2024年11月29日金曜日

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ

ベルリン陥落1945

アントニー・ビーヴァー (著)  川上洸(訳)

内容(e-honより)
ヒトラーとスターリンによる殱滅の応酬を経て、最終章、戦場は第三帝国の首都ベルリンへ…。綿密な調査と臨場感あふれる筆致、サミュエル・ジョンソン賞作家による、「戦争」の本質を突く問題作。

 イギリスの歴史作家が書いた、1945年(つまり戦争末期)の独ソ戦争の情景。


 読んでいて感じるのは、おそらく意図的だろうが、数字が少ないこと。「○万人が命を落とした」といった事実の羅列はほとんどなく、体験談を中心に、ひとりひとりの生の物語を書いている。おかげで戦争の悲惨な光景が眼の前に立ち上がってくる。これがストーリーの力。教科書に書いてある「百万人が命を落としました」よりも、たったひとりの体験記のほうがはるかに強いメッセージを放つ。



 第二次世界大戦のドイツといえばヒトラー、ナチス、ゲシュタポ、ユダヤ人弾圧、強制収容所……と、とにかく「ドイツはひどいことをした」話ばかりを教わった。

 だがことはそう単純ではない。ドイツの人々も苦境にあえいだ。劣勢に追い込まれた1945年は特に。

 ブルーの照明灯に照らされたこれらの待避所そのものが、いったん入ったら二度と出られぬ地獄を連想させるたたずまいで、寒さにそなえて着ぶくれし、サンドイッチと魔法びんを入れた小さな厚紙製のスーツケースを手にした人びとが、そこに詰め込まれた。たてまえとしては、あらゆる基本的必要をみたす設備が内部に完備していた。ナースの常駐する救護室もあって、ここで出産することもできた。地表からではなく地の奥底から伝わってくるような爆弾炸裂の振動が、分娩を促進するようだった。空襲中の停電はしょっちゅうのことで、まず照明が薄暗くなり、チラチラ点滅して消えてしまう。そのため天井に発光塗料が塗ってあった。水道本管がやられると断水した。そこで「アボルテ」、すなわちトイレはたちまち惨憺たる状況となった。衛生にやかましい国民にとってはまったくの苦行だ。当局はしばしばトイレを閉鎖した。絶望した人びとがドアにカギをかけたまま自殺するケースが頻発したからだ。
 ベルリンの三〇〇万前後の人口を全部収容するスペースがないので、待避所はいつも超満員だった。通路も、座席つきのホールも、宿泊室も、人いきれと天井から滴下する結露で空気がよどんでいた。ゲズントブルンネン地下鉄駅の下のシェルター群は一五〇〇人を収容するように設計されたのに、じっさいにはその三倍を詰め込むこともしばしばだった。酸欠の度合いをはかるのにローソクが使われた。床の上に立てたローソクが消えると、幼児を肩の高さまで抱き上げた。椅子の上のローソクが消えると、その階からの退去がはじまった。あごの高さに設置された三本目のローソクが明滅しだすと、おもての空爆がどんなにはげしくても、全員が出ていかねばならなかった。
 しかしブレスラウ市外に出た女性たちは、とにかく自力で逃げなければならないことに気づいた。市外に出る自動車はほんの数両で、幸運にも乗せてもらえたのはごく少数にすぎなかった。道路上の雪は深く、ついに多数の女性が乳母車を捨て、幼児を抱いて歩くはめになった。凍りつくような寒風に魔法ビンの中身も冷めてしまった。おなかをすかした赤ん坊には母乳をあたえるしかないが、授乳のため身を寄せる場所もなかった。すべての家はドアを閉ざし、すでに放棄されたか、あるいは住人がだれにもドアを開こうとしないか、どちらかだった。やむにやまれず一部の母親は、納屋その他の風よけとなる建物のかげで乳首をふくませたが、それがよくなかった。子どもは飲まないし、母親の体温は危険なまで下がった。乳房に凍傷を負った人さえ出た。ある若い母親は、わが子の凍死を実家の母に知らせる手紙のなかで、ほかの母親たちの様子も書いている。ぐるぐる巻きにした赤ん坊の凍死体をかかえて泣きさけぶ人もいれば、道ばたの樹木に寄りかかり、雪のなかに坐りこんだ人もいる。そばでは年長の子どもたちが、母親が気を失ったのか、死んだのかもわからずに(この寒さのなかでは、どちらでもたいしたちがいはないが)、恐怖のあまりベソをかきながら立ちつくしている。

 こういう「戦時下での悲惨な暮らし」って、日本のものはよく知っているんだよ。いろんな小説や漫画や映像作品でも扱われているから。でも日本だけじゃないんだよな。どの国も同じなんだよな。


 読めば読むほど、戦争でやることはどの国も同じだな、とおもわされる。

 戦争末期のドイツにはびこっているのは根性論。決して退くな、最後の最後まであきらめず戦え。勝てる見込みのない無謀な作戦(まるで訓練されていない少年や老人で組織された国民突撃隊、武器を積んだ自転車で戦車につっこむという実質特攻隊……)、悪いことは知らせない大本営発表、冷静な意見は排除されて無謀なことを言うやつだけが重用される。

 そして、威勢のいいことを言うやつほど真っ先に逃げ出すところもどの国もおんなじ。ドイツでも、無謀な命令で部下を死なせた上官が、いざ危なくなるとすぐに降伏したり逃げだしたりする。

 想像力がないんだよね。想像力が欠如しているからこそ他人に強く言える。想像力が欠如しているから自分の身に危険が迫ったときのことを本当に想像できない。だから危険が現実のものになると泡を喰って逃げだす。少なくとも犬ぐらいの思慮があれば「逃げずに戦えばいい!」とは言いださないものだ。


 戦争末期のドイツ国民は大いに苦しんだが、それは敵国に苦しめられたというよりむしろ、過去のドイツが自分自身にかけた“呪い”のせいだ。

 逃げてはいけない、退却する兵士は殺す、上層部の指示に対する批判をするやつは粛清、ソ連の人間は劣っていて野蛮だ……。戦況が良いときはそれなりに効果を上げた言説が、劣勢に追いこまれたときには自分たちを苦しめる“呪い”となった。

 どんなに戦況が悪くても退却できない、上層部が無謀な作戦を指示しても従うしかない、勝てるわけなくても赤軍に降伏できない……。自国の教えがすべて呪いとなって自国民にはねかえってくる。多くのドイツ国民たちは、赤軍に殺されたというより、自国の司令部に殺されたんだよな。もちろん日本も同じ。

「愛国心」なんて言葉は、他人をコマとして都合良く利用するための口実でしかない。




 大戦前、大戦中のドイツはひどいことをした。でも、1945年のドイツで起こったことを読むかぎりでは、赤軍(ソ連軍)のほうがずっと悪だとおもう。
 この部隊がシュヴェーリン〔スクフェジーナ〕の町を攻略したとき、グロースマンは見たことのすべてを小さなノートにエンピツで走り書きした。「一面の火の海……燃える建物の窓から老女が飛び降り……略奪が進行中……なにもかも炎上しているので夜も明るい……[町の]警備本部で黒衣をまとい、あおざめたくちびるのドイツ女性が、弱々しいかすれ声でなにかしゃべっている。連れの少女は首と顔に傷あとがあり、ふくれあがった目をして、両手にもひどい傷を負っている。部隊本部通信隊の兵士にレイプされたという。その兵士もここにいる。赤い丸顔で、眠そうに見える。警備隊長が双方を尋問中」。
 グロースマンのメモは続く。「女性たちの目には恐怖の色……ドイツ女性はひどい目にあっている。教養あるドイツ人男性が、しきりに身ぶり手まねをまじえながら、片言のロシア語で説明する。この日、彼の妻は一〇人に暴行されたという……収容所から解放されたソ連の娘たちも、やはりひどい目にあっている。昨夜、その一部が従軍特派員に割り当てられた部屋に身を隠した。夜中も悲鳴で目をさます。特派員の一人が黙っていられなくなって大激論となり、秩序は回復された」。さらにグロースマンは、明らかに彼が聞いたと思われるある若い母親の話を記録している。彼女は農場の納屋でつづけさまに暴行を受けた。身内の人たちが納屋にやってきて、赤ん坊が泣き止まないので、せめて授乳の時間をあたえてくれと頼んだ。こういったことがすべて警備本部のすぐ隣で、しかも軍紀維持に責任を負うはずの将校たちの見ているまえで、おこなわれていた。

 掠奪、強姦、無抵抗な民間人や子どもへの虐殺……。「ドイツにひどい目に遭わされたからその復讐」という気持ちもあっただろうが、それだけではない。ドイツ軍に捕らえられた捕虜や、ドイツに支配されていたポーランド人に対しても残虐の限りを尽くしている。

 ドイツが悪くないとは言わないが、負けず劣らずソ連もひどい。

 正しい戦争なんてないってことよね。戦場においてルールやモラルなんてかんたんに破られる。ルールを守っていたら死ぬから。正しいも悪いもない。戦場において兵士は基本的に悪をはたらく。あるのはばれるかばれないかだけ。勝てばもみ消せる。戦争の歴史は勝ったものの歴史だ。



 スターリンやヒトラー、およびその取り巻きたちの話も多いのだが、読んでいておもうのは「なんと命の軽いことか」ということ。

 ここに軍を投下、数万人が死ぬがしかたない、みたいな作戦の立て方をしている。将棋で歩兵を捨てるぐらいの感覚なんだろう。まあそれぐらい割り切ってないと軍略なんてできないのかもしれないが、「ちょっとタイミングがちがえば自分がその数万分の一の歩兵だったかもしれない」という想像力があればそんな作戦立てられないよな。想像力がないから戦争をできるのだ。


 この本では、命を落とし、家族を失い、レイプされ、生活のすべてを奪われる市民たちの姿と交互に、各陣営トップたちの「政治」の様子も描かれている。

 もはや大勢は決した。ドイツが負けるのはまちがいない。ソ連は英米より先にベルリンを落としたほうが戦後の世界情勢で有利に立ち回れる。なんとしてもベルリンを先に落とさねば。「祖国を守るため」の戦いならまだしも、政治のために命を賭けて戦わされる兵士たちが気の毒でならない。

 そしてドイツはドイツで、負けることはわかっているが、ひどいことをしたソ連に占領されるより英米の占領下におかれるほうがまだ有利に事が運びそうということで、政治的な目的で降伏を遅らせる。その間にも市民たちがばたばたと死んでいるのに、政治のほうが優先される。

 なんともやるせない話だ。国民が死ねば死ぬほど命の重さは軽くなってゆく。

 戦時国際法で、捕虜や民間人への攻撃などを禁止しているけど、あまり意味がない。そんなのより「戦争が起こったときは元首、総司令官が最前線に立つこと」というルールをひとつ設けるだけでいいとおもうよ。それだけで、残虐行為や無謀な作戦はきれいになくなるだろう。それどころか戦争そのものも。




『同志少女よ、敵を撃て』でも引用されていたけど、いちばん印象に残った文章。

 ドイツ国内に赤軍が攻めてきて市民たちが逃げまどっている列車での風景。

 翌日、ディーター・ボルコフスキという名の一六歳のベルリン市民が、アンハルター駅発の混雑したSバーン列車内で目撃した情景を描いている。「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた。怒りと絶望がうずまいていた。あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない。とつぜん、だれかが騒ぎに負けない大声でさけんだ。『静かに!』見ると、小柄なうすぎたない兵士で、鉄十字章二個とドイツ金十字章をつけていた。袖には金属製の戦車四個のついたバッジがあって、肉薄攻撃で戦車四両をしとめたことを物語っていた。『みなさんに言いたいことがある』と彼はさけび、車内は静まった。『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが、泣き言だけはやめてくれ。この戦争に勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ』。車内は針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった。

 戦争が泥沼化して終わるに終われなくなる理由が「もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」という一文に表れている。


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2024年11月21日木曜日

【読書感想文】大島 新 他『なぜ君は総理大臣になれないのか』 / 政治家になるのはおかしい人だけ

なぜ君は総理大臣になれないのか

大島新  『なぜ君』制作班

内容(e-honより)
人間は失敗する。政治家も失敗する。しかし失敗を認めて苦悩する政治家は少ない。より良い社会をつくろうと苦悩する人間は、権力を握れるのだろうか。コロナ禍の只中で異例のヒットを記録した小川淳也の17年を追ったドキュメンタリーそのシナリオを完全収録!

 2020年に『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画が公開され、ドキュメンタリー映画としては異例の3万人以上を動員し、さらには各種動画配信サービスでも公開されて大きな話題となった。

 わりと政治には関心を持っているぼくとしては「これは観ておいたほうがよさそうだな」とおもったものの、なにぶん長い映像作品を観るのが苦手で、ここ十年ぼくが映画を観るときはたいてい子どもと一緒だ。子どもが興味を持つテーマではないので「いつか退屈で退屈で死にそうになったら観ようかな……」リストに入ったままになっていた。

 そんな『なぜ君は総理大臣になれないのか』の書籍版があるということを知ったので、読んでみた。映画のシナリオ(って書いてるけどドキュメンタリー映画でシナリオって言っちゃうと筋書きがあるみたいにおもえるので「書き起こし」のほうがいいのでは?)を収録し、かつ映画に関する対談やコラムを掲載したものだ。


 映画を書き起こしで読むことにはメリットとデメリットがある。デメリットとしては、あたりまえだけど映像がないこと。語っている言葉以外の表情やしぐさや周囲の雰囲気がほとんどわからないこと。

 メリットは、映像がないこと。これはデメリットでもあるがデメリットでもある。特に今作のような政治を扱ったものであれば余計に。

 我々は、語られている内容だけでなく(ときにはそれ以上に)「誰が語っているか」を重視する。それも、顔の造形だとか着ているスーツだとかのような、本人の信頼性とは無関係の要素に大きく左右される。あの政治家やあの政治家が人気があったのは、他の政治家よりも見た目が良かったからだ。

 だからこそ『なぜ君は総理大臣になれないのか』をテキストだけで読むことには意味がある。

 読んだ感想としては、「この小川淳也さんという人はいいことを言っている。だが発現を読むかぎりでは群を抜いてすばらしいというほどではない。そのわりにはこの映画を観た人からは小川淳也さんはすごく高く評価されている。ということはきっと小川淳也さんは見た目が良くて話し方も誠実そうに見えるんだろう」だった。映像は正しくない情報も伝えてしまう。



 いやもちろん小川さんはすばらしい人なんだよ。少なくとも『なぜ君は総理大臣になれないのか』で描かれる小川さんは。

小川「何事もやっぱりゼロか100かじゃないんですよね。何事も51対49。でも結論は、出てきた結論は、ゼロか1に見えるんですよね。51対49で決まってることが。だから……」
大島「なるほど」
小川「政治っていうのは、やっぱり、勝った51が、よく言うんですよ。勝った51がどれだけ残りの49を背負うかと。勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま」

 これってあたりまえのことだよね。代議制における議員は全国民を代表している。中学校でも習うことだ。

 でもこれをほんとうに理解している国会議員がどれだけいるだろうか。まだ選挙で落ちた議員や野党議員は「負けたほうの意見も尊重しろ!」とおもっているかもしれないが、少なくとも与党議員の中には「負けた議員に投票した人たちの思いも背負って政治をしなければ」と考えている人はいないんじゃないだろうか。野党議員だって、自分たちが与党になったらそんな気持ちは忘れてしまうとおもう。小川淳也さんには、この気持ちをずっと忘れないでいてもらいたい。


 ぼくは小川淳也さんひとりに日本政治の未来を託すつもりはない。

 小川さんは今は立派なことを言っているが、この先どうなるかはわからない。今は腐った政治をしているあいつだってあいつだって、はじめて立候補したときは立派な信念を持っていたんじゃないだろうか。

 人は必ず変わる。どんな人だって道を踏み外すことはある。だから「小川淳也さんが総理大臣になれば日本は良くなる!」と考えている人がいるとすれば、それは大間違いだ。そんな人がたくさんいる限り政治は良くならない。どの党が政権をとるかとか、誰が総理大臣になるかなんてのは、小さな問題だ。我々は絶えず政治をコントロールしつづけれなければならない。




 この本を読んでいておもうのは「まともな人は政治家になれないし、総理大臣になれない」ということ。

 小川淳也さんの妻・明子さんに話を聞いているところ。

大島「娘たちは政治家になるのも嫌だけど、政治家の妻になるのも嫌だって」
明子「ああ、だろうね。はははははははは」
明子・八代田「(同時に)そりゃそうだよねえ」
明子「私もねえ、嫌だなあ。ははは。
 でもほんとねえ、これだけのことがあるって知ってたら、もうちょっと躊躇したね。たぶんね」
八代田「確かに、知らんもんね」
明子「分からないからね、知らないからね。まあ、やれるだけやろうみたいな感じで始まったけど。まあね、仕方ないっすね。ははははは」
大島「もう仕方ないよね」
明子「もう仕方ない」

 小川さんの妻も娘も、選挙に協力してくれている。選挙事務所に詰めて仕事をして、一緒に街頭に立つこともある。そんな人でも「政治家になりたくない」「政治家の妻になりたくない」と語る。それがふつうの感覚だ。ぼくだっていやだ。自分の家族が出馬するのもいやだし、落選するのもいやだし、当選するのもいやだ。市議だろうが市長だろうが代議士だろうが総理大臣だろうがいやだ。だってまちがいなくふつうの生活が奪われるんだもん。娘が皇室に入るのと同じくらいいやだ。

 何かやらかせば叩かれて、やらかさなくても非難されて、うまくやっていても周囲の人からは「政治家だからうまいことやってるんでしょうね」とおもわれる。ろくなことない。お金はそこそこ多く入ってくるけど、出ていくお金も多くて手元にはぜんぜん残らないと聞く。だいたい残ったところで立場上派手には使えないだろう。

 まともな人は政治家になんてなりたくない。どう考えたって報酬が労力に見合わない。政治家としてうまくやっていく才覚のある人なら、ビジネスの世界ではずっと多くのお金を稼げるだろう。非難されることも少ないし、自由に使える。どう考えたってそっちのほうがいい。みんな政治家なんてやりたくないからこそ代議制というシステムがあるのだろう。


 小川さんも語っているけど、政治家になる人なんておかしい人だけだ。または政治家の家に生まれ育った人。もちろんそれもおかしい人だ。

 小川さんだっておかしい。自分や家族の幸せを考えるなら、官僚を続けるか、ビジネスをやったほうがずっといい。

井手 僕はいろいろな政治家の方と接する機会があって、じつは、小川さんみたいに真っ直ぐな人がたくさんいるんだということを知っています。地方議員さんもそう。みなさんのまわりで一生懸命に汗をかいて頑張ってる人、大勢いますよ。それなのに政治に関わるとか、政治家を褒める、応援するってことがみなさんにとっては異様にハードルが高い。
 そう、この「敷居の高さ」がいやなんです。映画を観て強く感じるのは、あそこまで家族を巻き込んで、「選挙ってここまでやんなきゃいけないの?」っていうこと。
 僕、よく「選挙に出ろ」って言われるんですよ。昨日も朝イチで滋賀県に行って、地方議員さんを相手に講演して来たんです。終わった後にバーッと並ばれて、「先生、選挙出られませんか?」って言われちゃうわけですよ。「いやです」「いやです」って断るんですけど(笑)。
 それは第一に思想的なものだけど、それ以前に、うちには子どもが4人いて、生活のこと考えるとまずムリですよね。だって、この社会は僕が慶應大学の教授職)を辞めないと認めてくれないもの。慶應の先生をやりながら選挙に出た時点でもう、「背水の陣じゃないだろ」「あいつ、腰かけだ」って叩かれるでしょう。(会場に向かって)みなさんだって叩くでしょ?
 何もかも投げ捨てて、家族巻き込んで、娘も連れ合いも泣かして、ってやらないと政治家になれないという、恐ろしい現実がある。
 現実の政治に関わるのはもの凄くしんどい。でも、「じゃあ傍観してていいのか」と言うと、みんなそりゃいかんと思ってる。ここの突破口が見えて来ないんですよね。
大島 う~ん、わかりますね、それは。
 私は政治家と言ったら小川さんだけを知っているぐらいの感じで、あとはまあ、テレビ業界にいますので、報道の記者とかから個々の政治家の評判を聞くぐらいでしかないんですけれど、やっぱり、「なぜ私たちは君のような人を総理大臣にすることができないのか」ということも考えているんですね。「君のような人」というのは、必ずしも小川さんでなくてもいいのですが、井手先生もおっしゃられた、「ちゃんと真っ当で誠実で一生懸命やっている人」もいると。それは自民党にもいるかもしれないし、共産党にもいるかもしれない。
 でもやっぱり、既得権益もそうなんですけれども、そういった人たちを阻んでいるものがあるんですよね。選挙の問題も凄く大きくて、恐らく安倍さんとか麻生さんは、地元に1回も帰らなくても勝つわけじゃないですか。そういう政治家が一定数いるという状況の中で、野党の、特にバックボーンも何もない人たちは家族を巻き込んで、あそこまで辛い思いをさせてと言うか.......。

 選挙に出たいけど家族に猛反対されて出馬をあきらめる人も多いという。選挙に出るために離婚する人もいるそうだ。よほどの強い信念(というよりは妄執)を持っているか、議員であることからよほどの私益が得られる人だけだろう。

 おかしい人たちの中からまだマシなおかしい人を選ぶ場、それが選挙だ。




 さらに政治家になってからも、まともな人は党内で出世できない。

 鮫島浩さんの文章より。

 政党や内閣の重要ポストを歴任すると、「この人はいずれ党首となって、さらには総理大臣となるかもしれない」と期待する人が世の中に増え、政治献金も集まってきます。その資金を元手に「子分」の政治活動を支援したり、選挙を応援したりして、さらに「子分」を増やしていくのです。そして、いざ党首選挙となると、「派閥」の「子分」たちは「親分」が勝つように懸命に応援します。もちろん「親分」の政治理念や政策に共鳴して応援する「子分」もいますが、たいがいは「親分」が党首になって自分が重要ポストに抜擢される「見返り」を期待して応援するのです。資金力を増した「親分」から政治資金を援助してもらうことを期待して応援する「子分」もいます。かつて民主党代表を務めた小沢一郎氏は豊かな資金力大勢の「子分」を抱えていることで有名でした。民主党政権で総理大臣を担った鳩山由紀夫氏、菅直人氏、野田佳彦氏の3人も自らが率いる「派閥」を持ち、多くの「子分」がいました。
 もう、わかりますね。党首選に勝つためには、多くの国会議員を「子分」として従え、応援してもらわなければなりません。そのために数々の重要ポストを歴任して知名度や資金力をアップさせ、「子分」の人事や資金の面倒をみて、仲間を増やしていかなければならないのです。だから国会議員たちは連日のように仲間とともに「夜の街に繰り出して結束を固め、さらに仲間を増やすことを目指して昼夜、勧誘に励んでいるのです。そうして多くの国会議員たちに支えられる「強い政治基盤」をつくらなければ、党首選挙に勝つことはできません。党首にならなければ総理大臣にもなれません。まずは党内で「子分」を増やさなければ総理大臣への道のりは険しいのです。
 小川議員は幹事長や政調会長などの重職を担ったことはありません。資金力もさしてありません。その結果、小川議員を党首に担ごうとする「子分」はほとんどいません。それが厳しい現実です。本人が告白しているように「夜の街」も苦手です。仲間を増やすための「飲み会」もほとんどしません。そのうえ「フェアな政治」を掲げているため、仮に小川議員が党首になっても「仲間」を優遇する人事をしてくれるとは限りません。どんなに小川議員の人気が国民の間で急上昇しても、小川議員を党首に担ぐことにメリットを感じる国会議員の仲間が極めて少ないのです。

 たくさん金を集めて、自分の言うことを聞く「子分」には便宜を図ってやって、金を出した組織にも見返りを与えてやって、それによってより多くの金と子分を集めて……ということをやらないと党内でえらくなれない。

 構造的にそうなっている。国会での評決なんてほぼ記名投票だからね。信念に従って投票した議員は造反者なんて呼ばれて犯人探しをされるからね。


 つくづく異常な世界だよ、政界って。

 でも、そうやって距離を置いていたらますます政界が異常な世界になって、まともな人との距離が広がってゆき、二世三世と業界の利益代表者と異常者だけの世界になってしまう。

 だから何度も書いているけど、議員の数を増やしたらいいとおもうんだよね。「議員の数を減らせ!」って人もいるけどその逆。百倍にしたらいい。その代わり、給与も権限も百分の一。仕事の量も百分の一だから、兼業でもできる。会社員だって主婦だってフリーターだって片手間でできる。議会に集まる必要もないし。

 国会議員が何万人もいたら変に注目もされないので負担なくやれる。市議だって何千人、県議だって何千人。立候補だけでたりなければ裁判員みたいに抽選で選べばいい(これはやけくそで言ってるわけではなく「くじ引き民主主義」といういたってまじめな案だ。実現して成果を上げている国もある)。

 議員の重みを軽くしようぜ。PTA役員と同じぐらいに!


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2024年11月20日水曜日

小ネタ30 (ひざこぞう / 定規とものさし / 英語で)

ひざこぞう

 ひざこぞうとは言うがひじこぞうとは言わない。

 なんでだ。ひざよりひじのほうが小さくてかわいいだろ。

 こぞうはひじに譲って、ひざのことはひざ入道と呼ぶことにしよう。


定規とものさし

 定規とものさしの違いは、0と端の間にスペースがあるのが定規、端が0になっているのがものさしだそうだ。定規には「0を起点とする線を引きやすい」というメリットがあり、ものさしには「床や壁からの長さがはかりやすい」というメリットがあるそうだ。

 ふうん。たしかに定規では床や壁からの距離が測りにくい。

 それはしかたないんだけど、ぼくが常々おもっているのは「0と端の間にスペースがあってもいいんだけど、そのスペースをぴったり1cmにしておいてほしい」ということだ。そしたら、定規の端を床にぴったりつけて長さを測り、読み取った目盛りから1cmを足すだけで正確な長さが求められる。定規とものさしのいいとこどりだ。

 でもだいたいの定規は「0と端の間のスペース」が0.4cmとか半端な長さなんだよね。何か理由があるのかな。


英語で

「イヌは英語でドッグだ」と「ドッグは英語でイヌだ」は、どちらも同じ意味になる。

 前者の「だ」は「と呼ばれる」の意味であり、後者は「の意味」だ。



2024年11月15日金曜日

【読書感想文】山舩晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』 / トレジャーハントは割に合わない

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う

山舩晃太郎

内容(e-honより)
最新技術を武器に、謎を追え!なぜか竜骨が見つからないクロアチアの輸送船、水深60mのエーゲ海に沈む沈没船群、ドブ川で2000年間眠り続けた古代ローマ船に、正体不明のカリブの“海賊船”。そしてミクロネシアの海に残る戦争遺跡。英語力ゼロで単身渡米、ハンバーガーさえ注文できずに心が折れた青年が、10年かけて憧れの水中考古学者になりました。深くて魅力的な海底世界へようこそ!

 著者は水中考古学者であるらしい。水中考古学とは何か。文字通り水中にもぐって沈没船を調査し、船の構造や積み荷から、昔の船について解き明かす学問らしい。へえ、そんなものがあるなんて。

 今でこそ船といえばレトロなイメージのある乗り物であるが、ロケットや飛行機が登場するほんの百数十年前までは船は最先端の乗り物だった。つまり当時の科学技術の粋が船に詰めこまれていたわけで、船を調べればかつて存在していた文明についてもいろいろわかるらしい。

 また水中は酸素が少ないし人や獣が来ないこともあって、泥をかぶったりした場合、何百年も前の船がつい先日沈んだかのような保存状態で見つかることもあるそうだ。

 陸上では何百年も残り続けるのは石造りの建造物ぐらいだが、水中では木造船でもそのままの形で残ることがあるので、考古学の世界では水中は貴重な資料の宝庫であるそうだ。


 このようにめずらしい世界に情熱を捧げる研究者が書いた本。こんなのおもしろくないわけがない! と読みはじめたのだが……。

 あれっ、どうもおもしろくないな……。いや決してつまらないわけじゃないのだが。でもこんなわくわくする題材を扱っているのに、なーんか地味なんだよな。

 著者が「どう、これおもしろいでしょ!」と書いてるとこと、我々ド素人読者が「こういう話を読みたい!」とおもうことにだいぶズレがあるんだよな。詳しい調査方法や水中考古学的にすごい技術を知りたいわけじゃなくて「こんな危ないことがあったぜ」とか「水中調査にはこんな苦労があるぜ」とか「こんなおもしろこぼれ話があるぜ」ってのを読みたいわけで。

 これは著者というより編集者の腕によるものだろうな。研究者がおもしろがるポイントなんてだいたいふつうの人とはちがうんだから、そのまま書かせたっておもしろくならない(中にはめちゃくちゃおもしろい文章を書く研究者もいるけど)。編集者が「そこは一般の人が知りたがるとこなんで詳しく!」とか「ここはもっと短くてもいいとおもいます」とか一般人の感覚に近づくように導いていればなあ。

 今まで、ダニの研究者とか、アフリカでバッタを追いかけてる人とか、カラスの研究してる人とか、キリンの解剖してる人とか、いろんな研究者の本を読んできたけど、ほぼハズレなくおもしろかった。だから「何の役に立つんだかわからない変わった研究をしている人の本はおもしろい」というイメージがあったんだけど、それは編集者の(もちろん著者のも)いい仕事があったからなんだなあ。



 沈没船なんてふつうに生きていたら目にする機会もないし、聞くことも耳にすることもない。2022年に知床で遊覧船の沈没事故が起こり、大ニュースになった。大きなニュースになるぐらいだからめったに起こらないんだろうとおもってしまう。

 ところが、沈没船は我々が想像するよりずっと多く眠っているらしい。

 ユネスコは少なく見積もっても、世界中には「100年以上前に沈没し」、「水中文化遺産となる沈没船」が300万隻は沈んでいるとの指標を出している。
 300万隻という数は一見多いように感じるかもしれない。だが、天気予報や水中レーダー、海図や造船の技術が格段に進んだ現代の日本でも、転覆や沈没といった海難事故は毎年100件以上起きている。このペースが過去1000年変わらなかったとしたら日本単独でも10万隻もの沈没船があった計算になる。
 つまり、ギリシャの島の周辺から58隻見つかったのは不思議でもなんでもない。むしろ少ないくらいだ。大量の沈没船が、まだまだ手付かずのまま世界中の海に眠っているのだ!

「100年以上前に沈没」「水中文化遺産となる沈没船」だけで300万隻! 第二次世界大戦などで沈んだ船は100年以内なのでそこに含んでいないし、小さいイカダなんかは含んでいないんだろう。

 しかも船が沈没するのは離着岸のタイミングが多い(飛行機といっしょだね)ので、陸地に近いところに沈んでいることが多いそうだ。そう考えると、近海は沈没船だらけだ。なんか夢があるな。

 ちなみに積み荷を狙うトレジャーハンターは水中考古学者の敵なんだそうです。そのへんは陸も海もいっしょだね。

 巻末に収録されている丸山ゴンザレスさんの話がおもしろくて、沈没船ハンターもいるけど、盗掘にかかる費用が大きくて割にあわないので、最近はそういうやつらは「沈没船からお宝を手に入れてくるから出資してくれ」という詐欺のほうにシフトしているそうだ。へえ。「沈没船が儲かる」という話を聞いたら要注意だね。




 考古学者というと地道な作業をする人、という印象なのだが、水中考古学者はもっと地道でしんどそうだ。

 今でこそ私はフォトグラメトリを使って水中遺跡の記録作業を行っているが、この頃はまだ手作業で実測図を制作していた。
 使用する道具は紙と鉛筆。ただ、水中で使用する紙は、半透明のプラスチック製の合成紙である。これをプラスチック板にテープで張り付ける。決して木製の板は使わない。もし手を離したら、どこかに流れていってしまうからだ。金属だと錆びてしまうので、重めのプラスチック板が最適なのである。文字を書くのは、普通の鉛筆だ。鉛筆の芯は黒鉛で、水中でもしっかりと文字を書くことができる。
 とはいえ、水中では細かい文字や、詳細なスケッチはできないと考えてもらいたい。寒さ対策で分厚いグローブを着けているのと、やはり冷たくて手の感覚が無くなっているのに加え、紙は板で押さえているものの、その板を流れに抗い持つのは片手だけなので、水中で物を書くとどうしてもブレブレになってしまう。
(中略)
 水中から上がると、記号や数字をすぐに手帳かノートに書き写す。水中で書いた文字は読みにくいことが多いので、記憶が確かなうちに書き写しておかなければならない。数時間経つと自分が何を書いたかも分からなくなるぐらい、水中で書いた情報は酷いのだ。冷たいステラ川でのようなプロジェクトではなおさらだ。水の冷たさで、神経がマヒしてしまい、指先の感覚は完全になくなる。作業を開始して60分を過ぎた頃になると、いよいよ指も動かなくなるほどだった。こうなっては鉛筆を握ることもできないので、作業終了だ。
 アパートに戻ると、ノートに書き写された数字を基に、広げた方眼紙に正確な寸法で沈没船の船体を描き出していく。これが実測図の下書きとなり、完成した後にさらに清書するのだ。

 冷たい水中にじっと潜って、ひたすらスケッチをする。きつい。

 水中だと写真もうまく撮れず、対象物の長さを測るだけでも一苦労(陸上みたいにものさしやメジャーが使えないからね)。

 これは一例で、水中だと何をやるにも大変そうだ。だからこそ、手つかずのまま残っていることが多いんだろうけど。

 割に合わないとトレジャーハンターが投げ出すのもわかるなあ。


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2024年11月12日火曜日

【読書感想文】浅倉秋成『九度目の十八歳を迎えた君と』 / 若さも恋も人を狂わせる

 九度目の十八歳を迎えた君と

浅倉秋成

内容(e-honより)
いつもより遅めの通勤途中、僕は駅のホームで偶然、高校の同級生・二和美咲の姿を目撃した。他人の空似ではなく、十八歳のままの彼女を―。誰も不思議に感じないようだが、彼女に恋していた僕だけが違和感を拭えない。彼女が十八歳に留まる原因は最初の高校三年生の日日にある?僕は友人や恩師を訪ね、調べ始めた。注目の俊英が贈る、ファンタスティックな追憶のミステリ。

 社会人の主人公は、たまたま駅のホームで高校生のときに好きだった女の子を見かける。なぜか彼女は高校生のまま歳をとっておらず、以前と同じように高校に通っていた。
 だが周囲は誰もそれを疑問におもっておらず、当然のように接している。歳をとらない人なんているはずないと言っていた人も、彼女の姿を見たとたん「いろんな人がいますから歳をとらない人もいるでしょう」なんてことを言いだす。

 なぜ彼女は歳をとらないのか、なぜ周囲はそれを疑問におもわないのか、そしてなぜ主人公だけが疑問におもうのか……。


「誰にでも平等であるはずの年齢が平等でなくなったらどんなことが起こるか?」という非現実的な謎を追い求めるSFミステリ。謎自体が超常現象なので、当然ながらその答えは著者の頭の中にしかなく、万人が納得のできる答えなんてのはないに決まっている。

 無理のある設定だからこそ作家としてのほら吹きの才能が試される。よくできたほら話を広げてくれれば「なるほどね。この設定ならこれが答えになるか」とおもえるし、そうでないならまったくもって納得のいかない種明かしになる。

 で、この作品はどうだったかというと……。

 うーん、まあ、ぎりぎりありかな、という感想。「なぜ歳をとらないのか」というおもいきった設定にしては、解が“弱い”。彼女と同じような思いを抱えた人なんていくらでもいるわけで、その中で彼女だけが高校生活をくりかえすことに対する理由にはなっていなかったな。



 ミステリとしてはパワー不足だったが、青春小説としては悪くなかった。

 なにしろ高校時代の主人公は、好きな異性にふりむいてもらうために「ひとりでプラモデルを作り続けて部室をプラモデルでいっぱいにする」という計画を立てて実行するのだ。あほだ!

 でも、ぼくもこれに近いことはいろいろやっていた。なんとかして接点をつくろうと、意味なく好きな子のまわりをうろうろしたり。変なことをしてたらあの子に話しかけてもらえてそれを機にお近づきになれるんじゃないかと考えたり。冷静に考えれば、まわりをうろうろしているからって好きになるわけないのに。

 ふつうに考えれば、部室をプラモデルで埋めつくすよりも、話しかけるほうが百倍効果的だ。はるかにかんたんだし。でも、そのときは「一瞬勇気を出して話しかける」よりも「半年かけてプラモデルを作りつづける」ほうがかんたんで効果的だとおもっちゃうんだよねえ。若さも恋も人を狂わせるので、若いときの恋ときたら人をとんでもない行動に駆りたててしまう。


 主人公の行動を読んでいると、若い頃のからまわりを思いだしてほろ苦い気持ちになった。今となっては青春時代はただただ美しい思い出になっているけど、それだけじゃない苦い記憶もたくさんあったことを思いださせてくれた。ありがとうこんちくしょう。


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