2025年5月29日木曜日

【読書感想文】朝井 リヨウ『正欲』 / マイノリティへの理解なんていらない

正欲

朝井 リヨウ

内容(e-honより)
自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな―。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。第34回柴田錬三郎賞受賞!


 (一部ネタバレを含みます。)


 性的マイノリティを題材にした小説。

「性的マイノリティ」は最近よく耳にする言葉だ。小説、漫画、ニュースなどでホットなテーマといっていいだろう。

 うちの小学生の娘も「付き合うのは男と女とはかぎらないんだよね」なんて言ってる。学校でもしっかりとLGBTQなんて言葉を教える。

 が。『正欲』で描かれるのは、その“いわゆる性的マイノリティ”からもはずれた性指向の人たちだ。


 この小説に出てくるのは「水」に性的昂奮をおぼえる人たち。「水に濡れた人」ではない。水そのものが対象なのだそうだ。

 マイノリティの中でもさらにマイノリティ。ぼくはそんな指向の人たちがいることすら知らなかった。



 自分とはまったく異なる価値観を持つ人の話を読むのは好きだし、それこそが小説の醍醐味でもあるとおもうのだが、『正欲』はあまりにも遠い世界すぎて最後まで入りこめなかった。

 だって水だもん。ヤギに欲情するとかならギリ理解できないこともないけど、水だよ? 無生物だよ。それどころか決まった形すらないんだよ。

 それこそがぼくが「自分と異なる価値観の人を遠ざけている」証左なんだろうけど、べつにそれでいいとおもうんだよね。

 はっきり言って、他人を理解することなんて無理だよ。ぼくはリベラル派を気取ってるけど、本音のところを言えば同性愛者は気持ち悪いとおもってるよ。決して口には出さないけど。実害があるわけじゃないからわざわざ弾劾したりはしないけど、自分から近づきたいとはおもわない。

 でもそれでいいとおもってる。おたがいさまだし。たとえばぼくは四十代のおっさんだけど、二十代の女性をエロい目で見たりする。とても書けない妄想をくりひろげたりもする。行動にはうつさないけど。

 それを気持ち悪いとおもう人もいるだろう。べつにいい。頭の中でエロいことを考える権利があるように、誰かがぼくのことを気持ち悪いとおもう権利もある。

 ただそれを口に出して「おまえ気持ち悪いよ」と言われたり、「エロいこと考えることを禁止する」とか言われたら反発する。

 こっちは迷惑をかけないようにしてるんだから、おまえもおれに迷惑をかけるな。それだけだ。流星街の掟だ。




『正欲』にこんな文章が出てくる。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

 これはわかる。当事者でもないくせに多様性の理解とか叫ぶ人には、ある種の傲慢さを感じる。


 以前、あるニュースを見た。イギリスの放送局が日本の人形工場について取材したニュースだ。そこでつくっている人形というのはいわゆるラブドールというやつで、それも幼い女の子の形をした人形を、愛好家に向けて作っているのだ。

 それをイギリスの放送局は「こんな気持ち悪いことをしているやつらがいます! こんなことが許されていいんですか!」みたいな感じで報じていた。


 ぼくは人形愛好家ではないけれど、そのニュースを見て腹が立った。何が悪いんだ、と。

 たしかに気持ち悪いよ。幼い女の子の姿をした人形を愛して抱いているおっさんは。

 でもそんなことは当人たちだってわかってるはずだ。だからみんなこっそりやっている。こっそり買って家でこっそり楽しんでいるのだ。実際の少女に手を出したらいかんけど人形なんだから誰にも迷惑をかけていない。

 それを、森の石をひっくりかえして「うわこんなところにゴキブリがいるぜ! 気持ち悪い!」と言うように、わざわざ工場まで訪れて取材して「こんな気持ち悪い人間がいるんだぜ! どうだみんな気持ち悪いだろう!」と白日の下にさらすことで誰が得するんだよ。気持ち悪いものを見に行ってるおまえのほうが気持ち悪いよ。

 家に出たゴキブリを殺すのはふつうでも、わざわざ森にゴキブリを殺しにいくやつは異常者だ。


 差別に遭っている当事者でもないくせに多様性が大事とか言ってるやつって、そのタイプに近い。

 別に他者を理解する必要なんてない。というか理解なんかできるわけないし。

 そもそもLGBTQってなんだよ。なんでぜんぜんちがうものをひとくくりにしてるんだよ(同じ不快さをSDGsにも感じる)。「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」みたいなことだよね、LGBTQって。勝手にくくるな。


 一緒にトラウマを乗り越えていきたい?
 笑わせないでほしい。自分が抱えているものはトラウマなんかではない。理由もきっかけも何もなく、そういう運命のもとに生まれた、ただそれだけのことだ。こうなってしまった自分には何かしらの原因があって、それを吐露する場があれば何かが癒され変化するような次元の話ではない。
 そもそも、お前みたいな人間にわかってもらおうなんてこっちは端から思ってない。お前にはお前のことしかわからない。お願いだからまずそのことをわかれ。他者を理解しようとするな。俺はこのまま生きさせてくれればそれでいいから。
 関わってくるな。

 ぼくは音痴だ。ぜんぜん音程がわからない。

 他人からしたらどうでもいいことかもしれないけど、学生のときは「他人があたりまえにできていることが自分にはできない」ことがかなりのコンプレックスだった。

 当時のぼくに必要なのは他者からの理解などではなかった。「とにかくほっとかれること」だ。もしも「音痴でもいいじゃない。ぼくたちは音痴を差別しないからカミングアウトしても大丈夫だよ。さあ、一緒に歌おう!」なんて言われてたら地獄だった。 「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」なんて言われてたら最悪だった。

 別に他者のことなんてわからなくていいんだよ。危害さえ加えなければ。




 他の人があまり切り込まないテーマを扱っていて、その点ではいろいろ考えさせられるいい小説だった。

 ただ、物語としてはあんまりおもしろくなかった。

 登場人物が多いわりに、最後はわりと投げっぱなし。いやすべてきれいに決着しなくてもいいんだけど。でも、問題提起にすらなってないというか、書きかけで世に出しちゃったみたいな印象を受けた。

 そしてラスト直前の大也と夏月の口論。それまでずっと周囲に対して本心をひた隠しにしていた大也が、急に本音を赤裸々に吐露しはじめる。

 ここがそれまでの大也の言動と比べてずいぶんちぐはぐな印象。朝井リョウさんの小説にしては雑に感じたなあ。

 テーマの重さをストーリーが支えきれなかったような印象。




 いちばんぞっとしたくだり。
  採用率。その言葉は、YouTubeのコメント欄に書き込んだリクエストが採用される確率を表している。
 自分が属するフェチがマイナーであればあるほど、性的興奮に繫がるような素材は早く底を突く。何の努力もせずとも次々と〝オカズ〟が生成される同級生たちを横目に、血眼になって素材の自給自足を続けるほかなくなる。
 YouTubeのコメント欄にリクエストを書き込むという方法は、一体誰が始めたのだろうか。人間の承認欲求と特殊性癖者の性的欲求、その交点がまさか駆け出しの配信者のコメント欄であるなんて、一体誰が予見できただろうか。 『暑くなってきたら、夏らしく、水を使った企画はどうでしょうか。水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決、ホースの水をどこまで飛ばせるか対決など、見てみたいです』
 今読み返してみれば、過去に大也が書き込んだ文面は観たい映像を引き出すためのリクエストとしてあまりに稚拙だ。もっと砕けた空気を醸し出すべきだし、そもそもこの文章の向こう側にポジティブな雰囲気の人間がいるとは想像しがたい。だけど、このコメントを読んだ小学生の配信者は、すぐにリクエストに応えてくれた。動画内で、「この企画、面白いのかなあ?」等と訝しみながらも、水を様々に操ってくれた。
 本人が気づいていないだけで、マイナーなフェチの需要に応える動画を投稿している配信者は、多い。
 息止め対決をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、窒息フェチがいる。早割り対決や膨らまし対決、セロテープ剝がし対決など、風船を使ったゲーム企画をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、風船フェチがいる。罰ゲームを電気あんまに指定しているリクエストなんて、わかりやすすぎてこちらが恥ずかしくなるくらいだ。駆け出しの動画配信者の飢餓感は、自給自足ではすぐに限界が訪れるようなマイナーなフェチに属する人間にとって、とても都合が良かった。
 そして、そのようなリクエストの対象になっているのは、大抵が十代の子どもだ。
 中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで、実は持ちつ持たれつな関係性であることを認知し合っているようで、その緊張感はひどく居心地が悪かった。一方子どもたちは、自分たちの行動がその行動以上の意味を持つ可能性に全く気づいておらず、その無邪気さはこちらの後ろ暗さを誤魔化してくれるほどだった。

 おおお。

 YouTubeのコメント欄ってこんなふうに使われるたのか……(現在は13歳未満のチャンネルはコメント欄が使用できないらしい)。

「中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで」と書いてあるけど、「もっと脱いでほしい」とかならともかく「水中息止めチャレンジ」や「風船ふくらまし対決」をリクエストされて、それがフェチズムを満たす要求だと気づけるだろうか。ぼくだったら気づかない。

 知りたくなかったな。知らなきゃなんともおもわなかったけど、知ってしまった今となっては水や風船を使ったゲームを見るたびに「これで昂奮してる人もいるのか……」と考えてしまう。


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2025年5月27日火曜日

半径1メートルの世代論

 ある報道番組で、氷河期世代の特集をしていたらしい。

 そこに、氷河期世代のタレント二人がゲストとして出演して、「私たち氷河期世代の生きづらさ」を語っていたそうだ。

 番組は観ていないのだが、「自分の言葉として世代の苦しみを語ってくれていてほんとによかった!」という感想が多くSNSに投稿されていた。


 うーん……。

 番組を観ていないのでどんな番組だったかわからないが、その感想を見るかぎりは建設的な意見につながるとはおもえないなあ。

 アメトーークだったら「ぼくたち氷河期世代ってこんなにつらいことだらけなんですよー」「はい次、氷河期世代あるある~!」でいいんだけどさ。

 

 ゲストが「私たち氷河期世代の生きづらさ」をどれだけ語っても、それって結局「私の生きづらさ」、せいぜい「私と仲のいい数人の友だちの生きづらさ」じゃん。

 それはそれで価値がないとはおもわないけど、世代論ではないよね? だってあなたはあなたの世代しか生きたことがないんだから。


 人が「私たちの世代は大変だった」と語るときって、たいてい「私やその周りの人たち」と「他の世代のうまくいっている人たち」を比べてるんだよね。

 だって、うまくいっている人には、他の世代の「何もかもうまくいかなかった人たち」は見えないもの。


 同世代であればいろんな人の姿を見える。百社受けて全部落ちた一つ上の先輩。就職できずにずっと非正規で働いている同級生。引きこもっているらしいと噂で聞いたかつてのクラスメイト。精神を病んで自殺してしまった友人。

 自分の体験と知人の話を総合すれば、「つらい世代」エピソードはいくつも出てくるだろう。


 十歳上、あるいは十歳下の世代はどうだろう。「何もかもうまくいかなかった人たち」をどれぐらい知っているだろう。

 たぶん、(そういう人と関わる仕事をしていなければ)ほとんど知らないはずだ。なぜなら、“自分と歳の離れた引きこもり”は姿が見えないし噂にも聞かないからだ。

 我々がふつう関わる歳の離れた人は、自分と近い仕事をしている人だったり、誰かの親だったり、同じ趣味を楽しんでいる人たちだ。

 仕事や家族や趣味を通して他者とかかわる余裕のある人たちなんだから、ほとんどは「まあそれなりにうまくやっていけている人たち」だろう。


 だから我々は「自分たちの世代はつらかった」「他の世代はもっと楽に生きられた」とおもってしまいがちだ。実際にはどの世代にもそれぞれの苦しさがあるのに。

「あの世代は良かった」というとき、その世代のずっと孤独のまま死んでいった人たちのことは想像すらしないのだ。


 氷河期世代がつらくないとは言わない。

 でもそれは数々の統計的事実から明らかにすべきことであって、個人の「つらかった話」をいくら集めても世代論にはなりえない。


 その世代のタレントを呼んでつらかった思い出を語らせるのには、気の毒コンテンツとして楽しむ以外の効果はないんじゃないかなあ。


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2025年5月23日金曜日

【読書感想文】川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』 / スペシャリストたちが結集

無人島、研究と冒険、半分半分。

川上 和人

内容(e-honより)
鳥類学者(川上和人) VS 南硫黄島(本州から約1200kmの無人島)。闇から襲いくる海鳥!見知らぬ、斜面。血に飢えたウツボ!史上最強の冒険が、今はじまる。

 鳥類学者が南硫黄島と北硫黄島を研究調査のために訪れた記録。

 以前別の本(『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』)を読んだときもおもったけど、文章がいちいちおもしろい。

 そういう目で周囲を見回してみると、崖のほど近くには角張った石がたくさん落ちている。もちろん調査隊員たちは、熟睡しながら寝返りをうって偶然落石を避けるイメージトレーニングもしてきているが、おそらく役に立つまい。テントは、崖下から一定の距離をとって設置するのが無難である。
 さて、テントを張ったはいいが、薄いシートの下はゴロゴロの玉石である。しかも、玉石は昼間の灼熱の太陽でアッツアツに熱されている。こんなところで寝たら、遠赤外線でじっくり美味しくグリルされ、注文の多い料理店南硫黄島支店が初出店してしまう。
 「おーい、ミナミイオウえもーん。たすけてよー」
 てってれー。
 「おりたたみベッドー!」
 島の環境は事前に把握していたため、我々はキャンプ用の折り畳みベッドを島に持ち込んでいた。一つのテントに二つのベッドを入れ、即席ツインルームを作る。
 南側から登ってきた私たちは北側を知らない。南半球だけを訪れてコアラに満足して地球を知ったつもりになった火星人のようなものだ。
 北半球にパンダがいるとも知らずに一生を終えていくとは哀れな火星人である。彼らの二の舞になるわけにはいかない。


 こういうギャグってえてして読んでいるとうすら寒くなるんだけど、その点、研究者は得だ。

 ふざけた文章でも、読んでいて「そうはいってもこの人の本職は研究者だもんな。余技としてふざけてるけど、まじめに研究もしてるんだろ。おもしろい人だな」と軽く受け止められる。

 プロのエッセイストの文章だと「この人はおもしろおかしい文章を書くのが仕事だから、なんとかして笑わせようと必死にふざけてるんだな」という魂胆が見えてしまって笑えない。

 そのへんのおじさんがバナナの皮ですべって転んだらおもしろいけど、プロの芸人が舞台の上で同じことをやっても笑えないのと同じだ。

 ぼくが文章を読んでおもしろいとおもうのは、研究者や歌人や翻訳者など、プロの作家・エッセイストでない人ばかりだ。文筆業の人の文章に対しては知らず知らずのうちに身構えているのかもしれない。




 この本の前半は小笠原諸島にある無人島・南硫黄島を訪れた記録であり、中盤は、そのすぐ近くにある北硫黄島の探索記、そして後半は最初の訪問から10年後に再訪したルポである。

 南硫黄島も北硫黄島も近い場所にある小さな無人島だが、その二島には決定的なちがいがある。北硫黄島にはかつて人が住んでいた(最大でも人口200人ほど)のに対し、南硫黄島のほうは有史以来ほぼずっと無人島(漂着して一時的に滞在していた人がいる程度)だったことだ。

 なので、この二島人が住んだことのない島に住む動物を比較すれば、「人間が生態系に与える影響」がわかるわけだ。


 これがおもしろい。

 基本的に人間は、「人間の影響を受けた自然」しか観察することができない。人間が行けない場所は観察できないのだからあたりまえだ。

 南硫黄島は、ほとんど人間の影響を受けていない。人は住んでいないし、ふだんは立入禁止の区域である(著者たちは特別な許可を受けて入島している)。そうでなくても、本土から1,000km以上離れているのでわざわざ訪れる人はまずいないだろう。

 そして周囲を海に囲まれているので哺乳動物も渡ってこれない。

 環境に大きな影響を与えるのは、実はネズミらしい。かつて自然豊かな島だったイースター島の森林が消滅したのは、人間の活動と、人間についてきたネズミのせいだそうだ。天敵のいない島で爆発的に増えたネズミが木の実を食べ尽くしてしまったのだとか。

 南硫黄島とよく似た地形でありながらかつて人が住んでいた北硫黄島にはネズミがいる。船に乗りこんでついてきたからだ。本来島にいなかったネズミの活動により、植生が変わったり、観測できる鳥の分布も変わったのだそうだ。地面近くに巣をつくる鳥は、ネズミがいる島ではヒナを食べられてしまうので生息できないのだ。

 人間がやってきたことで動物が絶滅したなんて話を耳にするが、人間が捕獲しすぎたからという理由だけでなく、人間が(意図しようとしまいと)連れてきた動物によって滅ぼされたというケースもあるのだ。

 惑星探索をするときは、宇宙船の中にネズミがいないかよく調べないといけないね。宇宙人を滅ぼしてしまわないように。




 南硫黄島と北硫黄島を探索しているのは鳥類学者の著者だけでない。昆虫の研究者、植物の研究者、カタツムリの研究者などが集まり、プロの登山家やNHKの撮影班などが加わり、探索チームを結成しているのだ。

 かっこいい。

 こういうの、あこがれるなあ。各分野のスペシャリストたちが結集して、それぞれが強みを生かして活躍する。ときにはそれぞれの目的に向かい、ときには力をあわせ、チームを高みへと導く。

 しびれるなあ。『七人の侍』みたいだ(観たことないけど)。


 ふつうは夜飛ぶオオコウモリが南硫黄島では昼間に飛ぶ、という話。

「じゃぁ、なんでこんなに昼間によく飛ぶんだろね。父島でも北硫黄島でも、こんなに昼間に飛んでることはないよね」
 いろいろな島でオオコウモリを見てきたハジメがそう言うのだから間違いない。
「捕食者がいないからじゃないですかね。父島にはノスリがいるし、北硫黄島では絶滅しちゃったけど昔はシマハヤブサがいたじゃないですか。でも、南硫黄にはシマハヤブサの記録もないし、昼間にも安全だから夜行性の縛りから解き放たれたってことで」
 これは鳥の研究者としての私の意見だ。
 シマハヤブサはハヤブサの亜種で、火山列島に固有の鳥だ。過去には硫黄島と北硫黄島にいたが、人間が入植してから絶滅してしまった。一方で南硫黄ではシマハヤブサの記録はない。この島には人間が影響を与えていないので、もしいたとしたら生き残っているはずだ。しかし、前回調査でも今回調査でも確認されていないので、もともといなかったと考えるのが合理的だ。私は捕食者不在説を唱えたが、ハジメの意見は違った。
「それよりも、食べ物が少なくて夜だけじゃ十分に食べられてないんじゃないかな。だから昼にも食物を探してるんだよ、きっと。さっき歯がボロボロだったじゃない。あれは、よほど食べ物がなくて、父島じゃ食べないような硬いもの食べてるんだよ」
 確かにそうかもしれない。
 オオコウモリは果実を好む動物だ。しかし、この島ではオオタニワタリというシダの葉にまで彼らの噛み跡があった。もちろん葉っぱは果実より栄養価が低い。食物が十分にある父島では見られない光景だ。こんなものまで食べるということは、相当に食物が不足しているのだろう。
 ただし、捕食者不在と食物不足は互いに相容れないものではない。両方とも正解ということにしておこう。
 食事をしながら議論をするのは楽しい。そして議論は調査地でするに限る。なぜならば生物の進化や行動は、それぞれの環境の中で育まれてきたものだからだ。

 コウモリの研究者と鳥の研究者。専門分野はちがえど、それぞれが知見を出しあうことで活発な議論が生まれる。他分野の専門家と話すことで、おもいがけないひらめきが得られることもあるだろう。

 すばらしい環境だ。

 マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』によれば、シリコンバレーでハイテク分野のイノベーションが次々に生まれたのは、会社同士の横のつながりがあったからだという。別分野の専門家たちが接することで多様な視点からのアイデアが生まれ、イノベーションに結びついたのだそうだ。

 南硫黄島のような場から偉大な発見が生まれるのだろう。

「いかにもすぐ金になりそうな研究」じゃなくてこういうところに国の金を使ってくれ!


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2025年5月21日水曜日

小ネタ36 (サクマドロップ / 超能力戦士ドリアン / 高校生になってラグビーを始めたジャイアン)

サクマドロップ

 サクマドロップには2種類の味がある。「ハッカ」と「ハッカじゃないやつ」だ。


超能力戦士ドリアン

 妻に「超能力戦士ドリアンのライブに行ってくる」と言われた。まったく知らなかったが、そういう名前のバンドがいるらしい。

「地球儀持ってライブやるんでしょ?」と訊いたら「それは宇宙海賊ゴー☆ジャス」と的確にツッコまれた。結婚して10年以上たつとここまで心が通いあうのだ。


高校生になってラグビーを始めたジャイアン

「ALL FOR ONE, ONE FOR ONE」


2025年5月14日水曜日

レベルアップがゲームの醍醐味

 ロールプレイングゲームで、ゲーム中盤で仲間が追加されるイベントが発生することがある。

 そのとき、仲間のレベルが高いとがっかりする。加入した時点でLV30とか。


 やめてくれよぉ。

 制作者は「ここで弱いやつを入れても足手まといになるだろうしレベル上げ大変だろうからLV30にしといたるわ」って感じなのかもしれないが、余計なお世話だ。LV1にしてくれ!

 RPGの楽しさはレベル上げなんだよ。


 現実世界では、スポーツでも楽器演奏でも勉強でも、なかなかレベルは上がらない。何ヶ月も続けていけばレベルは上がっているが、それは「いつのまにか」であって、「おっ、今おれレベル上がった!」という瞬間はそう訪れない。

 たとえば野球で「カーブを投げる」という目標に向けて練習するとする。

「曲がらんなあ」

「あれ今ちょっと曲がった気がする」

「けっこう曲がった……かな?」

「あ、今のは失敗」

「ちょっと曲がったけどぜんぜんストライク入らねえ」

「曲がってる!」

みたいな感じでグラデーション的に成長していく(ときには後退することもある)ので、はたしてどの時点をもって「カーブを習得した」と言えるのかよくわからない。

 でもゲームなら「ピロリロリン♪ やった!大谷はカーブを習得した!」みたいなメッセージがあって、そこからは自由自在に投げられるようになる。このわかりやすさこそがゲームの魅力だ。



 その楽しさをいちばんわかりやすく味わえるのがロールプレイングゲームだ。

 レベルが数値化されていて、レベルが上がればパラメータも変化して、レベル以外にも武器の強さとか魔法のパワーとかも数字でわかって、自分の分身が成長していることがはっきりわかる。

 レベル上げこそロールプレイングゲームの醍醐味だ。

「LV30で加入してくる仲間」はその楽しさを奪っている(あとゲームスタート時に主人公のレベルが5とかになってるやつも意味わかんない。序盤にレベルが下がることはまずないんだからスタートは1でいいだろ)。


 ぼくが大好きなのは、「中盤で加入してくるレベルの低いやつ」だ。

 たしかにレベルが低い仲間は足手まといだ。戦力にはならないし、それどころかどんどん回復してやらないとすぐ死ぬし。

 その代わり、敵を倒したときはぐんぐんレベルが上がる。一気に2以上もレベルアップすることすらある。ドラクエの「てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪」が鳴りやまないときなんて、最高に楽しい。



『ポケットモンスター』が人気になった要因のひとつが、実はこの「レベル上げの快感をいっぱい味わえること」なんじゃないだろうか。

 ふつうのRPGならレベルが上がるのはせいぜい数百回だ。4人のキャラクターが1→100までレベルアップしたら、99×4で396回。じっさいはLV99まで上がらないこともあるし、前述したようにLV30から加入するやつもいたりするから、もっと少ない可能性もある。

(最近のゲームをやってないので昔のRPG基準で話してます)


 一方、『ポケットモンスター』では100を超えるポケモンを仲間にできるので、それぞれ育成させれば合計で数千、数万回もレベルアップする。

 さらにパラメータの上昇だけでなく「わざをおぼえる」や「しんか」といった、わかりやすい成長イベントも発生。

『ポケットモンスター』はレベルアップを楽しむためのゲームなのだ。