2024年1月18日木曜日

オブラート VS おくすりのめたね

『おくすりのめたね』という商品がある。

 粉薬や錠剤など子どもが飲みにくい薬を、ゼリー状の物質で包むことで飲みやすくするという商品だ。子どもだけでなく大人でも使える。


 最近「『おくすりのめたね』が普及したせいで、オブラートが売れなくなっている」という話を耳にした。

 オブラートは絶滅寸前のようだ。そもそもぼくは薬を飲むのにオブラートを使ったことがない。オブラートを口にするのはボンタンアメを食べるときだけだ。それすら二十年以上食べていない。


 物質としてのオブラートは絶滅寸前だが、比喩の世界ではまだまだ現役だ。

「言いにくいことを遠回しに伝える」ことを指す比喩として「オブラートに包む」という表現が使われる。

 このまま物質としてのオブラートは消滅して「走馬灯」や「拍車」や「超新星」のように“比喩の中だけで生きる言葉”になるのだろうか。

 それとも比喩のほうでも消滅して、『おくすりのめたね』に取って代わられるのだろうか。

 義母に向かって来るなとも言えず、恵は「お忙しいでしょうし、わざわざ来ていただかなくて大丈夫ですよ」とおくすりのめたねに包んで伝えた。




2024年1月16日火曜日

【読書感想文】東野 圭吾『魔力の胎動』 / 超能力は添えるだけ

魔力の胎動

東野 圭吾

内容(e-honより)
成績不振に苦しむスポーツ選手、息子が植物状態になった水難事故から立ち直れない父親、同性愛者への偏見に悩むピアニスト。彼等の悩みを知る鍼灸師・工藤ナユタの前に、物理現象を予測する力を持つ不思議な娘・円華が現れる。挫けかけた人々は彼女の力と助言によって光を取り戻せるか?円華の献身に秘められた本当の目的と、切実な祈りとは。規格外の衝撃ミステリ『ラプラスの魔女』とつながる、あたたかな希望と共感の物語。

 最近、読むのに迷ったら東野圭吾の小説を手に取ることが多い。よりくわしく書くと、あんまりむずかしいものは読みたくない、かといって中身がなさすぎるのもイヤ、読んでから後悔したくない、もっといえば本を選ぶことにエネルギーを消費したくない、つまりあまり気力がないときに選ぶのが東野圭吾作品ということだ。

 東野圭吾なら大ハズレはないよね、だ。


 今作はその期待にちょうど応えてくれる作品だった。ほどほどにおもしろくてほどほどに骨があってほどほどに退屈。

 正直言って、最近の東野圭吾作品には昔ほどの鋭い切れ味はない。うなるようなトリックとか、ミステリ界に風穴を開けてやろうとするような実験的作品はあまり見られない。その代わり、技巧はぐんと増した。ちょっとしたアイデアでも、その洗練された技術で充分読み応えのある作品にしてみせる。丁寧に仕込んだ煮物みたいな味わい。びっくりするほどおいしいわけではないが、毎日食べても飽きが来ないような味。




『魔力の胎動』は、『ラプラスの魔女』の続篇にあたる短篇集だ。

 ある事故をきっかけに「物理的な動きを予見する能力」を身につけた少女がキーマンとなっている。

 個人的には『ラプラスの魔女』は、東野圭吾作品にはめずらしくハズレ作品だった。まず導入が冗長で、さらに設定もいいかげんで「物理的な動きを予見する能力」だったはずが他人将来の行動を予測したり、話術で他人の行動を操ったり、ずるずると最初の設定がくずれてゆく。SFはルールをきちんと守るから成り立つのに、何の説明もなくルール無用の万能能力者になってしまうのだからSFの体をなしていなかった。


 ということで『魔力の胎動』はちょっと警戒しながら読んだのだが、本作はさすがの東野圭吾クオリティ。ちゃんと「物理的な動きを予見する能力」のルールを守っていて、心を読んだり人を操ったりといった反則はしない。

 また「物理的な動きを予見する能力」が重要なカギではあるが、それはあくまで小道具のひとつ。登場人物たちの心情の揺れがメインである。能力頼りの荒唐無稽な小説ではない。

「記録を伸ばすために風の力を借りたいスキージャンプ選手」「ナックルボールを捕れなくなってしまったキャッチャー」「あのときああしていれば、と過去を悔やむ父親」「恋人が死んだのは自殺だったのではないかと自分を責めるピアニスト」などの悩みのために、前述の動きを予見する能力を活かす。

 とはいえ能力で快刀乱麻を断つようにずばっと解決、とはならず、あくまで問題解決のための一助である。最終的に事態を切り開くのは自分自身だ。

 このあたりの塩梅がちょうどいい。超能力で事件を解決してもつまんないもんね。




「そこそこおもしろいものを読みたい」という期待に応えてくれる連作短篇集だったが、最後の『魔力の胎動』 だけは期待外れだった。

『ラプラスの魔女』の前日譚のような話なのだが、はっきり言ってこれだけ読んでもつまらない。『ラプラスの魔女』を読んだのは何年か前なので細かいところはもう忘れちゃったしな。『ラプラスの魔女』とセットで読ませたいのならそっちに収録してくれ。


【関連記事】

【読書感想文】ご都合のよいスタンド能力 / 東野 圭吾『ラプラスの魔女』

【読書感想文】絶妙な設定 / 西澤保彦『瞬間移動死体』



 その他の読書感想文はこちら


2024年1月10日水曜日

【読書感想文】レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』 / 孤立よりもいじめられていることに気づかないふりをするほうがマシ

女の子どうしって、ややこしい!

レイチェル・シモンズ(著)  鈴木 淑美(訳)

内容(e-honより)
突然口をきかなくなる、うわさを流す、悪口を書いたメモをまわす、じろじろ見て笑う…。女の子のいじめは間接的で巧妙なので、外からはわかりにくい。だが、いじめられた経験が心の傷になっている女性は少なくない。なぜ女の子はこんなことをするのか?本書の著者は、女の子独特のいじめを「裏攻撃」と名づけ、その実態を初めて明らかにする。そして、いじめにあったとき、辛い日々をどう乗り越えていけばいいのか、親身にアドバイスしている。いじめられた経験のある女性、いままさにいじめで苦しんでいる女の子やその親、学校関係者必読の全米ベストセラー。

 小学四年生の娘が、人間関係のトラブルに巻き込まれた。

 同じクラスの女の子三人と仲良くなり、何をするにも四人一組だった。だがその中のSという子が「○○を無視しよう」などと言い出し、S以外の三人が順番に無視されるようになった。さらにSがある子の持ち物を隠してその子が泣いたことで、教師の知るところとなった。

 うちの子は積極的に加担していたわけではないようだが、Sに言われるまま無視に協力したりしていたので(娘が無視されることもあったようだ)、親が教師から学校に呼び出される事態となった。

 教師や娘からいろいろ話を聞くかぎり、Sはなかなかの問題児のようだ。他の子の持ち物を盗ったり、しょっちゅう嘘をついたり。さらにいじめが発覚して教師から怒られた後も、教師の前でだけ反省するふりをしているがまったく反省せず、懲りずにいじめていた相手にわざとぶつかったりしているらしい。

 さらにSの母親もなかなかアレな人で、いじめ発覚後に会って話す機会があったのだが、「なんか先生が言ってることおかしいとおもうんですよね。うちの子が嘘をついてると決めつけてて」などと言っていた。子どもなんて嘘をつく生き物だろう、自分の子の言うことを全面的に信じられるほうがおかしいだろ、とおもったのだが「はあ、そうですか」と適当に相づちを打っておいた。子が子なら親も親だ。


 ま、それはよくある話だ。どこにだっておかしなやつはいる。いじめがない学校なんてほとんどないだろう。

 ぼくが理解できないのが、そんなことがあっても娘がSとの付き合いを断ちたがらなかったことだった。聞くと、いじめ発覚後、いじめられた子はもちろん、他の子もSとは距離をとっているようだ。「親からSちゃんと遊ばないように言われたから」とはっきり宣言した子もいるという。

 そこまではしないにしても、ぼくも娘にはSと距離を置いてほしいとおもう。ものを盗んだり、いじめがばれてもすぐにくりかえすような子は、そう簡単に改心しないだろう。今後もトラブルを起こす可能性が高い。

 なのに娘は「みんなが離れていったらSちゃんがひとりになっちゃうから」などと変な優しさを見せていた。いじめや盗みをして孤立するのは自業自得じゃないか、そんなやつに優しくしてもつけあがることはあっても改心することはないぞ、とおもうのだけど。

 ぼくは昔から「嫌なやつがどんなにひどい目にあってもざまあみろとしかおもわない」薄情な人間なので、嫌な目に遭ってもつきあいを断とうとしない娘の気持ちが理解できない。




 ということで2002年にアメリカで刊行されて話題になったという『女の子どうしって、ややこしい!』を読んでみた。数々のインタビューをもとに、女の子同士のいじめのパターンを明らかにした本だ。

 掲載されているのはアメリカのケースばかりだけど、たぶん日本の場合も大きくは変わらないだろう。傾向として、女子のいじめは明らかに男子のそれとは異なる。


 男子のいじめが友だちの外のメンバーに対して向かうのに対し、女子のいじめは仲良しグループ内で起こる。

 男子のいじめは強者が弱者を虐げる構造なのに対し、女子はいじめる子といじめられる子が頻繁に入れ替わる。

 女子のいじめは教師や親の目につきにくく、暴力やはっきりとした暴言を伴わないことも多いので、なかなか明るみに出ない。

 かんたんにいえば、女子のいじめのほうが複雑で巧妙ということだ。ばれにくいし、誰が見ても悪い暴力や暴言ではなく「冷たくする」「仲間に入れない」「気づかなかったふりをする」「ときには優しくする」など、一筋縄ではいかない方法をとる。

 著者はこれらの行動を、男子がよくやるあからさまないじめに対して「裏攻撃」と呼ぶ。

 いまや、もうひとつの沈黙に終止符を打つべきときだ。女の子たちの攻撃という隠れた文化では、いじめは独特で伝染しやすく、人をとことんまで傷つける。男の子の場合とちがい、身体や言葉を使った直接行動はとられない。私たちの社会では、女の子が公然といさかいを起こしてはいけないことになっているので、女の子の攻撃は間接的なかたちをとり、表面に出ない。陰口をきき、のけものにし、噂を流し、中傷する。あらゆる策を弄して、ターゲットに心理的な苦痛を与えるのだ。男の子の場合、いじめの対象は、それほど親しくない知りあいか外部の人間であることが多いが、女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっていると外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる。女の子たちは、攻撃に、拳やナイフでなく、しぐさや人間関係を用いる。ここでは友情が武器だ。相手に一日中沈黙されることにくらべれば、大声で怒鳴られることなどなんでもない。背を向けること以上に、人を打ちのめす反応があるだろうか。

 男子の暴力は、ある程度は許容されることが多い。「弱い者いじめはダメ」「無抵抗の相手を攻撃してはいけない」といったルールはあるが、「強くてまちがっている者に暴力で立ち向かう」「やられたからやりかえす」「誰かを守るために闘う」などはむしろ善しとされることも多い。「男の子はちょっとぐらいやんちゃなほうがいい」という価値観は今も根強く残っている。

 一方で女子の暴力や暴言は許されにくい。「女の子なんだからおしとやかにしなさい」と言う人は今では減ったが、それでも女子の暴力や暴言は男子のそれより厳しくとがめられる。

 その結果、抑圧された女子の攻撃は巧妙で間接的なものとなる。




 女の子のいじめ、親や教師が気づきにくいし、気づいたとしてもやめさせにくい。

 人間関係が武器になるなら、友情そのものも怒りをかきたてる道具となりうる。リッジウッドの六年生がこう説明する。「友だちがいたとしても、どこかに行ってほかの子と友だちになるんです。ただその二人にやきもちをやかせるためにね」。つきあいをやめたり、あるいはもうつきあわないわよと脅したりしなくても、ほのめかすだけでじゅうぶんだ。たとえばグループが一緒にいるとき、ひとりが、ある二人だけに、わざとらしく「ほんと、週末まで待ち遠しいわね!」という。あるいはグループからひとりをちょっと離れたところに連れだして、みなの目の前で内緒話をする。それから輪のなかに戻ってきて、「なんの話?」と訊かれると、決まって「べつに。あなたたちには関係ないことよ」。女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。

 こういういじめには、親や教師が介入しにくい。暴力をふるっていたら教師はすぐにやめさせるが、「あの子と仲良くしなさい!」と交友を強制することはできない(仮に強制したとしても仲間はずれにされていた子は救われないだろう)。友だちに対して秘密を持つな、とも言えない。


 ただ、こういう行動は男子もやる。ぼくもやったことがあるし、やられたこともある。友だちと、わざと別の子の前で「アレな」とか「ほら、例のやつ」などと言ったりするのだ。「教えてくれよ」などと言う子を見て楽しむのだ。底意地の悪い遊びだ。

 おそらく誰にでも経験があるだろう。大人でもやる。符丁をつくったり、自分たちの間だけに通じるあだ名をつけたりして、秘密を共有することで友情を深めることにもつながる。必ずしも悪いことではないのかもしれない。

 でも目の前でやられたほうはほんとに嫌な気になるんだよねえ。著者は「女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。」と書いているが、男の子も傷つく。ただ男子はやられたら「答えてくれるまでしつこく『なんのこと?』と訊きつづける」か「そのグループから離れる」のどちらかを選ぶケースが多いとおもうな。「自分がのけものにされていることを感じながらそのグループにいつづける」はあんまり選ばない気がする。

「ひとりっきりになるぐらいなら、いじめっ子グループに入っていじめられていることに気づいていないフリをするほうがマシ」と考えるのは女子のほうが多そうだ。




 この本を読んでいると、女の子は幼い頃から高度なコミュニケーションをとりかわしているんだなとおもう。いい面もあり、悪い面もあるが。

 暗号のなかには、複数の意味をもつものもある。「私、太ってるの」というよく聞かれる嘆きは、少なくとも三通りに訳せる。ある研究によれば、「私は太っている」という女の子で本当に太っている子はめったにいないそうだ。
 第一に、「私、太ってる」という言葉は、相手を出しぬくための間接的な道具となる。「女子は、たがいに太っているかどうか確認しあいますが、これは一種の競争なんです」と、ある八年生が説明した。「もしやせてる子が自分は太ってるといったら、私はどうなります? それは、相手はやせていない、と遠まわしにいうやり方なんです」。先の研究によれば、やせている子は、そのことをまるで「欠点か何かのように」非難される、ともいう。
 また、「私、太ってる」は、仲間からの肯定的な励ましを求める遠まわしな方法でもある。十三歳のニコルによれば、「ほめてもらいたくて、いうんです」。研究者たちは、「女の子たちが『私は太っている」というのは、他人が自分についてどう思っているかを推しはかるためだ。彼女たちは非常に競争心が強いが、そう見えないようにする」と述べている。
 第三に、「私、太っているから」といえば、「カンペキな子」といわれないですむ。自分のことを「太っていると思っている」という意思表示をしないと、「自分はダイエットをする必要がない、自分に満足している」という意味になってしまう。「いい女の子」は自分を卑下するものだから、相手にいってほしいほめ言葉をからめ手から引きだすのである。

「私、太ってるの」が攻撃にも自慢にも謙遜にも防衛にもなる。それらをいっぺんにおこなう高度なコミュニケーションだ。

 当然ながら、「私、太ってるの」と言われたほうも、「めんどくせえな」とおもっていることはおくびにも出さずにさもびっくりしたような顔で「えっ、ぜんぜんそんなことないじゃん!」と言わなければならないのだ。たいへんだ。

 男が「おれ太ってるんだよね」と言ったら文字通りの意味か冗談かのどっちかしかないし、言われたほうもハッキリと「そやな」か「『そんなことないよ』って言ってほしいんか」と言うだけだ。シンプルというか単純というか。ヒトとサルぐらいの違いがある。ぼくはサルでよかった。




『女の子どうしって、ややこしい!』では、様々な例を挙げて女の子同士の“裏攻撃”が日常茶飯事であることを示した上で、親の対応についても書いている。

 ほかの親たちを怒らせることを恐れるあまり、彼女はホープをじゅうぶんに守ることができず、ホープの苦しみを正当化することになってしまった。私が話を聞いたほとんどの母親たちは、ほかの親の反応を恐れて、行動を起こすのを躊躇していた。子育ての不文律の第一は、育て方について他人にとやかくいわれたくない、ということであり、第二は、他人の子を批判するのは危険、ということだ。子どもの行動を批判されると、親は往々にして自分の育て方が暗に攻撃されたと解釈して、自己防衛に走る。ときには不合理なまでに。

 子どもがいじめられていると知ったとき、特に裏攻撃を受けているとき、親が子どものためにできることはそんなに多くない。

 子どもに「そんな子とは友だちでいるのをやめてください」とか「嫌なことははっきり嫌と言いなさい」なんて言うのは無駄だ。子どもが望んでいることは関係の修復であって決別ではない。いつかは「あの人と離れてよかった」とおもう日が来るがそれは今ではないし、親に言われて気づくものでもない。

 学校やいじめている子の親に言いにいくのも良い結果につながらないことが多い。言って関係が改善することはまずないし、いじめられている子自身がそれを望んでいないことが大半だ。親への信頼をなくすだけ。

 ではどうしたらいいのか。著者は、親が直接できることはほとんどないと主張する。子どもの話をじっくり聞く、自分の体験談を話す(ただし押し付けない)、何かやってほしいことはあれば言ってほしいと伝える、それぐらいだ。しかしそれが大事なのだと著者は説く。

 基本的には子ども自身で立ち向かわなくてはならない。いじめには明確な理由がないことも多いので「いじめている子らがいじめに飽きて他のことに興味を移す」「進級や進学で環境が変わる」ぐらいしか解決方法がなかったりもする。

 それでも、何も知識がなくこんなひどい目に遭っているのは世界中で自分だけとおもうよりも、世の中はこういうもので自分に原因があるわけではないと知っているほうが、ほんのちょっとは生きやすくなるだろう。

 ニュースなどで語られるいじめは暴力やあからさまな嫌がらせのような“わかりやすいいじめ”ばかりだからこそ、見えにくいけどよくある“裏攻撃”について多くの事例を挙げているこの本は力になる。


【関連記事】

【読書感想文】求められるのは真相ではない / 奥田 英朗『沈黙の町で』

【読書感想文】大岡 玲ほか『いじめの時間』 / いじめの楽しさ



 その他の読書感想文はこちら


2024年1月9日火曜日

【読書感想文】山崎 雅弘『未完の敗戦』 / 批判が許されない国

未完の敗戦

山崎 雅弘

内容(e-honより)
コロナ対策、東京五輪強行開催、ハラスメント、長時間労働、低賃金…。なぜ日本ではこんなにも人が粗末に扱われるのか?そんな状況と酷似するのが戦中の日本社会だ。本書では、大日本帝国時代の歴史を追いながら、その思考形態を明らかにし、今もなおその精神文化がはびこっていることを様々な事例を通して検証。敗戦で否定されたはずの当時の精神文化と決別しなければ、一人一人の命が尊重される社会は実現しない。仕方ない、という思い込みとあきらめの思考から脱却するための、ヒントと道筋を提示する書。


 日本は無謀な戦争につっこんでいった大日本帝国時代の総括をまだきちんとできていない。それどころか民主主義を否定し、戦前の時代に近づけようとする輩が跋扈している……と警鐘を鳴らす本。


 書いてる内容自体にはすこぶる共感できるんだけど、さして新しい主張ではないのと、著者の気持ちが強く出すぎていて、新書を読んでいるというより演説を聞いているような気分になる。

 演説って不愉快なんだよね。選挙の街頭演説なんて、主張に賛成だろうと反対だろうと、どっちにしろ気持ち悪い。人前で「おれはこうおもう!おれは正しい!」って唱えてる声が聞こえてくるだけで気分が悪くなる。

 クールな視点で淡々と書くからこそ届くものってあるとおもうんだけどね。




 二〇二一年五月十四日、菅首相は首相官邸での記者会見で、記者から「東京五輪を開催するメリットとデメリットは何か?」と問われて「五輪は世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものだ」という「メリットだけ」を答え、「デメリット」には一切触れませんでした。
 菅首相は、六月二日夜に首相官邸で応じた記者の「ぶら下がり」取材でも、記者からの「東京五輪を開催すべきだという理由をどのように考えるか?」との質問に対し、次のように答えました。
「まさに平和の祭典。一流のアスリートがこの東京に集まってですね、そしてスポーツの力で世界に発信をしていく。さらにさまざまな壁を乗り越える努力をしている。障害者も健常者も、これパラリンピックもやりますから。そういう中で、そうした努力というものをしっかりと世界に向けて発信をしていく。そのための安心安全の対策をしっかり講じた上で、そこはやっていきたい。こういう風に思います」
 まるで、オリンピックという商品を売るセールスマンのような、東京五輪の「良い面」だけを強調する言葉ばかりで、日本の首相として日本国民の命と健康と暮らしを優先順位の第一位にするという責任感は微塵も感じられません。

 首相が国民のことを考えないのは今にはじまったことでないからもう慣れっこになってしまったんだけど(ほんとはそれもよくないんだけど)、良くないのはそれをそのまま垂れ流す報道機関。

 首相が質問に真っ向から答えなかったときは「~と、首相はデメリットを隠した」と伝えなきゃいけないのに。


 戦争中、日本の大手新聞三紙(朝日、毎日、読売)とNHKラジオは、大本営すなわち政府と軍部の戦争指導部による発表の内容を無批判に社会へと伝達し、国民が「敗戦」を受け入れる心境にならないようにする心理的な誘導に加担しました。
 新型コロナ感染症が国内で大流行している最中でも、感染予防よりオリンピックの開催が大事であるかのような、戦争中の戦意高揚スローガンを彷彿とさせる薄気味の悪い政治的アピールの言葉が、日本の総理大臣の口から繰り返し語られ、NHKと大手新聞各紙、民放テレビ各局が、それらの言葉をほとんど無批判に報じて、政府広報のような役割を果たす図式は、戦争中の図式と瓜二つだったと言えます。
 本章で具体的な事例と共に紹介した、新型コロナ感染症流行下でも東京五輪の開催に固執し続けた菅首相と日本政府の姿勢に見られるのは、厳しい現状と「こうあって欲しいという願望」を混同する思考形態の危うさです。

 おかしな人はいつの世にもいるし、私利私欲に走るのは人間としてあたりまえの姿だ。だからこそ定められた手続きを踏まないといけないし、そのプロセスを公開して批判的な意見を集めるのが民主主義国家だ。

 ずるいやりかたでお金儲けをするのが大好きな人が「税金でオリンピック! 税金で万博&カジノ!」と叫ぶこと自体はあたりまえのことで、そいつらを根絶やしにするのは不可能だ(オリンピックや万博にだってメリットがないわけではないし)。

 必要なのは、オリンピックや万博で儲けようという政治家に対してきちんと批判の目を向けること。

 なのだが、本邦では新聞社やテレビ局がオリンピックのスポンサーになっているわけで……。




 先の戦争で、無謀な特攻により多くの兵士が戦死した。ぼくは“無駄死に”だとおもう。特攻兵は悪くない。特攻を考案して強引に推し進めたやつが悪い。

 鴻上尚史『不死身の特攻兵』によると、特攻は人道的でないだけでなく、戦術としても愚策だったそうだ。斜め上からの攻撃だと戦艦に大きなダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうが衝突時のエネルギーが小さい、引き返せないのでタイミングが悪くても無理して攻撃しなければいけない、そして操縦技術を習得した兵士や戦闘機を失うことになる……。どこをとってもダメダメな攻撃だ。ダメダメな攻撃で死んだので特攻死は犬死にだ。

 が、こういうことを書くと文句を言うやつがいる。「国を守るために命を落とした英霊を侮辱する気か!」などとずれたことを言う、論理性のかけらもない人間がいる。

 このように、靖国神社という特殊な施設は、戦前戦中の日本において、軍人が死ぬという「マイナスの出来事」を、「国難に殉じた崇高な犠牲者」という「プラスの価値」へと転化し、教育勅語に基づく教育によって国民に定着した「天皇のための自己犠牲を国民の模範とする風潮」をさらにエスカレートさせる役割を果たしていました。
 こうした精神が膨張すれば、日本軍人が戦争でいくら死んでも「失敗」や「悪いこと」とは見なされなくなります。当時の大日本帝国の戦争指導部は、どれほど多くの軍人を前線や後方で死なせても、靖国神社という施設が存在する限り、無制限に「免責」される。つまり指導部の道義的な責任を問われない仕組みが成立していました。
 死亡した日本軍人が、靖国神社で自動的に「英霊」として顕彰されるなら、その死を招いた原因は追及されません。なぜなら、彼らの死の原因が戦争指導部の「失敗」や「不手際」ということになれば、「英霊」の名誉も傷つく、との考えが成り立つからです。

 戦争の話だけではない。2021年の東京オリンピックのときもやってることは変わらない。

 感染症対策、莫大な費用、汚職にまみれた誘致、やらないほうがいい理由は山ほどあった。けれど「このために何年も努力してきたアスリートが……」「闘病から復帰した女性アスリートの夢が……」と美談らしきものを引っ張り出してきて、政府とマスコミが一丸となって「やるしかない」ムードを作り上げていた。

「ここで降伏したら国のために命を捧げてきた英霊たちの犠牲が無駄になる」の時代とやっていることは変わらない。




 この本で書かれているのは至極まっとうなことで、批判的精神を持ちましょう、批判を認めましょう、ということだ。

 でも批判を許さない風潮は今でも強い。

 たとえば政治について「もっといいやりかたがあるんじゃないか」「こうすればもっとよくなるんじゃないか」とおもうから政権批判するわけだけど、それだけで反射的に「なんでもかんでも反対するな! アカが!」と青筋立てる連中がいる。

「自民党がやるからすべて賛成!」の人と「もっといいやりかたがあるはず」の人ではどっちが真剣に考えているか明らかだとおもうんだけど、後者許すまじの人はすごく多い。

「盲目的に従わないやつは反抗的」って考えは強いんだよね。政治でも、企業でも、学校でも。




 著者が書いていることには概ね同意できるんだけど、読めば読むほど
「でも、こういう本を出しても、ほんとに届いてほしい人には届かないんだよなあ」
という虚しさをずっと感じてしまう。


【関連記事】

【読書感想文】鴻上 尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』 / 死ななかった優秀な特攻兵

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』



 その他の読書感想文はこちら


2024年1月5日金曜日

小ネタ9

クッキングパパ

 漫画『クッキングパパ』の初期の設定に「パパは料理が上手なのに会社では隠している」という設定があった。おいしい料理をつくっても、妻がつくったことにしたり、部下の女性がつくったことにしたりしていた。

 この設定、今読むと意味がわからないかもしれない。「なんで料理ができることを隠さなきゃいけないの?」と。

 連載初期の1980年代後半、特に九州(『クッキングパパ』の舞台は福岡)では、「男が台所に入るなんて恥ずかしい」という価値観がまだまだ強かったから、荒岩一味(主人公)はこそこそ料理をしないといけなかったのだ。だが作中でははっきりとその理由が描かれていない。なぜなら「言わなくてもわかること」だったから。それぐらい「男が料理なんて」という風潮はあたりまえのものだったのだ。今の時代から見ると隔世の感がある。今だったら料理をできることを恥ずかしいとおもう男はほぼいないだろう。

 その時代の変化に一役買ったのが『クッキングパパ』でもある。『クッキングパパ』により価値観が変わり、『クッキングパパ』が時代にあわなくなったのは皮肉なことだ(だから中盤からはパパは堂々と料理をすることになる)。


 美味しんぼ

 もう一翼の有名料理漫画『美味しんぼ』。当時も斬新だったのだろうが今読んでもなかなか斬新だ。料理漫画はその後もたくさん生まれているが、「作ってもないやつがえらそうに料理を語る」ことにおいて『美味しんぼ』の右に出る作品はない。

 つくってもないやつがあれはダメだ、これは不勉強だとえらそうに語るのだ。バブリー!

 カバ夫くんが「おなかへってるのかい。アンパンマンの顔をお食べ」と勝手にいうようなものだ。ちがうか。


生産量全国1位


 徳島県と大分県、ほぼ一緒じゃねーか。

 子どもに「すだちとかぼすって何がちがうの?」と訊かれたけど、「……大きさ?」としか答えられなかった。