど。
「ミスを叱らない」だけでは不十分なのだ。

たとえ叱られなくても、「ミスをしたやつだ」とおもわれるだけでもイヤなものだ。
だからミスを報告することに対して、褒めるというフィードバックを返してやらなくてはならない。



ミスが減らない最大の原因が、「チームのリーダーであるぼく自身がミスを隠してしまう」だ。

ぼくはチームの中でいちばん上の役職で、経験ももっとも長い。
他のメンバーを管理するポジションにいる。

こういうポジションにいると、ミスを認めて他のメンバーに報告することにより大きな抵抗を感じてしまう。
多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして、自分を正当化してしまうのだ。ときには事実を完全に無視してしまうことすらある。
 なぜ、こんなことが起こるのか? カギとなるのは「認知的不協和」だ。これはフェスティンガーが提唱した概念で、自分の信念と事実とが矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す。人はたいてい、自分は頭が良くて筋の通った人間だと思っている。自分の判断は正しくて、簡単にだまされたりしないと信じている。だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅され、おかしなことになってしまう。問題が深刻な場合はとくにそうだ。矛盾が大きすぎて心の中で取拾がつかず、苦痛を感じる。
 そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。1つ目は、自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単、怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが。
 そこで出てくるのが2つ目の解決策、否定だ。事実をあるがままに受け入れず、自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そうすれば、信念を貫き通せる。ほら私は正しかった! だまされてなんかいない!

権威や誇りが失われてしまうのをおそれるあまり、
「これはミスじゃない」と自分に言い聞かせてしまう。

なるべくしてなったんだ。
誰がやっても同じことになっていた。
たしかにぼくの行動によって悪くなったけど、その行動をとらなくても同じかそれ以上に悪くなっていたはずだ。
無視できるぐらい小さな話だ。

そんな言い訳をして(無意識のうちに自己暗示をかけるので気をつけていないと自分でも言い訳をしていることに気づかない)、失敗から目を背ける。

この性質を自分が持っていることを深く理解しなければ。
意識的に「おまえはミスをする人間だ!」と自分に言い聞かせたほうがいいかもしれない。



「ミスを報告することで罰を受ける」はもちろんイヤだが、罰がなくてもミスを認めるのは嫌なものだ。
 わかりやすい例として、行動ファイナンスの分野でくわしく研究されている投資家の「気質効果」を考えてみよう。たとえば、あなたが値上がり株と値下がり株の両方を持っていたとして、どちらを売って、どちらを手元に置いておくだろう?
 普通に考えれば、値上がり株をキープして、値下がり株を売るはずだ。利益を最大限に出すにはそうすべきなのだから。安く買い、高く売って儲けるのが株の基本だ。
 しかし実のところ我々は、将来の値動きにかかわらず、値下がりしたほうの株を持ち続けてしまうことが多々ある。損失が「目に見える状態」になるのが嫌だからだ。下落した株を売却した瞬間、それまで「損失の可能性」にすぎなかったものが、リアルな「損失」として確定する。損失は、その株を買った自分の判断が間違っていたという動かしがたい証拠となる。その恐怖から、下落した株を長々と持ち続ける。「いつかきっと利益が出る」と自分に言い聞かせながら。これが「気質効果」だ。
 ところが、これが値上がり株となると話が逆になる。早く売りすぎてしまうのだ。人は無意識のうちに、早く利益を受け取りたいと願う。値上がり株を売った瞬間、自分の判断は正しかったという正真正銘の証拠が手に入るからだ。今後さらに値上がりしてもっと利益が出せるかもしれないのに、目の前の誘惑から逃れられない。これも一種のバイアスだ。
「上昇しつつある株は持っておく」
「下降しつつある株は売る」
こんな単純なことだけ守っておけば、よほどの暴落がないかぎりはまずまちがいなくプラスになるだろう。

だがそれができないのが人間なのだ。
「判断を誤った」ことを認めたくないために、下がっている株を持ちつづけ、上がっている株を売ってしまうのだ。

プロの投資家ですらそうなのだから、「まちがえたくない」という気持ちの強さがどれほどのものかがよくわかる。



世の中には「まちがえない人」がたくさんいる。
人気のある政治家やテレビのコメンテーターはたいていそうだ。
 クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
たとえば「公務員が多いことがすべての元凶だ。公務員を減らせ!」と声高に叫び、その結果社会が悪くなっても「公務員の努力不足が原因だ! 数を減らしたことは正しかった」とか「減らし方が足りなかったせいだ! もっと減らせ!」とか「公務員を減らしていたからこの程度で済んだのだ! 減らしていなかったらこんなもんじゃ済まなかったのだ!」とか言う 維新 人たちのことだ。

一度でも彼らが「我々が実行したあの政策は失敗だった」と言っているのを聞いたことがあるだろうか。
ない。彼らは失敗しないのだ。
それはつまり、何も学ばないということだ。

少し前に流行った『ドクターX』というドラマで、主人公の決めゼリフが「私、失敗しないので」だったそうだ(ドラマ観てないけど……)。
こういう人は成長しない。
ミスから学ばないから。ミスをしても「これはミスじゃない」と揉み消してしまうから。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがある。
どれだけ判断ミスや失言をしても
「ご指摘にはあたらない」
「意図が誤って伝わってしまったのなら申し訳ない」
「誤解を招いたのであれば訂正する」
と言い逃れようとする人を指す言葉だ。
もちろん、こういう人も成長しない。

だが。
たいへん残念なことに、政治家やコメンテーターとして人気があるのは、この手の「失敗できない」人たちなのだ。

「私の判断は誤っていました。これから先も誤るとおもいます。それでも、そのときの最善を選択できるよう様々な人の声に耳を傾けていきます」
なんて謙虚な人は人気がない。

「失敗しない人」じゃなくて「失敗を認められる人」がトップに立ってほしいのだが。



こないだ娘といっしょに観ていたテレビアニメ『ドラえもん』に「メモリーローン」という道具が出てきた(アニメオリジナルの道具)。

自分の思い出を預けると、その価値に見合ったお金を貸してくれるという道具だ。
言ってみれば思い出を扱う質屋。

自分にとっての重要度で思い出の売却金額が決まる。価値のある思い出ほど高値で売れるのだ。
のび太の場合だと、野球の試合でホームランを打った思い出や、先生に褒められた思い出が高値で売れる。
ところが、出木杉の思い出を査定したところ、「テストで100点をとった思い出」は価値がほとんどなく、逆に「めずらしくテストで70点をとってしまった思い出」に高値がついていた。
出木杉くんにとっては、失敗した記憶こそ、そこから学ぶことが多く、価値のある思い出なのだ(もちろん出木杉くんはメモリーローンを利用しない)。

えっ、えらいっ……!
そう。出木杉くんのすごいところってこういうところなのだ。
ただ勉強ができるだけじゃなく、決しておごらず、つねに学ぶ姿勢を忘れないところなのだ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』にも、未来の変化を正しく予測できる確率が高いのは「自分の失敗に重きをおき、そこから学ぶタイプ」とあった。
出木杉くんは今賢いだけじゃない。
今後もぐんぐんのびるタイプだ。

逆に、漫画に出てくる安易な天才タイプ(「ば、ばかな……! このオレの計算がまちがっているはずはない!」みたいなこと言うタイプ)はぜんぜん大したことないんだよね。



人間、誰しも己の失敗を認めたくない。
 心理学者のチャールズ・ロードも似たような実験をした。被験者は、死刑賛成派と反対派の人々だ。しかも、どちらのグループも筋金入り。賛成派は、死刑の犯罪抑止効果を友人に説いてまわり、テレビで反対派が恩赦の必要性を訴えていようものなら、画面に向かって怒鳴り散らすような人たちだ。逆に反対派は、「国が認める殺人」によって残忍な社会になってしまうことを心底恐れている人たちだった。
 ロードは各グループに、ふたつの研究報告書を読ませた。ふたつとも綿密な分析に基づいた、深い説得力のある見事なレポートだ。ただし、ひとつは死刑制度を支持するデータを集めたもので、もうひとつは死刑反対の意見を裏付けるものばかりだった。
 どちらも、普通なら「それぞれに理があるのだろう」と思えるほどのしっかりとしたデータだ。最後まで読めば、いくら両派が筋金入りでも、ほんの少しぐらいは歩み寄れるのではないかと思わずにはいられない。しかし、実際にはまったく逆のことが起こった。両派の溝はさらに深まったのである。賛成派はそれまで以上に強硬な賛成派となり、反対派も一層信念を強めた。

両論を目にすれば中立に寄っていくかとおもいきや、意外にも、元々極端な意見の持ち主は議論をすればするほど元々の信条をより強固にしていくのだ。

Twitter上での議論を見ていても(得るものがないのでなるべく見ないようにしているのだが)、最終的に「おれがまちがってた」となっているのを見たことがない。
極端な人たち同士の議論によって溝が深まりこそすれ、埋まることはほとんどないのだろう。

というか、相手の意見に耳を貸す人はそもそも極端な意見にならないのだろう。
物事が善悪の二元論でかんたんに片付けられないと知っているから。

 講釈の誤りは、進化のブロセスを妨げる。
 もし我々が勝手な理屈で「世の中は単純だ」と思い込んでいれば、試行錯誤の必要は感じない。その結果、ボトムアップ式を怠りトップダウン式で物事を判断してしまう。自分の直感やすでに持っている知識だけを信じ、問題を直視せず、都合のいい後講釈で自己満足に陥り、その事実に気づかない。本当なら自分のアイデアや仮説をテストし、欠点を見つめ、学んでいかなければならないのに、その機会を失ってしまうのだ。

わかりやすい正解があると信じる人ほど、正解から遠ざかる。



失敗と向き合うのはむずかしい。

税金で布マスクを配ったことも正当化したくなる。オリンピック誘致も失敗だったと認めたくない。

この本では、「失敗から学ぶ」と「失敗の可能性を減らす」ための方法が紹介されている。
「事前検死」という手法だ。
 近年注目を浴びている「失敗ありき」のツールがもうひとつある。著名な心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」だ。これは「検死(post-mortem)」をもじった造語で、プロジェクトが終わったあとではなく、実施前に行う検証を指す。あらかじめプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくのだ。失敗していないうちからすでに失敗を想定し学ぼうとする、まさに究極の「フェイルファスト」手法と言える。チームのメンバーは、プロジェクトに対して否定的だと受け止められることを恐れず、懸念事項をオープンに話し合うことができる。

これ、いいねえ。
失敗した後に検証しようとするとどうしても誰かを責めたてるような話になっちゃうもんね。
懸念点、問題点が可視化されていいことだらけの手法におもえる。

でも、根性論が好きなトップだと
「やる前から失敗したときのことを考えてどうする! ぜったいに成功させるという強い気持ちが成功につながるんだ!」
みたいな鶴の一声で一蹴されちゃうんだろうな……。

プロジェクト失敗まっしぐらだ……。

2020年8月16日日曜日

言わぬが花


妻は子どもを素直に褒めない。
というか求めているハードルが高い。

さすがに一歳児に対しては
「いっぱい食べたねーすごいねー」
「今日はあんまりごはんこぼさなかったねー。えらい!」
と、激甘基準で褒めているが、六歳の娘に対してはやたらと厳しい。

娘が「宿題終わった!」と報告したら「ピアノの練習もしてね」と言う。
「ほら、お片付けしたよ!」と報告したら「毎日これぐらいちゃんとできるといいんだけどね」と言う。

横で聞いていてぼくは「いやいや、そこはとりあえず褒めたらいいじゃない」とおもう。
で、娘が傷つかないように急いで「えっ! 宿題終わったんだって! すごいやん!!」と嘘くさいぐらいおおげさに褒める。



まあ妻には妻なりの「娘に対して求める基準」があるんだろう。
で、ぼくのそれと比べてものすごく高いのだ。

妻は“ちゃんと”している。
いわゆる優等生タイプ。長女タイプ。じっさい長女だ。
今もフルタイムで仕事をして、子どもの面倒を見て、家事育児もこなす。「疲れた」と言いながら趣味の洋裁もやっている。
「子どもにはちゃんとしたものを食べさせたいから」と言ってぼくに料理をさせない。自分がやる。たまにお惣菜を買ったときとかは「惣菜ばっかりでごめん」と謝る。惣菜を買うことを誰も責めたことないのだが、自分に責められるらしい。

一方のぼくは、自分で言うのもアレだが、まあ“ちゃんと”してない。
同じパジャマを何日も着るし、シーツも替えないし、食べ物はぽろぽろこぼすし、洗った食器に泡がついていても気にしないし(だから料理をさせてもらえないのだ)、眠いときは廊下で寝ることもあるし、机の上はぐっちゃぐちゃだ。
そうです、末っ子です。

あたりまえだけど大人になってから突然だらしなくなったわけではなく、子どものころは輪をかけてひどかった。
宿題はしないし洗濯物は脱ぎちらかすし人の話は聞かないし(これは今もだけど)歯みがきは年に数回しかしなかった。

自分がそんな子だったから、娘を見ると「“ちゃんと”してるなー」と驚く。
宿題毎日やってんじゃん、すごいなー。
二日に一回ぐらいは脱いだパジャマを片付けてんじゃん、すごいなー。
自分から歯みがきしようとしてんの? めちゃくちゃすごいじゃん。
へー先生に言われたことをちゃんと聞いてたんだ、うちの子は天才か!



子育てに正解はないが、いいことをできたときは素直に褒めたらいいじゃない、とおもう。

たとえお片付けを十回に一回しかできなくても、その一回のときに褒めてあげたら二回になり三回になっていくだろう、と。

なんたって褒めるだけならタダなんだから。
おだてといて上機嫌にやってもらったほうがいいじゃない。


……ということで「子どもがいいことをしたときでも素直に褒めない」は妻のよくないところだとおもう。

でも妻には言わない。
“ちゃんと”している人だからこそ、「きみのこういうところ良くないよ」と言われるのを嫌がるのだ。十倍になって返ってくる。

それに、ぼくが妻に対して「素直に褒めてあげたらいいのに」とおもっているのと同じように(あるいはその十倍ぐらい)、妻もぼくに対して「こうしたらいいのに」とおもうところがあるんだろう。
自分では気づかないだけで。

言わぬが花。
娘を褒めるのと同じぐらい、妻を責めないことも大事。


2020年8月12日水曜日

【読書感想文】ゴミ本・オブ・ザ・イヤー! / 水間 政憲『ひと目でわかる「戦前日本」の真実』

ひと目でわかる「戦前日本」の真実

1936-1945

水間 政憲

内容(e-honより)
「戦前暗黒史観」を覆すビジュアル解説本。なぜ日本の戦後教育ではこれらの真実を封印してきたのか?

早くも決定! 今年の ゴミ本・オブ・ザ・イヤー!
いや、ここ十年でもっともレベルの高いゴミ・オブ・ゴミ本だった。

ぼくは一年に百冊ぐらいの本を読むが、そのうち一冊ぐらいは「ああ、読むんじゃなかった……」と読みながら後悔する。

この本も序盤は「これはお金をドブに捨てたな……」とおもっていたのだが、あまりにクズ本すぎて途中から逆におもしろくなってきた。

「また出た! ゴミ主張!」

「すげえ! これが歴史修正主義者の考えか!」

と合いの手を入れながら読んだらそこそこ楽しめた。
(というかそうでもしないと読んでられない)

ってことでゴミとおもいながら読んだらそこそこ楽しめるんじゃないでしょうかね。
なんだかんだでゴミ屋敷って(遠目で見てる分には)おもしろいもんね。



「戦前の日本はまちがっていた」と言われるけど悪いことばかりでもなかったんだぜ、という趣旨の本かとおもって読みはじめた。

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』みたいな本かな、あれは名著だったからなあ、あんな感じで戦前の市井の人の生活を写真で伝える本だろうな。

とおもいながら読んだのだが……。


ぜんぜんちがった……!

「丹念に資料を集めて、そこから見えてくるものを浮かびあがらせる」本じゃなくて、

「著者のイデオロギーがまずあって、それに合致する資料だけを集めた」本だった。


前書きで「日本罪悪史観」という言葉が出てきた時点でイヤな予感がしたんだよな。
やべえやつしか使わない言葉だもんな……。

著者の言いたいことはこんな感じ。

日本は正しくて、中国や朝鮮やアメリカが悪くて、ほんとは戦争したくなかったのに引きずりこまれて、そんな中でも日本人は美しい心を持っていて、そんな日本が統治していたときは中国人も朝鮮人もいきいきとしていて、けど戦後は中国人も朝鮮人もこずるくなって、ついでに戦後の教育がまちがっていたせいで日本人も本来持っていた美しい心を失ってきている……。

はじめっから結論が決まってるんだよね。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、物事を正しく予測できないのはこういうタイプの人だそうだ(統計によって得られたものだ)。

 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

この著者はまさにこのタイプ。

つまり、何からも学べないタイプ。

引用するのもアホらしいんだけど、たとえばこんなの。

 それまで平穏無事だった日本が、中国の「罠」に嵌められ、中国国内の内戦に引きずり込まれたのは、まさに一九三七年七月だったのです。
 同七月七日、盧溝橋で日本軍に銃弾が撃ち込まれ、中国側と武力衝突しましたが、現地では、直後の同十一日に和平協定が結ばれていました。
 それにもかかわらず、「廊坊事件」(同二十五日)、「広安門事件」(同二十六日)と挑発は継続していました。この状況は、現在、尖閣で挑発行為を繰り返している中国とまったく同じです。
 そのような状況下で、北京近郊の通州において、子供を含む在留邦人二二三名が惨殺されたのです。国民が激昂したのは当然でした。それでも日本政府は隠忍自重していたのです。
 日本との戦争を望んでいたのが中国側だったことは、同九日、蒋介石が各省の幹部を前に「(日本と)戦うつもりである」と、宣言していたことで明らかになっています。
 日本が中国の懲罰に本格的に立ち上がったのは、第一次上海事変(一九三二年)のときに取り決めた「上海停戦協定」に違反し、同八月十三日に中国側が一方的に上海で戦闘を開始したことに対して、戦時国際法に則って応戦したのが実態だったのです。
 これらの事実は、GHQ占領下以降、現在でも教科書などでは封印されています。
 わが国で、事実でないことを教科書に記載し、教室で教えている状況は、まさに「反日教育」を実施していることになります。

こんなの挙げていったらキリがないからこれぐらいにしとくけど。

はあ……。

こういうこと言えば言うほど、あんたの大好きな日本人がバカだとおもわれるんだけどな……。
わかんねえのかな……。

きわめつきがこれ。

 戦後、原子力の研究に関して、日本は理論物理学だけが進歩していたかのように認識されてきましたが、実際には実証研究の分野においても最先端に達していたのです。
 当然、原子爆弾を理論的に製造できる知識は持ちあわせていたのです。
 GHQ占領下に日本の原子力研究の調査を担当したアメリカの科学者が、日本の研究者に、研究レベルの高さに驚いて「なぜ日本は原子爆弾を製造しなかったのか」と、疑問を呈していました。
 日本人の遵法精神は、武士道精神に裏打ちされており、原子爆弾の使用は即、戦時国際法違反になることで、原子爆弾を製造する能力があっても実用化する方向の議論は行われませんでした。

す、すげえ……。

これがトンデモ本ってやつか……!
うわさには聞いてたけど見たのははじめてだぜ……!

日本は原子爆弾を作れたけどあえて作らなかった。勝つことよりも武士道精神を優先させたから。

ですって!!

これ、まじめに言ってんの?
笑わせようとしてるんじゃなくて?

他にも、
「共産党政権下ではこんな純真な顔はできない」とか
「写真の猫が、ノンビリ時間が流れていた時代を象徴している」とか
「桜が咲いている写真もあり、のんびりとした時間が流れているのが写真から伝わってきます」などの
頭の悪い 独創的なフレーズがいっぱい。

のんびりしてなくても桜は咲くし、猫なんかどんな時代でも同じ顔しとるわ!


PHP研究所ってこんな本出しちゃう出版社だったっけ……。
創設者の松下幸之助氏が草葉の陰で泣いてるぞ。




著者は、平和そうな写真、楽しそうな表情をしている写真ばかりを載せて

「ほら、戦前の日本はいい国だったんですよ」と言っている。

「つらく悲惨なことばかりではなかった」という主張はわかるけど(じっさいそうだったんだろうけど)、それが言いたいがために逆の方向に大きくふれすぎている。


今でもそうだけど、戦前・戦中の写真が日常をそのまま写したもののわけがない。

カメラもフィルムも今よりずっと高価だった時代。そんな時代に、貧しい生活風景なんか撮るわけがない。庶民の苦しい生活なんか撮らない。
いいものだけ、伝えたいものだけを撮る。

撮られた写真は嘘ではないかもしれないが、現実の1%を切り取って100倍に拡大したものだ。
現実をそのまま反映しているはずがない。


たとえばさ。Facebookに載ってる家族写真って、みんな楽しそうに写っている写真ばかりじゃない。

それを見て「まあいいとこしか写真に撮らないし、いい写真しかアップしないからねー。現実は楽しいことばっかりじゃないけど」とおもうだろうか。

それとも「2020年の日本人は例外なく家族仲良く暮らしているんだ! DVも虐待もないんだ! だってFacebookには幸せそうな写真しかないもん!」とおもうだろうか。

この本の著者は後者らしい。




あと随所に「現代日本の若者に対する苦言」が入るんだけどね。

「戦前の若者は骨があった。今は教育が誤っているから甘っちょろい考えの日本人ばかりだ。厳しい教育を受けさせねばならん」

みたいな感じで。

この手の人ってどうして「若者を叩きなおそう」しか言わないんだろう。
どうして自らを厳しい環境に置こうとしないんだろう。

若者は苦労しろ、おれたち老人は高みの見物だぜ。

これが「立派な日本人」の言うことかねえ。
ああ、ご立派だこと。


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2020年8月11日火曜日

ドラえもん日本旅行ゲーム

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どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ


新型コロナウイルス感染者が増えている今、GoToキャンペーンとやらが始まった。
もちろんぼくは旅行には行かない。

感染するのも感染を広めるのも嫌だし、なにより出不精だからだ。
コロナ関係なく旅行にはあまり行かない。

そのかわりというわけでもないが、『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ』を買って七歳の娘と遊ぶ。

これぞ新しい生活様式の旅行だ。



サイコロのようなルーレットを回し、日本全国の都市の中からランダムに決められた目的地を目指す。
目的地は常に三つあるのでいちばん近いところを目指せばいい。
目的地に到達するとカードがもらえる。
カードの中には「ひみつ道具」が書いてあるものがあり、それを使うと、たとえば「4マス以内の好きなマスに移動する」といった効果がある。
最終的に所持しているカードの多いプレイヤーが勝ち。

『桃太郎電鉄』から、お金と物件と貧乏神をなくしたようなゲームだ。
(ちなみに「ミニ」じゃないほうはお金の要素もあるらしい)

ゲームバランスはなかなかいい。
目的地が三つあるので、どのプレイヤーもそこそこ目的地に到達できる。
「2か4か5が出たら目的地に到達できる」みたいな状況になるので、
「何回やっても目的地にぴったり止まれないー!ウキーッ!」みたいなことも起こりにくい。

また、カードの少ないプレイヤーが多いプレイヤーからカードを強奪できる「ふっとばし」というルールもあるので、前半で負けていても十分逆転は可能。

モノポリーや桃鉄のように序盤でほぼ勝負が決してしまうということもない。
何度かやったが、最終的には必ず僅差になる。



不満なのは、せっかくの「日本旅行ゲーム」なのに地名が身に付かないこと。

桃鉄の場合は目的地が「高知」とかになるので、遊んでいるうちに自然に都市の場所を覚えられる(おまけに物件を買う際に名産品も覚えられる)。

ところが『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム』は、目的地には大きく「中華まんドラ」と書かれていて、地名は目的地カードのすみっこに小さく「横浜」と書いてあるだけ。

だから子どもは「中華まんドラ」を探す(中華まんのコスプレしたご当地キティみたいなドラえもん)。
何度かやっているうちに「中華まんドラはここ!」と覚えるようになるが、「横浜」の場所はいっこうに覚えられない。

ご当地ドラえもんキャラ名と地名を逆にしてくれよ。
そしたら遊びながら地名を覚えられるのに。


しかもご当地ドラのチョイスが微妙なんだよね。

神戸は「セーラードラ」とか。なんじゃそりゃ。

かぼすドラ? 徳島だっけ? とおもったら大分だったとか(徳島はすだちだった、すまん)。

りんごドラ? ああ青森やね。あれっ、ないぞ。えっ、青森じゃなくて長野!? とか。(これはぼくは悪くない。りんごといえばふつう第一にくるのは青森だろ!)

あと神奈川や新潟や茨城のカードは二枚あるのに鳥取や島根や富山や福井や群馬は一枚もないとか。
バランスどうなってんだ。


2020年8月7日金曜日

【読書感想文】歳とってからのバカは痛々しい / 安野 モヨコ『後ハッピーマニア』

後ハッピーマニア 1

安野 モヨコ

内容(Amazonより)
かつて、ハッピーを追い求めあまたの男たちと20代を暴走した女がいた。彼女の名はカヨコ(旧:シゲカヨ)。恋に恋した時代もあったけど、フツーでまじめな男タカハシと結婚し、気づけばまさかの15年。だが…しかし!!カヨコにぞっこんだったはずのタカハシから、突然「好きな人と付き合いたい」と離婚を突きつけられる……!45歳、専業主婦。子供なし、スキルなし、金なし。別れたくないのは、愛してるから? 生活を失いたく

『ハッピーマニア』の続編。
前作の約15年後の話。

いやあ、『ハッピーマニア』はおもしろかったなあ。
当時、シゲタカヨコというキャラクターは革新的だった。

男のぼくにとって、シゲタカヨコの行動原理は衝撃的だった。
「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」というセリフのインパクトの強さよ)

まったく理解不能……とおもうと同時に、ああなるほどと腑に落ちた。

一部の女性の行動がまったく理解できなかったんだけど、そうかあの人はシゲタみたいな人なのか! とおもって見るようにしたらいろいろと合点がいった。

そうかそうか。
恋愛は「素敵な相手」を得るための手段かとおもっていたけど、目的ととらえている人もいるのか……。

あと、恋愛は「自分をより高いステージに連れてってくれるもの」という発想も、まず男にはない。
男の恋愛は短絡的なので「いい女とヤりてえぜ」としかおもっていなくて、それ以上でもそれ以下でもない。
男が恋愛によって得たがるのは「女」だけど、女が求めるものは「男」だけじゃないんだ……。

もちろんシゲタカヨコは漫画のキャラクターなので極端な価値観の持ち主だけど、ぼくにとってはまったく理解不能の女心をほんのちょっとだけ理解させてくれた(ような気がする)存在だ。

あと東村アキコの『東京タラレバ娘』もぼくが女性の恋愛観を把握するための参考図書なのだけど……『ハッピーマニア』と『タラレバ娘』が参考図書って相当歪んだ見方だな……。


それはそうと、好きだった漫画の続編が読めるのはうれしい。
よくぞ続きは書いてくれた。
(ところで『働きマン』の続きはどうなったの……)



前置きが長くなったが、さて『後ハッピーマニア』。

理想の男を求める終わりなき旅を続けていたカヨコも45歳。
まあいろいろありながらもタカハシとそこそこの結婚生活を続けていたのだが、突然タカハシから離婚を切り出される……というショッキングなオープニング。

まさかというかさもありなんというか。

しかしなあ。
ひどいぜタカハシ。

カヨコはもちろんいい妻ではないけど、そんなことは誰もが知るところで、タカハシだって当然承知の上で結婚したわけで、それなのに45歳になってから離婚してくれだなんてあまりにひどい話だ。

まじめな女に目移りするって、そんなことは20年前に済ませておけよ……。
そりゃないぜタカハシ。
おまえがそんな薄情な男とはおもわなかったぜ。

フクちゃんもヒデキもみんな(田嶋以外)それぞれ結婚というものに対して苦悩を抱えていて、それぞれ事情はわからんでもないのだが、タカハシだけは理解できん。
シゲタカヨコに見切りをつけるタイミングはなんぼでもあっただろうに。

前作ではいちばん常識人に見えたタカハシが、今作だといちばんのダメ人間に見える。



まあまだ物語がはじまったばかりなのでこれからどうなっていくかわからないけど……。

あれだね。
若いときのバカは笑い飛ばせても、歳とってからのバカは痛々しいだけだね。

登場人物のやっていることは『ハッピーマニア』も『後ハッピーマニア』も大きく変わるわけじゃないのに、20代がやっていたら「バカやってんなー」と軽く笑い飛ばせることでも、40代だと「いや……これは……ダメでしょ……」って深刻に受け取ってしまう。

たいがいのことはそうだね。
ケンカでも軽犯罪でも不貞でも破局でも失業でも、20代でやるのと40代でやるのでは受けるダメージがぜんぜんちがう。
40代だと、すべてが「もう取り返せない」になっちゃう。

ほれたはれたで生きていけない。
老後とか親の介護の問題とかも考えなくちゃならない。

ぼくは今、結婚したときのシゲタカヨコと、離婚を切り出されたときのシゲタカヨコのちょうど間ぐらいの年齢だ。

たぶん、ここからの大きな進路変更はむずかしい年齢。

うーん、家庭を大事にしなきゃなあ。
まさか『ハッピーマニア』の続編を読んでこんな感想を抱くとはおもわなかったぜ。


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