2019年3月13日水曜日

【読書感想文】どうして絶滅させちゃいけないの / M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

絶滅できない動物たち

自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

内容(e-honより)
厳重に「保護」された滅菌室にしか存在しないカエル、周囲を軍に囲まれて暮らすキタシロサイ、絶滅させられた張本人にDNAから「復元」されつつあるリョコウバト……。人が介入すればするほど、「自然」から遠ざかっていく、自然保護と種の再生テクノロジーの矛盾を、コロンビア大学が生んだ気鋭のジャーナリストが暴く。

動物が絶滅、と聞くと反射的に「良くない!」と思ってしまう。なんとか食いとめなければ、どんな手を使ってでも保護しなければ、と。
だがこの本の著者は問いかける。「それってほんとに必要なことなの?」

どうして動物を絶滅から守らなくちゃいけないんだろう……。



著者は「生物が絶滅してもいい」と主張しているわけではない。
ただ、絶滅しそうな動物を隔離して保護したり、DNAを保存したりして「絶滅を防ぐ」ことに疑問を呈している。
それって絶滅を防ぐことになるの? それで何かをやった気になるだけじゃないの? それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの?

たとえば、動物を絶滅から防ぐために人間の飼育下におくことで、かえって環境に適応できなくなってしまうことを挙げている。
 「箱舟」もいつも効果を発揮するわけではない。遺伝的適応度(生殖可能年齢まで生きのびた個体が産んだ子の数によって測定)の損失の発生は、飼育下繁殖の個体群では早く、数世代で生じて子孫が途絶える確率が高い。飼育されている状態だと個体群内部で形質の選択が行われ、この環境下の生存率は上昇するが、野生の生存率は上がらない。とはいえ、そもそもこれらの生物が自然に戻されることがあれば、の話だが。
 大半の飼育下繁殖プログラムの目的は、動物を再導入することだが、飼育下繁殖の動物が、実際に自立した、つまり「野生に」戻ったケースは数えるほどしかない。アメリカシロヅルは、今でも人間のパイロットから移動のしかたを教わらなければならない。両生類になると再導入の成功率は格段に下がる。ある調査では、飼育下繁殖ののちに再導入された58種のうち無事に野生環境で成長したのは18種、そのうち自立できたのは13種だった。
 もっと言えば、飼育下繁殖プログラムで育てた110種のうち、52種はそもそも再導入の予定がなかった。これらの種が生息していた生態系がなくなってしまったのだ。動物を生まれ育った場所で保全する生息域内保全という方法の支持者は、再導入の予定なしに飼育下繁殖を行うことこそが飼育下繁殖において最も致命的だという。絶滅のリスクをできるだけ減らそうとするあまり、環境よりも動物を救うことが主眼になっている。
たとえばカイコガは、長い期間人間によって絹を生産するために飼われてきたため、今では自然界で生きていくことができない。
飼育という環境に適応した結果、自分で餌をとったり敵から逃げたりできなくなったためだ。
佐渡トキ保護センターのような保護施設をつくっても、もともと持っていた性質を失った動物を増やすだけだ。

保護センターの中でしか生きられないのであれば、はたして絶滅から救ったといえるのだろうか。



さらに最近では、動物そのものを保護するのではなく、絶滅しそうな動物のDNA情報だけを保存しておく方法もとられている。
だが、動物の行動はDNAだけで決まるのではない。
 一方、20年以上、飼育下繁殖しているアララが産んだ卵は、巣から取りだされて、確実にひなが孵るようにと保育器に移される。2013年までは、最初の雌は自分で卵を孵化させてひなを育てることが許されたが、現存しているアララについては、抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変したという証拠がある。かつては世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減った。1990年代に飼育下繁殖のアララを自然に還そうと試みたが、ハワイノスリの避けかたがわからなかったらしい。かつては仲間と結束して戦っていたというのに。また、すっかり人間に慣れてしまって自分で餌を探さなくなった。習性を失ってしまったために、野生で生きていくのは不利になるおそれがあった。

もしも地球が爆発して人間が絶滅することになったとする。
そこで、とんでもない技術を持った宇宙人が、人間すべてのDNAを保存する。さらに地球そっくりな環境の星をつくりなおし、保存したDNAをもとに人間を復活させたとする。

復活した人間たちは今と同じ生活を送れるか?
当然ながら答えはノーだ。
言語も文化も知識もすべて失われる。遺伝子には組み込まれていないから。
現代の生活はおろか、狩猟や採集すらできない。ほとんどの人間は生きていくことすらできないだろう。

動物だって同じだ。
DNAの冷凍保存では、非言語的コミュニケーションによって種の間に伝えられていることまで残せない。
そうやって復活させた動物は、復活前と同じものとはいえないだろう。



『絶滅できない動物たち』は話があっちこっちにいくので論旨は決して明快ではないのだが、著者の主張は
「絶滅を防ぐことに意味がないとはいわないが、生きていればいいというものではない、DNAを残せばいいというものではない」
ということだとぼくは受け取った。

絶滅寸前の動物の遺伝子を冷凍保存して未来に残すことは、それ自体が悪ではないけれど、そのせいで「今生きている動物の棲息環境を守る」ことがなおざりにされているのではないだろうか。

だが、棲息環境を守るのはDNAを保存することよりもずっとたいへんだ。なぜなら、われわれの暮らしが制限されるから。
ぼくらは「トキ保護センターをつくります」には同意できても、「トキが棲みやすくするため、あなたはこの土地から出ていってください」には同意できない。
「動物を絶滅から防ごう!」に共感できるのは、「自分に関係のないところでどっかの誰かがやるのはいいよ」と思っているからで、自分の暮らしを犠牲にしてまで守りたいとは思っていないのだ。

結局、「絶滅しそうだからなんとかしなきゃ」ってなった時点で、もうどうしようもないんだろうね。
環境は元に戻せないもの。


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2019年3月12日火曜日

【読書感想文】スリルを楽しめる人 / 内田 幹樹『機長からアナウンス』

機長からアナウンス

内田 幹樹

内容(e-honより)
旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業だが、華やかなスチュワーデスとは違い、彼らの素顔はほとんど明かされない。ならばと元機長の作家が、とっておきの話を披露してくれました。スチュワーデスとの気になる関係、離着陸が難しい空港、UFOに遭遇した体験、ジェットコースターに乗っても全く怖くないこと、さらに健康診断や給料の話まで―本音で語った、楽しいエピソード集。
元・全日空のパイロットによるエッセイ集。
(一応この本の中では「A社」と伏せられているけど、「A社とJALの違いは……」とか書かれていて伏せている意味がまったくない)。

内容紹介文には「旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業」とあるが、少なくともぼくはぜったいにやりたくない職業だ(できないだろうが)。
高いところは嫌いだし、速い乗り物は嫌いだし、車の運転も嫌いだし、睡眠時間はたっぷりほしいし、決断力はないし、責任感もないしで、なにひとつパイロットに向いている要素がないからだ。

だからこそ、こういう本を読むと自分とはまったくちがう人の考え方にふれられるわけで、おもしろい。
 着陸は離陸に比べておもしろい。
 天気の良いときも悪いときもそれなりにおもしろいのだ。たとえば風の強い日、春一番なんて最悪だ。スピード計の針は暴れ回るし、降下率も一定になりきらない。機の姿勢はあおられて定まらず、コースからはすぐに外れる。こんなときは暴れ馬に乗っている気分になる。
 ある程度暴れさせておいて、ズレそうになったら、そっち側を手綱の代わりに舵で押さえる。躊躇するような気配があったら、すかさず拍車の代わりにパワーを当てる。これが上手くいくとたまらなくおもしろい。雨や雪、霧などもそうだ。計器のほんの少しの動きも見逃さず、張り付いたように指示を追いかける。パワーもスピードも機の姿勢にも、一瞬たりとも隙を与えない。目と耳と手と尻とに全神経を集中させる。
スリルを楽しめる人がパイロットに向いてるんだろうな。ぼくなんか臆病だから「今日天気悪いんで出航やめにしませんか」とか言っちゃいそうだもん。

この本の中には「パイロットにはバイクを趣味にしている人が多い」と書いているが、そうだろうなあ。バイク乗りもこういうスリルを楽しめる人だろう。
安全第一主義のぼくにはまったく理解できない。すごいなあとただただ感心するばかり。



V1速度について。
V1速度というのは離陸時の臨界速度のことで、「これより前ならば離陸は中止できるが、これを超えると飛び上がるしかないという、いわゆる離陸直前の決心をしなければならない速度」のことらしい。
 V1速度は天気が悪いときとか、風向きが悪いとか、雪で滑走路が滑りやすいとか、そうした悪条件の場合には路面の摩擦係数を測定し、それに基づいて計算されている。実際のケースで、ほんとうにブレーキの摩擦計算が理論通りになるかというと、これが一○○パーセントとは誰にも言えない。そこは経験を積むことによって、さまざまなケースを頭に入れて操縦する。
 臨界速度直前でトラブルが発生した場合、そのあたりの判断がいちばん難しい。エンジン関係のトラブルなら離陸を中止するが、ブレーキ関係のトラブルなら離陸を続行するという具合だ。なにしろ時速二五〇から二六○キロ前後の速度で前を見ながら計器を見て、一秒の何分の一かで認して、判断して操作するのだから。パイロットは離陸滑走中、スロットル(出力レバー)に手を添えている。これはパワーを出すためではなく、不具合が発生した場合にいつでもパワーを絞ることができるようにするためなのだ。V1を超えて、はじめて絞る必要のなくなったレバーから手を離すことができる。
ひゃあ。
こんなの、ぼくにはぜったいむりだ。
車を運転していても「えっ、今のところ右折だったのか、えっ、まずい、どうしよう、まだいけるか、もうむりか、あっ、あっ」みたいな感じで不本意な直進をしてしまうのに。

しかしブレーキにトラブルが起こっていても離陸しちゃうのかあ。おっそろしいなあ。一度スピードに乗ってしまったらもう飛び立つしかないんだもんなあ。
「エンジンが一発壊れたぐらいでは、離陸してしまったほうが問題がない」とも書いていて、理屈としてはそうなのかもしれないけど、こういうのを読むとますます飛行機に乗りたくなくなる。
今度飛行機に乗るときは「この飛行機、もしかしたらブレーキやエンジンが壊れてるのかかもしれないんだよなあ」と考えてしまいそうだ……。
知らなきゃよかった。



コーパイ(=コーパイロット。副操縦士)の運転の話。
 当然のことだが最終的な決断と権限はつねに機長が持っている。
 実際の飛ばし方自体は、ちゃんと訓練をしているわけだから、コーパイが飛ばしてもキャプテンが飛ばしても、それほどの差にはならない。むしろ、若くてやる気じゅうぶんのコーパイのほうが、キャブテンより部分的にはうまいなどということもある。
 ただ、これはあくまでも技量だけの問題であって、総合的な判断能力のことではない。その意味でいうと、考え方によっては天気が悪い日はコーパイにやらせたほうが安全だということがある。
 というのは、キャプテンは自分が操縦していると、操縦自体に神経を集中させてしまうから、逆に、それ以外の状況の見定めが甘くなる可能性があるからだ。たとえばある種の自信から「俺はまだ大丈夫、まだ大丈夫」と、逆にどんどん気持ちが入っていく。管制からの情報と自分がイメージする情報が違っていても、「もう少し先に行けば元に戻るだろう」「自分ならばできるだろう」という意識が出る。実際、その読みが当たることは多いが、そうならなかった場合は危険に近づくことになりかねない。
 コーパイが操縦していた場合、キャプテンとしてはその操縦を見ていればいいわけで、他のことに気を配る余裕が出てくる。しかも危ないと思ったらすぐにやり直しを要求できるし、コーパイは機長のオーダーに間髪を入れず従ってくれる。

もちろん飛行機の運転のことはよくわからないけど、「コーパイにやらせたほうが安全」というのはよくわかる。

ぼくは、仕事をする上で「これは誰かに任せるより自分でやったほうが早いわ」と考えて、自分でやってしまうことが多かった。
でも最近では、積極的に若い人に仕事を振っている。
そして気づいたのは、自分でやらないほうが格段に視野が広がるということ。

自分でやったことだと「せっかくここまでやったのだから」とか「成果が悪くなってきたけどなんとか持ちなおしてくれるはず!」とか、判断に"もったいない"や"願望"といった感情が入ってしまう。時間をかけてやったことほど特に。
どうでもいいことなら、そういう"お気持ち"も大事にしないといけないんだけど、成果がシビアに数字で見える仕事であれば早めに冷静な判断を下さなければならない。

だから「実行する人」と「チェックする人」はべつにしておいたほうがいい。
経験の浅い人に仕事をやらせるってのは、経験を積ませるだけじゃなく、冷静な判断をするためにも重要だね。



こういう「ちょっとめずらしい職業についている人が語る」業界ものエッセイって、たいてい下世話な暴露話が多いんだけど、『機長からアナウンス』は終始落ちついた語り口で、品がある。

ほんとに機長のアナウンス、という感じでその上品さがかえって新鮮だった。

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2019年3月11日月曜日

子どもを動かす3つの方法


こないだ娘の友だちの家におじゃましたとき。

さあそろそろお片づけしようかということになったが子どもたちがいっこうに片づけをしないので

「よっしゃ、じゃあおっちゃんがお片づけしようっと!
 ほらおっちゃん五個も積み木片づけた! おっちゃんがいちばん片づけ上手やな!」
とやってみせた。

すると、それまで遊んでいた子どもたちが「十個片づけた!」とか「ほらこんなにきれいに片づけたよ!」と口々に言いながら競うようにおもちゃを片付けはじめた。


その様子を見ていたおかあさんから「子どもをノせるのがうまいですね」と言われた。
うむ。
自慢になるが、自分でもうまいと思う。

それはひとえに、自分自身がめんどくさがりやで、おまけに親や教師の言うことをちっとも聞かずに育ったからだ。
自分が言いつけを守らない子だったから、やるべきことをやらない子どもの心理がよくわかる。

子どもに何かをさせたいと思ったら、「〇〇やってね」と素直に命じても無駄だ。
まあうまくいかない。

行動させるためには、禁じるか、競争させるか、負い目を感じさせるかだ。



禁じるのはシンプルながら案外うまくいく。

「お風呂に入らない!」と言ってる子に、
「あっそう。じゃあ入らなくていいよ。ぜったいにお風呂に入っちゃだめだからね!」
と言うと、子どもは「いやだ! 入る!」と泣きながらあっさり主張をひっくりかえす。

「かかったな」と内心ニヤリとするが、ここであわてて「よしじゃあ入ろう」と捕まえにいってはいけない。まずはゆっくりリールを巻いて相手がこちらに近づいてくるのを待つ。
「だめだめ。おとうちゃんがひとりでお風呂に入るんだから。やったー! ひとりでお風呂だー!」
と言いながら風呂に向かって走る。
そうすると子どもは「いやだ! お風呂入る!」と言いながら風呂に向かって駆けだす。
こうなればもうあとは「しょうがないなあ。じゃあ一緒に入ってもいいよ」と、「こっちが折れてやった」感を出す。

子どもが駄々をこねる場合はたいてい、明確な目的があるわけでなく、ただ「自分の要求を呑ませたい」ためだ。
そんなときには、

「風呂に入らせたい親 VS 風呂に入りたくない子」
 ↓
「風呂に入らせたくない親 VS 風呂に入りたい子」

と立場を逆転させることで、相手のプライドを満足させつつ目的を果たすことができる。
人は禁止されるとやりたくなる。これを心理学用語でナントカ効果という。忘れた。



競争させるのは説明不要だろう。
最初に挙げた、「お片づけ競争」のようなものだ。
「どっちが上手かな?」とか「おっちゃんがいちばん上手やで」と対抗意識を煽ることで、「やりたくないこと」をゲームにする方法だ。

小学生のとき、掃除は嫌いだったが「雑巾がけ競走」は楽しんでやっていた。
「マラソンで走った距離を教室の後ろに貼りだします」と先生が言いだしたときは、みんな競いあって走っていた。
誰しも負けるのは嫌なものだ。競争は手段のはずだが、多くの場合それ自体が目的化する。



負い目を感じさせるというのは、子どもの良心に訴えかける方法だ。
「片づけをしない」とか「ものを独り占め」とかやってる子どもは、それが良くないことだとわかっている。
悪いとは知っているが、意地になって後に引けなくなっているのだ。

既に悪いことだと自分でわかっているのだから、そんな子に対して
「片づけをしなきゃだめだよ」とか「みんなで仲良く使おうね」とか言っても意味がない。ますます意固地になるだけだ。

そんなときは「そうか。片づけてくれないのか。しょうがない。他の子だけでやるか」とか「〇〇ちゃんがひとり占めしてるからしょうがないよ。他の子らでべつの遊びしよう」とか言ってその場を離れる。
わがままを言っている子は、自分でも悪いことをしているとわかっているのだから胸が痛む。結果的に折れてくれることが多い。

要は、「言われて動いた」のではなく「自分の意志で動いた」と思わせることだ。
誰かに注意されたから改めるのは子どもでもプライドが許さないのだ。



三つのやりかたに共通しているのは「まず行動させる」ということだ。
教える前に行動させないといけない。

わがままを言っている最中の子どもに対して「〇〇しなさい」とか「〇〇したらだめでしょ」とか言う大人がいるが、そんな説教に子どもは耳を貸さない。
子どもだけじゃない。大人も同じだ。政治家のおじいちゃんも同じ。まちがったことをしている人に「あなたのやりかたはまちがっている」と言ったって反発されるだけだ。

やっていることを否定されたら自分自身を否定されたように感じる。当然ながら反発する。
だからあれこれ言う前に行動させる。
折れてやったふりをしたり、甘やかしたり、なだめたりすかしたり、脅したり、言うことを聞く薬を使ったり(こえー)、なんでもいいからとにかく行動させる。まずは風呂に入らせる。片づけをさせる。
その後で「ほら。早くお風呂に入ったらその後で遊べるでしょ」とか「片づけをしたらものがなくならないからいいよね」と言う。すると子どもはうなずいてくれる。

片づけをしていないときに「片づけしたほうがいいよね」と言われたら、"片づけをしない自分" が否定されることになる。

片づけをした後に「片づけしたほうがいいよね」と言われたら "片づけをした自分" が肯定されることになる。

言うことは同じでも、やる前に言うのとやった後に言うのでは反応はまったくちがう。

あれこれ言う前にとにかく行動させる。
行動を否定するのではなく肯定するように持っていく。できていないことを叱るのではなく、できたことを褒める。



ってのが、子どもと接しているうちにぼくが探しあてた方法。
「禁じる」「競争させる」「負い目を感じさせる」でじっさいうまくいくことが多いし、何より怒らなくていいので自分の精神上もいい。

ちなみにえらそうなことを書いたが、自分の娘やその友だち、姪、甥などの観測範囲の話なので、万人にうまくいくかどうかは知らない。

またぼくは教育の研究者じゃないので、ぼくのやりかたが長期的な発達にどんな影響を与えるかは知らない。どうせ誰にもわからないだろうけど。

2019年3月8日金曜日

【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』

Aではない君と

薬丸 岳

内容(e-honより)
あの晩、あの電話に出ていたら。同級生の殺人容疑で十四歳の息子・翼が逮捕された。親や弁護士の問いに口を閉ざす翼は事件の直前、父親に電話をかけていた。真相は語られないまま、親子は少年審判の日を迎えるが。少年犯罪に向き合ってきた著者の一つの到達点にして真摯な眼差しが胸を打つ吉川文学新人賞受賞作。

乱歩賞作家の作品なので、ずっとミステリかと思って読んでいた。
あれ、ぜんぜん意外性のない結末だな、とおもったらどこにもミステリとは書いてなかった。ぼくが勝手に勘違いしていただけだった。
「乱歩賞作家の書いたものだからミステリだ」と無条件に信じてしまう、思いこみとはおそろしい。

思いこみといえば、少年犯罪といえば「手の付けられない不良少年」か「快楽殺人者的な精神のねじまがった少年」がやるもの、という思いこみがある。
たぶんぼくだけではないだろう。「少年院に行っていた」と聞くと、ほとんどの人は相手と距離をおくと思う。

『Aではない君と』では、主人公である会社員男性の息子が殺人犯として逮捕される。
デビュー作『天使のナイフ』では被害者の遺族の苦悩を描いていた薬丸岳氏だが、本書は加害者の家族がストーリーの中心。
ある日殺人犯の家族になったら……。

ぼくも人の親として、考えずにはいられない。自分の子が誰かを殺してしまったら。殺されてしまったら。
あれこれ考えたけど、答えは……わからん!

そんなものなってみないとわからんと言うしかない。たぶん「そんなこと考えたくない」という気持ちが強すぎて、想像力がうまくはたらかないのだろう。
殺人なんて遠い世界の出来事と思っていないと、とても子育てなんてできやしない。「ひょっとしたらうちの子が人殺しになるかも」なんて考えてたら、誰も子ども生まないよ。

『Aではない君と』は綿密な取材に基いて丁寧に書かれた小説だけど、どれだけ現実に即した描写があっても別世界のファンタジーとしか思えない。題材が重たすぎて。子どもがいるからこそ、余計に。



『Aではない君と』に現実感がないのは、登場人物がまっすぐすぎるからでもある。
同級生を殺した中学生の翼には反抗期のかけらも見られないし(人は殺すけど親の前ではすごくいい子)、主人公(父親)はとにかく責任感が強くて、真摯に自分のかつての行動を反省している。
人間、そんなにまっすぐに自分の過去を反省できるもんかね?
他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運が悪かっただけだと嘆いたり、おかれた状況から逃げたしたいと思ったりするもんじゃないだろうか?
この主人公にはぜんぜんそういう思考が見られない。ただひたすらに「自分がもっと息子と向き合えばよかった」と反省している。

人間ってもっと身勝手なもんだと思うよ。そうじゃなかったら、「息子が人を殺した」という現実の前では心がつぶれてしまうんじゃないかな。
そりゃあ自制心が強くて他人のせいにせず頑強なメンタルの持ち主だってどこかにはいるかもしれんが、そんな人が離婚して子どもを捨てるかね?

少年犯罪の司法制度のことなんかは事細かに描写しているのに、人物描写が単調なせいで小説としてはずいぶん平板な印象。
まるで判例を読んでいるようで、重厚なテーマの割には感情を揺さぶってくれる小説ではなかったな。

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2019年3月7日木曜日

【読書感想文】まったくもつれない展開 / 井上 夢人『もつれっぱなし』

もつれっぱなし

井上 夢人

内容(e-honより)
「…あたしね」「うん」「宇宙人みつけたの」「…」。男女の会話だけで構成される6篇の連作編篇集。宇宙人、四十四年後、呪い、狼男、幽霊、嘘。厄介な話を証明しようとするものの、ことごとく男女の会話はもつれにもつれ―。エンタテインメントの新境地を拓きつづけた著者の、圧倒的小説世界の到達点。

そういや井上夢人氏の小説を読むのはこれがはじめて。でも学生時代、岡嶋二人(井上夢人が組んでいたコンビ)のミステリはよく読んでいた。
岡嶋二人作品って常に一定の水準を保っているんだけど、すごく印象に残る作品もないんだよなあ。常に七十五点ぐらいのミステリだったなあ。個人的には。

で、『もつれっぱなし』なんだけど、やはり印象に残らない作品集だった。
六篇とも男女の会話だけで構成され、いわゆる地の分は一切ない。会話だけなのでさくさく読める。「説明くさいセリフ」のような不自然さはなく、じつにうまい。
ほんとうはすごくむずかいしことをやっているのに、苦労の跡も見せずにさらりと男女の関係性や状況を説明してみせている。

ただ、ストーリー展開がすごく単調だった。
『もつれっぱなし』というタイトルだから、どんな意外な展開になるのかと思いきや、「こうなるのかな」と予想したとおりに話は進んでいく。
本筋と関係のない会話がときおり差しこまれるから「これがなにかの伏線なのかな?」と思いながら最後まで読むが、何の伏線でもない。

んー……。これ、なにが『もつれっぱなし』なんだろう?
「二人の主張がはじめはかみあわないが、だんだん理解してもらえるようになる」という話ばかりで、ちっとももつれてない。


ラーメンズに『不透明な会話』というコントがある。
コントではあるが動きはほとんどなく、ほぼ会話のみで成り立っている。
うまくいいくるめて間違ったことを相手に納得させたり、へりくつを並べたり、意図がまったく伝わらなかったり、いつのまにか立場が入れ替わっていたり、これぞ「もつれっぱなし」という感じがする。
(ぜひ一度観ていただいたい)


それに比べると井上夢人『もつれっぱなし』は、ずいぶん単調な話だった。タイトルのせいでこちらが過剰に期待してしまったのかもしれないけど。

とはいえ、最後の『嘘の証明』は終盤で意外な事実が明らかになる構成で、ぼくはまんまと騙された。
会話のみで描写がないからこそ成立するトリックだしね。
これだけは満足できるクオリティだった。

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