2019年10月21日月曜日

力づくで子育て


もう六年ほど子育てをしている。
娘を叩いたことは一度もないが、押さえつけたことやねじふせたことは何度もある。

「魔の二歳児」という言葉がある。
だいたい二歳ぐらいでいわゆるイヤイヤ期を迎えることから、そう呼ばれるのだ。

この時期の、聞き分けのなさったらない。
育児をしたことのない人にはわからないだろう。ほんとにどうしようもない。

泥酔した人って話が通じないじゃないですか。
あれを百倍ひどくしたのがイヤイヤを発動した二歳児だとおもってもらえばだいたいまちがいない。

「くつはかない!」
 「でも靴履かないとお外行けないよ」
「はかない!」
 「じゃあ外行けなくていいの?」
「いや! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「くつはかない!」
 「じゃあどうやって行くの? ベビーカー乗る?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあだっこで行こうか?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあはだしで行く?」
「いやだ!」
 「はだしが嫌なら靴履いて」
「いやだ!」
 「おとうさんが履かせてあげよっか?」
「いやだ!」
 「じゃあ自分で履く?」
「いやだ!」
 「もうお出かけやめとこっか」
「いやだ! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「いやだ!」
 「なにがいやなの?」
「いやだ!」
 「それじゃわかんないよ」
「いやだ!」
 「もうおうちにいようよ」
「いやだ!」
 「じゃあ靴履こう」
「いやだ!」

これ、ぜんぜんおおげさな話じゃなくて、二歳児のいる家庭では日常茶飯事だからね。

なにがすごいってこれだけ話しても事態が一ミリも動いてないってこと。
官房長官の記者会見ですらこれよりは若干話になる(若干ね)。

二歳児ってなまじっか言葉が通じるから余計に厄介なんだよね。


まあこっちがひまなときであれば、イヤイヤを発動されてもつきあってあげたり、あるいは放置したりするんだけど。
でもそういうわけにはいかないこともある。
五分以内に家を出ないと会社に遅刻するときとか、お店でイヤイヤが発動したときとか、土砂降りの中、道端で急に「歩きたくないしだっこされるのもいや」と言いだしたときとか。

こういうときは力で押さえつける。
自分の左手と左脚と右脚を使って娘を押さえつけ、右手で靴を履かせる。
全力で暴れる娘を、こちらも全力で抱きかかえながら反対側の手で傘をさして雨の中走るとか。

一度、じたばたと暴れる娘を抱きかかえて、通勤鞄を持ち、保育園に持っていく鞄を持ち、保育園のおひるね用布団をかつぎ、傘をさしながら保育園まで走ったことがある。
あのときは千手観音が我が身に宿ったとしかおもえない。


さすがに娘が六歳になった今は、力で押さえつけることはなくなった。
娘も暴れなくなったし、もし六歳が本気で暴れたら抱きかかえることはできないだろうから。

けれど幼いころは、「力づく」に頼る場面は多かった。
おじさんになって運動不足になったという人もいるが、ぼくは子どもができてからのほうが圧倒的に筋力を使うようになった。
子どもをかついだり、ひきずったり、荷物を持ったり、走りまわったり。

子育てに体罰を使うのはよくないが、「力づく」は必要だぜ。


2019年10月18日金曜日

【読書感想文】税金は不公平であるべき / 斎藤 貴男『ちゃんとわかる消費税』

ちゃんとわかる消費税

斎藤 貴男

内容(e-honより)
政治家の嘘、黙り込みを決めたマスコミ、増税を活用する大企業によって隠された消費税の恐るべき真実。導入から現在まで、その経緯と税の仕組みを一からわかりやすく解きほぐし、日本社会を「弱者切り捨て」へと向かわせ、新たに「監視社会」に導く可能性をも秘めた消費税の危険性を暴き出す。文庫化にあたり、武田砂鉄氏との対談を収録。消費税論の決定版。

大筋では著者の書いていることに納得。消費税よくない。
ただなあ。どうも議論が荒っぽいんだよねえ。

法律とか統計とかよく調べているんだけどね。そこは感心するんだけど、肝心の論理がちょこちょこ飛躍している。

Aが増えている。同時期にBも増えている。だからBが増えたのはAのせいでしょう!
……みたいな展開が多い。
いや疑似相関とか因果関係が逆とかいろいろ可能性はあるじゃない。

あと感情的な議論はやめようと書いているくせに、おもいっきり感情に訴えかけてきたり。
「源泉徴収制度はナチス時代のドイツのやりかたを参考に作られたのです。それを今でも使っているんです!」とか書いてある。

いやええやん。ナチス政権の考えたやり方だとしても、いい制度なら真似したらええやん。
問題視するのはそこじゃないでしょ。

まあまあ。
しかしこうやって改めて税金のことを説明してくれる人って貴重だね。
みんなよくわかってないもんね。もちろんぼくも。

税金を徴収する側(=税務署)としては、国民が税金のことをよく理解してない状態がいいからね。
そっちのほうががっぽりとれるわけだから。
だからこそ、国民は自分自身でちゃんと勉強しなくちゃいけない。



題は『ちゃんとわかる消費税』だが、消費税以外の話のほうがおもしろかったな。
規制緩和の話とか。
航空機のキャビン・アテンダント(CA)が真っ先に契約社員に切り換えられていきました。もちろん当事者は怒ったけれど、世間は「企業にとってよいことなら労働者にとってもよいはずだ」というように受け止めたのです。
 これは労働組合のナショナルセンターである連合の人に聞いた話ですが、最初がキャビン・アテンダントだったことには大きな意味がありました。他にも、早くから派遣に切り換えられていったのは、女性の、当時で言うOLたちでした。男性の仕事はすぐには派遣にならなかった。今は性別に関係なくどんどん派遣や請負に切り換えられてしまっていますが、あの頃の連合は、女性について「主たる家計の担い手ではない」という古い認識から離れられずにいたのです。連合の組合員の圧倒的多数は大企業の男性正社員でしたから、「女性の労働者がいくら非正規になったところで関係ないし、社会全体にとってもたいした影響はないだろう」と放置してしまっていた。ところが、次第に製造業に派遣が広がって、主たる家計の担い手であった男性も同じような目に遭っていきます。新自由主義の搾取のスタイルに当事者として被害を受けるようになるまでは、労働組合も問題の所在に気づくことができなかったわけです。
これってまさに寓話『茶色の朝』だよね。

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』は、こんな話。
ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき、「以前茶色じゃない犬を飼っていた」という理由で友人が逮捕される。"俺"は自分の身もあぶなくなったことに気づきこれまで抵抗してこなかったことを悔やむが……。


契約社員への切り替えをまずはキャビン・アテンダントからはじめたってのは、実に巧妙だよね。上にも書かれているようにCAは女性が多いってのもあるし、容姿や学歴に恵まれた人のつく仕事ってのも大きいとおもう。やっかみを買いやすい立場だから、「どうせさんざんいい思いをしてきたんだろ」「仕事を失ったってたいして困らないだろ」と思われて反対運動が支持されにくかったってのもあるんじゃないかな。
「自分には関係のないエリート様が少々困ったところで平気でしょ」ってなぐあいに。
ところが「CAもやったんだから」という理由で、一度開いた穴はどんどん広がってゆき、しまいには堤防は決壊してしまう。
「じゃあ他の職種も規制緩和しましょう」「女性だけ対象にして男性だけ守るのは差別だから男性も非正規に切り替えましょう」となってゆく。
自分の身が危なくなってから反対してももう遅い。

最近めっきり聞かなくなった「高度プロフェッショナル制度」も同じだよね。
最近話題にならなくなった、ってのが恐ろしいところだよね。みんなが忘れた頃にどんどん導入されてゆくんだろうね。

消費税も、軽減税率だのキャッシュレス還元だのといろんな目くらましを用意して「なんだ、それならたいして困らないか」と思わせながら増税してるからね。
本当の苦しみは遅れてやってくるんだけど。



消費税増税に関して、新聞業界が「軽減税率」という毒まんじゅうを食わされて批判の拳をあっさりおろしてしまったことについて。
斎藤 こんなことは私が言うべきことじゃないかもしれないけど、もう本気で再編成を考えないと新聞の存在価値そのものがなくなっちゃうんじゃない?
武田 再編成?
斎藤 経営統合とか、宅配からの撤退とか。
武田 新聞社の記者と話していても、現場にそういった危機感はないですね。
斎藤 現場の人には全然ないでしょう。まだ自分たちのことをエリートだと勘違いしたまんまなんじゃないのかな。そこがまた質が悪い......どうしてこんなこと言うかというと、自分自身が業界紙の出身で、ろくでもないことを嫌というほど見聞きし、自分でも多少は経験したからなんですよ。会社に金がなくなると、ベテラン記者が懇意の大企業に行って金を貰ってくる。それで記事だか広告だかわからないような記事が載る。それができる記者が優秀な記者だってことになるわけだ。それを何十年もやっている先輩が何人もいて、それはそれで私も嫌いじゃないというか、否定なんかしません。そういう生き方もあると思う。業界紙というのはそういうものだし、相手の業界の人がわかっていればいいことだからね。でも、一般紙はそれとは違う信用の上に成り立っているわけじゃないですか。なのに今、一般紙がやっていることって、業界紙とまったく同じなんだよ。現場の記者からは見えないところで、どの新聞社も同じことをやっている。私がいた業界紙は記者と営業と広告の距離が近かったから見えちやったんだけど、彼らには見えないんでしょうね。

ぼくも広告の仕事をやっているので、「公的機関の仕事」のおいしさはよくわかる。
いくつかやったことがあるけど、はっきりいってめちゃくちゃ楽なんだよね。
値切ってこないし、成果も求められないし。

だからお金に困っている新聞業界が「原発のPR記事載せてください」とか言われたら飛びついてしまうのも無理はないとおもう。
で、スポンサー様になってもらったら舌鋒鋭く批判できなくなるのも気持ちもわかる。

でもなあ。
それってその場しのぎにはなるけど、長期的に見たらぜったいに寿命を縮める道だとおもうんだよなあ。

メディアの役割って「事実を伝える」と「解説する」があるとおもうんだよね。
事実を伝えるのはもちろん大事だけど、「なぜこうなったのか」「このままだとどうなるのか」「防ぐにはどうすればよいか」「外国だと似たケースでどうしているのか」「これによってダメージを受けるのは誰なのか」「逆に得をするのは誰なのか」などを論じることも重要。

で、政府や大企業からお金をいただいている新聞は「解説する」役割を放棄することになる。少なくとも批判的な解説はできなくなる。
「官房長官はこう言ってます」「〇〇社はこう発表しました」だけ伝える存在になる。
でもメディアが「事実を伝える」必要性はどんどん減っていっているわけだよね。昔なら新聞やテレビを通さないと国民に届けられなかった情報でも、ホームページやSNSでかんたんに発信できる。事件があれば現場近くの一市民が写真を撮ってツイートしてくれる。
単純な情報の量やスピードでいったら、新聞がネットに太刀打ちできるはずがない。

だから今後新聞が生き延びる道があるとすれば(あるかわからないけど)、「解説する」に力を入れないといけない。なのに目先の金欲しさにそれを捨てている。
政府広報紙になったらもう誰も新聞を読まないでしょ。じっさい産経新聞の部数減なんかいちばんすごいみたいだし。

と、えらそうに理想を語るのはかんたんだけど現実にはまあ無理だろうね。
新聞が「事実を伝える」を捨てて「解説する」に方針転換しようとしたら、記者を減らして、日刊をやめて、宅配をやめて、広告を減らして……ととんでもない数の人を切らないといけない。もちろん自分たちの給料も減らす必要があるだろう。
ぜったいに不可能だ。

ぼく自身は新聞を読むのは好きだし(とってないけど)、新聞社に勤める友人もいるので新聞社にはなんとか生き残ってほしいけど……。あと十年もつのかな。



消費税だけでなく、いろんな税がどう移り変わっていったのかを知ると、ある大きな流れが見えてくる。
それは「富める者には甘く、貧しい者には厳しく」という流れだ。

ここ数十年、消費税はずっと増えてきた。逆進性(貧しい者に対する負担がより大きいという性質)が大きいにも関わらず。
また税金ではないが社会保険料負担も増える一方。
対照的に減っているのは、法人税や高所得者に対する所得税。
そして輸出型企業は消費税によって逆に儲けている(輸出免税制度)。

誰が見ても一目瞭然だ。
日本はどんどん「金持ちに優しく、貧乏人に厳しい国」になっている。最大の原因はもちろん自民党だが、かつての民主党も手を貸している。
 弱肉強食、適者生存は世の習いですが、政府までが人間一人ひとりの命や尊厳や人権を尊重する建前を放棄してしまったら、世の中は獣たちのジャングルと変わらなくなってしまうじゃないか、と私は考えています。国家のためと言いながら、小さいところが辛うじて食べていくために稼いだお金までぶんどるというのが消費税増税です。そうやって巻き上げた税金を大企業に回す仕組みを強化して、それでGDPが増えたとしても、そんなものを本当の意味での「経済成長」と言えるのかどうか。
 成長ではなく搾取です。搾取を成長にみせかけるなどというのは、最も卑劣な手段だと思います。国家社会のためでさえありません。早い話、「なぜ消費税を上げたいかって? 俺や俺の身内が儲かるからだよ」というのが増税したい人たちの本音ではないでしょうか。

政府がこういう方針だからか、「貧しいのは努力が足りないせいだ。才能や努力によって儲けた人間から何の努力もしていない人間に金をまわすなんて不公平じゃないか」なんて自己責任論を口にする人間も少なくない(金持ちが言うんならまだわかるんだけど、そうじゃない人間が言うのがちゃんちゃらおかしい)。

だがぼくは言いたい。
そうだよ、不公平だよ。
税金ってそもそも不公平なもんなんだよ。
完全に公平にするんなら政府なんていらないじゃない。

金持ちは自費で水道をひき、警備員を雇い、子どもに家庭教師をつけ、医者を雇えばいい。貧乏人は川の水を飲み、何が起こっても自分たちで解決し、教育は受けられず、病気になったら死んでゆく。
まさに弱肉強食。政府は何もしない。これがいちばん公平だ。

でもそんな社会はみんな望んでいない。
だから国家をつくり、税金を出しあって警察や消防や学校や病院やインフラをつくってきたわけじゃない。
だから税制が不公平ってのはあたりまえの話なんだよね。

ねずみ小僧とかロビンフッドとかがやっていたような義賊システムを制度化したのが政府なんだから(ねずみ小僧もロビンフッドも元々は義賊じゃないらしいけど)。

だから、このまま低所得者から高所得者への財産移管を進めていってたら、そのうち大多数の国民が「国なんかいらないよな」ってことに気づいてしまうんじゃないかな。

これって日本だけの話じゃなくて、近いうちに今みたいな形の国家は解体に向かうのかもしれないなあ、とぼんやりと考えている。


【関連記事】

【読書感想】井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』



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2019年10月17日木曜日

ゴミックマ


伊藤園のおーいお茶をよく買うのだけれど、コンビニ限定でおまけがついていることがある。
こないだも「リラックマ オリジナルペットボトルカバー」がついていた。

ああ、いやだな、とおもう。

こんなのいらない。
ペットボトルカバーなんていらない。飲みおわったらすぐ捨てたいからペットボトルを買っているのに。
仮にカバーを使うとしてもリラックマは趣味じゃない。

いらないなら使わなければいいじゃないかとおもうかもしれないが、新品のモノを開封もせずに捨てることが心が痛む。
地球環境、なんて言葉が脳裏によぎる。

で、おーいお茶に伸ばしかけた手を引っこめ、他のお茶を選ぶことになる。

企業としては販売促進のためにやっているんだろうけど、少なくともぼくに関しては逆効果だ。
ぼくにとってはリラックマ オリジナルペットボトルカバーはゴミなのだ。
「ゴミ付き」と「ゴミ無し」の商品があれば、ゴミ無しを選ぶのは当然だ。
コラボをやるとしても、せめて「リラックマ オリジナルペットボトルカバー付き」「リラックマ無し」の二種類から選べるようにしてほしい。



ぼくはピルクルという乳酸菌飲料が好きで、仕事のときは毎朝飲んでいる。

いっとき、このピルクルがYouTuberのヒカキン氏をパッケージに載せていた。


ヒカキン氏については、ぼくはよく知らない。
すごい人気のYouTuberらしい、ということは知っているが彼の動画は一度も観たことがない。
だから好きでも嫌いでもない。

ただ、飲み物に人の顔が印刷されてるのがすごくイヤだったので、コラボをしている間ずっとピルクルを買わなかった。
似たような乳酸菌飲料を買って「やっぱりピルクルのほうがおいしいな」とおもいながら飲んでいた。
ぼくにとっては、少し味が落ちることよりもおじさんの顔が印刷された飲み物を口にするほうがイヤだったのだ。


もちろんコラボをしたりおまけをつけたりすることで新たに買うようになる層がいることは理解している。でも、「いつもの」を求めている客がいるということもメーカーのマーケティング担当者には知っておいてもらいたいな。

あと、コラボのせいでリラックマもヒカキンもちょっと嫌いになった。
おまえらさえいなければ……。


2019年10月16日水曜日

【読書感想文】一歩だけ踏みだす方法 / 鴻上 尚史『鴻上尚史のほがらか人生相談』

鴻上尚史のほがらか人生相談

息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

鴻上 尚史

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

悩み相談といえば、ぼくの中では『中島らもの明るい悩み相談室』。


なぜか中学生のときに母親から「これおもしろいからあんた読み!」と全巻プレゼントされた思い出の本。

まじめなのかふざけてるのかわからないような悩みに、中島らも氏がふざけて回答。さらにまだ若かった西原理恵子、みうらじゅん、蛭子能収といったイラストレーターがふざけたイラストを添えるというもうめちゃくちゃな人生相談だった。
これを朝日新聞紙上でやっていたんだからいい時代だったんだなあ。


で、鴻上尚史さんの人生相談。ネット上でも少し話題になったりしてるね。
こっちは中島らも版とはちがっていたってまじめ。相談するほうも、相談されるほうも。
どちらも劇作家なのにこうもちがうかね。

しかし劇作家は人生相談に向いているのかな。
劇団というのは個性的な人たち、社会にうまくなじめない人たちが濃密な時間を過ごす場だから、そこに長くいるといろんな処世術が身につくのかもしれないね。



鴻上尚史さんの人生相談は、なんだかすごくいい。

特別なことを書いているわけじゃない。目からウロコが落ちるようなアドバイス、「そんな解決方法があったのか!」と驚くような解決は書かれていない。
ややこしい人とは少し距離をとりましょう、とか、病院に行って専門医に相談しましょう、とか、新しいことに手を出してみましょう、とか。
ごくごくあたりまえのこと。
たぶん質問者自身でも思いつくようなこと。

なのに心に染み入る。

それは、
・鴻上さんが質問者に寄り添うような語り口で書いている
・今さら言っても仕方のないことを責めない
・今日からでも実行できそうな手近な道を示している

あたりが理由なのかなあ、と読んでいておもった。

逆にいうと、ぼくも含めて世の中の多くの人たちは他人の悩みに対して
・突き放すような口調で
・今さら言っても仕方のないことを責める
・それができたら苦労しない、という解決方法を示す
という態度をとっているんだよね。

「親のくせにそんなことするなんて子どもがかわいそう」とか
「学生時代にちゃんと勉強しとけばよかったのに」とか
「そんな会社、やめたらいいじゃん」とか。

特にインターネット上では、そういう「へのつっぱりにもならないアドバイス」があふれてるよね。
「そんな人とは離婚したらいいとおもいますよ」とか。
できるならとっくにしてるっつうの。

でも鴻上さんは、我が事のように親身に寄り添いながら「一歩だけ踏み出す方法」を教えてくれる。

たとえば、「四歳の娘を憎たらしいと思ってしまう。娘を愛せない」という相談者に対する回答。
「娘にどう接するか」をアドバイスする前に、いくつか確認したいことがあります。
「理屈が通じない」理不尽に直面した時に、それを乗り越えるには、まずエネルギーが必要です。
 そして、エネルギーはちゃんと寝ないと生まれません。ごんつくさん、ちゃんと寝てますか?
 ごんつくさんが働いているのか、シングルマザーなのか、父親がまったく子育てに協力してくれないのか、分かりませんが、まず、ちゃんと寝ることが必要です。
 シングルマザーだとしても、娘さんが一人で4歳なら、それなりに寝られると思います。なによりも、0歳からイヤイヤ期を乗り越えてきたんですから。
 そして、理不尽を乗り越えるためには、ちゃんとした睡眠と共に、精神的余裕が必要です。
 精神的余裕は、まず、ごんつくさんが一人になれる時間を確保しているかどうかです。
 娘さんを預けて、ちゃんと一人になれる時間がありますか? もし、そんな時間がないのなら、公的サポート、家族、大人、民間サービス含めて、なんとか方法を見つけて下さい。
 そして、もうひとつ、精神的余裕は、ごんつくさんの悩みを理解してくれる人と話さないと生まれません。

子どもを愛せない親に対して、“正義の人”は「親なんだから子どもを愛さなくちゃいけない」とか「そんな親に育てられる子どもがかわいそう」とか言いがちだけど、そんなことは本人は百も承知だし、おまえはだめだと責められたって事態が良くなることはまずありえない。

鴻上さんの「ちゃんと寝る」「一人になれる時間をつくる」「愚痴をこぼしあえる人をつくる」というアドバイスなら今日からでも実行できそうだし、悩みなんて案外そんなことがきっかけで解決するんじゃないかな。

ぼくも子育てをしている真っ最中で、やっぱり子どもに対して憎らしくおもうことはある。
見え見えの嘘をつかれたり、わけもなく反抗的な態度をとられたり、こっちの言ったことを無視されたりしたら、やっぱりむかつく。

でもぼくが今のところ子どもを虐待していないのは、子ども以外の人と過ごす時間があったり、「こんなこと言われちゃったよ」と妻に話すことができたり、子育て以外の楽しみを持っていることが大きいとおもう。
これが、24時間自分がひとりで子どもの面倒を見なきゃいけない、子育て以外に楽しみがない、という状況だったらカッとなって手をあげてしまうかもしれない。

たいていの問題って、結局、ウェイトの問題なのかもしれない。
人生において子育てのウェイトが大きい人は子育てに悩むし、仕事が大事な人は仕事に対する悩みが大きくなるだろう。
だって、「月に一回行く趣味のサークル」に関して悩みなんか発生しないでしょう。たいていのことは「月に一回だけだから」とおもえば受けながせるし、どうしてもいやなことがあればサークルをやめればいい。月に一回がゼロ回になったところで生活はほとんど変わらない。

だから「選択肢を多く持つ」のはいろんな悩みに対する解決になりそうだ。
新しいところに行く、新しい人と会う、新しい本を読む。
人間関係で悩んでいるときは新たな人間関係を築きたくなくなるけど、でもちょっと無理してでも新しい人に会いにいったほうがいいんだろうね。「既存の人間関係の重み」が相対的に下がるから。


うーん、鴻上さんの回答は、考えれば考えるほどじわじわ味が染みだしてくるいい回答だなあ。



やはりいっしょに過ごす時間が長いからだろう、家族に関する悩みが圧倒的に多い(あと「世間」に関する悩みも)。
そういや『中島らもの明るい悩み相談室』でも家族に関する相談が多かったなあ。


長男である兄に比べて家庭内で冷遇されてきた妹が、「兄が家業をついだのに経営がうまくいかなかったから戻って助けてくれ」と親から泣きつかれたという相談に対する回答。
 大人になったら、家族を捨てなきゃいけない時も来るのです。それは、残酷だからとか冷たいからではなく、自分の人生を生きるためです。
 子供の頃、親はとても賢くて、従う対象でした。でも、自分が大人になると、親の愚かさが見えてきます。一人の人間としての限界がくっきりと分かります。
 そういう時、もちろん、「家族」として歩み寄れることはあるでしょう。
 正月に帰省して共に食事するとか、両親の古い人生観を黙ってうなづくとか、近所のグチを聞いてあげるとか。
 でも、自分の人生を差し出さなければいけないことは、歩み寄る必要がないのです。歩み寄ってはいけないのです。そんなことをしたら、残りの人生がだいなしになるのです。
 A子さん。どうか自分の人生を生きてください。

たいていの人って、学校とかで「おとうさんおかあさんを大切にしましょう」ってなことを教わるとおもうんだけど、あんなの嘘だとおもっといたほうがいい。

あれって、ほとんどの大人が「自分は親を大切にできなかったなあ」とおもっているから子どもに教えているだけなんだよね。
裏を返せば「親を大切にしないのがあたりまえ」ってことだ。

長く生きていればなんとなく「親を大切に」なんてやらなくていいとわかってくるけど、若いうちは真に受けてしまう。
で、自分にとって害になる親でも無理してつきあってしまう。

「親を大切に」という教えは害のほうが大きいんじゃないかとおもう。特に自分が親になっていっそうそうおもうようになった。

ぼくらはしょせん遺伝子の乗り物だ(by リチャード・ドーキンス)。
遺伝子を残す上で、親なんか大切にしても何の役にも立たない。

だからぼくは自分の子どもに言いたい。
親なんか大切にしなくていい! そんな余裕があるなら自分の子どもや孫を大切にしろ!


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2019年10月15日火曜日

【読書感想文】まじめに読むと腹が立つ / 麻耶 雄嵩『あぶない叔父さん』

あぶない叔父さん

麻耶 雄嵩

内容(e-honより)
寺の離れで「なんでも屋」を営む俺の叔父さん。家族には疎まれているが、高校生の俺は、そんな叔父さんが大好きだった。鬱々とした霧に覆われた町で、次々と発生する奇妙な殺人。事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる―。精緻な論理と伏線の裏に秘された、あまりにも予想外な「犯人」に驚愕する。ミステリ史上に妖しく光り輝く圧倒的傑作。

はっはーん。そうきたか。

あらすじの「事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる」という一文を読んで、はあはあなるほど、よくあるアームチェアディテクティブものかなとおもって読んだのだが……。

一篇目『亡くした御守り』の結末が衝撃的だった。
え? え? え? うそ? そんなのあり? それでいいの?
うそでしょ、まさか、とおもっているうちに物語が終わってしまった。

いやーこれは反則すれすれだね。ギリギリアウトかもしれん。
おもしろいけど。完全にだまされたけど。
九割シリアスで来たのにラストでいきなりコメディに急展開というか。これ以上書くとネタバレになりそうだからこのへんでやめとくけど。

ちなみにこのタイトル、アメリカのミステリ作家メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの『アブナー伯父の事件簿』のパロディだそうだ。
っちゅうことで、あんまりまじめに読まずに「トンデモミステリ」として読んだほうがいいかもしれないね。まじめに読むと腹が立つから。



というわけで一篇目はあっと驚く展開だったのだが、同じパターンが続くので正直二篇目以降は先が読めてしまった。
少しずつ趣向を変えているのはわかるのだが、そのへんになると「裏の裏で来るかな」とこっちは身構えているのでもうびっくりしない。

トリック自体もちゃんと考えられているんだけど、なにしろ「一篇目の仕掛け」が強烈すぎたのでトリックに驚きはない。
出オチのような短篇集だった。


ところでこの本の主人公、高校生のくせに彼女とラブホテルに行ったり、別の女といちゃいちゃしたりしていて、許せん!
おまけにいっちょまえに将来の悩みを抱えていたり三角関係で悩んだりしているのだが、これがミステリ部分とあんまりからんでいなくて結局のところ何が書きたかったのかよくわからない。

「あぶない叔父さん」というせっかくの奇抜な設定があるんだから、もっとバカ丸出しな小説が読みたかったな。


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スパイおじさんの任務



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