2021年2月22日月曜日

【読書感想文】進化は知恵の結果じゃない / 稲垣 栄洋『弱者の戦略』

弱者の戦略

稲垣 栄洋

内容(e-honより)
海洋全蒸発や全球凍結など、環境が激変しても、地球上の数多くの生命はしぶとく生き残り続けてきた。そして今でも、強者ではない動植物などはあらゆる方法で進化し続けている。群れる、メスを装う、他者に化ける、動かない、ゆっくり動く、くっつく、目立つ、時間をずらす、早死にするなど、ニッチを求めた弱者の驚くべき生存戦略の数々。


 決して強者ではない生物たちが生存のためにどのような戦略をとっているかを紹介した本。
 個々のエピソードはおもしろいのだが、ただひたすら「この動物はこうやって敵から身を守っています」「この植物はこうやって繁殖しています」というエピソードが続くので、びっくり生き物生態事典感が否めない。
 最近児童書コーナーに行くと「変な生きもの」みたいな本がたくさん並んでいるが、それをちょっとだけ大人向けにした本、という印象。  

 

 あと気になったのは、書き方が不正確なこと。
「この生物は生き残るために〇〇という戦略を立てた。知恵を使って生き残るための努力をしているのだ」なんてことが平気で書いてある。

 あたりまえだが、生物が進化したのは生き残るためではない。たまたま生き残ったものがいて、それが増えた結果進化と呼ばれるようになっただけだ。

 当然、著者も知っているはずだ。進化は無目的に起こる(自然選択説)と。
 だが、くりかえし「生物が先のことを考えて生き残る方法が高い方法を考えだした」といった表現が語られる。話をわかりやすくするためかもしれないが、これはいただけない。わかりやすくすることは大切だが、嘘をついてはいけない。




 著者の専門は雑草生態学だそうだ。なので雑草の話はおもしろい。

 よく「雑草のようにたくましく」という言い方をする。抜いても抜いても生えてくる雑草には、強い植物というイメージがある。ところが、植物の世界では雑草は強い植物であるとはされていない。むしろ、雑草は「弱い植物である」と言われている。
 これは、どういうことなのだろうか。
 植物は、光や水を奪い合い、生育場所を争って、激しく競争を繰り広げている。雑草はそのような植物間の競争に弱い。そのため、たくさんの植物が生い茂るような深い森の中には、雑草と呼ばれる植物群は生えることができないのである。
 そこで雑草は、他の植物が生えることのできないような場所を選んで生息している。それが、よく踏まれる道ばたや、草取りが頻繁に行われる畑の中だったのである。
 庭の草むしりに悩まされている方も多いだろう。残念ながら抜いても抜いても生えてくる雑草を完全に防ぐ方法はない。ただ雑草をなくす唯一の方法があるとすれば、それは「草取りをやめること」であると言われている。
 草取りをしなくなれば、競争に強い植物が次々と芽を出して、やがて雑草を駆逐してしまう。そのため、草取りをやめれば、雑草と呼ばれる植物はなくなってしまうのである。もっとも、雑草がなくなった代わりに、そこには大きな植物が生い茂って群雄割拠の深い藪になってしまうから、もっとやっかいである。

 なるほど。雑草ってぜんぜん強くないのか。

 たしかに森や山の中とかだと、丈の短い草はあまり多くない。大きな樹や草に負けて光や水を手に入れられないからなんだね。

 雑草は我々が目にすることが多いからどこにでも生えるような気がするけど、逆に人間の生活の場(植物が生えにくい場所)でしか生きられない。カラスやハトといっしょだね。




 外来種が日本ではびこるのも、似たようなことらしい。
 日本の在来種だった日本タンポポはいまや絶滅寸前で、我々が目にするのは西洋タンポポばかり。「外来種のほうが生命力が強いからだ」なんていうけど、本来なら日本では日本タンポポのほうが強いはず。なぜなら日本タンポポは日本の里山という環境に特化して進化した植物だから。

 それでは、どうして私たちのまわりで西洋タンポポが増えているのだろうか。
 西洋タンポポが生えるのは、道ばたや街中の公園など、新たに造成された場所である。このような場所は、土木工事によって日本タンポポが生えていたような自然は破壊されている。こうして大きな変化が起こり、空白となったニッチに西洋タンポポが侵入するのである。
 よく、西洋タンポポが日本タンポポを駆逐しているように言われるが、日本タンポポの生息場所を奪っているのは、人間なのである。
 西洋タンポポ以外にも、外国からやってくる外来雑草の多くは、人間がもともとあった自然を破壊してできた新たな場所にニッチを求める。そのため、埋立地や造成地、公園、新興住宅地、道路の法面、河川敷などを棲みかとしているのだ。
 外来雑草も、祖国の環境と異なる日本という新天地では、アウェイの不利な戦いを強いられた弱い存在である。そんな弱い外来雑草が増えているということは、私たちがそれだけ自然界に大きな変化を起こし、外来雑草にチャンスを与えているということなのである。

 手つかずの自然が残っている状態では、先住者のほうが強い。にもかかわらず外来種が駆逐されないのは、人間が新しい環境を生みだしているから。

 外来種は敵視されるけど、在来種にとって本当の敵は人間なんだね。よしっ、絶滅させよう(過激派)。




 ヒメマス、ヤマメ、アマゴ、イワナはみんなサケなんだそうだ。知らなかった。

 川で育ったオスは小さい。あまりに小さすぎて別の魚に見えるくらいである。たとえば、ベニザケの川にとどまったものはヒメマスと呼ばれる。まったく別の魚のように呼ばれているのである。また、川魚のヤマメはサクラマスの川にとどまったものである。アマゴは、サツキマスの川にとどまったものであるし、イワナはアメマスの川にとどまったものである。このように川にとどまったタイプは、海に下ったタイプと似ても似つかない姿になるのである。
 海から川に遡上した大きなメスに、小さなオスが近づいても、まるで別の種類の魚であるかのようなので、大きなオスはあまり気にしない。
 魚は体外受精なので、交尾をするのではなく、メスが産んだ卵にオスが精子を掛けるという受精方法である。そのため、ペアにならなくてもメスの卵に精子だけ掛けることができればいい。そこで、小さなオスは、大きなオスと大きなメスがペアになっているところにそっと近づき、大きなメスが卵を産んだ瞬間に素早く精子を掛けて受精させてしまうのである。

 出世魚は成長の段階によって呼び名がきまるが、こっちは選んだ進路によって呼び名が変わるのだ。

 自衛官や警察官が、入隊する前の経歴によってぜんぜん違う道を進むようなもんだね。防衛大学校や国家公務員試験を経て隊員がベニザケで、ノンキャリア組がヒメマスみたいなもの。

 しかしキャリア組が必ずノンキャリア組より成功した人生を送れるわけではないのとおなじように、サケも海に行った方が必ず成功するとはかぎらない。当然ながら海に行けば命を落とす危険性も高いし、川に残ったオスのほうが繁殖に成功するかもしれない。

 ここに書いてあるように「大きいオスの隙を見て精子をかける」の他に、「メスそっくりな見た目になったオスが警戒させることなく近づいてこっそり精子をかける」なんて戦略もあるそうだ。すごい。

 考えてみれば、みんなが海に行ってしまったら河口や海の汚染といった環境の変化があると全滅してしまうわけで、種の保存という観点でいえば海に行くやつと川に残るやつにわかれたほうがリスク分散になる。

 つくづくよく考えられたものだ、じゃなかった、たまたまうまく進化したものだ。


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2021年2月19日金曜日

ボードゲームスペース初体験

 はじめてボードゲームカフェに行った。

 ボードゲームカフェっていうか、正確にはボードゲームスペース。飲み物とか出ないので。その代わり持ち込み自由。場所代さえ払えば好きなだけボードゲームができる。

 娘の友人家族と行ったので、ぼくを含め大人ふたり、7歳ふたり、5歳ひとり。

 スタッフに「5歳でも楽しめるようなゲーム教えてください」とお願いして、以下六つのゲームをやった。



1.『ザ・マインド』


 1~99の数字が書かれたカードがあり、プレイヤーごとに何枚かずつ配られる。
 他人のカードはわからない。プレイヤー同士で相談することなく、小さい順にカードを出すことができればクリア。

 たとえば5人いて、自分のカードが15であれば「1番か2番目だろうな」と予想する。でも他の人が出したそうなそぶりをしていたら、「あの人はきっと1桁だろう」と予想して出すのをやめる……といった感じ。

 ほんとは一切の相談をしてはいけないとのことだが、それだとむずかしいので「少なめ」「今出てるカードにけっこう近い」みたいなことは言ってもいいこととした。

 これは盛り上がった。全員で協力してクリアをめざすので、クリアできたときは一体感が得られる。しかし反面、失敗したときは責任のなすりつけあいみたいになるというデメリットもある。



2.『サメポリー』


 東京国際サメ映画祭で生まれたというボードゲーム。
 基本はモノポリーだが、プレイヤーが持つのはお金ではなく市民。そして盤面をサメがぐるぐる回っていて、サメに追いつかれたり、サメが自分の保有する都市に止まったりするたびに市民が食べられる。

 本来4人まででプレイするゲームらしいが、ぼくらは5人でやった。そのせいもあって、サメの進行がとにかく速い(プレイヤー数が多くなるほどサメは速くなる)。だからどんどん市民が食べられる。市民が増える速度を食べられる速度が大きく上回っている。

 というわけで、プレイしていてストレスフルだった。ふつうのモノポリーだと「いいこと」と「悪いこと」が半々ぐらいで起こるが、サメポリーは2:8ぐらいで悪いことのほうが多い。イヤな気持ちになるゲームだった。子どもからも不評。


3.『キャプテン・リノ』

 ジェンガのようなバランスゲーム。家をどんどん高くしていって、くずれたら負けというシンプルなルール。

 だがUNOのように「スキップ」「リバース」「カードを2枚出せる」「次のプレイヤーの難易度を上げる」といったカードがあるので、戦略も重要になる。

 わかりやすくて盛り上がるゲーム。


4.『おばけキャッチ』

 5つの駒(白いお化け、グレーのネズミ、青い本、緑のビン、赤い椅子)をスピーディーにとりあうゲーム。

 駒をとってもよい条件はふたつ。

① 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれている場合、その駒をとる。

② 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれていない場合、色もモノも異なる駒をとる。たとえば青いお化けと赤いネズミが書かれていれば、青でも赤でもお化けでもネズミでもないもの(=緑のビン)をとる。

 スピード勝負なので盛りあがるが、頭をフル回転させなくてはいけないのですごく疲れる。「2種類のルールのどちらが適用されるかを瞬時に判断する」+「②の場合はないものを探す」というのはかなり大変だ。


5.『クラッシュアイスゲーム』

 これまたジェンガのようなバランスゲーム。ルーレットによって指定された色の氷を壊していき、ペンギンが落ちたら負け。

 これはとにかくわかりやすい。小さい子でもすんなり飲みこめた。

 あと1ゲーム3分ぐらいで終わるのもいい。長時間かかるゲームは小さい子の集中力がもたないんだよね。


6.『デジャブ』


 神経衰弱+カルタのようなゲーム。
 めくったカードに描かれているものを取るのだが、ポイントは「2回目に出てきたら取る」というルール。

「これもう出たっけ?」と考えながら取らないといけない。出ていないものを取ると失格、という厳しいルールなのでどうしても慎重になる。

 さらにこのゲームを2回、3回とくりかえすと、「これ出たのって今回だっけ? 前回だっけ?」という迷いも生じる。案外初心者のほうが有利かもしれない。

 はじめてやったときにみんな強気でがんがん攻めてたら次々に失格になり、ほとんど取らなかった人が優勝という漁夫の利展開になった。


 ボードゲームスペースのおにいさんがお勧めしてくれたものだけあって、どれもわいわいと楽しめるゲームばかりだった(サメポリーだけは不評だったが)。


 しかし、他にお客さんはいなくて我々の貸切状態。
 子どもは無料とのことで、3時間弱遊んで、全部で2,400円(大人ひとりあたり1,200円)。
 安いのはいいんだけど、これでやっていけるのか不安になる。
 1時間で800円の売上。ここから家賃や光熱費を引いたらいくらも残らないだろう。スタッフは2人いたが、どう考えても彼らの給料は捻出できない。
 仮に満員になったとしても赤字になるぐらい。他人事ながら心配になる。趣味でやっているのか? それともボードゲームスペースというのは表の姿で、深夜になると違法カジノになるのか……?


2021年2月18日木曜日

英国の気持ち

 完全にのろけなんだけど、
うちの娘(七歳と二歳)の喧嘩の原因でいちばん多いのは

「(妹)ちゃんのおとうさん!」

「(姉)のおとうさん!」

という〝おとうさんの取りあい〟だ。

 ふたりの異性が自分をめぐって争う。全人類の夢だ。
 それが毎日のようにぼくの目の前でくりひろげられている。

 うれしい。 だからぼくは喧嘩を止めない。

「そうだよ。(妹)のおとうさんだよ」
「そうだね。(姉)のおとうさんだね」
と、双方にいい顔をする。
 仲裁もしないしどちらかの肩を持つこともない。

 ずっとこの喧嘩をしていてほしい。喧嘩が長く続くほど、おとうさんの存在感が増すのだから。

 ユダヤにもアラブにもフランスにもいい顔をして三枚舌外交をくりひろげた英国の気持ちがよくわかる。



2021年2月16日火曜日

【読書感想文】人間は協力する生き物である / 市橋 伯一『協力と裏切りの生命進化史』

協力と裏切りの生命進化史

市橋 伯一

内容(e-honより)
生命と非生命を分かつものは?進化生物学の最新研究による「私たちの起源」と「複雑化の過程」。

 生命と非生命を分けるものは何か、生命を生命たらしめてるのは何か。細菌、単細胞生物から植物・動物へと進化してゆく過程を追いかけながら考える。

 結論を先に書いてしまうけど、そのカギを握るのは「協力関係」だと著者は語る。

 たとえば細菌がより複雑な真核細胞に進化したきっかけは、細胞壁を失った細菌が別の細菌を体内に取り込んだこと。それによって細菌同士の協力関係が生まれた。取り込んだ細菌にしたら、体内の細菌がエネルギーを作ってくれるし、取り込まれた側の細菌からすると安全に生きていける環境を手に入れたことになる。この取り込まれた側の細菌が、ミトコンドリアや葉緑体となった。そうかー。ぼくの体内でも別の生きものであるミトコンドリアががんばってくれてるのかー。

 そして生物は複雑化するにつれ、より高度な協力関係を結ぶようになった。いや、その逆で、高度な協力をするようになったことで複雑化できたのかもしれない。

 今まで駆け足で見てきた生物進化を振り返ってみたいと思います。
 まとめると、生命進化には次に示す5段階の協力関係の進化がありました。

(中略)

1.DNA、RNA、タンパク質、脂質膜などの分子間の協力による細菌の進化
2.細胞内に取り込んだ細菌と取り込まれた細菌の協力による核細胞の進化
3.真核細胞どうしの協力による多細胞生物の進化
4.血縁のある多細胞生物間の協力による社会性の進化
5.血縁のない多細胞生物間の協力による社会性の進化

(中略)

 このように生命の進化には一定のパターンがあります。もともと独立に生きていたものが協力し合って大きな生物や共同体となることです。お互いが分業することによって専門化し、より高度な機能を生み出すことができます。この機能の向上によって、さらに次のレベルの協力が可能になります。生物はより協力するように導かれているように見えます。そして私たちヒトは協力のチャンピオンです。何しろ見ず知らずの個体とも平気で協力してしまうのです。チンパンジーなど他の生き物からすれば正気の沙汰ではないでしょう。この点においてヒトは、地球上でもっとも助け合いの精神にあふれた優しい生き物だと言っても過言ではありません。

 動物たちは個体間で協力をするようになった。サルやアリやハチは群れをつくり、お互いに助けあって生きている。
 だが群れをつくる動物でも、協力するのは基本的に血のつながった家族だけだ。血縁のないまったくの他人とも協力して、助け合うのはヒトだけだ。他の動物は「助ける」はしても「助け合う」はしない。「この前助けてもらったから今度はこっちの番だよ」はヒトだけの行動なのだ。
 助け合いは、共感能力や記憶力が高いヒトだからこそできるのだ。

「人間は残酷だ」「捕食や生殖以外の目的で殺し合うのは人間だけだ」と、人間の残酷性がことさらに強調される。ある点では真実だが、深い協力関係を築けるのも人間だけなのだ。


 労働以外にも、ほぼすべての人が社会に対して行っている協力があります。納税です。税金は無駄遣いが問題になることも多いですが、基本的には社会全体にとって価値のある事業(道路を作ったり医療費になったり)に使われます。租税というシステムがすごいのは、全く面識のない人どうしでの協力が可能になることです。私たちは自分が払った税金がいったい誰のために使われるのかを知らずに払っています。おそらく納めた税金のほとんどは、見ず知らずの誰かを助けるために使われることになるでしょう。このような、会ったこともない人どうしの助け合いを可能にするのが、租税というシステムです。
 ヒトがすごいのは、このようなシステムを渋々であったとしても、納得して維持していることです。オオカミやチンパンジーであったら、見ず知らずの個体が自分の獲物の何割かを横取りしたりしたら間違いなく争いになります。それと同じことをされているのに、私たちヒトは甘んじて受け入れています。これはヒト以外の生物からすれば、ありえないことです。税金は私たち人類の協力関係の結晶のようなものだといっていいでしょう。こうした納税を行わない者、つまり脱税をするものは人間社会における裏切り者です。

 近代社会にとって納税は「人間を社会につなぎとめるためのもっとも重要な行為」である。
 ……のわりには、みんなずいぶん脱税に甘い気がする。

 やれ誰それが不倫をしたとか騒ぐけど、不倫の被害者は数人。脱税の被害者は一億人。どっちが重要か比べるまでもない。「公共財を利用して生きる価値なし」と判定されてもおかしくないぐらいの重要だとおもうけどね。

 脱税や政治資金規正法違反って国家の存在を揺るがすという点ではほとんどテロでしょ。もっと厳しくしてもいいとおもうけどね。


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2021年2月15日月曜日

平均身長・平均体重は中肉中背ではない


 どの作品だったかは忘れたが、主人公であることの描写として
「身長は日本人の平均、体重も平均、つまり典型的な中肉中背」
という一文を見かけた。

 一見なんのへんてつもない文章だが、実はこれは正しくない。
 身長と体重が平均と同じであれば、中肉中背にはならない。


 例として、3つの図形を考えている。

 1辺の長さが1の立方体、1辺の長さが2の立方体、1辺の長さが3の立方体だ。
 どれも同じ材質でできているものとする。




 これら3つはどれも立方体なのだから互いに相似形、つまり同じ形だ。人間でいうと「スタイルがまったく同じ」ということになる。

 この3つの図形の身長はそれぞれ、1、2、3だ。

 一方質量はというと、Aの質量を1とすると、Bは8、Cは27となる。

 平均をとってみよう。
 身長は (1+2+3)/3=2
 体重は (1+8+27)/3=12

 平均身長は2。平均体重は12。この両方を満たす図形は、さっきの3つの図形より明らかに太い。Bと同じ身長なのに体重は1.5倍もあるのだから。


 つまり、まったく同じ材質・同じ形であれば体重は身長の3乗に比例するわけだ。

 もっとも、人間の身体はそう単純ではない。身長が伸びたからといってそれに比例して頭蓋骨や歯まで大きくなるわけではないし、体重が増えるほどそれを支えるための骨や筋肉も増えるので密度は高くなる。だから同じスタイルをキープしたとしても、身長の3乗に比例するわけではない。
 身長100cm、体重15kgの子どもはごく平均的だが、身長200cmで体重120kg(15kg×2^3)はちょっと太っている。とはいえ200cmもあるのだからそこまでのデブでもない。まあだいたい3乗に比例すると考えてもよさそうだ。

 ということで、平均身長・平均体重の人は平均よりも太っている。




 ちなみに、肥満度を示すBMIの計算式では、体重(kg)を身長(m)の2乗で割っている。
 なんで2乗なんだ、3乗じゃないのか、とおもうかもしれないが(ぼくもおもった)、肥満かどうかを考えるときには体表面積が重要らしい。体重に対して体表面積が小さいと十分に放熱ができないのでよくない、ってことみたい。

 だから200cmの人の理想体重は120kgじゃないのね。