2021年2月19日金曜日

ボードゲームスペース初体験

 はじめてボードゲームカフェに行った。

 ボードゲームカフェっていうか、正確にはボードゲームスペース。飲み物とか出ないので。その代わり持ち込み自由。場所代さえ払えば好きなだけボードゲームができる。

 娘の友人家族と行ったので、ぼくを含め大人ふたり、7歳ふたり、5歳ひとり。

 スタッフに「5歳でも楽しめるようなゲーム教えてください」とお願いして、以下六つのゲームをやった。



1.『ザ・マインド』


 1~99の数字が書かれたカードがあり、プレイヤーごとに何枚かずつ配られる。
 他人のカードはわからない。プレイヤー同士で相談することなく、小さい順にカードを出すことができればクリア。

 たとえば5人いて、自分のカードが15であれば「1番か2番目だろうな」と予想する。でも他の人が出したそうなそぶりをしていたら、「あの人はきっと1桁だろう」と予想して出すのをやめる……といった感じ。

 ほんとは一切の相談をしてはいけないとのことだが、それだとむずかしいので「少なめ」「今出てるカードにけっこう近い」みたいなことは言ってもいいこととした。

 これは盛り上がった。全員で協力してクリアをめざすので、クリアできたときは一体感が得られる。しかし反面、失敗したときは責任のなすりつけあいみたいになるというデメリットもある。



2.『サメポリー』


 東京国際サメ映画祭で生まれたというボードゲーム。
 基本はモノポリーだが、プレイヤーが持つのはお金ではなく市民。そして盤面をサメがぐるぐる回っていて、サメに追いつかれたり、サメが自分の保有する都市に止まったりするたびに市民が食べられる。

 本来4人まででプレイするゲームらしいが、ぼくらは5人でやった。そのせいもあって、サメの進行がとにかく速い(プレイヤー数が多くなるほどサメは速くなる)。だからどんどん市民が食べられる。市民が増える速度を食べられる速度が大きく上回っている。

 というわけで、プレイしていてストレスフルだった。ふつうのモノポリーだと「いいこと」と「悪いこと」が半々ぐらいで起こるが、サメポリーは2:8ぐらいで悪いことのほうが多い。イヤな気持ちになるゲームだった。子どもからも不評。


3.『キャプテン・リノ』

 ジェンガのようなバランスゲーム。家をどんどん高くしていって、くずれたら負けというシンプルなルール。

 だがUNOのように「スキップ」「リバース」「カードを2枚出せる」「次のプレイヤーの難易度を上げる」といったカードがあるので、戦略も重要になる。

 わかりやすくて盛り上がるゲーム。


4.『おばけキャッチ』

 5つの駒(白いお化け、グレーのネズミ、青い本、緑のビン、赤い椅子)をスピーディーにとりあうゲーム。

 駒をとってもよい条件はふたつ。

① 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれている場合、その駒をとる。

② 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれていない場合、色もモノも異なる駒をとる。たとえば青いお化けと赤いネズミが書かれていれば、青でも赤でもお化けでもネズミでもないもの(=緑のビン)をとる。

 スピード勝負なので盛りあがるが、頭をフル回転させなくてはいけないのですごく疲れる。「2種類のルールのどちらが適用されるかを瞬時に判断する」+「②の場合はないものを探す」というのはかなり大変だ。


5.『クラッシュアイスゲーム』

 これまたジェンガのようなバランスゲーム。ルーレットによって指定された色の氷を壊していき、ペンギンが落ちたら負け。

 これはとにかくわかりやすい。小さい子でもすんなり飲みこめた。

 あと1ゲーム3分ぐらいで終わるのもいい。長時間かかるゲームは小さい子の集中力がもたないんだよね。


6.『デジャブ』


 神経衰弱+カルタのようなゲーム。
 めくったカードに描かれているものを取るのだが、ポイントは「2回目に出てきたら取る」というルール。

「これもう出たっけ?」と考えながら取らないといけない。出ていないものを取ると失格、という厳しいルールなのでどうしても慎重になる。

 さらにこのゲームを2回、3回とくりかえすと、「これ出たのって今回だっけ? 前回だっけ?」という迷いも生じる。案外初心者のほうが有利かもしれない。

 はじめてやったときにみんな強気でがんがん攻めてたら次々に失格になり、ほとんど取らなかった人が優勝という漁夫の利展開になった。


 ボードゲームスペースのおにいさんがお勧めしてくれたものだけあって、どれもわいわいと楽しめるゲームばかりだった(サメポリーだけは不評だったが)。


 しかし、他にお客さんはいなくて我々の貸切状態。
 子どもは無料とのことで、3時間弱遊んで、全部で2,400円(大人ひとりあたり1,200円)。
 安いのはいいんだけど、これでやっていけるのか不安になる。
 1時間で800円の売上。ここから家賃や光熱費を引いたらいくらも残らないだろう。スタッフは2人いたが、どう考えても彼らの給料は捻出できない。
 仮に満員になったとしても赤字になるぐらい。他人事ながら心配になる。趣味でやっているのか? それともボードゲームスペースというのは表の姿で、深夜になると違法カジノになるのか……?


2021年2月18日木曜日

英国の気持ち

 完全にのろけなんだけど、
うちの娘(七歳と二歳)の喧嘩の原因でいちばん多いのは

「(妹)ちゃんのおとうさん!」

「(姉)のおとうさん!」

という〝おとうさんの取りあい〟だ。

 ふたりの異性が自分をめぐって争う。全人類の夢だ。
 それが毎日のようにぼくの目の前でくりひろげられている。

 うれしい。 だからぼくは喧嘩を止めない。

「そうだよ。(妹)のおとうさんだよ」
「そうだね。(姉)のおとうさんだね」
と、双方にいい顔をする。
 仲裁もしないしどちらかの肩を持つこともない。

 ずっとこの喧嘩をしていてほしい。喧嘩が長く続くほど、おとうさんの存在感が増すのだから。

 ユダヤにもアラブにもフランスにもいい顔をして三枚舌外交をくりひろげた英国の気持ちがよくわかる。



2021年2月16日火曜日

【読書感想文】人間は協力する生き物である / 市橋 伯一『協力と裏切りの生命進化史』

協力と裏切りの生命進化史

市橋 伯一

内容(e-honより)
生命と非生命を分かつものは?進化生物学の最新研究による「私たちの起源」と「複雑化の過程」。

 生命と非生命を分けるものは何か、生命を生命たらしめてるのは何か。細菌、単細胞生物から植物・動物へと進化してゆく過程を追いかけながら考える。

 結論を先に書いてしまうけど、そのカギを握るのは「協力関係」だと著者は語る。

 たとえば細菌がより複雑な真核細胞に進化したきっかけは、細胞壁を失った細菌が別の細菌を体内に取り込んだこと。それによって細菌同士の協力関係が生まれた。取り込んだ細菌にしたら、体内の細菌がエネルギーを作ってくれるし、取り込まれた側の細菌からすると安全に生きていける環境を手に入れたことになる。この取り込まれた側の細菌が、ミトコンドリアや葉緑体となった。そうかー。ぼくの体内でも別の生きものであるミトコンドリアががんばってくれてるのかー。

 そして生物は複雑化するにつれ、より高度な協力関係を結ぶようになった。いや、その逆で、高度な協力をするようになったことで複雑化できたのかもしれない。

 今まで駆け足で見てきた生物進化を振り返ってみたいと思います。
 まとめると、生命進化には次に示す5段階の協力関係の進化がありました。

(中略)

1.DNA、RNA、タンパク質、脂質膜などの分子間の協力による細菌の進化
2.細胞内に取り込んだ細菌と取り込まれた細菌の協力による核細胞の進化
3.真核細胞どうしの協力による多細胞生物の進化
4.血縁のある多細胞生物間の協力による社会性の進化
5.血縁のない多細胞生物間の協力による社会性の進化

(中略)

 このように生命の進化には一定のパターンがあります。もともと独立に生きていたものが協力し合って大きな生物や共同体となることです。お互いが分業することによって専門化し、より高度な機能を生み出すことができます。この機能の向上によって、さらに次のレベルの協力が可能になります。生物はより協力するように導かれているように見えます。そして私たちヒトは協力のチャンピオンです。何しろ見ず知らずの個体とも平気で協力してしまうのです。チンパンジーなど他の生き物からすれば正気の沙汰ではないでしょう。この点においてヒトは、地球上でもっとも助け合いの精神にあふれた優しい生き物だと言っても過言ではありません。

 動物たちは個体間で協力をするようになった。サルやアリやハチは群れをつくり、お互いに助けあって生きている。
 だが群れをつくる動物でも、協力するのは基本的に血のつながった家族だけだ。血縁のないまったくの他人とも協力して、助け合うのはヒトだけだ。他の動物は「助ける」はしても「助け合う」はしない。「この前助けてもらったから今度はこっちの番だよ」はヒトだけの行動なのだ。
 助け合いは、共感能力や記憶力が高いヒトだからこそできるのだ。

「人間は残酷だ」「捕食や生殖以外の目的で殺し合うのは人間だけだ」と、人間の残酷性がことさらに強調される。ある点では真実だが、深い協力関係を築けるのも人間だけなのだ。


 労働以外にも、ほぼすべての人が社会に対して行っている協力があります。納税です。税金は無駄遣いが問題になることも多いですが、基本的には社会全体にとって価値のある事業(道路を作ったり医療費になったり)に使われます。租税というシステムがすごいのは、全く面識のない人どうしでの協力が可能になることです。私たちは自分が払った税金がいったい誰のために使われるのかを知らずに払っています。おそらく納めた税金のほとんどは、見ず知らずの誰かを助けるために使われることになるでしょう。このような、会ったこともない人どうしの助け合いを可能にするのが、租税というシステムです。
 ヒトがすごいのは、このようなシステムを渋々であったとしても、納得して維持していることです。オオカミやチンパンジーであったら、見ず知らずの個体が自分の獲物の何割かを横取りしたりしたら間違いなく争いになります。それと同じことをされているのに、私たちヒトは甘んじて受け入れています。これはヒト以外の生物からすれば、ありえないことです。税金は私たち人類の協力関係の結晶のようなものだといっていいでしょう。こうした納税を行わない者、つまり脱税をするものは人間社会における裏切り者です。

 近代社会にとって納税は「人間を社会につなぎとめるためのもっとも重要な行為」である。
 ……のわりには、みんなずいぶん脱税に甘い気がする。

 やれ誰それが不倫をしたとか騒ぐけど、不倫の被害者は数人。脱税の被害者は一億人。どっちが重要か比べるまでもない。「公共財を利用して生きる価値なし」と判定されてもおかしくないぐらいの重要だとおもうけどね。

 脱税や政治資金規正法違反って国家の存在を揺るがすという点ではほとんどテロでしょ。もっと厳しくしてもいいとおもうけどね。


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【読書感想文】福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』

【読書感想文】そこに目的も意味もない! / リチャード・ドーキンス『進化とは何か』



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2021年2月15日月曜日

平均身長・平均体重は中肉中背ではない


 どの作品だったかは忘れたが、主人公であることの描写として
「身長は日本人の平均、体重も平均、つまり典型的な中肉中背」
という一文を見かけた。

 一見なんのへんてつもない文章だが、実はこれは正しくない。
 身長と体重が平均と同じであれば、中肉中背にはならない。


 例として、3つの図形を考えている。

 1辺の長さが1の立方体、1辺の長さが2の立方体、1辺の長さが3の立方体だ。
 どれも同じ材質でできているものとする。




 これら3つはどれも立方体なのだから互いに相似形、つまり同じ形だ。人間でいうと「スタイルがまったく同じ」ということになる。

 この3つの図形の身長はそれぞれ、1、2、3だ。

 一方質量はというと、Aの質量を1とすると、Bは8、Cは27となる。

 平均をとってみよう。
 身長は (1+2+3)/3=2
 体重は (1+8+27)/3=12

 平均身長は2。平均体重は12。この両方を満たす図形は、さっきの3つの図形より明らかに太い。Bと同じ身長なのに体重は1.5倍もあるのだから。


 つまり、まったく同じ材質・同じ形であれば体重は身長の3乗に比例するわけだ。

 もっとも、人間の身体はそう単純ではない。身長が伸びたからといってそれに比例して頭蓋骨や歯まで大きくなるわけではないし、体重が増えるほどそれを支えるための骨や筋肉も増えるので密度は高くなる。だから同じスタイルをキープしたとしても、身長の3乗に比例するわけではない。
 身長100cm、体重15kgの子どもはごく平均的だが、身長200cmで体重120kg(15kg×2^3)はちょっと太っている。とはいえ200cmもあるのだからそこまでのデブでもない。まあだいたい3乗に比例すると考えてもよさそうだ。

 ということで、平均身長・平均体重の人は平均よりも太っている。




 ちなみに、肥満度を示すBMIの計算式では、体重(kg)を身長(m)の2乗で割っている。
 なんで2乗なんだ、3乗じゃないのか、とおもうかもしれないが(ぼくもおもった)、肥満かどうかを考えるときには体表面積が重要らしい。体重に対して体表面積が小さいと十分に放熱ができないのでよくない、ってことみたい。

 だから200cmの人の理想体重は120kgじゃないのね。


2021年2月12日金曜日

【読書感想文】法事の説法のような小説 / 東 直子『とりつくしま』

とりつくしま

東 直子

内容(e-honより)
死んだあなたに、「とりつくしま係」が問いかける。この世に未練はありませんか。あるなら、なにかモノになって戻ることができますよ、と。そうして母は息子のロージンバッグに、娘は母の補聴器に、夫は妻の日記になった…。すでに失われた人生が凝縮してフラッシュバックのように現れ、切なさと温かさと哀しみ、そして少しのおかしみが滲み出る、珠玉の短篇小説集。

 タイトルに惹かれて購入。
 タイトルに、岸本佐知子氏のエッセイ『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』と似たものを感じたのでおもしろエッセイかとおもって買ったのだが、エッセイではなく小説だった。


 死んだ後に「とりつくしま」を選んで現世に戻ってくることができる。選べるのはものだけで、生物は選べない。ものに憑りつくと、周囲のものを見たり聴いたりすることはできるが、自分から他のものにはたらきかけることはできない……。
 というルールで描かれた短篇集。

 死者たちが、いろんなものに憑りついてこの世に戻ってくる。


 うーん。
 十一の短篇が収録されているのだが、ほぼ全部、死者にとって理想的な展開になる。

 自分が死んだ後の妻を見ていたらしばらくは悲しみに暮れていたけどやがて立ち直って亡夫の死を受け入れた上で新たな生活を歩みはじめる、とか。
 恋人が新しい恋人を作ったけど、やはり死んだ彼女のことを好きでいてくれる、とか。
 生意気だった娘がひっそりと父親の死を悲しんでいる、とか。

「自分が死んだ後こうなったらいいな」という願望をそのまま実現させた、まるでポルノのような小説だ。いや官能小説のほうがもうちょっと展開に裏切りがある。

 もう「理想の死後」ばっかりなんだよね。
 自分が死んだら、近しい人たちには悲しんでほしい、喪失感を味わってほしい、けれど前向きになって元気にやっていてほしい、いつまでもおぼえていてほしい。
 そんな「理想」が叶えられる話ばかり。
 残された人が「死んでせいせいしたわ」とつぶやくとか、あっという間に忘れられるとか、まるではじめからいなかったかのように死後もまったく変わらないとか、そういうのはない。

 法事における説法みたいなもんだね。物語としてはぜんぜんおもしろくないけど、身近な人を亡くしたばかりの人や、余命わずかの人はこの小説に救われるかもしれない。
 とにかく理想的だから。




 全体的に裏切りのない小説なので退屈だったけど、『ささやき』はわりと好きだった。

 結婚前も、結婚後も、離婚後も、わたしの夫を、ママは罵倒した。これでもか、これでもかと。それは、案外真実をついていた。わたしが夫を愛せなくなったのは、ママのあげつらう欠点に、共感してしまったからかもしれない。
たとえほんとうに欠点があったとしても、それは、気づかない人にとっては、欠点にならずに済む。だから、欠点なんて知ろうとしなければよいのだ。

 〝ママ〟の補聴器に憑りつくのだが、この〝ママ〟はとにかく面倒なんだよね。気づかいができなくて、おもったことをずけずけと口にして、気分屋で、攻撃的で、デリカシーがない。他人であればぜったいに近づきたくないタイプ。

 でも、主人公は娘なのでそんな〝ママ〟と付き合っているし、死んだ後も〝ママ〟のことを気にかけている。母子だから。

 瀧波ユカリ『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。滝波さんのお母さんもとにかく面倒な人で、余命一年を宣告されてからもまったく穏やかにならない。それどころかいっそう攻撃的になる。

 そういうもんなんだろうね。人間、死に直面したからって仏にはなれないんだよね。むしろ本性が剝きだしになるのかもしれない。イヤな人は、よりイヤになる。

『ささやき』には、娘を亡くした後も相変わらずめんどくさいお母さんが描かれている。自分が娘の立場だったら、あきれると同時に、ちょっとほっとするかもしれない。ああ、相変わらず面倒な人でいてくれてよかった、と。

 自分が死んだ後に、憑きものが落ちたように善人になったら悔しいもんね。自分があんなに苦しめられたのはなんだったんだ、って。


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【読書感想文】小説の存在意義 / いとう せいこう『想像ラジオ』



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