2019年11月19日火曜日

おばけなんてじゃないさ


小学生のとき、親に「早く寝ないとおばけが出るよ」「いい子にしてないとサンタさんが来ないよ」と言われるたびに「何をくだらないことを言っているんだ」とおもっていた。
「しつけのために嘘を教えるなんて、指導者の立場にある人間として正しい行いとはおもえない」とおもっていた。
「自分が親になってもおばけだのサンタクロースだの妖怪あずきあらいだのといった茶番に子どもは付きあわせないぞ!」と決意した。

で、自分が親になって数年たった今、おばけもサンタクロースもばんばん使っている。
「夜更かししてるとおばけが出るよ」「じゃあサンタさんに悪い子ですって報告しとくわ」と言っている。

こんな恰好をして脅したこともある



同じく幼い子を持つ友人と話すと、やはりみんなおばけもサンタクロースも大いに活用しているようだ。

べつに積極的におばけだのサンタクロースだのと教えるわけではないが、子どもが保育園でおばけやサンタクロースの存在を仕入れてくるので、
「保育士がせっかく教えたものを、あえて否定することもあるまい」
と乗っかっているうちについつい依存してしまうのだ。

子を持ってわかる、先人の知恵の重要性。

おばけやサンタクロースというのは、いってみれば「賞罰の外注」だ。

ふだんは子どもに対する賞罰の権限は親が握っている。
「悪いことをしたから怒ります」
「言うこと聞かないと遊びに連れていきません」
「がんばったから好きなお菓子を買ってあげます」
と。

しかし、権限者が近くにいると都合が悪いこともある。
子どもが大きくなると、知恵をつけてきていろいろ反論されるようになる。
「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
「自分だって〇〇できてないくせに」
「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」

こう言われると困ってしまう。
親にもいろいろ事情があるのだ。
「忘れてた」とか「めんどくさい」とか「いいの! お父さんがいいって言ったらいいの!」とか、それぞれ正当な理由がある。
だがそれを子どもに言っても理解してもらえそうにない。

そこで、外注ツールを使うのだ。
それが、おばけであり、サンタさんであり、なまはげだ。
賞罰を与える主体が遠くの存在であれば、子どもの反論もなんなくかわせる。

「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
→ 「知らない。決めるのはおばけだもん」

「自分だって〇〇をできてないくせに」
→ 「おばけは子どもをさらうから、大人は関係ないんだよ」

「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」
→ 「大人のところにはサンタさんが来ないからね」


子どもというやつは、
大人はルールに従って生きているとおもっているし、
大人の言動は首尾一貫していなければならないとおもっているし、
大人は嘘をつかないと信じている。

大人の正しさを信じてくれることはありがたいのだが、そうすると現実とのズレが生じる。
そのズレを埋めてくれるパテがおばけでありサンタなのだ。

いやはやおばけさん、サンタクロースさん。
いつもたいへんお世話になっております。その節は存在ごと否定してしまい申し訳ございません。
もうほんと、おばけさんには足を向けて寝られません。どちらの方角にいるのか存じあげませんか。


2019年11月18日月曜日

【読書感想文】革命起きず / 『ゴトビ革命 ~人生とサッカーにおける成功の戦術~』

ゴトビ革命

人生とサッカーにおける成功の戦術

アフシン・ゴトビ(著)  田邊 雅之(取材・文)

内容(e-honより)
少年時代、イランからアメリカに移住。家族との別離や人種差別、苦学をしながらのUCLA卒業を経て、世界が注目するサッカー監督へ。数奇な運命と戦ってきた男だから教えられる逆境の乗り越え方と、組織を躍動させる秘訣。

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

アフシン・ゴトビの半生とインタビュー集。
といってもサッカーにあまり興味のないぼくは、アフシン・ゴトビという名前すら聞いたことがなかった。
ゴトビといっても決済日のことではございません(関西ジョーク)。

イランで生まれ、13歳からはアメリカで育ち、韓国代表のコーチやイラン代表監督を経て、2011年からは清水エスパルスの監督を務める人物だそうだ。

この本の刊行は2013年だが、この時点では「ゴトビはすごいぞ! ゴトビが日本サッカー界を変える!」といった調子で書かれているが、残念ながらその後もゴトビはエスパルスで結果を出すことはできず、2014年シーズン途中で監督を解任されている。
もちろんチームの結果が悪いのは監督だけの責任ではないが、とはいえ、10位(2011)→9位(2012)→9位(2013)→15位(2014最終順位)という成績を見ると、少なくともJリーグにおいては“ゴトビ革命”は起こせなかったのだろう。

ぼくとしては「成功者の本」よりも、むしろゴトビ監督が退任した後に「なぜうまくいかなかったのか」を分析する本のほうが読みたかったな。
成功者の自慢話から学ぶことはないが、失敗から得られるものは多いから。



とはいえ、中盤の失敗エピソードはおもしろい。
アメリカのでの大学選手時代に実力はあったので監督に気に入られなかったから試合に出してもらえなかったエピソードとか(あくまで自分でそう言ってるだけだけど)、故郷イランの代表監督に就任したものの権力争いに巻きこまれて様々な妨害に遭った話とか。

オシム氏もユーゴスラヴィア代表監督時代に各方面から脅迫されたって言ってたけど、人気スポーツの監督ってとんでもなく気苦労の多い仕事だよなあ。もちろん采配や指導もたいへんだろうけど、それ以上に本業以外の邪魔が多くて。
国家元首よりたいへんな仕事かもしれない。

このへんの話をもっと読みたかったなあ。
後半はゴトビ氏の「私は〇〇だ。だからきっと成功するだろう」みたいな話が並んでいるけど、2019年の読者からすると「でもあなた成果出せずにクビになってんじゃん」としかおもえないからなあ。

現役でやっている人をヨイショしすぎる本は書かないほうがいいね。



韓国代表チームの参謀、そして日本のクラブチームの監督の両方を経験しているゴトビ氏ならでの「韓国と日本の共通点」はおもしろかった。
 ただしこういう例を除けば、やはり日本にいちばん似ているのは韓国だ。その最大のものがヒエラルキー、つまり「タテの人間関係」で社会ができている点だろう。
 タテ社会の意識の強さは、強いサッカーチームを作っていくうえでネックにもなっている。サッカーではいったんホイッスルが鳴ってしまえば、最低でも45分間は試合が続く。この間、監督はほとんど何もできないし、試合に勝つには選手が自分で考え、判断し、リスクを冒してチャレンジすることが不可欠になる。
 だがタテ社会に慣れてしまっていると、ピッチ上でもなかなか自分で判断が下せなかったり、年上の選手の指示を仰いでしまう。そんなことをしていたら何度チャンスをつくってもフイにしてしまうし、守備でもあっという間にゴールを奪われてしまう。
 また、タテ社会の発想に慣れていると、本来の実力を発揮できないという問題も起きてくる。私が日本に来て気がついたことのひとつは、日本人選手は練習の出来と試合のパフォーマンスにかなり開きがあるということだった。実際、エスパルスにも練習では本当に素晴らしいプレーができているのに、試合になると力を発揮できなくなる選手が多い。
韓国を毛嫌いしている日本人は多いけど(そして日本を毛嫌いしている韓国人もきっと多いんだろう)、それは両国の国民性が「似ている」からなんだろうなとぼくもおもう。

なまじっか似ているからこそ些細な違いが許せないんじゃないかな。
何から何まで違う国民性だったら「もうあいつらはほんとしょうがねえな」ぐらいで呆れることはあってもそんなに腹は立たない。
でも微妙に歪んだ鏡だから「なんでこれが通じないんだ!」っておもって嫌いになるんじゃないかな。

こういうこというと、嫌っている人は烈火のごとく怒るだろうけど。

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【読書感想エッセイ】 木村 元彦 『オシムの言葉』

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』



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2019年11月15日金曜日

早く行くのは三文の徳


中学三年生のとき。
部活を引退して、朝練がなくなった。
せっかく早起きする習慣がついたのにそれを捨てるのももったいないとおもい、早朝から学校に行くようにした。
本を読んだり、当時はまっていた漢字能力検定の勉強をしたりしていた。

ぼくが早く来るのを知って、友人Sも早く登校してくるようになった。
まだ誰もいない教室で、くだらない話をしたり、漢字クイズを出しあったりして過ごすようになった。

あるとき、早朝の教室に男性体育教師が怒鳴りこんできた。
「おいおまえらなにしとんねん!」

突然のことにぼくらはびっくりした。
そのときは漢検の問題集を広げていたので戸惑いながらも「えっ、漢字の勉強してるんですけど……」というと、体育教師はきょとんとした顔をした。

「ほんまか……? そっか、まぎらわしいことすんなよ……」
といって、職員室へ帰っていった。
残されたぼくらは顔を見合わせた。なにがまぎらわしいことなんだ?
どうやら体育教師は、ぼくらが早朝の教室で何か悪いことをしているとおもったらしい。
男子中学生というのは非行に走りやすい年頃だ。同級生には隠れて校舎の裏でタバコを吸ったりしている連中がいたので、ぼくらもその手合いだとおもわれたようだ。

その後も体育教師は何度かそっと教室をのぞきにきた。
よほど「誰にも言われないのに早朝から学校にきて勉強する生徒がいる」ということが信じられなかったらしい。



高校に進学してからも早朝に登校する習慣は続いた。
ぼくは野外観察同好会に入った。もちろん朝練はない。けれど朝練をしている野球部やサッカー部よりもずっと早く登校した。早く着きすぎて校門が開いていないこともあった。

早く行ったからといって何をするわけでもない。
まずは机につっぷして少し寝る。
学校に行って寝るのなら家で寝ればいいじゃないかとおもうかもしれないが、誰もいない教室で寝るのが楽しいのだ。おまけに遅刻の心配もないからストレスなく寝られる。
起きたら、本を読んだり、ときどき宿題をしたり、ぼくほどではないが早く登校してくる友人たちとしゃべったり。

そんなふうに朝の時間をのんびり過ごしていただけなのに、ふしぎと教師からは褒められるのだ。
朝、顔を合わせると「今日も早いな。えらいなー」と言われる。早く来て寝ているだけなのに、えらいと言われる。家でやらなかった宿題を学校でやっているだけなのにえらいと言われる。

これが放課後に教室に残っている場合だとこうはいかない。見回りに来た教師から「いつまで残ってんねん。はよ帰れよ」と注意されたりする。
ふしぎなことに、同じことをやっていても、朝だと「感心な生徒」になり、放課後だと「だらしない生徒」の扱いになるのだ。


そのとき学んだことは、社会人になってからも役に立った。
人は、早く来る人のことを「まじめなやつ」と評価するらしい。

三十分残業しても「がんばってるな」とは言われないが(まあぼくがいた会社は長時間が労働があたりまえだったってこともあるけど)、始業時間よりも三十分早く出社すると「まじめだな」と言ってもらえる。
逆に、始業時間一分前に来る社員は「だらしないやつ」というレッテルを貼られたりする。
毎朝一分前に来る人は、いつも同じ時刻に家を出て、少しでも電車が遅れたら走って遅れを取り戻したりして、すごくがんばっているように見える。毎朝ぎりぎりの人のほうがスケジュール管理をきっちりしているのに、だらしないと思われるのだから気の毒だ。

ぼくはだらしないから早めに家を出る。
ぼくからすると「毎朝一分前に来る」よりも「だいたい三十分前に着く」ほうがずっとかんたんだ。何も考えなくていいのだから。

だらしない人は早めに家を出るほうがいいぜ。
時間を気にしながらあわてるぐらいなら、早起きするほうがずっと楽だぜ。


2019年11月14日木曜日

【読書感想文】壊れた蛇口の消滅 / リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

東京タワー

オカンとボクと、時々、オトン

リリー・フランキー

内容(e-honより)
オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。大切な人との記憶、喪失の悲しみを綴った傑作。
私小説。
読みながら、けっこう早い段階で「ああこれはオカンの死を描いた小説だな」と気づいた。ぜったい泣かせにくるやつだ、と警戒しながら読む。
はたしてそのとおりの展開になるわけだが(まあ世のオカンはだいたいいつか死ぬ)、わかっていても悲しい。他人のオカンでもオカンの死は悲しい。

考えてみれば、「母親が死ぬ」なんてごくごくあたりまえの話だ。
たいていの人は母親より後に死ぬから、人生において一度は母親の死を経験することになる(二度経験する人はほとんどいない)。
だから「母親が死ぬ」というのは「小学校を卒業する」とか「仕事を辞める」とかと同じように普遍的な出来事だ……なのにどうしてこんなに悲しいんだろう。

いや、ぼくの母親はまだぴんぴんしているから母を亡くした悲しみは味わったことはないんだけど、それでもそのつらさは容易に想像がつく。
「父親が死ぬ」とはまた別格の悲しさだ。
ぼくの父も、父親を亡くしたときは泣いていなかったが母親を亡くしたときは号泣していた。
ぼくからしたら祖母が死んだわけだが、あまり悲しくなかった。まあ順番的にいっておばあちゃんは先に死ぬからな、という気持ちだった。
でも父親に感情移入して「この人はおかあさんを亡くしたのか」と考えていたら泣いてしまった。
「自分の祖母の死」よりも「父親のおかあさんの死」と考えるほうが悲しいのだ。


穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』という本の中で、穂村弘氏がこう書いている。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。

(中略)

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この文章、すごく的確に「母への気持ち」を表しているとおもう。
もちろんすべての母子関係にあてはまるわけはないが、少なくともぼくは、この気持ちに全面的に同意する。

「世界中を敵に回してもぼくは君の味方だよ」という安っぽい言葉があるが、母親の子への愛情に関してはこの安っぽい言葉がぴったりとあてはまる。そして子のほうでもそれを知っている。この人はなにがあっても自分の味方なのだ、と。
リリー・フランキーさんの母親も、まさに「壊れた蛇口」のような人だったのだろう。我が子のためなら自分の人生を犠牲にしてもよい。おそろしいほどの愛情。
しかも信じられないことに、そんなふうに考えている母親がめずらしくないようなのだ(ぼくの母親もそれに近い)。おお怖い。


ぼくには娘がいる。
なにがあっても味方でいたい、とおもっている。娘に命の危険が迫っていたら自分の命を投げだすこともやぶさかではない。たぶん。
でも、娘が殺人犯になったらどうだろうか。それでもぼくは娘の味方でいられるだろうか、と考えると自信がない。糾弾する社会の側につくんじゃないかという気がする。

やはりぼくは母にはなれない。



リリー・フランキー氏のオカンのエピソードを読んでいると、なんとも男前な人だなあと感じる。
 小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。失礼なんよ、それは」
(中略)
「うちではいいけど。よそではいけん」
「きゅうりのキューちゃんやったんよ」
「なおのこといけん」
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせないようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカンはあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
 別府のアパートに来て、オカンは勘づいたらしく、こたつにいるボクの前に座って言った。
「あんた、煙草喫いよるやろ」
「うん.........」。なんでバレたんだろうかと、顔を上げられないでいると、オカンは自分の煙草とライターをボクの目の前に差し出した。
「喫いなさい」
「えっ......?」
「喫うていいけん、喫いなさい」
「オレ、マイルドセブンやないんよ......」
 どぎまぎして席を立ち、机の引き出しに隠したハイライトを出して来て、オカンの前で火をつけて喫った。オカンも煙草を喫いながらボクに話した。
「隠れてコソコソ喫いなさんな。隠れて喫ったら火事を出すばい。火は絶対に出したらいけん。人に迷惑がかかる。男やったら堂々と喫いなさい」
 次の日。オカンは別府の商店街で、会社の重役室に置くようなカットガラスの大きな灰皿を買って来て、こたつの上にどかんと置いた。
このエピソードだけで、ああ、“オカン”は立派な人だったんだなあとおもう。
箸の持ち方が変だったり、高校生が煙草を吸っていたりは気にしない。だけど他人に恥をかかせることや火事を出して他人に迷惑をかけることはぜったいに許さない。
自分を守るためではなく他人を守るためのマナーを徹底して教える。
マナーってそうあるべきだよね。
他人を攻撃するためにマナーをふりかざす人が多いけど、他人を守るためだけにマナーを使うオカン。かっこいいなあ。


オカンもオカンなら、オトンのほうも肝の据わったオヤジだ。
「おう。お母さんから聞いたぞ。就職せんて言いよるらしいやないか」
「うん。せん」
「どうするつもりか?」
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのお。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低五年はかかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや。なんもせんならそれでもええけと、五年はなんもせんようにみい。その間にいろんなことを考えてみい。それも大変なことよ。途中でからやっぱりあん時、就職しとったらよかったねえとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな」
これ、よその子になら言える男は多いとおもうんだよね。
ぼくだって甥が「仕事したくない」と言いだしたら「そっか。じゃあしばらく遊んで暮らしたらいい」って言える。どっか他人事だから。
しかし自分の子にこれを言えるかというと、ぼくには自信がない。

大した肝っ玉だとはおもうが、このオトンの場合、単に父親としての自覚があんまりなかっただけかもしれんな……。ほとんど息子といっしょに住んでないから……。

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げに恐ろしきは親の愛情



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2019年11月13日水曜日

【読書感想文】凪小説 / 石井 睦美『ひぐまのキッチン』

ひぐまのキッチン

石井 睦美

内容(e-honより)
「ひぐま」こと樋口まりあは、人見知りの性格が災いし、就活をことごとく失敗した二十三歳。ある日、祖母の紹介で「コメヘン」という食品商社の面接を受ける。大学で学んだ応用化学を生かせる、と意気込むまりあだったが、採用はよもやの社長秘書。そして、初出勤の日に目にしたのはなぜか、山盛りのキャベツだった。

六歳の娘と毎週のように図書館に行って本を借り、毎晩のように読みきかせている。
年間三百冊以上の児童書を読んでいることになるが、それだけの絵本を読んでいるぼくの一押しが、石井睦美『すみれちゃん』シリーズだ。


「これはおもしろい! なんてみずみずしく少女の感覚を表現しているんだ!」と感動して『すみれちゃんは一年生』『すみれちゃんのあついなつ』『すみれちゃんのすてきなプレゼント 』と立て続けに読んだ。どれもおもしろかった。図書館で読んだ本だが、これは買っておいておかねばとおもい購入もした。

妹の誕生、妹との喧嘩、母親に対する不満、友だちとの関係。さまざまな出来事を通して、すみれちゃんの五歳から八歳までの成長を描いている。
同じ年頃の娘や姪がいるのだが、まさにこの時期の女の子ってこんなこと言ってこんな歌つくってこんなことで悩んでるよなあと共感することばかり。
自分が五歳の女の子だったときのことを思いだすようだ。五歳の女の子だったことないけど。



ということで期待しながら、同じ作者の大人向け小説を読んでみたのだが……。

あれ。あれあれあれ。ぜんぜんおもしろくない。
何も起こらない。謎もない。失敗もない。誤解も生じない。裏切りもない。悪意もない。差別もない。不幸もない。
ほんとうに何もない小説なのだ。ただ女性が就職してちょっとずつ仕事に慣れながらときどき料理を作るだけ。なんじゃそりゃ。
めちゃくちゃ文章がうまいとかユーモアがあるとかなら、平凡な日常もおもしろおかしく描けるのかもしれないが、それもない。
「それであの立派なオープンキッチン! すごいですね、吉沢さん」
 と、まりあは言った。
(そしてそれをすんなり聞いちゃう社長って。まるで妻の言いなりになる夫のようではないですか。)
 という部分は、こころのなかで思うだけだ。
「すごいだろ? 奥さんだって言わないようなことをサラッと言っちゃうんだから。でも、同時にそれができたら、いいなと思ったんだよ。なあ樋口くん、人間っていうのはなんでできていると思う?」
(えっ。いきなりなんですか?)
「水と、タンパク質?」
 おそるおそるまりあは答えた。答えながら、ここは食品商社なのだから、食べたものでできていると答えればよかったと後悔し始めていた。
「なるほど。そうきたか。僕はね、記憶でできていると思っているんだ。そう、人間っていうのは記憶なんだよ」
 予想外の答えにまりあは目を白黒させた。もちろん、ほんとうに白黒させたわけではなく、それは比喩だ。実際には、あきらかに大きなまばたきを二度して、米田を見た。
どうよこの説明過剰な文章。
「あ、安藤部長!」
「部長はなしだよ。倉庫番の安藤さん」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、ただの安藤さん」
「ただの安藤さんていうのも、ちょっと」
 まりあがそう言うと、一瞬、安藤はキョトンとした。
「そうじゃないよ。呼ぶときはただのはつけないよ」
 安藤に言われて、今度はまりあがキョトンとする番だった。やや遅れて、
「あっ」
 まりあが小さな悲鳴のような声をあげた。
どうよこのそよ風のようなユーモア。

このつまんなさ、どこかで読んだことあるなと考えておもいだした。
『和菓子のアン』だ……。
「どんなクソつまらない本でも一度手にとったら流し読みでいいから最後までは読む」を信条にしているぼくが、「これはアカン……」と途中で原子炉に放りなげてしまった『和菓子のアン』だ(あぶないからマネしないでね)。
上すべりしている毒気のないユーモア、食に関する半端な蘊蓄、どうでもいい話が延々と続く退屈な展開。どれをとっても『和菓子のアン』だ。

しかし『和菓子のアン』もそこそこ売れていたから、こういうのを好きな人もいるんだろうね。朝ドラが好きな人とか。

ぼくの心には波風ひとつ立たなかったなあ。凪。

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娘の知ったかぶり



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