2020年5月21日木曜日

【読書感想文】復興予算を使いこむクズ / 福場 ひとみ『国家のシロアリ』


国家のシロアリ

復興予算流用の真相

福場 ひとみ

内容(e-honより)
なぜ復興予算が霞が関の庁舎や沖縄の道路に使われたのか―流用問題をスクープした記者が国家的犯罪の真相に迫る!小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作。

伊兼 源太郎『巨悪』という小説に復興予算流用の話が出てきて、興味を持ったので買ってみた。

2011年の東日本大震災の復興予算として5年で19兆円の国家予算が組まれ、そのうち10.5兆円が増税によってまかなわれることになった。
昨年の消費税増税は大きな話題になったが、そのときの増税はさほど大きな話題にならなかったはずだ。ぼくもニュースで見たが「まああれだけの震災、復興には途方もない金がかかるだろうから仕方ないな」とおもった記憶がある。

ところが。
復興予算はじっさいにどう使われたのか。
――目を疑った。復興に関する事業だけでまとめた予算書のはずなのに、復興と関係のない事業のオンパレードではないか。これが本当に復興予算なのだろうか。

内閣府
「金融庁職員の基本給」5205万円
「子供のための金銭の給付」(子ども手当)240万円
「共済組合負担金」1006万円うち「長期負担金」(年金)に691万円

文部科学省
「国立大学運営費交付金」(北海道大~琉球大まで)56億5484万円

法務省
「検察運営費」2527万円

外務省
「アジア大洋州地域外交」4382万円

財務省
「荒川税務署他2件の庁舎整備」5億3384万円

厚生労働省
「日本社会事業大学」(東京都清瀬市)の改修費用3億2293万

国土交通省
「小笠原諸島の振興開発事業費」6億8000万円
「北海道開発事業費」118億8150万円

防衛省
「航空機購入費」25億484万円

 ぱらぱらと一覧するだけでも、北海道や沖縄、小笠原諸島と、事業名に記載された地名は、およそ被災地からかけ離れた、無関係な地名ばかりだった。そのほかも、被災地や復興とは、見るからに関係のなさそうな事業ばかりが羅列されている。
ひどい。
めちゃくちゃだ。復興予算がわけのわからないところに使われている。
国民が「被災した人を救うためなら仕方ない」と自らも苦しいのをこらえて受けいれた増税分が、防衛省の航空機の購入費に使われているのだ。大犯罪じゃないか……というのがふつうの感覚だろう。

ところがこれが犯罪じゃないのだ。
「耐震工事」だとか「復興を世界にアピールする」などの名目さえ挙げれば、まったく検証されることもなく復興予算を使えたというのだ。信じられない。
理屈と膏薬はどこにでもつく。そんな理屈は何の意味もない。

百歩譲って、被災地の復興に使って余ったから他の用途に使わせてもらったというならまだ理解はできる。
それでも許せんけど。
だが事実はもっとひどい。
 前述の通り、復興交付金は、もともと被災した地方自治体が「従来の補助金のような細かい制限や縛りのない、自由に使える財源が欲しい」と要望して実現した予算で、初年度は3次補正で1兆5600億円が計上された。
 この復興交付金の1次配分額が公開された2012年3月2日、交付対象となる被災地ではどよめきが走った。市町村が申請した額のわずか6割程度しか、交付が認められなかったからだ。
 石巻市はこの復興交付金に防災無線整備事業を要望したが、「緊急性が乏しい」と配分から外れていた。宮城県の栗原市、大郷町、加美町などは、配分額はゼロだった。
「復興庁ではなく『査定庁』になっているのではないか」
 宮城県庁で開かれた記者会見で、村井嘉浩知事は怒りを露わにした。
 それも無理はない。宮城県では、津波浸水域の県道整備などは交付金が一切認められず、ゼロ回答だったからだ。知事は、「前に進もうとしているのに、国が後ろから袖を引っ張っている」と強い不満を表明した。
被災した自治体にはなんのかんのと理由をつけて金を渡さず、一方で国家事業であればクールジャパンだのスカイツリーだのわけのわからぬ事業にじゃぶじゃぶ復興予算を使う。

東北では仮設住宅に住んでいたり、元の生活がまったく戻らない人も大勢いる中で、復興予算が「国会議事堂の電灯をLEDに変える」なんてことに使われていたのだ。

許せない。
人でなし、という言葉が頭に浮かんだ。

この予算案を認めた人間は、法律的に問題がなければセーフ、という考えで動いたんだろうか。
でも地震で深刻な被害にあった地域の復興を後回しにして復興予算で国会議事堂の電灯をLEDに変える、なんてまともな人間なら誰だってやっちゃいけないことだとわかる。
法律に違反しているかいないかの問題じゃない。人間としてぜったいにやっちゃいけないことだ。
風上にも置けない。

でもそれが堂々とおこなわれていた。
一件二件ではない。いろんな省庁でいろんな名目で使われていた。

利権の奪いあい、省庁間の綱引き、天下り先の法人への便宜。そんなくだらない理由で、復興予算が使われた。



 被災地より国の施設が優先されたのには、霞が関の事情があった。老朽化したり、建て替え計画のあった国の行政施設は、財政難のあおりで歳出削減される傾向にあったため、改修計画があっても後回しにされていた。
 そこに現われたのが、復興特別会計だった。歳出に上限のある一般会計とは異なり、「防災」というキーワードに当てはまれば、打ち出の小槌のように予算が出るという願ってもない新しい財布が登場した。復興予算が被災地外でも使えることに喜んだ各官庁がここぞとばかりに、国の施設を最優先して復興予算に群がったのである。
 もちろん、耐震性の低い施設の改修をすることは、必要なことだ。しかし、被災地にいち早く復興予算が行き渡っているとは言えない状況で、被災地を置き去りにしたままで、被災地とは関係のない場所に多くの復興予算が投じられているのは、優先順位を間違えているとしか言えないだろう。
こんなの、詐欺の中でも相当悪質なものだ。
「投資話を持ちかけて100万円をだましとる」と「孤児のための募金として集めた100万円をふところに入れる」だったら、ほとんどの人は後者のほうがより悪質だと感じるだろう。被害額は同じでも。
人の善意につけこんで金をだましとるなんてクズ中のクズのすることだ。
復興予算の流用はそれと同じだ。いや、税金という形で強制的にとっている分、より悪質かもしれない。

そんなクズ中のクズ行為が各省庁でまかりとおっていて、しかも誰も罪をつぐなっていない。罪を罪ともおもっていない。



復興予算が他の用途に使われていることが明らかになり、大きな問題になった。

(だがはじめはメディアも見て見ぬふりをしていた。復興予算から新聞やテレビへの広告費も出ていたので、彼らも流用の利益を享受していたのだ。だから大きな声では非難できなかったのだろう)

当時下野していた自民党は、政権与党だった民主党の責任だとして強く責め立てた。あたりまえだ。
ところが。
 自民党政権が誕生して以降は、アベノミクスや国土強靭化による景気回復への期待感が注目された。一方で復興予算の流用は、民主党政権時代の負の遺産として過去のものとされ、ほとんど話題に上らなくなった。こうして、新聞・テレビ等メディアからの批判も次第にトーンダウンしていく。
 そして、奇妙なことが起きる。
 凍結されたはずの4号館の改修について、2013年度予算の一般会計「耐震対策など施設整備費」名目として、17.5億円の予算が復活したのだ。同年9月には入札も無事終わり、工事が始まった。何の議論もないままに、である。
 つまり、自民党が「国土強靭化」と題する公共事業復活を宣言するなかで、「復興予算流用」として批判された4号館の改修は、しれっと復活したわけだ。
 4号館だけではない。復興予算からの流用と批判された復興や防災を名目にした公共事業は、政権交代によって大手を振って認められるようになった。
野党のときは民主党を攻撃する材料に使った自民党は、自分たちが政権をとった途端に復興予算を流用させた。

そもそも復興予算を他の用途に使えるようにしていたのは自民・公明のはたらきかけによるものだったのだ。
 実は、政府・民主党が初めに提案していた政府案は、復興の範囲を被災地に限定していた。
 同法案は、おもに民主党政調を中心に作られていたもので、当時の民主党政調は、玄葉光一郎議員など被災地議員が中心にいたこともあってか、この時点では、あくまで被災地を前提として考えていたことが窺える。
 ところが、当時野党であった自民党がこの案の破棄を要求する。自民党が対案として提出していた法案の趣旨は、政府案の復興対策本部の設置では十分に機能しないとして、もっと迅速に強力な権限を持つ「復興再生院」の設立を求めていた。
 この法案破棄の要望を、政府はあっさりと呑んでしまう。こうして、修正案は3党合意(民主党、自民党、公明党)を経て6月20日に成立した。
 しかし、最終的にまとまった修正案を見てみると、自民党が提案していた復興再生院構想が受け入れられたわけではなかった。その代わりに自民党の要望として何が受け入れられたのかというと、それは被災地外への流用であった。
自分たちが「復興予算は他の用途にも使えるようにしろ!」と言っておきながら、他の用途に使われていることが明るみに出て世論の反発を招くと、世間と一緒になって政府・民主党を攻撃する。
そして自分たちが政権を奪還すると、しれっとまた他の用途に流用する。とんでもない悪党だ。

民主党は無能だし自民公明は邪悪。予算の中身を見ずに法案を通した他の国会議員も怠惰。

関わった人間はみんなクズだが、この件でいちばんのクズは予算を他の用途に使えるような文言をねじこんだ官僚だ。
国会議員が無能だったからうまく利用されたのだろう。



胸糞悪くなる記述ばかり。

だが、ちょっとクールダウン。
「復興予算を他の用途に使った政治家、官僚はクズだ」と高みから非難するのはかんたんだ。

けれど、自分が中央省庁にいて同じ立場にあったらどうしただろう。
「これができたら仕事がうまく進むのにな。でも予算がおりないんだよな」と常々おもっていることがある。
「復興予算ならほとんど審査なく予算がおりるよ」という話を耳にする。
さすがにそれはまずいんじゃないの、と一応はおもう。
「他の省庁でもみんなやってることだよ」と言われる。
「『クールジャパンによる日本ブランド復興経費』や『東京スカイツリー開業前プレイベント』や『途上国への援助』にも復興予算は使われたんだよ。あんたんところが申請しなかったらもっとどうでもいい事業に使われるだけだよ」と言われる。

それでも「いや、ダメなものはダメです! 人の道に外れてることですよ!」と上司に対して言えるだろうか。

……たぶん無理だ。
積極的に「申請しよう!」とまでは言わなくても、隣の人が申請しようとするのを止めることまではしない。

結局、ぼくも同類なのだ。
立場が同じなら同じようなクズ行為をはたらいた。


結局、これこそがこの問題の本質なのだ。

誰かひとり巨悪がいて「復興を口実に税金を好き勝手使ってやろうぜ!」と企んだわけではない。
「どうせ被災地にはすぐ渡らないんだし。だったらこっちの必要な事業で使おう」
「あっちの事業で使うんならこっちで使ったっていいよね」
「べつに私腹を肥やすために使うんじゃないんだし。国の事業なんだし。それで国が豊かになれば被災者にとっても利益になるし」

というちっちゃなズルの積み重ねで、何兆円もの税金が消えたのだ。

なんとも日本的な悪事ではないだろうか
官僚主導で罪の意識もないまま堂々と悪事をはたらき、ばれても誰も責任をとらない。方針を改めもしない。そのうちみんな忘れてしまう。
被災地は復興しないまま、復興予算だけがどんどん減っていく。

この件、今なお誰も責任をとっていない。
当時の与党だった民主党は下野したが、裏で糸を引いていた自民公明と官僚は今も国の中心でのさばっている。

さて今。
コロナウイルス騒動でたいへんな状況になっている。
金銭的な被害の大きさで言えば東日本大震災以上だろう。

もうちょっとしたら
「コロナで被害を受けた人たちを救うために財源が足りません!
 増税してみんなで苦しみを分かちあいましょう! 反対するやつは被害を受けた人が苦しんでもいいっていうのか! 絆!」
なんてことを言いだすやつが出てくるんじゃないだろうか。
で、そのお金がクールジャパンやら戦闘機購入やら公務員宿舎やらに使われるんじゃないだろうか。
今度こそ、ちゃんと監視しておかないといけない。

2020年5月20日水曜日

【読書感想文】今こそベーシック・インカム / 原田 泰『ベーシック・インカム』

ベーシック・インカム

国家は貧困問題を解決できるか

原田 泰

内容(e-honより)
格差拡大と貧困の深刻化が大きな問題となっている日本。だが、巨額の財政赤字に加え、増税にも年金・医療・介護費の削減にも反対論は根強く、社会保障の拡充は難しい。そもそもお金がない人を助けるには、お金を配ればよいのではないか―この単純明快な発想から生まれたのが、すべての人に基礎的な所得を給付するベーシック・インカムである。国民の生活の安心を守るために何ができるのか、国家の役割を問い直す。
日本国憲法第二十五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と記されている。いわゆる生存権だ。

生存権を保障するためにいろんな制度がある。
その代表的なものが生活保護制度だ。生存権を守るための最後の砦といってもいい重要な制度だ。

ところが生活保護はあまり評判がよろしくない。
不正受給は論外にしても、きちんと受給条件を満たしてもらっている人に対しても風当たりは強い。
やれもらいすぎだ、やれ無駄遣いするな、やれ贅沢するな。
まがりなりにも働いて納税をしているぼくとしても、理性では「生活保護も当然の権利」とわかっちゃいるけど、本音を言うと「働かずに我々の払った税金で暮らしてるんだからつつましく生きろよ」という気持ちもある。

だいたいの人の生活保護受給者に対する気持ちは、あわれみとやっかみと恨みと蔑みの入り混じった複雑なものなんじゃないかな。
初対面の人に「お仕事は何されてるんですか」と訊いて「会社員です」と言われたときと「生活保護で暮らしています」と返ってきたときで同じ表情をすることはできない。

「生活保護を完全になくせ。病気やけがで働けなくなっても地震で財産をすべて失っても自己責任だ! 金がなくなったらのたれ死ね!」
という極端な考えの人はほとんどいないだろう。
そこそこ生きてきた人なら、誰しも努力だけではどうにもならない不幸に陥る可能性があることを知っている。

だけど生活保護受給者に向けられる目は厳しい。
それは「働いていないくせに自分とほとんど変わらない(または自分以上の)暮らしをしているのが気に入らない」に尽きるとおもう。

たとえば生活保護受給者がぼろぼろのアパートで一日一食、家財道具は布団一枚きりという暮らしをしていたら誰も目くじらを立てない。
テレビとスマホを持って寿司を食ったりパチンコをしたりしているから白い目で見られるのだ。
 要するに、日本の一人当たり公的扶助給付額は主要先進国のなかで際立って高いが、公的扶助を実際に与えられている人は少ないということになる。これは極めて奇妙な制度である。日本に貧しい人が少ないわけではない。同志社大学の橘木俊詔教授は、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は人口の一三%と推計している(『格差社会』一八頁、岩波新書、二〇〇六年)。ところが、実際に生活保護を受けている人は二〇〇六年でわずか一・二%である(国立社会保障・人口問題研究所ウェブサイト「社会保障統計年報データベース」第9節「生活保護」の第二七一表「被保護実世帯・被保護実人員・保護率」。埋橋前掲論文との値の違いは調査年の違いによる)。
 私は、日本も、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカのように給付水準を引き下げて、生活保護を受ける人の比率を高くすべきであると考える。これまで日本で奇妙な制度が続いてきたのは、おそらく、高い給付水準のままで実際の支給要件を厳しくし、保護を受ける人の比率を下げていたほうが、給付総額が減るという財政的要請があるからだ。しかし、今後、六十五歳以上の無年金者が続出するなかで、現在の制度は維持できないだろう。六十五歳以上の人は、支給要件の一つである「働けないこと」を容易に証明できるからだ。日本独自の制度をやめて、グローバルスタンダードに合わせるしかないだろう。
日本の生活保護受給額は諸外国と比べて高いのだそうだ。だけどもらっている人は少ない。
それは制度のことをよく知らなかったり、役所の水際作戦で本来もらえるべき人がもらえなかったり、生活保護をもらうのは恥ずかしいという意識があったりするから。

結果、「一生懸命働いている人よりも生活保護をもらっている人のほうが収入が多い」「同じような条件なのに片方は生活保護で月二十万円もらえて片方は〇円」というアンバランスな状況になっている。
これはどう考えたっておかしい。

この不公平をなくすための制度が、ベーシックインカムだ。



ベーシックインカム(以下BI)とは、所得にかかわらず国民全員に一律で同じ額を国家から支給する制度のことだ。

たとえばBIを月七万円としたら、まったく働かなくても月に七万円もらえる。月に十万円稼げば、給与十万円+BI七万円が所得となる(給与からは税金が引かれるが)。
 基本的にすべての人の年間所得は、「自分の所得×〇・七+BI八四万」となる。所得のない人も八四万円の基礎所得を保障されるが、自分の得た所得の三割を課税される。自分の所得が二八〇万円になると、その三割の税=八四万円を取られて、基礎所得と税が一致する。
 以下に示すBIは、結婚や扶養などの有無によらずすべての成人に年八四万円のBIを、各自の銀行口座に振り込むという制度である。配偶者や子どもの扶養控除、基礎控除などほとんどの控除を廃止する。子どもにも三万円のBIをその母親の口座に振り込む。基礎年金は廃止し、BIで代替する。厚生年金は、完全に独立採算制の年金に置き換える。
で、著者はいろんな数字を挙げながらBIの実現可能性について検証している。
あくまで机上の計算だが、結論としては「BIは実現可能」だそうだ。
額にもよるが、月七万円程度であればすぐにでも実現できるようだ。
月に七万円あれば、地方に行けば十分生活していける。ちょっとアルバイトして数万円稼げばほどほどの娯楽も楽しむ余裕も生まれるだろう。

もちろん国民全員に月七万円配るわけだから、国家の支出は増える。
ところがBIを導入すれば削減できる支出も多い。
たとえば生活保護費用は必要なくなる。子ども手当や老齢基礎年金や雇用保険も「生きていくために払っているお金」なので、BIに置き換えることができる。
「仕事を生みだすためだけ」におこなっている公共事業もなくすことができる。環境にもいい。
農業、林業、中小企業などのうち採算を上げられない事業を保護するための補助金も、「その仕事に従事する人を食わせるため」のものなのだから、BIがあれば必要なくなる。
このへんをカットすれば、中間層の税率は今と同程度にしたままでBIを導入できるのだそうだ。


すばらしい。
BIの導入には様々なメリットがある。
ぼくが思いつくだけでも、

  • 貧困が減る。特に本人の責によらない貧困(たとえば子どもの貧困)が減る
  • (今よりは)公平になる(働いている人は全員、働いていない人以上の所得を得られる)
  • 犯罪が減る(食うに困っての犯罪がなくなる。食うために犯罪組織に入る人もいなくなる)
  • ブラック企業が消える(「いざとなったらいつでも辞められる」となれば劣悪な環境で働く人はほぼいなくなる)
  • 医療費も減る(体調や精神が不調になったときに早めに休める)
  • 貧困世帯の労働意欲が増す(今の生活保護受給世帯だと働いて収入を得たら生活保護受給額が減らされるので働いても働かなくても総収入はほぼ変わらなかったりする。BIだと働けば働かないより確実に収入が増える)
  • 少子化対策(収入がネックで結婚、出産を思いとどまっている人が産めるようになる)
  • 経済成長につながる(低所得者にお金がまわればその大半は消費にまわる。また中間層も収入が永遠に保障されているなら貯蓄ではなく消費にお金をまわすようになる)
  • 技術的イノベーションが起きる(生活が保障されればリスクをとって革新的なことに挑戦しやすくなる)
  • 都市への一極集中が緩和される(労働に縛られなくなれば家賃や生活費の安い地方への移住が進む)
  • 行政コストの削減(さまざまな補助金や支援制度をBIに一本化できる)
  • 富の再分配になる(高所得者から低所得者への移転になる)
  • 本当に困窮している人が支援を受ける際に負い目を感じにくい(だって全国民がもらってるんだもん)

いいことだらけじゃないか。
「バラマキ政策」というと非難されがちだけど、それは変な条件をつけたり特定の業界の人にばらまいたりするから不公平で良くないのだ。全員にばらまくのはいたって公平だ。

デメリットについても考えてみる。
よく挙げられがちな反対意見(「財源が足りない」「人々が働かなくなる」など)はこの本の中で反証されているので省略するとして、それ以外でぼくがおもいついたデメリット。

  • 仕事によってはなり手がいなくなるんじゃないだろうか
きついから誰もやりたがらないけど、誰かがやらなきゃいけない仕事ってあるじゃない。たとえば原発事故の除染作業員とか。そういうのって今は「食うに困ってる人」で成り立ってるとおもうんだよね。いいか悪いかはべつにして。
BIによって「食うに困ってる人」がいなくなれば、そういう仕事に従事する人がいなくなるんじゃないだろうか。
賃金を上げればいいのかもしれないけど、それは国家財政の負担が増えるということになるので、今度は財源の問題になる。そこまではこの本では考慮されてなかった。
外国人移民にやらせるというのも人道的にどうなんだという気がするし。

  • 非生産的な仕事の成り手が増える
さっきの話と一緒のことなんだけど、人気の仕事ってあるじゃない。プロスポーツ選手とか歌手とか俳優とかYouTuberとか。
多くの人が目指すけど、食っていけないから大半はあきらめてべつの仕事に就く。
ところがBIがあればいつまででも食っていけるから五十歳になっても夢を追いかけて売れない役者生活を続けることができる。
それが本人にとって幸福かどうかはわからないけど、少なくとも社会にとっては労働力の損失だよね。才能がなくても続けられるってのは。
将棋の奨励会みたいに年齢制限を設けてある業界ならいいんだけどさ。
「BIがあるからまったく働かない」という人はそんなにいないかもしれないけど、「BIがあるから好きなことだけやっていく」人はすごく増えるとおもうんだよね。
やっぱり納税額は減るんじゃないかなあ。

  • 在日外国人への支給
BIの給付対象をどうするか。まあふつうに考えれば自国民全員だよね。
でも日本人なら働かなくても毎月七万円もらえて、日本で働いている外国人からは徴税だけして支給しないってのは不公平な気がする。でもまあそれは現行制度でも同じか。
それより問題は偽装結婚が増えそうなこと。
日本国籍さえ手に入れれば毎月七万円もらえるんだよ。日本人になりたがる外国人がすごく増えるよね。
そしたら、この先結婚する見込みのない日本人が「自分と書類上で結婚できる権利」を百万円で売りはじめたりするとおもう。
BI目当てで集まる人、集める人が増えるとおもうんだよね。日本でだけやればぜったいに。


  • 政府の権力が強くなりすぎる?

これは人によっていいとおもうか悪いとおもうか分かれそうだけど、個人的にはちょっとこわい。
BI導入によって政府は「全国民にお金を与える存在」になる。
もちろんその財源は税金なんだからもらう側が卑屈になる必要はないんだけど、そうはいっても実際問題として「お金を与える側」と「お金をもらう側」だったらどうしても前者の立場が強くなる。
やっぱり財布を握られてるってこわい。政府が誤ったら国民が正さなきゃいけないのに、批判の声が弱まってしまいそうな気がする。


  • 既得権益が失われる

これも人によってメリット/デメリットの評価は分かれることだけど。
いろんな「〇〇控除」「〇〇手当」「〇〇補助金」が廃止されることになれば、当然ながらそこにかかわっていた人の権力が失われる。
「おれの言うことに従ってたら補助金やるよ」と言ってた人が言えなくなっちゃうわけだからね。
完全な公平って権力の入る余地がなくなるんだよね。それってすばらしいことなんだけど、でも今不公平であることで甘い汁をすすってる人は黙ってないだろうね。
消費税に軽減税率を設けることで「政府の言うことを聞く業界は軽減税率の対象にしてやるよ」ってやった(そして新聞業界はまんまと転んだ)ように、権力者は「公平」を嫌うからね。
BI導入にあたっての最大の障壁となるのはここだろうね(そして今の権力が失われるからたぶん実現しない)。


でもBI自体はすごくおもしろい試みだとおもうんだよね。
どっかの自治体とかで社会実験的にやってほしいなあ。海外はやってるとこあるみたいだけど。


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自分のちょっと下には厳しい



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2020年5月19日火曜日

座王


『千原ジュニアの座王』という深夜番組がある。
これがおもしろい。毎週欠かさず観ている。
おおさかチャンネルというのにも入って(無料会員だが)過去の放送分も全部見た。

関西ローカルだとおもうけど、おおさかチャンネルだとどこにいても観られるはずなのでぜひ多くの人に観てほしい。

観たことのない人に説明すると、芸人たちが椅子とりゲームをする。
最初は十人、椅子は九つ。ひとつずつ椅子を減らしていき、最後まで座っていた人が優勝。
もちろんテレビでやるわけだからただの椅子とりゲームではない。

誰かひとりが座れないところまではふつうの椅子とりゲームといっしょだが、座れなかった芸人は座っている芸人の中から誰かひとりを指名して対戦する。
何で対戦するかは、椅子に書かれているお題で決まる。
「大喜利」「写真(写真で一言)」「モノマネ」「モノボケ」「ギャグ」「1分トーク」「歌(メロディにあわせて歌う)」などのお題にくわえ、「寝言」「叫び」「中継」「プロポーズ」「キス」などちょっと変わったお題もある。
椅子に座れなかったほうが先攻、指名されたほうが後攻で対戦。
で、大喜利なら大喜利で対戦し、審査員が勝敗を判定。負ければそこで退場。勝てばそのまま椅子とりゲームを続ける。
最後はふたりが対戦し、勝った方が「座王」となる。



このルール、よくできている。
まず、芸人のいろんな一面を引き出せる。ふだんはギャグをしない人がギャグの椅子に座ってしまったために指名されたり、ものすごく音痴な人が「歌」で対戦するはめになったり。

苦手だからといって弱いとはかぎらないのがまたおもしろい。「モノマネなんかやったことない……」と言いながらめちゃくちゃおもしろいモノマネを披露する人がいたり。
「モノマネならまず負けない」という人が大喜利であっさり負けたりするのも勝負の妙だ。

また、通常ネタを披露して審査される場合、後からやったほうが有利になりやすい。
直近で観たネタのほうが印象に残りやすいからだ。

だが『座王』においては、先攻の勝率のほうが高い。
なぜなら自分でお題や対戦相手を選べるから。
先攻のほうが有利、だが先攻になるということは椅子に座れず対戦しなくてはだならないということ。対戦数が多いほど決勝戦まで残れる確率は低くなる。
じゃあ座りつづけたほうがいいかというと、不得意なジャンルの椅子に座ってしまった場合、不得意なお題で勝負しなくてはならない。

だから座るほうがいいのか、座らないほうがいいのかというのは一概にはいえない。
これも駆け引きが生まれる要素になる(じっさいあえて座らない人もいる)。

ほんとによくできたルールだ。
(ところで、これ十年ぐらい前の大晦日か正月にテレビ東京でやってたよね? かすかに記憶にあるのだが。
 それがなぜ最近関西テレビの番組になったのかの経緯は謎だ。
 テレビ東京の番組には千原ジュニアも出演していたのでパクったのではなくフォーマットを持ってきたのだとおもうが)



この番組では笑い飯の西田さんが圧倒的な強さを誇っているが、ロングコートダディ堂前さん、ミサイルマン岩部さん、R藤本さんなど、他の番組ではあまり観ることのない芸人が『座王』では大活躍しているのもおもしろいところだ。
実力があればどんどん起用される。
R藤本さん(常にベジータのモノマネしてる人)なんか、はじめはたぶん「ためしに出してみた」みたいな感じだったとおもうのだが、初登場からいきなり二連覇して意外になんでも器用にこなせるところを見せつけ、今ではほぼレギュラーみたいな扱いになっている。
まさに実力で勝ち取った椅子、という感じだ。

ミサイルマン岩部さんは序盤はあまり強くなかったのだが、対戦以外のところでも武将キャラを押しだしているうちにそのキャラが認知され、座王になくてはならない存在になった(そして対戦でも勝つようになった)。
対戦だけでなく、椅子取り部分や敗退後のコメントで活躍する芸人もいて、見どころが多い。



『座王』、六歳の娘も大好きだ。
はじめはぼくに付き合って観ていたのだが、最近は娘のほうから「座王観よう!」と誘ってくる。

以前、『座王』の中で「この番組は意外にも子どもにも人気だ。たぶん子どもは椅子取りゲームパートだけを楽しんでいるんだろう」と語られていたが、そんなことはない。
うちの娘はちゃんと対戦やコメントを楽しんでいる。
(とはいえ大喜利やモノマネなんかは理解していないことのほうが多いが)

何度も観ているうちに各芸人のキャラをおぼえて
「えー、さいしょから西田さんに挑戦するなんて!」
「ベジータは1分トーク嫌いやから座らんかったわ」
「この人はギャガ―やから先攻が勝つんちゃうかな」
などと言いながら観ている。

ちゃんと駆け引きを楽しんでいるのだ。たぶんテラスハウスとかを観るのと同じ楽しみ方をしている。
テラスハウス観たことないから知らんけど。

2020年5月18日月曜日

【読書感想文】火の鳥と関係なさすぎる火の鳥 / 和田ラヂヲ『和田ラヂヲの火の鳥』

和田ラヂヲの火の鳥

和田 ラヂヲ

内容(e-honより)
手塚治虫の『火の鳥』をテーマにしたギャグ漫画爆誕!和田ラヂヲの世界に火の鳥が舞い降りる!?
驚いた。
これが手塚プロダクション公式のトリビュート作品だというのだ。
いったいどんな汚い手を使ったんだ。
なにしろ手塚治虫の不朽的名作『火の鳥』とはぜんぜん関係もないのだ。

手塚治虫版『火の鳥』といえば、人類誕生から人類滅亡そして新たな文明の誕生までを扱った壮大なスケールのドラマ。原始宗教、仏教、戦争、略奪、宇宙進出、ロボットと人間の境界、クローン技術といったテーマを横軸、そして火の鳥に象徴される永遠の生命を縦軸に織りなされる人間模様を描いた漫画界の金字塔だ。
人はなぜ生きるのか、なぜ苦しまなくてはいけないのか、人間とは何なのか、なぜ争うのか、我々はどう生きるのか。そういった問いを自分自身に投げかけずにはいられない。

ところが『和田ラヂオの火の鳥』のスケールはミクロもミクロ、一冊あわせても手塚治虫『火の鳥』の1コマ分ぐらいの情報量しかない。

たとえば第1話『訪問編』。
サラリーマンが休日に新婚ほやほやの同期社員の新居を訪れるという話だ。そのときに持っている手土産の紙袋に書かれている絵が、火の鳥。
「火の鳥」要素はそれだけだ。

笑った。ぜんぜん関係ねえ。

もう一度書くが、よくこれで手塚プロダクションの許可をとれたものだ。
ぜんぜん関係ないのが逆によかったのか。
それにしても大丈夫か手塚プロダクション。ブランドマネジメントはちゃんとできてるのか。



しかしおもしろかった。
全18編が収録されているが、ほとんどすべておもしろかった。

和田ラヂヲ作品は久々に読んだが、ちっとも衰えていない。
ギャグ漫画って作者が歳を重ねるごとにパターン化したり説明過剰になったりしがちなんだけど、和田ラヂヲ氏に関してはむしろおもしろくなっている気がする。シュールすぎたのが、いい具合に現実よりになってきたのかもしれない。

中でもぼくが好きだったのは
鮨を解体する鮨屋の奮闘を描いた『修行編』
ピラミッド建設の傍ら小説執筆に励む労働者の苦悩を描いた『文明編』
再就職初日に寝坊してしまった男をスリリングなタッチで描く『再就職編』
そして一夜にして弥生時代から縄文時代に変わる時代の変遷を描いた『時代編』だ。

特に『時代編』は良かった。
縄文時代の人間がメガネをかけている、家に表札がある、公民館に集まっている、やけに民主的、次の時代の流行を知っている、とってつけたように火の鳥を出してくるなどツッコミどころしかない。


もしかすると、この情報化社会で密室で不透明な決まり方をした「令和」という元号に対する痛烈な風刺がこの漫画にこめられていたり……はしないね。

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2020年5月15日金曜日

おしりたんてい にがしませんよゲーム

『おしりたんてい にがしませんよゲーム』(タカラトミー)を買い、六歳の娘と遊んでいる。


幼児向けのゲームにしてはかなり奥が深く、大人も夢中になってしまう。
レビューを書こうとおもう。
(やったことのない人向けというよりちょっとだけやった人向け)

おしりたんていゲーム第1作『おしりたんてい しつれいこかせていただきますゲーム』もよくできていたが、『にがしませんよゲーム』のほうがルールがシンプルなのに考える要素が多くておもしろい。

ちなみに『にがしませんよゲーム』の1セットで
『にがしませんよゲーム』
『かこみますよゲーム』
『おしりをさがせ』
の3種類のゲームができる。

『かこみますよゲーム』『おしりをさがせ』は駆け引きが発生する要素がほとんどないのでぼくも娘もすぐに飽きてしまった。
ここでは『にがしませんよゲーム』について書く。



詳しい遊び方は以下の公式動画を見てもらえればだいたいわかるとおもう。


だが、公式ルール通りの遊び方だとあまりおもしろくない。
何度かやってみたがほぼ必ず「たんてい」側が勝つ。「かいとう」側は三叉路、四つ角の「いいカード」が連続して出ないと勝てないので、ほぼ運任せのゲームになってしまう。

小さい子ならそれでも楽しめるのだろうが、六歳が遊ぶにはものたりない。中年のおじさんにはもっとものたりない。

そこで、勝手にルールをアレンジすることにした。

プレイヤーは交互に山から1枚ずつカードを引いて出す

となっている部分を

プレイヤーは3枚ずつカードを保有し、その中から1枚ずつ出す。使用したら1枚ずつ山から補充する。

とした。
これだけで、駆け引きの要素が深まってぐっとおもしろくなった。
3枚あることで、先の展開をある程度計算できるようになる。同時に相手もパターンが増えるので、戦略的な思考が必要になる。

たとえば
「弱いカードを序盤に北側に捨てて、強いカードが溜まったら一気に南側に勝負をかける」
とか、
「たんていが妨害するために置いたカードを利用して逃走経路にする」
といった作戦が立てられるようになる。

まちカードには大きく分けて「袋小路」「一本道」「三叉路」「四つ角」の4種類がある。
「たんてい」にとって「四つ角」、「かいとう」にとって「袋小路」はマイナスにしかならないカードだ。
公式ルールの「1枚ずつ引いて出す」だと、このカードが出たらそれだけで致命的(特に「かいとう」が中盤でこのカードを引いたらほぼ負け確定)だが、3枚保有ルールならなんとかなる。
序盤なら重要でないところに捨てればいいし、終盤なら使わずに持っておけばいい。



また3枚保有ルールがいいのは、ハンディキャップをつけやすいところだ。

このゲーム、「かいとう」側で勝つ方がむずかしい。
「たんてい」は相手が作った道を順番にふさいでいくだけで勝てるが、「かいとう」はそれでは勝てない。先の展開を読みながらカードを置いていく必要がある。
初心者は盤面中央から順番に道をつなげていくが、これだとまず勝てない。
「はくぶつかんカード」の隣には「たんてい」側がカードを置けないことを利用して、あえて中央にはカードを置かず、先に端のほうの道をつくっていく必要がある(とはいえ他のカードの隣にしか置けないというルールがあるのでそれも容易ではない)。

だから娘が「かいとう」でぼくが「たんてい」のとき、3枚ずつだとまずぼくが勝つ(手加減はしない)。
しかし娘は3枚、ぼくが2枚というハンデをつけるといい勝負になる。もっと力量の差があるなら4枚対2枚にしてもいい。

ぼくは、子ども相手だからってできるだけ手は抜きたくない。このゲームにかぎらず。
将棋でも、わざと無意味な手を差すとか自分の駒をただでくれてやるとかはしたくない。
かといって全力を尽くすと連勝してしまうので、それはそれでつまらない。
だからハンデをつけられるゲームがいい。



『にがしませんよゲーム』、シンプルなルールながら奥の深いゲームなのだが、ひとつ不満がある。

「まちカード」が36枚しかないことだ。
盤面は7×7、中央の1マスは「はくぶつかんカード」を置くことに決まっているので、「まちカード」を置けるのは48マス。
つまり「まちカード」のほうが少ないのだ。

勝負が白熱してくると、終盤にカード切れを起こす。
「かいとう」は逃げられないし、「たんてい」は捕まえられない。
しょうがないのでこうなったら引き分けということにしているのだが、どうももやもやする。

かいとうはまだ街の中にいるのに捕まえられないのだ。
あと一歩のところまで犯人を追いつめたのに、突然上から「これ以上の捜査はやめろ」と命じられたようなものだ。
もしかして署長の身内が犯人、それとも有力政治家に非常に近い人物が関わっているので圧力が……なんて不穏な想像をしてしまう。
いっそかいとうに逃げられたほうがまだあきらめもつくぜ。