2019年3月22日金曜日

ラサール石井さんに教えてもらえ!


もう十年以上前、何の番組だったかも忘れたが、テレビで教育についての番組をやっていた。

「子どもたちに大人気の先生」のVTRが流れた。
小学校の教師で、ダジャレを言ったり、変な顔をしたりして、授業中は爆笑の連続。
子どもたちから大人気、そのクラスは学級崩壊とは無縁。勉強嫌いの子どももちゃんと授業を聞くと評判になって、今では他の学校からも多くの教師が視察に来る……。
という内容のVTRだった。

それを見ていた芸能人たちが口々に言う。
「すごくいい先生」
「こんな先生の授業を受けたかった」
「みんながこんな授業をやってくれたらいいのに」

そんな中、スタジオにいたラサール石井氏がこんなことを口にした。
「あのクラスの子どもたちが好きになってるのは勉強のおもしろさじゃなくて先生のおもしろさだと思う。先生の仕事は笑わせることじゃなくて勉強のおもしろさを伝えることだ」

するとその場にいた芸能人たちが言った。
「ふつうは勉強なんて好きにならないよ」
「勉強はおもしろくないけどやらなきゃいけない。だから子どもたちを授業に集中させるだけでいいじゃない」

ラサール石井氏は反論した。
「いやそんなことはない。勉強は本来おもしろいものだ」

すると誰かが言った。
「ラサールさんは勉強ができるからね」

それでその話は終わりになった。

ラサール石井氏の悔しさが、ぼくにも理解できた。



何も言い返さなかったラサール石井氏に代わってぼくが言ってやりたい(言ったのかもしれないけど少なくとも放送はされなかった)。

そうだよ、勉強できるからだよ! だから知ってるんだよ!

勉強できるようにさせたいなら勉強できる人の言うことを聞け! ラサール石井さんに頭を下げて教えを乞え!

おまえは英会話を学ぶときに「英語をまったく話せない人がおすすめする教材」を選ぶのか!
「勉強嫌いの子が選ぶ、いい授業をする先生」なんてそれと同じだぞ!



ぼくは、ラサール石井氏の意見に全面的に賛同する。勉強は楽しい。

ぼくも勉強がよくできた。授業についていけないという経験をしたことがない。
だから「勉強ができる人はそうでしょうけど」と言われたら少したじろいでしまうけど、それでもきっぱりと言いたい。勉強は楽しい、と。

たしかに、勉強ができるから勉強を楽しめるのかもしれない。だが逆もまた言える。勉強を楽しいと思うから、勉強ができるのだ。
サッカーが上手な子がサッカーを好きになり、サッカーを好きな子がサッカーの練習をして上手になるように。


小さい子どもほぼ例外なく身体を動かすのが好きだ。隙あらば外で走りまわろうとする。
運動が得意とか苦手とか関係ない。外でおにごっこしようというとみんな大喜びする。

それが成長するにつれ運動嫌いになってゆくのは、やりたくもない動きを強制されたり、できないことをバカにされたりするからだ。
「体育の授業は嫌いだったけど、身体を動かすのは好き」という人は多いはずだ。

勉強もそれと同じだ。
やりたくないことをやらされたり、できないことを笑われたりするから嫌いになるのであって、勉強は本来楽しいものだ。

わからなかったことがわかるようになる。こんな楽しいことがあるだろうか?



もちろん、「勉強が楽しい」というのと「学校の勉強が楽しい」のはまた別だ。

恐竜の名前を覚えたり、新幹線についていろんなことを知っていたり、アイドルについて詳しかったり、自分の興味のあることには興味を見いだせても、学校の勉強に魅力を感じない人は多いだろう。

でもそれは、勉強の先にある世界を知らないからだ。
ぼくは九九が嫌いだった。なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだ、と思っていた。でもやらないといけないから嫌々覚えた。

高校数学は楽しかった。確率や数列の問題を解くのは楽しかった。解法を覚えるたびに世界の見え方が広がる気がした。
もしも小学生のとき、九九を覚えるのがめんどくさいといって算数を学ぶことを投げ出していたら、この境地にはたどりつけなかっただろう。


学んだことではじめて見えてくる世界というのが存在する。
うちの娘にカタカナを教えようとしたとき、「ひらがなが読めるんだからもういいやん」と言われた。

大人なら誰しも「カタカナの読み書きができなくても何も困らないよ」とは思わない。
それは、カタカナが読める世界を知っているからだ。でもカタカナを学ぶ前の子どもにとっては、カタカナを学ぶことに価値は見いだせないのだ。

井戸から出たことのない蛙には、井戸の外がどうなっているのかわからない。
出てみてはじめて、周りにたくさんの池や沼やべつの井戸があることがわかる。

今では娘もカタカナを読める。もう「カタカナなんかいらないよ」とは言わない。カタカナが読める世界の楽しさを知ったから。

「学ぶことで世界が広がる」という経験をたくさんすることで、学ぶことが楽しいことに気がつく。
学校の勉強というのはそれに気がつくための練習だ。社会に出てから古文が何の役にも立たなくてもいい。古文の学習を通して「学ぶことで世界が広がる」という経験をしたのなら、十分すぎるほどの成果は出ている。



教育者の仕事は、「学んだら新しい世界が見えた」経験をたくさんさせることだ。
「学んだらご褒美をあげましょう」「学ばないと叩くぞ」といって無理やり学ばせることではない。
目的は井戸を登らせることではなく、「アメもムチもなくても自分で登りたくなる」ようにさせること。

学んだからといって必ず世界が広がるわけではない。
学んだものの新しいものは何もなかった、ということもよくある。しかしそれだって学んでみるまでわからない。

失敗しても、成功体験を多く持っていればまたチャレンジできる。
本好きはつまらない本をたくさん読む。映画ファンはくそつまらない映画をたくさん観る。数多くの駄作に触れないといい作品に出会えないことを知っているから。


教師がダジャレや顔芸で子どもの注意を惹きつけること自体は悪いことではない。
しかし問題はその後、どうやって学習のおもしろさを伝えることだ。笑わせることが目的化してはいけない。

ってことが言いたかったんですよね、ラサール石井さん!

え? ぜんぜんちがう? あっ、そうですか。すんません。

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2019年3月20日水曜日

【読書感想文】「人とはちがう特別な私」のための小説 / 村田 沙耶香『コンビニ人間』

コンビニ人間

村田 沙耶香

内容(e-honより)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。

聞くところによると、太宰治を好きな人は「太宰のこの気持ちを理解できるのは自分だけだろう」とおもうものらしい(ぼくはまったく感じなかったけど)。

「生きづらさ」を抱えている人の気持ちを的確に表現したのが太宰の魅力で、けれどそれは「自分では特別なものだとおもっているけれどわりと普遍的なもの」であって、だからこそ太宰は今も一定数の支持を集めている。

穂村弘氏のエッセイにも同じものを感じる。
そして、この『コンビニ人間』も同じ系統の小説だ。

多くの人が「自分だけが特別に苦しんでいる」とおもっていること(つまりほんとは特別でもなんでもない)を『コンビニ人間』は見事に作品化している。
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いてるよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで? せっかく死んでるのに」
 私の疑問に、母は絶句した。
 私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。父は焼き鳥が好きだし、私と妹は唐揚げが大好きだ。公園にはいっぱいいるからたくさんとってかえればいいのに、何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
 母は懸命に、「いい、小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう? あっちでお墓を作って、皆でお花をお供えしてあげようね」と言い、結局その通りになったが、私には理解できなかった。皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
ここまで人の気持ちがわからない人はめずらしいにしても、「人が悲しんでいるところで悲しめない」とか「自分にとってはあたりまえの疑問を口にしただけなのに非常識だと言われる」なんて経験は、多かれ少なかれ誰しも持っているだろう。

ぼくはおじいちゃんやおばあちゃんが死んだとき、ちっとも悲しくなかった。「そうか、もう会えないのか」とおもいつつも「まあ順番的には当然そうなるよね」というぐらい。
自分が中学二年生のときに三年生が卒業してもちっとも悲しくないのと同じだった。

ぼくの母は、花を飾ったり植えたりする人の気持ちがまったく理解できないといっていた。
でも植物を育てることは好きでサツマイモとかゴーヤとかの食べられる植物は育てている。
花を美しいと感じない、ただそれだけ。

そんなふうに、みんな「あたりまえの常識」とはちょっとずつちがう価値観を持っていきている。
その「ちょっとちがう部分」を『コンビニ人間』は巧みにくすぐってくれる。



 いつまでも就職をしないで、執拗といっていいほど同じ店でアルバイトをし続ける私に、家族はだんだんと不安になったようだが、そのころにはもう手遅れになっていた。
 なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。
マニュアルに従うことの心地よさ、というのは少しわかる。

学生時代、家族経営のお好み焼き屋でアルバイトをした。ずっとなじむことができず、三ヶ月でやめてしまった。
「自分で考えて動け」と言われ、自分がこうだとおもう行動をとると「勝手なことをするな」と言われた。店の人は勤務中は厳しいのに、仕事が終わると妙になれなれしく「お父さんはどんな人なの」「慣れない一人暮らしで困ってることない?」と話しかけてきた。たぶんアルバイトのことも「家族同然」におもいたかったのだろう。ぼくにはそれが耐えられないぐらい居心地が悪かった。

その後でアルバイトをしたレンタルビデオ屋は、行動がすべてマニュアルで決まっていた。
返却作業、レジ、清掃、入荷や返品の処理。ひとつひとつにルールがあり、水曜日の20時になったらこれをする、と決まっていた。
マニュアルをおぼえるのはたいへんだったが、おぼえてしまうとすごくやりやすかった。
そして新たな発見があった。マニュアルに従ってやると、ふだんならできないこともできてしまうということだ。

お好み焼き屋でバイトをしていたときは「いらっしゃいませー!」と大きな声を出すのが恥ずかしかった。それはぼくがぼくだったから。
でもレンタルビデオ屋でマニュアルに沿って動いているときは「いらっしゃいませー!」がスムーズに言えた。気に入らない客にも笑顔で「ありがとうございました!」と頭を下げることもできた。自分ではない、"店員"という役になりきっていたからだろう。

ふだんは引っ込み思案な北島マヤがガラスの仮面をかぶることでどんな人物にもなれるように、マニュアルにしたがって行動することで店員らしいふるまいが自然とできるようになるのだ。
衣装を着てメイクをしたほうが役に入りやすいように、マニュアルがあったほうが店員になりやすい。
マニュアル通りの接客は人間の心が感じられないなどというが、むしろ心(みんなと同じ心)を持たない人に心を持たせてくれる装置がマニュアルなんじゃないだろうか。

社会の歯車になんかなりたくねえよ、という人もいるが、社会という機構のパーツとなることがむしろ心地いいひともいるのだ。
むしろそっちのほうが多数派なのかもしれない。



へそまがりなので話題になった本はあまり読まないのだけれど、『コンビニ人間』はすごく評判がよかったので読んでみた。


うん、おもしろい。
自分とはぜんぜんちがう人間なのに、ふしぎと共感できる。

「人とちがう特別な私」のための居場所をつくってくれるような小説だ。
この小説が芥川賞を受賞して売れている、ということこそが「人とちがう特別な私」は特別でもなんでもない、という証左なんだけどね。

「人とはちがう特別な私」であるぼくも、やっぱり共感した。
自分を特別扱いしたままで居場所を提供してもらえるんだから、こんな気持ちのいいことはない。


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2019年3月19日火曜日

【読書感想文】盗人にも三分の理 / 斉藤 章佳『万引き依存症』

万引き依存症

斉藤 章佳

内容(e-honより)
被害総額1日約13億円!なぜ繰り返す?どうすれば止められる?自分や家族が、いつかなるかもしれない。依存症の専門家が解き明かす、万引き依存の実態。

万引き依存症クリニックのスタッフとして依存症治療プログラムに携わっている著者による、万引き依存症の解説。

万引き依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ、どんな人が万引き依存症になりやすいか、万引き依存症になるには家庭に問題があることが多いのでそっちを解決しないといけない……など。
 面白いことに、彼らが言うことはだいたい似通っています。一定のパターンがあるのです。次に挙げるのはクリニックに通院する人たちから聞いた認知の歪みのうち、何人もに共通するものをまとめたリストです。
  • どうせ買うつもりだったんだから、盗ってもいい・たくさん買っているんだから、ちょっとぐらいは盗っていいだろう
  • 私が万引きをするのは、ギャンブルをする夫のせいだ
  • レジが混んでいるから、お金を払わずに店を出よう
  • このお店は死角が多いレイアウトだから、盗ってしまう
  • お店の棚が、盗ってくださいと言わんばかりの配列だから万引きした
  • このお店は儲かっているのだから、少しぐらい盗っても許される
  • 今週は仕事でイヤなことがあったけどがんばったから、万引きしよう
  • 新商品や限定商品は買って使う前に試しておきたいから盗ってもいい
  • 今までたくさん買い物をしてお金を落としてきたから、今日ぐらいは盗んでもいい
  • もっとひどい万引きをやっている人もいるし、私が盗むぐらいはたいしたことない
  • 今月は出費が多かったから、盗むことで収支のバランスがとれるからいいだろう
  • ここのオーナーは、きっと私に万引きしてもらいたいに違いない
  • ここのGメンはぜんぜん見ていないから、少しぐらい盗んでもバレない
  • 私の人生、損ばかりだから盗っていい
  • バレたら、買い取ればいい
どれも被害店舗が聞けば卒倒しそうなほど、勝手な言い分ばかりです。彼らは心からそう思っているので、お店のバックヤードに連れていかれたとき、従業員を前にして大真面目に右のようなことを訴えます。
こんなことを主張する人間は、どう考えたってまともとはおもえない。たしかに治療が必要だとおもう。


ぼく自身は身近に万引き依存症の人がいないこともあって(知らないだけかもしれないが)「万引きをするやつなんてクズ」としかおもっていなかったが、この本を読んで万引き依存症への理解が深まった。

なるほどねえ、病気だから自分の意志だけじゃあどうにもならんもんなんだねえ……。

とおもいつつも、ぼくは言いたい。
「ふざけんな」

この本を読んだ後でも、「万引きをするやつなんてクズ」という気持ちに変わりはない。



この本には、万引き依存症はアルコール依存症やギャンブル依存症と同じ治療が必要な病気だと書かれている。

だがそこを一緒にしていいのか?
アルコールや公営ギャンブルはそれ自体が違法ではないので、ほどほどの距離をとってつきあう分には何の問題もない。
けれど万引きは規模の大小にかかわらず犯罪だ。しかも直接の被害者がいる。

アルコール依存症やギャンブル依存症の人には同情できる面もあるが、万引き依存症や痴漢依存症の人にはまったく同情できない(ちなみにこの著者は『男が痴漢になる理由』という本も書いている。未読)。

著者は万引き依存症の人に同情的だ。
支援プログラムをする立場からしたら当然かもしれない。
が、そのスタンスにどうも納得がいかない。

著者にも「たかが万引き」という意識があるんじゃないのか?

世の中にはストレスが溜まると通り魔をする人間がいる。見ず知らずの人をナイフで刺し、ときには命を奪う。
レイプ依存症としか言いようのない人間もいる。

そういう人間にも「通り魔依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ」「レイプ依存症になるには家庭に問題があることが多いのでまずそっちを解決しないといけない」と言えるか?
通り魔に家族を殺された人がそんなたわごとを聞いたら、ふざけんなと激怒するだろう。

万引き依存症も同じだ。
著者の主張を聞いていると、まるで「彼らもある意味被害者なのです」と擁護しているようにおもえてしまう(そうは書いてないけどね。でもそう言われているようにおもえる)。
万引き依存症の人間は100%加害者だ。もう一度いう、100%加害者だ。

万引き依存症になる背景には、たしかに家族トラブルやストレスなどの他の原因があるのかもしれない。
だからといって罪が軽減されるわけではない。「手厚いサポート」をするとしてもそれはちゃんと刑を受けて罪を償った後の話だ。
「夫が横暴なので夫を刺してしまいました」ならまだ情状酌量の余地もあるかもしれないが「夫が横暴なので近所のスーパーで万引きしました」は、まともに取り合う理屈ではない(たとえ本人が本気でそう思いこんでいたとしても)。

「万引き依存症を放っておくと社会的コストが増すので治療させましょう」という主張には大いに納得できるけど、
「万引き依存症の人たちもまたさまざまな事情で苦しんでいるんです」には「知らんがな」としかおもわない。

被害店舗のことを考えたら「家庭に事情があるから」なんて弁護はとても口に出せないだろうに。



結局、万引きをくりかえす人間も、その治療をサポートする人にも「たかが万引きぐらい」という意識があるのだろう。

だから万引きは病気だから止められないと言いつつ、警察署に強盗に入ったりはしない。
ちゃんと「ここならバレない」「たかが万引き」「もし捕まっても万引きだったら刑罰も軽い」という計算がはたらいているのだ。

極端な話だけど、「万引き依存症だからどんなにやめようとおもっててもやっちゃうんです」と言っている人だって「盗みをはたらいたものは問答無用で腕を切り落とす刑に処す」だったらやらないとおもうんだよね。

刑罰が軽ければ病気だからやめられない、でも刑罰が重ければやらない。ずいぶん都合のよい病気でございますねえ、と嫌味のひとつも言いたくなる。



万引き依存症を止めるには、罪の厳罰化、万引きの通報コストを減らすことなどがいちばんだとおもう。

この本の巻末には、著者と万引きGメンの伊東ゆう氏との対談が掲載されている。正直いって、本文よりもこの対談のほうがよほど納得できた。
伊東ゆう氏は、万引きは加害側と被害側のバランスのとれていない犯罪だと語っている。

よほどの常習でないかぎりは起訴されない、精神病や認知症など他の症状があるとなおさら、起訴されても微罪、万引きを発見して捕まえるにもコストがかかる、捕まえて警察に通報すると現場検証などに数時間とられる。

これでは、数百円ぐらいのものを万引きされたぐらいだと「捕まえるより盗まれるほうがマシ」ということになってしまう。
しかし一件あたりの被害額は大きくなくても、積み重なれば大きな額になる。万引きが原因で倒産する店舗もある。万引き対策に費やすコストもばかにならない。

ぼくは書店で働いていたので、万引き対策のむずかしさはよく知っている。
毎日のように盗まれる。防ごうとおもえば人を増やすしかないが、そうすると人件費のほうが高くつく。

店側の負担をゼロに近づけた上で万引き犯をしょっぴけるようになるといいとつくづくおもう。
万引き依存症の人の気持ちに寄りそうサポートよりも「万引きが見つかったら盗んだものに関わらず50万円を店舗に払わせる法律」のほうが、万引きを減らすにはずっと有効だろう。

まあ万引きが減っても、万引きをくりかえしていたやつらは他の犯罪に向かうだけなんだろうけど。



ぼくがここに書いたようなことは、専門家である著者は当然わかっていることだろう。

万引き犯は身勝手な犯罪者で、万引きされた人のほうが百倍気の毒
そんなことは百も承知だろう。
自明なことだからわざわざ書かなかったのかもしれないけど、被害店舗の視点がほとんどないことにはやっぱり疑問を感じる。

加害者側の立場に立つことも必要だ、と主張しすぎているがために「めちゃくちゃ加害者寄りの本だな」とおもえてしまう。

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2019年3月18日月曜日

【読書感想文】アメリカ大統領も総理大臣も怒っている / 鷲田 清一・内田 樹『大人のいない国』

大人のいない国

鷲田 清一  内田 樹

内容(e-honより)
「こんな日本に誰がした」犯人捜しの語法でばかり社会を論じる人々、あらゆるものを費用対効果で考える消費者マインド、クレーマー体質…日本が幼児化を始めたターニング・ポイントはどこにあったのだろうか。知の巨人ふたりが、大人が消えつつある日本のいまを多層的に分析し、成熟への道しるべを示した瞠目の一冊。

哲学者で大阪大学の総長でもあった鷲田清一氏と、フランス文学者(というか思想家というか文筆家というか武道家というか)の内田樹氏の対談+二人がいろんなところに書いた文章の寄せ集め。
一応テーマは「大人のいない国」なのだが、あまりまとまりはない。ほとんど関係のない話も多い。

全体を貫く明確なテーマみたいなものはないんだけれど、まあそれでもいいじゃないか、という気もする。どんなことでも白か黒かではっきりさせようというのは"大人"の態度じゃない。

内田  相互依存ということをネガティヴな意味でとらえてますね。このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけれど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。ストックフレーズ化した「正論」をべらべらしゃべることの達者な若者に、「ちょっとネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」とはねつけられる。自分たちだってもういい大人なのにね。彼らにしてみたら、自分は「正しい意見」を言っているのに、何が悲しくて「正しくない意見」と折り合わなきゃならないんだ、ということでしょうね。その理屈がわからない。「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
鷲田  何を恐れているんでしょうねえ。
内田  和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。
鷲田さんと内田さんは「最近の日本には成熟した大人がいない」と嘆く。
こういう語り口は好きじゃない。「最近の日本は……」というだけで聞く気がなくなる。だったら成熟した市民がたくさんいた時代っていつのどこなんだ、何をもってそう断定できるんだ、と訊きたくなる(これはこの本の中で「日本人が劣化した」と主張する人に内田氏がぶつけるのとまったく同じ論理だ)。

まあそれはそれとして、白黒つけたい人が多いなあということはぼくも同感だ。
そんなに何もかもはっきりさせなくてもいいじゃないか、もっとあいまいでいいじゃないか、と。

政治を見ていてもそうだ。
まるで賛成か反対のどちらかしかないような言説が多い。
賛成だ、反対だ、だったら採決で決めよう。

政治ってそういうものじゃないでしょ。
多数決で決めるなら政治家いらない。今はインターネットでかんたんに投票できるんだから全部の法案を国民投票で決めればいい。

折り合わない意見をすりあわせてほどほどのところで調整をつけるのが政治だ。お互い納得いかないでしょうがこのへんで手を打ちましょう、と。


「水面下の交渉」が悪いものであるかのように言われるが、それもちがうとおもう。
水面下の交渉が良くないとされるのは報道機関の都合だ。自分たちの知らないところで物事が決まったら報道機関は商売あがったりだから非難するけど、それはきわめて健全なことだ。
ぼくらが家庭やサークルや仕事でルールを決めるときは投票なんかしない。話し合いや阿吽の呼吸で決める。家庭内で投票をしなきゃいけないとしたら、その時点でもうだいぶこじれてると考えていい。

国会で議題に上がる頃にはすでに事前の根回しによって大勢が決している、というのが本当の政治だとぼくはおもう。
国会で丁々発止の論戦、なんてのはパフォーマンスにすぎない。

社内の会議で「まだ何も決まっていません。さあ今からみんなで話し合って決めていきましょう!」と提案するのは、仕事ができないやつだ。
優秀な人間は会議がはじまる前に各方面にキーマンに話をつけて、大まかな道すじを作っておく。会議では最終的な確認と微調整だけ、ということが多い。これこそが政治だ。

「水面下での交渉」や「ほどほどのところでの調整」に長けた人を選ぶのが間接民主制における選挙だ
選挙は正しい人」を選ぶものではない。


本来、採決で決めるのは最終手段のはずなのに(そうじゃなかったら議会の意味がない)、どうもそれが唯一絶対の方法になっている気がしてならない。
「決をとるという行為は、一見個人の意思を尊重しているように思える。
 しかし!! 実は少数派の意志を抹殺する制度に他ならない!!」
ってトンパも言ってたじゃない(『HUNTER×HUNTER』より)。



この本の中では、「白黒はっきりつけないこと」「首尾一貫していないこと」「正解を決めないこと」の重要性がくりかえし語られている。
 今、結婚に際して多くの若者たちは「価値観が同一であること」を条件に揚げる。二人で愉快に遊び暮らすためにはそれでいいだろう。だが、それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件であるということは言っておかなければならない。というのは、両親が同一の価値観、同一の規範意識を持っている完全に思想統制された家庭で育てられた子どもは、長じても教えられた価値観に整合する事象以外のすべてを「存在するはずのないもの」あるいは「存在してはならないもの」として意識から排除するようになるからである。
 スターリンや金正日の統治が非人間的であるのは彼らが「間違った社会理論」に基づいて社会を構築したからではない。「正しい唯一の社会理論」に基づいて社会を構築したからである。そこでは、公式の価値観に整合しないもの(例えば支配者に対する異議申し立て)は「存在しないもの」として無視されるか、「存在してはならないもの」として排除される。
上に引用した文章は内田さんのものだが、鷲田さんも「対立の外に身を置く」ことの重要性を説いている。


うちの娘(五歳)と話していると、物事をすごくシンプルに理解したいんだなあと感じる。
「絵本に出てくるこの人はいい人?」「あれは悪いことだよね」「この前は〇〇だと言ってたじゃない」と。

でも、フィクションの中ならともかく、現実はたいていそうシンプルではない。
いい人が悪いことをすることもあるし、その逆もある。良かれとおもってやったことが悪い結果を招くこともある。時と場合によって同じ人がまったく正反対のことを言うときもある。

五歳には「清濁併せ呑む」なんて芸当がないから、物事をなんとかシンプルに切り分けて理解しようとしているんだろう。

なんでも単純化してしまうのは五歳だけじゃない。大人にも多い。
議論になるような出来事は、清濁併せもっている。戦争も原発も自衛隊も死刑も増税も医療も介護も、みんなメリットデメリットがある。

自宅の前に原発つくるって話なら原発稼働に反対するし、毎日停電が起きますよって言われたら原発稼働停止はちょっと待ってよっておもう。
それで「さあ原発稼働に賛成ですか、反対ですか、どっちか一方に決めてください」といわれても困ってしまう。
明確に割り切れるものならそもそも議論にならない。「タバコのポイ捨て、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」と訊かないでしょ。

ゼロか百かしかないのはきわめて幼稚で、大人のふるまいじゃない。
だから新聞社やテレビ局はまず「現政権を支持しますか? その理由を次の中から選んでください」っていう単純な世論調査をやめたらいいとおもう。
あれで明らかになるのは子どもの意見だけだから。



子どもと大人のいちばんの違いは、自分の感情をいかにコントロールできるかという点だとぼくはおもう。

以下、内田さんの文章。
 だけど、ものすごく怒っている人がいると、その人にはきっと怒るだけの確かな根拠があるんだろうと思ってしまう。だから、とりあえず自分は黙っても、その人の言い分を聞こうということになる。
 なぜ怒っている人間の言うことをとりあえず聞くかというと、怒っている人間というのは集団にとってのリスク・ファクターだからです。
 怒り狂って我を忘れている人間というのは、とんでもない行動をする恐れがある。公共の福利を損なうような行為を怒りにまかせてしてしまう可能性がある。だから、ものすごく怒っている人間がいた場合は、とりあえずその人の怒りを鎮めるということが集団での最優先課題になる。誰かが怒り出したら、とりあえずほかの仕事はストップして、その人の怒りを鎮めることに優先的に資源を分配しようということになる。考えてみれば当然なんです。でも、みんなそれに味をしめてしまった。とにかくはげしく怒ってみせれば、みんなが自分を気づかってくれる。そういうふうにみんなが思い出した。だから、「誰がいちばん怒っているか」競争になってしまった。政治家だけじゃないです、テレビのコメンテーターとか、新聞の論説委員でも、「切れた」人の発言がとりあえず傾聴される。みんな怒りを政治的に利用しようとしているから怒りの連鎖が止らない。
これねえ。なんとかならんもんか。
怒りをあらわにするって、いちばん子どもっぽいふるまいじゃないですか。

うちの幼児なんか、毎日めちゃくちゃ怒ってますよ。

風呂に入れと言われたら「今入ろうとしてたのに!」と怒り、脱いだ服を洗濯カゴまで持って行けと言われたら「わかってる!」と怒り、そろそろ帰ろうと言われたら「いやだ!」と怒り、腹が減っては怒り、眠くなっては怒り、「眠いんだから早く寝ようね」と言われては「眠くない!」と怒っている。

ふつうの口調で言えばいいのに、全部怒る。怒ることで話を聞いてもらおうとする。
だからぼくも妻も、娘が怒っているときは放置する。無視して他の話をする。
「怒ることで他人をコントロール」しようとしても無駄だと教えるために。他人に要求を伝えたいのなら、むしろ落ち着いた語り口を採用しなければならない。

なのに、政治家や記者など「立派な立場」とされるポジションにある人が子どものように怒っている。
それも「私を侮辱するのか!」とかしょうもない理由で。それって幼児の「わかってるのに言わんといて!」と同じレベルだよ。
失礼な態度をとられたら、より慇懃に接するのが大人のふるまいだろうに。

ぼくが前いた会社の社長もこういう人だった。
どうでもいいことでスイッチが入っていきなりキレる人。
そうすると周囲の人は「あの人はやっかいものだから慎重に扱おう」と接する。それを本人は「大事に扱われている」と勘違いしちゃうんだろうなあ。爆弾を慎重に扱うのは爆弾に敬意を持っているからじゃないのに。


ぼくは、すぐ怒る人のことをばかだとおもっている。知性的な人間はそうそう怒らない。ほんとうに怒っているときこそそれを表に出さない。

成熟した大人の数は昔も今も少なかったんだろうけど、昔はまだ「怒りをあらわにするやつはばかだ」という認識が知識層の間にはあったんじゃないかな。
だからこそ「バカヤロー解散」なんてのが名前として残っているんだろう。総理大臣なのに感情的になったぜ、あいつばかだぜ、ってことでああいう名前をつけたんじゃないのか。

だけど今はえらい人がすぐ怒る。
アメリカ大統領も総理大臣も怒っている。「戦略的に怒ったふりをしてみせる」とかじゃなく、ただ怒りをあらわにしている。

こういう非知性的なふるまいが許容されているのはよくない。
ばかなことをしている人は、ちゃんとばかにしなければいけない。

感情のおもむくままに怒っている人はスーパーの床にころがって駄々をこねている幼児といっしょなのだから、ちゃんと言ってあげないといけない。
「そんなこという子はうちの子じゃありません!」

2019年3月16日土曜日

差別主義者判定テスト


先日、住んでいる市からアンケートが届いた。
ランダムに選ばれた人に送っているのだと書かれていた。
多くの人の中からぼくが選ばれた、というのがなんとなくうれしい。御礼ということでボールペンも同封されている。

アンケートに回答していると「なるほど。今回のメインテーマはLGBTなのだな」と気づいた。
「死にたいと思ったことはありますか?」とか「世帯年収は?」といった設問もあるが、LGBTについて問われている設問がやたらと多い。
なるほど、これからどんどん改革をしないといけないホットなテーマなので、それにあたって意識調査をしているわけだな。

ぼくはリベラル派を自称している。
自分自身は異性愛者だが、LGBTの人たちにも住みやすい世の中になればいいと思う。

 同性間での婚姻を認めることについて …… 賛成

 同性カップルについてどう思いますか …… ぜんぜんイヤじゃないよ

 職場の人や友人がトランスジェンダーだったらどうですか …… ぜんぜんいいじゃない。ぼくは差別しないよ!

ってな感じで答えていたのだが、「自分の子どもが同性愛者だったらどう思いますか?」という設問ではたとペンが止まった。

むむむ。それは……イヤ……かもしれない。
いや、正直に言おう。イヤだ。



同性婚に反対する人は、頭の固い古い人間だとばかにしていた。
「同性愛者は生産性が低い」とか「同性愛者ばかりになったら国が滅びる」とかいう政治家を、「現代の感覚にアジャストできない老人」とあざ笑っていた。
自分はちがう、性嗜好や性同一性障害で人を差別したりしないと思っていた。

しかし自分の子どもがそうだったら、と思うとやっぱりイヤだ。
イヤといっても矯正できるものではないので結局は受け入れるしかないのだが、とはいえ心から「そのままでぜんぜんいいよ」と言えるかというと自信がない。
将来娘が女同士で結婚したいといってきたら心からおめでとうと言えるだろうか。わだかまりはないだろうか。「やっぱり男の人じゃだめなの?」と訊いてしまわないだろうか。

自分はリベラルだ、差別意識はない、と思っていても結局は他人事としてとらえているからなんだろう。
いざ自分のすぐ近くのこととして直面すると、「どんな人でも受け入れるよ!」と広げていた手をおろしてしまいそうになる。

自分の娘が結婚相手として連れてきた人が同性だったら、障害者だったら、被差別部落地域に住んでいたら、重い病気を抱えていたら、生活保護受給者だったら。
そうでないときと同じスピードで「おめでとう!」と言えるだろうか。
「差別するわけじゃないけど他の道を選んだほうが苦労しなくていいんじゃない?」とおためごかしに言ってしまわないだろうか。
自信がない。

アンケートのたったひとつの設問が、ぼくの中にあった差別意識を鮮明に暴きだした。