2020年7月13日月曜日

あゝゴーテル


ディズニー映画の『塔の上のラプンツェル』にはゴーテルという魔女が出てくる。

こいつは生まれたばかりのラプンツェルをお城からさらい、ラプンツェルを塔に幽閉して誰にもあわせないようにし、さらにラプンツェルが塔から逃げた後も嘘をついたり、ラプンツェルの恋人を拉致させたりする。

……と聞くとずいぶん悪いやつだとおもうよね。
じっさい、映画の中では純粋な悪役として描かれている。

だけどぼくには、ゴーテルが悪いやつだとはどうしてもおもえないのだ。
もちろん『塔の上のラプンツェル』の世界の法律がどんなものか知らないけれど、現代日本の法感覚でいえば、ゴーテルは悪ではないとおもう。


映画を観たことのない人のために説明すると、ゴーテルがラプンツェルをさらったのにはこんな経緯がある。


どんな病気も治す金色の花の力で、ゴーテルは何百年も若さを保っていた
 ↓
だが妊娠中の王妃の病気を治すために金色の花がお城へと持ち去られてしまう
 ↓
その王妃が産んだのがラプンツェル。ラプンツェルは生まれながらにして金色の花の力を宿していた。
 ↓
ゴーテルはお城にしのびこんで赤ん坊のラプンツェルをさらい、塔に閉じこめて育てる


つまりだね。

まずはじめの数百年、ゴーテルは何も悪いことはしていないわけだ。
ふしぎな力を持った花を見つけ、それを自分のために使っていただけ。
たしかに花の力を他人のために使わずに花の力を独占した。強欲といえるかもしれない。
でも強欲それ自体は罪じゃない。自分の力で手に入れた財産を自分のために使うのは何も悪くない。

そしてゴーテルは大切な花を持ち去られる。
ここでのゴーテルはむしろ被害者だ。大切な財産を盗まれたのだから。
しかもその花の力がないと、ゴーテルは死んでしまうのだ(花の力で本来の寿命以上に生きてきたから)。
言ってみたら、人工透析を受けている患者が透析装置を盗まれるようなものだ。
必死で取り返そうとするに決まっている。
かわいそうなゴーテル。

お城に忍びこんだゴーテル。
だが花はない。代わりに、花の力を宿す赤ちゃん(ラプンツェル)が眠っている。
ゴーテルはラプンツェルを連れ去る。
これはいけない。
不法侵入および誘拐だ。刑法犯罪である。
だが情状酌量の余地はある。なにしろゴーテルにしたら生命の危機なのだ。
刃物を持った不審者に襲われたから他人の家に飛びこんだようなものだ。これを不法侵入で裁くのはあまりに酷だ。

日本の刑法37条1項には
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
とある。
いわゆる緊急避難条項だ。
明らかに「お城に忍びこむ」は「命を落とす」よりも害の程度が小さい。だから今の日本の法律に照らすのであれば、ゴーテルがお城に忍びこんだことは大した罪ではない。
「乳児の誘拐」は「お城に忍びこむ」に比べればずっと重い罪だが……でもやっぱり「命を落とす」に比べれば害が小さい。

しかもゴーテルはラプンツェルをさらった後、十数年も大事に育てているのだ。
なにしろ十八歳のラプンツェルは、健康で元気で明るく優しく勇敢な女性に成長しているのだ。これはゴーテルが大事に大事に育ててきたことの証左といっていいだろう。
たとえ自分の若さと美貌と生命を保つためだったとしても、よその子を十八年も育てるなんてなかなかできることではない。

たしかに『塔の上のラプンツェル』の中で、ゴーテルは“子どもの話をまともに聞かない身勝手な育ての親”として描かれる。
だが子どもの話を適当に聞き流すことが罪なら、世の中の親の大半は犯罪者ということになってしまう。



つまりだね。
ゴーテルのやったこと(不法侵入と誘拐)はたしかに悪いんだけど、十分に同情の余地はあるとおもうんだよね。

この件が我々に投げかけるのは、

A)お城から乳児を誘拐しなければ死んでしまう。それでも誘拐を思いとどまることができるか?

という問いだ。

これに「それでも誘拐はいけない」という人には、こう尋ねよう。

B)お城から乳児が誘拐されそうだ。これを防ぐにはひとりの女性を殺さなくてはならない。それでも殺しますか?

これだと「殺せない」という人が多いだろう。

A)と B)の選択で得られる結果は、じつはどちらも同じだ。
「乳児がさらわれずに女性が死ぬ」か「女性が助かって乳児がさらわれる」

そう、これはトロッコ問題なのだ。

どちらが正解ということはない。



ということで、「ゴーテルを救うか、ラプンツェルの誘拐を防ぐか」というのは倫理学的にはかんたんに答えを出せない問題なのだが、ディズニーはあっさり答えを出している。

「最後はゴーテルが砂になってしまい、ラプンツェルが両親のもとに帰ることができました。めでたしめでたし」
という形で。

観客に納得させるために
「若く美しいラプンツェル」「娘の行方を案じて胸を痛める王と王妃」「強欲で計算高い魔女であるゴーテル」
という描写をすることで。

しかしやっぱりぼくはゴーテルに同情してしまうのだ。
彼女のやったことは褒められたことではなかったけど、誰からも憎まれる悪役として描く必要はあったのだろうか、と。

願わくば『マレフィセント』のように、ゴーテルの苦悩がある程度は報われるアナザーストーリーを用意してあげてほしい、と。

ゴーテルには、姉の子ども達のためにパンを盗んだ罪で19年も服役させられたジャン・ヴァルジャンにも似た悲劇性がある。

あゝ無情。


2020年7月10日金曜日

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2020年7月9日木曜日

【読書感想文】サイゼリヤのような小説 / 道尾 秀介『笑うハーレキン』

笑うハーレキン

道尾 秀介

内容(e-honより)
経営していた会社も家族も失った家具職人の東口。川辺の空き地で仲間と暮らす彼の悩みは、アイツにつきまとわれていることだった。そこへ転がり込んできた謎の女・奈々恵。川底に沈む遺体と、奇妙な家具の修理依頼。迫りくる危険とアイツから、逃れることができるのか?道尾秀介が贈る、たくらみとエールに満ちた傑作長篇。

子どもを亡くし、妻と離婚し、家具製作の会社を倒産させてしまった主人公。ホームレスとなり、川原で生活しながらトラックひとつで家具修理を請け負い細々と暮らしていた。
だが素性の怪しい女が弟子入り志願してきたり、ホームレス仲間が謎の死を遂げたり、かつての取引先社長と元妻が仲良くしているのを目にしたり、明らかに怪しい家具修理の依頼があったりと次から次へと妙なことに巻きこまれ……。


と、次から次にいろんな出来事が起こるので読んでいて退屈しない。
いろいろ伏線があるけどちゃんと回収されて、収まるべきところに収まる。
エンタテインメントとしてすばらしい出来。

疫病神が見えたり、怪しさ満点の人物が現れたりとリアリティには欠けるものの、それもまた気楽に楽しむ上ではプラスかもしれない。あんまり深刻にホームレス生活を描かれても楽しくないもんな。

本筋はもちろん、家具修理の描写やたびたび引用される名言など、飽きさせない工夫が随所に散りばめられていて、作者の旺盛なサービス精神が感じられる。



……といった感想を書いたら、もう書くことがなくなった。

だいたいもっといろいろ書きたくなるんだけど、『笑うハーレキン』に関してはこれ以上特に言いたいことはない。

なぜなら、ちゃんとおもしろかったから。

サイゼリヤの料理みたいな感じかな。
ぼくはサイゼリヤによく行くんだけど、いついっても同じ味。いつもおいしい。
でもクセになる味というわけでもない。誰が食べても八十点をつけるような味。
だから「おいしかった」「この安さなのにおいしい」という以外の感想は出てこない。
もちろん、客としてはサイゼリヤにそれ以上のものは求めてない。安くておいしかったら満点だ。

『笑うハーレキン』もそんな感じだった。
徹底したエンタテインメント。きっと誰が読んでもそこそこ楽しめる。
めちゃくちゃ感動することも、すごくイヤな気持ちになることもない。
そういう本って感想を書くのがむずかしいんだよね。
「おもしろかった」としか言いようがないから。

で、一ヶ月もしたらどんな内容だったか忘れちゃうんだろうな。
でもそれでいい。それがいい。


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2020年7月6日月曜日

むだ泣き


うちの次女(一歳八ヶ月)は“むだ泣き”をしない。

泣くことは泣くが、おなかがすいたとかだっこしてほしいとかまだ寝たくないとかそれなりの理由があって泣く。

「ただなんとなく機嫌が悪くて」のようないわゆる“むだ泣き”はぜんぜんしない。
もっとも「むだ」というのは大人から見ての「むだ」であって当人にとってはむだじゃないんだろうけど。
それにしたって特に要求もないのに泣くのはエネルギーの無駄づかいだ。

むだ泣きをしない次女。
かしこいなあ、とおもう。親なのでなんでもかしこく見えるのだ。

毎朝、ぼくが保育園に送っていくのだが、家を出るときに泣く。
「おかあさんと離れたくない」ということだろう。
でも、おかあさんの姿が見えなくなったらぴたっと泣きやむ。
これ以上泣いてもしかたないと知っているのだろう。

保育園に預けてぼくが別れを告げると大泣きする。
毎日後ろ髪を引かれながら仕事に向かっていたのだが、あるとき忘れものに気づいて引き返したら、もう泣きやんでいた。その間わずか三十秒。
ぜんぜん後ろ髪引かれる必要なかった。

訴えたいことがあるときは泣くが、訴える相手がいなくなったら泣かない。
要領がいい。



その点、長女は要領が悪い。

ちょっとしたことで機嫌を損ねて、ずっとぐずぐずする。
怒りの相手がいなくなってもすねている。

友だちと遊ぶときに、長女はかくれんぼをしたいという。友だちはおにごっこがいいという。
なんとはなしにおにごっこがはじまってしまう。長女はふてくされる。
そこまではわかる。
ところが、その後「じゃあ次はかくれんぼしよっか」となってもまだすねている。
我が子ながら、アホなんじゃないの、とおもう。
今すねてもいいことなんかいっこもないじゃん。

また、言ってもどうにもならないことをずっと引きずっている。
長女が「〇〇食べたかった!」と怒ったときに、
こちらは「ごめん、もうないわ。また買ってあげる」とか「〇〇はないけど××ならあるよ。いる?」とか言ってなだめるのだが、一度おへそを曲げたらなかなか直らない。

ないものはどうしようもないのだから、代案を引きだせただけでよしとしたほうがいい。
そこで「いやだ! 〇〇がいい!」と強情をつらぬくせいで、「じゃあもう食べなくていい!」と言われ、「また今度買ってあげる」も「代わりの××」も手に入らなくなる。


つくづく損なタイプだ。
よく「きょうだいの上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」と言われるが、その典型だとおもう。
まあ下の子はまだ一歳なのでこれから性格も変わっていくのだろうが。



周囲を見ても、やっぱり
「上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」
ケースが多い。

娘の友だちのSちゃんには、二歳下の妹がいる。
この妹、すごく要領がいい。
電車に乗ると、すぐに寝る。
移動時間は退屈だと知っているのだ。
到着したらぱちっと起きて元気いっぱい遊べる。

おねえちゃんと喧嘩をすると怒るが、直接抗議しない。
言ってもむだだと知っているのだ。
代わりに、大人に抗議する。
「ねえねが〇〇したー!」と。
そうすると大人が姉を叱ったり、「代わりに〇〇しよっか」と優しくしてくれたりすることを知っているのだ。

大人に怒られてもむくれない。
逆に、にこっと笑う。
子どもの笑顔を見せられると、大人はそれ以上強く叱れない。

すごい。
齢四歳にしてもう世の中の立ち回り方を心得ている。
計算ではなく、自分より大きい人たちに囲まれて過ごすうちに自然に身についたのだろう。

「怒ってもしかたのないことには怒らない」
「言ってもむだな人には言わない」
「怒られているときこそ笑顔」
これだけで、ずいぶん楽しい人生を送れるとおもう。

ぼくも一歳児と四歳児を見習わなくては。

2020年7月3日金曜日

【読書感想文】本気でぶつかってくる教師は気持ち悪い / 三浦 綾子『積木の箱』

積木の箱

三浦 綾子

内容(e-honより)
旭川の中学に着任する朝、杉浦悠二は中学3年生の一郎と出会う。彼は、姉と慕っていた奈美恵と実業家の父の秘密を目撃し、自棄になっていた。担任となった杉浦は、一郎を気遣うが…。

中学三年生の一郎は、姉と思っていた奈美恵が父に抱かれているところを目撃してしまい、父の愛人であったことを知る。
世間的には資産家でありながら篤志家として評判のいい父親のことを尊敬していた父親とが愛人を家に住まわせていたこと、さらに母や実姉もその事実を知りながら何食わぬ顔で生活していることに大きなショックを受けた一郎。

その一郎が意欲に燃える若い教師と出会って心を開いて……ゆかない。
これがいい。
教師はすごく親身になって一郎のことを心配し、あの手この手で一郎を立ち直らせようとする。だが一郎はかえって教師に対して反発をおぼえる。


そうなんだよね。中学生ってこんなもんだよな。
優しくて正しくてまっとうなことを言う教師にはかえって反発するもんなんだよな。むしろちょっとやさぐれた大人のほうが誠実であるように見えたり。

テレビドラマみたいに単純なもんじゃないよね。
本気で生徒のことを考え、本気で生徒のことを叱り、本気で生徒を守ろうとする教師って、中学生からしたらいちばん気持ち悪い存在だもんな。

後になったら「いい先生だったなあ」とおもうかもしれないけど、ぼくが中学生のときのことを思いだしてみたらそのときは気持ち悪いとおもうだろう。
本気でぶつかってこないでくれ、と。

三浦綾子氏は教師をしていたというだけあって、思春期の男の気持ちをよくわかっている。
自分の性欲を持てあましながら他人には潔癖さを求めてしまうこととか、勝手に大人に期待して勝手に傷つくところとか、すごく男子中学生っぽい。

昔も今も、中学生の生態って変わってないんだなあ。



父親が愛人を囲っていることを知る……。
大人になった今なら、ショックは受けても「まあ親父だって男なんだからそんなこともあるかもな」とある程度は受け入れられるかもしれない。
しょせん親だって自分とはちがうひとりの人間だし、と。

しかし思春期の子どもにはそうかんたんに抱えきれない問題だろう。

高校生のとき、同じクラスの女の子としゃべっていたら、ふいに
「うちの親、もうすぐ離婚すんねん」
と言われた。
どんな流れだったかはおぼえていないが、突然放りこまれた言葉だった。
驚いたぼくは何も言えなかったが、彼女は
「父親がよそに女つくって、出ていくみたいやわ」
と勝手に続けた。
表情にも声の調子にも、感情は表れていなかった。完全な「無」だった。

その「無」に、ぼくは彼女の激しい怒りを見た。
内心では憎しみとか悲しみとか失望とかいろいろあったんだろうけど、たぶんそういう感情では乗り越えられなかったんじゃないかとおもう。
だから感情に固く蓋をして、「父親が浮気をして妻子を捨てて出ていく」という事実を遮断した。
そんな感じの声だった。ぼくが勝手に感じただけだけど。


うちの六歳児を見ていると、まだ親は自分の一部なんだろうなあと感じる。
親が自分のおもうとおりに動いてくれないと怒る。まるで自分の手足がおもうように動かないみたいにいらいらする。
ぼくも子どもを失望させないように気を付けなければ。浮気をするなら子どもが親と完全に分離してから(そうじゃない)。



小説の主題とはあんまり関係ないけど、数十年前の教師の姿の描写がおもしろかった。

生徒の保護者が教師に贈り物を渡したり(それもけっこう高価なもの)、教師のほうも堂々ともらっていたりといった姿が描かれている。
一部の悪徳教師だけでなく、「善良な教師ですら多少はもらう、完全にはねつけている教師は生真面目すぎる変わり者」みたいな描かれ方をしているので、当時はふつうにおこなわれていたことなんだろう。


母の話によると、母の父(つまりぼくのおじいちゃん)は官僚だったので、出入りの業者からお中元やお歳暮をはじめとする贈り物をいっぱいもらっていたらしい。
「庭の草が伸びてきた」といえば週末には取引先企業の社員がやってきて草刈りをしてくれ、「娘が犬をほしがっている」といえば数日で仔犬が贈られてきたという。

今の世の中だったら完全にアウトだけど、当時はふつうだったらしい。
ぼくのおじいちゃんはどっちかといったら規律正しい人だったけど、それでも平然と袖の下を受け取るぐらい、それがあたりまえという感覚だったのだろう。
賄賂という認識すらなかったのかもしれない。

そういやこないだ収賄容疑で取り調べを受けていた議員が「金は受け取ったが買収という認識はなかった」と語っていた。
そんなあほな、とおもうかもしれないけど、案外ほんとのことを言っているんじゃないかな。
政界に縁のない人間からすると「政治家が現金をもらったり渡したりしたら百パーセント贈収賄だろう」とおもうけど、ひっきりなしに金が動く世界にいたら感覚が狂うんじゃないかな。
お世話になっている人から「ま、ま、もらっといてください。もらうだけでいいんで」と言われたらなかなか断れるもんじゃないだろう。
真実はわかんないけどさ。

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