2022年6月21日火曜日

自宅バーベキューがいやな7個の理由。

 娘の通う保育園の保護者から自宅バーベキューに誘われてしまった。

 断りたかったのだが、浮世のしがらみというやつで断り切れずに参加した。

 案の定、やめときゃよかったと心からおもった。


 ことわっておくが、べつに親睦を深めることに反対しているわけではない。

 特に次女は一昨年保育園に入園したので、ずっとコロナ禍である。園の行事はことごとく中止・縮小され、遊びに誘うこともしにくくなり、保護者同士が話す機会はぐっと減った。

 ぼくは大人と話すのは苦手だがよその子と遊ぶのは好きなので、子どもたちが集まる場があるのは素直にうれしい。

 ただ、その手段として自宅バーベキューはないだろうとおもっているのである。その理由を挙げていく。


1. 家の人に気を遣う

 微妙な距離感の人の自宅でのバーベキューはものすごく気を遣う。トイレを借りるだけでも遠慮する。しかも幼児連れ。やつらは遠慮なんてないので、目を離すとすぐになんでもかんでもさわる。遠慮ばかりしてしまって楽しめない。

 ほんとは「こぢんまりした家ですね」とおもっているのに「うわー、立派な家ですねー」と言わなきゃいけないのも煩わしい。


2. 近所の人にも気を遣う

 自宅の庭でのバーベキュー。はっきりいって近所迷惑だとおもう。ぼくが隣人だったらうれしくない。煙はくるわ、子どもはさわぐわ、子どもが闖入してくるわ。


3. 洗い物めんどくせえ

 バーベキューの後片付けってすごく面倒じゃない。網の掃除とか。

 できることならほったらかして帰りたいけど、そういうわけにもいかない。他の人が持ってきた網だから、自分の家でやるときよりぴかぴかに洗わなきゃいけない。

 だったらちょっとぐらい高くついてもお店でご飯食べて洗い物放置して帰りたいよ。


4. うまくない

 はっきりいってバーベキューの料理なんてべつにうまくない。焦げるし、自分の好きなタイミングで食べられない。ちゃんとキッチンで料理したもののほうがおいしい。

 バーベキューは雰囲気を楽しむもので、料理を楽しむものではない。そして雰囲気を楽しめるのはよほど気心の知れた間柄だけで、〝保育園の保護者同士〟の関係では楽しめない。


5. 落ち着かない

 ただでさえ小さい子どもとの食事は落ち着かない。さわぐし走り回るしものを落とすし。

 バーベキューだとなおさらだ。火の加減は見なくちゃいかんし、肉や野菜が焦げないか見なきゃいかんし、子どもが火に近づかないように見張らなきゃならんし。ただただ疲れる。


6. 余る

 バーベキューをやったことのある人に訊きたい。ちょうどいい量を食べられたことありますか? と。

 バーベキューの食材はたいてい余る。そして後半は食べたくもないのに無理して食べるはめになる。九割方余る。残りの一割はもちろん「足りない」だ。


7. 子どもは食べない

 小さい子どもとバーベキューをやったことのある人ならわかるだろう。子どもは食べない。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージを食べてそこそこ腹がふくれたら、もうじっとしていられない。席を立って歩きまわる。一人でも歩きはじめたらもう終わりだ。残りの子もじっとしていられない。メインの肉なんて見向きもしない。あとはせいぜいデザートのフルーツかお菓子をちょっとつまむぐらい。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージしか食べないんだったらバーベキューでなくていい。自宅のフライパンで焼いて持ってくればいい。洗い物もずっと少なくて済む。
「バーベキューで子どもは食べない」これはまちがいない。

 中学生ぐらいになったらたくさん食ってくれるだろうが、言うまでもなく中学生は親とのバーベキューなんて来てくれない。


 というわけで、自宅バーベキューなんかなんのいいこともない。迷惑でしかないから招待しないでほしい。

 やっていいのは、自宅の敷地面積が1000㎡以上あって、専属シェフが準備から焼くのから後片付けまで全部やってくれる家だけ!


2022年6月20日月曜日

【読書感想文】中谷内 一也『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』 / なぜコロナパニックになったのか

リスク心理学

危機対応から心の本質を理解する

中谷内 一也

内容(e-honより)
人間には危機に対応する心のしくみが備わっている。しかし、そのしくみにはどうやら一癖あるらしい。感情と合理性の衝突、リスク評価の基準など、さまざまな事例を元に最新の研究成果を紹介。


 世の中にはリスクがあふれている。我々はリスクに備え、様々な手を講じてリスクを回避・軽減しようとする。

 でも我々はリスクの計算が苦手だ。大した危険のないものにおびえ、ほんとに危険なものは軽視してしまう。

 よく言われるのが「多くの人間の命を奪った生き物だ」だ。ヒトを除けば、最も人間の命を奪った生物は蚊である。蚊が媒介した伝染病により、今でも多くの人が命を落としている。
 一方、サメで命を落とす人は年間数人程度。日本にかぎっていえば、ほぼゼロ(数年に一度負傷者が出るレベル)。でも我々は蚊よりもサメのほうが怖い。これはリスクを正しく判断できていない例だ。


 だからこそ保険が商売として成り立つ。スマホや家電を買うと、有償の保険に勧められる。壊れた場合に無償で修理できますよ、というものだ。数万円のスマホに対して数千円の掛け金。故障の確率を考えると、どう考えたって加入すると損だ(頻繁に壊す人は別)。それでも加入する(そして故障しない)人が多いから商売として成り立つんだろう。ぼくは加入しないけど、それでもちらっと「どうしよっかな」と迷ってしまう。




『リスク心理学』では、なぜ我々はリスクを誤って査定してしまうのかについて説明してくれる。

 スターの分析結果のうち、後の研究により影響を与えたのはもうひとつの方の知見でした。それはスキーや喫煙のような能動的に行う行為は、電力や自然災害のように、通常の日常生活を送るだけでかかわることになる受動的なハザードに比べて一○○○倍もの大きなリスクが許容されている、ということでした。
 例えば、自家用飛行機の事故率は一般の商用飛行機よりも格段に高いのですが、自家用機は自分の意思で利用するのでリスクが大きくても利用者は受け入れます。一方、一般の商用飛行機は人々は移動にそれを利用せざるを得ないのでより低いリスクでないと受け入れない、というわけです。
 つまり、社会は、一定のリスク/ベネフィット関係でいろいろなハザードを受容しているのではなく、自発的に接するハザードと非自発的なハザードとでは、別のリスク/ベネフィット関係があって、自発的ハザードは高リスクでも受け入れるダブルスタンダード(二重規範)になっていたのです。スターは徹底してリスクとベネフィットを数量的に扱い、両者の関係を定量的に求めてきました。その結果として自発性という定性的な要因の影響が顕わになってきたという点が面白いですね。

 つまり、自分が好きでやっていることはリスクを低く見積もってしまうのだ。

 新型コロナウイルスでいえば、満員電車はみんなマスクをして口を閉じていても怖い。でもマスクを外して会食する飲み会は大丈夫だとおもってしまう。

 かつてぼくが視力回復手術をしようとしたところ、父親から「やらなくていいことでリスクがあることはやめとけ」と反対された。でもそんな父親はゴルフが趣味だ。ゴルフなんて「やらなくていいことでリスクがあること」の筆頭みたいなものなのに(父親の反対は無視した)。


「自分の意思でコントロールできないもの」「大惨事になる可能性があるもの」「すぐに死につながるもの」「目に見えないもの」「リスクにさらされていることに気づきにくいもの」「新しいもの」「よくわからないもの」は、じっさいよりもリスクを高く算定するそうだ。

 新型コロナウイルスなんかまさにその代表例で、コントロールできない、目に見えない、感染してもすぐに発症するわけではない、新しくてよくわからない、といった条件が重なり、人々はパニックに陥った。特に2020年の右往左往っぷりは(ぼくも含めて)滑稽なほどだった。

 個人だけではない。子どもの死者がひとりも確認されていない時点で国があわてて全国的に休校をしたり、一日の感染者数が日本中で数十人しかいないのに実質ロックダウン状態にしたり。国の対応も、2022年の今からおもえば「もうちょっと落ち着け」と言いたくなるようなものばかりだった。まあ今だから言えるわけだけど。

 そのくせ、2021年に東京オリンピックが近づくとあれやこれやと「オリンピックを開催できる理由」をアピールしはじめた。これなんかまさに「自発的ハザードは高リスクでも受け入れる」の典型例だ。つまり政府といったって結局は人間の集まりなので、ぼくら個人と同じくらいバカでよくまちがえるということだ。


 新型コロナウイルスとは逆に、リスクを低く見積もってしまうものもある。筆者が挙げるのは自転車だ。

 自転車は意外とリスクの高い乗り物です。自転車運転中の死亡者は減少してきているのですが、それでも毎年数百人(平成初期は一○○○人超、近年でも四○○人程度)が亡くなっています。バイクや原付は交通事故で死亡するリスクが高く思われますが、実は、死亡者は自転車の方がずっと多いのです。毎年安定して何百人もの犠牲者を出しているのですが、それでも反自転車団体が自転車廃止運動を展開し、多くの市民がそれに同調する、という話は聞いたことがありません。なぜか?
(中略)
 恐ろしさ因子からみていきましょう。自転車運転中の事故に関して、災害発生前の「制御可能性」はかなり高いですね。ブレーキという制動装置がありますし、周囲に注意を払い安全運転を心がけることで、事故に遭う確率を低くできます。そもそも自転車に乗るのは自分の意思による選択なので、乗らなければ被害に遭うこともありません。
 これは自発性ともからんできます。例えば、放射線だと、事故現場近くに居住しているだけで否応なしに被ばくしますので制御可能性はないといえます。
 自転車と耳にしただけで「恐怖を喚起する」ということはありませんし、自転車事故が世界中で同時多発的に起こって「大惨事となる潜在性」があるとは思えません。「致死的な帰結」については、実際には先述のようにかなり高いのですが、自転車事故=死、という印象はないでしょう。(中略)
 次に未知性因子をみていきましょう。自転車はそこにあれば誰にでも見えますので「対象を観察できない」ということはなく、自転車に乗っている人は自分でそのことがわかっていますから「リスクに曝されている本人がそのことを知り得ない」ということもありません。事故があればその場で怪我をしますので、脳震盪などを除いて「悪影響がその場でば顕れず、後になってから生じる」とも考えにくく、自転車は「新しい」ものでもありません。「科学的によくわからない」という要素もあまりなさそうです。

 なるほどねえ。

 飛行機が怖い人は多いけど(ぼくもそのひとりだ)、確率でいえば飛行機よりも自動車や自転車のほうがよっぽど危険な乗り物だ。それでもぼくらは自動車や自転車のリスクを軽視してしまう。

 リスクの算定を誤ることは避けられないけど、「こういうときにリスクを高く/低く見積もりがち」という己の傾向を知っていれば、その誤差は小さく抑えることができる。

 大事なのは「自分はバカでよくまちがえる」と知ることだ。




 バカな我々がまちがえる理由のひとつが「公正世界誤謬」だ。

 新型コロナ禍の中、厳しい労働条件におかれ、大きな負担を強いられている医療従事者が地域社会から排除されるというのはいかにも理不尽なことです。感染者や感染者家族が回復し、十分に感染リスクが下がっても不当な扱いを受け続けることも同様です。しかし、しばしば「ひどい目にあっている人は、そうなるだけの理由があるのだ」と考えられがちです。
 これを説明する心理学モデルがメルビン・ラーナーによって提唱された公正世界信念と呼ばれるものです。それによると、われわれは「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が返ってくるものだし、良い人・善行には良い結果が返ってくるものだ」という因果応報的な信念を持ちやすいのです。この信念を持つことには肯定的な側面もあり、例えば、目標を立てそれに向けて努力することや主観的な幸福感の高さに関連しています。けれども一方、この信念は正しい行いをしているのに理不尽にひどい目にあわされている人の存在を容認しにくくします。それを認めてしまうと自分の信念が脅かされるからです。

 世界は公正であることをうたう言葉は多い。「正義は勝つ」「お天道様は見ている」「悪銭身に付かず」「努力は必ず報われる」など。

 それ自体は悪いことではないが、こういう信念が強すぎると容易に「あの人が負けたのは正義ではなかったからだ」「おれが金持ちなのは正しいことをしているからだ」「あいつが報われないのは努力が足りないからだ」と信じこんでしまう。

 言うまでもなくこれは誤っている。どれだけがんばっても報われない人はいるし、畳の上で家族に見守られながら穏やかに死ねる悪党もいる。天災で死んだのはおこないが悪かったからではない。


 「正義が負けて悪が勝つこともよくある」と認めるのはしんどいんだよね。ぼくがテレビや新聞のニュースを見るのをやめたのも、それが理由のひとつだ。
「政権に媚を売っていれば検事長が違法な賭けマージャンをやっていても起訴されない」「権力を持っていれば有権者を接待しても検察が見てみぬふりをしてくれる」とか認めるのはすごくストレスだもの。検察が正しい仕事をしてくれるはず、検察が動かないということはそれ相応の理由があるからだ、それが何かはわからないけど、と無根拠に信じていればそれ以上頭を使わなくて済む。

 三歳児みたいに「正義は勝つし、常に正しい判断を下せる人がいるはず」と信じられれば楽なんだけどね。気持ちは。


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2022年6月17日金曜日

【漫才】将棋のルール


「将棋をやってみたいとおもうんだけどさ」

「いいじゃん」

「でもルールがなにひとつわかんないんだよね」

「あー。まあ最初はちょっとむずかしいかもな。でもすぐおぼえるよ」

「将棋のルールわかるの?」

「わかるよ」

「全部?」

「全部? ん、まあ、全部……わかるよ」

「じゃあ聞くけど、ごはんっていつ注文すんの?」

「ごはん?」

「ほら、棋士が対局するときってお昼ごはん食べたりするんでしょ。あれってどのタイミングで注文するの? 誰かが訊きに来るの? それともこっちから『そろそろ注文いいですか』って言うの?」

「えっ、えっ、ちょっと待って。プロ棋士の対局の話?」

「そうだよ」

「いや、将棋のルールっていうから、駒の動かし方とかそういうのかとおもったんだけど」

「そんなのは本読めばすぐわかるじゃん。今知りたいのはごはんの注文に関するルール」

「それはルールじゃないでしょ」

「じゃあルール無用で注文していいわけ? 板前呼んで十万円ぐらいする寿司のコースを握らせてもいいわけ? 対局やってる横でマグロの解体させてもいいわけ?」

「いやさすがにそれはだめでしょ」

「ほら、だったらルールがあるんだよ。将棋のルールは全部知ってるんでしょ。いつ注文するのか教えてよ」

「いやおれがおもってたのは盤上のルールだったんだけど……。まあ、十一時ぐらいに主催者が訊きに来るんじゃない? おひる何にしますかって」

「何頼んでもいいの?」

「いや……さすがにマグロの解体ショーやられたらまずいから……。あ、そうだ、メニューがあるんだよきっと。和食、洋食、中華それぞれのお店の。その中から選ぶんだ。だからいちばん高くてもうな重(上)の五千円とかだろうね

「棋士はいつお金払うの? 注文するとき? それともごはんが届いてから?」

「えっと……どっちでもないとおもう。対局中に財布出してるの見たことないもん。トーナメントのときは主催者持ちかな。将棋以外のことに頭使わせたら悪いし」

「ふだんの対局のときは?」

「どうしてるんだろ。あれかな、将棋協会とかが立て替えておいて、給料払うときにその分差し引いて振りこんでるとかかな」

「でも労働基準法第二十四条に賃金の全額払いの原則があるから貸付金との相殺は禁じられてるんじゃなかったっけ」

「なんだよ妙にくわしいな。将棋のルールは知らないくせに」

「法学部だから」

「めんどくせえなあ。じゃあ対局が終わってから請求してるんじゃないの」

「あのさ、テレビで観たことあるんだけど、棋士って対局中におやつも食べるでしょ」

「ああ、食べてるね。ものすごく頭使うから、甘いものがほしくなるらしいよ」

「おやつを持ち込んで食べるんだってね」

「そうそう。誰が何食べたかとかもけっこう注目されてるよね」

「あれは何持ち込んでもいいの」

「まあだいたいいいんじゃない。そりゃパティシエを持ち込んで作らせるとかはだめだろうけど」

「たとえばお汁粉とか」

「ぜんぜんいいでしょ。甘いし、冬なんかはあったまるだろうし」

「お汁粉の湯気で対局相手のメガネが曇らせる作戦」

「そううまくいくかね。そんなの一瞬でしょ」

「いつまでもメガネが曇るように、煮えたぎったお汁粉を……」

「そんな熱いの自分も食えないじゃん」

「食うときははフーフーして冷ますから大丈夫。あ、待てよ。フーフーしたら二歩で反則負けか」

「くだらねえな。将棋のルールなにひとつ知らないって言ってたくせに、二歩は知ってんのかよ」

「おまえこそ将棋のルールぜんぶ知ってるっていってたくせにぜんぜん知らないじゃないか」

「おれが言ってるのは将棋のルール。さっきからおまえが訊いてきてるのは棋士のルールじゃないか」

「じゃあ将棋のルールについて質問するよ。新しい駒を考えたときはどこに申請したらいいの?」

「……は?」

「だからさ、おれが新しい駒を考えたとするでしょ」

「なに言ってんの?」

「たとえばね、土竜(もぐら)って駒を考案したとするよ。相手の駒や自分の駒の下をくぐって前に進めるやつ」

「だからさっきからなに言ってんの

「これを正式に採用してもらいたいとおもったら、どういう手続きで日本将棋連盟に申請したらいいの? 決まった書式とかあるの? どこで申請書のPDFファイルをダウンロードしたらいいの? 採用された場合の権利関係はどうなるの? 発案者にはいくら入ってくるの?」

「ちょっ、ちょっと待って。ないから。新しい駒が採用されることなんかないから」

「ないの?」

「ないよ」

「えええ……。じゃあおれはなんのために三年もかけたんだ……」

「新しい駒考えてたのかよ」

「数百種類も考えたのに……」

「それもはや将棋じゃなくてポケモンバトルだろ」

「じゃあさ、また別の質問」

「もうやだよ。ぜんぜん将棋のルールの質問じゃないじゃない」

「次で最後だから。次こそちゃんとした質問」

「……わかったよ。最後な」

「ありがとう。じゃあ最後の質問。もしも将棋の駒が寿司ネタだとしたら、それぞれの駒はどの寿司ネタに該当するとおもいますか? また、どの順番で食べるのが正解だとおもいますか?」

「どこが将棋のルールなんだよ!!」




2022年6月15日水曜日

【読書感想文】乙一『平面いぬ。』 / 無駄だらけのようで無駄がない

平面いぬ。

乙一

内容(e-honより)
「わたしは腕に犬を飼っている―」ちょっとした気まぐれから、謎の中国人彫師に彫ってもらった犬の刺青。「ポッキー」と名づけたその刺青がある日突然、動き出し…。肌に棲む犬と少女の不思議な共同生活を描く表題作ほか、その目を見た者を、石に変えてしまうという魔物の伝承を巡る怪異譚「石ノ目」など、天才・乙一のファンタジー・ホラー四編を収録する傑作短編集。

『石ノ目』『はじめ』『BLUE』『平面いぬ。』のファンタジー四篇を収録。

 どれも奇妙な味わいの話だ。


『石ノ目』は、目を見ると石化してしまう女にまつわる話。メデューサみたいなやつね。遭難してある家に迷いこんだ主人公たち。そこには精巧な石人形たちと、決して顔を見せようとしない女がいた。主人公は、石人形の中からかつて行方不明になった母親をさがすが……。

 終始不気味な雰囲気が漂う話だが終盤はおもわぬ展開を見せる。話の持っていきかたに無駄がなくて、小説巧者という感じだ。


『はじめ』の主人公は男子小学生。先生に怒られないための言い訳として〝はじめ〟という架空の女の子を考えだしたところ、主人公とその友だちにだけははじめの声が聞こえるようになる。
 幻なのに主人公たちを助けたり成長したりする〝はじめ〟。幻の友だちとの友情、そして別れを丁寧に描いていて、幻なのにほろ苦い青春小説になっているのが妙な感覚だ。「幻の友だち」だけでなく「謎の地下通路」というもう一エッセンス加わっているのがいい。
 ところで、「~だったんだ」をくりかえす変わった文体なのでこれがなにかを表しているのかとおもったら、特に意味がなかった。


『BLUE』はぬいぐるみたちの心中や行動を描いた短篇。『トイ・ストーリー』のようだが、もっとビターな味わい。出てくるぬいぐるみも人間もあまり性格のいい連中じゃない。
 ダークな世界を描いていて個人的にはいちばん好きだったが、着地はちょっと安易なお涙ちょうだいだった。


『平面いぬ。』は、腕に入れた刺青の犬が意識を持って行動するようになった少女の話。身体の一部が自我を持つというアイデアは昔からよくあって、落語『こぶ弁慶』、『ブラック・ジャック』の『人面瘡』、星新一『かわいいポーリー』など、そこまで目新しいテーマではない。ただしそこに「家族が次々に余命宣告される」という要素を加えることで緊張感のある展開になっている。ちょっとしたオチもあり、これまたうまい小説。無駄だらけのようで無駄がない。




 どれも派手さはないけれど、しみじみと味わいのある小説で、しかも構成がうまい。これを二十歳ぐらいで書いているってのがすごいなあ。


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2022年6月14日火曜日

いちぶんがく その13

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




まずはエロ。

(半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』より)





「あんたらに復讐する権利がある」

(深谷 忠記『審判』より)




「50カ国全てから、<国民主権>や<公共>という非効率な概念が、やっと取り払われるんです」

(堤 未果『政府はもう嘘をつけない』より)





そのため、従来型の生物たちはばたばたと滅んでいったのです。

(藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか 壮大なスケールの地球進化史』より)




彼にとって、世界とは、ゴキブリの活字で埋まった新聞紙にすぎなかった。

(三島 由紀夫『命売ります』より)





自然科学の世界でも、自分の意見に固執しすぎると、悪魔に首を取られるかもしれない。

(花井 哲郎『カイミジンコに聞いたこと』より)




卒業式がどこかへ飛んでいく。

(朝井 リョウ『少女は卒業しない』より)





私は亡くなった友人と出会い直したのだ。

(中島 岳志『自分ごとの政治学』より)




ジョージは生まれてはじめて阿呆になったような気がした。

(アーサー・C・クラーク(著) 福島 正実(訳)『幼年期の終り』より)





チーズの表面はダニの糞や脱皮殻の層でおおわれ、それをとりのぞいてみると、無数のダニがうごめいているのが見えます。

(青木 淳一『ダニにまつわる話』より)




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