2020年2月7日金曜日
カポエラと不倫
大学生のとき、幼なじみの女の子Sと同窓会で再会した。幼稚園からの付き合いなので色恋沙汰にはならない。いとこのような感覚だ。
Sは大学を中退して今は仕事をしているという。
すぐ近所に住んでいることがわかったので「じゃあ今度ごはんでも行こうよ」と連絡先を交換した。
それっきりなんともなかったのだが数ヶ月後にSから「カポエラに興味ある?」とメールが来た。
カポエラ?
ネットで調べると、南米発祥の格闘技とのことだった。踊るように戦う武術。
奴隷が格闘技をしていると反抗を企図してるとおもわれるので、ばれないように踊りに見せかけたのがはじまり。鎖につながれたままでも戦えるような動きが特徴で……。
興味あるどころかカポエラについて考えたことすら一度もない。
なぜカポエラなのか尋ねると、今度カポエラ教室の無料体験があるから一緒にいかないかという誘いだった。
ぼくは自分から新しいことにチャレンジするのは苦手だが、だからこそこういう誘いはありがたい。
授業の終わったあとにSと待ち合わせてカポエラ教室に向かった。
行ってすぐに自分が場違いな存在であることに気づいた。
格闘技とはいうものの「カポエラで楽しくダイエット!」的なレッスンで、ぼくと講師の男性をのぞく全員がOLで、いたく恥ずかしい思いをした。
ぼくは他のOLさんたちからSの彼氏だと勘違いされた。「彼氏?」と訊かれて訂正しようかとおもったが、彼氏じゃないならOLの汗のにおいをかぎにきた変態野郎だということになるので訂正はやめておいた。
カポエラ教室の後、Sと食事に行った。
カポエラの話や共通の知人の話で盛り上がり、Sから「彼女いるの?」と訊かれた。
「いるよ。Sは彼氏は?」
「……いるといえばいるかな」
「どういうこと?」
「わたし、不倫してんねん」
「えっ……」
それからSは不倫について語りはじめた。
相手は同じ会社の既婚男性であること、ごくふつうのおじさんでかっこいいわけでもお金持ちなわけでもないけどそういう関係になったこと、相手には子どももいて子どもの写真を見せてくれたりもすること、別れさせるとか結婚するとかは考えてないこと。
かなり赤裸々に語られたのだが、ぼくはまるでテレビドラマのストーリーでも聞かされているような気持ちだった。
目の前の女性は、今は二十一歳の女性とはいえ、ぼくが幼稚園のときから知っている子だ。
幼稚園では一緒に登園し、プール教室に通いたくないと泣き、ぼくのいたずらを先生に言いつけにいっていた子だ。
小学校も中学校も高校も同じだったので、きょうだいかいとこみたいな存在だった。
かつて五歳だったSと、今不倫をしていると語る目の前の女性とがどうしても結びつかなかった。
んなあほな。五歳だったのに不倫なんかするわけないじゃないか。
もちろん世の不倫女性すべてがかつては五歳だったわけだけど、それでもぼくの知っている元五歳児は不倫なんかするわけがなかった。
だいたい不倫をする女って、もっとセクシーで男を手玉に取るようなタイプなんじゃないのか。
中学校の図書室でメガネをかけて小説を読んでいたSと、ぼくの中にある不倫女性のイメージとはほんの少しも重ならなかった。「互いに素」だ。
なぜSがぼくにそんな話をしたのかわからない。
ごくごくふつうの調子で、「最近海外ドラマにハマってるんだー」みたいな調子で、「わたし、不倫してんねん」と語っていた。
きっと、Sにとってぼくはちょうどいい距離感の人間だったのだろう。
家族や友人ほど近すぎず、かといってまったく知らない間柄でもない。不都合になればいつでも連絡を断つことができる。
だからこそ打ち明けられたのだとおもう。
ぼくは、Sの行為を肯定も否定もしなかった。
「へえ」とか「不倫とか現実にあんねんなあ」と間の抜けた相づちを打っていた。
数年後、Sからひさしぶりに連絡があった。
「東欧に行くことになったから挨拶しとこうとおもって」
東欧?
Sからの話はいつも唐突すぎてわからない。
数日後に会うことにし、喫茶店でパフェを食べながら話を聞いた。
結婚することになった、相手の仕事の都合で東欧に行くことになった、となんだかせいせいするというような口ぶりでSは語った。
不倫関係があの後どうなったのかは聞けなかった。
結婚相手は同い年だと言っていたので、不倫相手と結婚したわけではないことだけは確かだった。
「しかし外国に住むなんてたいへんやなあ。子どもができてもかんたんに親に手伝ってもらうわけにもいかんやろし……」
と話すと、Sは云った。
「子どもはぜったいにつくりたくない」
その強い言い切りように、ぼくは「なんで?」と聞けなかった。
聞けばどういう答えが返ってくるかはわからないが、その答えがおそろしいものであることだけはわかった。
それから数年。
お正月に実家に帰ったら、母から「Sちゃん離婚したんだって」と聞かされた。
その言葉がずしんと響いた。
驚いたのではない。むしろ納得感があった。落ちつくべきところに落ちついた、という感覚。
ビールを一気に飲んで、しばらくしてから溜まっていた炭酸が大きなげっぷとなって出てきたときのような。
よく「不倫するような女は将来結婚しても幸せになれない」という言葉を聞く。
それは事実というより語る人の願望なのだろう。他人を不幸にしていい思いをしたんだからしかるべき罰を受けてほしい、という願望。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」と同じだ。
Sの離婚の原因がなんだったのか、ぼくは知らない。
Sが過去にしていた不倫と関係あるかどうかもわからない。きっとS本人にもわからないとおもう。
Sが「罰を受けた」という見方には賛成できない。
Sに与えられたのは、罰ではなく解放だったんじゃないかとぼくはおもう。
離婚を決めたときのSの心に「ああよかった」と安堵する気持ちがちょっとはよぎったんじゃないかと想像する。これで過去の不倫がチャラになる、というような。
なぜなら、ぼくも似た感覚を味わったからだ。
ぼくが不倫をしたわけではない。
でも、Sから不倫をしているという報告を受けたことで、それを咎めなかったことで、Sが不倫をしているということを誰にも言わずに自分の胸に秘めていたことで、知らず知らずのうちにぼくも共犯者になっていたのだ。
まるでぼくがSの不倫相手の家族を苦しめているかのような。
それが「Sが離婚した」と聞かされたとき、ようやく解放された。だからこうして書くこともできる(これまでは匿名であっても書けなかった)。
もちろんSが離婚したことと、Sが結婚前に不倫をしていたこととは無関係だ。不倫の罪(罪だとするなら)が消えるわけではない。
でも、ぼくの中では相殺された。打ち消しあって完全に消えてしまった(当事者でないからなんだろうけど)。
Sに対して、よかったなと言いたい。
皮肉ではなく本心から。
ずっと不倫の過去という鎖につながれたまま戦ってただろうけど、ようやく自由になれたな。
もうカポエラはしなくていいんだよ。
2020年2月6日木曜日
「無難」を選ぶ生き方
娘の通う保育園のすぐ横に園長先生の住宅があるのだが、今朝その前に救急車が停まっていた。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。
保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」
すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。
また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」
保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」
聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。
まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。
保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。
なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。
もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。
ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。
しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。
ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。
その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。
翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。
「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。
保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」
すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。
また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」
保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」
聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。
まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。
保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。
なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。
もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。
ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。
しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。
ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。
その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。
翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。
「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。
「三日連続!」をSさんが見たら、イヤな気持ちになっていたかもしれない。イヤな気持ちにならなかったかもしれない。
それは誰にも分からない(「三日連続!」は担任に叱られてすぐ跡形もなく消したのでSさんの目には触れていないはず)。
今ならわかる。担任の言いたかったことが。
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
処世術としては正しい。
今のぼくが担任だったとしても「書かないほうがいいんじゃない?」という。「たとえSさんを傷つけてでも書かずにいられないことならむりには止めないけど、そこまでじゃないでしょ? だったらやめといたほうが無難だよ」と。
しかし「無難」を選ぶには人生経験がいるんだよね。
中学一年生のぼくにはできなかった。
もちろん五歳児も無理だろう。
2020年2月5日水曜日
【読書感想文】現代日本にも起こる魔女狩りの嵐 / 森島 恒雄『魔女狩り』
魔女狩り
森島 恒雄
中世ヨーロッパにふきあれた魔女狩りの嵐。
その実情にせまるため、キリスト教の立場の変化、魔女狩りが起こった理由、魔女裁判や拷問・刑罰、収束していった背景などについて書いた本。
1970年刊ということで今から五十年も前の本だが、魔女狩りの本は他にあまり出ておらず、五十年たった今でもこれが魔女狩りについていちばんよくわかる本なのではないだろうか。
ぼくは知らなかったのだが、魔女狩りの対象となった「魔女」は女だけではなかったらしい。男も女も「魔女」にされたらしい。
魔女狩りはとにかくおそろしい。
なんと「世間のうわさ」だけで逮捕され、魔女扱いされてしまうのだ。
一度魔女の疑いを持たれると、過酷な環境の牢獄に入れられさまざまな身体的苦痛を受け(しかもそれは「拷問」ではないという扱いだった)、その後は本格的に拷問を受ける。
拷問を受けても「自白」しなければ、それこそが魔女の証とされ(魔女だから痛みや苦しさを感じないという理屈)、死よりも苦しい拷問が延々続く。
自白しなければ生きたまま火あぶり、自白すれば絞首の後に焼かれる。いずれにせよ殺されることには変わりなく、また他の魔女の存在を白状するよう拷問を受け、苦しみから逃れるために別の人間を「魔女」としてでっちあげる。そしてまた拷問が……。
という終わりのない苦しみが延々と続く。
まったく罪のない人間が魔女にされ、どれだけ否定しても拷問を受け、死ぬまで、いや死後も魔女としての汚名を着せられるのだ。
……いやほんと、言葉も出ない。
我々が知っている「人間の残酷な所業」はそのほとんどが二十世紀の出来事だが、それより前の出来事は記録が乏しいからあまり伝わっていないだけで、もっとえぐいことをやっている。
そりゃあ二十世紀に虐殺された人たちもめちゃくちゃ気の毒なんだけど、魔女狩りで拷問を受けて焼かれた人からしたら「魔女狩りの拷問に比べたらぜんぜんマシじゃん」と言いたくなるんじゃないかな。
それぐらい魔女狩りのえげつなさはレベルが違う。
もともと「魔女」はごくふつうの社会の一員だったらしい。
薬を作ったり占いをしたりする人が「魔女」とされ、社会に受け入れられていたらしい。
今の時代なら薬剤師や気象予報士や経済アナリストみたいなものかもしれない。
魔女が裁かれることはあったが、それは「他人を呪い殺した」といった罪で裁かれるのであって、存在自体が罪であったわけではない。
だがキリスト教による異教徒弾圧が過激化するにともない、魔女は「存在自体が罪」「反論の余地を与える必要もないし何をしてもいい」という存在に変わっていった。
なぜ魔女狩りがエスカレートしていった理由は、宗教思想というより、意外にもカネと政治によるものが大きかったらしい。
権力者(法皇)が、敵対する者を陥れるためや共通の敵を使って自分への支持を高めようとするためだったり。
あるいは「魔女」の財産が目的だったり。
結局、人を残忍な行為に走らせるのは思想ではなく政治(権力)とカネなのだ。
虐殺とか大規模な不正とかもたいてい裏にあるのは政治とカネだ。
もちろん二十一世紀の今、魔女を本気で糾弾する人はいないだろうが、「魔女狩り」は今後も起こるだろう。いや今でも起こっているかもしれない。
現代日本の「起訴されたら99%有罪」「逮捕されたら犯罪者扱い」なんてのはほとんど魔女裁判と一緒だ。
政府の不正を隠すために必死に隠蔽や虚偽の報告を続けている内閣府の官僚なんかは「魔女狩り令」が出たらいともかんたんに「魔女」に対して残忍な拷問をするだろう。
魔女狩りが教えてくれるのは、
「昔の人は迷信を信じていて愚かだった」でも
「キリスト教は異教徒に対して残忍なことをする」でもない。
「人間は権力とカネのためならどんなに残忍なことでもする」だ。
ぼくもあなたも。
だからこそ基本的人権という制度があるのだ。
「〇〇人が攻めてくるかもしれない」なんて言って「敵」をつくって基本的人権を制限しようとする人間が現れたときには気を付けましょう。
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2020年2月4日火曜日
【読書感想文】良すぎるからおそろしい / 成毛 眞『amazon ~世界最先端の戦略がわかる~』
amazon
世界最先端の戦略がわかる
成毛 眞
ぼくはAmazonヘビーユーザーだ。
毎月Amazonで本を買い、Kindleで電子書籍を読む。
Amazonプライムにも加入していて、Fire TV stickを使ってテレビでPrime動画を観る。
子どものおもちゃもおむつもたいていAmazonで買うし、サンタさんにも「娘が〇〇をほしがってるのでAmazonの商品URL送ります。お願いします」とリクエストする。
写真のバックアップはAmazonフォトストレージに保管してるし、仕事でもAWS(アマゾン ウェブ サービス)サーバーを使っている。
こないだはじめてAmazonでスーツを買った。スリーピースの冬物スーツがなんとタイムセールで7,140円(税込)! これだけ安いならよほど低品質なのかな、でもまあ騙されたとおもって試してみる価値はあるとおもって買ったら、実にいい仕立て。これを紳士服屋で買ったら50,000円はするだろうとおもえるぐらいの品質で大いに満足した。
もはやAmazonのない生活は考えられない。
そんなネット界の巨人Amazonの現状・経営・戦略・思想について、知の巨人である成毛眞さんがまとめた本。
Amazonのすごさは「そこまでやるか」とおもえるぐらいのサービスに尽きる。
消費者向けのサービスは言うまでもないが、マーケットプレイスの出品者に対してのサービスもすごい。
これはすごい。
競合サービスのために在庫管理や発送を代行するのだ。EC(ネット通販)でいちばん手間や費用がかかるのは在庫管理・発送だと聞く。それを一任できるのだから出品者からするとメリットは大きい。
もちろんAmazonも慈善事業でやっているわけではない。
在庫管理・出品を一手に握ることによって出品企業はAmazonから離れられなくなるし、Amazonにとって最大のメリットは「(Amazon以外も含む)オンラインでの全販売データ」が手に入ることだろう。
そしてそのデータは、当然Amazonの利益のために使われる。
Amazonに出店して商品を売っていたら、その販売データをもとにある日Amazonが同じような商品を開発してもっと安い価格で売りはじめるのだ。パートナーとおもっていたらいきなり商売敵(それもどこよりも手ごわい)になるわけで、こんなことされたらよほどブランド力のある会社以外は太刀打ちできないだろう。
なんともおそろしい話だ……。
Amazonの存在は、ほとんどの卸売店・小売店・出版社にとって脅威だ。
が、Amazonの行動は決して邪悪でない(納税については決して褒められた行動をとっていないが、それはむしろ抜け穴のある税制度のほうが悪い)。
むしろAmazonは「すべては顧客利益のために」という行動原理に基づいて動いている、(消費者からすると)超優良企業だ。
株主の利益のためでなく、従業員の利益のためでもなく、お客様のために。
口先だけなら言う企業は多いが、Amazonはその理念を見事に行動に反映させている。
これこそがAmazon最大の強みであり、Amazonのおそろしいところでもある。
ぼくは書店が好きだ。
自分が書店で働いていたこともあって、できることなら書店文化が衰退してほしくないとおもっている。
でも、たとえば店頭にない商品の扱いひとつとっても
・店頭にない商品を注文したときに「ないですね」としか言わない
・取り寄せ注文を依頼しても商品が到着するまでに2週間近くかかる
・2週間で届けばいいほうで、1週間たってから「やっぱり品切れでした」と連絡してくることもある
というリアル書店と(取次制度が諸悪の根源なんだけど)、
・まず品切れになることがほぼない
・新品がなければ中古商品の中からいちばん安いものを勧めてくれる
・新品も中古品も同じプラットフォームで購入できる
というAmazonのどっちを選ぶかといったら、「リアル書店にがんばってほしい」という想いをさしひいても、そりゃあAmazon使うでしょ。
品揃え、価格、スピード、検索性能、レビューの有無、返品対応、スペースの問題(電子書籍)、他のうっとうしい客などどれをとってもAmazonは実店舗に圧勝しているので、本が好きな人ほどAmazonに吸いよせられてしまう。
いまや、Amazonより実店舗のほうがはるかにいいぜ! って根拠を挙げて説明できるのって「立ち読み専門の人」「万引き犯」ぐらいなんじゃない?
残念ながら、書店は今後も減りつづける。
「地域の文化資本を支える」みたいな、言ってる本人もよくわかっていない理由で利便性に太刀打ちできるわけがない。
個人商店が商店街につぶされ、商店街がショッピングモールにつぶされたのと同じで、いくら愛着があろうとたいていの人は愛着のために高くて不便な店で買おうとはしない。
さよなら本屋さん。
これは書店だけの話はない。
ほとんどの小売店が同じ流れに巻きこまれる。衣類や生鮮品を扱う店であっても。
なにしろAmazonがオンライン書店としてスタートしたのは、本という商品に思いがあったわけではなく、「取り扱いが楽で鮮度を気にしなくていいから」という理由だけのためだったそうだ。
だから取り扱うノウハウさえ整えばどんな商品でも取り扱う。
Amazonで上質なスーツを7,200円で買ったぼくがこれから先、紳士服屋でスーツを買うことは二度とないだろう。
友人にもスーツ屋がいるので申し訳ないという気持ちはあるが、義理と数万円の安さを天秤にかけたら、安いほうをとる。
こうして書店がたどった道を、洋服屋もおもちゃ屋もスーパーマーケットも歩むことになる。
誰が悪いわけでもない。企業努力の問題でもない。職業は時代とともに滅びゆくものなのだ。
Amazonは投資を惜しまない。
なにしろAmazonが利益を出すようになったのはここ数年の話で、それまではずっと粗利益のほとんどを設備投資にまわしていて、利益はわずか、あるいは赤字だったのだ。
これはすごく勇気のいる経営だとおもう。ぼくが経営者だったらできない。
万一の事態に備えてキャッシュを置いといたり、株主に分配したりしてしまう。
Amazonは成功したから「赤字を垂れ流しても、事業拡張に投資を続ける」というスタイルが評価されているけど、うまくいかなかったらめちゃくちゃ非難されるやつだもんなあ。
Amazonの投資はいたるところに及ぶ。
サーバーや倉庫はもちろん、物流も自前で確保しようと動いている。
空飛ぶ倉庫!
ラピュタはほんとうにあったんだ!
一見突飛な発想だけど、土地代はかからないし輸送は楽になるし、実現できればいいアイデアかもしれない。
こんなの、日本じゃ法規制されて絶対にできないよねえ。
大型トラックはもちろん、Amazonは航空機、空港、海上輸送手段まで保有しようとしているらしい。
もはや一企業を超えて大国の軍ぐらいのスケールになっている。
そうなれば次は「エネルギー採掘も自前で」ってなるんだろうな(風力発電所は既に保有しているらしい)。
日本のGDPよりもAmazonの売上のほうが大きい、なんて日が来るのはわりとすぐそこかもしれない。
今後もAmazonはどんどん拡大を続けるだろう。
「顧客満足」のために。
もはやAmazonはネット通販の会社ではない。
Amazonでいちばん収益を上げている事業はAWS(サーバー事業)だし、Amazonプライム・ビデオはテレビが持っている利益を奪う。
実店舗、金融などありとあらゆるビジネスがAmazonのターゲットになりうる。
何度もいうが、いちばん怖いのはAmazonが消費者に歓迎されることだ。
品切れのない書店、どこよりも安い価格で買える洋服屋、安定していて安いサーバー、好きなときに観られるテレビ番組、待たずに買えるスーパー、欲しいときに融資してもらえる金融機関……。
Amazonを使わない理由はどこにもない。
「うまい話」になんとなく抵抗を感じてしまうけど、でも、たぶんいい流れなんだよね。たぶん……。
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2020年2月3日月曜日
【読書感想文】純愛≒尿意 / 名木田 恵子『赤い実 はじけた』
赤い実 はじけた
名木田 恵子
同世代で、光村図書の国語の教科書を使っていた人ならきっとおぼえているはず。
『耳をすませば』とならんで全国の子どもたちを赤面させた『赤い実 はじけた』。
ふと「どんな話だったっけ」とおもって読んでみたのだが、なんともあっけない話だった。
小学生の女の子が魚屋に行くと同級生の男の子が店番をしている。少し苦手だとおもっていた男の子だけど、魚屋見習いとして一生懸命な姿を見ているうちに「パチン」と胸の中で赤い実がはじけたような気がした……。
というお話。
青春小説の冒頭みたいだけど、これで終わり。
長篇の一部かとおもっていたら教科書用に書き下ろされた短篇(というか掌編)らしく、すごく短い。
三分で読み終える。
この子の恋の行方はどうなるのだろう……と想像する余韻すらない。たぶんどうもならない。小学生の恋なんてそんなもんだ。
他にも小学生の淡~い恋愛(淡すぎてほぼ純白)を描いた短編が収録されているが、はっきりいっておもしろくない。
まあね。小学生の「好き」なんておもしろくないよなあ。
肉欲とか見栄とか打算とか背徳とかがあってこそ恋愛はドラマになる。
安っぽい恋愛ドラマは「純愛」という言葉をよく使うが、本当の純愛なんて単純な欲求だから「尿意」とか「眠たい」とかと同じで、まったく心を動かされないんだよね。
そんな中、父親のDVに苦しむ母子を描いた『な・ぐ・ら・な・い』は唯一読みごたえがあった。といっても児童文学だから暴力の描写なんてぜんぜんソフトなんだけど。
道徳の教科書にはこういう話こそ載せたほうがいいよね。
「国を愛する心」を教えるよりも「子どもを殴るクズが父親だったとき、子どもなりにとれる行動は何か」みたいなことを教えるほうが千倍役に立つから。
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