2020年11月5日木曜日

【読書感想文】名盤アルバムのような短篇集 / 津村 記久子『浮遊霊ブラジル』

浮遊霊ブラジル

津村 記久子

内容(e-honより)
定年退職し帰郷した男の静謐な日々を描く川端康成文学賞受賞作(「給水塔と亀」)。「物語消費しすぎ地獄」に落ちた女性小説家を待ち受ける試練(「地獄」)。初の海外旅行を前に急逝した私は幽霊となり旅人たちに憑いて念願の地を目指す(「浮遊霊ブラジル」)。自由で豊かな小説世界を堪能できる七篇を収録。

名盤のアルバムのような短篇集だった。

冒頭に収められている『給水塔と亀』は、久しぶりに故郷に戻った男がただ静かに新生活の準備をするだけの話で、決して悪くはないんだけどおもしろいわけでもなく、この手の志賀直哉っぽい短篇ってあんまり好みじゃないんだよなー、一篇ぐらいだったらいいけどこの感じがずっと続くのは正直退屈だなーとおもっていたのだが……。


ところが『うどん屋のジェンダー、またはコルネさん』から様相が変わってくる。
明るい店主のいるうまいうどん屋。その情景を淡々と描写していたかとおもうと、どうやら店主が明るく話しかけるのは女性に対してだけらしく、おまけに常連と新規客とでずいぶん対応が異なることに主人公が気づき……。

この不穏な感じ、すごく共感できる。
いるよね。女性にだけ優しく接する気のいいおっちゃんとか、常連客と新規客への扱いの差が大きい店主とか。
いやいいんだけど。私営企業だから好きにしたらいいんだけど。
べつにこっちだっておっさんになれなれしく話しかけてほしいわけじゃないんだけど、でもやっぱり「自分だけぞんざいに扱われる」というのは気分が悪い。
だからといって声を上げるのも、嫉妬しているようでイヤだ。
声を上げるほどイヤじゃないけど、何度も味わうのももやもやする。

「女性にだけ優しいおっちゃん」って、男からみても不快だし、たぶん当の女性から見ても気持ち悪いとおもう。
よく行く店の店主ぐらいの関係性だったら、格別に低く扱われるのイヤだけど、不当に好待遇を受けるのもイヤだ。
昔はよくあった「いつもありがとうね、安くしとくよ」「奥さん美人だからおまけしちゃお」系の個人商店が廃れたのは、贔屓されない側と贔屓される側の両方から嫌われたからじゃないかとぼくは睨んでいる。


アイトール・ベラスコの新しい妻』は、学校でいじめられていた子、いじめられていた子と仲良くしていた子、いじめていた子、三者それぞれの人生が描かれる。
いじめられていた子が有名サッカー選手と略奪結婚したり、いじめていた子が夫の不倫に悩まされたり、わかりやすい一発逆転ではなくなんともいえない立場に置かれているのがいい。
世間には「かつていじめられていました」という告白があふれているが、「かつていじめていました」はほとんど聞かれない。いじめられていたのと同じ数だけあるはずなのに。
だからこそ小説で書く意義がある。しかしこの短篇で描かれるいじめっ子は、ちょっとわかりやすすぎるな。「わたしは弱い者を見つけて攻撃している」という自覚がある。ほんとのいじめっ子の心理ってそうじゃないとおもうんだよな。自分は悪くないとおもってるはず。だからこそ、「いじめられていた」告白と「いじめていた」告白の数がぜんぜんちがうわけで。


そして『地獄』はすごかった。
ここで描かれる地獄は比喩ではない。死んだ後に落ちる、文字通りの地獄だ。

 私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよくわからない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は、三十四歳の時がいちばん業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。かよちゃんとは、各地獄への配属の列に並んでいた時以来一度も顔を合わせていない。かよちゃんはたぶん、別の地獄にいるのだ。列に並びながら、私とかよちゃんは、列を仕切っている鬼の鼻毛がものすごく出ているという話で激しく盛り上がっていたのだが、それが相当うるさくて周りから苦情でも出たのか、鬼はかよちゃんを別の列に並ぶように促し、かよちゃんは五十日近く渋ったのち、「でも鬼の人も仕事だし、悪いよな」という結論のもと、最初に並んでいた列を離れていった。その時は、まあなんだかんだでそのうち会えるだろう、と私はイージーに考えたのだが、見込み違いだったのか、かよちゃんにはまだ会えていない。会いたいな、とときどき思うのだけれども、地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手一杯なので、まあ、身が引きちぎれるほどではない。他の地獄のことはよくわからないが、私のいる地獄は、かなり忙しい方だと思う。忙しいというか、目まぐるしい。それは私が現世で背負った業のせいなのだが。

こんな感じで地獄での生活がひたすら描写される。
やけに生々しくて、けれどところどころぶっとんだ発想が混じっていて、上質のコントのようでおもしろい。
地獄なのにやけに現世っぽい。いや、現世こそが地獄なのか。

落語の『地獄八景亡者戯』のようなスケールの大きな地獄話だった。



運命』『個性』はちょっと概念的過ぎて個人的に性に合わなかった。

浮遊霊ブラジル』もまた死後の世界。
アイルランド旅行を楽しみにしていた男性が、旅行の直前に死んでしまう。
アイルランドに行かないと成仏できないので出かけようとするが、乗り物はすり抜けてしまうので飛行機にも船にも乗れない。
だが他人の中に入れることを発見し、アイルランドに行きそうな人を探しているうちになぜかブラジルへ行ってしまい……。

これもドタバタコントのような味わい。


津村記久子さんの小説ははじめて読んだが、〝自由な小説〟という感じがしてなかなかよかった。

おとなしい幕開けから徐々に盛りあがってきて、実験的な短篇が並び、最後は集大成のような壮大なストーリー。
うん、ほんといいアルバムのような短篇集だった。


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2020年11月4日水曜日

【読書感想文】殺人犯予備軍として生きていく / 河合 幹雄『日本の殺人』

日本の殺人

河合 幹雄 

内容(e-honより)
人殺しのニュースが報じられない日はない。残忍な殺人鬼が、いつ自分や自分の愛する人に牙を剥くか。治安の回復は急務である、とする声がある。しかし、数々の事件を仔細に検証すると、一般に叫ばれる事態とは異なる犯罪者の実像が浮かび上がる。では、理解不能な凶悪な事件を抑止するために、国はどのような対策を講じているか。そして日本の安全神話はどうして崩壊してしまったのか。さらに、刑罰と出所後の生活、死刑の是非、裁判員制度の意義まで。

2009年刊行とちょっと古いが(裁判員制度導入のタイミングで出版されたようだ)、じつに読みごたえがあった。
新書でここまで重厚なものは他にちょっとない。いい本だった。

ぼくらは「殺人」についてよく知っているような気になっている。
殺人事件はニュースでも大きく扱われるし、小説や映画の題材にもなりやすい。詐欺や窃盗よりもよっぽど多く耳にするテーマだ。

だが、ニュースや小説になる殺人事件はごく一部だけ。
連続殺人事件とか、残虐非道な犯人とか、センセーショナルな事件だけだ。

暴力をふるう夫に追い詰められた妻が、夫が寝ているすきに首を絞めて殺害したもののすぐに我に返って警察に通報……みたいなケースはニュースにもならないし小説の題材にもならない。

だが、日本で起こっている殺人事件の大半はそのような「ごくふつうの市民による家庭内の殺人」なのだそうだ。

 確かに考えてみれば、人など殺したくないのが当たり前である。たとえ合法でも、進んで死刑執行をやろうという人はまずいないであろう。「殺してやろうか」と思うことと実際に「殺しきる」ことの間には、大きな溝がある。「殺しきる」には、よほどの強い動機が必要であり、それがあるのは家族間の関係なのであろう。私も、殴ってやりたい人はいなくもないとしても、殺すのは御免である。嫌な人がいれば、付き合わなければいいのである。殺す必要があるのは血のつながりがあるか、恋愛がらみで、「別れたいのに別れてくれない」か、「別れたくないのに別れようとされる」かといったケースであろう。嫉妬に駆られての事件や、不倫がらみの事件も、統計の名目上家族間ではないが、実質的には家族問題とすれば、ますます家族がからまない殺しの数は少なくなる。
 家族は、人の命を生み育てるところであるとともに、命を奪う可能性っているということであろう。

なるほど。
フィクションだと「積年の恨みを晴らすために殺す」というケースが多いが、じっさいはそんな事件はほとんどない。
心の底から憎らしい人物がいれば、ふつうは「近づかない」「法的な手段に訴える」「殺害以外の手段で攻撃する」などの行動をとる。
たとえば会社の上司が憎くても、殺すぐらいならふつうは会社を辞めるし、エネルギーのある人なら裁判に訴えるかもしれない。あるいは「ぶん殴る」という手もある。殴るのはよくないが、殺すよりはマシだ。

そもそも、憎い相手に一泡吹かせたいとおもったら、殺したってつまらないよね。
こっちは生きたまま苦しむ姿を見たいんだからさ。げっへっへ。

というわけで、殺したいほど憎くて、今後もつきあっていかなきゃいけない相手というと、これはもうほとんど家族に限られる。
親が自分の人生を束縛しようとするとか、配偶者と別れたいけど相手が別れてくれないとか、年老いた親の介護が苦しすぎるとか、「こいつが死ぬか、自分の人生を捨てるか」の二択になってやむなく殺す……というパターンが多いようだ。

もちろん殺人は悪いことだが、彼らが殺人に追い込まれるには「被害者にも問題があった」「助けてくれる家族がいなかった」「行政の手が届かなかった」などの事情があることが多く、加害者自身も反省していることが多いのでニュースとしては(言い方が悪いけど)おもしろみがない。
みんな「極悪非道の殺人鬼が捕まりました。よかったね。被害者かわいそうだね」みたいなスカッと話が聞きたいのであって、「ちょっとめぐり合わせが悪かったら殺人を犯していたのはあなただったかもしれません」みたいな講釈は聞きたくないんだよね。


フィクションだと「金銭目当ての殺人」もあるが、これも現実にはほぼないそうだ。
そりゃそうだよね。
殺すぐらいなら泥棒をするほうがずっと確実だもん。捕まったときの罪も軽いし。
被害者側だって「金を出せ」と包丁を突きつけられたらふつうは金を出す。殺されたら金持っててもしかたないし。
強盗殺人なんて、殺す側にとっても殺される側にとっても割に合わない犯罪だ。
仮に強盗殺人で首尾よく金を奪っても、その金をこっそり使うのもまたむずかしいだろうしね。

殺すことが割に合わない強盗とは違い、保険金殺人は「殺さなくては金が入らない」犯罪だ。
保険金殺人には、殺すだけの正当な(倫理的にではなく論理的に)理由がある。

 保険金殺人については、刑事司法関係者や犯罪学者に聞くよりも、生命保険会社の調査員が詳しい。殺された者が第一被害者であるが、保険会社もまた被害者である。死体の検分は警察の仕事であるが、そこから保険の状況はわからない。はっきりいって、保険金殺人の捜査は、保険会社の調査員が不審に感じることが端緒である。

なるほどー。
保険金殺人を調査するのは保険会社の人なんだな。
ミステリ小説を書くなら、保険会社の調査員を主人公にしてもいいかもしれないね。私立探偵とちがって調査する理由が明確だし、刑事よりも自由に動けそうだし。




「殺人はありとあらゆる殺人の中で最も凶悪な部類。だから当然罪も重いはず」とおもっていたが、意外とそうでもないことをこの本で知った。

たとえば介護疲れから姑を殺してしまった主婦の事件。

 さて、このような殺人者に、いかほどの量刑が適切であろうか。これまでに犯歴もなく、高齢で体調不良の主婦に、ほかの一般人を傷つけるおそれは全くないと言ってよいであろう。治安を守る観点からは、彼女たちを刑務所に入れる必要があるとは到底思えない。ところが、起訴猶予にするか執行猶予判決を出して、釈放すれば、それは彼女たちにとって、よい選択であろうか。彼女たちは、人を殺してしまったという強い罪の意識を持っている。それに対して、罰を与えないで自宅に帰してしまうとどうだろうか。帰宅したそこは、しばしば、犯行現場でもある。自宅に帰った彼女たちが、その場で自殺を遂げるという危険性がかなりの程度存在する。誰か世話してくれる人がいればまかせればいいが、その人がいないから事件が起きているわけで、そのような可能性は低い。したがって、釈放はまずいのである。
 これらのことは、検察も意識していると思われる。短期の実刑を求刑し、裁判官も、その八掛けぐらいの短期懲役刑を宣告する。自首などが伴えば、一年ということさえある。
 自殺防止ということなら、刑務所内ほど適した環境はない。また、ある程度罰を受けた形にしたほうが納得する。時間がたてば落ち着くという効果もある。早いとこ落ち着いたとみれば、刑期の三分の一を越えれば仮釈放可能である。罪の意識はあるが、凶悪な殺人事件とは認識していないので、長期間刑に服さないことに対しては、違和感はないであろう。一つの目安として被害者の一年後の命日は区切りになるであろう。事件後、即日逮捕、全面自供でとんとん進んでも、判決まで何か月かかかるので、刑務所入所後、短期間で最初の命日を迎えることになる。

たしかに。
介護疲れから殺してしまった人は、要介護者が死んでしまった以上、たぶんもう罪を犯さない。殺人にいたった直接的な原因がなくなったのだから。

だが、釈放してしまえば今度は自分を責めて自殺してしまう可能性もある。だから一年ほど刑務所に入れて、自殺をできないようにしながら過剰な罪の意識を癒してやる。

「刑務所=懲罰の場」というイメージだったが、救済の場でもあるわけだ。


そして、人を殺しても刑務所に入らないケースもけっこうあるのだという。

  ここ数年の殺人事件の量刑をみておこう。参考資料は、もちろん『犯罪白書』である。事件数は年間一四〇〇件ぐらい、ほぼ全て解決事件である。そのうち、刑務所に入所するのは、最近増えたが、それでも六〇〇人余りである。殺人事件を起こしても刑務所に入らないほうが多いとは驚きであろう。執行猶予付き有罪が一三〇から一四〇ある。残りは裁判にかけられていない。その最大は、「その他」の理由で不起訴処分になっている。このうち多くは、被疑者死亡と考えられる。無理心中で後追いから、逮捕後自殺まで死亡の仕方は多様である。数えようがないが最大二〇〇ぐらいであろうか。ほかに、その他に含まれる不起訴理由があれば、それだけ減るが思いつかない。ついで心神喪失で不起訴が一〇〇件足らず(二〇〇一年は八七件)。起訴猶予が数十件たらず(二〇〇四年は六四件)、嫌疑不十分で不起訴も何十件かはある。このほか、被疑者が少年の場合、家庭裁判所に送致され、少年院に入所する。その者、約数十人である。

やはり家族間の殺人であれば、再犯の可能性はきわめて低い。
「社会の秩序を乱す者を塀の中に閉じこめて更生させる」という刑務所の目的からすれば、追いつめられて家族を殺してしまった人は収監の必要がないわけだ。

「人を殺してしまった」という結果は重大でも、「殺すか人生捨てるかの状態まで追いつめられたらから殺してしまった」という人は、決して凶悪な人間ではないのだ。

むしろ、振り込め詐欺とか窃盗常習犯のほうが「他人に被害を与えるとわかっていて犯罪に手を染める人間」なので、よっぽど凶悪かもしれない。


バラバラ殺人というのも、その猟奇的なイメージとは逆に、弱い人物による事件が大半だという。

 これには、社会的な条件も加わる。バラバラ事件の多くは、家族内で発生する。飲み屋でのケンカ殺人は、現行犯逮捕されるなど、遺体を隠すことにつながらないし、計画的な殺人は、どこかに連れ出して実行されている。さらに、体力が弱い、つまり女性が犯人であることが多いとすれば、家庭内の事件にほかならない。家のなかに、遺体を放置すれば臭いが耐えられないし、事件発覚につながる。遺体をなんとかしなければならないが、もし、家が一戸建てであれば、庭に埋めるか、床下に埋めるかという選択肢がある。マンション住まいになれば、このような解決策はない。マンション暮らしの女性が、自宅で殺人をやってしまったら、もっとも単純に考え付くのが遺体を切り分けて捨てることである。 つまり、バラバラ事件となる。被害者が、自分の家族であることは、遺体に対する恐怖心を和らげ、それを切断することにも抵抗をあまり感じないでできてしまうであろう。

そういや桐野夏生『OUT』でも、とっさに夫を殺してしまった妻たちが死体をバラバラにして処分するシーンがあった。

読んでいるときは異常な光景だとおもったが、あれは意外とリアリティのある描写だったんだなあ。




『日本の殺人』を読んでいておもうのは、快楽殺人や強盗殺人や強姦殺人のような、我々がふつうイメージする「凶悪な殺人犯」というのは殺人犯の中でも例外的な存在で、大半は平凡な市民がちょっとめぐりあわせが悪かったせいで人を殺してしまっただけなんだということ。

つまり、ぼくやあなたもちょっと状況が変わっていれば人を殺していたかもしれないってこと。
存外、殺人犯予備軍という自覚を持って生きていくことが、殺人から遠ざかる一番の方法かもしれないよ。


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男子が死にかけたことと殺しかけたこと

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



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2020年11月2日月曜日

【読書感想文】防災用品としての山道具 / 笹原 芳樹『体験的山道具考』

体験的山道具考

プロが教える使いこなしのコツ

笹原 芳樹

内容(e-honより)
登山家としての豊富な経験、登山用具店勤務のプロの知識から生まれた実践的な山道具本。食糧から登攀具まで幅広い山道具を、選び、使いこなすために役立つ83編を収録。

うん、おもしろくなかった。

山登りの道具を紹介しているのだが、
「あれもいいですよ」「これもいいですよ」「これもあったら便利なんですよ」
とひたすら山道具を褒めていて、結局どれを買ったらいいのかわからない。

著者は登山用具店の店員だと知って合点がいった。
ああ、そりゃいいことしか書けないわ。いろんなしがらみがあるだろうから。

こっちが読みたいのは「〇〇はまったく使えない。買ったけど一度しか使わなかった」「〇〇社製の××はぜったいにやめとけ」みたいな本音の情報なんだけどな。

この本読むんなら登山グッズメーカーが出しているパンフレット読んでたほうがよっぽどためになるよ。タダだし。


ぼくのような初心者は「何はなくともこれだけは用意しろ」「雪山ならこれを用意しろ。雨天にそなえてこれを買っとけ」みたいな必要最小限の情報がほしいのだが、この本ではあれもこれもと勧めてくるので、結果「じゃあもう山登りやめとこう」という気になってしまう。

この本でおすすめされている道具を全部買ったら一千万円超えるんじゃないかな。




とはいえ役立った情報も。
「レスキューシート」なるものをこの本で知った。

 大震災直後、現地での使用はもとより今後の地震の備えにと、当店をはじめ日本中の登山用具店では1カ月ほど品切れ状態になったレスキューシートも、それ以後は品切れになったという話は聞きませんし、大量に個人輸入した人が処分に困って相談にこられたケースもありました。最近では「レスキューシートって何ですか?」というお客様もいるくらいなので、一応説明しておきますと、極薄のポリエステルにアルミを蒸着させた大判のシートで、畳むとタバコの箱より小さいくらいですが、広げてくるまれば毛布の2~3倍の保温力があるというものです。
 万が一のビバークにはもちろん、グラウンドシートや雪、雨、風を防ぐフライシートやボディーガードシートとしても使えます。専門の救急処置にも利用されているようです。また、キラキラ光るので、遭難時にはヘリコプターからも発見されやすく、レーダー探知にも良好とのことです。

これは良さそう! とおもい早速Amazonで購入して防災バッグにつっこんだ。

レスキューシートにかぎらず、登山用品ってたいてい防災グッズとしても使えるよね。
この本にも、東日本大震災後に電気や物流が止まったときに登山用品が活躍したと書かれている。


子どもが生まれて、防災について考えることが増えた。
独身時代は「大地震が起きたって自分ひとりぐらいなんとかなるだろ。まあ死んだら死んだときだし」みたいな考えだったが、一応父親になると「家族は守らなきゃ」「子どもが震災遺児になるのはかわいそうだから死ぬわけにはいかない」という意識が芽生えてきた。

登山用品は「いろいろ試してみて自分にあうものを選ぶ」という方法がいいとおもうが、防災用品はそうはいかない。
めったに使わないものだし、どの程度の災害にどんなふうに巻きこまれるかはまったくわからないのだから。

だから防災用品をそろえるにあたって「山で使って便利だった」というのは非常に大きな判断基準になる。
山で役立つアイテムがあれば、電気やガスや電話が止まってもしばらくは生きていけるだろうから。


防災用品をそろえるなら意外と登山用品店がいいかも。
防災訓練として登山をやってみるのもいいかもしれない。

あとゾンビが街を埋めつくしたときにも登山用品は役立ちそうだよね。ピッケルとかあればゾンビと戦えそうだし。


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【読書感想文】持つべきは引き返す勇気 / 小尾 和男『ガチで考える山岳遭難の防止』



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2020年10月30日金曜日

いちぶんがく その1

ルール

■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




ペア型社会では婚外性交が不倫になるが、乱交型社会では純愛が不倫になる。


(立花 隆『サル学の現在(下巻)』より)




「そうだったのか、おれてっきりかっぱかなにかだと思った」


(今村 夏子『星の子』より)




つまりステーキはサラダなのだ。


(玉村 豊男『料理の四面体』より)




「ちょっとでもおくれたら九十四回もさかだちさせられちゃうんだから。」


(角野 栄子『魔女の宅急便』より)




「たいしたもんだよ、モッサリしているのに」


(森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』より)




そんな可愛らしいエピソードもあってか、アル中で股間濡らしで当たり屋だけど、意外にも人気者として通っていた。


(こだま『いまだ、おしまいの地』より)




そもそも、「説得する」ことと「騙す」ことの間に、明確な線など引きようもないのであるから。


(香西 秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』より)




これは圧倒的な知的選良の特性です。


(花村 萬月『父の文章教室』より)




気づけばヨーグルトパックは四方八方名前だらけで、まるで耳なし芳一のような有様だ。


( 櫛木 理宇『少女葬』より)




オウム信者たちは、私にないものをすべて手にしているように見えた。


( 雨宮 処凛 『ロスジェネはこう生きてきた』より)




 その他のいちぶんがく



2020年10月29日木曜日

キャッチャーの生きる道

ある高校の野球部。甲子園に何度も出場している名門校だ。部員数も多い。

彼はキャッチャーだった。チームで三番手のキャッチャー。

スタメンのキャッチャーは捕球技術に優れ、肩も強かった。広い視野を持ち、チームメイトからの信頼も厚かった。

二番手のキャッチャーはエラーが多かったが、バッティングの成績はチームでもトップクラスだった。
だから代打で起用されることも多かったし、一番手キャッチャーがけがなどで出場できないときは代わりにマスクをかぶった。

彼は、永遠に自分の出番はまわってこないであろうことを悟った。
キャッチャーとしての技術もバッティング技術もそこそこ。一番手、二番手にはかなわない。


彼は自分の役割について考え、ピッチング練習用のキャッチャーを買って出るようになった。

これが性に合った。
ピッチング練習は、彼にとって練習ではなかった。ピッチング練習こそが彼にとっての本番だった。

ピッチャーの肩の状態を見きわめ、無理なく調子を上げられるよう声をかけ、おだてたりアドバイスをしたりしてピッチャーの精神状態をコントロールした。

「いかにピッチャーを気持ちよくさせるか」だけを念頭に置いた捕球方法を身につけた。


彼のチームは甲子園に出たものの初戦で敗退した。
チームメイトのうちあるものは大学で野球を続け、あるものは野球をやめた。プロに入るものはいなかった。声すらかからなかった。

唯一プロに進んだのは彼だった。
ただし選手としてではない。「ピッチング練習専用のキャッチャー」としてだった。



という夢を見た。

だからなんだ、という話だが、夢にしては妙にリアルだったので書いておく。