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2018年5月4日金曜日

まけまけいっぱいの幸福


以前、横浜在住の人と食事をしたときに
「このお皿、さらえちゃっていいですか?」
と言ったら通じなかった。

さらえる」は「お皿に少し残っているものを最後に平らげてしまう」という意味だ。


「……ということがあってん。『さらえる』って関西弁やったんやなー」
と関西出身の友人に言うと、
「えっ、おれもわからん」と言われた。

あれ? 関西弁じゃない?

他の関西の人たちに「『この料理をさらえる』って意味わかる?」訊いてみると、
「わからない」
「聞いたらなんとなく理解できるけど自分は使わない」
という答えが返ってきた。

こういうことがときどきある。
ぼくは兵庫育ち、大学時代は京都に住み、今は大阪に住んでいる生粋の関西人だが、父は北陸出身、母は幼少期に四国や中国地方を転々としていた人なので、いろんな地方の言葉が混ざっている。
我が家ではあたりまえのように使われている言葉が、よそではまったく通じないということがある。

外であまり通じない言葉に「まけまけいっぱい」がある。
コップに飲み物がふちのぎりぎりまで入っている状態を指す言葉だ。関西の人にはほとんど通じないが、四国の人には通じたので四国のどこかの言葉なんだろう。

まけまけいっぱいのカフェラテ

もけもけ」という言葉を母が口にする。
セーターなどがけばだっている状態を指す言葉だ。この言葉が通じたことはない。
いろんな人に「『もけもけ』って知ってる?」と訊いたが、いまだに「知っている」という人に出会ったことがない。だから方言ではなく母がつくった言葉なのかもしれない。


「さらえる」「まけまけいっぱい」「もけもけ」がどこの言葉かインターネットで調べたらわかっちゃうんだろうけど、あえて検索せずにわからないままにしておく。

他人に通じない言葉を自分の中に持っているって思うと、ちょっとめずだかしい気持ちになれるから。


2018年5月1日火曜日

アニメの文法と文化の衰退


妻から、あるアニメがおもしろいと勧められた。
内容を聞いてみると、ぼくの好きなタイムリープもののSFで、たしかにおもしろそうだ。
録画したものがあるとのことなので観てみる。一話を観たところで「無理だ……」とため息をついて続きをあきらめてしまった。

アニメの文法がわからないのだ。

ぼくはほとんどアニメを観ない。ディズニー(特にピクサー)作品は好きだが、国産アニメは観ない。ジブリアニメですら最近の作品は観ていない。まして深夜にテレビでやっているようなやつはひとつも観たことがない。『まどマギ』がおもしろいとか、『艦これ』が流行ってるとか、ほのかに噂は流れついてくるのだが(たぶんだいぶ後になって)、「大勢の人がおもしろいと言ってるから観たらおもしろいんだろうな」とは思うものの、「ぜんぶ観ようと思ったら何時間もかかる」と思うと食指が動かない。「だったらその間本を読んだほうがいいや」と思ってしまう。

そんな人間だから、アニメの文法がわからない。
たとえば、天然ボケっぽいキャラクターがこれまでの流れと関係のない発言をする。周囲の人物はぽかんとして、一瞬の間の後に「……あっ、いや、それでさっきの続きなんだけど」みたいな感じで話が引き戻される。

ぼくはここで「今の発言は何のためになされたんだろう?」と考える。バラエティ番組なんかだったらほとんど意味のない発言がなされることはよくある。けれどこれはアニメーションだ。百パーセント作りものである。ということはさっきの発言にも作り手の何らかの意図があるということだ。
笑いどころなのかもしれないが、発言の内容はたいしておもしろくない。たぶん作り手もそんなにおもしろいとは思ってないだろう。たぶんこれはアクセント。シリアスなシーンが続いたから軽めのボケをはさんでメリハリをつけたんだろう。
……こういうことをいちいち考えないと次に進めない。

たぶんアニメの文法を知っている人にとっては、何とも思わず自然に受け入れられるシーンなんだろう。説明的な台詞が続いたら天然ボケキャラクターが突拍子もないことを言うのはある種の「お約束」なのかもしれない。


慣れていない人間がアニメを観ると「文法」についていけなくて戸惑ってばかりだ。

「あ……」みたいな意味のないつぶやきが多いな、と思う。たぶんこれは沈黙なんだろうな。小説だったら「無言で肩を落とした」みたいな描写にあたるシーンなんだろう。ドラマだったら役者が表情で表現するところなんだろう。でもアニメでは「沈黙」の表現がむずかしいから(動きも台詞もないシーンはアニメーションだとただの「静止画」になってしまう)、短い台詞を発することで当惑や思索にふけっているところを表現するんだろう。

そんなことを考えながら三十分のアニメ(歌とかCMもあるから実質二十分ぐらい)を観ていたらどっと疲れた。
そのわりにストーリーはまったく進んでいない。三十分も本を読めばかなりの展開があるのにな。

きっと、我慢して何十本もアニメを観つづければ「文法」を自然と理解できるようになっていろんなことがすんなり解釈できるようになるんだろう。
でもそれをする体力がない。若かったらできたんだろうけど。そこまでするんだったら慣れ親しんだ読書を楽しむほうがいい。
ということで「もうアニメはいいや」と投げだしてしまった。歳をとったのだ。


ぼくは落語を好きだけど、それは小学生のときから聴いていたからであって、今はじめてふれたら理解不能なことばかりでたぶん聴いてられないだろう。
「地の文と会話文の境があいまいなこともある」とか「四人以上の登場人物が会話をするシーンでは特に誰の発言かは意識しなくてもいい」とか「肩を揺するのは歩くシーン」とか「上方落語では突然お囃子が鳴る」とかの「文法」を知らないと聴きづらい噺も多い。
「よくわからない言葉は聞き流してもだいたい大丈夫」「お金の価値もちゃんとわからなくても大丈夫」なんて判断も、数をこなさないと身につかない。

だがこういうことは、中にいる人にはわからない。アニメ制作をしている人は「アニメなんて観たらいいだけだから誰でも楽しめるよ」と思うだろう。おっさんがアニメの「文法」がわからないだなんて思いもよらないにちがいない。だからほったらかしにされてしまう。


歳をとってから新しい芸能・文化に触れるのはとても体力がいるものだ。
読書習慣がないまま大人になってしまった人が読書を趣味にすることは、まずないのだろう。

そう考えると、よく耳にする「若者の〇〇離れ」は単なる売上の減少だけの問題ではない。
二十代までにその道に目覚めなかった人は、たとえお金や時間を手にしたとしても中高年になってから近寄ってくることはほぼないだろう。若者が入ってこない文化は、数十年後の衰退が確定している。
あらゆる文化は何よりも若者をターゲットにしなければならない。たとえそれが利益を生まなかったとしても。

ジャニーズのコンサートには親子席というものがあるらしい。ジャニーズは小学生に優先的に席を回してライブの楽しみを教えることで、向こう数十年のファンを育成しているのだ。実にうまいやりかただ。

「お金もかかるし知識がないとわかりづらいので若い人や初心者が入りづらい」ためにどんどん衰退していっている古典芸能や着物文化は、ぜひともジャニーズのやりかたを見習ってほしい。もう遅いだろうけど。


2018年4月29日日曜日

あえて今ラブレター


知り合いの二十代の女性。美人でとてもモテる子だ。「最近のモテエピソード聞かせてよ」と云うと、知らない人からラブレターをもらったと教えてくれた。

「今どきラブレター? しかも二十代になって?」

 「そう、びっくりしちゃった」


通勤途中によく顔をあわせる同い年ぐらいの男性から、いきなり手紙を渡されたのだという。
読むと、いつも顔をあわせているうちに好きになってしまった、一度もしゃべったことがないのにこんな手紙を渡されて気持ち悪いと思われるかもしれないがどうしても伝えたかったので手紙を書いた、いきなり付き合ってくれとは言わないがもしよかったら会って話す機会でももらえないだろうか、という内容だったそうだ。


すごくまじめな手紙だ。手紙を書いた男性の、礼儀正しさ、誠実さ、女慣れしていないところ、そして勇気が十分に伝わってくる。
男のぼくでさえも「なんてかっこいいんだ」と思う。顔も知らない男性だけど応援したい。

「すごくいい人じゃない」

 「そうなんですよ。顔はぜんぜんタイプじゃなかったけど、その手紙で好感度はめちゃくちゃ上がりましたね」

「じゃあオッケーした?」

 「いやでも彼氏いるから。だから気持ちはすごくうれしいけどつきあってる人いるんでごめんなさい、って返事しました」

「そっかー……。残念だなー……。めちゃくちゃ勇気ふりしぼったと思うのにな……。うーん、彼氏いるならしょうがないか……、でもやっぱり諦められないなあ……。なんとかならない……?」

 「なんで犬犬さんがフラれたみたいにショック受けてるんですか」


ラブレターなんて今どきは中学生でも書かないかもしれないけど、だからこそ効果は絶大だ。気になる相手がいる社会人は、ぜひ使ってほしい。

関係のないおっさんですら胸がときめくんですもの。


2018年4月27日金曜日

だだーん


ブログに好き勝手なことを書いているようでも、書きたいことをなんでも書いているわけではない。
共感してもらいたい、炎上してほしくない。
そういう思いが遠慮を生む。

「××たちは他人に迷惑をかけずに早く死ね」
「〇〇って知性のかけらもないよね」
心の中で思うことはあっても書くのを控えてしまう。

たとえ名前や顔を出していなくても自重してしまうのはぼくだけではなさそうだ。
匿名掲示板ですら身勝手な主張というのは存外少ない。
一見乱暴に見える主張であっても書いた人なりに支持を求めようとしている。差別的な発言、暴力的な発言も、それなりの論拠を示されている(その論拠に正当性があるかどうかはべつにして)。
「ジジイやババアに金を遣うのは税金の無駄遣いだから病院にかからずに死ね」と書く人はいても「ジジイやババアは嫌いだから死ね」という主張はめったになされない。
もっともらしい大義名分が付けくわえられる。年金がどうだとか医療費負担がどうだとか安楽死の権利がどうだとか。


もっと自由でいいじゃないか、と思う。
ジジイやババアを殺したらいかんけど、死ねと思うのは自由だ。書くことだって禁止されていない。

身勝手で、感情的で、正義をふりかざしていない文章がぼくは読みたい。
そういう文章が読めるのがインターネットの魅力だ。

とは思うのだがいざキーボードに指を乗せてみると、倫理観やら虚栄心やらがじゃまをして、こざかしい理屈をふりかざした文章を書いてしまう(この文章がまさにそうだ)。

だだーんと「あいつ嫌い。嫌いなものは嫌い」みたいな文章を書いてみてえな。



2018年4月25日水曜日

労働時間と給料は反比例する


今までに四つの会社で働いたことがあるが、その中で得られた法則は
「労働時間と給料は反比例する」
だ。
休日が少なく残業時間が多い会社ほど、給料も安い。


以前は逆だと思っていた。
つらい仕事はその分給料もいい、と。
アルバイトは、大変さと給料がだいたい比例する。
時給制だから労働時間が長いほど給料の額が増えるのは当然だし、肉体労働のようにきついバイトは時給も高い。
ところが正社員はその反対だ。

儲かる仕組みが作れない会社は人件費を削って利益を出すしかない。だから長時間労働があたりまえになるし、高い給料も出せない。だから人が辞める。残った人の負担は増える。もともと余裕がないのだから人が辞めたって残った人の給料は上がらない。かくしてさらに長時間労働・低賃金になる。

儲かっている会社は人が足りない。だから金を出して人を集めるし、集まった人に辞められないために金を出す。


ぼくはかつて長時間労働・低賃金のどブラックな環境で働いていたが、二回の転職の結果、今では当時の約半分の労働時間で、給料は倍以上になっている。時間あたりの所得でいうと四倍ということになる。といっても額面はワーキングプアだったのが同世代の平均程度になった、という程度だけど。
ぼく自身が年齢や経験を重ねたということもあるが、それを考えてもはじめの職場にいたら給料が四倍になることはぜったいにありえなかったわけで、抜けだしてよかったと心から思う(というかその会社はもう潰れた)。
生産性の低い会社でがんばっても大したスキルは身につかない。ブラック企業の五年よりホワイト企業の一年のほうがよほど成長できる。


あと労働時間が減るとストレスが減って睡眠時間が増えるから、衝動的な外食とか体調を壊しての医療費とかユンケル代とか無駄な出費も減った。
知識の吸収にあてる時間的余裕もできるし、そうなれば仕事も好転する。
きつい仕事をしててもなーんのいいこともない。唯一あるとすれば、少々きついことがあっても「当時に比べればヨユー」と思えることぐらいだ。


石川啄木に「働けど働けど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」という有名な歌がある。
石川啄木自身はクズ野郎なのでこの歌には共感しないが、一抹の真実も含まれている。ただ、正確に言うならば「働けど働けど」ではなく「働くから働くから」だ。
働きすぎるから楽にならないのだ。


ぼくが若い人に言いたいのは、

給料安い会社でがんばったって、いいことないぞ。

ろくな給料払えない会社が利益を出せるようになることなんかないぞ。

もしも奇跡が起こって利益を出せるようになったとしても、安い給料で雇ってきた会社が利益を従業員に回すようになることなんか百パーセントないぞ!


2018年4月24日火曜日

昨日買った本はもう読んだの?


中学生のときのこと。
近所の本屋で文庫本を買った。商店街の中にある、店主のおっちゃんがひとりで店番をしている小さな本屋だ。

その日のうちに本を読み終わった。
翌日また本屋に行って、同じ作家のべつの本をレジに持っていった。
店主のおっちゃんはぼくの顔を見て言った。
「昨日買った本はもう読んだの? 早いね。この作家の本好きなの?」

「はぁ、まぁ」とあいまいに返事をしながら、内心では「やめてくれ」と思っていた。

この中学生が昨日どんな本を買ったか。店主に記憶されているのがたまらなく恥ずかしかった。
エロ本を買ったわけじゃない。ごくごくふつうの小説だ。決して恥じるような行為ではない。
おっちゃんも褒めるつもりで言ったのだろう。本屋として、中学生が毎日本を買いにきてくれることがうれしかったにちがいない。

だけど本を買う、本を読むというのはぼくにとってすごくプライベートな行為だ。
それを他人には把握されたくなかった。
トイレの前で「一時間前にもトイレに行ったのにまた行くの?」と言われるぐらい恥ずかしかった。
それからしばらく、その本屋からは足が遠のいた。

ぼくがAmazonで本を買うのが好きなのは、便利なだけでなく「店員に覚えられなくて済む」ということもあるんだよね。


2018年4月22日日曜日

ばかの朝食バイキング


もう三十代半ばになると「焼肉食べ放題」などと聞いても心が動かされないどころか「いいお肉をちょっと食べるほうがいい」と思ってしまうのだが、それでもホテルの「朝食バイキング」だけは心躍る。

ホテルや旅館の夕食は無駄に量が多いのであまり好きじゃないが、ホテルの朝食バイキングは大好きだ。朝食バイキングを食べるためにホテルに泊まるといっても過言ではない。いや少し言いすぎた。

あんなに楽しいイベント、大人になるとそうそうない。
なんたってなんでも取り放題なのだ。

しかも、朝食、というのがいい。
朝ごはんのために各種パンとご飯とベーコンエッグとスクランブルエッグとゆで卵と目玉焼きと納豆と海苔と焼き鮭と味噌汁とカレーとコーンスープとオニオンスープとソーセージとハムとトマトとサラダとチーズとバナナとオレンジとグレープフルーツとヨーグルトとシリアルとミルクとオレンジジュースとコーヒーと紅茶を用意しようと思ったら、三時ぐらいに起きなきゃいけないだろう。それを全部やってくれるのだ。たかだか千円ぐらいで。ホテルによっては無料のところもある。最高。これに心躍らないはずがない。

目を覚まして「そろそろ朝飯でも食いにいくか」と部屋を出た段階では、まだ浮き足立ってない。それどころか少しおっくうだったりする。「めんどくさいけど、朝食付きのコースにしちゃったしな」ぐらいの気持ちだ。

でもずらりと並んでいる料理を見たら、たちまち血圧が上がる。「これ全部食べ放題!?」わかっているのに、いちいち喜ぶ。
もうぜんぶ食べたい。端から端までぜんぶ食べたい。ふだんそんな好きじゃない料理も、今日ばかりは食べたい。ミルクとオレンジジュースとグレープフルーツジュースとコーヒーをぜんぶ飲みたい。

そうはいっても現実的にぜんぶは食べられないので、まずは方向性を決めることになる。
すなわち、和か洋か。
まずご飯を盛るか、パンを手にするかでその後の方向性が決定する。ご飯はコーンスープやオレンジジュースとは合わないし、パンなら納豆や海苔はあきらめることになる。
まあたいていは洋食だ。
なぜなら、
・洋食のメニューのほうが選択肢が多い(和食なら、ほぼ味噌汁・海苔・鮭・納豆あたりに決まってしまう)
・食後のデザート→コーヒーという流れに自然に移行できる
・ご飯は家でもおいしく炊けるが、買ってきたパンは焼きたてパンに遠く及ばない
からだ。

まずはパンをとる。二個とる。スクランブルエッグとサラダをとる。ヨーグルトをとってシリアルをかける。オレンジジュースを入れる。
ふだんならこれで十分だが、そこはバイキングのおそろしさ。ここで引き下がってはもったいない。ソーセージとコーンスープとチーズとジャムとミルクとトマトも皿に盛る。


席について、自分の皿を眺めて思う。とりすぎた。

必ずとりすぎる。ちょっととって足りなかったらまたとりにいけばいいのに、それができない。一巡で済まそうとしてしまう。で、とりすぎる。

多すぎたな、これ全部食べられるかな、と不安になる。
そんな後悔すら楽しい。
後先考えずにとったので、スクランブルエッグと目玉焼きがあったり、ベーコンとソーセージがあったりする。
そんな失敗すら楽しい。
ばかみたいな皿だな、と思う。
己のばかさすら愛おしい。

いろいろとりすぎて、でもバイキングで残したらあかんと思うから無理して食べて、苦しい。
オレンジジュースもミルクもコーヒーも飲んで、おなか痛い。
ばかのバイキングだな、と思う。毎回思う。でも楽しい。毎回楽しい。

2018年4月21日土曜日

子どもをのびのびと遊ばせる先生


小学校四年生のときの担任は、三十代の男の教師。T先生。
ことあるごとに子どもたちを連れてどこかへ出かけたり、雪が積もったら授業をつぶして一日中雪遊びをさせたり(めったに雪が積もらない地域なので)、しょっちゅう冗談を言って生徒を笑わせたり、「子どもをのびのびと遊ばせる」ことに情熱を注いでいる人だった。

いい先生じゃないか、と思うかもしれないがぼくはT先生が苦手だった。
当時はうまく言葉にできずに「なんか好きじゃない」ぐらいにしか思えなかったけど、今ならなんとなくその理由がわかる。

T先生は「理想の子ども像」を強く持っていた。
彼は、勉強が嫌いで、野山で走りまわって遊ぶことが好きで、元気で明るく冗談に大笑いする子どもたちが大好きだったんだと思う。いわゆる「子どもらしい」子どもが好きだった。そして、そうでない子どもたちは好きではなかった。

ぼくは野山で走りまわることは好きだったが、勉強や本を読むことも好きだったし、明るくもなかったし、ひねくれたところがあったのでみんなが笑う冗談を「くだらない」とばかにするようなところもあった。
T先生はぼくのことを好きではなかったと思う。表立って態度に出すことはなかったが、自分が好かれていないことぐらい四年生になれば理解できる。

T先生の授業の進め方も「勉強ができない子向け」だった。問題を出して、答えられないであろうを指名し、間違った答えを引きだす。そこから「なぜ間違えたのか」「どういうところに気を付ければ間違えないか」といった指導をしていた。勉強のできない子にとってはありがたいやりかたかもしれないが、勉強の得意な子からするとつまらない授業だった。ぼくは後者だった。
ぼくが指名されることもあったが「誰にでもわかるかんたんな問題」を問われるのが不満だった。ぼくは「じっくり考えないとわからない難しい問題」を出してほしいのに。そして優越感に浸りたいのに。
つまらないので国語の教科書を先に読み進めたりしていると厳しく怒られた。「クラスがひとまとまりになって和気あいあいと授業をする」という形から外れるのを、T先生は何より嫌った。

休み時間に本を読んでいるとT先生は「天気がいいから外に遊びにいっておいで」と言う。
ノートを切ってつくったお手製のすごろくで遊んでいると「すみっこでこそこそそんな遊びをしてないでドッジボールでもしてこい」と怒られた。


T先生は塾を目の敵にしていた。
ことあるごとに「塾なんか行かなくても学校の勉強だけで十分」と口にしていた。
今はどうだか知らないけど、当時は塾に通うことを嫌う教師は多かった(学校の教師にしたら、自分の存在を否定されるような気持ちになるんだろう)。その中でもT先生は特に塾のメリットを否定していた。

ぼくは塾に通っていなかったが、四年生にもなるとクラスの何人かは塾に通っていた。ぼくの友人は塾に通っていたが、個人面談の場で「塾なんか辞めさせたほうがいいですよ」と言われたらしい。
彼らに対してT先生はことさら冷たく当たっていた。勉強のできない子がかんたんな問題を解けたときは大げさに褒める一方、塾に通う子らが難しい問題を解いても褒めなかった。彼らは居心地が悪かっただろう。


快活で勉強が苦手な子からは、T先生は大人気だった。そしてクラスの空気を支配するのはそういう子どもたちだ。だからT先生のことを悪く言いにくい雰囲気があった。
口うるさくて怒りっぽい先生のことなら「あいつむかつくよな」と言えたのに、「T先生嫌いだな」というと友だちから「なんで? めっちゃ遊ばせてくれるしおもしろいやん」と返ってくるので不満すらこぼしにくかった。

T先生は親からの評判はあまりよくなかったらしい。
まあ、授業時間をつぶして遊ばせてばっかりいたので、教育熱心な親からしたら気に入らない教師だっただろう(ぼくが通っていた小学校にはそういう親が多かった)。

でもT先生からしたら「もっと勉強させてほしいと願う親」の存在は、自分のやりかたを改める理由にはならなかっただろう。いや、それどころか「理解のない親から『子どもらしさ』を守らねば」と、自身の行動を正当化する材料になるだけだっただろう。

でも勉強をさせてほしいのは親だけじゃない。勉強したい子どももいる。
勉強が好きな子どももいるということは、T先生にとってまったく想像の外、想像すらしたくないことだったのだろうな。


2018年4月20日金曜日

味噌のポテンシャル


今さらながら味噌にはまっている。
第一次味噌ブームが起こったのは奈良時代のことだから、1300年ほど遅れてブームに乗っかっていることになる。


きっかけは料理研究家の土井善晴さんのエッセイだった(→ 感想)。
土井さんが「おかずが足りないときは味噌をそのまま食べればいい」と書いていたのでやってみたら、思いのほかうまかった。

"味噌汁"や"味噌煮"でその能力の高さは知っていたつもりになっていたが、味噌の実力はまだまだそんなもんじゃなかった。なんたるポテンシャル。

ご飯に乗せて食べてもうまい。
味噌茶漬けにしてもうまい。
味噌おにぎり、最高。海苔と味噌の相性ばつぐん。

味噌のおにぎりって梅ぼしや鮭や昆布と並ぶぐらいの定番商品になってもいいと思うのに、コンビニで「みそ」のおにぎりを見たことがない。「豚肉の味噌炒め」とか「味噌焼きおにぎり」とかはあるけど、味噌だけで主役を張ったおにぎりがない。
もっともっと評価されてもいいと思うよ、味噌おにぎり。

肉にも魚にも野菜にもご飯にも麺にもあう。
味噌は万能。ベビースターラーメンみそ味以外は全部おいしい。


2018年4月15日日曜日

やらないと失うこと


娘が水泳教室に通いはじめた。

水泳教室の間ただ待っているのもひまなので、ぼくも横のレーンで泳ぐことにした。
これまでもときどき泳ぎにきていたが、根気がないので長続きしなかった。娘と一緒ならサボれないのでちょうどいい。

水泳教室の時間は一時間。
初回は、その間に900メートル泳いだ。へとへとに疲れた。
その次の週は1050メートル、その次は1150メートル……と順調に泳ぐ距離を伸ばしていき、9回目となった前回は1600メートル泳ぐことができた。
回を重ねるごとに自己記録が更新されていくのが楽しい。

何をするにしても、ぐんぐん上達していく段階、知識が増えていく段階は楽しい。
しかしぼくは知っている。この楽しさはそろそろ終わるということを。



ジムに通っている知人が「筋肉が落ちることが恐ろしくて、二日以上ジムを休むことができない」と言っていた。
そうなのだ、ある段階を過ぎると「新しく得るのが楽しい」から「今あるものを失うのが怖い」になってしまうのだ。

ぼくは寝る前に柔軟体操をしている。十三歳のときからやっていて、三十代になった今でも脚を百八十度開脚することができる。
もはや習慣になっていて、やらないと気持ち悪くて寝られない。どんなに疲れていても、泥酔していても、柔軟体操だけはやらないと気持ちが悪い。
はじめのうちは自分の身体が日に日に柔らかくなることが楽しかったけど、今は何の楽しみもない。やらないと苦痛だからやっている。ニコチン中毒者が義務的にタバコを吸うのと同じように。



歳をとると、「やると成長すること」が減り「やらないと失うこと」が増えていく。
柔軟体操も、歯みがきも、筋トレも、ニュースを見ることもそうだ。人によっては、ゲームだったり、料理をつくることだったり、子どもを塾に通わせることだったりするだろう。

ぼくにとっての「やらないと失うこと」の最たるものは読書。
もちろん本を読むことは楽しいが、それ以上に義務だ。本を読むのをやめて知識のインプットが止まることが恐ろしくてたまらない。だから、どんなにおもしろい本でも読みかえすことはほとんどない。そんな時間があったら新しい本を読まなくてはならない。

日々のトレーニングは自信になる。
筋トレをしている人は「筋トレをすると自信がつく。ポジティブに生きられるようになる」と言う。
ぼくは筋トレをしないがその言葉には納得する。読書がぼくにとっての筋トレだからだ。

毎日本を読んで、新しい知識をとりいれる。
それが心の平穏を保つことに役立つ。腹の立つヤツに出会っても「でもぼくはこいつよりたくさんの本を読んでるしな」と思える。失敗をしても「いやいやでも多くの本を読んできたから大丈夫だ」と思えば落ち込まない。
得た知識が役に立つかどうかはどうでもいい。重要なのは「本を読んで新たなことを知った」という事実だからだ。

高校球児は「自分たちはどこよりも練習してきた。それが自信になっている」と語る。
自信のためには練習の中身は重要でない。一日千回素振りをするような、見当はずれの努力でもかまわない。自信を植えつけるために必要なのは、効率の良い一日十回の素振りではなく「千回やった」という事実なのだ。



ぼくたちを動かしているものは「やりたいこと」でも「やらなきゃいけないこと」でもなく、「やらないと失うこと」なんだろう。


2018年4月14日土曜日

クスリンピック


友人とオリンピックの話をしていて、「ドーピングは禁止するんじゃなくてむしろ解禁したほうがおもしろくなるんじゃないか」という話になった。


なるほど、それはおもしろいかもしれない。
今でもトップクラスのアスリートたちの闘いは、肉体の闘いであると同時に科学の闘いでもある。
より効率の良いトレーニング方法を研究し、より高い成果を出せる道具を開発し、科学的な分析に基づいて選手たちの肉体はつくられる。だとしたらそこに化学・薬学が加わることに何の問題があるだろう。
痛み止めの薬を打って金メダルを獲得したスケート選手も褒めたたえられているではないか。

世界中の薬学者が研究に研究を重ね、選手たちの肉体を改造する薬品を開発する。
求められているのはより強い肉体。選手たちは金メダルを獲るためのマシーンと化す。非人道的? 選手たちも同意しているのだ。何か問題でも?

選手に知性はいらない。競技のルールだけが理解できればいい。むしろ余計な思考は集中力を乱す原因になる。目の前の敵を倒すことだけ考えればいい。

Dr.イチガキチームのようにスポーツモンスターと生まれ変わった選手たちによる平和の祭典。感動まちがいなし。


2018年4月13日金曜日

おまえの人生はないのかよ


独身時代、Facebookに子どもの写真を載せている友人を心の中でばかにしていた。

子どもがおまえのすべてかよ、おまえの人生はないのかよ、と。


いざ自分が子を持つ親になってみると、ブログに子どもの話題を書いている。
SNSに子どもの写真こそ載せてないが、それはうちの子が親から見ても決して器量良しではないからで(親から見たらかわいいけどね)、子役級にかわいかったらパラパラ漫画を作れるぐらい大量の写真をアップロードしていると思う。

十年前のぼくが今のぼくに言う。
「おまえの人生はないのかよ」

ぼくは答える。
「いや、ないわけじゃないんだけどさ。でも減ったよね。子どもが自分の人生の大半を占めるようになったのは事実だね。おまえから見たら恥ずべきことだろうな。でもこれはこれで悪くないんだぜ」

だって仕方ないじゃないか。
朝、子どもと一緒にご飯を食べ、子どもの着替えを手伝い、子どもを保育園に送っていき、仕事に行く。帰ったら子どもが「遊ぼう!」と行ってくるのでいっしょにパズルやトランプをして遊び、子どもと話しながらご飯を食べ、子どもに歯みがきを手伝い、子どもを風呂に入れ、子どもに絵本を読んでやり、子どもと一緒に落語を聴きながら寝る。
それが平日。
休日は朝から夜までずっと子どもと一緒にいる。そりゃあ子どもが人生の大半を占めてしまうのは仕方ない。


少し前に「日本の親に夢を訊いたら『子どもの幸せ』と言うが、それはあなたの義務であって夢ではない」という言説を聞いた。

はぁ? 義務と夢が一緒だったらあかんの?
納税は義務だが、「納税によって多くの人の暮らしを良くすることが夢」という人のことまで否定しなくていいでしょ。

人間は遺伝子の乗り物だから、次世代の繁栄こそが生きる目的だ(必ずしも自分の直系の子孫でなくてもいい)。
それに比べたら個人の功名や満足感なんてとるにたらないことだとぼくは思う。


過去の自分から「おまえの人生はないのかよ」と言われたら、

「あるけど、より新しい人生に引き継いでいる最中」だと答えたい。

2018年4月8日日曜日

四歳児としりとりをするときの覚書



四歳の娘としりとりをするときに考えていること。

ボキャブラリーを増やしたい


意図的に「娘が使わなさそうな言葉」で返すようにしている。
ただし物の名前をそのまま表す言葉は、それを見ないと理解しにくいのでなるべく使わない。たとえば「アリジゴク」「すだれ」などは、それを見せて説明するのがいちばん正確なので、しりとりでは教えない。というより、それを見たことない四歳児に説明するのは不可能に近い。

四歳児でも理解できそうな概念的な言葉をよく使うようにしている。物そのものの名前ではなく、物のグループの名前とか。
昨日のしりとりでは「交代」「下着」「昔」「植物」などを言った。案の定、娘が「どういう意味?」と訊いてきたので、「代わりばんこすること」「パンツとかシャツとか、服の下に着る服」などと説明した。


同じ言葉で攻める


しりとりをしていると、「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→「パンダ」→「ダチョウ」のように流れが定型化してしまうことがよくある。
なるべく新しい単語を身につけてもらいたいので、意図的に同じ文字で攻める。「また『に』か~」と言わせる。
脊髄反射的に返せなくすることで新しい単語を必死に探すだろうし、そうすることで自分の語彙として定着するのではないかと思うので。


ヒントを与える


ほとんどの親がやっていると思うが、娘が答えに詰まったときにはヒントをあげる。
「砂漠にいる背中にこぶのある動物」など。答えたときは大げさに褒めてあげる。


動詞や形容詞は禁止しない


通常のしりとりでは用言(動詞、形容詞、形容動詞、助詞など)は禁止だが、娘とのしりとりでは禁止はしていない。「名詞だけだよ」と言ってうまく説明できる自信がないので。
禁止しているわけではないけど、ぼくは使わない。そうすると娘も意外と言わないものだ。
動詞や形容詞の語彙も増やしたいけど、語尾の文字がほとんど同じだからしりとり向きじゃないんだよねー。


恐竜の名前は勘弁してくれ


とまあいろいろ考えながらやっているのだが、恐竜がすべてを台無しにしてしまう。

娘は今恐竜にはまっていて、子どもの記憶力ってすごいからあっという間に数十種類の恐竜の名前を覚えてしまった。
しりとりをしていても「アロサウルス」「タルボサウルス」「カスモサウルス」「ケラトサウルス」「ワンナノワウルス」「ニッポノサウルス」「アンキロサウルス」「アルゼンチノサウルス」など、すぐに恐竜の名前で返してくる。
で、今書いたようにほとんどの恐竜の名前は「ス」で終わっている。
「ス」で終わらないのはミンミとかマイアサウラとかごく一部だけだ(ぼくもだいぶ恐竜の名前を覚えた)。

せめてもの抵抗としてぼくも「スイス」「スライス」「スタンス」「スペース」など "す返し" をするのだが、それすらも「ステゴサウルス」「スピノサウルス」「スティラコサウルス」「スコミムス」などではじき返されてしまう。


ほんと、恐竜の名前を次々に言われると「絶滅しろ!」と叫びたくなる。


2018年4月7日土曜日

音の発信源を特定する能力


四歳の娘とかくれんぼをしているときに気づいたんだけど、どうやら四歳児は「音の聞こえてくる方向」がわかっていない。

「もういいよー」と大声で言っているのに、ぼくのいる場所とは反対方向を探しにいく。

大人だったらそんなことはない。正確な位置までわからなくても、右から聞こえてきた音を左からだと間違うことはない(音の反射とかあればまたべつだけど)。

まあ四歳児だからな、と思っていたけど、こないだ六歳の男の子とかくれんぼをしたらやはり音の発信源を特定できておらず、見当違いの方向を探しにいっていた。

「音を聴いてその発信源を探知する」という能力は、どうやら生得的には備わってないらしい。



ぼくが小学校三年生ぐらいのときに友だちとかくれんぼをした際は、
「『もういいよー』と言うとどこにいるのかわかってしまうから、鬼は百秒たったら探しにいくこと」
というルールを採用していたと記憶している。

つまり、九歳頃には音を聴いて発信源を探す能力はある程度身についており、かつそれが当然のこととして共有されていたということになる。

個人差もあるだろうが、だいたい七歳ぐらいで「音発信源探知能力」が身につくようだ。


……遅すぎね?

生物として、生きのびる上でかなり基本的な能力じゃない?

たとえばオオカミのうなり声が聞こえてきたとき、きょろきょろあたりを見回してオオカミの位置を確認しているようじゃ、もう遅い。

現代では野生の生物に襲われる危険性はかなり低いけど、自動車やバイクという凶暴な物体が走りまわっている。
クラクションを聞いたら反対方向に逃げようとするのは本能的なものかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。学習によって後天的に身につけないといけないもののようだ。

人間、初期スペック低すぎない?


2018年4月6日金曜日

巨乳を測るニュートン氏


いわし氏(@strike_iwashi)、花泥棒氏(@hanadorobou)と酒を呑みながら話していて、
「温度の『摂氏』『華氏』って、なんであんな漢字を書くんだ?」
という話になった。


で、Wikipediaを見てみるとどうやら
摂氏は、考案者のセルシウスさんを中国語で「摂爾修斯」と表記するから、
華氏は、考案者のファーレンハイトさんを中国語で「華倫海特」と表記するから、
だそうだ。
つまり「摂氏」とは「セルシウス氏」ということらしい。

この表記はおもしろい。
人名に由来する単位は他にもたくさんある。たとえば力の大きさを表す「ニュートン(N)」。


「『10ニュートン』を『ニュー氏10度』と表記したらおもしろいのにね」

「そんなの『ニュー』を漢字で書いたらぜったいに『乳』でしょ」

「『乳氏10度』って書いたら、巨乳が重力で引っ張られる力を表す単位みたいな感じがしますね」

「あの巨乳にかかる力は乳氏88度、みたいなね」


というばか話をした数日後、中国語で「ニュートン」をどう表記するか調べたところ、「牛頓(niu-dun)」だった。
「乳」ではなかったが乳っぽさは残った。


2018年4月4日水曜日

改札に引っかかった間抜けの末路


都会の通勤電車における三つの大罪といえば、「歩きスマホ」「傘の先を後ろに向ける」と並んで、「改札退場時に引っかかる」が挙げられることはご承知の通りだ。

ただ、歩きスマホや傘の持ち方とは違い、どれだけ気を付けていても引っかかってしまうのが詐欺と改札だ。
誰もが他人事ではない。「おれはぜったい大丈夫」とは思えない。ぼくも毎朝ラッシュ時に改札を通るときに「引っかかったらどうしよう」と戦々恐々としている。

誰もが陥りかねない罠なのに、改札に引っかかった人に対して周囲の人々がとる対応はあまりにも冷酷。
目の前の人が改札に踏み込んだ瞬間「ピンポーン!」と鳴る。このとき、その直後を歩いていた人が顔をしかめる確率は百パーセントであることが我々の調査でわかっている。ちなみに、二つ後ろを歩いていた人が顔をしかめる確率は八十四パーセントだ。

「あのマザー・テレサですら、前の人間が改札に引っかかったときに舌打ちをした」という話がまことしやかに伝えられている。この話が事実かどうかはわからないが(ぼくが今つくった話なのでたぶん嘘だろう)、さもありなんと思わせるだけの説得力があるのは、それだけ改札に引っかかった人に対して憎しみを抱くのが自然なことだからだ。もしかすると狩猟時代から備わる人間の本能なのかもしれない。それが何の役に立つのかはわからないが、本能とはそういうものだ。

イエス・キリストは云った。
「自動改札に引っかかったことのない者だけが、改札に引っかかった者に対して顔をしかめ、舌打ちをしなさい」

すると人々はあからさまに迷惑そうな顔をし、舌打ちをしながらイエス・キリストを避けて別の改札に並びなおした。


人種、性別、出自、身体的特徴。
すべての差別がなくなったとしても、「改札に引っかかった人差別」がなくなる日は来ないだろう。

改札に引っかかった人は一瞬にして周囲の注目を集め、冷ややかな視線を浴びることになる。
「後続に迷惑かけてんじゃねえよ」
「まあダサい」
「あら営業一課のハセガワさんだわ。すてきな人だと思ってたのに、幻滅」
「おやあれはハセガワくんか。仕事のできる若手だと思ってたのに、改札に引っかかるようじゃ大事な仕事は任せられんな」
と、たちまち彼の評価は暴落。よくて左遷、悪くて解雇。
状況的には痴漢で捕まったときと同じだ。いや、痴漢の場合は冤罪の可能性があるだけまだましかもしれない。



差別の原因は、「改札に引っかかった人は後退しないといけない」というルールだ。そのせいで著しい通行の妨げになる。

たとえば「料金不足で『ピンポーン』という音が鳴った場合はそのまま改札を出た後に差額を清算しなければならない」だったなら、後続の人たちに迷惑をかけることもなく、犯罪者のような扱いを受けることはないだろうに。

しかしこのシステムを導入すると、料金を清算せずに逃げるやつが現れる。

そこでぼくが提案する唯一のソリューションは、
「改札に引っかかったら床に穴が開いて、引っかかった犯人がそこに転落する」だ。
直後にまた穴がふさがれるようにすれば後続の人たちは滞りなく通過できるし、犯人も周囲から後ろ指をさされることがない。

被害者の便益と加害者の人権の両方を守れるすばらしい制度だと思うので、鉄道会社の人はぜひ導入のご検討を。


2018年4月3日火曜日

いとあざとし


四歳の娘は、ご飯が終わるとぼくの膝に乗ってくる。

ぼくが読んでいる本をのぞきこんで、わからないくせに「なるほど」などとうなずいている様はいとをかし。

しかしご飯がついたべたべたの手で服をさわってくるのは勘弁してもらいたい。


「ごはん終わったら手を洗ってきてね」

「ごちそうさましたら、はみがきしぃやー」

と告げると、娘はこう返す。

「いやや。ここにいる。だっておとうちゃんが好きだから」


ずるい。さすがは女の子。やり口が非常にあざとい。

そんなこと言われたら、ねえ。

もう、ねえ。

ずるいよ、ねえ。

そんなの言われて「早くお膝から降りて手を洗ってきなさい」と言えるお父ちゃんが世の中にいますかっての。

2018年3月30日金曜日

すばらしきかなトイレの鍵のデザイン




この件についてもう少し掘り下げて考えてみようと思う。

あのデザインの何がすごいって、

● ユーザーに余計な手間を増やさない

鍵をかけるだけで青→赤になるから、外に向けてサインを送るために労力を要しない

● 一瞬で把握できるサイン

文字の読めない子どもや外国人でも理解できる。また青と赤は色盲の人にも見分けられるらしい。

● 余計なコミュニケーションを省略できる

トイレで用を足しているときは他人に干渉されたくないものだ。
あのサインがあるおかげで、心安らかに排便活動に勤しむことができる。
想像してほしい、用便時に頻繁にノックをされる不快感を。

また、あのサインがあるおかげで、ノックも異なる意味を持つ。
ふつうノックは「中にいらっしゃいますか」という意味を持つが、赤いサインが出ているにもかぎらずノックをすることで
「中に誰かいることは知っていますがそれでもあえてノックをしたのは私はのっぴきならない状態にあるからです。できるなら早く出てください。さもないとたいへんなことになります」
というメッセージを伝えることができる。
これを口頭で言うのは相当恥ずかしいが、青/赤サインがあることでノックだけで表現することができる。

● 利用時の時間短縮になる

自然に扉が閉まるタイプのトイレだと、ぱっと見ただけでは中に人がいるかどうかがわからない。しかし青/赤サインがあることで、一瞬でどの個室が空いているかを把握できる。

これによって短縮できる時間はほんの数秒だ。
たかが数秒とあなどることなかれ。トイレを求めて一刻一秒を争った経験は誰にでもあるだろう。この数秒が明暗を分けることもあるのだ。
アスリートが0.1秒を縮めるためにどれほどの努力をしているか。その0.1秒に匹敵するほどの重要性が、トイレを探す数秒にはあるのだ。


「鍵をかけたら青→赤になる仕組み」は技術的には少しもむずかしいことではない。この発想に至るまでに特別な知識も必要としない。

けれども、ほとんどの人はこの「ちょっとした思いつき」を発見することができない。

このデザインをはじめて思いつき、実用化した人がどこの誰なのかまったく知らない。このデザインが何という名前なのかもわからない。

発明者がこれを特許化していれば莫大な金を稼ぐことができただろう。けれど彼はそれをしなかった。特許化して儲けることよりも、あえて特許をとらないことでひとりでも多くの人に使ってほしいと望んだから(知らんけど)。

彼の思いは見事実を結び、今日も急な便意に襲われた人たちの尊厳を救っている。

ぜひとも彼にノーベル平和賞を。


2018年3月27日火曜日

人生の早期リタイア制度


会社の早期退職制度のように、人生においても早期リタイア制度を導入したらどうだろう。

早めに退職した人が多めに退職金をもらえるように、
早めに安楽死をした人の遺族(または当人が受取人に指定した人や機関)にお金を支給するのだ。

早めに死んでくれれば年金、医療費その他公的サービスが削減できるので、その一部を財源にすればいい。

  • 長生きしたくない人は、早めに死ねる上に希望の相手にお金を贈れる
  • 遺族にとっては介護の負担が減る上に遺産まで増える
  • 国家財政にも優しい

といいことづくめなんだけどな。


自分が年老いたときに、子どもから

「お父さんって八十五歳だったっけ……。
 あっそういえばお隣のおじいちゃんは早期リタイアすることにしたんだって。まだ七十代なのに。立派だよねえ」

と嫌味を言われることになるかもしれないけど。

2018年3月25日日曜日

本を読めない職業


五歳のときに読書の悦びにめざめ、以来三十年ばかり本を読む日々を送ってきたが、人生においていちばん「本を読まなかった時期」は本屋で正社員として働いていたときだった。

なにしろ朝六時に出社して、退勤時間は早くて六時半。遅いと九時ぐらい。
帰宅したら食事をする間も惜しんで寝ていたので、読書をする時間などとれなかった。

郊外の店だったので通勤は車。移動中も読書ができない。
休みは月に六日ぐらい。半日寝て、溜まっている用事を片付けたりすると、あっという間に夜。六時に出社するために四時半に起きていたので、夜ふかしなんてできなかった。



本屋にいるので情報だけは入ってくる。
新刊予定表を見て「おっ、もうあれが文庫化するのか」とか「この作家、最近よく売れてるな」とか、入荷してきた本を手に取って「聞いたことない作者だけどおもしろそうな本だ」とか思う。
でも、読む時間がない。

ダイエット中に目の前にごちそうを並べられるような状態。つらかった。

「本屋で働いている」と言うと、「へえ。仕事しながら本が読めるなんていいね」と言われることがあった。
「客の少ない古本屋でバイトがレジに座りながら本を読んでいる」みたいな光景を想像していたらしい(ぼくが子どもの頃にも近所にそんな古本屋があった)。

でもそんなことはない。

本屋の売上は年々減っている。だけど本は仕入値も販売価格も決まっているから、同じ利益を出すためには人件費を削るしかない。バイトを減らす。社員が長時間労働をさせられる。そうやってなんとかもちこたえている状況だったから、ひまな時間なんてまったくなかった。




本屋をやめてよかったことの第一位は、本を読む時間が増えたことだ。

本屋にいたときは「読みたい本」の情報だけが入ってきて読む時間がなかったから、常に追われているような心境だった。

本屋をやめてようやく、「読みたい本」と「読む本」のバランスがとれるようになった。
(とはいえまだ「読みたい本」のほうが少し多いので、買ったけど読まない本が溜まってゆく)

もしあなたが本好きならば、本屋勤務だけはやめておけと言っておく(バイトぐらいならいいかもしれんけど)。
本を読む時間がとれない上に、本にふれている時間は楽しいがゆえになかなかやめられなくなるから。