2022年3月16日水曜日

【コント】お金をくれる人

「あげるよ」

「えっ。なにこのお金」

「なにって……。一万円だけど」

「いやそういうことじゃなくて……。えっと、おれおまえに金貸してたっけ?」

「借りてないけど」

「だよね。じゃあなんで」

「なんでって……。あれ、もしかしてお金嫌い?」

「嫌いじゃないけど。大好きだけど。嫌いな人なんていないだろ」

「じゃあいいじゃん。もらっとけば。かさばるものでもないし」

「いやいやいや。もらえないよ」

「なんでよ。お金好きなんでしょ」

「お金は好きだけど、こんなよくわかんないお金もらえないよ。怖いよ」

「あーたしかに福沢諭吉ってちょっといかめしい顔してるもんな」

「そういうことじゃなくて。この状況が怖いって言ってんの。いきなりこんな大金渡されたって受け取れないよ」

「じゃあいくらなら受け取ってくれるの」

「いくらとかじゃなくて、百円でも嫌だよ。理由なく渡されたら。まあ十円ぐらいなら受け取るかもしれないけど」

「じゃあとりあえず十円渡しとくわ」

「いやいいって。なんでそんなにお金渡したがるかがわかんないんだけど」

「なんでそんなにお金を受け取ろうとしないのかがわかんないんだけど」

「え、この状況でおかしいのおれのほう!?」

「そりゃそうだよ」

「なんでよ」

「だってさ、おまえはお金が好きなんでしょ。よく金ほしーとか今月金欠だわーとか言ってるじゃない」

「言ってるけど」

「だからどうぞって言ってるの。それで受け取らないほうがおかしいでしょ。定食屋でうどんくださいって言って、うどん運ばれて来たらいりませんって言うようなもんじゃない」

「いやそのたとえは違うくない? おれはおまえから金ほしいって言ってるわけじゃないから」

「じゃあ誰からほしいのよ」

「誰ならいいとかじゃなくて」

「あ、わかった。おまえ、おれが金貸そうとしてるとおもってる? だから嫌がってるんだろ。大丈夫、これは貸すわけじゃなくてあげる金だから。ぜったいに返せとか言わないから」

「だからそれが怖いんだって。借りるほうがまだいいよ」

「なんでよ。もらうより借金のほうがいいなんておまえ変わってるな」

「変わってるのはおまえのほうだよ」

「なんで怖いの。あ、もしかしてこの金と引き換えになにか要求されるとおもってるんでしょ。後からとんでもないお願いされるかも、って」

「あーそうかも。だから怖いのかも」

「大丈夫だって。ほんとにただあげるだけ。恩を売るつもりもないし。こうしよう、おれがおまえに一万円あげて、そのことをお互いに忘れよう。それならいいでしょ」

「忘れられるわけないだろ。こんな異常な事態

「なんで受け取ってくれないかなあ」

「なんでそんなにおれにお金くれようとするわけ。あ、もしかして宝くじ当たったとか万馬券当てたとか? 幸せのおすそ分け的な?」

「いやべつに」

「こんなこと聞いちゃわるいかもしれないけど……。もしかして宗教の教えとか? 喜捨しなさい、みたいな」

「おれがそういう不合理なこと嫌いなこと知ってるだろ」

「だよなあ。でも、理由もないのに友だちにお金あげるほうが不合理じゃない?」

「おいおい。おれは不合理なことは嫌いでも、人としての情はあるの。
 たとえば、おまえが十個入りのチョコレートを食べてるとするよな。そこにおれが来たとする。おまえはどうする?」

「一個どう? って訊くよ」

「そう。それがふつうの人間の感覚なんだよ。だからおれが十万円持ってたら、おまえに一枚どうぞって言うのが人としての常識なんだよ」

「なるほどな……。ん?  いやいや、やっぱりおかしいって。その例でいうならさ、チョコレートどうぞって勧めて、いりませんって言われてるのに無理やり押しつけようとしてるようなもんじゃん。それはやっぱりおかしいよ」

「まったく、ああ言えばこう言う……。それは本心からチョコレートをいらないとおもってる場合でしょ? そこで無理に勧めるのはたしかにおかしいよ。だけどさ、おまえの場合はお金好きなわけじゃん。そしてお金ダイエットをしているわけでもない」

「なんだよお金ダイエットって。お金減量中です、なんて人いないだろ」

「つまりおまえは遠慮してるわけだよ」

「まあ遠慮といえば遠慮かな……」

「だったら無理やりにでも押しつけてあげるのが優しさだろ。さ、受け取れよ」

「嫌だってば。おまえから一万円渡されたって受け取れないよ」

「じゃあ誰ならいいわけ?」

「誰であっても知り合いからもらうのは嫌だよ」

「じゃあ知らない人ならいいわけ?」

「もっと嫌だよ。知らない人からいきなり一万円渡されるとか、怖すぎるだろ」

「知ってる人からもらうのは嫌、知らない人も嫌。なのにお金ほしいってどういうことだよ?」

「うーん……。わかった、理由がないのが嫌なんだ。貸してた金を返してもらうとか、労働の対価とか、理由があれば受け取るよ、ぜんぜん

「こないだおまえ『あー、どっかの金持ちがぽんと十億円ぐらいくれないかなー』って言ってたじゃん」

「あれは冗談。実際にはもらうべき理由がないのにお金渡されたら怖いよ」

「そんなもんかねえ。でもさ、こないだミナモトさんが四国に旅行行ってきたからってお土産のお菓子買ってきたとき、おまえももらってたじゃん」

「もらってたよ」

「なんでよ。もらうべき理由がないじゃん」

「あれはお土産じゃん」

「だからなんでよ。ミナモトさんが休みの日に四国に行ったこととおまえにどんな関係があるの? おまえがミナモトさんの旅費出したの? だったらわかるけど」

「いやそうじゃないけど。でもほら、お土産ってそういうもんだから。特に理由なくてももらうもんだから」

「じゃあおれもこないだATMに行ってきたから、そのお土産としておまえに一万円あげるよ」

「だからそれはおかしいじゃん」

「なんで? お土産なら理由なくてももらうんでしょ」

「だからそれは……。
 ああ、もういいや。この件で議論するの疲れたわ。もらう、もらうよ。その一万円もらうよ」

「もらってくれるのか」

「ああ」

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「どういたしまして。で、おまえに折り入って頼みがあるんだけど……」

「やっぱり! やっぱりそうきた! でもちょっと安心した! ちゃんと理由のある金でよかったー!」


2022年3月15日火曜日

【読書感想文】白石 一郎『海王伝』

海王伝

白石 一郎

内容(e-honより)
海賊船「黄金丸」の船頭・笛太郎は明国の海賊・マゴーチの本拠地であるシャムのバンコクに赴く。そこで笛太郎はマゴーチが実父であることを知るが、異母弟を殺してしまったことから、親子の宿命的な対決が始まる―。笛太郎は海の「狼」から「王」へ変わることができるのか?直木賞受賞作「海狼伝」衝撃の続編。

『海狼伝』がおもしろかったので、続編『海王伝』にも手を出してみた。

 前作では津島~瀬戸内海あたりが舞台だったが、今回の舞台は琉球、シャム(タイ)。話のスケールとしては大きくなったが、正直、物語のおもしろさはトーンダウンしてしまったように感じる。

 というのは、『海狼伝』が笛太郎やその仲間の成長を描いていたのに対し、『海王伝』のほうは成長後を描いているからだ。

 『海狼伝』冒頭の笛太郎は何者でもなかった。海女のために船を出してやるだけの男であり、その仕事すら満足にできず海女からもばかにされる始末。そんな男が海に出て、半ば強制的に海賊の仲間に入れられ、囚われの身となって命からがら救われたり、口と商才だけが達者な男の下について借り物の船ではあるが海賊になり、そして幾多の戦いを経て船づくりの天才を味方につけ、ついに自分たちの船を完成させ、中国に向けて出航する……。なんとも波乱万丈な物語だった。

 一方の続編『海王伝』はすでに成熟してしまっている。そんじょそこらの海賊には負けない立派な船があり、笛太郎はお頭であり、戦いに慣れた仲間もいる。これではなかなか血沸き肉躍る冒険にはならない。中盤以降のONE PIECEといっしょで「はいはいどうせ絶対絶命のピンチになっても最後はルフィがボスをぶっとばして宴なんでしょ」と冷めた目で見てしまう。

 だからだろう、『海王伝』では牛太郎という新しいキャラクターの話から始まる。牛太郎は獣が好きなせいで罠にかかった獣を勝手に逃がしてしまい、村八分を食らっている男だ。この男も、昔の笛太郎のように何者でもない。この男が村から追いだされるようにして逃げ出し、初めて目にする海に出ることになる……。というオープニングは、こちらの期待を十分に高めてくれるものだった。

 しかし牛太郎が笛太郎と出会ってからは、いたって平和そのもの。他の船との戦闘になってもどうも緊張感がない。黄金丸(笛太郎たちの船)が強くなりすぎてしまったのだ。

 どおんと後方で大筒の音がした。
 三郎が振り返ると、大型ジャンクが遥か後ろから黄金丸の船尾をめざして来ている。しかし黄金丸のあざやかな上手回しの旋回に慌てたらしく、大型ジャンクと黄金丸の距離は先刻より遠く離れていた。
 上手回しの回頭は詰め開きともいい、最も難しい操船術だ。
 ずんぐりしたジャンクの船体では、むりに上手回しをやると、前進力を失って操船に苦しむ。
 大型ジャンクの場合がそれだった。とつぜん大旋回した黄金丸の櫓走に戸惑い、自分も櫓走に切替えて風上へ向ったが、回頭に失敗したのだ。

  海戦の描写は相変わらずすばらしいんだけどね。海や船のことがさっぱりわからなくても、なんかふしぎと説得させられるんだよね。




 笛太郎の目的のひとつが「父親・孫七郎に会う」だ。その孫七郎ではないかと疑われるのが明の海賊・マゴーチだ。この巻ではついにマゴーチに出会う。

 はたしてマゴーチは本当に笛太郎の父親なのか、そしてふたりはどうやって向き合うのか……。

 引っ張って引っ張って単純な「感動の父子の再開」にはなるまいなとおもっていたら、なんとこういう展開とは。なるほどなあ。
 余韻を残す終わり方もなかなかしゃれている。

 これはこれでおもしろかったんだけど、『海狼伝』がおもしろすぎたので、期待を上回ることはできなかったかなあ。やっぱり一番魅力的だったキャラクターである小金吾が前作のラストで死んじゃったのが残念。彼を主人公にした話を読みたいぐらいだ。


【関連記事】

【読書感想文】白石 一郎『海狼伝』 ~わくわくどきどき海洋冒険小説~



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2022年3月14日月曜日

ツイートまとめ 2021年11月



筋肉は裏切らなかった。これまでは。

SDGs

時空のゆがみ×2

帝国

コンビニなぞなぞ

習慣

耳たぶ

ズトバク

按分

人の心

現場主義

偏差値

イヤ系

からっぽ

祖母のあだ名

計略

人生の半分

夢を買う

昔の映像

尾崎豊

2022年3月11日金曜日

父親に、あのとき言わなくてよかった言葉

 父親に対して、あのとき言わなくてよかった言葉がある。


 大学を卒業して、親の反対を押し切って小さい会社に就職し、しかしとんでもなくブラックな会社だったために(日をまたぐ残業があたりまえ、給与も求人票の内容とまったく違う)一ヶ月で辞めた。

 事前の相談もなく「もう辞めたから」と告げると温厚な父親もさすがに怒り、電話で「何考えてるんだ!」と怒鳴られた。
 怒られることは想定していたものの「今からでも頭を下げて元の会社に戻れないか」なんてことを言ってくるものだからこちらも「おまえに何がわかるんだ」と頭にきて口論になり、

「会社に長く勤めることに価値があるとおもってんのか? もうそんな時代じゃないんだよ。自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」

という言葉が口をついて出そうになった。が、すんでのところで思いとどまった。




 父は会社大好き人間だった。朝早くに起きて仕事に向かい、夜遅くに帰ってくる。ぼくが子どもの頃は、平日に父と顔をあわせるのは朝だけだった。土日も接待ゴルフに出かけることが多かった。

 家は自社の製品であふれ、阪神大震災があったときは対応業務で何週間も家に帰ってこない日が続いた。

 会社に命じられるまま関西から転勤もした。エジプト、東京、横浜。すべて単身赴任だった。

 父はそこそこの役職を得ていたようだが、五十歳を過ぎて、子会社へ出向することになった。ぼくは大会社に勤めたことがないが「五十歳を過ぎて子会社へ出向」が栄転でないことはわかる。

 当時大学生だったぼくは「あんなに仕事に人生を捧げてたくせに、子会社に飛ばされてやんの」とうっすら小ばかにしていた。親の金で大学に通っておきながら。なんて生意気なガキだ。




 あれから十数年。

 ぼくもそれなりに働いて給料を稼いでいる。何度か転職をしたが、今の業種で十年以上やっているし、結婚して子どもも生まれて、一応父親を安心させることができたとおもう。

 仕事を続けるたいへんさもわかった。

 そしてつくづくおもう。

 あのとき「自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」と言わなくてよかった、と。

 ぎりぎりのところで胸にしまっておいてよかった、と。


 あの言葉を口にしていたら、父子の間に一生消えないヒビができていただろう。

 父が家族との時間も削って仕事に打ちこんでいた理由のひとつは、月並みな言い方になるが「家族のため」だろう。妻子の生活を守るため懸命に働いたし、転勤を命じられたときは子どもたちに負担をかけぬよう単身赴任を選んだのだろう。

 ぼくは「父は仕事大好き人間だ」とおもっていたけれど、仕事を辞めたくなる日もあったはずだ。
 それでも辞めなかった理由のひとつは、子どもがいたからだろう。


 仕事に打ちこむことで家庭を守ろうとした人が、その家族から「会社から捨てられたくせに」なんて言われたらどうなっていただろう。

 あやうくぼくは、彼のぜったいに傷つけてはいけない場所を傷つけてしまうところだった。つくづく、言わなくてよかった。




 ただ、あのときぼくが口にしかけた「会社に長く勤めることに価値がある時代じゃない」については、今でも正しかったとおもう。

 でも、やっぱり言わなくてよかった。正しかったからこそ、余計に。


2022年3月10日木曜日

【読書感想文】ヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

ねじとねじ回し

この千年で最高の発明をめぐる物語

ヴィトルト・リプチンスキ(著)  春日井 晶子(訳)

内容(e-honより)
水道の蛇口から携帯電話まで、日常生活のそこここに顔を出すねじ。この小さな道具こそ、千年間で最大の発明だと著者は言う。なぜなら、これを欠いて科学の精密化も新興国の経済発展もありえなかったからだ。中世の甲冑や火縄銃に始まり、旋盤に改良を凝らした近代の職人たちの才気、果ては古代ギリシアのねじの原形にまでさかのぼり、ありふれた日用品に宿る人類の叡智を鮮やかに解き明かす軽快な歴史物語。

「この千年で最高の発明は何か」について考えていた著者は、身近な道具の歴史についての調査を進め、最高の発明は「ねじとねじ回し」ではないかとおもいいたる。

 そして様々な文献を読みあさり、ねじとねじ回しの誕生、そして進化、それらがもたらした影響について考察を進めてゆく……。

 と、なんともマニアックな題材の本。


 以前、アンドリュー・パーカー『眼の誕生 ―カンブリア紀大進化の謎を解く―』という生物に眼が誕生した経緯を追い求めるノンフィクションを読んだことがあるが、なんとなくその本を思いだした。

 我々はあたりまえのように眼から情報のほとんどを獲得しているが、眼のような複雑な器官がどうやって誕生したのかを考えるとじつに不思議だ。さらに角膜や水晶体や脳の視覚をつかさどる部分などどれが欠けてもまともに機能しない。なぜ生物は「できかけの眼」を持つにいたったのか、それともそれらが同時発生的に誕生することなどあるのだろうか?

 ……眼の話になると長くなるので気になる人には『眼の誕生』を読んでもらうとして『ねじとねじ回し』の話に戻る。

 たしかに、生まれたときからあたりまえのように身近にあったので今までねじやねじ回しについてじっくり考えたことがなかったが、言われてみればよくできた道具だ。

 ねじ穴にねじをつっこみ、ねじ回しでくるくる回す。それだけなのにものとものががっちり固定される。多少はゆるむこともあるが、おもいっきり締めればたいてい十年はもつ。それでいて、反対側にまわせばゆるんではずせるのがすごい。

 精密機械にも使われているし、大きな橋を見るとあちこちにボルトがつけられていたりもする。あんな巨大なものでもねじで支えられているのだ。見たことはないけど、きっとロケットや宇宙ステーションにだってねじは使われてるんじゃないだろうか。

 おまけにねじのすごいのは、もうほとんど完成しているところだ。数十年前からねじの形状はまるで変わっていない。そりゃ細かい修正はあるのだろうが、形状は百年前となんら変わらない。

 そういや『ドラえもん』に、ドラえもんのねじが一本はずれて調子が悪くなるというエピソードがあった。22世紀のロボットにもねじが使われているのだ。

 電動ドライバーなるものもあるが、あれも人の手がやる部分を電気の力でやっているだけで、ねじとねじ回し部分はなんら変わっていない。

 よく考えたら、すごいぞねじ。「この千年で最高の発明」という称号も決しておおげさではないかもしれない。




 本筋とはずれるが、すごいのはねじだけではない。

 この本には、他のすごい発明品も挙げられている。そのひとつが、洋服のボタンだ。

 ところが一三世紀に入ると、突如として北ヨーロッパでボタンより正確には――ボタンとボタン穴――が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。科学上の、あるいは技術上の大発展があったから、というわけではない。ボタンは木や動物の角や骨で簡単に作ることができるし、布に穴を開ければボタン穴のできあがりだ。それでも、このきわめて単純な仕掛けを作り出すのに必要とされた発想の一大飛躍たるや、たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを言葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。

 単純な仕組みでありながら、そして技術的にはさほど難しくないにもかかわらず、人類が何千年もおもいつかなかったボタン。

 穴に、糸のついたものを通してひっかける。たったこれだけのことで、服が脱げたりずれたりするのを防いでくれるし、それでいて脱ぎたいときにはすんなり脱げる。言われてみればすごい発明品だ。

 誰かがボタンを発明したとき、きっと周囲の人たちは「どうしてこんなかんたんなことを思いつかなかったんだ!」と悔しい思いをしただろうなあ。




 正直言って、「ねじとねじ回しの発明」という本題はあまりおもしろくなかった。

 最大の理由は、図解が少ないこと。ねじがどんなふうに進化してきたかを一生懸命説明してくれているのだが、こんなのはどれだけ筆を尽くしても伝わらない。がんばって説明しようとしているのはわかるが、ぜんぜんわからない。一枚の図解があれば伝わるのに……。

 結局、どんなふうに誕生したのかはよくわからなかった。最後の最後でアルキメデスの名前が出てきたときは「おお、こんなところにまで登場するとはさすがはアルキメデス! 」と興奮したけど。

 まあぼくがねじに興味がないからおもしろくなかっただけで、ねじ大好き! 四六時中ねじのことばかり考えています! というねじファンが読めば楽しいんじゃないでしょうかね。


 今すでにある発明品について、なんとなく「遅かれ早かれ誰かが発見した」とおもってしまう。

 ところが筆者によると、必ずしもそうではないらしい。

 天才技師は、天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることに間違いはない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」たとえば、セザンヌが存在しなくても誰か別の画家が同じようなスタイルの絵を描いただろうと言われても、多くの人は納得しないだろう。その一方で、新しいテクノロジーは登場すべくして登場したのだ、それは必然の結果だったのだと言われれば、たしかにそうだと納得してしまう。だが、この一○○○年で最高の工具を探し求めるうちにわかってきたのは、それは違う、ということだ。

 発明品には、世界各地で別々に発明されているものがある。たとえば文字は、あらゆる場所でそれぞれ無関係に発明された。だからルーツの異なる文字が何種類もある。

 だが、たったひとりの発明家によって発明されて、それが世界中に伝わったものもある。たとえば、さっき書いたボタン。もし十三世紀にボタンが発明されていなかったら……ひょっとすると二十一世紀の今でもボタンが存在していないかもしれない。いまだに紐でぐるぐる縛っていた可能性もある。

 一部の発明品は「遅かれ早かれ誰かが発明していたさ」とは言えないのだ。

 ということは。

 いまだに我々は、ボタンのようで「ごくごく単純な仕組みでありながら超便利な発明」をおもいついていない可能性がある。

 二十六世紀の人々から「二十一世紀の人たちってヌローズでエネルギーを作る方法すらおもいつかずに石油や原子力で一生懸命発電してたらしいよ。ばかだねー」なんて言われているかもしれない。


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