2021年12月7日火曜日

【読書感想文】金城 一紀『GO』~日本生まれ日本育ちの外国人~

GO

金城 一紀

内容(e-honより)
広い世界を見るんだ―。僕は“在日朝鮮人”から“在日韓国人”に国籍を変え、民族学校ではなく都内の男子高に入学した。小さな円から脱け出て、『広い世界』へと飛び込む選択をしたのだ。でも、それはなかなか厳しい選択でもあったのだが。ある日、友人の誕生パーティーで一人の女の子と出会った。彼女はとても可愛かった―。感動の青春恋愛小説、待望の新装完全版登場!第123回直木賞受賞作。


 在日朝鮮人から在日韓国人になった少年の話。

 日本で生まれ、日本で育った。両親が朝鮮人(ハワイに旅行に行くために韓国人になった)だったため、在日朝鮮人として育ち、朝鮮学校で学んだ。だが高校進学時に朝鮮学校には行かず日本の普通高校を選択したことで、在日朝鮮人からも日本人からも有形無形の攻撃を加えられる……。




 ぼくの知り合いに、在日韓国人はふたりいる。

 ひとりはぼくのおばさん。伯父(母の兄)が結婚した相手が韓国人だったのだ。韓国旅行中に知り合ったそうだ。結婚して、ずっと日本に住んでいる。
 彼女が日本に来たのは大人になってからだし、結婚するために自分の意志で日本に来たわけだから、いわゆる〝在日韓国人〟とはちょっと違う。

 もうひとりは、ぼくが中学に留学したときに寮で同室だったKさんだ。日本で生まれて日本で育った韓国人。八歳も上の人だったが、気があってよく連れ立って出かけた。

 メールアドレスも聞いたのだが、日本に帰ってすぐに音信不通になった。メールが返ってこなくなったのだ(ぼくだけでなく、別の知人もKさんと連絡がとれなくなったそうだ)。

 なんだよ、あんなに毎晩話したのに、帰国したらシカトかよ。冷たいぜKさん。と、当時はおもったが、今にしておもうと「あれでよかったのかもしれない」となんとなくおもう。


 ぼくは北京の寮でKさんと同室だった。外国人寮だったので、いろんな国の人がいた。ぼくと、在日韓国人のKさんが同室になったのはほんとに偶然だった。なにしろ寮の申し込み書類には、生まれ育った国や話せる言語を書く欄などないのだ。日本人と韓国人を同室にしたら、たまたま韓国人のほうが日本語を話せたというだけだった。

 ぼくからしたら、Kさんが同室だったのはラッキーだった。日本語の通じない外国人と同室になる可能性も高かったのだ。同室の人と十分な意思疎通ができないのは苦労しそうだ。
 ぼくとKさんはお金を出しあって一台の自転車をレンタルし、二人乗りして北京の街をあちこち出かけ、得体の知れないものを食べ、いろんな冗談を言い合った。


 あの北京の夏、ぼくとKさんはまちがいなく友人だった。
 でも、もしぼくがKさんと出会ったのは北京の寮でなかったら。出会ったのがもし日本だったら。
 ぼくは積極的にKさんと親しくなろうとしただろうか。Kさんはぼくに、自分が韓国人であると打ち明けただろうか。

 中国では、日本人のぼくも、在日韓国人のKさんも、外国人だった。外国人同士の連帯感のようなものがたしかにあった。もしぼくらが出会ったのが日本だったら、親しくはならなかったんじゃないだろうか。

 きっとKさんにはそれがわかっていたのだ。だから日本に帰国してからは連絡が途絶えた。Kさんにとってぼくは信用に足る人間ではなかったのだろう。




 ぼくは「誰に対しても差別的な意識を持たずに平等に接したい」とおもっている。これは嘘じゃない。

 でも、こういう気持ちを持っていることこそが、差別意識を持っていることのあらわれだ。ほんとに誰にでもフラットに接する人は、こんなことすら考えないにちがいない。

 そう、ぼくは「在日韓国人だからって他の人とちがう接し方をしない」とおもっているだけで、その根底にはやっぱり線を引いてしまう気持ちを持ってるのだとおもう。まあぼくの場合は外国人だけでなく、日本人に対しても線を引くけど。




 ぼくは差別意識を持っている。
 ただそれを知識や理性で押さえ込んでいる。だからあからさまには表に出さない。でも、やっぱり根底にはある。

 以前、行政から送られてきたアンケートに答えているときにその差別意識に気づかされた。

 そのアンケートは、LGBTに関するものだった。

「同性間での婚姻を認めることについて」という質問には賛成に丸をした。
「同性カップルについて不快感を持ちますか」という質問には「いいえ」に丸をつけた。
「知人がトランスジェンダーだったらどうですか」という質問にも「不快じゃない」に丸をつけた。
 だが、「自分の子どもが同性愛者だったら?」という設問でペンが止まってしまった。正直にいって、それはイヤだ。

 ぼくはリベラル派を自称していて、LGBTも外国人も障害者もみんな平等に扱われるべきとおもっているが、それはあくまで「自分と関わらない範囲で」の話なのだ。
 自分の関係ないところでは誰が何をしようが勝手でしょ、とおもっているが、積極的に関わろうとはおもっていないのだ。

 そう、ぼくは自分では差別主義者とおもっていない差別主義者だったのだ。いちばん恥ずかしいやつだ。




『GO』を読むと、日本で生まれ育った日本人として、自分がいかに有利な立場に置かれていたのかに気づかされる。


 僕は新しい煙草に火をつけ、深く吸って吐き出したあとに、言った。
「俺、これまで差別されてもぜんぜん平気だったんですよね。差別する奴なんてたいていなに言ったって分からない奴だから、ぶん殴っちゃえばよくて、喧嘩だったら負けない自信があったから、ぜんぜん平気だったんですよね。多分、これからも、そういった奴らに差別されるなら、ぜんぜん平気だと思うんですよ」
 僕はまた煙草の煙を吸って、吐いた。
「でも、彼女に会ってからずっと差別が恐かったんです。そんなの初めてでした。俺、これまで本当に大切な日本人と出会ったことがなかったんですよね。それも、めちゃくちゃ好みの女の子となんて。だから、そもそもどんな風につきあったらいいかもよく分からなくて、それに、もし自分の素性を打ち明けて嫌われたら、なんて思っちゃったから、ずっと打ち明けられなかったんです。彼女は差別するような女じゃない、なんて思いながらも。でも、結局は彼女のこと信じてなかったんですよね……。俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら、寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対に分かりやすくなるじゃないですか……」
「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを《在日》だなんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。《在日》って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」


 日本で暮らす上では、〝外国人〟というだけで大きなハンデを背負っている。指紋の提出を義務付けられたり、外国人登録証明書なるものを携帯しなければならなかったり、就職や結婚や転居にも制約がかかる。

 それでもまあ、自分の意志で日本に来た外国人なら「自分で選んだ道でしょ」という言い分も通るが、戦時中に強制連行されてきた外国人や、その二世・三世にいたってはまったくもって自分の意志で外国人になったわけではない。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を話していても外国人登録証明書を携帯しないと罰を受ける。

 そんな生活、想像したこともなかった。


 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだときも同じことをおもった。女性であるというだけで、いかに生きづらさを感じているか。そして男性のほうは、いかに特権を無意識に享受しているか。




 在日韓国人がどうとか、差別感情がどうとかだけでなく、単純に小説としておもしろかった。スピード感があって。村上龍の青春小説のようだった。

 しかし気に入らなかったのが、ヒロイン・桜井の造形。なーんか、あまりに理想的な女性じゃない? 物語を前に進めるための都合のいいキャラクターって感じだったな。


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2021年12月6日月曜日

読書感想文の反論

 ブログに読書感想文を書いている。

 絶賛する文章を書くこともあれば、徹頭徹尾批判で終わることもある。
 入試小論文なら肯定的な意見と否定的な意見を半々ぐらいで入れたほうがいいのだろうが、ぼくが書いているのは感想文なので知ったこっちゃない。

 まあよほどひどい作品でないかぎりはいい点も見つけて書くようにはしているが、それでも肯定:否定=1:9になるものもあるし、0:10になることもある。

 まあぼくが書いているのは書評ではなく感想文だからね。自分のためだけに書いているのでつまらないものはつまらないと書かせてください。


 書いた読書感想文は、Twitterに投稿している。
 もちろんTwitterに全文書くことはできないので、感想文の要約を数十字で書いてブログへのURLリンクといっしょに投稿する。


 投稿したツイートに対して、著者本人からリアクションされることがある。きっとエゴサーチをしているのであろう。
 こっちが肯定的な感想文を書いたときは、きっと著者本人だってうれしいだろう。「いいね!」やリツイートをしてもらう。ぼくも「このハッピーな感想が著者に届いた!」とうれしい。

 一方、「ひどい本だった」と書いたときに著者からリアクションをもらうことはほとんどない。
 たいていの人は、エゴサーチをして否定的な感想文を見つけても、無視するか、そっとミュートやブロックにするぐらいだろう。

 めったにないことだが、こないだ著者本人(らしきアカウント)から反論意見がきた。


「貴殿は私の著書の出来が悪いと書いているが、具体的な例も挙げずにそんなことを書くのは卑怯だ。正しく読んでいないにちがいない。批判するのであればきちんと読んだ上で書くべきだ」
的なことが書いてあった(もっと直接的な言葉だったが)。


 ふむ。たしかに読まずに批判したり、具体的な例を挙げずにあの本はダメだと書くのは卑怯かもしれない。

 だが、ぼくは 最初から最後まで読み、具体的な例を挙げてその本の悪口を書いた のである。

 ブログ内で何箇所かを引用し、その文章に対してこれは差別意識丸出しの罵詈雑言であるから単なるエッセイとして垂れ流すのならともかく客観的な批評であるかのように書く姿勢は好かん、とこう書いたのだった。

 だがそのすべてを1ツイートに記載することはもちろんできないから、ツイートには「この本で書かれているのは批評ではなくただの悪口」とだけ書いたのだ。


 おそらく反論を寄せてきた著者(らしきアカウント)は、そのツイートだけを見て、リンク先のブログ記事を読むことなく
「具体的な例も挙げずに誹るのは卑怯だ。正しく読んでいないのではないか。批判するのであればきちんと読んだ上で書くべきだ」
と書いてきたのであろう。

 見出ししか読まない人から、「きちんと読んだ上で批評しろ」と叱られる。


 ううむ。
 なんちゅうか、人間っていいなとおもえる出来事でしたね(テキトー)。


2021年12月3日金曜日

予約が嫌いだ

 予約が嫌いだ。

 予約をするとものすごく脳のリソースをとられる。
 ○月○日○時にあのお店を予約したからその前後に他の予定を入れちゃいけない、どうしても外せない用が入ったら早めにキャンセルの電話を入れなくちゃいけない、○時に着くためには○時に家を出なくちゃならない、何かあるかもしれないからそれより30分は早めに出た方がいい、それまでに事故とか急病とかになったらキャンセルの連絡ができないかもしれない、そしたらお店に迷惑をかけてしまう、事故にも病気にも遭わないようにこの1週間はつつましく生きなくてはならない。
 そんな「かもしれない運転」を強いられる。しんどい。


 ぼくが10分カットの床屋を利用するのは、予約が嫌いだからだ。あと安いから。
 10分カットは、実はさして早くない。休日に行くと30分以上待たされることもある。だったら美容院を予約して、行ってすぐ切ってもらうのと変わらない。
 でも10分カットは予約しなくていい。予約して1週間「かもしれない運転」に苦しめられることをおもえば、1時間待つぐらいぜんぜんたいしたことじゃない。

 いっとき腰が痛くて整体に行ってたけど、毎回予約をしなくちゃいけないのがつらかった。腰の痛みよりも予約の痛みのほうが大きいぐらいだ。なんだ予約の痛みって。

 歯医者や整骨院に行くと、治療を複数回に分けてすぐに次回予約をさせようとする。よく知らないけど、保険点数を稼ぐための事情とかがあるんだろうか。ああいやだいやだ。3時間かけてもいいから1回で済ませてくれ。


 ホテルの予約なんてぞっとする。
 美容院や歯医者ならせいぜい30分か1時間ぐらいのものだが、ホテルを予約したら部屋をまるまる一室、一両日も空けてくれるのだ。ひゃあ、申し訳ない。ぜったいにキャンセルできないじゃないか。

 とはいえホテルを予約せずに旅に出る勇気はぼくにはない。
 ぼくが「旅行に行きたい」とおもいながらほとんど旅に出ないのは、予約が嫌だからだ。

「いつか行きます。明日かもしれませんし、十年後かもしれません。いつ行っても泊まれるようにしておいてください」
っていう予約ができたらいいのにな。そんな、ささやかすぎる願い。


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2021年12月2日木曜日

【読書感想文】さくらももこ『たいのおかしら』 ~自分をよく見せない文章~

たいのおかしら

さくらももこ

内容(e-honより)
「こんなにおもしろい本があったのか!」と小学生からお年寄りまでを笑いの渦に巻き込んだ爆笑エッセイの金字塔!!著者が日常で体験した出来事に父ヒロシや母・姉など、いまやお馴染みの家族も登場し、愉快で楽しい笑いが満載の一冊です。「巻末お楽しみ対談」ではもう一度、全身が笑いのツボと化します。描き下ろしカラーイラストつき。


 ご存知、『ちびまる子ちゃん』作者によるエッセイ。

 小学二年生の娘もそろそろこういうの楽しめるかなー、『ちびまる子ちゃん』好きだしなーとおもって買ったものの、「さすがにこれは二年生がひとりで読むにはまだ早すぎるわ」とおもった。漢字にルビがふってないし、前提となる知識が必要な話も多いしね。

 ということでぼくが読んだ。

 



 二十年ぐらい前に『さくらももこ編集長 富士山』という雑誌を買ったことがある。さくらももこさんのエッセイを読むのはそのとき以来だ(『ちびまる子ちゃん』の単行本にあるおまけページは除く)。

『さくらももこ編集長 富士山』にはエッセイが何篇か載っていたのだが、それがことごとくつまらなかった。
 えっ、あのおもしろいエッセイ漫画を描く人がこんなにつまらない文章を書くの、と驚いたぐらい。

 なので「さくらももこのエッセイ=つまらない」という認識を二十年近く持っていたのだが、今読んでみるとちゃんとおもしろい。
『富士山』のときだけがつまらなかったのだろうか。疲れていたのかな。


 グッピーを死滅させた話とかおっかない小杉のババアの話とか、それほど大したことは起こらないのにおもわず笑ってしまう。

 特に、グッピーを死滅させた話なんて、書きようによっちゃめちゃくちゃ後味の悪い話なのに、それを軽妙なエッセイに仕上げるのだから大した腕だ。


 ぼくは小学生のとき、事故でかわいがっていた文章を死なせてしまった。でもその話は家族以外誰にも言ったことがないし、書いたこともない。これからも心に秘めたままだとおもう。なぜなら、つらすぎて誰にも言えないから。
 上手に笑い話にでもしたほうが供養になるのかもしれないが、今もって吐きだせないままだ。三十年近くたった今でもずっと心の中でもやもやしている。




 おもしろいエッセイを書く才能というのは、うまい文章を書く能力やいい小説を書く力とはまた違う。
 どちらかといえば、文才よりも生き様によるものだとおもう。


 十五年ぐらい前に、mixiやらFacebookといったSNSが流行った。それまでにもホームページを開設したり、ブログを作ったりする人はいたが、SNSはそれらとは一線を画していた。それは「特に書きたいことがあるわけでもない人がネット上に文章を上げるようになった」ことだ。

 ホームページやブログをわざわざ開設する人は、なにかしら世に向けて発信したいものを持っている人だった。ところがmixiやFacebookは「誘われたから」ぐらいの消極的なユーザーを大量に招き入れた。「こういうのあんまり好きじゃないんだけど、誘われたのに無碍にするのも悪いから」ぐらいの人が大勢いた。

 そして「誘われたから」SNSアカウントを作ったユーザーも、「せっかくだから」ぐらいの気持ちで日記を書いて投稿した。
 その中に、驚くほどおもしろい文章を書く人がいた。

 ぼくの知人に、おもしろい文章を書く人がふたりいた。
 ひとりは、高校時代の友人Nくん。もうひとりは実の姉。
 彼らに共通しているのは、ぜんぜん本を読まないこと。そしてオンラインでの活動にあまり興味がないこと。これまでホームページもブログも(少なくともぼくが知る限りでは)やってこなかった。
 ぼくの姉なんて小説やノンフィクションはおろか漫画すらほとんど読まない人間で、機械にもとんと疎くて携帯ではメールしかしないおばあちゃんのような人間だったのに。

 Nくんと姉の書く文章はおもしろかった。自分の失敗談を淡々とつづっているだけなのに、おもわず笑ってしまうものだった。語彙が豊富なわけでも、構成がうまいわけでも、エッジの利いた表現をするわけでもない。学校の作文みたいな文章だ。
 テーマも新奇なものではない。身近な出来事をつづっているだけだ。
 なのにおもしろい。

 なぜ彼らの文章はおもしろいのか。
 ぜんぜんおもしろくないその他大勢の文章との違いは何なのか。

 ぼくは考え、そして気づいた。
 彼らは、まったく自分をよく見せようとしていないのだ。

「こんなにめずらしい体験してるんやで」
「こんなにすごい人と知り合いなんやで」
「こんなに見事な文章書けるんやで」
「こんなに鋭い着眼点持ってるんやで」

 そういう気持ちが微塵もないのだ。あるのかもしれないが、読んでいる側にはまったく伝わってこない。

 ほら、Facebookの文章って自慢話が氾濫してるじゃない。失敗談かな? とおもってもじつは失敗談に見せかけた自慢話だったりするわけじゃない。それって読む側にはすぐわかるじゃない。ああ、こいつ自分をよく見せるために書いてるな、と(ことわっておくが非難しているわけではなくそれがふつうだ)。
 Nの文章も、姉の文章も、自慢の要素がひとつもなかった。


 意外や意外、こんなにおもしろい文章を書く人がいたのか。SNSは彼らの意外な文才を発掘してくれた。すばらしい。

 とおもいながらNと姉の投稿をチェックしていたのだが、Nも姉もぜんぜん投稿をしてくれない。まさに三日坊主。ふたりとも、二、三回投稿しただけでまったく投稿しなくなった。たぶんログインすらしていないのだろう。

 よく考えたら当然の話で「自分をよく見せたいとおもってない人」には書く動機がないのだ。金にもならないのに、自分をよく見せたいとおもっているわけでもないのに、わざわざ時間と頭を使って文章を書く動機がない。

 だから「自分をよく見せたいとおもってない人」はSNSもすぐに飽きてしまう。SNSを続けるのは、何かを発信して自分をアピールしたい人ばかりなのだ。悲しいぜ。

 二十年ブログをやっている自己顕示欲の塊であるぼくが言うなって話だけど。


 ふだん目にするエッセイってさ、「文章書きたいです!」って人が書いたものばかりじゃない。あたりまえだけど。
 でも「いやいや私は文章なんて書きたくないです。身の周りのことを書くなんて恥ずかしいし、書けません」って人をむりやり拉致監禁してエッセイを書かせたら、そのうちの何パーセントかはめちゃくちゃおもしろい文章を書くんじゃないかとおもうんだよね。それか「助けて助けて助けて……」っていう地獄のメッセージのどっちか。


 前置きが長くなったが、さくらももこという人は、表現を生業にする人でありながら「自分をよく見せてやろう」が強くない人だとおもう。いや、もちろんそんなことはないんだろうけど、この人のエッセイからは「自分をよく見せてやろう」がほとんど感じられない。
 まるで「頼まれたから書きました。ほんとは書きたくないんだけど」なんて気持ちで書いたんじゃないか。そんな気さえしてくる。




『ちびまる子ちゃん』の読者にはおなじみの、父ヒロシ(本物)の話。

 私も三歳半になり、やっとひとりで便所に入れるようになった。しかし、当時の我が家のくみ取り便所は幼児がひとりで入るのが危険であったため、必ず誰か大人が監視する事になっていた。
 私が用を足している時、ヒロシはふざけて便所の電気を消してしまった。三歳の私の恐怖は、とてもここに書ききれるものではない。大絶叫を発し、小便の途中でパンッを上げ、慌てて立ちあがったとたんに片足が便壺の中にはまってしまった。
 私の悲鳴を聞きつけた母がものすごい速さでとんできて、ぼっ立って呆然としているヒロシを押しのけて私を救出してくれた。
 ヒロシは母に叱られた。ものすごく叱られた。私はヒロシなんてこの際徹底的に叱られるべきだと思っていたので、わざとダイナミックな泣き声を放ち、
「おとうさんがァ、わざとやった」などと稚拙な言語で責め立ててやった。
 ヒロシは、ウンともスンとも言わずに、ただウロウロして私と母の周りに佇んでいた。母は、私の汚れた片足を、ヒロシの古いパンツでふいていた。そして「これ、あんたのパンツだけど、この子の足ふいたら捨てるからねっ。バチだよっ」と怒鳴った。くだらないいたずらをしたために、ヒロシは自らのパンツを一枚失ったのである。

 ああ、父ヒロシだなあ。漫画のまんまのキャラクターだ。どっちも同じ人物をモデルにしてるんだからあたりまえなんだけど。

 だめな父親だなあ、とおもうけど、自分が父親になった今、父ヒロシの気持ちもちょっとわかる。ぼくも娘にちょっかいをかけてしまう。

 娘の鼻をつまんでみたり、まじめな質問をされているのにふざけて答えたりして、娘に叱られる。ささいないたずらでも娘はむきになって怒るので、それがおもしろくてついついふざけてしまう。

 こんなことやってたら娘が成長したらまったく相手にされなくなるだろうとわかっているのに、それでもやってしまう。自分が子どものとき、嫌だった父親になってしまう。ああ、こうやってだめな父親は再生産されてゆくんだなあ。




 巻末に脚本家の三谷幸喜さんとの対談が載っているのだけど、笑ってしまったやりとり。

さくら よく犬は飼い主に似るって言いますけど……。
三谷  それはあるかもしれない。僕も妻も人見知りが激しくて、妻は世間的にはオキャンなイメージがありますけど、普段はとってもひっこみ思案。「とび」もそういうところありますね。妻が犬と散歩してると両方とも、なるべく皆と目を合わさないようにして道の隅っこを、うつむいて目立たないように歩いてますから。おしっこする時も、実に控え目にやってますよ。
さくら 奥さんが?
三谷  犬が、です。


 これは天然なのか狙ったものなのか……。そりゃ訊くまでもなく小林聡美さん(当時の三谷さんの妻)は控え目にやるでしょ。

 三谷幸喜脚本のコメディみたいなやりとりだな。


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2021年12月1日水曜日

おいしくいただけない時代

 かつては、たとえば「芸能人が大食いに挑戦!」的なテレビ番組では、出演者が食事を残したときには 「この後スタッフがおいしくいただきました」というテロップが出てきた。

 ぼくはEテレばかり観ているので知らないんだけど、たぶん今はなくなったんじゃないかな。

 だってコロナ禍においては「他人が残したものを口にする」なんて、「食べ物を粗末にする」以上の大罪だもの。


 かといって「このごはんはこの後手を付けずに廃棄しました」と書くわけにもいかない。

「一度はギブアップした出演者が後から食べました」だと、演出的によくなさそうだ。「なーんだ、まだ食えたんじゃん」となってしまう。


 今はどうしてるんだろう。大食い番組自体がなくなったんだろうか。

 それとも、大食い番組であっても、小分けにして出すようにしたんだろうか。

「超巨大ラーメンに挑戦!」という番組だけど、ファミレスで幼児のために出してくれるようなちっちゃい丼によそってから挑戦者に出すとか。わんこそばスタイル。

 これなら、残しても 「この後スタッフがおいしくいただきました」と言える。おおもとの巨大ラーメン自体には箸をつけていないから。


 しかしテレビは視覚的なメディアだから、それじゃあつまらないだろうな。

「5kgの超巨大ラーメンに挑む!」って言いながらちっちゃい丼でラーメンをすすっている映像じゃサマにならないもんな。


 どうするのがいいのかね。

「この後豚のエサにして豚がおいしくいただきました。ついでにその豚もスタッフがおいしくいただきました」とかどうかな。

 それでもやっぱり「豚にラーメンみたいな味の濃いものを食べさせるなんて!」という苦情がきたりするのかな。

「このラーメンは豚の健康にも配慮したものです」って書かなきゃいけなくなるな。

 だったらもう最初っから、出演者がラーメンすすっているときに「これは豚のエサです」とテロップ出すほうが早いね。