2023年10月10日火曜日

管理職の残業は無能の証

 大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』にあった話。

 岡山大学の奥平寛子准教授と私は、子どもの頃夏休みの宿題をいつやっていたかを先延ばし行動の指標にして、それと長時間労働との関係を統計的に調べてみた。そうすると、管理職については、夏休みの宿題を最後のほうにしていた人ほど、週六〇時間以上の長時間労働をしている傾向があることが確認できた。もし、仕事を引き受けすぎて長時間労働をしているのであれば、そういう人たちは所得が高かったり、昇進しているはずであるが、残念ながらそのような傾向は確認できなかった。つまり、管理職の長時間労働の一部は、仕事を先延ばしした結果、勤務時間内に仕事が終わらず、残業をしている可能性が高い。そうだとすれば、残業をしにくい環境にすることで、人々は所定の勤務時間内で仕事をせざるを得ないようになって、生産性も上昇することになる可能性が高い。

 そうかそうか。なんともうれしいデータだ。

 つまり、遅くまで残業している管理職は、人より多く仕事をこなしているわけではなく、単に定時内に仕事を終えられないから遅くまで残っているのだ。つまり管理職の残業は無能の証。

 そりゃそうだ。管理職ともなれば、ある程度自分のペースで業務を進めることができる。仕組みやスケジュールを組むことも管理職の仕事だからだ。にもかかわらずいつまでも仕事を終えられないのは、能力が低いからだろう。

 思い返せば、ぼくが接してきた残業大好き管理職のみなさんもそういうタイプだった。いわゆる「無能な働き者」タイプ。いちばん迷惑な存在だ。


 しかし、世の中には、仕事ができて、かつ仕事が大好きで、長時間労働をものともしない体力があるバケモノみたいな人もごくまれにではあるが存在する。

 ま、そういう人は自分で起業するほうがいいとわかっているので、さっさと会社を辞めたりするんだけどね。


【関連記事】

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民


2023年10月6日金曜日

【読書感想文】山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』 / 「ここじゃないもっといい場所」は無限にある

ここは退屈迎えに来て

山内 マリコ

内容(e-honより)
そばにいても離れていても、私の心はいつも君を呼んでいる―。都会からUターンした30歳、結婚相談所に駆け込む親友同士、売れ残りの男子としぶしぶ寝る23歳、処女喪失に奔走する女子高生…ありふれた地方都市で、どこまでも続く日常を生きる8人の女の子。居場所を求める繊細な心模様を、クールな筆致で鮮やかに描いた心潤う連作小説。


 地方都市の15~30歳くらいの女性の、不満や焦燥感や都会へのあこがれなどを描いた連作短篇集。連作といってもそれぞれ主人公は異なっており、どの話にも「椎名」という男が出てくる点だけでつながっている。




 ぼくは十八歳まで郊外で育って、大学時代は京都市で暮らし、卒業後はまた実家に戻り、三十歳で結婚を機に大阪市に引っ越した。

 だから都市に住む人の気持ちも、郊外に住む人の気持ちも、どっちもわかる。

 両方住んだ上で語るなら、個人的には郊外のほうがずっと好きだ。あまりに不便なところは住みづらそうだが、常に山が見えてて、ちょっと足を伸ばせば自然に近い川や森がある環境のほうが落ち着く(ちなみに京都市は都市だが近くに川や山や森があるのでその点ではいい街だ。ただ気候や交通はひどい)。

 ただ、食事をしたり、遊びに行ったり、文化に触れたりする上では圧倒的に都会のほうが便利で、特にぼくは車の運転が嫌いなので今は徒歩と電車でどこでも行ける都市の生活を満喫している。ちょっと郊外に行くと、車なしで生活できないとまではいわないが、車がないとできることが極端に少なくなるもんね。


 都市も郊外もどっちもそれぞれ良さはあるよね、という考えなので「東京にあこがれる」人の気持ちはどうも理解できない。

 高校の同級生にもいた。こんな街じゃ何にもできない、何かやろうとおもったら東京に行かなくちゃいけない、と語っていた女の子が。

 彼女ははたして高校を卒業して東京に行き、なんとかという劇団に入り、女優としては芽が出ず、会社員と結婚したらしいとSNSで知った。それが東京に行かないとできなかったことなのかどうかは知らない。

 でもまあ、よほど特殊な職業の人を除き(たとえば有名な芸能人になろうとおもったらやっぱり東京に行かないと相当むずかしいだろう)、東京に向かうのは「東京に何かをしにいく人」よりも「ここじゃないどこかに行きたい人」なんじゃないかとおもう。

「ここじゃないどこかに行きたい人」、言い換えれば「どこかに私が輝く場所があるはず」という気持ちってみんな多かれ少なかれ持っているものかもしれないけど、その意識が強い人って生きるのがたいへんだろうな。

 今の私がぱっとしないのは今の状況が悪いんだ、って思考はある意味ラクかもしれないけど、それって終わりがないというか。たぶん東京に行ったってニューヨークに行ったって満たされることはないとおもうんだよね。「ここじゃないもっといい場所」は無限にあるわけだから。ずっと「ここは本来の私の居場所じゃない」と考えるのってしんどそうだ。究極的には「ここじゃない別の人生」を求めるしかなさそうだし。

 ずっと「ここじゃないどこか」を夢見る人生を送るぐらいなら、ぼくは生まれ育った地元で近い人たちと楽しく生きていくマイルドヤンキーでありたい。




この町に暮らす人々はみな善良で、自分の生まれ育った町を心底愛していた。なぜこんなに住みやすい快適な土地を離れて、東京や大阪などのごみごみした都会に若者が流出するのか解せないでいるし、かつて出て行きたいと思ったことがあったとしても、この平和な町でのんびり暮らしているうちに、いつしかその理由をきれいさっぱり忘れてしまうのだった。

 両方に住んでわかるのは、都市にも郊外にもそれぞれ良さはあるが「都市の良さ」のほうがずっとわかりやすいということだ。

 〇〇がある、〇〇が近い、〇〇が多い……。

 他方、郊外の良さは数えあげづらい。「あることの価値」はわかりやすいが、「ないことの価値」は気づきにくい。

 また、郊外は「住み慣れた人には住みやすい」ことが多いが、都市は「住み慣れていない人にも(郊外よりは)住みやすい」ようにできている。

 わかりやすい「都市の良さ」「田舎のイヤさ」を感じている人にとっては刺さる小説かもしれない。

 ぼくはまったく共感できなかったな。ここは退屈、って感じる人はどこに行っても退屈なんじゃないのかなあ。


【関連記事】

【読書感想文】徹頭徹尾閉塞感 / 奥田 英朗『無理』

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄



 その他の読書感想文はこちら


2023年10月5日木曜日

テストステロンと大相撲を結ぶもの

 大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』という本に、こんな話が紹介されていた。

「男性ホルモンであるテストストロンという物質が多く分泌される人ほど、手の人差し指に比べて薬指が長い傾向にある。テストストロンは筋肉量や瞬間的な判断力をもたらすので、優れたスポーツ選手は人差し指よりも薬指が長い傾向にあるはずだ」

という説があった。

 この説を証明するために、スポーツ選手たちの指の長さを測りたい。だが多くのアスリートたちに会って指の長さを測らせてくれというのはかんたんではないし、また現役選手の場合は評価がむずかしい。今は大した選手ではなくてもこれから大成するかもしれないからだ。また、何をもって優れた選手とするかもむずかしい。陸上競技などであれば記録で単純に比べられるが、球技などの場合はひとつの指標で優劣を比べにくい。


 できるだけ多くの選手の、さらにはできれば引退した選手の指の長さを測る手段はないものか……と考えた著者がたどりついた方法がこちら。

 私が思いついたのは、大相撲である。大相撲の力士なら、色紙に手形を押す慣行がある。神社に昔の力士の手形が奉納されていることも多い。そこで、大阪大学大学院の田宮梨絵さんと共同で、力士の手形を集めるプロジェクトをはじめた。東京・両国の国技館にある相撲博物館には力士の手形が収集されている。江戸時代の第四代横綱・谷風の手形からあるということだ。戦後の幕内力士については、原則的に全員の手形があって、平成以降は、十両力士の手形もある。そこで、相撲博物館にお願いして、最高位が十両、前頭下位、関脇、大関、横綱であった力士を選んで、色紙や掛け軸に押された手形の写真を撮らせていただいた。全部で二二〇人分である。そのうち指先と指の付け根が鮮明に移っている手形は約一〇〇枚だったので、そのデータを分析した。
  結果は、予想どおり十両や前頭下位で引退した力士よりも、横綱や大関といった上位に昇進した力士のほうが、平均的には薬指が人差し指より相対的に長く、その差は統計的にも有意であることが明らかになった。瞬間的な判断力を必要とする職種では、テストステロンの量が重要な資質として機能するようだ。
 すでに紹介したように、女性ホルモンが競争を好まないことと関係しているのと同様、男性ホルモンは、競争を好むということとも関係があるかもしれない。


 なるほどなあ。

 たしかに大相撲の力士はしょっちゅう手形を押すから、指の長さを調べる資料には事欠かない。手形なので引退した力士のデータもとれる。

 また、たとえば野球であれば打率、長打率、出塁率、OPS、本塁打数、盗塁数、勝率、防御率、奪三振数、セーブ数、失策率などいろんな指標があるけど、相撲の場合は基本的に勝ち負けだけなので成績もデータとして扱いやすい。

「人差し指と薬指の長さの比」と成績の相関を調べるには、大相撲ほど適した競技もないわけだ。


 おもしろいね。これまで何万枚という力士の手形がとられただろうけど、誰一人それが後世の研究資料になるなんておもってなかっただろうね。

 本の本筋とはあまり関係ないんだけど、こういう逸話を知っておもわずにやりとしてしまうのは読書の楽しみのひとつだ。


【関連記事】

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民


2023年10月4日水曜日

【読書感想文】リチャード・プレストン『ホット・ゾーン ウイルス制圧に命を懸けた人々』 / 狂暴すぎて拡がらないウイルス

ホット・ゾーン

ウイルス制圧に命を懸けた人々

リチャード・プレストン(著) 高見 浩(訳)

内容(e-honより)
1989年、米国の首都ワシントン近郊にあるサルの検疫所をエボラ・ウイルスが襲った。致死率90%、人間の脳や内臓を溶かし「崩壊」に至らしめるエボラ出血熱のパンデミックを阻止すべく、ユーサムリッド(米陸軍伝染病医学研究所)の科学者たちが立ち上がる。感染と隣り合わせの極限状況で、彼らは何を思い、どのように戦ったのか?未曾有のウイルス禍と制圧作戦の全貌を伴いた、世界的ベストセラー。


 いっとき、アフリカで大流行したとして話題になったエボラ出血熱。最近ではあまり話題にならないが(新型コロナウイルスが流行ったからね)、2019年にも流行しているし、いまだ治療法も予防法もわかっていない。いつまた広がっても、そしてアフリカ以外の地域で感染者が出てもおかしくない病気なのだ。

「すごく怖い病気」ということしか知らなかったが、この本を読むと、エボラ出血熱のおそろしさは想像をはるかに上回っていたことがわかる。

 いったい何がモネを殺したのか、彼らにはさっぱりわからなかった。死因の見当がまるでつかない──不可解な死、というほかなかった。モネは検屍のために解剖された。まずわかったのは腎臓が破壊され、肝臓も壊死していたことだった。モネの肝臓は死亡する数日前からすでに機能を停止していたのだ。それは黄色く変色しており、融解した部分もいくつかあった──全体として、死後三日を経た死体の肝臓にそっくりだった。モネは死ぬ前からすでに死体に変わっていたかのようだった。臓器の内層が剝離するのも、死後三日ほど経た死体に通常見られる特徴の一つである。いったい、正確な死因は何だったのだろう? それを断言するのは不可能だった。考えられる原因がたくさんありすぎたからである。モネの体内ではすべてが、ありとあらゆる組織が異常を呈していたのだ。そのどれ一つをとっても致命的だったろうと思われた。血栓、大量出血、プリンのように変質した肝臓、それに血が充満した臓器。

 生きながらにして、内臓を破壊し、溶かしてしまう病気。感染した人はまるでゾンビのような見た目になるという(本物のゾンビは誰も見たことがないけど)。内臓が先に死んでしまうのだから、それも当然だろう。


 ところで、タガメって昆虫知ってる? 田んぼとか小川にいるやつなんだけど。

 こいつの餌のとりかたってのがほんとにおそろしくて、オタマジャクシとかフナとかにしがみついて、口から針みたいなのを刺して消化液を注入するのね。で、獲物の肉とか内臓を溶かして(骨まで溶かすそうだ)、それをちゅうちゅう吸うのだ。ああ、おっそろしい。

 このタガメの捕食方法を知ったのは子どものころだったので身震いするほどおそろしくて、つくづくフナやドジョウに生まれなくてよかったとおもったものだ。生きたまま身体の内部を溶かされる死に方なんて最悪だもの。

 その、フナにとってのタガメに相当するのがエボラウイルスだ。ヒトの身体にとりついて内臓を溶かしてしまう。おまけにタガメとちがってエボラウイルスは目に見えず、どんどん増殖してあっという間にヒトからヒトへと渡り歩く。

 エボラウイルスの感染率は極めて高く、発病した場合の致死率は50%を超えるという(90%を超えたこともあったとか)。




 感染しやすい、感染経路もよくわからない、かかったらとんでもない苦しみとともにほぼ死なせる、とどこをとっても最悪なエボラウイルスだが、これまでのところ、世界中に広がるような流行は見せていない。

 これまで何度も流行したが、暴風雨のように人々を殺した後、しばらくすると消滅してしまう。なぜか。

 エボラ・スーダン・ウイルスがなぜ消滅したのか、考えられる理由はほかにもある。それはあまりにも獰猛すぎたのだ。最初にとりついた宿主を殺すのに急で、ほかの宿主に乗り移る暇がなかったのである。おまけに、このウイルスは空中を飛び移ることはなかった。それはあくまでも血を媒介にして伝染した。そして、出血した犠牲者たちは、多くの人間と接触する間もないうちに死亡したため、ウイルスが新しい宿主に飛び移る機会もあまりなかったのだろう。もし患者たちが咳きこんで、ウイルスを空中に吐き出していたら──その結果はまた違ったものになっていたかもしれない。いずれにせよ、エボラ・スーダンは、火が藁の束をなめ尽くすように中部アフリカの数百の命を焼き殺した。そのうち、炎は中央で燃え尽き、灰の山となって終息した。それは、いままさしくエイズの流行に見られるように、消火不可能な炭鉱の火事さながら、いつまでも地上でいぶりつづける、というようなことにはならなかった。エボラ・スーダンは密林の奥に撤退したのだ。が、そこで死滅したわけではない。未知の宿主の中で何代も循環を繰り返しながら、それは今日まで生きつづけているにちがいない。それは自らの形を変え、別の形態に変身する能力を持っている。いつの日か、それはまた新しい形態で人類の間に潜入してこないとは、だれも断言できない。

 エボラウイルスは狂暴すぎて拡がりにくい。なぜなら感染者がウイルスを別の人間に運ぶ前に死んでしまうから。皮肉なことに。

 その点、数年前に大流行した新型コロナウイルスは、拡大するのにはちょうどよかった。致死率が低く(エボラウイルスに比べるとゼロみたいなもの)、潜伏期間が長く、感染者が別の個体へと運びやすかった。おまけに空気感染する。

 ウイルスからすると「ヒトは生かさず殺さず上手に利用するのがいいぜ」ってな感じなんだろうね。


 ただ、これまでエボラウイルスが世界中に大流行しなかったのはあくまで結果の話であって、今後も流行しないという保証はない。もっと感染力が高くて、空気感染するタイプの新種が出てきて、あっという間に全世界を覆いつくす可能性はある。




 エボラウイルスは、アメリカでも感染拡大しそうになったことがあった。

 研究所で飼われていたサルからエボラウイルスが見つかり、さらにそのサルに触れたり嚙まれたりした研究者に感染したのだ。

 だが彼らは発症せず、感染もそれ以上拡がらなかった。

 レストン・モンキー・ハウスの従業員たちが感染したのは、病状の出ないエボラ・ウイルスだった。なぜこのウイルスは彼らを殺さなかったのだろう? 今日に至るまで、その疑問に明快に答え得る人間はいない。病状の出ないエボラ──彼らのかかったのは、〝エボラ風邪〟とでも言うべきものだった。おそらくは、このウイルスのごく微小な遺伝子コードの相違が、このウイルス粒子中の七つの謎の蛋白質の一つの形態を変えた。それがたぶん、人間に与える効果を劇的に変えて、サルには致命的でも人間にはほとんど無害なウイルスを誕生させたのではあるまいか? いずれにしろ、このウイルス株がサルと人間の相違を知っているのは事実である。そしてもし将来、このウイルスがまた別の方向に突然変異したとしたら……。

 感染拡大しなかったのは、防疫努力もあったが、「運が良かったから」という理由も大きい。ということは、もしも運が悪ければ感染拡大していた可能性もあったわけで……。


 人類はほとんどの病気をある程度コントロールできるようになったとおもってしまいがちだけど、ぜんぜんそんなことないんだよね。このさきどんなに医学が進んでも、永遠に病気には悩まされることだろう。新型コロナウイルス流行のときもおもったけど。

 まあ老人がいつまでも死なない世界もそれはそれで悲惨なので、悪いことばかりではないけどさ。


【関連記事】

【読書感想文】マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク ~人づきあいの経済学~』 / ネットワークが戦争をなくす

【読書感想文】高野 和明『ジェノサイド』



 その他の読書感想文はこちら


2023年10月3日火曜日

7200

多くても千羽までにしとこうぜ……。

千羽でもいらないのに。