2019年1月17日木曜日

『ホーム・アローン』と己の成長


五歳の娘といっしょに『ホーム・アローン』を観る。

「なんだかつまらない。ディズニーがよかった」と娘がいうのを、
「もうちょっと待ったらすごくおもしろくなるから」と説得しながら。

「ほら。この子が家にひとりで置いていかれちゃったんだよ」
「おかあさんはケヴィンを置いてきちゃったことにまだ気づいてないよ」
「この人たちは悪い人で、ケヴィンの家に泥棒に入ろうとしてるんだよ」
と解説をしながら。

そういえばぼくがはじめて『ホーム・アローン』を観たときも(小学生だった)、父がストーリーを説明してくれたっけ。

途中まで退屈そうにしていた娘も、後半になってケヴィンが泥棒をやっつけるところでは大爆笑。
げらげら笑いながら楽しんでいた。

「ほらね、おもしろかったでしょ」とぼくも満足した。



中学生のとき、友人三人と「カルキン・クラブ」というクラブを結社していた。

カルキンとは『ホーム・アローン』の主役だったマコーレー・カルキンのこと。
『ホーム・アローン』で一躍スターになったカルキン坊やの家庭が、大金を手にしたことで家族内に不和が生じて一家離散し、カルキンも後に薬物の不法所持で逮捕されたという絵に描いたような転落人生を送ったことを知ったぼくらは、それをおもしろがって「カルキン・クラブ」をつくったのだ。中学生とはなんて残酷なんだろう。

「カルキン・クラブ」の活動は、たまに誰かの家に集まってビデオを観ること。
はじめは『ホーム・アローン』『ホーム・アローン2』『リッチー・リッチ 』など、マコーレー・カルキン主演の作品を観ていたが、そのうちカルキンとは無関係の映画を観る会になった。

そんなわけで、ぼくは今までに『ホーム・アローン』を何度も観ている。



純粋におもしろがっていた小学生時代、
「主演子役の転落人生」という裏側を意地悪く冷笑していた中学生時代、
そして子どもの反応を楽しむようになった今。

いろんな楽しみ方ができる『ホーム・アローン』は名作だ。


2019年1月16日水曜日

人を動かした教頭


仕事でもアルバイトでも部活でも町内会でも同じだけど、人を動かすことはむずかしい。

「人を動かす」を「なめられないようにする」と同義だと信じている人がけっこういる。

ぼくが前いた会社の上司は、まさにそういう人だった。
ぼくはチームリーダーを任されていたが、チームはまるでまとまりを欠いていた。ミーティングなんてしないし、飲み会もしないし、メンバー同士が仕事以外で口をきくことはほとんどなかった。ぼくも含め、ほとんどの社員が適度にサボっていた。
しかし業績は良かった。
ぼくがやっているWebマーケティングの仕事は、成果が数字ではっきり出る。広告費と時間をどれだけ投じてどれだけの成果が上がったかが数値で確認できる。前の期よりも成果のいい状態が続いていた。

業績がいいんだからなにも文句はあるまいと思っていたのだが、上司にとってはぼくのやり方は気に入らなかったらしい。
「もっとミーティングをしろ」
「チーム内でコミュニケーションをとれ」
「飲みにいくのも仕事のうちだ」
そういって上意下達の組織に作り替えようとした。かくしてメンバーのモチベーションはがた落ちし、退職者が相次ぎ、ぼくも退職した。その後のことは知らない。

上司は、「メンバーがだらだら仕事をしているけど業績のいい組織」よりも「業績が悪くてもメンバーが明るく活発に動いている組織」にしたかったらしい。



ぼくが中学生のときの話。

掃除の時間にぼくらが遊んでいると、教頭先生がやってきた。
「まずい、怒られる」
とおもった。しかし教頭先生は怒らなかった。

「さっ、掃除しようぜ!」
そう言って、ぼくにほうきを手渡すと、自分は床の雑巾がけをはじめた


今考えてもすごい人だとおもう。
サボっている中学生にほうきを渡して自分が雑巾がけをできる教頭先生が日本に何人いるだろうか。

効果はてきめん。
ぼくらはまじめに掃除をした。その日以降もずっと。
「あの人にもう雑巾がけをさせるわけにはいかない」という思いがぼくらを動かしつづけた。

「まじめに掃除やれ!」と怒鳴られたら、そのときはまじめにやる(ふりをする)が、その先生がいないときにはまたサボるだろう。
だが自ら先陣を切って雑巾がけをした教頭先生は、ぼくらの考え方を変えた。



子育てでも同じだ。
いろんな親を見ていると、「親の威厳を示す」が最高目標になっている人がけっこういるように思える。
子どもになめられない。自分の言うことに従わせる。それがいちばんの目標。

でもそんなの無理に決まってる。
自分が子どものころを思いかえしたって、親の言うことに唯々諾々と従っていたのなんて二歳までじゃないかな(二歳までの記憶ないけど)。

だから、親のことをなめきっていようが、見くびっていようがかまわない。
「ちゃんとお片づけをしてほしい」と望むのなら、「お片づけをしたほうが得だ」とおもわせるように導く。
「勉強を自発的にやってほしい」と願うのなら「勉強って楽しい」とおもってもらえるような話し方を心がける。
それがいちばん合理的なやり方だ。

ぼく自身、子育ての真っ最中なので自分がうまくできているかはわからない。
でも、少なくとも娘に対しては「言うことを聞かせる」ではなく「自分で動いてもらう」ような言い方を心がけている。

「片付けなさい」じゃなくて「さあおもちゃがなくならないように片付けしようぜ!」と言うし、「本を読みなさい」ではなく「本読んでもいいよ」と言うようにしている。
あの教頭先生のやり方を見倣って。

……とはいえ、時間がなくて自分自身に余裕のないときは「早くお着換えしなさい!」って言っちゃうんだけど。


2019年1月15日火曜日

大人の女が口笛を吹く理由


あたしが口笛を吹いていると「よく吹けるね」と言われる。

褒められているわけではないことぐらいはわかる。半分ばかにされていて、もう半分は小ばかにされているのだ。つまり七十五パーセントばかにされていることになる。

ばかにされる理由はふたつ。


ひとつは、大人の女なのに口笛を吹くこと。

ふつう、大人の女は口笛を吹かないらしい。口笛は子どものもの。あるいは男のもの。誰が決めたわけでもないけどそういうことになっているらしい。
口笛を吹くシチュエーションといえば、「いい女とすれちがったときにピュウ~と吹く」とか「アメフトの試合でいいプレーをした選手をたたえる」とか「アルプススタンドで沖縄代表を応援する」とかで、たしかにどれも男くさい。アルプススタンドのやつは口笛じゃなくて指笛だったような気もするけど、まあおなじようなもんだ。


もうひとつは、あたしの口笛がへたなこと。

まだうまかったらいいんだろうけどね。
でもあたしの口笛って音程もとれないし、ふひゅう、ひゅうすうと空気の漏れるような音がする。へたなことは自分でもわかっている。でも嫌いじゃない。


どっちの理由についても、あたしの反論はおなじだ。
「うるせえよ」

仕事として給料をもらって口笛を吹いているんなら、あたしだって上司や顧客の言うことに従う。
「きみぃ、もうちょっといい口笛を吹けんもんかね」
って言われたら、なんとか要望に沿えるような吹き方を工夫する。

でもあたしの口笛はあたしのためのものだ。
自分のための、自分による、自分の口笛。
だから大人っぽくなかろうが、女っぽくなかろうが、へただろうが、吹きたいときに吹く。
それでもごちゃごちゃ言ってくるやつにはこう言ってやる。
ふひゅう。

2019年1月11日金曜日

金がなかった時代の本の買い方


中高生のとき、本をよく読んでいた。
といっても月にニ十冊ぐらいなのでヘビーリーダーからすると「その程度でよく読むだなんてちゃんちゃらおかしいわ。『月刊ひかりのくに』からやりなおしてこい!」と言われそうだが、まあ平均よりはよく読んでいたほうだろう。
しかし月にニ十冊読もうと思うとけっこう金がかかる。すべて文庫で買っても一万円ぐらい。
中高生のぼくにとって月に一万円も出す余裕は到底なかった。余裕どころじゃない。こづかいは月に数千円、学校はバイト禁止だったからどう逆立ちしたって出しようがない。

だから古本屋によく行っていた。
隣町に大型古書店があって、毎月のように自転車で通っていた。
文庫や書籍は一冊百円~二百円、マンガは定価の半額。
一度に十冊、ニ十冊ぐらい買いこんでいた。
エロ本もそこで買っていた。エロ本は高かったので一冊ぐらい。売っているほうも高校生が買いにきていることはわかっていただろうが、店員から何も言われたことはなかった。みんな優しい。

古本屋以上に重宝していたのはバザーだった。
三ヶ月に一回のペースで公民館でおこなわれていた。その公民館は丘の上にあり、自転車で三十分ほどひたすら坂をのぼりつづけないと行けない。体力のある中高生にとってもなかなか大変なことだったが、それでも欠かさず足を運んでいたのは、一冊十円という驚きの安さで本が売られていたからだ。

バザーなので営利目的ではなく、不用品を再利用しましょうという意味合いが強かったのだろう。どんな本でも十円だった。
筒井康隆、小松左京、東海林さだお、井上ひさし、畑正憲、赤川次郎、新井素子……。
ぼくの中高生時代の読書の大半はこのバザーに支えられていた。
なにしろ一冊十円なので、お金のことなぞ気にしなくていい。ちょっとでも気になった本は手当たり次第買う。五十冊買っても五百円。毎回バッグをぱんぱんにして帰っていた。


金のない時代に「いくらでも本が読める」という環境があったのは本当によかった。

ぼくの通っていた古本屋はとっくにつぶれた。電子書籍が増えた今では古本屋という商売自体が厳しいだろう。バザーはどこにでもあるものではない。
今の中高生は浴びるほど本を読めているんだろうか。

まあ、そういう人のために図書館があるんだけど。
でも「本を所有する」ってのも読むのと同じくらい大事な体験だとおもうんだよなあ。

2019年1月10日木曜日

本は都合のいい友人

本は都合のいい友人。

こんなに都合のいいやつはいないぜ。
若くてキレイってだけでちやほやされてる女みたいに「なんかおもしろい話してー」と言えば、すぐに話を読ませてくれる。
おもしろくないときもあるけど、ほっぽりだしたってなにもいわない。栞をはさんだまま一ヶ月放置してても文句を言わない。

電車に乗るときのお供、風呂での退屈しのぎ、眠くなるまでのおつきあい。
呼びだせばどこにでもついてきてくれる。


歳をとるほどに、人付き合いが面倒になってくる。
仕事をして、家族の用事をして、子どもと遊んで。
残りの時間をやりくりして人と会うのが面倒になってきた。

古くからの友人と会うのも年に数回になってしまった。
会いたいという気持ちはあるんだけど、そのために日程調整するのがおっくうだ。約束したら予定に束縛されることになるし。
お互い仕事や家族を持つと「今日ヒマ? 飲まない?」というわけにもいかない。まして、たいした用事があるわけでもないのだ。
もっと気軽に会いにいけたらいいんだけどな。

その点、本はほんとに都合のいいやつだ。
読みたいときに読ませてくれるし、数日前から予約をしておく必要もない。今は電子書籍で読みたいときにすぐ買えるし。
「読もうと思ってたけどべつの用事ができた!」とドタキャンしても不満な顔ひとつしない。こっちも一切負い目を感じない。

ぼくは人付き合いが好きなほうではないのでほとんど人と話さなくても平気だが、それは本という「誰かと手軽につながれるツール」があるからなんだと思う。

本は多くの孤独な人を救ってきたし、これからも救いつづける。
ただ、今は本よりもインターネットのほうが多くの孤独な人を救うのだろう。それはそれですばらしいことだとおもう。