2019年7月5日金曜日

【読書感想文】政治の世界の不透明さ / 曽根 圭介『黒い波紋』

黒い波紋

曽根 圭介

内容(e-honより)
元刑事・加瀬将造(38)は、借金取りから逃げ回るロクデナシの日々を送る。ある日、子どもの頃に家を出ていった父親が、孤独死したとの知らせを受ける。加瀬は父親が住んでいたボロアパートを訪ね、金目のものがないかと探すと、偽名で借りた私書箱の契約書があり、何者かが毎月30万円を送金していることを知る。さらに天井裏には古いVHSのビデオテープが隠されていた。再生した映像に映っていたのは…。

曽根圭介作品を読むのは六冊目。
……なのだが、これは期待外れだった。

中盤まではおもしろかったんだけどな。

死んだ父親の遺品を整理していたら、「毎月三十万円を誰かから送金されていた」記録の残る通帳と、犯罪行為を記録したビデオテープを発見する。
で、それらをもとに話が進んでいくので「なるほどこの三十万円とビデオテープの出所が最後につながるのね」と思いながら読んでいたら……。

つながらないんかい! まったくの別案件かい!
途中で国会議員、革命家グループ、右翼団体、冤罪事件などいろんな要素が出てくるのだが、それらもほとんどつながらないまま終わってしまう。
えええ……。
「最後で明らかになる意外な真相」みたいな感じをすごい出してたのに……。

曽根圭介作品、文章はさほどうまくないけどプロットはしっかりしていてそこが好きだったんだけどな。
これは風呂敷の畳みかたがへただったなあ。



この小説内では殺人、脅迫、暴力などが描かれるが、そのへんの描写はべつにこわくない。
おそろしいのは「政治の世界」だ。
もちろんこの作品はフィクションだが、「政治の世界ならこれぐらいのことがまかりとおってもおかしくないな」とおもわせる説得力がある。

ぼくもそうだけど、政治家と個人的にかかわったことのない人にとって政治家稼業ってまったく得体が知れない世界じゃないですか? 政治家という人物はよく見るのに、裏で何をやっているかまったく知れない。
その不透明さは、もしかしたらヤクザ以上かもしれない。

『黒い波紋』はそういう怖さを書こうとした作品だったのかもしれない。
そうだとしたらすごくおもしろい試みなんだけど、それにしては余計な要素が多すぎるんだよなあ。

いろんな要素をちりばめすぎて散漫な印象になっちゃったな。


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2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


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土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



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2019年7月3日水曜日

おでんというドラマ


おでんの大根が好きだ。

ぼくが五歳になる少し前、「誕生日は何がほしい?」と訊かれて「おでんの大根!」と答えたそうだ。
「あの頃のあんたがいちばんかわいかったわ……」
母はこの話をするたびに遠い目をしながらつぶやく。

それはそうと。
おでんの大根がおいしいことに異論はあるまい。

百万人に「いちばん好きな大根料理はなんですか?」と訊いたら、「おでんの大根」に七十万票ぐらい入るだろう(くだらない質問のくせに母数多すぎない?)。

ちなみに二位はぶり大根だ。たぶん。


ここからわかるのは、みんな、大根そのものの味はべつに好きじゃないってことだ。
おでんの大根の味は大根本来の味じゃない。他の具材から染み出したダシを吸収しているだけ。いってみればスポンジ役。
ぶり大根も同じ。
豚の角煮に入ってる大根も同じ。
大根は他の食べ物の味を吸収させたときにいちばん輝く。名バイプレイヤーだ。

同じくおでんの定番を張っているこんにゃくとは対照的だ。
こんにゃくはあくまで自分が主役。
決して周囲に染まらない。
一時間煮こんだおでんも、半日煮こんだおでんも、こんにゃくの味はほとんどいっしょ。見た目もいっしょ。歯ごたえもいっしょ。決して変わろうとしない。
きんぴらに入っているときと、こんにゃく自体の味は変わらない。
これはあれだ。キムタクだ。
キムタクはどんなドラマに出ていてもキムタクをやっている。バラエティ番組でも映画でもキムタクをやっている。作品の舞台や共演者が変わってもキムタクは変わらない。
こんにゃくも同じだ。どこまでもいってもキムタクはキムタク。こんにゃくはこんにゃく。


よくテレビや雑誌で「おでんの人気の具ランキング」なんてやっているが、一位は必ず大根だ。
二位はたまご。ここまでは不動。
あとは調査対象によってはんぺんだったりちくわだったり牛すじだったりするが、上位のふたりは変わらない。
おでんの主役は大根。こんにゃくは脇役。

名脇役である大根が主役で、蛾の強い大女優キャラのこんにゃくが脇を張っているのだから、おでんはなかなか味のあるドラマだ。おでんだけに。


2019年7月2日火曜日

父の単身赴任


父は、三度単身赴任をしていた。

最初は、ぼくが二歳~三歳のとき。
一年間エジプトに行っていた。
一年間エジプトの地で過ごす父も苦労はあっただろうが、それより幼児ふたりを抱えて(ぼくの姉も四歳ぐらいだった)ひとり日本に残された母はたいへんだっただろう。
祖父母も近くに住んでいなかった。母はよくノイローゼにならなかったものだ(ぼくが知らないだけでなっていたのかもしれない)。

二度目は、ぼくが九歳ぐらいのとき。
「転校するかも」という話を聞いたぼくと姉は、泣いて嫌がった。結果、父がひとりで横浜に行くことになった。
このときは、わりと楽しく単身赴任を受けいれていた。ぼくらは毎日父親に宛てて手紙を書いていたし、たまに父が帰ってくると大喜びした。ゴールデンウィークには父のいる横浜に行って中華街を案内してもらった。

三度目は、ぼくが十五歳のとき。父は東京に行った。
二度目のときとちがって「転校するかも」という話すらなかった。子どもたちの知らない間に父の単身赴任が決まっていた。子どもたちが中高生だったので、交友関係や受験のことを考えると転校はありえないという判断だったのかもしれない。
なにより、当時はあまり家族の仲が良くなかった。

娘も息子も反抗期。両親もすごく仲が悪かった(今は仲がいいけど)。
父が単身赴任をすることに反対する人は誰もいなかった。口には出さなかったが、みんな「せいせいする」という気持ちだったんじゃないかな。
もちろん父への手紙など一度も出さなかった。電話すらほとんどしなかった。父は父で、東京で友人をつくり山登りやゴルフに明け暮れていたらしい。
いない間はそれなりにうまくやっていた。

その分、単身赴任を終えて父が帰ってきたときはそこかしこで衝突が起こった。
父のいない間に「新たな家族のルール」がいろいろできあがっていたのだ。
風呂に入る順番、トイレの順番、何曜日はどのテレビを観るか、休日の朝ごはんは何にするか、電話を使う時間……。
明文化はされていないけれど家族の間で共有されていた「家族のルール」。父が帰ってきたことでそれがすべて狂った。
「いつまでテレビ観てるんだ」「先に風呂入るぞ」父に言われるたびに、ぼくも姉も反発した。母もだ。
「今までは良かったのにダメになる」ことが増えて、ストレスになった。
父は父で「ここはオレの家だ」というプライドがあったのだろう、自分のいない間に決まっていたルールに合わせることを良しとはしなかった。

父が単身赴任をしていたのは一年間だったが、父が帰ってきてから衝突が収まるようになるまでには同じぐらいの時間がかかった。



自分が父親になったことで、当時の父の気持ちもいろいろ想像できるようになった。
その上でおもうのは、やっぱり単身赴任なんてロクなもんじゃねえなってこと。
「家族のメンバーが長期間別居してまた戻ってくる」という制度は家庭に対してとんでもない負荷をかける。
ぜったいにしないほうがいい。

うちの家庭がギスギスしたのは父の単身赴任だけが理由ではないが、大きな理由のひとつだった。
結果的に時間をかけて家族仲は良くなったが(ぼくや姉の反抗期が終わったり大学進学で家を出たこともあるが)、単身赴任きっかけでそのままばらばらになってしまう家庭も少なくないだろう。

だったら家族そろって引越すのがいいかというとそれはそれでいろんな問題があるはず。

いずれにせよ、本人の意思を無視した転勤辞令という制度はほんとに非人道的行為だ。


「江戸時代は斬り捨て御免がまかりとおっていたらしいよ」とか「古代ローマでは奴隷制があったんだって」みたいな感じで「昭和~平成時代の会社には強制転勤制度があったんだって。野蛮な時代だよねえ」と語られる日が来るといいな。


2019年7月1日月曜日

【読書感想文】低レベル検察官の身勝手な仕返し / ジリアン・ホフマン『報復』

報復

ジリアン・ホフマン(著)  吉田利子(訳) 

内容(e-honより)
太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた―それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった!この男を無罪放免にしてはならない―恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ…。期待の大型新人による戦慄のサスペンス。

法学生だったクローイは、覆面男にレイプされ心身ともに深い傷を負った。
数年後、C・Jと名前を変えて検察官に彼女は、連続殺人事件の容疑者として逮捕された男が自分をレイプした男だと気づく。
C・Jは男を死刑にするために検察官として戦いを挑むが……。


残虐な連続殺人事件を扱っているが、わりと早い段階で容疑者が捕まるのでたぶん多くの読者は「捕まったやつは犯人じゃないのでは」と気づくだろう。「謎の密告電話」というわかりやすいヒントもあるし。
これ以上はネタバレになるが、犯人はたいして意外な人物じゃない。

この本の読みどころは犯人捜しではなく(そもそも犯人を捜すのは検察官の仕事ではない)、検察官でありレイプ被害者であるC・Jが、連続殺人犯であり自分をレイプした男(とおぼしき人物)とどう立ち向かうかという心理描写のほうだ。

C・Jが心に傷を負うきっかけとなるのが学生だったC・Jがレイプされるシーンだが、これがとにかく恐ろしい。
丹念に描写されるので、もう読んでいられない。そこまで細かく書かなくてもだいたい何されたかわかるからもういいよ、とおもうのだが作者は筆を止めない。ひたすらC・Jが苦しむ姿が書かれる。これがきつい。


ぼくも娘を持つようになり(といってもまだ幼児だが)、性犯罪に対しては被害者側の立場で考える割合が増えた。
もしも娘が……とおもうと、つらすぎてそれ以上思考が進まない。

中盤以降には殺人被害者の描写や終盤の格闘シーンなどのヤマ場もあるのだが、プロローグの不快感に比べたらかすんでしまう。
冒頭が強烈すぎてしりすぼみの印象。中盤以降もおもしろいんだけど。



ここからはネタバレになるけど、もやっとしたところ。

容疑者を起訴する際に、検察が不正をはたらく。

「捜査の手続きが不正であれば、その捜査によって得られた証拠はすべて無効となる」
というルールがあるのだが(そうじゃないと警察がやりたいほうだいになっちゃうからね)、検察官であるC・Jは、警察官が逮捕時に必要な手続きを踏まなかったことを知りながら強引に起訴に踏みきる。
裁判では、警察官と口裏を合わせて嘘をつく。
C・Jは葛藤しながらも「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」と不正をはたらく決断をする……。


いやあ、ダメでしょ。ぜったいにあかんやつ。
証拠はほとんどなし、容疑者は否認、逮捕時には警察側の不適切な手続き。あるのは検察官の直感だけ。
これで起訴したらダメでしょ。しかも有罪になれば死刑になる罪状で。

「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」じゃねえよバカ。
100人の真犯人を見逃してでも、1人の冤罪を生みださないことを優先させるのが法治国家なんだよ。

小説にいちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうけど、そうはいっても「裁判に私怨を持ちこむ」「私怨を晴らすために手続きの不正に目をつぶる」って、こいつのやってることは検察官として最低だ。
それならそれでハチャメチャ検察官として描くんならいいんだけど(両津勘吉が何やっても許されるように)、法制度をおもいっきり無視しといて「あたしは多くの犠牲者を救った正義のヒロイン」みたいな顔をすんじゃねえよ。身勝手な正義に酔って己のダメさに気づいてすらいない腐れ外道だなこの女。
ここまでダメ検察官だと、いくら被害者だったからといえまったく共感できない。むしろ被告人のほうが気の毒になってくる。

この検察官のやってることは『かちかち山』レベルの仕返しだよ、ほんと。


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