2021年5月14日金曜日

きりきり舞い

 「きりきり舞い」させられたことがあるだろうか。
 ぼくはある。

 小学生のとき、ぼくは野球の腕には自信があった。といっても野球チームには所属していなかった。放課後毎日公園で友人と野球をやっていただけだ。
 その中ではいつも好成績だった。たまに野球チームに所属している子と遊ぶこともあったが、そこそこいい勝負ができていた。
 あるとき、一学年上のMくんと対戦をしたことがある。このMくんというのは野球チームのエースで、中学でも市内の硬式野球チームのエースで、高校は野球推薦で強豪校に進み甲子園にこそ出られなかったもののエースとして活躍し、高校卒業後はドラフト8位で読売ジャイアンツに入ったすごい人だ。
 そんなMくん(当時は小学生だが)の球を、ぼくはバットに当てた。といってもファールだったが。それでも剛速球をはじきかえしたことで、ぼくは「慣れさえすればどんな球でも打てる」という(今考えれば誤った)自信をつけた。


 中学校に入ってすぐのことだった。
 公園で野球をしていると、Hという男が通りかかった。彼は隣の小学校出身で、この春から同じ中学校になったばかり。野球部に入っていた。
「おれも入れて」「ええで」
 Hもいっしょに野球をすることになった。

「ピッチャーやってや」
 バッターボックスに立っていたぼくは、Hに声をかけた。
 Hは身体が細く、いつもへらへらしているような男だった。ぜんぜんたいしたことなさそうだ。よしっ、こいつの球をはじき返して「おれは野球部にもぜんぜん負けない」ということを見せつけてやろう。

 Hはマウンド(といっても公園なので何もない)に立ち、ゆったりとしたフォームから球を放った。ぜんぜん速くない。余裕だ。
 ぼくは全力でバットを振った。からぶり。

 あれっ。大振りしすぎたか。「ちょっと狙いすぎたな」と言いながら再度かまえる。
 Hの投げた球はさっきといっしょ。ゆるい球。
 今度は確実に当てにいった。だがかすりもしない。ボールが逃げるようにバットから離れていった。

 ぼくはHの顔を見た。
 Hはにやりと笑った。「カーブ」

 これがカーブか……。
 ぼくは生まれてはじめてカーブを見た。もちろん存在は知っていた。ぼくも真似したことがある。本に載っていた「カーブの握り方」を真似して投げては「おっ、今の曲がったんちゃう!?」と友だちと言いあっていた。

 そのとき知った。
 ぼくらが「曲がった」とおもっていたのは、まったく曲がっていなかったことを。Hが投げたカーブこそが本物のカーブだった。

 だがぼくの自信はまだへし折られていなかった。
 さっきはカーブがくると知らなかったから打てなかったのだ。カーブがくるとわかっていれば対応できる。
 ぼくはHに「もう一回カーブ投げて」とリクエストをした。結果はからぶり。

 結局、十球ぐらい投げてもらったがぼくはバットに当てることすらできなかった。


 今にしておもうと、なまじっか野球に慣れていたのがかえってよくなかったのだとおもう。
「この速度でこの軌道でボールが来たらこうすれば打てる」という動きが身体に染みついている。カーブはそれとはまったく違う動きをする。頭ではわかっていても身体は対応できない。

 完敗。きりきり舞い。手も足も出ない。圧倒的な敗北だった。
「戦前、日米野球ではじめて変化球を見た日本人選手は度肝を抜かれた」という話を聞いたことがあるが(真偽は知らない)、まさにそんな状態だった。


 さらに驚くべきは、Hはぜんぜんすごいピッチャーではなかったことだ。
 決して強豪とはいえな中学の野球部(なにしろ一学年の部員数が十人もいないのだ)の中でも、二番手か三番手ピッチャーだった。

 ぼくは思い知った。自分が、井の中の蛙だったことを。
 ぼくがプロ野球選手になるのをやめたのは、あのときのきりきり舞いがあったからだ。


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2021年5月13日木曜日

【読書感想文】資源は成長の妨げになる / トム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』

喰い尽くされるアフリカ

欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日

トム・バージェス(著) 山田 美明(訳)

内容(e-honより)
石油やダイヤモンドのほか、多くの資源に恵まれているアフリカ大陸。だが、そこに暮らす人々の多くは厳しい貧困と内戦に苦しんできた。膨大な資源が生み出した巨額の金はいったいどこに消えたのか?長くアフリカに住み丹念に取材を重ねたフィナンシャル・タイムズ紙の記者が直面したのは、欧米が作り上げ、中国がブラッシュアップした巧妙な略奪のシステムだった。グローバル経済の実態を暴く!


 タイトルが『喰いつくされる』でサブタイトルが『中国が乗っとる』なので「中国ひどい!」みたいな内容かとおもいきや、そうでもない。
 たしかに一部の中国企業もアフリカで暗躍しているが、悪いのは中国企業だけでない。欧米の企業も悪いし、アフリカの為政者も悪い。
 ちょっとこのタイトルは中国を悪者にしすぎだなあ。


 本の内容は、ほとんどタイトルが表しているとおりだ。
 アフリカには、天然資源の豊かな国が多い。石油、ダイヤモンド、天然ガスなどが産出される。だが資源が見つかったことでその国が豊かになるかというとそんなことはない。むしろ逆で、政治の独裁が進んだり、他の産業が衰えたり、悪い面のほうが多い。

 サリムの調査チームは、天然資源の輸出に依存している国について、世界銀行のデータを詳細に検討した。その結果、一九六〇年から二〇〇〇年にかけて、天然資源が豊富な貧しい国よりも、そうでない貧しい国のほうが、成長が二~三倍速いことがわかった。この期間に経済成長を維持できなかった四五か国のうち、実に三九か国が石油や鉱物資源に大きく依存していた。また、一九九〇年代、世界銀行から融資を受けていた国は例外なく、石油産業・鉱業に依存している割合が高い国ほど、経済が悪化していた。

 意外なことに、天然資源は経済発展をもたらすどころか、成長の妨げになることのほうが多いのだ。
 もともと民主主義制度があって経済的に十分強い国が資源を手に入れた場合は有効活用できるが、そうでない国の場合は経済バランスなどを崩す原因になってしまう。

 資源によってかえって産業が衰えるこの現象は、オランダでガス田が見つかってから他の産業が衰えたことに由来して、「オランダ病」と呼ばれる。

 この病気は、貨幣を通じて国に入ってくる。輸出された炭化水素資源、鉱物資源、鉱石、宝石にドルが支払われると、自国通貨の価値が上がる。すると、国内製品に比べて輸入品のほうが安くなり、自国の企業が弱くなる。こうして輸入品が国内製品に置き換わると、地元の農民は耕作地を放棄する。それでも工業化が始まれば、このプロセスは後退していくが、このような状況になってしまうと工業化はなかなか進まない。天然資源を加工すれば、その価値を四〇〇倍にできるかもしれない。だが工業力のないアフリカの資源国家では、原油や鉱石がそのままの形で流出していき、どこかほかの場所でその価値を高める加工が行われる。
 こうして経済的な依存症の悪循環が始まる。ほかの産業が衰えると、天然資源への依存率が高まる。天然資源ビジネスにしかチャンスはなくなるが、わずかな人々しかそのチャンスはつかめない。鉱山や油田の開発には莫大な資金が必要になる反面、農業や製造業に比べ、労働力は少なくてすむからだ。配電網や道路、学校といったインフラを整備すればチャンスは広がるが、石油や鉱物資源によってほかの産業が衰退していくため、インフラ整備もおろそかになってしまう。

 ナウル共和国という国を知っているだろうか。オーストラリアの北東、太平洋に浮かぶ小さな国だ。
 ほんとに小さい。面積は21平方キロメートル。日本の面積を小学校数で割ると17平方キロメートルぐらいらしいから、ナウルはだいたい平均的な小学校の校区ぐらいの広さだ。狭い。

 このナウル、1899年にリン鉱石が発見されたことで大きく運命が変わる。海鳥の糞が堆積してリン鉱石になっていたのだ。このリン鉱石が高く売れたことでナウル政府は豊かになり、税金ゼロ、教育や医療も無償、国民みんな働かなくても食べていけるようになった。
 ところが次第にリン鉱石が枯渇してゆき、国民は働かないし他に産業もないものだから経済は破綻状態になった(最近新たに採掘できるようになりリン鉱石の輸出が持ち直してきているらしい。それもいつかは尽きるが)。

「売家と唐様で書く三代目」という有名な川柳がある。
 財産を残しても、孫の代になると初代の苦労を知らないから道楽をして財産を食いつぶしてしまう、という意味だ。
 労せずして得た財産は身につかない。オランダ病も似たようなものだろう。後に残るのは道楽癖だけだ。




 また、資源が壊すのは経済だけではない。民主主義も壊す。
 資源の採掘には莫大な初期投資が必要になる。すると外国企業が入ってくる。採掘権を得るためにリベートを渡す。政府に近い一部の人間だけが儲かる。その他国民の反感が大きくなる。軍事力によって押さえこむ。為政者は権益を手放したくないので民主的な選挙を否定・妨害工作する。かくして内紛が絶えなくなる……。

 アフリカの資源国家の支配者は、国民の同意を得なくても国を統治できる。それが資源の呪いの核心にある。資源ビジネスがあるかぎり、支配する者と支配される者との社会契約は成立しない。社会契約とは、ルソーやロックといった政治哲学者が提唱した理論である。政府は、国民の同意を得て、国民の自由をある程度奪う代わりに、国民共通の利益を守る。そうすることで政府は、国民から正統性を認められる。これが社会契約である。だが資源国家の国民は、支配者の責任を問うこともできず、略奪の分け前を手に入れようとするだけの存在に成り下がってしまう。このような状態は、サウジアラビアの王族やカスピ海沿岸諸国の絶対的指導者など、専制君主にとって理想的な財政システムを生み出す。生涯にわたりアフリカの貧困の原因を研究しているオックスフォード大学の教授ポール・コリアーは、収集したデータを見ると、さらにいっそう悪質な影響があることがわかるという。「資源の呪いでいちばん怖ろしいのは、民主主義がうまく機能しなくなることだ」

 資源がない国では、政府の財源は基本的に国民の労働・納税だ。
 国民が政府に反旗を翻し、労働や納税をボイコットしてしまえば政府もまた倒れる。だから政府は国民の声を完全に無視することはできない(いくらかは無視するけど)。

 だが資源国家はそうではない。国民の労働や納税がなくても外国企業から入ってくる金があれば豊かな暮らしができる。
 たとえば産油国であるアラブ首長国連邦には普通選挙がない。石油収入で成り立っているから国民の声を拾いあげる必要がないのだ。




 日本は天然資源が少ないと言われている。石油もガスも鉄鉱石もほぼ100%輸入している。最近でこそ日本近海にメタンハイドレートが埋もれていることがわかったなどと言われているが、まだまだ採取や実用化には至っていないようだ。

 アラブ首長国連邦は教育費も医療費もほぼ無料で税金もないと聞いて「資源が豊富な国はええなあ」と感じていたが、『喰い尽くされるアフリカ』を読むと、日本にたいした資源がなくてよかったんだろうなと感じる。

 もしも資源が豊富な国だったら、幕末あたりか、太平洋戦争後にきっと外国に占領されていただろう(まあ資源が豊富だったら太平洋戦争を起こさなかった可能性もあるが)。
 太平洋戦争後にアメリカかソ連に占領されていたんじゃないだろうか。(村上龍 『五分後の世界』がまさにそういう世界を書いた小説だ)。
 もしくは、今頃中国に攻めこまれているかもしれない。
 大した資源がない(あっても豊かな水や温暖な気候など輸出しにくいもの)おかげで、今も独立国の地位を保っているのかもしれない。




 中国の対アフリカ貿易額は、2002年には約130億ドルだったが、10年後には1800億ドルになり、アメリカの対アフリカ貿易額の3倍になったそうだ。

 中国が経済成長したからというのもあるが、他にも理由はある。

 先述したように、資源によって急激に潤うと政権は独裁状態になりやすい。内戦により、政府軍が民間人を虐殺するようなケースもある。アンゴラのように。
 すると欧米諸国は政府軍の行動を非難し、経済制裁のため貿易を停止する。すると政府は困ってしまう。資源が輸出できないし、外国のものが入ってこなくなるのだから。

 そこに中国企業が入りこむ。うちは気にしませんよ。取引しますよ。
 困っている政府は飛びつく。中国は資源が手に入る。win-winだ。殺される国民以外は。

徐京華は、国際社会からのけ者にされ、誰もビジネスをしたがらない政府を見つけ、その政府に天然資源を現金に変える既存のテクニックを提供するのだ。軍事クーデターにより設立された政府は「資金に飢えている」とティアムは言う。「彼らはそんなときに近づいてきてこう言う。『ほかの誰も資金を出してくれないのなら、私たちが出そう』国家の利益や自分自身の権威が危機に瀕していれば、その資金を受け取るに決まっている」

 しかしことさらに中国を非難する気にもなれない。
 欧米がやってたことを中国がやってるだけだから。日本だってアジア諸国でやろうとしてたことだし。




「資源があることがかえって経済成長の妨げになる」という話はすこぶるおもしろかったのだが、後半は疲れてしまった。

 アフリカの様々な国のケースが紹介されるのだが、国はちがえどやってることはほとんど同じだし、固有名詞がどんどん出てくるので関係を追っていくだけで疲れてしまう。
 新聞記者だけあって、新聞記事みたいな文章なんだよね。とにかく関係者の名前とかを丁寧に書いている。調べたことは全部書いている。司馬遼太郎の文章みたい。
 こっちは捜査官じゃないからすべての情報を知りたいわけじゃないんだよ。

 というわけで後半は飛ばし読み。
 一応最後まで目を通したけど、前半だけで十分だったな……。


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2021年5月12日水曜日

ツイートまとめ 2020年9月


時空のねじれ

パトロール

レインボーマウンテン

シベリア超特急

指定校推薦

優しさ

ファービー

ニコリの思い出

香港警察

クラウチングスタート

AI

枕草子

核心

裏切り

ジャーマン

PTA

暴力団



ナス

胴長

入場制限

偏見

2021年5月11日火曜日

【読書感想文】自殺の影響力 / 重松 清 『十字架』

十字架

重松 清 

内容(e-honより)
いじめを苦に自殺したあいつの遺書には、僕の名前が書かれていた。あいつは僕のことを「親友」と呼んでくれた。でも僕は、クラスのいじめをただ黙って見ていただけだったのだ。あいつはどんな思いで命を絶ったのだろう。そして、のこされた家族は、僕のことをゆるしてくれるだろうか。吉川英治文学賞受賞作。


 いじめを苦に自殺した中学生。彼の遺書には、いじめをおこなった三人のうち二人だけの名前と、想いを寄せていたであろう女の子の名前、そして「親友」として僕の名前が書かれていた。僕は中学校に入ってからは彼とほとんど交流を持っていなかったのに……。


 という話。
 自殺した少年から「親友」と名指しされたせいで、周囲から同情され、少年の父親からは「親友ならなぜかばってやらなかった」と恨まれ、少年の母親からは「亡き息子の親友」として過剰にもてなされ、記者にはつきまとわれ、そのせいで事件のことを忘れることもできずに「十字架」を背負いつづける主人公。

 これはきついよなあ。もちろん「いじめの加害者」として名指しされるのもきついが、まあそれは自業自得だし、「おれのせいじゃないよ」と開き直ることもできるかもしれない。
 でも「親友」や「好意を寄せられていた相手」は、そんなんじゃないよと否定することもできない。忘れたいのに忘れられない。


 高校の同級生だったО君という子が卒業後まもなく自殺したらしい。理由は知らない。卒業後なんでいじめとかではないだろう。
 ぼくとO君はほとんど接点がなかった。同じクラスどころか隣のクラスになったことすらない。唯一の思い出は、高一のときにいっしょに文化祭をまわったこと。それもぼくと友人のNが歩いているところにO君も加わったってだけで、二人きりで話したことは一度もない。
 それでも、O君が自殺したと聞いたときは「ぼくにもなんとかできたんじゃないだろうか」「あの文化祭の後にもっと仲良くしてたらひょっとしたらO君は自殺せずに済む道を歩んでたかも……」とか考えてしまった。たった数時間話しただけなのに、責任の一端を背負いこんでしまった。

 もちろんぼくはいつまでもO君のことを考えたりせず、数年に一度思いだすだけなんだけど。
 しかし数時間話しただけの人間にもこうして後悔の感情を与えることができるのだから、自殺という行為の与える負の影響力はすごい。友人や家族だったらその影響は計り知れないだろう。


 ところで今思いだしたんだけど、昨年ぼくのいとこも自殺した。
 自分でも驚くことに「身近な人の自殺」を思い浮かべたとき、ぼくはいとこのことを完全に失念していた。ここ二十年ぐらい会っていなかったとはいえ子どもの頃はよく遊んだいとこ(しかも亡くなったのはたった一年前)よりも、たったひとつの思い出しかなくてしかも二十年も前に亡くなったO君のほうを先に思いだした。びっくりだ。

 こっちの感受性の問題だろうか。
 O君の自殺を知ったのは十八歳のとき。いとこの自殺を知ったのは三十代。感受性が衰えているのかもしれない。

 この感受性の衰えは、いいことなのか悪いことなのか。




 いじめについて。
 ぼくはいじめられたという記憶はない。そりゃ殴られたとか悪口を言われたとかはいくらでもあるが、基本的に殴りかえしたし十倍にして言いかえした。たぶん悪口を言われたことより言ったことの方が多い。
 どっちかっていったらいじめっ子側だ。恥ずかしい話だけど、男子の集団でひとりの女子に嫌がらせをしたこともある。「どっちかっていったら」なんて言い訳をしてしまったけど、完全にいじめっ子だな。

 暴力を振るったり金品を要求したりということはないが、ばかにしたり、無視を決めこんだりは何度もやった。
 傍観者だったことなんて多すぎて覚えていないぐらい。誰かがいじめられているのを止めた、なんてことは一度もない。

 いじめの相手が自殺したり登校拒否になったりといったことはないが、それはたまたま相手が強かっただけで、相手やタイミングによってはそうなってもおかしくなかった。

 そんな極悪非道のぼくでも、自分が親になると「我が子はいじめとは無縁でいてくれ」と願う。なんと勝手なことだろう。


 しかしいじめはなくならない。
 教師の力量とか学校の体制とかそういうことじゃなくて、もう絶対になくならないとおもう。特に中学生のいじめが深刻化しがちだけど、中学生にかぎらず人間ってのはいじめをする生き物なんだとおもう。狭い集団で閉じこめておいたら必ずいじめをする。大学でも会社でも軍隊でも老人会でもある。
 ただ、大きくなるにつれて居場所や選択肢が増える。嫌なやつからは遠ざかる、嫌な集団からは抜ける、そういったことができるようになる。
 小中学生には逃げ場が少ない。クラスは自分で選べないし、部活もやめづらい。だからいじめが深刻化するんだろう。

 とはいえ。
 今はインターネットがある。物理的な距離を超えて、いろんなコミュニティに所属できる。中学生でもたいていのスペースにはいける。
「ネットいじめ」なんてのも問題になってるけど、インターネットの発達はこといじめに関してはプラスの要素の方がずっと多いんじゃないかな。
 いじめ自体をなくすことより、逃げ場所をつくることのほうがずっと大事だとおもう。


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2021年5月10日月曜日

男と女の外遊び

 週末は公園で遊ぶ。
 娘と、その友だちと。
 多いときだと十五人ぐらいの子どもと遊ぶことも。
 何か月か前、子ども十二人+おっさん一人でけいどろをした。

 子どもたちの成長とともに遊びも変わってきた。
 四~五歳のときはおにごっこ、かくれんぼ、自転車に乗るなど単純な遊びが多かったが、小学二年生になった今ではドッチボール、缶けり、けいどろなどちょっと複雑なルールのゲームをするようになった。

 二年生になると、男女別で遊ぶことが増えた。
 少し前までは男女みんなでわいわい遊んでいた。今もいっしょに遊ぶが、気づくといつのまにか男グループ女グループに分かれている。

 ただぼくらの時代とちがうのは「好きな遊びがそれぞれちがうから別々に遊ぶ」だけで、「男なのに女子と遊ぶなんて恥ずかしいぜ」みたいな雰囲気はぜんぜん感じないことだ。
 四年生ぐらいの子でも男女混成でドッチボールをしたりしているのをときどき見るから、時代は変わったんだなあ。ぼくが小学四年生のときなんて休みの日に女子と遊ぶなんてめったになかった。


 時代が変わったと感じる一方で、男の子が好む遊び、女の子が好む遊びは昔とあまり変わらない(公園での遊びに関しては)。

 男子はドッチボールやサッカー、女子は鉄棒や縄跳びや長縄飛び。
 ぼくが小学生のときとほとんど変わらない。
 男子はやっぱり戦いが好き。はっきり勝ち負けをつけたがる。
 女子は争いを避ける。ひとりで技を磨いたり、みんなで協力する遊びが好き。これはもう生まれもっての性差なんだろうな(個人差あります)。

 ぼくは縄跳びも鉄棒も嫌いだった。苦手だったし。
 でも女子は鉄棒好きだよね。地上にいるより鉄棒にとまってる時間のほうが長いんじゃねえかっていうスズメみたいな女の子いるもんね。ずっとくるくる回ってる。
 やっぱあれかね。男子はちんちんがあるから鉄棒苦手なのかな。

 一方ドッチボールなんかははっきりと男女差がつきはじめる。
 ドッチボールって、苦手な子にとってはぜんぜんおもしろくない遊びなんだよね。ただボールをぶつけられるだけだもん。ぶつけられたらあとはほとんどやることないし。苦手→嫌いになる→ますます苦手になるの悪循環。
 けいどろだったら、足の遅い子でも助けてもらえたり、はさみうちによって敵をつかまえたりできるからみんな楽しめるんだけどね。


 他方、男子も女子も大きい子も小さい子も運動が得意な子も苦手な子も熱くなる遊びがある。
 リレーだ。

 まず、ルールがとにかくわかりやすい。三歳でもわかる。

 それから、走るのが遅い子でもがんばろうという気になる。遅い子が縮めた一秒と速い子が縮めた一秒は同じ価値を持つ。
 ドッチボールやサッカーは、何もしない人がいてもチームが勝つことはあるが、リレーだと何もしない人がいるチームは確実に負ける。だからみんながんばる。

 あと、ゲームバランスを調整しやすい。
 速い子と遅い子を同じチームにしたり、遅いチームは人数を減らしたり、速い子は二周続けて走らせたり、小さい子は半周前からスタートさせたり。
 さらに大人(主にぼく)が入ることでより調整がしやすくなる。差がつきそうなときは本気で走ったりわざとスピードを落としたりして、接戦になるように調整する。
 あからさまに手を抜いて走ると同じチームの子らから怒られるので、一生懸命走っているふりをしながら上手に手を抜かなくてはならない。わざと大回りをしたり。接待リレーだ。

 リレーはおもしろい。誰もが熱くなる。だからドラマが生まれる。
 箱根駅伝が何十年にわたって人気コンテンツでありつづけるのもよくわかる。