2020年9月23日水曜日

【読書感想文】調査報道が“マスゴミ”を救う / 清水 潔『騙されてたまるか』

騙されてたまるか

調査報道の裏側

清水 潔

内容(e-honより)
国家に、警察に、マスコミに、もうこれ以上騙されてたまるか―。桶川ストーカー殺人事件では、警察よりも先に犯人に辿り着き、足利事件では、冤罪と“真犯人”の可能性を示唆。調査報道で社会を大きく動かしてきた一匹狼の事件記者が、“真実”に迫るプロセスを初めて明かす。白熱の逃亡犯追跡、執念のハイジャック取材…凄絶な現場でつかんだ、“真偽”を見極める力とは?報道の原点を問う、記者人生の集大成。

清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 はどちらもめちゃくちゃすごい本だ。

どちらも、日本の事件ものノンフィクション・トップ10にはまちがいなく入るであろう。

すごすぎて「これは嘘なんじゃないか」とおもうぐらい。

だってにわかには信じられないもの。
『殺人犯はそこにいる』 では、警察が逮捕した連続殺人事件の容疑者が無罪であることを証明し、『桶川ストーカー殺人事件』では警察よりも早く犯人を捜しあてる。
しかも、週刊誌の記者が。

ミステリ小説だったら「リアリティがない。週刊誌の記者がそんなことできるはずがない」っておもうレベルだ。

でもそれを本当にやってのけたのが清水潔さん。
ぼくは『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』 、そして清水さんと元裁判官の瀬木 比呂志の対談である『裁判所の正体』を読み、足元が揺らぐような感覚をおぼえた。


警察も裁判所も善良な市民の味方であるとはかぎらないのだと知った。

たまにはミスをしたり、ろくでもない警察官もいるかもしれない。
だが全体として見れば警察や裁判所は善良な市民の味方のはずだ。正しく生きていれば味方でいてくれるはずだ。
そうおもっていた。

だが、警察も裁判所も、善良な市民の味方をしないどころかときには敵になることもあるのだと知った。

それもミスや誤解のせいではなく。
保身のために、無実の市民の命や権利を奪うこともあるのだと。



『騙されてたまるか』では、先述の足利事件(冤罪を証明した事件)や桶川ストーカー事件をはじめ、在日外国人の犯罪や北朝鮮拉致問題を追った事件など、清水さんがこれまでにおこなってきた取材の経緯が紹介されている。

日本で殺人を犯しながらそのまま出国しブラジルに帰った犯人を追った取材。

「とぼけないでください。浜松のレストランでのことを聞きたいんです」
 男は、私に背を向けると沈黙のまま歩き出した。
「日本に戻って警察に出頭するつもりはないか」
 何を問いかけても、無視を決め込み足早に離れていく。
 すべてのシーンはカメラに記録された。奴の仲間のジーンズの尻ポケットには、小型拳銃の形が浮き上がっていたのを後になって気づいた。
 車に戻って男を追跡する。ベンタナは車の窓を開けて、大声で何やら問いかけるが、男は動じない。途中でタバコに火をつけて、やがて建物の扉の中に逃げ込んだ。通訳が焦ったように騒ぎ出した。「あそこは警察だ、早く逃げましょう」。なぜこちらが逃げなければならないのかと訝る私に通訳は、「ここは民主警察です。市民に雇われた警察官は、我々を逮捕拘束する可能性があります。早く空港に戻らないと検問が始まるかもしれない」と説明した。
 納得できないが、この国の警察からすれば、海外メディアの取材などより自国民の保護が優先されるのだろう。私は取材テープを抜くと靴の中に隠してその場を離れた。

相手は拳銃所持の殺人犯一味、こちらは丸腰。おまけに場所はブラジル、相手のテリトリー。

そこに乗りこんでいって「警察に出頭するつもりはないか」と問う。

なんておっそろしい状況だ。
これを書いている以上清水さんが無事だったことはわかっているのだが、それでも読んでいるだけで脂汗が出てくる。

事件記者ってここまでやるのか……。

すばらしいのは、うまくいった事件だけでなく、無駄骨を追った事件のことも書いていることだ。
入手した情報をもとに三億円事件の犯人を追ったもののあれこれ調べたらでまかせだとわかったとか、他殺としかおもえない事件を追ったら結果的に自殺だったとか……。

答えがわかっていない中で取材するんだから、当然ながらうまくいかないこともある。
というかうまくいかないことのほうが多いだろう。

それでも追いかける、追いかけてだめだとわかったら潔く手を引く。
なかなかできることじゃないよね。



「記者」と一口に言うけど、『騙されてたまるか』を読むと、記者にも二種類いることがわかる。

清水潔さんのような「調査報道」をする記者と、警察・検察や企業や官庁の発表をニュースにする「発表報道」をする記者と。

当然ながら発表報道のほうが圧倒的に楽だ。
多少の要約は入るにせよ、基本的に右から左に流すだけでいいのだから。

この「発表報道」が増えているらしい。

 確かに最近は、会見後の質問も何だか妙である。 「ここまでで何かご質問があれば、どうぞ」などと、発表者に問われると、 「すみません、さっきの○○の部分がよく聞き取れなかんですけど……」  内容についての芯を食った鋭い質問や矛盾の追及ではなく、ひたすらテキストの完成が優先されていくのだ。無理もない。話の内容を高速ブラインドタッチで「トリテキ」しながら、その内容を完全に理解、把握した上で、裏や矛盾について鋭い質問をするなど、どだい不可能な話であろう。少なくとも私には無理である。

「トリテキ」とは「テキストをとる」ことだそうだ。
要するに聞いた話を文字起こしする作業。

今なら自動でやってくれるツールがある(しかもけっこうな精度を誇る)。
はっきり言って記者がやらなくていい。

悪名高い「記者クラブ」では、機械がやってくれる仕事をせっせと記者がやっているのだ。(ところで記者クラブって当事者以外に「必要だ」って言ってる人がいないよね)


少し前にこんなことを書いた。

「発表報道」の重要性は今後どんどん下がってゆく。

にもかかわらず我々が目にするニュースは圧倒的に「発表報道」のほうが多い。
官邸の発表が「文書は廃棄した。だが我々は嘘はついていない。だけどこれ以上調査する気はない」みたいな誰が見てもウソとしかおもえないものでも、NHKなんかはそのまま流している。

テレビでの芸能人の発言をそのまま文字にしていっちょあがり、みたいな記事も多い(記事って呼べるのか?)。

新聞社などの報道機関が権力の監視役として民主主義の砦となるか、それともこのまま“マスゴミ”として朽ち果ててゆくのかは、この先どれだけ調査報道をするかにかかってるんだろうな。


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2020年9月21日月曜日

ツイートまとめ 2020年1月



図鑑

途方に暮れた

一人焼肉

子ども好き

望まない

サンタさん

過去の遺物

横綱の品格



兄貴

年齢不詳

伏せ字

死人に群がる

2020年9月18日金曜日

【読書感想文】我々は論理を欲しない / 香西 秀信『論より詭弁』

論より詭弁

反論理的思考のすすめ

香西 秀信

内容(e-honより)
著者は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その著者が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手と人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

ぼくは理屈っぽい。

特に小学生のときは口ばっかり達者な生意気なガキだった。
「弁護士になれば口が立つのを活かせるから弁護士になる!」とおもっていた。
弁護士にならなくてよかった。府知事と市長をやって無駄に敵をつくっちゃう迷惑な弁護士になるとこだった。ああよかった。


子どものころ、よく親や教師から「それはへりくつだ」と言われた。

じっさいへりくつのときもある。言いながら自分でも「これは重箱の隅をつついてるだけだな」とおもうときもあった。

だが、ほんとに「あなたの言うことは筋が通らないんじゃないですか」というつもりでおこなった指摘が、教師から「へりくつだ」と言われたこともある。
教師が議論から逃げるための口実にされたのだ。

理不尽なものを感じた。
「じゃあどこがおかしいんですか」と訊いても「おまえのはへりくつだから相手にしない」と言われた。
「おまえの言うことはへりくつだ」と一方的に断罪し、どこがどう論理的に誤っていることは一切説明しないのだ。

教室では教師のほうが圧倒的に強い。
その教師が児童に議論に負けるなんてあってはならない。だから分が悪いとおもったら「おまえのはへりくつだ」と言って終わりにする。
とるにたらない理屈だからへりくつだし、へりくつだから取り合わなくていい。無敵の循環論法だ。

ぼくは学んだ。
世の中では理屈よりも立場のほうが強い、と。



『論より詭弁』にも書いている。

 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。

そうなのだ。論理的に正しい考えができることは、世の中ではほとんど役に立たない。

社長が言っていることが論理的にむちゃくちゃでも、ほとんどの従業員は指摘できない。

権力は論理よりも法律よりも強い。じゃなきゃブラックな職場がこんなにはびこるはずがない。


『論より詭弁』では、様々な「論理的に正しいこと」を取り上げ、その論理的な正しさは無駄だと喝破する。

たとえば「人に訴える議論」。
歩きタバコをしている人から「歩きタバコをしたらダメじゃないか」と注意されたとする。
たいていの人は「おまえだってしてんじゃねえか」と言うだろう。
論理学の世界では、これは詭弁だとされる。
「おまえが歩きタバコをしている」ことと、「おれが歩きタバコをしてもいいかどうか」には何の関係もないからだ。

これに対して、著者はこう語る。

 私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。相手もまた咥え煙草で歩いていたという事実は、私が咥え煙草で道を歩いていた事実を帳消しにはしない。したがって、私に期待される論理的行動は、恥じ入って慌てて煙草を消し、それを携帯用の灰皿に収めることだ。そうしてこそ、初めてこちらも、その男に対して、「あなたも、咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意し返すことができるのである。
 いかにももっともらしい説明だが、惜しむらくは、誰もこの忠告に従って論理的に振る舞おうとはしないであろうことだ。おそらく、よほどの変わり者を除いたほとんどの人が、先の私のように「それじゃあ、あんたはなぜ煙草を咥えて歩いているんだ?」「あんたにそんなことを言う資格があるのか」と言い返すだろう。それでこそ、まともな人間の言動というものだ。
 だが、こうした言動は、論理的に考えると、発話内容の是非と発話行為の適・不適とを混同しているということになる。「咥え煙草で道を歩いてはいけません」という発話内容の問題を、咥え煙草で道を歩いている人間にそんな発話をなす資格があるかという発話行為の問題にすり替えているというのだ。「人に訴える議論」(特に「お前も同じ」型)が、虚偽論で、ignoratio elenchi(イグノーラーツィオー・エーレンキ、ラテン語で「論点の無視、すり替え」)という項目に分類されてきたのもそのゆえである。
 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

そう、じっさいには我々は論理の正しさに従って動かない。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で動く。

立場を無視して論理的な正しさを考えるのは「空気抵抗も摩擦もない世界での物理学」みたいなもので、考えるのが無意味とまではいわないが、その物理学で設計した飛行機は空を飛ばない。



そもそも詭弁と正しい論調は、明確に分けられるものではないと筆者は言う。

 だが、事実と意見を区別することは、実はそれほど簡単なことではない。例えば、次の二つの文章を見てみよう。

 a Kは大学教授だ。
 b Kは優秀な大学教授だ。

 事実と意見を区別せよと主張する人は、おそらくaが事実で、bが意見だと言うのだろう。確かに、「K」が「大学教授」かどうかは、事実として検証可能である。これは、「K」が「優秀」かどうかのように、個人の主観で判断が分かれるものとは明らかに違うもののような気がする。が、ここで疑問なのは、「Kは大学教授だ」が事実であるとしても、それを発言する人は、なぜそんなことをわざわざ言おうとしたのかということだ。
 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択し、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。

そう、「おれは事実を述べただけだよ。何が問題なの?」という人がいるが、たいてい問題になるのは「事実」だ。

「彼は逮捕されたことがある」「彼は離婚したらしいよ。元奥さんは彼に暴力を振るわれたと言っている」というのが事実であっても、それを聞けばたいていの人は「彼」の信頼性を大きく落とすだろう。
仮に彼の逮捕が冤罪だったり、彼の元妻が嘘をついていたとしても。



結局、自分に都合のいい意見は「巧みな論理」で、反対派の意見は「詭弁」になってしまうんだよね。

 こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。

なんだかずいぶん身も蓋もない意見だけど、論理的に正しく生きていてもあんまり得しないってのは事実だよね。

その真実にもっと早く気づいていれば、もっと楽に生きていけたんだけどなあ。


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2020年9月17日木曜日

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』

子どもの貧困

日本の不公平を考える

阿部 彩 

内容(e-honより)
健康、学力、そして将来…。大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。OECD諸国の中で第二位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。

「日本は一億総中流の国」だとおもっているなら、その認識は三十年以上前のものだから早く捨てたほうがいい。

日本は格差社会だ。
他の先進国と比べて、圧倒的に格差が大きい。

子どもも例外ではない。
貧困世帯を、全世帯の中央値未満の所得の世帯と定義した場合、日本の子どもの七人に一人は貧困世帯にいるそうだ。

『子どもの貧困』は2008年の刊行なのでデータはやや古いが、残念ながらその後も貧困率は改善していない。
むしろ日本全体が没落するにともなって格差はますます大きくなっている。

今は貧しくたって、将来のために金を使っていたらまだ希望がある。
だが日本政府は子どもに使う金をまっさきに削っている。

これじゃ没落するのもあたりまえ。おまけに希望もない。泣ける。



誰だって貧しいのはいやだが、特に子どもの貧困の問題は公的な支援を必要とするところだ。

なぜなら子どもの貧困はほぼ百パーセント本人の責任ではないし、貧困家庭に生まれ育った子どもが将来も貧困にあえぐ可能性は高い。

一発逆転、立身出世は、不可能ではないがたいへんむずかしい。

貧しくてもがんばればなんとかなる、という人もいるかもしれないが
「将来の成功のために目先の欲求をはねのけて努力する」
というのもまた、裕福な家庭のほうが育まれやすい能力なのだ。


親の学歴や職業など、生まれながらの「不利」を背負った子は、やはり「不利」な学歴や職業に就くことが多い。

いわば「不利」の再生産。
この傾向は近年ますます強くなっている。
 このような結果は、学歴だけではなく、職業階層の継承においても報告されている。佐藤俊樹東京大学准教授は、特に社会の上層の職業階層においては、親子間の継承の度合いが、「大正世代」「戦中派」「昭和ヒトケタ世代」と落ちていくが、その後の「団塊の世代」で反転して上昇していると分析する(佐藤2000)。学歴でみても、職業階層でみても、世代間継承は常に存在し、いったんはその関連性は弱まってきていたものの、また、近年、強くなってきているのである。

「生まれは関係なく本人の努力次第でなんとかなる」傾向にあったのははるか昔の話で、団塊の世代以降は「どの家に生まれるか」が本人の成功を大きく左右することになっている。

「不利」が再生産されるのにはいろんな要因がある。
遺伝、親の指導力不足、住居環境が悪い、健康状態が悪い、ストレスが大きい、地域の環境、付き合う友だちの問題……。

だが、その中でも最大の要因は単に「金がない」ことにありそうだ。

つまり、同じ地域において、たくさんの被験者を募り、その中から無作為に半数を選ぶ。そして、その対象グループには毎月〇〇ドルといった所得保障を行い、残りの半数のコントロール・グループには何も行わない。そして、数か月から数年後に二つのグループの子どもたちの成績、学歴達成などがどのように変化したかを見るのである。もし、対象グループの子どもたちだけが、成績が上がり、コントロール・グループでは上がらなければ、所得のみの影響、つまり所得効果が存在するということになる。
 このような手法を使った研究のほぼ一致した結果は、所得効果は存在するということである。たとえば、クラーク-カフマンらは、0歳から一五歳までの子どもを対象とした一四の実験プログラムの対象グループとコントロール・グループを比較している(Clark-Kauffman et al.2003)。プログラムは、単純な現金給付のものから、現金給付に加えて(親の)就労支援プログラムを行うもの、就労支援プログラムのみが提供されるものなど、さまざまである。その結果、潤沢な現金給付のプログラムであれば〇~五歳児の成長(プログラムに参加してから二年から五年の間に測定される学力テストや教師による評価)にプラスの影響を与えるものの、現金給付がないプログラム(サービスのみのプログラム)や現金給付が充分な額でないプログラムでは影響が見られなかったと報告している。つまり、所得の上昇だけによって、子どもの学力は向上したのである。

金さえ出せばある程度解決する。だったら出せばいい。

子どもに一時的な金を出すことで彼らが生涯にわたって貧困から抜けだせるのであれば、国全体の所得も増える。

海老で鯛を釣るようなものだ。ぜったいにやったほうがいい。
じっさい、多くの国ではやっている。

だが日本ではやらない。
未来の日本を支える子どもよりも老人に金をまわすほうを選ぶから。

 まず最初に、家族政策の総額の規模から見ていこう。国立社会保障・人口問題研究所によると、日本の「家族関連の社会支出」は、GDP(国内総生産)の〇・七五%であり、スウェーデン三・五四%、フランス三・〇二%、イギリス二・九三%などに比べると非常に少ない。ちなみに、ここで「家族関連の社会支出」として計上されているのは、児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当(障がい児に月五万円ほどの給付がなされる制度)、健康保険などからの出産育児一時金、雇用保険からの育児休業給付、それに、保育所などの就学前保育制度、児童養護施設などの児童福祉サービスである(保育所については、二〇〇〇年より地方自治体の一般財源とされたため含まれない)。
 第7章にて詳しく説明するように、アメリカ、イギリスなど多くの国は、社会支出としてではなく、税制の一環として、給付を伴う優遇税制措置をとっているが、これらはこの統計には含まれていない。図3-1の中では、アメリカが唯一日本より比率が小さい国であるが、そのアメリカでさえも、税制からの給付を加えると、日本より高い比率の公費を「家族政策」に注ぎ込んでいると考えられる。
 次に、教育にかける支出についても国際比較してみよう。日本の教育への公的支出は、GDPの三・四%であり、ここでも日本は他の先進諸国に比べ少ない。スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国はGDPの五~七%を教育につぎ込んでおり、アメリカでさえも四・五%である。教育の部門別に見ても、日本は初等・中等教育でも最低の二・六%であり、高等教育においても〇・五%と、最低のレベルである。家族関連の支出と同様に、子どもの割合などを勘案して計算し直すと、この差は縮まるが、それでも日本は他の先進諸国に比べて少ない。

日本政府が子どもにかける金は、他の国に比べて圧倒的に少ない。

ちなみにこれは高齢者の比率が高いから、というわけでもない。
日本と同程度の高齢化率国でも、もっと多くの金を教育に投じている。

「米百俵」なんて言葉が力を持っていたのもはるか昔。

経済的に衰えただけでなく、品性まで貧しい国になってしまったのだ。悲しい。



まあ「日本政府は子どものいる貧困世帯を見捨てている」ぐらいならまだマシだよ(ぜんぜんよくないけど)。

現実はもっとひどい。

 図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。

わかります?

日本だけ、税金や社会保険を徴収・分配した後のほうが、子どもの貧困率が高くなっているのだ。

つまり、日本政府は子どものいる貧困家庭からむしりとって、そうでない世帯にお金を移しているのだ。

なんとグロテスクなグラフだ。
おっそろしい。

基本的に政府に対して不信感を持っているぼくでも、まさかここまで悪辣なことをやっているとはおもっていなかった。

なぜこんなことが起こるのかというと、

  • 所得税は高所得者のほうが多くとられるが、社会保険は逆累進的でむしろ低所得者のほうが所得に対して大きな割合でとられる
  • 社会保険を負担するのは現役世代で恩恵を受けるのは引退世代だが、子育て世帯はたいてい現役世帯なので取られるほうが大きい
  • 低所得者でも関係なくむしりとる消費税の負担が大きくなっている

ことなどが原因だ。

老人のために金を使い、そのために子どもに使うべき金をめいっぱい削っている。
絶望感しかないな。


日本政府の対応は、「貧困家庭、母子家庭はもっと働け」というスタンスだ。
就労支援をして所得を増やす……という方法もわからんでもないが、正直いって現実的でない。子育てをしたことない人間が政策をつくっているのだろうか。

うちには今七歳と一歳の子がいる。
子育て世代どまんなかだ。

子どもはしょっちゅう熱を出す。いろんな病気をもらってくる。ぐずる。目が離せない。じっとしてない。夜中も起きる。朝は起きない。

はっきりいって、仕事をしながら子育てをするのは超たいへんだ。
それでもうちは夫婦ともに残業がほぼなくてそこそこ休みをとれる職場だし、土日祝は休みだし、夜勤もないし、なにかあれば祖父母も来れないこともない距離だし、頼れる友人や親戚もいるので、まあまあなんとかなっている。
幸いにして子どもはふたりとも頑健なほうだし。

それでも「ギリギリなんとかなってる」って感じだ。
休みが少なかったり夜勤があったり頼れる親戚がいなかったり子どもが病気がちだったりしたら、あっという間にゆきづまってしまう。

だから「仕事を用意してやるからもっと働け」と言われてもムリだ。
残業がなくて急な休みを好きなだけとれて給料のいい仕事を用意してくれるならべつだが。


貧困にあえぐ子育て世帯に必要なのは就労支援ではなく、現金給付だ。

そして働ける高齢者に必要なのは仕事。
生きていくためには、金だけでなく「誰かの役に立ちたい」という欲求も満たす必要があるのだから(子育てをしていれば後者はいやというほど満たされる)。

でも今の政策は逆をやっている。
母子家庭は就労支援、高齢者は現金給付。

もちろん高齢者といってもひとくくりにはできないが、働きたい高齢者には金ではなく仕事を、貧困子育て世帯にはまず金を。

高齢者に金を使うなとは言わないが、優先順位がおかしいんだよね。
子どもは最優先だろう。
人道的な理由だけでなく、「それが長期的にはいちばん安くつく」から。
子どもに金を出せば、七十年後に「貧しい高齢者」が減ることになるのだから。



日本政府が子どものために金を使わないのは、政府だけの問題ではない。

「すべての子どもが最低限享受すべきとおもうのは何ですか?」と尋ねて「新品の靴」とか「誕生日を祝ってもらえること」とかの中からチェックしてもらうという意識調査をおこなったところ、日本人は他の国よりも「なくてもしかたない」と答える人が多かったという。

たとえば「少なくとも一足のお古でない靴」を「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべき」と答えたのは40.2%、「自転車(小学生以上)」は20.9%だ。

多くの日本人は「親が貧しければ子どもが不便を強いられるのはしかたない。周りの子どもがみんな持っているものをひとりだけ与えられなくても我慢しろ」と考えているのだ。

日本人は貧乏人に厳しい。

その理由を、筆者はこう分析する。

 筆者は、日本の人々がイギリスの人々に比べて子どもを大事にしていないわけはないと思う。しかし、このような結果が出るのは、日本人の心理の根底に、数々の「神話」があるからではないだろうか。「総中流神話」「機会の平等神話」、そして「貧しくても幸せな家庭神話」。
「総中流神話」は、たとえ子どもの現在の生活が多少充足されていなくても、他の子どもたちも似たり寄ったりであろうという錯覚を起こさせる。「機会の平等神話」は、どんな家庭状況の子でも、がんばってちゃんと勉強していれば、たとえ、公立の学校だけでも、将来的な教育の達成度や職業的な成功を得る機会は同じように与えられていると信じさせる。「貧しくても幸せな家庭神話」は、物的に恵まれなくても子どもは幸せに育つと説得する。
 もちろん、そうであるべきであるし、そうであると信じたい。しかし、第1章でみてきたように、実際には、子ども期の生活の充足と、学力、健康、成長、生活の質、そして将来のさまざまな達成(学歴、就労、所得、結婚など)には密接な関係がある。その関係について、日本人の多くは、鈍感なのではないだろうか。これが、「子どもの貧困」が長い間社会的問題とされず、国の対応も迫られてこなかった理由なのではないだろうか。

筆者が「神話」と呼んでいるように、これらは全部ウソだ。

データを見れば明らかだ。
日本は圧倒的に格差が大きい社会。
生まれた家の経済状況が成功を大きく左右するので本人の努力での逆転は困難。
貧しいことはさまざまな問題を引き起こす上に、一生ついてまわる。

残念ながらこれが日本の現実だ。


子どもの貧困を減らすために政治や行政が手を打つことも大事だけど、まずは我々が
「日本には貧しい子が多いし、貧しい子のために金を使う気はない国だ」
という現実を直視することが大事なのかもしれない。


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2020年9月16日水曜日

【読書感想文】土はひとつじゃない / 石川 拓治・木村 秋則『土の学校』

土の学校

石川 拓治(文)  木村 秋則(語り)

内容(e-honより)
土は何から作られているか、良い土と悪い土をどう見分けるか、植物の成長に肥料は必要か。…絶対不可能といわれたリンゴの無農薬栽培に成功した著者が10年あまりにわたってリンゴの木を、畑の草を、虫を、空を、土を見つめ続けてわかった自然の摂理を易しく解説。人間には想像もつかないたくさんの不思議なことが起きている土の中の秘密とは。

『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』と内容はあまり変わらないが、こっちのほうがより実践に即したアドバイスが多い。

物語としてのおもしろさなら『奇跡のリンゴ』、実践に役立てるなら『土の学校』かな。

まあ農家でもなければ家庭菜園すらやっていないぼくにはまったく実用的でない内容だけど……。

でもやっぱり木村秋則さんの話はおもしろい。
ぼくは農業の本というより思想の本として読んでいる。



木村秋則さんという人を知らない人のために説明すると……。

無農薬でのリンゴの栽培に成功した農家。

というと「ふーん」ってな感じだとおもうが、これはめちゃくちゃすごいことらしい。
無農薬の野菜は世の中にいろいろあるけど、「リンゴは肥料なしでは育たない」というのは農業界の常識だったそうだ。
というのも今我々が食べているリンゴというのは品種改良によって生みだされたもので、農薬や肥料を使うことを前提につくられたものだからだ。

そんなリンゴを無農薬・無肥料で育てるのは、チワワをジャングルで放し飼いで育てるようなものかもしれない。

木村さんは特に根拠があるわけでもなく全身全霊をかけていリンゴの無農薬栽培に挑戦したがうまくいかず、十年近く収入のない日々を送る。
ついに自殺しようと山に足を踏み入れたとき、そこに生えていたリンゴの樹にヒントを得てとうとう無農薬栽培に成功する……。

というウソみたいな経歴の持ち主(ぼくは自殺未遂エピソードについては眉に唾をつけているが)。

とにかく『奇跡のリンゴ』はめちゃくちゃおもしろい本なので、農業に関係ない人もぜひ読んでほしい。



この木村さん、とんでもない行動力の持ち主で無農薬栽培成功までに数多くの試行錯誤をくりかえしているので、経験、実地重視の人かとおもいきや、それだけではない。

 このときの経験から、私の自然栽培では畑に大豆を植えるようにしています。植物の必要とする窒素分を補給するためです。窒素そのものは空気中に含まれていますが、普通の植物はそのままの形では利用することができません。大豆の根に共生する根粒菌は、その大気中の窒素を植物の利用しやすい化合物に変えることができます。この働きを利用して、土壌に植物の使える窒素分を供給するわけです。
 ただし大豆を植えるのは、慣行農法から自然栽培に移行したばかりの最初の何年間かだけです。
 私の場合は最初の5年間だけ大豆を播きました。5年目に播いた大豆の根っ子を見ると、根粒菌の粒がほとんどついていなかったからです。窒素がもう土中に行き渡ったサインだと解釈して、それ以降は大豆を播くのをやめました。

行動力もすごいが、理論もしっかり持っている。

生物や化学の知識をちゃんと持っていて、確かな知識の裏付けのもとに試行錯誤をしている。

理論だけでもだめ、実践だけでもだめ。
木村さんは両方をとことんやる人だったから、一見無謀な挑戦がうまくいったんだろうな。



ぼくなんか本で読んだだけでわかったような気になってしまう人間だから、木村さんの指摘にはっとさせられる。

 土とひとくちに言っても、その場所によって極端に言えばまったくの別物なわけです。基本的にその違いを考えないのが、現代の科学であり、農業だと思います。
 土と言った瞬間に、それはみんな同じという前提になってしまう。ここの土はどんな性質があって、どんな微生物が多いとか考えずに、種を播くわけです。
 それでもやってこられたのは、化学肥料と農薬があったからです。
 水はけの悪い場所には、湿気を好む雑草が生える。そこに棲んでいる土中細菌は、乾いた場所の土中細菌とはまた違っているはずです。
 そんな場所に、たとえば乾燥を好む野菜を植えたら、生育が悪いのは当たり前だし、病気にもかかりやすくなる。それで農薬や肥料を使わざるを得なくなるのです。
 土の個性をよく見極めて、その土地にあった作物を植えれば、少なくとも農薬や肥料の使用量を今よりも減らせることは間違いない。農薬や肥料の使用量を減らせば、環境への負荷も低くできるし、何よりも支出を減らせます。
 土の性格は、その場所によってみんな違う。
 違いを見極めることが、賢い農業の出発だと思います。
 もっともそんなことは、昔の百姓なら当たり前のことでした。どこにどんな作物を植えるかで、収穫が大きく違ってしまうのですから。
 農薬や化学肥料が広まってからは、そんなことを考える必要がなくなった。百姓と土との長年にわたるつきあいに、ひびを入れたのが農薬や化学肥料ではないのかなと思うのです。

理科の教科書で「植物が育つのに必要なのは水・土・光・肥料(ミネラル)」と習ってそれをそのままおぼえているけど、たしかに「土」といっても千差万別。
とても「土があれば大丈夫」と単純に言えるはずがない。

人間が生きるには炭水化物やたんぱく質やビタミンが必要だけど、それさえ満たしていればどんな食べ物でも生きていけるかと言われると、もちろんそんなことはない。

バランスよくいろいろ食べることが必要だし、体調や気候によっても必要なものは変わる。
「いついかなるときでもこれさえ食べておけば元気でいられる、すべての人にあてはまる万能食品」
は存在しない。

そう考えれば「水・土・光・肥料(ミネラル)があれば植物は育つ」なんて大間違いだとわかるんだけどさ。

水や土は必要条件であって、十分条件ではないんだよな。



木村さんからのクイズ。

 たとえその虫が、成虫も幼虫もリンゴの葉や実を食べる、どこをどう突っついても悪者の、正真正銘の害虫だったとしても、リンゴの木にとってためになることを最低ひとつはやってくれています。
 何だかわかりますか?

答えは本書にて。


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