2021年11月17日水曜日

いちぶんがく その9

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「なんで、途中で殺すの」

(「新潮45」編集部編『凶悪 〜ある死刑囚の告発〜 』より)




何年かぶりにあげた悲鳴をひじきに捧げる。

(川嶋 佳子(シソンヌじろう)『甘いお酒でうがい』より)




ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。

(小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』より)




気持ち悪いことである。

(小谷野 敦『本当に偉いのか』より)




「わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」

(伊藤計劃『ハーモニー』より)




誓って言うが、女性のお尻をつねったのは、後にも先にもそのときだけである。

(H・F・セイント『透明人間の告白』より)




要するに「何かを撮る」という行為は、「何かを消してしまう」行為と同じことなのだ。

(森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』より)




自分でいうのもなんだが、僕はアジアのためになるようなことはなにひとつしていない。

(下川 裕治『歩くアジア』より)




それとも全然知らない人の鼻をつまんでしまったとか?

(今村 夏子『むらさきのスカートの女』より)




「女の子に嫌われると、先生みたいに寂しい男になっちゃうぞ」

(井上 真偽『ベーシックインカム』より)




 その他のいちぶんがく


2021年11月16日火曜日

八歳と二歳との平日夜

  平日夜の過ごし方。

 オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。



 

 家に帰ると、たまーに子どもが玄関まで迎えにきてくれる。でもほとんど迎えに来ない。

 長女は漫画を読んだりパズルをしたりしている。次女はテレビで『いないいないばあっ!』か『ミッフィーとおともだち』の録画を観ている。
 ちょっと寂しい。

 資源ごみや古紙回収の日は、マンションの集積所までごみを持っていく。
 玄関で「ごみ出しにいくけど行く人ー!」と言うと、二回に一回ぐらいは娘たちのどちらかまたは両方がついてくる。ごみを出しにいくだけなんだけど。ついてきてくれるとうれしい。

 ちょっとごみを出しに行くだけでも、長女はマスクをする。何も言われなくても「外出時はマスク」が「外出するときは靴を履く」と同じくらいあたりまえになっているのだ。ちょっとあわれな気もする。ナウシカが腐海に行くときはあたりまえのようにマスクをつけるようなもので、「マスクをつけずに外出できたことなんて今の子どもたちは知らないんだな……」という気になる。八歳なんで知らないわけじゃないのだが(しかし二歳のほうは「外出時にはマスクをつけるもの」とおもっている可能性が高い)。

 夕食はテレビを観ながら。妻が「ごはんのときはテレビを消してほしい」と言っていたのだが(そして子どもが赤ちゃんのときは守られていたのだが)いつのまにかなしくずし的に視聴があたりまえになっている。

 ぼくは「食事しながらテレビを観たい派」だ。なぜなら「観たい番組がある」「でもテレビ視聴に専念するのは苦痛」からだ。
 要するに「ながら見」をしたいのだが、テレビを観ながらできることはかぎられている。
 うちはキッチンに向かうとテレビに背を向けることになるので、料理や洗い物をしながらテレビを観ることができない。
 読書のような頭を使うことをしながらテレビを観ることはできない。
 結局、アイロンをかけているときか食事時ぐらいしかないのだ。だから食事時はテレビを観る。

 とはいえチャンネル権は長女が握ることが多い。
 録画しておいた『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』や『名探偵コナン』を観ながら食べることが多い。あとAmazon Primeの『名探偵コナン』『ODD TAXI』『かげきしょうじょ!』などのアニメも観ていた。

 ぼくが好きな『座王』は土曜日の朝に観る。『水曜日のダウンタウン』は妻から食事時に観ることを禁じられている。すごく下品な内容のときがあるからだ。だから土曜か日曜の朝にアイロンをかけながら観る。

 ぼくが好きな『ダーウィンが来た』は夕食時に観る。『ブラタモリ』は長女が「つまんない」と言うので、『昆虫すごいぜ』はやはり長女が「虫嫌い!」と言うのでなかなか観る機会がない。

 あと長女はたまに特番でやる『逃走中』と『はじめてのおつかい』が大好きだ。
『はじめてのおつかい』なんて親にならないと良さがわからないんじゃないかとおもうのだが、長女は食い入るように観ている。あとバラエティー番組に関心を示さない二歳の次女も『はじめてのおつかい』だけはじっと観ている。自分と歳の変わらない子が奮闘しているのを見るとなにかしら感じ入るところがあるのだろう。

 食後は子どもたちの歯を磨く。今ではふたりともなかなかやらない。ぼくもめんどくさい。自分の歯を磨くのでも面倒なのにさらに二人分の歯を磨くなんて。さっさと片付けようとガシガシ磨くと「痛い!」と言われるので、一本一本丁寧に磨く。ああめんどくさい。歯科医にならなくてよかった。

 風呂を沸かし、娘二人といっしょに入る。次女の頭と身体を洗ってやる。頭にお湯をかけられると嫌がる。長女が小さいときはなるべく顔にお湯がかからないようにそうっとやっていたけど、次女のときはそんなことは気にせずバッシャーとかける。どんどん育児が適当になっていることをこういうときにも実感する。おかげで次女のほうがたくましく育っている。

 湯船に漬かり、長女の宿題を手伝う。「足し算や引き算をおうちの人に聞いてもらう」という宿題が毎日出るのだ。ぼくが問題を出し、長女が答える。はじめは「8+5は?」「9+6は?」とかやってたのだが、問題を考えるのもたいへんだし、自分が出した問題をおぼえておかなくてはならない(しかも次女の相手をしながら)。だから最近は「0から6ずつ足していって」とか「70から7ずつ引いていって」とかやってる。これなら問題を考えなくていいし、途中を聞いてなくて指定した数の倍数かどうかを確かめればわかるので楽ちんだ。おまけにまだ習っていない九九の練習にもなる。ナイスアイディアだ。

 風呂から出て、次女の身体を拭いてやる。次女の中でタスクの役割があって、身体を拭くのはおとうさんで、保湿クリームを塗ったりパジャマを着せたりするのはおかあさんだ。だから裸でおかあさんのもとへ走っていく。

 二歳児が裸でうろうろしているのはいいとして、八歳児も裸で歩きまわることがある。一応女の子なので裸を人前にさらしてはいけないんだよと教えなきゃいけないのだが(男の子でもだけど)これがなかなかむずかしい。「小さい女の子の裸を見たがる変な人がいるんだよ」とか教えたほうがいいんだろうか。せちがらいけど、いつかは知らなきゃいけないことだもんな。まだ教えてない。

 風呂から上がると、娘たちといっしょにようかい体操第一をする。うちの家では今になってようかい体操が流行っているのだ。八年ぐらい遅い。
 ようかい体操は、意外とちゃんとした体操になっている。ラジオ体操と同じくらいの身体のあちこちが動く。やるじゃないか。さすが振り付け・ラッキィ池田。

 早く布団に入れたときは、娘たちに本を読んでやる。五歳半離れていると、なかなか同じ本では楽しめない。

 長女は、『ドラえもん』を一通り読み、『21エモン』と『パーマン』も全巻読み、今は『モジャ公』を読んでいる。藤子・F・不二雄制覇も近い。

 次女のお気に入りは『ノンタン』『こぐまちゃん』『ワニワニ』などのシリーズだ。定番。おなじみのキャラクターが出てくる絵本が好きなようだ。

 絵本を読みおわると灯りを消す。ぼくの左が長女、右が次女。

 長女はぼくと手をつなぎたがる。手をつないでやると三分ぐらいで寝る。とんでもなく寝つきがいい(寝起きは悪い)。
 ぼくがトイレに行って、帰ってきたらもう寝ていることもある。手をつなぐ間もない。

 次女は保育園でお昼寝をしているのでなかなか寝ない。ときどき「お話して」と言ってくるので、今日の出来事(朝起きてバナナとヨーグルトを食べて……という日記のような内容)を話してやる。でもぜんぜん寝ない。
 しかし次女は自立心が強いのでほうっておいても平気だ。真っ暗な部屋で家族みんなが寝ていてもひとりで何かしゃべっている。ぼくは電子書籍を読む。気づくと次女も寝ている。ぼくも寝る。


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六歳と一歳との平日夜


2021年11月15日月曜日

【読書感想文】吉永 南央『オリーブ』

オリーブ

吉永 南央

内容(e-honより)
オリーブの木を買ってきた翌日、突然、消えた妻。跡を辿ろうとする夫は、2人の婚姻届すら提出されていなかった事実を知る。彼女は一体何者だったのか?そして、彼女の目的とは?表題作の「オリーブ」をはじめ、「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズの著者による、「大人の嘘」をモチーフにしたサスペンス作品集。


 あらゆる痕跡を残して失踪した妻、夫の入院中に夫の旧友と関係を持っているらしい妻、不倫相手の彫刻を自作のものとして発表する男、行方不明になった統合失調症の妹……。

 どの短篇も「親しい人の秘密」がテーマとなっている。

 最終的にぜんぶハートフルな結末に着地するのが、個人的には好きじゃなかったな。そういうのもあっていいけど、ぜんぶがそうだと「どうせ次も悲劇的な事実は出てこないんでしょ」という気になってしまう。


 好きだったのは、ラストの短篇『欠けた月の夜に』。

 優しい夫と賢明な息子、そして気の合う友人たちに恵まれ、幸せに暮らしていた主人公。
 ところがある日、夫が突然死してしまう。毎日帰りが遅く、休日出勤もしていたので、過労死ではないかと疑うが、会社側の対応は冷たいもの。会社相手に訴訟の準備をしていたところ、「夫は毎日サボっていて会社で居場所がなかった」との告発状が届く。調べると、夫の意外な一面が出てきて……。

 という話。

 結婚して十年たってわかるのは、配偶者のことなんてちっともわからないということ。
 特に子どもを育てていると関心は子どものことばかりで、配偶者のことなんて考えている余裕がなくなる。
「子どもがしんどそう」の前では、「妻の機嫌が悪そうだ」なんて一顧だにする余地ないよ、じっさい。もちろん向こうもそうだろう。

 家にいる間に妻が何をしているのかなんてまったく把握していないし、妻が「今は子どもが小さいから我慢してるけど、あと十年したらこののん気に鼻をほじっている男とは離婚しよう」と考えていたとしても、ぼくにはわからない。

 子どものとき、家族は一体だとおもっていた。父と母はお互いすべてをわかりあっているものだとおもっていた。

 でも、夫婦なんてしょせんは他人なんだよなあ。どこまでいっても。
 ただこれは必ずしも諦観ではなく「他人だからこそそれなりの距離感を保っていれば長期間つきあっていける」という認識をぼくはもっている。
 夫婦が親子やきょうだいのような距離感になったら、数日で離婚だよ。


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【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

【読書感想文】湊 かなえ『夜行観覧車』



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2021年11月12日金曜日

【読書感想文】ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』

ファスト&スロー

あなたの意思はどのように決まるか?

ダニエル・カーネマン(著)  村井 章子(訳)

内容(e-honより)
整理整頓好きの青年が図書館司書である確率は高い?30ドルを確実にもらうか、80%の確率で45ドルの方がよいか?はたしてあたなは合理的に正しい判断を行なっているか、本書の設問はそれを意識するきっかけとなる。人が判断エラーに陥るパターンや理由を、行動経済学・認知心理学的実験で徹底解明。心理学者にしてノーベル経済学賞受賞の著者が、幸福の感じ方から投資家・起業家の心理までわかりやすく伝える。

 人間の思考・行動がいかに不合理であるかを〝ふたつのシステム〟をキーワードに解き明かした本。

 人が判断をするときは、「俊敏だけどまちがいやすいシステム1」と「合理的だけど怠惰で疲れやすいシステム2」のふたつのシステムを使っていると著者は説く。


 たとえば

ボールとバットを1つずつ買いました。合計で110ドル、バットはボールより100ドル高い値段でした。バットはいくら?

という問題を出されたとする。
 このとき、多くの人は「100ドル」とおもってしまう。
 だが、よく考えればこれは間違いだとわかる。答えは105ドルだ。かんたんな二元一次方程式の問題だが、多くの人がまちがえてしまう。

 これは、連立方程式が得意なシステム2よりも、直感で答えを探すシステム1のほうが素早く発動するからだ。

システム2が他のことにかかり切りのときは、私たちはほとんど何でも信じてしまう、ということだ。
 システム1はだまされやすく、信じたがるバイアスを備えている。疑ってかかり、信じないと判断するのはシステム2の仕事だが、しかしシステム2はときに忙しく、だいたいは怠けている。実際、疲れているときやうんざりしているときは、人間は根拠のない説得的なメッセージ(たとえばコマーシャル)に影響されやすくなる、というデータもある。

 システム1は往々にして間違える。システム2も間違いを犯すが、システム1は頻繁に間違える。

 だったらシステム2だけを使えばいいじゃないかとおもうかもしれないが、そうもいかない。システム2は賢いけれど、怠けものだ。

「正解だったら1万円あげます。不正解なら1万円の罰金です」といった条件でもないかぎりは、システム2は出動しようとしないのだ。




 さらにシステム2はすぐに疲れてしまう。ことあるごとに機能不全に陥る。

 いくつかの数字を覚えておくように、と命じられているときにデザートを見せられると、カロリーの高そうなケーキを選ぶ確率が上がったそうだ。

 システム2が忙しいと「カロリーの高いケーキは控えないと」といった判断ができなくなるのだ。

 認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている。頭の中で数字を覚えて繰り返していることに忙殺されて、システム2が行動ににらみを利かせられなくなるためだ。もちろん、認知的負荷だけがセルフコントロール低下の原因ではない。睡眠不足や少々の飲酒も同様の効果をもたらす。朝型の人のセルフコントロールは、夜になるとゆるむ。夜型の人は逆になる。今やっていることがうまくいくだろうかと心配しすぎると、実際に出来が悪くなることがある。これは、余計な心配で短期記憶に負荷をかけるからだ。結論は、はっきりしている。セルフコントロールには注意と努力が必要だということである。だからこそ、思考や行動のコントロールがシステム2の仕事になっているのである。

 専門家であっても、システム2が怠けることからは逃れられない。

 仮釈放申請審査官が仮釈放申請を許可するかどうかを時間帯別に調べたところ、審査員の休憩後は仮釈放の申請が通りやすくなり、休憩時間前には却下されやすくなったそうだ。
 仮釈放は基本的に却下されるため、疲労や空腹によって「基本通り」という判断が下されやすくなったわけだ。仮釈放を許可するには相応の理由を考える必要があるため、システム2の働きが弱っているときは許可されにくいわけだ。

 他人の人生を大きく変える決断であっても、空腹や疲労という単純な要因によって左右されてしまう。人間の判断がいかに当てにならないかを教えてくれる。

 そういやぼくも大学時代に模試採点のアルバイトをしたことがあるが、途中から採点基準が変わってしまうことがあった。午前中は○にしていたけど、夕方は×にしてしまう、というように。あれもシステム2の働きが弱っていたためなんだろう。

 カルト宗教やマルチ商法などが合宿や長時間セミナーを開催するが、あれも疲れさせてシステム2を働かせないためなんだな。




 システム2は空腹や疲労にも弱いが、逆に幸福にも弱い。

 しあわせな気分のときは直感が冴え(つまりシステム1の働きが優先され)、論理エラーを犯しやすくなるそうだ。

しあわせな気分のときは、システム2のコントロールがゆるむ。ご機嫌だと直感が冴え、創造性が一段と発揮される一方で、警戒心が薄れ、論理エラーを犯しやすくなる。ここでもまた、単純接触効果と同じように、生物学的な感知能力との密接なつながりが見受けられる。上機嫌なのは、ものごとがおおむねうまくいっていて、周囲の状況も安全で、警戒心を解いても大丈夫だからである。逆に不機嫌なのは、ものごとがうまくいっておらず、何か不穏な兆候があり、警戒が必要だからである。つまり認知容易性は、しあせな気分の原因でもあれば結果でもあると言うことができる。

 被験者にひっかけ問題を出題したとき、小さいフォント・かすれた印刷の問題用紙を渡したほうが正答率が高かったそうだ。

 認知負担を感じる → システム2が機能 → 注意深くなった というわけ。
 ストレスを感じるのも悪いことばかりではない。


 社会って基本的に「人間は合理的な生き物で、判断は首尾一貫している」という前提で設計されているけど、ぜんぜんそんなことないんだよね。

 天気がいいとか朝食を食べすぎたとかの些細なことで、判断基準は揺らいでしまう。


 他にも、人間の判断がいかに不正確かを示す調査結果が次々に報告される。

 学校補助金の増額案に賛成か反対かの投票。投票所が学校の場合、そうでない場合より賛成率が高くなった。

 ベテラン裁判官に、万引きで逮捕された女性の調書を読んだ上で、サイコロを振ってもらう。サイコロには仕掛けがしてあり、3か9しか出ない。刑期(ヶ月)は出た目より長くすべきか短くすべきか答える。最後に、刑期を決める。
 すると、9が出たグループの裁判官が提示した刑期は平均8カ月、3が出たグループは平均5ヶ月だった。サイコロの目を意識しただけで、判決がそれに引っ張られてしまうのだ。
(ということは、裁判の供述で「半年」「1年」などのフレーズを多用すれば、刑期が短くなりやすいということだな。これはぼくが被告人になったときのためにおぼえておこう)




 システム1/システム2の話とはあまり関係がないが、おもしろかったのは
「極端なケースは大きい標本より小さい標本に多くみられる」
という話。

 たとえば、全国の公立小学校で一斉学力テストをしたとする。
 すると、成績上位10校に入ったのは、生徒数の少ない学校ばかりだった。
 なるほど、少人数学級は成績を向上させるのだな……と考えるのは早計だ。
 逆に成績下位10校を見てみると、こちらも生徒数の少ない学校ばかり。

 なぜなのか。

 たとえば、サイコロを2個振って出目の平均が1になることは、さほどめずらしくない。1/36の確率だ。
 だがサイコロを100個振って平均1になることはまずありえない。
 100個振れば平均は3.5に近い値になるはずだ。

 つまり、標本の母数が少ないほど極端な値になりやすいというわけ。
 特に学力テストなんかだと、上位は話題になるけど下位は話題になりにくいので、より「少人数クラスは成績を引き上げる」という単純な結論につながりやすい。

 これは知っておくと、いろんなことにだまされずに済みそうだ。




 人間がいかに誤った判断を下すかを知っておくと、致命的な失敗を犯すのを防いでくれる……かもしれない。

「確実に5万円もらえるか、50%の確率で10万円もらえる」 なら前者を選ぶ人が多く、
「確実に5万円払うか、50%の確率で1円も払わなくて済むか」なら後者のギャンブルを選ぶ人が多い。ほんとはどちらも同じ期待値なのに。
 人間は損をしたくない生き物なのだ。
「1万円の損と0円の損」は大きい違いだが、それに比べると「5万円の損と4万円の損」はさほど大きな違いではない。

 だから八方ふさがりになった人ほど一か八かの賭けに出る。100万円持っている人が全財産を競馬に賭けることはめったにないが、200万円の借金がある人が100万円手にすればギャンブルで一発逆転を狙ってしまう。

 株の売買も同じこと。株の勝率を上げることは「なるべく売買をしないこと」だそうだ。売買を頻繁におこなう人ほど、負けたくないあまり、短期的な損失を免れようとすると無謀な挑戦をおこなってしまう。手数料も取られるしね。


 そしてプロジェクトが失敗してもなかなか手を引けない。100億の損を取り返そうとして、200億の損失を招いてしまう。

 リスクを伴うプロジェクトの結果を予測するときに、意思決定者はあっけなく計画の錯誤を犯す。錯誤にとらわれると、利益、コスト、確率を合理的に勘案せず、非現実的な楽観主義に基づいて決定を下すことになる。利益や恩恵を過大評価してコストを過小評価し、成功のシナリオばかり思い描いて、ミスや計算ちがいの可能性は見落とす。その結果、客観的に見れば予算内あるいは納期内に収まりそうもないプロジェクト、予想収益を達成できそうもないプロジェクト、それどころか完成もおぼつかないプロジェクトに邁進することになってしまう。

 そうですよねえ。多額の税金をドブに捨ててくれた東京オリンピックの実行委員会さん。




 わくわくするほどおもしろいが、最終的にはこの手の本にありがちな「おもしろいけどくどい。もうわかったから」という感想になった。はじめのほうは刺激的だったが、ほぼ同じことのくりかえしなので後半はすっかり飽きてしまった。

 上下巻あるけど、この半分の分量でよかったな。


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【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』



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2021年11月11日木曜日

感情の出力が強くない

 二歳の姪(妻の妹の子)が遊びに来た。

 ただでさえ小さい子を連れての遠出はたいへんなのにコロナの影響もあり、ぼくが会うのは二回目。前回会ったとき向こうは0歳だったので伯父のことなどおぼえていないだろう。だからほとんど初対面のようなものだ。

 話しかけるが、おしだまっている。まあそりゃそうだ。ここでにこやかに応える子のほうがめずらしい。
 はじめての場所ではじめて見るおっさん。緊張するのも当然だ。

 だがぼくは子どもの相手には慣れている。
 決して踏みこみすぎない距離感を保ったまま、おもちゃを見せたり、絵本を読んだり、絵を描いたり。
 だが姪はぜんぜんしゃべらない。表情も変わらない。泣いたり逃げたりするわけではないので嫌われてはいないとおもうのだが、距離を詰めることができない。

 あんまり好かれてないのかなーとおもっていたら、姪のおかあさん(義妹)いわく
「これでもけっこうテンション高いほう」
だという。

 あまり感情の出力が強くなくて、わかりやすく笑ったりしゃべったりしない子なのだそうだ。だが入力のほうは鋭敏で、積極的に他人と関わりはしないが他人がやっていることをしっかりおぼえていて、夜になってから真似をしたりするらしい。

 なるほど。今は出力を抑えて入力をしている時間なのね。

 ぼくも思春期の頃はあまり感情を表に出さずに「感情が読めない」「何考えてるかわからない」などと言われたので、その気持ちはわかるぞ。


 姪がうちにあったアンパンマンのおもちゃ(ガチャガチャで入手したもの)を気に入ったので、近くのショッピングモールのガチャガチャコーナーにいっしょにいく。

 姪にガチャガチャをやってもらうと、ドキンちゃんのぬいぐるみが出た。
 姪の表情は……ぼくには読めない。まったくの無表情に見える。
 だがおかあさんいわく、ドキンちゃんは好きなキャラらしい。たぶん喜んでいるだろう、とのこと。さすがはおかあさん。微妙な変化を感じとれるらしい。

 後から聞いたら、その晩はドキンちゃんのぬいぐるみを抱いて寝たらしい。
 大喜びじゃないか! ああよかった。