野良猫を尊敬した日
穂村 弘
エッセイに定評のある歌人によるエッセイ集。
穂村さんのエッセイは大好きで書籍化されている作品はほとんど読んでるんだけど……。
なんちゅうか、前ほどおもしろくないな……。
いやあ、観察眼の細かさや視点のみみっちさは変わってないし、エッセイとしてまとめるスキルはきっと以前より上がってるんだろうけど。
でも、なんかおもしろくない。ぼくが穂村さんのエッセイに慣れてしまったこともあるし、穂村さんがたくさんエッセイを書いてきてネタが尽きてきたということもあるんだろう。また、穂村さんのエッセイが人気になったことで「穂村さん的なエッセイを書く人」が増えてしまったことも新鮮なおもしろさを感じさせなくなった理由かもしれない。
もしかしたら、穂村さんの年齢の問題もあるのかもしれない。エッセイ中で、穂村さんが自分のことを「五十四歳のおじさん」と書いていておもわずたじろいでしまった。
そうかー五十四歳かー。五十四歳っていったら昔なら定年退職寸前。サザエさんの波平さんが五十四歳だからもう中年すら過ぎようかという年齢だ。
「ぼくはこんなに細かいことを気にしちゃう人間なんですよー。おまけに小心者でだらしなくて他人ができることをうまくできないんですよー」というエッセイも、著者が三十代ぐらいならまだかわいげもあるが、五十四歳が書いているとおもったらおかしさよりもいたたまれなさを感じてしまう。
いやいや、さすがにもう「ぼくってこんなにダメなんですよー」で「しょうがねえやつだな」とおもってもらえる年齢を通り越してるんじゃないでしょうか。年齢だけで言うならば重役クラスなんだもん。
穂村さんのエッセイや短歌評をずっと読んできている身としては、穂村さんが結婚したことやお母さんを亡くしたことなんかも知っているわけで、「ちょっとあなた、いいかげん『だらしないおじさん』ポジションじゃまずいんじゃないですか?」と真顔で注意したくなってしまう。
これが八十歳ぐらいになったらまた「もう、穂村のおじいちゃんったら、またベッドで菓子パン食べて、しょうがないわねえ」になるのかもしれないけどさ。
ということで、自虐ネタを読むのがちょっとつらくなってきた穂村弘エッセイではあるが、細かい心境の揺れをとらえる視点の鋭さは健在だ。
わかるわかる。他人から「あなたの好きそうな〇〇だよね」と言われるのってイヤなものだよね。それが図星であるほど。
自分のことをわかってほしいけど、見透かされたくはないんだよね。「どうせおまえはこういうの好きなんでしょ」って見抜かれたら、相手のほうが自分より一段上にいるような感じがしちゃうもんね。
でも「あなたが好きそうだとおもって」とプレゼントをされるのはすごくうれしいんだよね。自分の好みと一致していればいるほど。
「これ、あなたが好きそうなものだよね」と「あなたが好きそうだとおもって買ってきた」は似ているようで与える印象がぜんぜんちがうんだよなー。ふしぎ。
「追い詰められると奇怪な論理を組み立てる」のはわからなくもない。
めちゃくちゃきつい仕事が続いていたときとか、仕事で強いストレスにさらされたときとか、とんでもないことを考えてしまうものだ。後で冷静になったら「なんでそんなことを考えてたんだろう」とおもうようなことを。
少し前に某中古車販売会社が会社ぐるみでめちゃくちゃな不正に手を染めていたけど、あれを実行した人たちの気持ちもちょっとわかる。ふつうに考えたらいくら上司に命令されたって犯罪なんかしないんだけど、激務が続いたり、めちゃくちゃ怒られたりしてたらふつうじゃなくなるんだよね。そんなときに「わざと車に傷つけて保険金多めに請求しろ。大丈夫だ、誰も損しないから」なんて命じられたら、ほとんどの人は断れないんじゃないかとおもう。
要するに、人間なんてかんたんに狂っちゃうんだよね。だから戦争もするし、官僚みたいな頭のいい人たちが命じられるままにかんたんに不正に手を染めてしまう。
「自分はすぐ狂う」って肝に銘じておかないとね。ぼくは狂ってないけどね。うひひひ。
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