2020年9月7日月曜日

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』

サル学の現在

立花 隆

内容(e-honより)
立花隆が霊長類学の権威たちと徹底的に対話し、それを立花流にわかりやすく構成している。立花隆にかかると政治から先端技術、生物学までこれほど面白く感じられるのはなぜなのだろうか。

文庫版の刊行が1996年なのでぜんぜん「現在」ではないのだが。

立花隆氏がサルの研究者たちから(当時の)最先端の知見を聞きだした本。

専門の研究者にとっては古い内容なんだろうけど、サルの専門家でないぼくにとっては新鮮でおもしろい。

たとえば
「ニホンザルは群れを作り、ボスザルを頂点としたヒエラルキーがある。厳然たる順位があり、ボスから順番に食べ物を食べていく」
なんて話を聞いたことがあるけど、あれは動物園のサル山のような人工的につくりだした群れだけで起きる現象なんだそうだ。
自然界のサルはもっとゆるやかなつながりで生きているんだとか。

なるほどねえ。そういうところもヒトと似てるね。
ふだん我々は友人やご近所さんとの間には「どちらが上」とか順位をつけずに暮らしている。
ところが会社とか学校とか軍隊とかの閉鎖的な環境では、すぐに順位をつけたがる。

もしかしたらヒトやサルにかぎらず、閉鎖的な環境に置いたらほとんどの哺乳類が順位をつけるのかもしれない。


研究内容には古さを感じないが、立花隆氏が堂々と女性研究者へセクハラ質問をしているとこには時代を感じる。

女性研究者に「フィールドワークをしているときトイレどうしてんの?」とか「サルの交尾を観察してたら妙な気持ちになってこない?」とか訊いてんの。
男性研究者には訊いてないんだから完全にセクハラだよね。
子育てしながらフィールドワークしている女性を「お転婆」と称したり。
時代だなあ。



「サル学」とひとくくりにしているが、紹介されている研究者のアプローチは様々だ。
野外に出てサルを観察している研究者だけでなく、サルの脳を調べたり、化石を調べたり、分子化学の面からサルとヒトの違いをさぐったり。

サルはおもしろい。

やっぱり他の動物とはちがう。
人間ではないが人間に近い。だからおもしろい。
赤ちゃんの行動が見ていて飽きないのにも似ている。


サルを研究することは、ヒトを知るためのとっかかりになる。

ヒトについて調べたい。できることならいろんな実験をしたい。
効果不明の薬を飲ませたり、脳に電極をつっこんだり、どんな影響が及ぶかわからない手術を施したりしたい。

でも人道的な理由でそれはできない。


サルの研究者には、純粋にサルに興味がある「サル屋」と、ヒトについて知りたくてそのためにサルを研究している「ヒト屋」がいるのだそうだ。

しかし、結局サルとヒトは同じではない。
『サル学の現在』を読んで、「サルをいくら研究しても永遠にヒトのことはわからないな」とおもった。

たしかにサルとヒトには似た部分もあるけど、それだけだ。
探せばヒトとゴキブリの間にも共通点はいくつも見つかるけど、ゴキブリをいくら研究してもヒトのことはわからない。
サルも同じだ。
サルはサル。ヒトはヒト。



「男と女の間の友情は成立するか」というのはよく語られるテーマだが、意外にもニホンザルの世界ではオスとメスの友情が成立しているらしい。

 ニホンザルには交尾期と非交尾期があって、その生活は全く違う。交尾期は、地方によってかなり違うが、おおむね、一〇月から四月くらいまでである。
 交尾期のあいだは、オスはメスの尻を追いかけて暮らす。しかし、交尾期をすぎるとオスもメスもたちまち性的関心を失い、性的活動は全く見られなくなる。非交尾期のあいだは、オスはオス、メスはメスの世界に閉じこもっているものとかつては考えられていた。しかしそのあいだに、特定のオスとメスのあいだに親和的関係がうまれ、しかも、その親和的関係にあるオスとメスは、次の交尾期にセックスを避けるという現象が発見されたのである。特定のオスとメスのあいだに、なぜそのような関係がうまれるのか、またなぜ彼らはセックスを避けるのか。

交尾期以外でも特定のオスとメスが仲良くする、しかもそのオスメスは交尾期になっても交尾を避ける。

友情成立してんじゃん……!

えらいなあ、ニホンザルは。
ヒトのオスよりよっぽど抑制きいてるね。

まあ特定のパートナーを持たずに乱交的な関係を築いているからこそ逆に「あえてこいつとはセックスを避けよう」という選択ができるのかもしれないけど。



ぼくも動物園にいるとサル山の前に三十分以上いるぐらいだから、サルを観察するおもしろさはよくわかる。

しぐさが人間的なので(というか人間がサル的なのかもしれないが)どうしても情念たっぷりのストーリーを感じてしまうんだよね。

それは研究者でも同じらしい。
たとえばこんな描写。
(「ミノ63」は63年生まれのミノという名前の個体、「ミノ63・69」はミノ63が69年に生んだ子、「ミノ63・69・74」はその子で74年生まれ)

「ミノの家系というのは、何というか気性の激しい血筋なんですね。七五年に、ミノが娘のミノ63に順位を逆転された話をしましたね。そのときすぐ、それに続いてミノ63とその娘、つまりミノの孫娘のミノ63・69との争いが始まりましてね、噛み合ったまま崖をころがり落ちていったんです。それはちょうど、ぼくが嵐山に入って研究を始めたばかりのときのことで、こんなこともあるのかと、びっくり仰天しました。
 そのとき、一時的には、孫娘が勝ったんですよ。しかし、それも三〇分間くらいでしたかね、形勢が逆転して、結局孫娘は腕を噛み裂かれて敗北しました。しかし、それから二年後に、ミノ63・69が母親のミノ63にリターンマッチを挑み、ついに噛み倒して池の中に落として溺死させてしまうんですよ。ミノ63・69の娘のミノ63・69・74が今のメスガシラですね。こういう栄枯盛衰の流れをたどっていくと、もうまるで平家物語ですよ」

ものすごくドラマチック。
でもこれはサルだから「まるで平家物語」と感じるわけで、クワガタムシだったらここまでのドラマ性を感じないよね、きっと。




ゴリラの音声コミュニケーションについて。
――そういう音声によるコミュニケーションが、いろいろあるんですか。
「ありますよ。たとえばウファファファーン』と馬のいななきに似た声は、<クエスチョン・バーク>といって、″お前に聞きたいことがある。″″お前は何をやってるんだ″を意味します。これをやってみると、必ず相手はこちらをふり向きます。それから、<チャックル・ヴォーカリゼーション>といって、″ボコボコボコ″とあぶくがわいてくるような音は、遊びたいときの誘いの声ですね。ぼくは一○種類ぐらいまねができますよ」
――そういう音声は、人間がまねをしても通じるんですか。
「完全に通じます。かなり発音がへたでも通じます。お前の発音はひどいなという顔でこちらを見ますが、通じることは通じます。これはゴリラのすごいところですね。ニホンザルの音声コミュニケーションもいろいろ知られていますが、いくらじょうずにまねしても、サルはめったに返事してくれません」
なんと。

ゴリラ同士が音声でコミュニケーションをとるだけでなく、ヒトが発した音声をゴリラが理解してくれるのだ。

ヒトとゴリラで会話できるんだ……。

人間の中には「おまえは何をやってるんだ」と訊いてんのに「何をやろうが私の勝手でしょう」みたいなずれた返事をする人もいるから、もしかしたら一部の人間よりゴリラのほうがよっぽど正確に意思疎通できるのかもしれない。



サルの行動を見ていても飽きないように、サルの話もすごくおもしろい。
読んでいて飽きない。

ただ、インタビューである立花氏自身がサルに肩入れしすぎているように見える。

―― ニホンザルにも、ケンカの仲裁行動がありますよね。
「あれは、ボスザルあるいは優位のサルが劣位のサルのケンカを止めるんですね。劣位のサルが優位のサルのケンカを止めに入るということは、絶対ありません。劣位のサルでも、ケンカしているどちらかに加勢するということはある。だいたい強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける。チンパンジーになると、単純に強弱を見るだけでなく、自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする。いずれにしても、自分の利益のために行動している。ケンカを止めること、それ自体を目的として、劣位の者が仲裁行動を起こすというのは、ゴリラ以外ありません」
―― これは、ずいぶん人間的な行動ですね。他のサルは自分の利害と無関係なところで起きているケンカは放っておくのに、ゴリラは自分と直接関係がなくても、身を挺して社会の平和を守ろうとする。かなり高級な精神作用ですね。

必要以上に「人間性」を感じている。この姿勢は好きじゃない。

文学ならこれでいいけど、サイエンスで「身を挺して社会の平和を守ろうとする」とか「高級な精神作用」なんて言っちゃダメだ。

勝手に人間の価値観をゴリラに押しつけちゃいかんよ。
ゴリラにはゴリラの計算があるんだろうから。


だいたい人間なんて、ニホンザルみたいに「強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける」タイプや、チンパンジーみたいに「自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする」タイプがほとんどで、「身を挺して社会の平和を守ろうとする」ような人間はほとんどいないじゃん。

だからゴリラの行動はぜんぜん人間的じゃないよ。人間はそんなにえらくないもん。



あと読んでいて気になったのは、どうも立花氏は「ヒトは生物の進化の頂点」と思いこんでいるフシがあるんだよなあ。

「ヒトこそが生物の理想形で、サルはヒトへのなりそこない」
「サルはどうやったらヒトに近づくか」
みたいな意識がインタビューの節々から感じられる。


はっきり言って古い。考え方が。

ヒトはサルの頂点ではなく単なる一種族だ。

他のサルが進化してヒトになったわけではない。
現生人類は(今のところ)進化の頂点だけど、チンパンジーだって進化の頂点だし、ナメクジだって進化の頂点にいる。

生物として見たとき、ヒトは他の動物より優れているわけではない。
肉体的にはサルの中でも弱いほうだし、脳の大きさでもネアンデルタール人に負けている。

ヒトはたまたま今の地球環境では繁栄できているだけで、強いわけでも優れているわけでもない。

……ってのが今の常識なんだけど、立花氏は「適者生存」を理解していないんじゃないか。

だから必要以上にサルに「人間性」を感じて持ちあげてしまうんだろう。


生物が繁栄するために必要なのは、強いことでも賢いことでもなく、環境に適していること。

立花氏だって偉大な業績を残した人だけど、それは時代や環境にうまく適応できていたからで、あと数十年生まれてくるのがおそかったらセクハラで表舞台から消えていたかもしれないしね。


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2020年9月4日金曜日

【読書感想文】めずらしく成功した夢のコラボ / 森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』

四畳半タイムマシンブルース

森見 登美彦 (著)  上田 誠 (企画・原案)

内容(e-honより)
炎熱地獄と化した真夏の京都で、学生アパートに唯一のエアコンが動かなくなった。妖怪のごとき悪友・小津が昨夜リモコンを水没させたのだ。残りの夏をどうやって過ごせというのか?「私」がひそかに想いを寄せるクールビューティ・明石さんと対策を協議しているとき、なんともモッサリした風貌の男子学生が現れた。なんと彼は25年後の未来からタイムマシンに乗ってやってきたという。そのとき「私」に天才的なひらめきが訪れた。このタイムマシンで昨日に戻って、壊れる前のリモコンを持ってくればいい!小津たちが昨日の世界を勝手気ままに改変するのを目の当たりにした「私」は、世界消滅の危機を予感する。『四畳半神話大系』と『サマータイムマシン・ブルース』が悪魔合体?小説家と劇作家の熱いコラボレーションが実現!

おもしろ!

森見登美彦の小説『四畳半神話大系』も映画『サマータイムマシン・ブルース』も大好きな作品だ。
どちらも伏線回収が見事で、見終わった直後にまた見返したくなる作品だ(じっさいどちらも二回ずつ見た)。

そんな二作品が夢のコラボ!

奇しくもぼくは数年前、『四畳半神話大系』の感想文で『サマータイムマシーン・ブルース』について書いている。

「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマータイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

ちゃあんとこの二作品の共通点に気づいていたのだ。
えらいぞぼく! いよっ先見の明!


だがこのコラボ作品の存在を知り、おもしろそうと期待すると同時に一抹の不安もおぼえた。

世の中にある「夢のコラボ」はたいていおもしろくないからだ。
両方が遠慮してどっちつかずの無難な内容になったり、片方の持ち味が損なわれてしまったり。へたすると両方の持ち味が失われて「もうこれ誰も得してないじゃん……」になったり。

そんなわけでおそるおそる読んでみた『四畳半タイムマシンブルース』だが、ぼくのつまらぬ心配は杞憂だった。
ちゃんとおもしろい。

両方の良さがちゃんと発揮されている。



オリジナルである舞台版は観たことがないので知らないが、映画『サマータイムマシン・ブルース』はまちがいなくおもしろい作品だ。だが、欠点がある。

それは「前半がとにかくつまらない」ということだ。

大学生の退屈な生活がだらだらと描かれる。
何も起こらない。みんな覇気がない。
伝わってくるのは夏のけだるい空気だけ。観ているこちらまでぐんにゃりしてくる。
おまけにわけのわからないことがちょこちょこ起こる。大きな事件というほどではないのだが、ちっちゃな不可解が積みあげられていくのでもやもやだけが残る。

だがこれは「必要不可欠な伏線」だ。
ただ退屈だった前半が、タイムマシンの登場によって一気に様変わりするところは大きなカタルシスを与えてくれる。
あのつまらないシーンもあのくだらない会話もあの理解不能な行動もぜんぶこういう意味があったのか! と、世界が一変する。

『カメラを止めるな!』に近いものがある。
伏線がつまらないからこそ回収段階がスカッとするんだけど、でも世の中には伏線段階すらおもしろい作品もあるからなあ。


しかし『四畳半タイムマシンブルース』では、その「前半がとにかくつまらない」が解消されている……ようにぼくにはおもえた。
まあこれは『四畳半神話大系』を読んで、「私」、明石さん、小津、樋口師匠、城ヶ崎氏、羽貫さん、相島……といった面々のキャラクターを知っているからでもある。
おなじみのメンバーがどたばたとやっているので「必要不可欠なつまらない前半」もそこまで退屈なものではない。

だからこの小説を読む前に、できたら『四畳半神話大系』だけでも読んでおいたほうがいい。そっちのほうがだんぜん楽しめるはず。

映画版だと、登場人物のキャラクターや関係性が所見でわかりにくかったので、おなじみのメンバーが動き回っているのは助かる。

キャラクターは『四畳半』だが、物語は『サマータイムマシン・ブルース』のストーリーを忠実になぞっている。

つくづくおもうのは「いい脚本だなあ」ということ。
ほんとによくできている。
タイムトラベルというむずかしいテーマを扱いながらも矛盾がない。それでいてやっていることは「クーラーのリモコンを過去や未来に運んでるだけ」なので、ばかばかしさとのギャップがおもしろい。

映画版だとそのストーリーの良さをじっくり味わうひまがなかったんだけど、小説だとじっくり噛みしめることができた。
舞台版は観たことないけど、もしかしたら小説や漫画のほうがマッチしているストーリーなのかもしれない。



ストーリーはちゃんと『サマータイムマシン・ブルース』でありながら、ところどころに『四畳半』をにおわせてくれるファンサービスがあるのもうれしい。あ

「それは君がまだ自分の可能性を試していないからなんだよね。もしもうちの大学へ入学することになったら、新歓の時期に時計台下へ行ってみるといい。そこではありとあらゆるサークルが新入生を迎えようとして待ってますから。無限の未来への扉が開かれている。学生時代を有意義に過ごしたいならサークルに入りなさい。傍観者みたいに外から眺めていたって未来は切り拓けない」
「でも僕、とくに興味のあるサークルなんてないんですけど」
「興味なくてもいいから入りなさい」
 相島氏は眼鏡を光らせてビシャリと言った。
「さもないと君は不毛きわまる四年間を過ごすことになる。たとえばこんな四畳半アパートの一室にひとりで籠もっているとしよう。こんなところにどんな可能性がある? ここには恋も冒険もない。なーんにもない。昨日は今日と同じで、今日は明日と同じ。まるで味のしないハンペンのような毎日ですよ。それで生きていると言えますか?」

下鴨幽水荘がかつて沼だったとか、後付けにしてはよくできたエピソード。

あと『サマータイムマシン・ブルース』では失恋を予感させるオチになっていたのに対し、『四畳半タイムマシンブルースは恋愛成就を予感させる(というかほぼ断定している)のも、個人的には好き。

こういうばかばかしいお話にはとってつけでもいいからハッピーエンドあったほうが収まりがいいとおもうんだよね。

オリジナルの「たぶん無理だけどまだあきらめんぞ!」という印象のラストの台詞も好きだけどね。


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【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』



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2020年9月3日木曜日

ふざけんなクアッガ

クアッガという動物がいる。

いや、正確にはいない。もう絶滅したから。

クアッガを知らない人は、ぜひ一度その姿を見てほしい。
絶滅したのが19世紀なので、写真も含め、わりと正確な資料が残っているのだ。

クアッガ の検索結果


どうです。
驚いたでしょう。

ぼくもびっくりした。

うそでしょ。こんな冗談みたいな生き物いんのかよ(今はいないけど)。


上半身(四つ脚の場合は前半身っていうのか?)はシマウマ、下半身(後半身)はウマ。

キメラじゃん。
これが許されるなら、ケンタウロスや人魚だって余裕で実在しうるでしょ。


世の中にはいろんな動物がいる。

シマウマだってキリンだってゾウだって、見慣れているから驚かないだけで、大人になってからはじめて見たらきっと驚いただろう。

うそでしょ。こんなふざけた動物いんのかよって。

まったく知識のない状態で「めちゃくちゃ鼻が長くて、その鼻で食べ物をつかんで口に運ぶことができる、クマよりでかい動物がいる」って聞かされたらまちがいなく「うそつけ」って言ってる。

でもまあ、見たら一応わかるじゃん。
一見ふざけたように見えることにも、ちゃんと理由があるんだって。

ゾウだったら、身体がでかいから太い脚でしっかり身体を支えないといけない。
だから手足を上手に使えない。
その代わり鼻が発達したんだろうなって。
一応理にかなってるわけじゃない。

キリンの長い首だって意味がある。

シマウマはシマがあることで、蚊に刺されにくくなるらしい(ソースは『ダーウィンが来た!』。

みんなちゃんと意味があるわけ。
(まあパンダの模様は意味わかんねえけど)

クアッガの半分だけ縞模様は意味がわからない。

上半身だけ蚊に刺されにくくしてどうすんの?
その分下半身が刺されやすくなるだけじゃん。

クアッガの縞模様は発展途上だったんだろうか。
ゆくゆくはシマウマみたいに全身縞模様にするつもりだったんだろうか。
クアッガはシマウマになる途中だったんだろうか。

それにしても。

 はじめは薄い縞模様 → ちょっと濃い須磨模様 → シマウマ

みたいな経路をたどるんじゃないの? 進化って。

 はじめは頭だけ縞模様 → 半分ぐらい縞模様 → シマウマ

とはおもえないんだけど。


なんであんな変な模様なんだろう。

と考えていて、ぼくはついに「クアッガが前半身だけ縞模様になった理由」に関する有力な仮説を思いついた。

それは……

 クアッガはズボンと靴下を履いていたから!


2020年9月2日水曜日

【読書感想文】刺身はサラダなのだ / 玉村 豊男『料理の四面体』

料理の四面体

玉村 豊男

内容(e-honより)
英国式ローストビーフとアジの干物の共通点は?刺身もタコ酢もサラダである?アルジェリア式羊肉シチューからフランス料理を経て、豚肉のショウガ焼きに通ずる驚くべき調理法の秘密を解明する。火・水・空気・油の四要素から、全ての料理の基本を語り尽くした名著。オリジナル復刻版。

料理はむずかしい。

なんせやることが多い。
「動詞」が多いんだよね。

焼く、炒める、煮る、炊く、茹でる、湯がく、炊く、蒸す、揚げる、燻す、さっとくぐらす、チンする。
加熱する系の動詞だけでもこんなにある。

それにくわえて、捌く、和える、切る、割る、剥く、おろす、漬ける、浸す、研ぐ、砕く、こねる、冷ます、包む、混ぜる、調える、濾す、くわえる、絞る、かける、混ぜる、寝かす、発酵させる……。

もうやることが多すぎてわけがわからん。


『料理の四面体』では、そんな複雑きわまりない料理の工程を大胆に因数分解して、シンプルな構造に落としこむ試みをしている。

著者は、火、空気、水、油の四つを重要な要素と置き、あらゆる料理はその四つの関わりによって位置づけることができると説いている。

火に空気の働きが介在してできるのが「焼きもの」
火に水の働きが介在してできるのが「煮もの」
火に油の働きが介在してできるのが「揚げもの(炒めもの)」

である。
豆腐を例にとれば、火と空気を用いれば焼き豆腐、火と水をくわえれば湯豆腐、火と油を加えれば厚揚げ、火と油を加えたのちに火と水を与えれば揚げ出し豆腐、火を使わなければ冷奴……。

程度の差こそあれ、いずれも「火、空気、水、油」との関わりによって説明できるとしている。

ふうむ。
なるほど。そんなふうに料理をとらえたことがなかった。

 実は名前や由緒にこだわらなければ、基本の手順をひとつ知っているだけで、素人にも二〇や三〇のソースの種類はたちどころにつくりわけることができるのだ。いや二、三〇ではきかない、一〇〇、それどころか一〇〇〇種類といっても言い過ぎではないかもしれぬ。これは冗談でも誇張でもない、本当の話である。 
 肉を炒めたあとのフライパンに〝汁〟を入れて油脂・肉汁をこそげ落し混ぜ合わせることをフランス料理の言葉で、〝デグラッセ(霜とり)〟と称するが、デグラッセする〝汁〟のほうはワインでも生クリームでもブイヨン(出し汁)でもなんでもよい。つまりこの〝汁〟を変えることだけでさまざまの種類のソースができることになる。
 ワインでデグラッセすればワインソース。
 生クリームでデグラッセすればクリームソース。

 刺身はサラダである。
 本当だ。
 マグロの刺身というものは、マグロの刺身だ、と思って眺めると、マグロの刺身としか思えない。
 しかしマグロの刺身を、これはサラダなのだ、と思って眺めると、だんだんサラダに見えてくるから不思議である。
 いま眼前に、美しい皿にかたちよく盛られたマグロの刺身があるとしよう。
 皿の手前に、赤い部分と、ピンク色に脂肪ののった部分のほどよく混じりあった、しっとりした肌をなまめかしく輝かせているマグロの切り身が数片並んでいる。
 そのマグロの身をうしろから支えるように、大根の千六本がこんもりと敷かれ、その横にミョウガのセン切りが少し置かれ、背後にはシソの大葉がピンと立てられていて、わきにレモンの輪切りが一枚飾られていて、端にワサビがある。
 その皿の手前に、小さな皿があって、その中には醤油が入っている。
 どうだろう。まったくサラダではないか。
 これがサラダであることがまだ認識できないならば、ハシをとって、皿の上にあるものをすべてぐちゃらぐちゃらに撹拌してみればよろしい。マグロの身もツマの野菜もすべて渾然とミックスして、その上から小皿の醤油を注ぎ、もう一度かきまわす。
 どうだろう。ミックス・サラダではないか。
 材料はマグロと大根とミョウガとシソ葉。
 ドレッシングはレモンから出た汁と醤油。スパイスはワサビである。
 しばらく置くとマグロの身の脂肪分がいくらか溶け出してドレッシング液に油滴が光りはじめ、ますます一般的概念の〝サラダ〟に近い姿になって行く。
 つまり刺身はサラダなのだ。

こんな感じで、大胆に料理をくくっていく。

たしかに、刺身とサラダの明確な境界線なんてないよなあ。
刺身はふつう野菜といっしょに出されるし、サラダにツナとかタコとかサーモンが入っていることはめずらしくない。

刺身はサラダ。たしかになあ。
おもいもよらなかったけど、言われてみればそのとおりだ。

けっきょく刺身と海鮮サラダの間に明確な差異があるわけではなく、認識の違いでしかないんだよね。

「天丼の主役は当然エビ天でしょ」という人もいれば、
「いやいやエビ天がなくても天丼になるが、ご飯がなくては天丼とはいえない。やはり天丼の主役はほかほかのごはんだ」という人もいるし、
「天丼の主役はタレに決まってるだろ。私はタレを食べるために天丼を食べている」という人だっているだろう。

魚を主役とおもえば刺身、野菜を中心としてとらえればサラダ。それだけ。



ってな感じで各料理を「火、空気、水、油」との関わりでくくっていけば、世の中にごまんとある料理もじつはいくつかのパターンの組み合わせでしかないことに気づく。

……というのが『料理の四面体』の内容だが、はっきりいってこれに気づいたところで何の役にも立たない。

料理が上手になるわけでもないし、出された料理がおいしく感じられるわけでもない。

ただ「料理って意外と単純かも」とおもえるだけだ。
料理はややこしいとおもっている人からすると、ちょっとだけ苦手意識が薄れるかもしれない。

でもまあ、それでいいんじゃないかな。
役に立つようで立たない、理屈のような屁理屈のような話を読むのはただ単純におもしろかったから。

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2020年9月1日火曜日

【読書感想文】おまえはアイドルか / 池上 彰『伝える力』

「話す」「書く」「聞く」能力が仕事を変える!

伝える力

池上 彰

内容(e-honより)
仕事のさまざまな場面でコミュニケーション能力は求められる。基本であるにもかかわらず、意外と難しい。相づちを打ったり、返事をしたり、目をジッと見たり、あるいは反対に目をそらしたり…。「伝える」には、「話す」「書く」そして「聞く」能力が必須。それらによって、業績が左右されることも往々にしてある。現代のビジネスパーソンに不可欠な能力といえる「伝える力」をどうやって磨き、高めていったらよいのか。その極意を紹介する。

浅い。
とにかく浅い。

池上彰さんって専門がなくまんべんなくやってたことが強みなんだろうけど、専門のなさの悪いところが存分に出た本。

たかだか二、三人の子どもを育てただけで教育を語っちゃう人っているじゃない。
「うちの子はみんな東大に入りましたから私、教育の専門家ですわ」
みたいな顔して。

それと同レベル。
たしかに池上彰さんの「わかりやすく伝える技術」はすごいけどさ。
ぼくも『そうだったのか!』シリーズにはずいぶんお世話になったけど。

だけど池上さんは「わかりやすく伝える技術」をわかりやすく伝えることには慣れてないんだろうね。
とおりいっぺんの浅~いことしか言ってない。


ちょっとクレーム処理やったことあるだけで「クレームに対応するにはこうしたらいいですよ」って語ってたりとか。

ビジネス文書の書き方で、「先輩の書き方をひたすら真似しろ」とか。
たしかにそれで得られるものも大きいかもしれないけど、「先輩のやりかたを真似しろ」って教えることを放棄してるだけじゃん。
「見て盗め」って教え下手な自分と向き合いたくないだけの逃げ口上でしょ。


池上さんがふだん使ってる手帳や筆記用具について語ったり。
誰が興味あんねん。アイドルかよ。

「一会社員、ビジネスを語る」ぐらいの内容でしかない。


なるほどなあ、とおもったのはここぐらい。

 主語を入れ替えて話すだけで、相手が受ける印象はかなり変わります。  次の例を考えてみてください。キャスターがテレビでニュースを読んでいるところを想定しています。

 A.〇×鉄道会社は運賃を値上げすることになりました。
 B.皆さん、○×鉄道会社の運賃が値上がりしますよ。

いかがですか? 伝えている内容はまったく同じですが、受ける印象はだいぶ違いませんか?

NHK記者、キャスターをやっていた人ならではの説明。
こういうのだけを読みたいんだけど。
池上彰が語るクレーム対処法とか手帳術とかじゃなくて。

とにかく内容はすっかすかだった。



ひどかったのはこれ。

 結果は一対三で逆転負け。応援していた日本人の口元から深いため息が漏れたことでしょう。日本の多くのファンは眠い目をこすりながら、テレビに釘付けになっていたからです。
後日私は、「負けたのに淡々と話す選手に、なんとなく腹が立った」という声を何人かから聞きました。
「『応援してくれていた日本の皆さん、すみませんでした。初戦は負けてしまいました。でも、次はもっとしっかりやります』くらい言ってほしかったな」と言う人すらいました。

(中略)

 日本チームは、その後の試合もふるわず、結局、決勝トーナメントに進むことはできませんでした。
 もちろん、というべきか、選手たちから、謝罪の言葉は聞かれませんでした。悪いことをしたわけではないのですから、当然といえば当然です。
 けれども、「期待に応えられなくて、すみませんでした」のひと言を言ってほしかった。と、多くの日本人は思ったことでしょう。
 理屈を考えれば謝る必要はないけれど、ひと言「ごめんなさい」と言うことで、事がスムーズに進む場面は日常的にあるはずです。
 そう考えると、「ごめんなさい」「すみません」のひと言をこだわりなく言うのも、人生では大切なことです。

いろいろ言い訳してるけど、結局池上さんが言いたいのは「長いものには巻かれろ」「悪くなくても頭を下げてその場が収まるなら謝ったほうがいい」ってことでしょ。

処世術としてはわからんでもないけど……。

だっせえなあ。こういうこと言う人って。

「セクハラをされたのは気の毒だけど君がこらえてくれたら丸くおさまるんだよ」ってのと変わらない。

なんで試合に負けたからってファンに謝らなくちゃいけないんだよ。
いちばん悔しいのは当人なのに、どうしてにわかサッカーファンに頭を下げなくちゃいけないんだよ。


そういうこと言うんだったらさあ。

池上さんの番組もいろいろやらかしてんじゃん。

外国人のコメントにぜんぜん意味の違う字幕をつけたり。

あれだってやらかしたのはスタッフだろうけど、番組の顔である池上さんが詫びるべきなんじゃないの?
「あなたは悪くないし私は何の実害も被ってませんけど気持ちを害したので謝ってください」って言ってくる人に対して謝ったほうがいいんでしょ?

池上さんの番組で気分を害した人はたくさんいるはずなのに、池上さんがそういう人に頭を下げたと聞いたことがない。

言うのはかんたん。でもやるのはむずかしいんだね


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