2020年4月21日火曜日

【読書感想文】維新なんていらない / 中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』

  100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルな民主主義を支え導く「真の」保守思想とは?少数意見を認める寛容さや、個人の理性を超えた先達の良識を重んじる真の保守思想こそが、大衆化社会における民主主義の劣化を防ぐ処方箋となる──。利己的な「大衆社会」の暗部をあぶりだし、合意形成の大切さを説いた、いまこそ読み解かれるべき一冊。
先日読んだ中島岳志さんの『保守と立憲』にすごく共感できたので(感想はこちら)、その本の中でも挙げられていたオルテガ『大衆の反逆』を読んでみたくなった。

しかし原著はむずかしそうだなとおもっていたら、NHKの番組のテキストがあるではないか。しかも書いているのは中島岳志さん。これは読まねば!



オルテガとはスペインの思想家だ。あなたがたのような勉強不足の人間は知らないかもしれない。ぼくも先月まで知らなかった。
哲学者というとドイツやフランスが多いイメージで、スペインと哲学のイメージがどうもうまくむすびつかない。ラテン民族にも思索的な人がいるんだなあ(ひどい偏見)。

『大衆の反逆』が書かれたのは1929年。
タイトルから受ける印象は「さあ大衆よ立ち上がろうぜ! 貴族のやつらにひと泡吹かせてやろうぜ!」みたいな感じだけど、メッセージは真逆。
大衆でいてはいけないぜ、という内容だ。

オルテガのいう「大衆」とは生まれついての貴族に対するものではなく、「みんなと同じである」ことに喜びを見いだす人間のことだ。
大衆は多数派であることに満足し、己の正しさを疑わない。自らはいついかなるときも誤らない理性的な人間であると思いこんでいる人間こそが、オルテガの嫌悪した「大衆」だ。
 邪悪な人間は、自分が悪いことをしているという自己認識がある。それに対して、愚かな人間の愚かさは自己に対する過信によって成り立っているから、決して「治る」ことはないというわけですね。
 ここで言う「愚か」とは、偏差値が低いとか知識がないということとはまったく関係がなく、あくまで「自己過信」のことです。自らの限界に気づかず、その能力を過信して「何でもできる」と勘違いしている。自己懐疑の精神をもたず、「正しさ」を所有できると思っている。そして、そうした大衆の「正しさ」の根拠は何かと言えば、「数が多い」ことでしかない。それが何の根拠になるのかとオルテガは言い、彼らを自分が多数派だということにあぐらをかいている「慢心した坊ちゃん」と呼ぶのです。

『大衆の反逆』が世に出た1929年は世界恐慌が起こった年。
ムッソリーニがイタリアで独裁制を宣言したのが1924年、ナチスがドイツの第一党となったのが1933年なので、ちょうど社会が不安定になりファシズムが台頭した時期だ。
スペインでも1939年にフランコが総統になり独裁制を敷いている。世の中が「強い権力者」を求めていた。

ナチスやファシスト党は「個」による独裁と思われがちだが、実際は「大衆」の暴走だった。
彼らははじめ力ずくで権力を奪ったわけではない。市民から正当な選挙によって選ばれたのだ。

「ヒトラーという例外的に悪いやつがいた。自分には関係のない話」とおもったほうが楽だから、ついそう考えてしまう。
それ以上何も考えなくていいし反省もしなくていいしね。
だがヒトラーを生みだしたのは大衆で、大衆が大衆である以上は同じような独裁政権が誕生する危険性は常にある。

ほとんどの人は「自分はヒトラーのようにはならない」と自信を持って断言できるだろう。
だが「自分はヒトラーのような人物を選ばない。またはヒトラー予備軍のような人物が立候補したときに必ず選挙に行って対立候補に票を入れる」と断言できる人がどれだけいるだろうか?

たぶんほとんどの人は断言できないだろうし、断言できるとしたらそれこそ自分の理性を疑うことを知らない「大衆」だ。



オルテガは単なる思想家ではなく、自分の考えた道を実践しようとした行動の人でもあった。
 オルテガは、右か左かという二分法を嫌いました。「これが正しい」と、一方的に自分の信ずるイデオロギーを掲げて拳を上げるような人間が、嫌で仕方がなかったのだと思います。そうではなく、右と左の間に立ち、引き裂かれながらでも合意形成をしていくことが、彼の思い描いた「リベラルな共和政」でした。しかし、スペインでそれは不可能と考えた彼は、三二年八月に代議士を辞職してしまいます。
 その後、三六年二月の総選挙で左翼勢力が圧勝して人民戦線内閣が成立すると、左右の対立は決定的なものになっていきます。左派と右派の両方を批判する言論を発表し続けていたオルテガは、双方から激しいバッシングを受けることになりました。
中庸を行こうとすると両極から非難される。
いちばん多いのは中道のはずなのに、その道は険しい。
両極のどちらかに属して「アベはやめろ!」「安倍さんがんばれ!」と言っているほうがずっと楽だ。個別の政策や思想についてあれこれ考えなくて済むから。

かくして、極端な意見ばかりが幅を利かせて、穏健な思想を持っている人ほど政治的な発言を控えることになってしまう。
いちばん多いはずの声が拾われない。
ナチスを選んだドイツだって、ファシスト党を選んだイタリアだって、きっと大多数は中道に近い考えだったのだろう。しかし中道が声を上げなければ、一方の極の意見が通ってしまうことになる。

オルテガは、極端な意見に流される「大衆」にならないことが必要であり、そのためには「死者の声」に耳を傾けなければならないと考えた。
 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。
 そして、それまでヨーロッパ社会の秩序を支えてきたのは、「生きている死者」とともに歩むという感覚だった。死者は身体が失われたあとも私たちのそばにいて、この世の中を支えてくれていると考えられていたのですね。
 そうした感覚が共有されていれば、社会で多数派を占めているからといって、その人たちが勝手に何でも決めたり、変えたりしていいということにはなりません。過去の英知や失敗の蓄積の上に現在があるのだから、いま生きている人間だけによって、既存のとり決めを何でもかんでも変えていいわけがない。いくら多数決が民主制の基本とはいえ、そうした「限界」はもっていなくてはならない。
 ところがそんなことはお構いなしに、革命なるものが次々に起き、歴史的に構成されてきた世界を改変しようとしているとオルテガは感じていました。それが彼の言う「超民主主義」ですが、そうした過去からの教訓や制約に拘束されない民主制は非常に危うい、過去と協同せず、現在の多数派の欲望だけから解決策を求めようとすると必ず間違える、というのが彼の考えだったのです。
 これは、のちにお話しする立憲主義と密接にかかわる考え方だと思います。簡単に言えば、いかにいま生きている人間の多数派が支持しようとも、してはいけないとり決めがあるというのが立憲主義の考え方なのですが、そのことをオルテガは踏まえている。そして、現代が死者を忘却してきたことが、民主制の危うさにつながっていると指摘するのです。
今生きている人間の理性を過信しているがゆえに、既存のシステムを破壊してもうまくいくと信じてしまう。
だが長く使われているシステムには、人間の理性が及びもしない叡智が潜んでいることがある。

今の日本はコロナウイルスのせいでいろんなシステムが破綻しそうになっている。
それを生んだ要因の一つは、革新の名にさまざまな「旧来のシステム」を破壊したことだ。
耳に聞こえのいい革新的なスローガンを掲げた政治家があれも無駄これも無駄と言ってインフラの余裕を減らし、公務員を削減した。大衆もまた彼らに喝采を送った。
そして百年に一度の大災害が起きて、余裕をなくしたところから亀裂が走っている。

オルテガは「システムを変えるな」と言っているのではない。
理性に限界がある以上、完璧なシステムなど存在しない。だから「絶えず漸進的な変革が必要だ」という立場をとる。
ぼくも同意見だ。
内田樹さんがよく書いているけど、教育、インフラ、医療、政治といった制度に大改革はふさわしくない。百年単位で成果を測らなければならないものは、なるべくそっとしておくのが望ましい。「昨年度これだけ予算が余ったからここは無駄だ。削ろう」という考え方では百年に一度の疫病の流行に対応できない(今の大阪府のように)。



オルテガは死者の声を聴くべきだと説いているけど、ぼくは「まだ生まれていない人」の声にも耳を傾けるべきだとおもう。
むしろそっちのほうが大事だと。

「まだ生まれていない人」を考えたら「若者から多くむしりとって今の老人は払った以上の分をもらえる制度(厚生年金制度のことね)」なんてやっちゃいかんとすぐわかる。
「廃棄物の処理方法も決まっていない危険な発電所を動かそう」も「返しきれないぐらいの赤字国債を毎年発行しよう」もやってはいけないことだとすぐわかる。

某政党の話ばっかりになるけど「公務員も民間の考え方を持て!」なんてのはまったくの論外だ。
毎年利益を出さなければならない民間企業、ダメだったらつぶして新しいものをつくればいい民間企業の考え方と、公務員の考え方はまったくべつであるべきだ。



今の日本で「保守」のイメージはすごく悪い。
やれ教育勅語だ、やれ夫婦は同姓であるべきだ、といった「歴史上のある一点(しかも実際に存在したかどうかも怪しい一点)」に回帰しようという一群が「保守」を名乗っている。
本来の保守とはそうではない。
旧来のシステムを守り、守るために漸進的な変革をし、己の理性を疑い、それでもよりよい制度を求めて死者も含めてさまざまな人の声を聴こうとする立場こそが本来の「保守」だ。
 では、いまの日本で「保守」と呼ばれる人たちの考え方はどうでしょうか。ここまでたどってきたような、保守思想の水脈に位置付けられてきたものとはあまりにも異なっています。他者と対話しようとしない、オルテガが言う「敵とともに生きる」ことなど想像もしないであろう、もっとも「保守」とかけ離れた人間が「保守」を名乗っている。自分と異なる意見に対し、レッテル貼りをしながら放言する、そんな人たちが「保守」と呼ばれている状況です。
 さらには、あろうことか国会までが、そうした状況に陥っている。議論がほとんどなくなり、声が大きい人たち、多数派の人たちによって、すべてが強引に決められていく。こうした対話の軽視、リベラルな考え方の喪失こそ、オルテガの恐れた「熱狂する大衆」という問題だったのではないでしょうか。
本来の「保守」政党が現れることを心から望む。

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2020年4月20日月曜日

【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』

はじめての文学 村上春樹

村上春樹

内容(e-honより)
小説はこんなにおもしろい!文学の入り口に立つ若い読者へ向けた自選アンソロジー。

はじめて文学に触れる青少年のために村上春樹自身が撰んだアンソロジー、だそうだ。
多くの漢字にルビがふってあるし、言い回しも子ども向けに書き直したりしているらしい。

ぼく自身にとってはもちろんはじめての文学でもはじめての村上春樹でもないのだが、小学生に戻ったような気持ちで読んだ。装丁が優しい感じがするんだよね。

で、「はじめて大人向けの文学作品を読んでみる小学生」の気持ちで読んでみておもったのは「村上春樹作品ははじめての文学に向いてねえなあ」ってこと。

翻訳調の気取った言い回しとか、現実と空想の境目がぼんやりしたエピソードとか、これといった結末のないストーリー展開とか、どう考えたって「はじめての文学」向きじゃない。
いくらルビをふって優しい装丁にしたって村上春樹は村上春樹。

村上春樹氏って誰もが認める当代を代表する有名作家ではあるけど、作風はかなり異端だからね。
はじめての文学が村上春樹って、はじめて音楽を聴く人にジャズを勧めるようなもんじゃない?

基本を知っているから、逸脱を楽しめるんだとおもうよ。



この本に収録されている作品でぼくがいちばん気にいったのは『踊る小人』。
「象をつくる工場」というシュールな舞台、なんともあやしい小人の存在、そして終盤の気持ち悪い展開に後味の悪いラスト。
うん、ぼく好みだ。
でも「はじめての文学」として誰にでもおすすめできるかというと……どうだろう。

ほんとに「はじめての文学」でこんなの読んだらトラウマになるかもしれない。
こういうのが好きな子どもはとっくに大人向けの本にふれているような気もするし。


若い日の経験を語る『沈黙』は、青春小説っぽいしわかりやすいので「はじめての文学」にふさわしいかもしれない。
現実的だしわかりやすい教訓も引きだしやすいし中学校の教科書に載っていてもおかしくないような話。
でもこれは村上春樹っぽくないんだよな……。
こういうのが読みたいなら村上春樹じゃなくていい。

改めておもう。村上春樹は「はじめての文学」に向いてない。



ぼく自身の「はじめての文学」はなんだろうと考えると、やっぱり星新一作品に尽きる。
文学と認めない人もいるかもしれないけど、ぼくにとってはまちがいなく読書の世界への入口だった。
『ズッコケ三人組』などの児童文学は好きだったが、大人向けの本は読むものじゃないとおもっていた。あるとき(小学三年生ぐらいだった)祖父の本棚にあった星新一『ちぐはぐな部品』を読んで、そのおもしろさに打たれた。
結末の意外性もさることながら、設定のスマートさにしびれた。
バーとかマッチとかの小道具が大人の世界って感じでかっこよかったんだよねえ。これみよがしでないのが余計に
また、やはり母の本棚にあったジェフリー・アーチャーの短篇集も夢中になって読んだ。
こちらは小学六年生ぐらいだっただろうか。
ちょっとエロい描写もあって(といっても女性が下着姿になる程度で今読むとぜんぜんなんだけど小学生には刺激が強かった)、いろんな意味でドキドキしながら読んだ。

子ども向けの文学というと、性や暴力の描写のない爽やかな青春小説みたいなのを考えてしまうけど、むしろ性描写や暴力描写はあったほうがいいんじゃないかと個人的にはおもう。
子どもは大人の世界に触れたいのだ。お金とかセックスとか犯罪とか。現実には触れられないからこそ余計に。

ということで、はじめての文学にふさわしいのは「はじめての文学」シリーズじゃないな。うん。

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2020年4月17日金曜日

【読書感想文】マジもんのヤバい人が書いた小説 / 今村 夏子『木になった亜沙』

木になった亜沙

今村 夏子

内容(e-honより)
誰かに食べさせたい。願いがかなって杉の木に転生した亜沙は、わりばしになって、若者と出会った―。奇妙で不穏でうつくしい、三つの愛の物語。

『木になった亜沙』『的になった七未』『ある夜の思い出』の三篇から成る短篇集。



木になった亜沙


亜沙が食べ物をあげようとすると、なぜか誰も受け取らない。小さい頃から。
どんなに優しい人でも、どんなに亜沙と親しくても、なぜか亜沙の差しだした食べ物だけは口に入れてくれない。
人だけでなく動物も……。
 気がつくと、立ち去ったと思っていたタヌキがいつのまにか仲間を連れて戻ってきていた。横たわる亜沙の横で、ぴちゃぴちゃぴちゃとおいしそうな音をたてながら、木から落ちた甘い実を食べていた。そのようすを横目に見ながら、亜沙はこんど生まれ変わったら木になりたい、と思った。柿の木、桃の木、りんごの木、みかんの木、いちじく、びわ、さくらんぼ。両方の腕にたくさんの甘い実をつけたわたしと、その実を食べにくる森の動物たち。木になりたい。木になろう、遠のいていく意識の中で、そう繰り返しながら、亜沙は人生を終えた。
 次に目が覚めた時、亜沙は自分の願いが叶ったことを知る。亜沙は木になっていた。
はっはっは。なんじゃこの展開。ギャグ漫画のスピード感じゃん。

ほら話もここまでいくとすがすがしい。あっぱれと手を叩くしかないね。

ここからまた話はどんどんおもわぬ方向に展開するのだが、なぜか引きこまれるんだよなあ。
めちゃくちゃなのに妙に理にかなっている。
悲劇なのに妙にユーモラス。
シュールなのに妙に現実的。
奇妙な味わいでおもしろかったなあ。どこがおもしろいのか説明しにくいけど。



的になった七未


他人が投げたどんぐりも、ドッジボールも、なぜだか七未には当たらない。なぜか「当たらない」という宿命を背負った七未。
……と『木になった亜沙』と同じような設定。なぜ同じような話をふたつ並べたんだ。

似た設定でありながら、こちらはよりはっきりと気の狂った女の姿が浮かんでくる。
ユーモラスなところもなく、ただただ気の毒で痛々しい。

今村夏子さんの短篇『こちらあみ子』は知的障碍児の一人称小説だったが、こちらも似ている。
こういう「自分とは別世界にいると我々がおもっている人」の一人称小説を書かせたらうまいなあ、この人は。

でも物語としてはちょっと退屈だったな。『木になった亜沙』のほうがキレがあってぶっとんでておもしろかった。



ある夜の思い出


起き上がるのがいやで、常に腹ばいのまま移動している主人公の女。ある夜、父親と喧嘩をして腹ばいのまま外に出たら同じように寝そべっている男と出会う。男に誘われて家に行く。どうやら男はその家の「おかあさん」に飼われているようだ。主人公は、頼まれるがまま男と結婚することになる……。

これまたふしぎな小説。
途中で「ははーん、じつは主人公が犬か猫かワニ、という仕掛けがあるんだな」とおもっていたら、どうもそうではない。ほんとに人間なのだ。人間が腹ばいになって移動しているのだ。

しかもわけのわからん世界に行った後は、なぜかごく平凡な日常に戻っている。
ううむ。腹ばいの生活というのは何かの暗喩なんだろうか。
とおもったが、ほんとに腹ばいで移動しているのだ。
わけがわからん。
なんなんだこの話は。



三篇とも意味のわからぬ小説だった。
なんだこれは。強いてカテゴライズするならマジックリアリズム小説か。
森見登美彦『太陽の塔』のような。

でももっとわけがわからんのだよな。
たとえば『太陽の塔』は、「現実から超現実に連れていこう」という作者の企図みたいなものを感じたのだけれど、『木になった亜沙』はもっと自然体だった。
常識の中で生きている人間にはわからないけど、わかる人にはこの世界がすごく納得できるんじゃないだろうかという気がする。

マジもんのヤバい人が書いた小説って感じがする。
ぼくは好きだぜ。あんまり大きな声で他人には勧めらんないけど。


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2020年4月16日木曜日

【読書感想文】吃音は「気の持ちよう」じゃない / 近藤 雄生『吃音 ~伝えられないもどかしさ~』

吃音

伝えられないもどかしさ

近藤 雄生

内容(e-honより)
国内に100万人―それぞれを孤独に追いやる「どもる」ことの軋轢とは。頭の中に伝えたい言葉ははっきりとあるのに、相手に伝える前に詰まってしまう―それが吃音だ。店での注文や電話の着信に怯え、コミュニケーションがうまくいかないことで、離職、家庭の危機、時に自殺にまで追い込まれることさえある。自らも悩んだ著者が、80人以上に丹念に話を聞き、当事者の現実に迫るノンフィクション!
自信も吃音に悩み、数多くの吃音者を取材した著者によるノンフィクション。

吃音。昔の言い方だと「どもり」(今でも言う人いるけど)。
当事者、または近親者に吃音の人がいる人でなければ、「そういうものがある」ということは知っていてもそれ以上のことはほとんど知らないだろう。
ぼくもそうだった。

ずっと後になって重松清『きよしこ』を読んだ。かつて吃音に悩まされた重松清さんが、幼少期の自分自身をモデルに書いた小説だ。
そして吃音という障害のことを知った。それまでは単なる「くせ」だとおもっていた。本人が気を付ければ治せるものだと。

その少し後に、ぼくが子どものころ「おまえのしゃべりかた変だよ」と言った女の子とたまたま再会した。彼女の話し方はもうそんなに問題がなさそうだった(完全に治ったのかどうかは知らない)。
ぼくは「子どものころしゃべりかたが変って言ってごめんな」と謝った。すると彼女は「そんなこといろんな人に言われすぎたからひとりひとりのことまでおぼえてへんで」と笑った。
それは「気にせんでええで」の意味だったのだろうか。それとも「いまさら謝られたところでなんにもならんで」の意味だったのだろうか。

ぼくはその言葉で彼女の負っている傷の深さを改めて知った気がした。



著者自身、かつて吃音に悩まされていたそうだ。
 特に自分の名前のように、他の語に言い換えることができない言葉を言おうとするとそうなった。だから電話や自己紹介がうまくできない。電話の鳴る音が怖くなり、初対面の人と会う状況が恐ろしくなった。病院や美容室の受付で口頭で名乗らなければならない場面では、たとえばバッグの中から何かを探すふりをして視線を下げて、「あれ……」などと言いつつタイミングを探り、焦りと息苦しさと格闘しながら、言えると思った瞬間を見計らって名前を告げた。また、ファストフード店に行って「てりやきバーガー」を買いたいと思うと、「て」が言えなくなるために、注文する段階になって「えっと、あの……」などと時間を稼ぎながら、ぱっと言えそうな言葉を探す。そして、たまたま音やタイミングが合い、言えそうだと思った語を、たとえば「チーズバーガー」という語を、それを食べたくなくとも発することになるのである。言い終わると常に全身が疲労感に襲われた。
 大学受験の直前には、その重圧のためか症状は悪化した。私は面接試験で名前や受験番号を言うことはできないだろうと自覚した。結局受けたのは面接のないところだけだったので、吃音が理由ではなく純粋に学力の問題ではあったけれど、全滅し、その後浪人生活が始まると、精神的にも不安定になり、駆け込むようにして心療内科のカウンセリングに通い出した。しかし何も変わらなかった。
自分の名前を名乗る、電話に出る、ファストフード店で「てりやきバーガー」と注文する。
他の人にとっては何の苦労もないことが大きな負担なしにはできない。
そんな状態で生きていくのはたいへんだろう。

また厄介なのは、こういうことが「誰にでも起こりうる」ことだ。
吃音を持たない人でも、緊張して人前で言葉が出てこなくなったり、人見知りから話しかけられなかったり、あわてて言葉がつっかえたりする。
そういう「誰しもたまには経験すること」とよく似た症状だからこそ、なかなか理解されない。
「落ちついて話せば大丈夫だよ」「最初はみんな緊張するけど、慣れれば平気だよ」と考えてしまう人も多いだろう。

車椅子に乗っている人に「落ちついて歩けばちゃんと歩けるって」「最初はうまく歩けなくても慣れたら大丈夫」なんて声をかける人はいないだろうが、吃音の場合は「気の持ちよう」ぐらいに考えられてしまうのだ。

ぼくが「吃音」のことを知ったのも大学生のときだ。
大人になってからも知らない人も多いにちがいない。

そのせいで、落ちつきのないやつ、愚鈍なやつ、コミュニケーション下手なやつとおもわれてしまう。
ここにこそ吃音の苦しみがあるんじゃないかとぼくはおもう。
 吃音には、二つの特徴的な点がある。
 その一つは、「曖昧さ」だ。
 これまで触れてきたように、原因も治療法もわからない、治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。
 そうした曖昧さを抱えるゆえに、当事者は、吃音とどう向き合えばいいか、気持ちを固めるのが難しい。改善できるかもしれないという期待は希望を生むが、達成されない時には逆に大きな失望に変わる。また、常に症状があるわけではないことは、周囲の理解を得るのを難しくする。
この本の著者は今では吃音症状がなくなったそうだが、これといったきっかけがあったわけではないそうだ。
この治療があったとか、この出来事を境にとかではなく、気づいたら治っていたんだそうだ。
なんだかよくわからないけど治ることもあるし、逆にこれといった理由もなく症状が悪化することもある。大人になれば治る人もいるし、そうでない人もいる。

わからないって、苦しいだろうなあ。



この本には吃音を克服した人、吃音の子を持つ母親の苦悩、吃音を苦に自殺を選んだ人、吃音者のために奮闘する人など、さまざまなケースが紹介されている。

同時に、社会的な変化や医学的な見解についても書かれている。
これ一冊読めば吃音者のおかれた状況がおおよそわかる。バランスのいい本だ。
 現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に、
 ・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
 ・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
 ・認知行動療法(心理的・情緒的な側面から症状を緩和する)
 ・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)
 がある。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタルリハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。
 若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。
つまり、全員にあてはまる根本的な治療法はないということだ。
吃音を気づかれにくくするとか、症状を軽くするとか、気にしないようにするとか、「吃音でありながらもなんとかうまくやっていく方法」はあっても、きれいさっぱり治す特効薬のような方法は(今のところは)ないらしい。

これから研究が進めば原因や治療法も確立されていくのかもしれないけど、とりあえず今すぐに効果があるのは「できるだけ多くの人が吃音という障害に対して正しい理解を持つこと」なんじゃないかな。

視力が悪いとかと同じように
「そういうものとして付き合っていくしかないよね」
という認識を、吃音者、非吃音者ともに持つようになれば吃音者もちょっとは生きやすくなるんじゃないかな。


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2020年4月14日火曜日

【読書感想文】良くも悪くもルポルタージュ風 / 塩田 武士『罪の声』

罪の声

塩田 武士

内容(e-honより)
京都でテーラーを営む曽根俊也。自宅で見つけた古いカセットテープを再生すると、幼いころの自分の声が。それは日本を震撼させた脅迫事件に使われた男児の声と、まったく同じものだった。一方、大日新聞の記者、阿久津英士も、この未解決事件を追い始め―。圧倒的リアリティで衝撃の「真実」を捉えた傑作。

昭和の未解決事件である「グリコ・森永事件」が題材。
作中ではいろんな配慮からだろう、「ギンガ・萬堂(ギン萬)事件」となっているが、社名や個人名以外はほとんどが「グリコ・森永事件」そのままだ。

グリコ・森永事件が起きたのは1984~85年。ぼくが乳児のころなのでもちろん記憶にはないが、昭和をふりかえるテレビ番組などで事件の概要だけは知っている。
もしかすると「グリコ・森永事件」という名前よりも「キツネ目の男」の似顔絵の方が有名かもしれない(ちなみにぼくの父は若いころはつり目だったので同僚から「おまえちゃうか」などと言われたらしい)。

『罪の声』は、「幼いころにギンガ・萬堂事件の犯人に協力したかもしれない」男性と、ギンガ・萬堂事件をふりかえる記事を書かされることになった文化部記者が、事件の真相を突きとめるという物語だ。
フィクションなのだが、ついルポルタージュを読んだような気になる。「こんな背景があったのかー」と。どこまでが史実でどこまでが作者の創作なのかわからない。それぐらい上手に嘘をついている。

ぼくは、小説のおもしろさの大部分は「いかにうまく嘘をつくか」にかかっているとおもっている。
もっともらしく細部を積み重ね、ときには大胆に読者を騙す。リアリティがなくてもいい(創作なんだからないのがあたりまえだ)。
ありそうな嘘のときはまことしやかに、なさそうな嘘のときは強気でほら話っぽく。

『罪の声』は嘘のつきかたがすごくうまかった。真実と嘘を巧みに織りまぜ、省略すべき点は省略し、読者が説明してほしいところは微細漏らさず。
まんまと嘘の世界に引きずりこまれた。


ただしルポルタージュっぽいということは、裏を返せば小説としてのケレン味に欠けるということでもある。
犯人グループを追う様子が丁寧に書かれているんだけど、正直にいって冗長だ。さして重要でもない登場人物も多いし派手な展開も意外な事実もない中盤は読むのがしんどかった。
元々グリコ・森永事件のことをよく知っている人が読んだらもうちょっとおもしろく読めるのかもしれないけど。

さっき「嘘のつきかたがすごくうまかった」と書いたけど、うますぎたのかもなあ。もっとハッタリを効かせてくれたほうが小説としてはおもしろかったとおもう。勝手な感想だけど。



ネタバレになるので詳しくは書かないが、『罪の声』では犯人が明らかになる。犯行動機も。
犯人を突きとめ、犯人が動機を語る。ふつうの推理小説ならここで終わる。

だが『罪の声』の読みどころはその先だ。
真相が明らかになっても、まきこまれた人たちの苦しみが消えるわけではない。
被害者側の人たちはまだ同情もしてもらえるし徐々に苦しみも癒えてくるかもしれない。だが加害者側は、事件が終わってからもずっと現在進行形で責められつづける。

加害者の家族になるのと被害者の家族になるの、どっちもイヤだけど、どっちかっていったら加害者側のほうがよりつらいんじゃないだろうか。
目に見えない「世間」から攻撃されつづけるのだ。誰を恨んだらいいのかわからなくなりそうだ。

『罪の声』には加害者の身内が二組出てくるが、一方は事件があったことすら知らずに平和に暮らし、もう一方は身内の起こした事件のせいで一生ずっと死ぬほどの苦しみを背負いつづける(じっさいに命を落とす者もいる)。
この対比がすごく効果的だ。おかげで、加害者家族の理不尽な苦しみがより深刻に迫ってくる。


薬丸 岳『Aではない君と』や東野 圭吾『手紙』など、加害者家族の人権をテーマに書かれた小説は多い。
こういうのを読むと「加害者の家族には何の罪もないのに!」と憤慨するのだけれど、でもいざ自分が被害者側にまわったときに、加害者の身内が幸せいっぱいに暮らしているのを許せるだろうかと考えると……。

われながら狭量で身勝手な人間だとおもうよ、つくづく。


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【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』



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