2019年3月11日月曜日

子どもを動かす3つの方法


こないだ娘の友だちの家におじゃましたとき。

さあそろそろお片づけしようかということになったが子どもたちがいっこうに片づけをしないので

「よっしゃ、じゃあおっちゃんがお片づけしようっと!
 ほらおっちゃん五個も積み木片づけた! おっちゃんがいちばん片づけ上手やな!」
とやってみせた。

すると、それまで遊んでいた子どもたちが「十個片づけた!」とか「ほらこんなにきれいに片づけたよ!」と口々に言いながら競うようにおもちゃを片付けはじめた。


その様子を見ていたおかあさんから「子どもをノせるのがうまいですね」と言われた。
うむ。
自慢になるが、自分でもうまいと思う。

それはひとえに、自分自身がめんどくさがりやで、おまけに親や教師の言うことをちっとも聞かずに育ったからだ。
自分が言いつけを守らない子だったから、やるべきことをやらない子どもの心理がよくわかる。

子どもに何かをさせたいと思ったら、「〇〇やってね」と素直に命じても無駄だ。
まあうまくいかない。

行動させるためには、禁じるか、競争させるか、負い目を感じさせるかだ。



禁じるのはシンプルながら案外うまくいく。

「お風呂に入らない!」と言ってる子に、
「あっそう。じゃあ入らなくていいよ。ぜったいにお風呂に入っちゃだめだからね!」
と言うと、子どもは「いやだ! 入る!」と泣きながらあっさり主張をひっくりかえす。

「かかったな」と内心ニヤリとするが、ここであわてて「よしじゃあ入ろう」と捕まえにいってはいけない。まずはゆっくりリールを巻いて相手がこちらに近づいてくるのを待つ。
「だめだめ。おとうちゃんがひとりでお風呂に入るんだから。やったー! ひとりでお風呂だー!」
と言いながら風呂に向かって走る。
そうすると子どもは「いやだ! お風呂入る!」と言いながら風呂に向かって駆けだす。
こうなればもうあとは「しょうがないなあ。じゃあ一緒に入ってもいいよ」と、「こっちが折れてやった」感を出す。

子どもが駄々をこねる場合はたいてい、明確な目的があるわけでなく、ただ「自分の要求を呑ませたい」ためだ。
そんなときには、

「風呂に入らせたい親 VS 風呂に入りたくない子」
 ↓
「風呂に入らせたくない親 VS 風呂に入りたい子」

と立場を逆転させることで、相手のプライドを満足させつつ目的を果たすことができる。
人は禁止されるとやりたくなる。これを心理学用語でナントカ効果という。忘れた。



競争させるのは説明不要だろう。
最初に挙げた、「お片づけ競争」のようなものだ。
「どっちが上手かな?」とか「おっちゃんがいちばん上手やで」と対抗意識を煽ることで、「やりたくないこと」をゲームにする方法だ。

小学生のとき、掃除は嫌いだったが「雑巾がけ競走」は楽しんでやっていた。
「マラソンで走った距離を教室の後ろに貼りだします」と先生が言いだしたときは、みんな競いあって走っていた。
誰しも負けるのは嫌なものだ。競争は手段のはずだが、多くの場合それ自体が目的化する。



負い目を感じさせるというのは、子どもの良心に訴えかける方法だ。
「片づけをしない」とか「ものを独り占め」とかやってる子どもは、それが良くないことだとわかっている。
悪いとは知っているが、意地になって後に引けなくなっているのだ。

既に悪いことだと自分でわかっているのだから、そんな子に対して
「片づけをしなきゃだめだよ」とか「みんなで仲良く使おうね」とか言っても意味がない。ますます意固地になるだけだ。

そんなときは「そうか。片づけてくれないのか。しょうがない。他の子だけでやるか」とか「〇〇ちゃんがひとり占めしてるからしょうがないよ。他の子らでべつの遊びしよう」とか言ってその場を離れる。
わがままを言っている子は、自分でも悪いことをしているとわかっているのだから胸が痛む。結果的に折れてくれることが多い。

要は、「言われて動いた」のではなく「自分の意志で動いた」と思わせることだ。
誰かに注意されたから改めるのは子どもでもプライドが許さないのだ。



三つのやりかたに共通しているのは「まず行動させる」ということだ。
教える前に行動させないといけない。

わがままを言っている最中の子どもに対して「〇〇しなさい」とか「〇〇したらだめでしょ」とか言う大人がいるが、そんな説教に子どもは耳を貸さない。
子どもだけじゃない。大人も同じだ。政治家のおじいちゃんも同じ。まちがったことをしている人に「あなたのやりかたはまちがっている」と言ったって反発されるだけだ。

やっていることを否定されたら自分自身を否定されたように感じる。当然ながら反発する。
だからあれこれ言う前に行動させる。
折れてやったふりをしたり、甘やかしたり、なだめたりすかしたり、脅したり、言うことを聞く薬を使ったり(こえー)、なんでもいいからとにかく行動させる。まずは風呂に入らせる。片づけをさせる。
その後で「ほら。早くお風呂に入ったらその後で遊べるでしょ」とか「片づけをしたらものがなくならないからいいよね」と言う。すると子どもはうなずいてくれる。

片づけをしていないときに「片づけしたほうがいいよね」と言われたら、"片づけをしない自分" が否定されることになる。

片づけをした後に「片づけしたほうがいいよね」と言われたら "片づけをした自分" が肯定されることになる。

言うことは同じでも、やる前に言うのとやった後に言うのでは反応はまったくちがう。

あれこれ言う前にとにかく行動させる。
行動を否定するのではなく肯定するように持っていく。できていないことを叱るのではなく、できたことを褒める。



ってのが、子どもと接しているうちにぼくが探しあてた方法。
「禁じる」「競争させる」「負い目を感じさせる」でじっさいうまくいくことが多いし、何より怒らなくていいので自分の精神上もいい。

ちなみにえらそうなことを書いたが、自分の娘やその友だち、姪、甥などの観測範囲の話なので、万人にうまくいくかどうかは知らない。

またぼくは教育の研究者じゃないので、ぼくのやりかたが長期的な発達にどんな影響を与えるかは知らない。どうせ誰にもわからないだろうけど。

2019年3月8日金曜日

【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』

Aではない君と

薬丸 岳

内容(e-honより)
あの晩、あの電話に出ていたら。同級生の殺人容疑で十四歳の息子・翼が逮捕された。親や弁護士の問いに口を閉ざす翼は事件の直前、父親に電話をかけていた。真相は語られないまま、親子は少年審判の日を迎えるが。少年犯罪に向き合ってきた著者の一つの到達点にして真摯な眼差しが胸を打つ吉川文学新人賞受賞作。

乱歩賞作家の作品なので、ずっとミステリかと思って読んでいた。
あれ、ぜんぜん意外性のない結末だな、とおもったらどこにもミステリとは書いてなかった。ぼくが勝手に勘違いしていただけだった。
「乱歩賞作家の書いたものだからミステリだ」と無条件に信じてしまう、思いこみとはおそろしい。

思いこみといえば、少年犯罪といえば「手の付けられない不良少年」か「快楽殺人者的な精神のねじまがった少年」がやるもの、という思いこみがある。
たぶんぼくだけではないだろう。「少年院に行っていた」と聞くと、ほとんどの人は相手と距離をおくと思う。

『Aではない君と』では、主人公である会社員男性の息子が殺人犯として逮捕される。
デビュー作『天使のナイフ』では被害者の遺族の苦悩を描いていた薬丸岳氏だが、本書は加害者の家族がストーリーの中心。
ある日殺人犯の家族になったら……。

ぼくも人の親として、考えずにはいられない。自分の子が誰かを殺してしまったら。殺されてしまったら。
あれこれ考えたけど、答えは……わからん!

そんなものなってみないとわからんと言うしかない。たぶん「そんなこと考えたくない」という気持ちが強すぎて、想像力がうまくはたらかないのだろう。
殺人なんて遠い世界の出来事と思っていないと、とても子育てなんてできやしない。「ひょっとしたらうちの子が人殺しになるかも」なんて考えてたら、誰も子ども生まないよ。

『Aではない君と』は綿密な取材に基いて丁寧に書かれた小説だけど、どれだけ現実に即した描写があっても別世界のファンタジーとしか思えない。題材が重たすぎて。子どもがいるからこそ、余計に。



『Aではない君と』に現実感がないのは、登場人物がまっすぐすぎるからでもある。
同級生を殺した中学生の翼には反抗期のかけらも見られないし(人は殺すけど親の前ではすごくいい子)、主人公(父親)はとにかく責任感が強くて、真摯に自分のかつての行動を反省している。
人間、そんなにまっすぐに自分の過去を反省できるもんかね?
他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運が悪かっただけだと嘆いたり、おかれた状況から逃げたしたいと思ったりするもんじゃないだろうか?
この主人公にはぜんぜんそういう思考が見られない。ただひたすらに「自分がもっと息子と向き合えばよかった」と反省している。

人間ってもっと身勝手なもんだと思うよ。そうじゃなかったら、「息子が人を殺した」という現実の前では心がつぶれてしまうんじゃないかな。
そりゃあ自制心が強くて他人のせいにせず頑強なメンタルの持ち主だってどこかにはいるかもしれんが、そんな人が離婚して子どもを捨てるかね?

少年犯罪の司法制度のことなんかは事細かに描写しているのに、人物描写が単調なせいで小説としてはずいぶん平板な印象。
まるで判例を読んでいるようで、重厚なテーマの割には感情を揺さぶってくれる小説ではなかったな。

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2019年3月7日木曜日

【読書感想文】まったくもつれない展開 / 井上 夢人『もつれっぱなし』

もつれっぱなし

井上 夢人

内容(e-honより)
「…あたしね」「うん」「宇宙人みつけたの」「…」。男女の会話だけで構成される6篇の連作編篇集。宇宙人、四十四年後、呪い、狼男、幽霊、嘘。厄介な話を証明しようとするものの、ことごとく男女の会話はもつれにもつれ―。エンタテインメントの新境地を拓きつづけた著者の、圧倒的小説世界の到達点。

そういや井上夢人氏の小説を読むのはこれがはじめて。でも学生時代、岡嶋二人(井上夢人が組んでいたコンビ)のミステリはよく読んでいた。
岡嶋二人作品って常に一定の水準を保っているんだけど、すごく印象に残る作品もないんだよなあ。常に七十五点ぐらいのミステリだったなあ。個人的には。

で、『もつれっぱなし』なんだけど、やはり印象に残らない作品集だった。
六篇とも男女の会話だけで構成され、いわゆる地の分は一切ない。会話だけなのでさくさく読める。「説明くさいセリフ」のような不自然さはなく、じつにうまい。
ほんとうはすごくむずかいしことをやっているのに、苦労の跡も見せずにさらりと男女の関係性や状況を説明してみせている。

ただ、ストーリー展開がすごく単調だった。
『もつれっぱなし』というタイトルだから、どんな意外な展開になるのかと思いきや、「こうなるのかな」と予想したとおりに話は進んでいく。
本筋と関係のない会話がときおり差しこまれるから「これがなにかの伏線なのかな?」と思いながら最後まで読むが、何の伏線でもない。

んー……。これ、なにが『もつれっぱなし』なんだろう?
「二人の主張がはじめはかみあわないが、だんだん理解してもらえるようになる」という話ばかりで、ちっとももつれてない。


ラーメンズに『不透明な会話』というコントがある。
コントではあるが動きはほとんどなく、ほぼ会話のみで成り立っている。
うまくいいくるめて間違ったことを相手に納得させたり、へりくつを並べたり、意図がまったく伝わらなかったり、いつのまにか立場が入れ替わっていたり、これぞ「もつれっぱなし」という感じがする。
(ぜひ一度観ていただいたい)


それに比べると井上夢人『もつれっぱなし』は、ずいぶん単調な話だった。タイトルのせいでこちらが過剰に期待してしまったのかもしれないけど。

とはいえ、最後の『嘘の証明』は終盤で意外な事実が明らかになる構成で、ぼくはまんまと騙された。
会話のみで描写がないからこそ成立するトリックだしね。
これだけは満足できるクオリティだった。

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2019年3月6日水曜日

子育ての役割分担


ひとりで子育てするのってむずかしいな、と最近特に感じる。

上の娘が五歳になり、もうすっかり一人前に見栄や意地を持っているな、と感じるようになった。
「早く着替えて」と注意されると 「今やろうとしてたのに!」と言いかえす。
「ぬぎっぱなしのパジャマ片付けて。出かけるから靴履いて」と言われると 「いっぺんに言われてもできへんやろ!」と反論する。
「早くお風呂入らないと絵本読む時間なくなっちゃうよ」と言われると 「おかあさんがそんなきつい言い方するからやろ!」と論点をすりかえて怒鳴る。

そこそこ弁も立つようになり、特に母親とぶつかることが多くなった。
(ぼくとあまりぶつからないのは、ぼくの場合、相手が五歳児であってもこてんぱんに言い負かそうとするし、「置いていくよ」と言ったらほんとに置いていくからだ。妻は「置いていくよ」と言いながらも待ってあげるので、娘も「どうせ置いていかれないだろう」とたかをくくって従わない)



妻と娘が喧嘩をしている間、ぼくは基本的に放っておく。感情的になっている人に第三者が何を言っても無駄だからだ。

喧嘩がひと段落すると、ぼくはふてくされて泣いている娘に近づいてゆき、
「ああいう言い方をしているとおかあさんもイヤな気持ちになると思うよ。そういう言い方はやめようね。〇〇って言ってたらお互い気持ちよく過ごせるんじゃない?」
とか
「おかあさんにいっぺんにいろいろ言われてイヤやってんな。でも最初に注意されたときにパジャマを片付けてたら言われなくて済んだやんか。今度からは早めに片付けような。その代わり、おかあさんにもいっぺんにいろいろ言わないようにおとうさんから言っとくわ」
とか言葉をかけて、事態の収束をはかる。刺激しないようになるべく優しい声で。

すると娘も、自分がわがままを言っていたということをわかっているので、泣きながらうなずいて「おかあさんごめんね」と言うことになる。

第三者の仲裁というのはとても大事だ。



これが親子ふたりっきりだとなかなかうまくいかないだろう。

喧嘩の当事者が「そんな言い方したらあかんで!」と言っても相手は耳を貸さないだろうし、「おかあさんも悪かった」と言って頭を下げれば子どもは「どんなわがままを言っても意地をはりつづければ相手が謝ってくる」と学んでしまうだろう。

べつに親である必要はないんだけど、子育てをする上で大人が複数いるのと二人しかいないのでは、難易度がぜんぜん違う。
単純なリソースの問題だけでなく、「叱る人/フォローする人」「厳しくする人/優しくする人」「現実を教える人/理想を教える人」「ばかなことをやってみせる人/たしなめる人」みたいな役割分担をできるメリットはすごく大きい。
一人より二人、二人より三人のほうがずっとやりやすい。

ぼくは「子育てなんてどんどん家庭の外に出すべきだ」と考えている。
一部の自称保守派が「子どもは親が育てるのが正しい」なんてことを言うが、親だけで子育てをする時代なんて、歴史的に見ても世界的に見てもごくごくわずかな例外だ。
できることならうちの子だっていろんな人に育ててほしい(現実的にはなかなかそうはいかないのでせいぜい親戚に預けるぐらいだけど)。逆によその子を預かることもある。
いっときは養子をとることも検討していた。養子はいろんな事情で断念したが、どこの誰とも知らない子を金銭的にサポートしたりもしている。少額だけど。
だからぼくはいろんな子どもの親だし、ぼくの子どもはいろんな家の子だ。

「子どもは親のもの」なんて意識が早く根絶されてくれることを願う。

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2019年3月5日火曜日

本の交換会


本の交換会をやった。


【きっかけ】


本の処分に困ったから。
最近はなるべく電子書籍で買うようにしているが、電子化されていない本も買うのでどうしても本が溜まっていってしまう。
家には数百冊、実家にも二千冊ほどの本がある。その99%はもう読みかえさないだろう。
古本屋に持っていっても二束三文なので労力にみあわない。
かといってまだまだ読める本を古紙として出すのもしのびない。

もうひとつの動機として、恩返し的な気持ちもある。
ぼくが中学生のとき、近くの公民館で定期的にバザーが開かれていた。そこでは本を1冊10円で買うことができたので、金のない学生としてはたいへん重宝した。
今の学生だって「本を読みたいのに金がない」と思っている気持ちは強いだろう。そういう人のために安く、もしくは無料で本が手に入る場所があればいい。
(このへんのことは 金がなかった時代の本の買い方 に書いた)

一方で本の処分に困っている人がいて、一方で本を読みたい人がいる。
この間を結びつけられる本の交換イベントがあればいいのになーと考えた。

調べたら「ブクブク交換」というイベントが見つかった。世界中で開催されているらしい。
しかしこのイベントのコンセプトは
「決められたテーマに合った本を持参して、自己紹介をかねた本の紹介をした後は、本の交換をするといういたってシンプルなコミュニケーション型ブックトークイベント」
というもので、ぼくが求めているものとはまったく違った。
ぼくはコミュニケーションなんて求めていない。黙ってやってきて黙って本を持ってかえるようなのが理想だ。本を選ぶときに他人と話したくない。

もっと無機質な交換会はないだろうかと調べているうちに、そうか、ないなら自分でつくればいいのだとおもいたった。

さっき「若い人のため」的なことも書いたが、同期の大部分は「自分があってほしいとおもうから」という気持ちだけだ。


【イベント内容】


ルールは以下のように設定した。

① 家にあるいらなくなった本を持ってきてください(1人20冊まで)
② 持ってきた本の冊数まで持ってかえることができます
 本、えほん、マンガを持ってきてください!

汚損の激しい本や成人指定図書は当然ながら、古本屋の買取基準を参考にして、雑誌、辞書、教科書、参考書、市販されていない本(付録・カタログなど)も対象外とした。欲しがる人少ないだろうし。
続きものの一部(上下巻の下巻だけとか)も対象外にしようかとおもったけど、『ドラえもん』の5巻だけとかならぜんぜんアリなのでそのへんは参加者の良識に委ねることにした。

当初は「持ってきた冊数+1冊まで持って帰っていい」というルールにしようかとおもっていた。
本が増える喜びがあるし、持ってきていない人でも参加できる。
資本主義に対するアンチテーゼみたいでおもしろいかなーとおもったけど、結局やめた。
本が枯渇してしまったらイベントが回らなくなるので。
それに、万が一「大人数で来て持って帰るだけ」「何度も来て1冊の本を10冊に増やす」みたいな人が現われたときに困るから。いないとはおもうけど、念のため。
(後から思うと、「+1冊」ルールは導入しとけばよかった)


【開催場所】


まずは場所を探した。
幸い、うちのすぐ近くには市民学習センターという公的な施設があり、レンタルスペースがある。
調べたら土日の使用料は2時間半で2,640円。

もうひとつの候補としてショッピングセンター内のレンタルスペースも検討した。
こちらは2時間で4,500円。市民学習センターより割高だが、人通りはこちらのほうがずっと多い(というより市民学習センターにはそこに用事のある人しか来ない)。

どちらにするか迷ったが市民学習センターにすることにした。
値段が安いこともあるが、本の交換会という性質上、たまたま通りかかった人に来てもらってもあまり意味がないからだ(たまたま交換できる本を持っている可能性は低いだろう)。
それなら人通りが多いとこよりも、落ち着いて本を見られる場所のほうがいい。


【宣伝】


さっきも書いたように市民学習センターには用事のある人しか来ない。
宣伝をしなければまったく人のこないイベントになってしまう。

とりあえずフライヤーを作ってみた。
Canva( https://www.canva.com/ )というかんたんにポスターを作れるWebサービスがあったので、これを使って作成。


これを、プリントパック( https://www.printpac.co.jp/ )で印刷。いくつかの会社を比較したが、プリントパックだとA4コート紙100枚で690円という破格の安さ(他社の半値以下)。おまけにはじめてアカウントを作ったら1000ポイントを付与された(1ポイント=1円として使える)ので、実質無料。
すげえ。
無料なのにちゃんとしたフライヤーが100枚も届いた。
プリントパックさん、ありがとう。

これを、娘の通う保育園、マンションの入口、近所の銭湯などに貼らせてもらう。
それから近所の知り合い(ほぼ娘の保育園の保護者)にも配る。
ぼくはしょっちゅう公園でいろんな子と遊んでいるので、そのたびに親に渡した。
とはいえ、100枚印刷したが配ったのは30枚ぐらい。

この時点で「絵本だけの交換会にしようかな」ともおもった。ターゲットをしぼったほうが子育て世帯にアピールできそうだし。

だが、やはり全年齢向けにすることにした。
「児童書を持ってきた小学生が大人向けの小説と交換していく」なんてことが起こったらすごくうれしいから。
それにもともとぼくの本を処分するのが目的で思いついたイベントなのだ。
あぶないあぶない、本末転倒になるところだった。

FacebookとTwitterのアカウントもつくり、ここでも情報発信をすることにした。
ぼくはWebマーケティングの仕事をしているので、このへんは専門分野だ。
広告費も投じてTwitter広告、Facebook広告も配信した。
地元の地名や、「古本屋」などのキーワードでツイートしている人をターゲットにして。遠方の人にリーチしてもあまり意味がないので。

Twitter広告の成果

Facebook広告の成果

すごくざっくりいうと、Twitter広告は3,928円使って17,286回表示され、1,182回のエンゲージメント(クリック、画像表示、いいね、リツイートなどの合計)を獲得。

Facebook広告は、542円使って311回表示され、41回のエンゲージメント。
Twitter広告のほうがよさそうだったので、Facebookはすぐに止めてしまった。

あとYDN(Yahoo!のディスプレイ広告)も配信しようかとおもったが、最低出稿金額が3,000円だったのでやめた。

少額での告知にはTwitter広告がいちばん向いているね。100円からでも配信できるし。ターゲティングの自由度も高いし。


【準備した本】


はじめにある程度の数の本がないと愉しくない。
「10冊の中から選んでください」では話にならないからね。

家にある「超お気に入り」以外の本と、実家にある本をかき集めて、500冊ほど用意。
実家にはあと1,000冊以上あるが、あまりに古い本はやめておいた。東野圭吾や伊坂幸太郎などの人気作家の本を中心に放出。

数はある程度確保できたが、絵本が少ないのが気がかりだった。
うちにもたくさん絵本はあるのだが、上の子が手放したがらないのと、下の子が0歳なのでこれから読むかもしれないと思うと、なかなか供出できない。

だが、隣県に住む姉にこのイベントのことを伝えると段ボールいっぱいの絵本を送ってくれた。
助かった。これでなんとか恰好はついた。


【結果】


忙しくて数えるどころではなかったのだが、2時間ちょっとの間に40人ぐらいが来てくれた。
本を選ぶために30分ぐらい滞在している人もいたので、常に誰かがいる状態。なかなか盛況だった。
広い会場ではなかったので、これ以上来ていたら窮屈だっただろう。
ちょうどいい人の入りだった。

「ふたを開けたら誰も来ない」というのは悲しすぎるので、古くからの友人、実家の両親、義父母、義兄にまで声をかけておいたのが功を奏した。



子どもとその保護者が多かった

半分以上は前もって声をかけていた知人だが、知人の知人、Twitterで知ったという方、近所の古本屋のご主人、たまたま通りかかった人なども来てくれた。
知らない人との交換こそがこのイベントの醍醐味なので、知らない人がたくさん来てくれたのはとてもうれしい。
「次回はいつ?」とも聞かれた。これもうれしい(後で書くけどたぶんもうやらないが)。

本を並べたり、終わってから会場の机や椅子を片付けたり、本をまた箱にしまって自宅まで運んだりするのは、相当多くの人に手伝ってもらった。家族や親戚が主だが、見ず知らずの人も手伝ってくれた。

いろんな人に協力してもらえたおかげで、まずまず成功したといっていいだろう。


【反省点1 お金】


結局使ったお金は、場所代(2,640円)+フライヤー代(0円)+広告宣伝費(4,470円)+雑費(来てくれた子どもに渡すお菓子や百均で買ったブックエンドなど)で、8,000円ぐらいだった。
収益は一円も発生していないので当然ながら赤字である。まあ損するつもりで開催した趣味のイベントなのでべつにいいのだが。

とはいえ、一回限りのイベントとしておこなう分にはぜんぜんかまわないのだが、もし定期的に開催するとなればばかにならない赤字額である。

じつは収益を上げる方法も考えていた。儲ける気はないが、収支±0円ぐらいにはできないだろうかとおもって。
だが参加費をとったらつまらないし、残った本を古本屋に売ったらただの故買屋(金銭ではなく本で買う形だが)になってしまう。
無人古本屋のBOOK ROAD(Twitter:@bookroad_mujin)というところが袋代としてお金をとっていると読んだので、そうか袋だけは有料にするのも手だなとおもったのだが、よく考えたらそれはダメだと気づいた。
なぜなら本の交換会に来る人は、袋やバッグに本を入れてやってくるからだ。有料の袋なんて買わないだろう。

「いいデザインのしおりを安く仕入れて、交換会に来た人に買ってもらう」という案も考えた。「売上は次回開催費にあてます」と書いておけば買ってくれる人もそこそこいたかもしれない。
だが、そんなことをしたら次回も開催しないといけなくなる。趣味でやっているので義務にはしたくない。

それに「気を遣ってくれる人だけお金を払って、そうでない人はタダ」というシステムは不公正な感じがしてイヤだ。

ということで、本の交換会で利益を出す(収支±0円にする)のは不可能だという結論に達した。
問題は、赤字分以上にぼくが愉しめるかどうか、だ。


【反省点2 持ちこまれる本】


金銭的な赤字については想定していたことなのでどうってことなかったのだが、持ちこまれる本の質が(ぼくからみたら)低いことは少なからずショックだった。

あらかじめ禁止していた本は以下の通り。
汚れや破れのひどい本 / 雑誌 / 辞書 / 教科書 / 参考書 / 成人指定図書 / 市販されていない本(付録・カタログなど)
あとは「参加者の判断基準」に任せていたのだが、その基準とぼくの想定との間にズレがあった。 たとえば

・上巻だけ/下巻だけ
・情報が古い実用書(十年前のパソコン書とか旅行ガイドとか)
・カバーのない本
・書き込みのある本
・成人指定図書ではないけど直截的な性描写があるマンガ

とか。
うーん……。ぼくの基準では「常識的に持ってこないだろう」とおもっていたのだが、こういうのを持ってくる人は数人いた。

ギャップの原因は、ぼくが本好きであるがゆえに「本をそんなに好きじゃない人の気持ち」が想像できなかったことだろう。

イベント告知フライヤーには「家にあるいらなくなった本を持ってきてください」と書いた。
「家にあるいらなくなった本」にぼくが込めた意味は、「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」だった。
そこまで言わなくてもわかるだろうとおもっていた。

もちろんそのへんの意図を汲んで本を持ってきてくれた人もたくさんいた。本好きの人はそうだと思う。「そこそこおもしろかった本」を持ってきたはずだ。
だけど「ただいらない本」を持ってくる人もまあまあいた。

『はじめての確定申告』みたいな本とかさ。ルールには反してないけど、うーん、実用書やビジネス書を持ってこられることは想定していなかったなあ……。
よほどひどい場合を除いて基本的には断らなかったんだけど、ちょっと悲しかった。

ぼくの見通しが甘かったのが悪いんだけどさ。
もし次やるなら「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」って書いとかないとな。

参加者のモラルに委ねているかぎりはこういう問題はついてまわるだろうし、かといってガッチガチにルールを決めちゃうのもつまらないしなあ。
このへんの匙加減はむずかしい。

「年間20冊以上読む人限定」とかにすれば質は担保されそうだけど、そういう人ばかりを集めるのなら一等地の会場を用意しないといけないし宣伝費もかかるなあ……。


【反省点3 本が増える!】


自宅の本の処分のためにはじめたイベントのはずなのに、結果的に本は増えてしまった。
「10冊持ってくるけど5冊しか持ってかえらない」というような人がけっこういたのが理由だ。
「ぜったいに持ってきただけの冊数は持ってかえってください」というわけにもいかず、開始一時間で数十冊分の本が増えてしまった。

これはまずいと思い、後半に来た人には
「何冊でも持ってかえっていいですよ」と伝えた。
また、たまたま通りがかって中を覗きこんでくれた人に「交換じゃなくても大丈夫です。さしあげますので好きな本を持っていっていいですよ」とまで伝えた。
それでも遠慮するのか、大量に持ってかえる人はいなかった。

十数冊持ってきて「引き取ってもらえますか。交換はいりません」と言ってきた人もいたが、さすがにそれは交換会の趣旨からはずれるので断った。廃品回収ちゃうぞ。

よく考えたら、本を読まない人にとっては本なんていらないものだし、本が好きな人はたいてい(ぼくとおなじように)置き場所に困っているもんなあ。
よほど興味のある本以外はタダでもいらない、ってなっちゃうよなあ。


【反省点4 若人が来なかった】


できることならぼくが提供した本は十代に読んでほしかった。

十代は知識欲がもっとも高まり、人生経験は多くないので吸収する力も強い。体力や時間もあるので手当たり次第に本を読むことができる。
しかし多くの十代は金がない。好きなだけ本を買える十代はほとんどいない。だから十代に本を届けたかった。

しかし、今回のイベントにティーンエイジャーはおそらく一人も来なかった(小学校中学年ぐらいの女の子がひとり来ていただけ)。

これは告知の方法が悪かった。
ぼくの近所の知人に十代はいないし、その親もいない。
ぼくの宣伝方法では本好きの十代に届かなかったのだろう。
近くの中学校や高校にでもチラシを貼らせてもらえばよかったと後悔している。


【総括】


たぶん本の交換会はもう二度とやらない。やるとしても自分の子どもが十代になってからかな。

やってみた感想としてはけっこう楽しかったし、娘も楽しんでいた。
いろんな人が本を持ってきてくれたことによってぼくが読みたいとおもえる本も十数冊手に入った。

しかし8,000円と大きな労力(本を持って自宅と会場を往復するのはかなりたいへんだった)を使って十数冊では、はっきりいって割に合わない。身も蓋もないことをいってしまえば、ふつうに買ったほうが安いし好きな本を選べる。

協力者を集めればひとりあたりの負担は減るが、組織にしてしまうと自分の好きなようにやれなくなってしまう。

正直な気持ちとしては
本の交換会はすごく愉しいイベントだから毎月でもやってほしい。ただしぼく以外の人が主催で
だ。
誰かやってくれねえかなあ。
市とか区とかがやってくれないかなあ。PTAとかやってくれないかなあ。ベルマーク集めるぐらいなら本を集めたほうが有意義だとおもうんだけどなあ。


そして目の前の問題は、再びぼくの家に帰ってきたこの五百冊ばかりの本をどう処分するか、だ。
とりあえず実用書やビジネス書の類は捨てて、絵本は子どもにあげて、あとは、うーん……(最初と同じ問題にぶちあたる)。