2025年11月18日火曜日

【読書感想文】逢坂 冬馬『歌われなかった海賊へ』 / あの頃憎んだ大人になった自分へ

歌われなかった海賊へ

逢坂 冬馬

内容(e-honより)
一九四四年、ヒトラーによるナチ体制下のドイツ。密告により父を処刑され、居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団を名乗るエルフリーデとレオンハルトに出会う。彼らは、愛国心を煽り自由を奪う体制に反抗し、ヒトラー・ユーゲントにたびたび戦いを挑んでいた少年少女だった。ヴェルナーらはやがて、市内に敷設されたレールに不審を抱き、線路を辿る。その果てで「究極の悪」を目撃した彼らのとった行動とは。差別や分断が渦巻く世界での生き方を問う、歴史青春小説。

 ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。

 この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。

 ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。


 ヴァルディはラジオを慎重にチューニングして、拾いかけた電波を探った。ナチスの退屈なプロパガンダ放送と違い、イギリスを始めとする外国の放送局のドイツ人向けラジオ放送を聴くことは、体制に従順ではない人たちにとって特別な行為だった。彼らの報じる番組には、現実の戦況、ナチスが覆い隠す蛮行、さらには禁制文化もあった。ジャズを始めとする禁じられた音楽。それらを聴取することは当然ながら重罪であったが、最大の刺激だった。そしてこれら外国の放送電波は、昼よりも夜間の方が受信しやすく、毎夜各家庭ではラジオの電波を拾い、ヘッドホンを付けたまま毛布を被る人たちがいた。
 その夜が来た。やがてヴァルディの手が止まり、朗々としたドイツ語が聞こえた。
『……エーデルヴァイス海賊団、大胆不敵にもヒトラー・ユーゲントに戦いを挑み、レジスタンスとして戦う彼らは今や、ドイツにおける唯一の民主化勢力といっても過言ではありません。ナチス独裁体制を打倒すべく、自由と民主主義の理想に向けて戦う彼らの徽章は、その名の通りエーデルヴァイス。彼ら若き自由の戦士の存在は、ナチスの独裁者にとっては忌々しいものでありますが、ドイツ人にとっては希望であります。そして彼らは、戦後ドイツの礎を築いていくことでしょう!』
 明朗闊達なドイツ語がそこで終わり、ジャズの音楽が聞こえた。若者たちはニュースが続くのを待っていたが、これでエーデルヴァイス海賊団についての話は終わりらしく、音楽が終わると、ドイツの各地に連合国陸軍が進軍しており、戦況はドイツにとって絶望的であるという、その場の誰もが知る事実を伝え始めた。
 十一人の若者たちは、しばらく呆然としていた。彼らは互いに視線を走らせた。
 皆が、放送のうちに、どうやら自分たちに浴びせられたらしい賛辞を反芻していた。
 ドイツ唯一の民主化勢力。自由と民主主義。若き自由の戦士。
 ……そうだっけ?
 唐突に、リアが吹き出し、そのまま声を上げて笑い始めた。ヴァルディが続き、それを見ていたヴェルナーも笑い出した。やがてその場の全員が笑い出し、口々に先ほどの放送で聞き取った語句を反復した。
「俺たちがレジスタンスだって」
「違う」
「私たちは民主化勢力だっけ」
「まったく違う」
「戦後ドイツの礎になるの?」
「なるわけない」
 口々に笑うことで、彼らが安心していることが、ヴェルナーには分かった。
 俺たちは、そんなものじゃない。
 ひとしきり笑ったあと、リアはヴァルディにラジオ放送を消させた。
 笑い声も途絶えると、また元の静けさに包まれた。
 ベティが、ぽつりと呟いた。
「私たちはそんなんじゃないのに、どうしてみんな、自分の都合で分かろうとするんだろうね」
 うん、とエルフリーデが頷いた。

 ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。

 たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。


「ゲッベルスやリーフェンシュタール、ナチスの連中がつくるプロパガンダの映画って、よくできてるよな」
 沈黙を破ったのは、リアだった。再びギターを鳴らして、彼女は語る。
「まるで、編隊を組んで次々と急降下に入る攻撃機や、装甲師団の戦車連隊のように、一斉に行進するヒトラー・ユーゲント。旗を振ってそれを歓迎する大人たち。彼らが作る映像には、彼らが映したくないものが映ることはない。そして多分、このあとドイツが戦争で負けても、ずっとああいう映像が残るんだ。一国を単一の思想によって統一させることは難しいけれど、それが成功していると見せかけることはとても簡単なんだろう。まるでヒトラーやナチスが目指したドイツが、完成したようなその映像を見て、人々は思う。ナチスは、ヒトラーは、ドイツを思うがままに操った。皆はヒトラーを熱狂的に歓迎したし、ナチスは国民に支えられて戦争を戦った。ラジオが、映画が人々に噓をついた。この国はペンキで塗りつぶされたように、ただひとつの思想に乗っ取られていた。だからあのときは皆が騙されて、誰も逆らえなかったし、逆らわなかった」
「だけど、私たちはここにいる」
 リアの言葉を継いだのはエルフリーデだった。
「私たちは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ」

 歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。

 人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。



 ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。

 生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。

 おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。

 そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。

 もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。

『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。


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2025年11月17日月曜日

【読書感想文】エヴァ・ファン・デン・ブルック ティム・デン・ハイヤー『勘違いが人を動かす ~教養としての行動経済学入門~』 / 我々はこんなにアホなのだ

勘違いが人を動かす

教養としての行動経済学入門

エヴァ・ファン・デン・ブルック(著)
ティム・デン・ハイヤー(著) 児島 修(訳)

内容(e-honより)
「論理」よりも「情熱」よりも「認知バイアス」が人を動かす。罰も報酬も、知識も議論も、感動も約束もないのに、なぜ人間の行動は「意識できない些細な仕掛け」に自然と誘導されてしまうのか?

 行動経済学の本を何冊か読んだけど、ほとんどどれも実験結果やエピソードがおもしろい(引用の引用だらけの質の低い本もあるけど)。人間ってこんなバカなことをしちゃうんですよ、という話はどうしてこんなにおもしろいのか。

 古典経済学では、常に合理的な選択をする存在として人間を想定していた。1円でも得なことをするほうを選ぶに決まっている、と。

 だが実際の人間はそうではない。明らかに損をすること、自分でも良くないとわかっていることにお金や時間を使ってしまう。

 その愚かな人間の話を読むのが楽しい。自分の中にも愚かな部分だからこそおもしろい。落語の粗忽物を笑うような感覚だ。



 人は己の能力を高く見積もってしまう。ある分野に知識がない人ほど、自分はわかっていると思いこんでしまう。

「もし自分が金融業界の管理職だったら、もっといい仕事ができる」と信じている建設作業員が、気後れすることなくその考えをソーシャルメディアに投稿する。
 自力で自宅のリノベーションができると思い込んでいる企業幹部が、テレビ番組に出演して下手なDIYを披露してしまう。
 ファッションモデルが、たった数時間の調べものをしただけで、現代の医学の大きな問題点がわかったと確信する。
 この効果が面白いのは、そのテーマを学ぶにしたがって、過信の度合いが下がっていくことだ。知識が増えるにつれ、自分がまだ何も知らなかったことに気づくからだ。その結果、「これは常に当てはまることではないかも」「もっと調べないといけないかな」「そこまで断言はできないだろう」と躊躇し始める。
 以前のような自信に満ちた態度は減り、小さな違いが気になって思考が止まったり、葉に詰まって反論できなくなったりしてしまう。そして、知識を持っている人のほうが、たいした知識もないのに自信満々の人たちに道を譲ってしまうことになる。
 だから、トーク番組に出演したテレビドラマの俳優が、付け焼刃の知識で持続可能エスルギーの問題について突然熱く持論を展開することになるのだ。

 たしかになあ。ちゃんとした政治学者や経済学者のほうが慎重な物言いをしていて、ろくに本も読んでいなさそうな芸人や俳優が強い口調で政治について断言している、なんてのをよく見る。まああれは「自分に自信があるバカのほうが言ってることがわかりやすいと思われるから」ってのもあるけど。

 浅い知識しかなければ「与党はこうだ! 野党はああだ!」って言えるけど、しっかり勉強をして与野党それぞれにいろんな人がいてそれぞれいろんなことをやってきてそのそれぞれに功罪両方あって……ということを知っている人はうかつに「あの政党は○○だ!」って断言できないもんな。

 賢い人ほど不明瞭な物言いをする。でもそれはウケない。人は単純な話が好きだ。




 そう、人は単純な話が好きだ。

「ハラヘッタ、ピンポーン、ピザ(Man hungry ding-dong pizza)」というドミノ・ピザのコマーシャルは、ピザの宅配サービスがどういうものなのかを最低限の言葉で表している。筆者(ティム)は広告業に携わっているので、この見事なキャッチフレーズに嫉妬を覚える。
 しかし、ドミノ・ピザ側には歯がゆい部分もあったはずだ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟といった同社の売りをアピールできなかったのだから。
 ファストフードに当てはまることは、環境問題や経済政策、医学研究の分野にも当てはまる。これらの分野の人たちは、メッセージを(過度に)単純化することに強く抵抗することが多い。その結果、メッセージは長くて回りくどいものになり、単純なキャッチフレーズを用いるライバルに大きく水をあけられることになってしまう。

 正確だけど長いメッセージは伝わらない。伝わるのは不正確だけど短い文章だ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟ですら長すぎる。みんな1秒たりとも頭を使いたくないのだ。

 だからSNSで流れてくる情報の真偽を確かめようとしないのはもちろん、「嘘かもしれない」とすら考えない。そう思う1秒の労力すら惜しい。自分の考えに近ければ「これは真実」、反対の意見であれば「これは嘘に決まってる」。ゼロコンマ数秒しか思考しないSNSでまともな議論などできるはずがない。




「(勘違いによって)人を動かすテクニック」もふんだんに紹介されている。

 20年前に友人(と筆者のエヴァ自身)が学資ローンに申し込む際に入力したフォームは、次のように設定されていた。

借入を希望する額は
[✅]上限額まで
[  ]その他希望額(   )

 あなたならどうするだろうか?
 実に、68%の学生が上限額まで借りた。デフォルトの設定を変えなかったのだ。
 筆者と友人がこの効果に引っかかった少し後、政府が運営する学資ローンの申請サイトはこの小さなチェックマークを外した。これで、デフォルトで「上限額まで」が選択されないようになった。
「この程度のわずかな改善では、大した変化は起こらないだろう」と思うかもしれない。
 だが、この小さなチェックマークが外された後、上限額まで借りた学生の割合は11%に激減したのだ。

「上限額まで」という選択肢にデフォルトでチェックを入れるだけで、上限額いっぱいまでローンを組む人が11%から68%まで増えるのだ。

 いくら借金するかなんてその後十年以上にわたって人生に影響する重大事項なのに、それでもチェックマークひとつでかんたんに選択を曲げられてしまう。重大事項でなければなおさらだ。

 これは学生に限った話ではない。専門家ですら重大な判断をする際に直前に目にした数字に影響されてしまう。

「参照効果は、無意識のうちに素早く判断してもいいような、あまり重要ではない状況でのみ有効なのではないか」とあなたは思ったかもしれない。だが、そうではない。次のケースは、実際の実験に基づいている。
 
 法廷で、検察官が判事に事件の説明をする。
 運転手が人をはねた。被害者は一生車椅子の生活を余儀なくされ、賠償金を請求している。運転手は車の点検を怠っており、ブレーキには不具合があった。
 あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?
 
 2番目のグループの判事も、まったく同じ説明を受けるが、被告側から「上訴の最低額は1750ユーロです」という追加の情報が1つあった。
 このグループにも「あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?」と同じ質問をした。
 
 最初のケースの場合、あなたの答えはおそらく100万ユーロを超えるだろう。実際、最初のケースの説明を受けた100人の判事は平均130万ユーロと答えている。だが、上訴の最低額に関する意味のない情報を聞いた100人の判事は、平均で90万ユーロと答えた。
 
 人の人生を左右する決断を下すために高度な訓練を受けた専門家にさえ、参照効果は影響を与えるのだ。

 プロの裁判官の判断ですら動かされてしまうのだから、素人の判断なんかたやすく操作されてしまうだろう。


 選挙なんて、どんなポスターを貼っていたかとか、投票用紙の何番目に政党名が書かれているかとか、直前にSNSで目にした投稿とかでけっこう決まってるんだろうな。選挙慣れしている人たちもそれをわかっているから、目立つポスターにするとか、名前をひらがな表記にするとか、選挙カーでとにかく名前を連呼するとかのアクションを起こすのだろう。「そんなのよりちゃんと政策を訴えろよ」と思ってしまうけど、残念ながら有権者はそんなに賢くないのだ。


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2025年11月14日金曜日

いちぶんがく その24

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



幼児が石川県に触って怪我しないようにというメーカー側の配慮であろう。

 柞刈湯葉『SF作家の地球旅行記』より)




「俺にはやはり恋人がいた!」

(森見 登美彦『四畳半王国見聞録』より)




戻った正気の世界になど、もう何一つ良い事はない。

(吉田 修一『逃亡小説集』より)




いったい誰にあたたかな春の日だまりを批評することができるだろう?

(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』より)




なんと、ここの空気はハエでできていたのだ!

(川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』より)




自殺の方法を一度も調べたことのない人の人生は、どんな季節で溢れているのだろう。

(朝井 リョウ『正欲』より)




改革の推進者は善良ではあるけれど、無知で無能だっただけだろう。

(松岡 亮二『教育格差 ──階層・地域・学歴──より)




ほしいのは自由ではなく、自分で決めているという実感だけだ。

(中野 信子『脳の闇』より)




ゆるキャラやB級グルメやご当地ナンバーが解決策ではない。

高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』より)




戦争の方はいろいろあってまあ、ネタバレをすると神々が勝った。

(小川 哲『ゲームの王国』より)




 その他のいちぶんがく


2025年11月11日火曜日

孫引きの功罪

 引用の引用をすることを「孫引き」といい、原則としてしないほうがよいとされる。

 内容が誤って伝わったり、著作権の侵害とみなされたりするからだ。

 孫引きとはつまり「知り合いの知り合いから聞いたんだけど……」みたいな話だ。そりゃ信憑性は低い。



 が、現実的に孫引きは多くおこなわれている。

 たとえばスタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な実験がある。被験者を看守役と囚人役に分けて行動させていると、次第に看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしくふるまうようになり、さらには看守役は囚人役に対して暴力をふるうようになった……みたいな実験だ(ただし実験の信憑性にはいろいろ疑いが持たれている)。

 

 有名な実験なので、いろんな本でお目にかかることができる。お手軽心理学とか安っぽいビジネス書にもよく出てくる。

 だがそれらの本の著者のうち、いったいどれだけの人がオリジナルの文献を読んでいるだろう。きっと1%もいないだろう。

「こんな実験があるらしいよ」と書いてある本を読み、「へーそうなんだ」と引用して、それをまた別の人が引用して……と、孫引きどころか曾孫引き、玄孫(孫の孫)引き、来孫(孫の孫の子)引き、昆孫(孫の孫の孫)引き……という感じだろう。

 もちろんぼくだって原典にあたったことはないので、上で紹介したスタンフォード監獄実験の説明も孫引きだ(めんどくさいので孫引き以下の引用はすべて孫引きと呼ぶことにする)。えらそうに語ってごめんなさい。


 ただ、ちゃんとした論文や著作ならともかく、日常会話なら「テレビで言ってたんだけど……」「友だちから聞いたんだけど……」「新聞に書いてあったんだけど……」で十分だ。

 孫引きは決して悪いものではない。むしろ「知り合いの知り合いの話」を信じる能力があるからこそ人類は進歩してきたといえるだろう。

 三平方の定理の証明方法を知らなくたって「教科書にそう書いてあるから正しいものとして扱う」として定理を使ってもかまわない。ありがとうピタゴラス。

 あらゆるものの原典にあたるなんて不可能だし、そんなことをしてたら原典を読むだけで一生が過ぎてしまい新しいものを生み出すことはできない。



 なので個人的には孫引きには寛容な立場だ。

 ただ「孫引きをするときはちゃんと孫引きであることを記せ」とはおもう。孫のくせに子のふりをするな、ってこと。


 具体的にどういうことかというと、White Berryがジッタリンジンの『夏祭り』をカバーして、それを聴いたまたべつのアーティストが歌うときに「White Berryの『夏祭り』をあのアーティストがカバー!」っていう歌番組は許せない、って話。



2025年11月10日月曜日

【読書感想文】江崎 貴裕『数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN ~組織と人の行動を科学する~』 / 「集合知」はみんなで話し合うことじゃない

数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN

組織と人の行動を科学する

江崎 貴裕

内容(e-honより)
なぜ、人は想定通りに動かないのか。経営戦略/ビジネスモデル=ルールデザイン?AIで社会のルールはどう変わる?人を活かすルールデザインとは?経営科学、行動経済学、複雑系科学、機械学習・AI、etc.分野横断で「ルール」をとらえる。

 こないだ読んだ松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 に、2000年頃に実施されたゆとり教育の話が載っていた。

 詰め込み教育からの脱却を目指し、子どもたちが自ら考える力を養おうということでスタートしたゆとり教育。

 ゆとり教育では学校での授業時間が減らされた。その結果何が起こったかというと、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせるようになった。授業時間の短い公立校が避けられ、私立校受験の競争が高まった。

「ゆとり」を目指した結果、余計に受験競争は白熱し、成績上位層はよりゆとりがなくなった。その一方で、元々勉強していなかった下位層はさらに勉強しなくなった。

ゆとり教育は大失敗に終わった(少なくとも「勉強しすぎな子どもたちにゆとりを与える」という目的の達成においては)。失敗に終わったのは、データではなくえらい人(ただし賢くはない)の思いつきで実施された結果、ルールの設定を誤ったからである。


 世の中には、そんな「賢くないけど権力だけはある人」のいいかげんな思いつきでまともに機能していないルールがたくさんある。機能しないだけならまだしも、ゆとり教育のように逆の効果を生んでしまったり、適切でないルールのせいでとりかえしのつかない重大な事故を引き起こすこともある。

 ルールの失敗はなぜ起こるのか、防ぐにはどうしたらいいかを数々の事例から説明した本。理論よりも実践向けです。



 たとえば人に何かをさせるためにインセンティブ(動機づけ)ルールを設定することがある。

 企業における成果報酬型給与なんかがわかりやすい例だ。「鼻先にニンジンちらつかせればやる気出すだろ」とはバカでもおもいつく発想だ。バカでもおもいつく発想なので、当然ながらうまくいかないことが多い。

 報酬は、成果に見合った形で与えられないと逆効果になってしまうということが知られています。社員の成果に応じた給与を支払おうと思っても、業務の内容が多岐にわたる場合、その人の貢献を正しく測定することができずに、逆に不満につながったり、内発的動機づけによる頑張りをやめさせてしまう恐れもあります。したがって、納得感のある成果報酬を与えられる状況であることが重要となります。
 報酬はうまく与えられれば、その人のパフォーマンスを大きく上げることができますが、一方で安易に設定してしまうと意外な落とし穴にはまり、全くの逆効果になってしまうことを是非覚えておいてください。

 そうなんだよねえ。ぼくが前いた会社でもインセンティブ制が導入されていたが、その査定基準が不透明で、身も蓋もない言い方をしてしまえば「上司に気に入られたら高い評価を受けて給与が上がる」というシステムだった。

 これでやる気が上がるわけがない。かえって逆効果だ。みんながまったく同じ仕事をしていれば「こいつは同じ時間で平均より高い成果を上げたから高評価」と判断できるが、たいていの会社では人によってやる仕事がちがう。同じ仕事でも条件がちがう(担当エリアが違うなど)。誰もが納得する公平なジャッジなど不可能だ。

 では査定基準を明確にすればいいのかというとそうともかぎらず、ルールが明確だとそれをハックするやつが現れる。たとえば「1ヶ月に500万円の売上を上げたら給与アップ」というルールがあれば、500万円の売上を達成した人はそれ以上売上を伸ばそうとせず、超過分は翌月に回したりする。

 数十年前に「日本企業は年功序列制だからダメなんだ! 成果報酬型にすればうまくいく!」という言説が流行った。さすがに最近ではそんなことを言う人も減ってきた。成果報酬型給与はよほどうまく運用しないと機能しないということがわかってきたのだろう。失敗から学ぶのはいいことだが、その失敗が与えた傷は大きい。



 ルールの作成手順について。

 次に、集団のルールをその構成員で決めることについて考えてみましょう。選挙で投票を行なったり、組織の構成員の待遇を決めたりすることもこれにあたります。こうした状況では、一見「全員にとってフェアな決め方」でも、実際にはそうなっていないケースがよくあります。
 少子高齢化の進行で、日本を始めとする先進諸国では選挙における世代間格差が問題となっています。高齢者が有権者の人口に占める割合が大きいと、高齢者向けの政策が優先される「シルバー民主主義」と呼ばれる状態になります。こうなると、特に子育て世代への福祉が手薄になり、さらに少子化に拍車をかけます。
 実はこの問題は、「もっと若者が選挙に行けば解決する」といった単純な話ではないのです。2020年の統計によると、日本で選挙権を持つ人口は約1億400万人です。この中で、18歳から29歳までを合わせた人口は約1400万人と、全体の約15%にすぎません。一方、5歳以上の高齢者は約3600万人と全体の34%を占めています。さらに、有権者の平均年齢(中位年齢と言われ、選挙公約で重要なターゲットになります)はなんと約52歳です(なお、若い世代の投票率の低さを考慮すると、実際に投票を行なった人の平均はさらに上昇し、50代後半となります。)。つまり、若者の投票率が100%だったとしても、全体に占める割合は小さく、その意味では「若者を優遇する政策」が優先されることはないのです。
 
 さて、高齢者が優遇されても、人口の年齢割合がずっと変化しないのであれば、さほど問題ではないということもありうるでしょう(「若い世代に負担がかかっても、やがその世代が高齢者となったときには恩恵を受けられる社会」を目指すという形も選択肢としてはありえます)。しかし、実際に起きているのは強烈な少子化です。人間は残念ながら若返ることができないので、自分よりも上の世代が優遇されることには寛容(いつか自分もその世代を経験する)ですが、自分より下の世代が優遇されることには反発しがちです(自分が恩恵を受けることができない)。さらに、若い有権者世代より下の年齢(17歳以下)の国民には選挙権が無いので、政治家には彼らが18歳になったときに得をする政策を提示するメリットが少ないのです。その結果、若い世代の低所得化婚化・未婚化が進み、出生率が低下する事態となっています。
 
 こうなってしまうと、将来の世代の人数が減り、さらにこの傾向に拍車がかかるという悪循環に陥ります。ここでは、「将来の世代を代表する人がルール決めに参加できていない」ということが、1つの問題となっています。
 諸外国では、これを是正するためにさまざまな対策が検討されています。例えば、ドイツやハンガリーで検討された「デメーニ投票」という投票方法があります。これは、18歳未満の子供にも選挙権を付与し、その選挙権を親が行使できるようにするというものです。これによって、若者世代にとって有利になる政策を推進することができるのではないかというアイディアでした。ちなみに、同様の制度は日本でも「ゼロ歳選挙権」として注目を集めたことがあります。
 また、投票の世代間格差を是正するための別のアイディアとして、平均余命に応じて投票を重みづけするというものもあります「余命投票」)。余命の期待値が長い若者は多数の票を、短い高齢者は少数の票を投じることができるという制度です。
 いずれの方法も世代間格差を縮小するためのアイディアとして有望ですが、「一人一票の原則が保たれない」、「高齢者という理由だけで選挙権を制限することが許されるのか」といった議論があり、未だ実現していません。

 そう。今の中年以下って高齢者から搾取されてるわけだけど、そのルールって自分たちで決めたものじゃないんだよね。知らない間に決められたルールで知らない間に給与のうちのかなりの部分を高齢者へと回されている。

 これを「ルールなんだから守れ」ってのはかなり横暴な話だよな。今の話を決めるのなら多数決で決めるのもまだ納得できる(多数決はぜんぜん公平な制度ではないが現実的には採用せざるをえない)が、数十年後の話を決めるのに「今いるメンバーでやりましょう」ってのはまったくもってフェアじゃない。

「投票の結果、あなたはクラスの学級委員に選ばれました」

  「えっ、そんな投票いつやったの」

「始業時刻の十五分ぐらい前です」

  「そんなの聞いてないよ」

「はい、あなたはまだ登校してきてませんでしたからね」

  「そんなの仕方ないじゃん。うちは家が遠いんだから始発に乗ってもぎりぎりになっちゃうんだよ」

「とにかくこれはみんなで決めたルールですから守ってくださいね」

  「その“みんな”の中に俺は入ってないんだけど。それなのに負担だけ押しつけられるのかよ……」

「嫌なら学級会で提案してもう一回投票するしかないですね。ただ早く来ていたおかげで面倒な委員から逃れられた過半数の生徒が賛同するとはおもえないですけど」

 年金とか社会保険制度ってこれと同じぐらい無茶なルールだよね。




「話し合って決める」ことの弊害について。

 集合知効果は、ある意味「3人寄れば文殊の知恵」とも言えそうですが、実は少し違っています。このことわざは、「愚かな者でも3人集まって相談すれば、素晴らしいアイディアが浮かぶものである」という意味ですが、「限られた範囲の中で正しい答えを出す」という課題においては、実は「集まって相談してはいけない」のです。既に説明した通り、「回答する人に多様性があることによって、間違った方向の意見が打ち消されて平均として正しい答えが浮き出てくること」がポイントとなるため、(前節で紹介したように)相談によって意見を集約してしまうと間違った意見に流されてしまう危険性が生じるのです。

 学校で「みんなで話し合って決めましょう」と言われるせいで勘違いしている人が多いが、話し合いは往々にして間違える。個々人がそれぞれ考えるよりも劣った結論に至ることも多い。

「三人が別々に(お互いの意見を知ることなく)意見を出す」は一人で考えるよりも優れた結論を出せるが、「三人がお互いの意見を聞いて話し合う」だと、誤った考えに引っ張られてやすくなる。

 後者を“集合知”だと勘違いしている人が多い。すぐに「その件は会議で話し合いましょう」と言ってみんなの時間を食いつぶすタイプの人だ。みんなで話し合えば正しい結論を導きだせる、なんてSNSでの議論を見ていたらどれだけアホな考えかすぐわかる

 必要なのは「会議で話し合いましょう」ではなく「各自の意見を出しあった後、会議で検討しましょう」だ。




 ほとんどが失敗する会議。そんな会議で成果を出す方法。

 さて、会議における集団思考を防ぐために、次のような対策が提案されています。
(1)メンバー各々に「評価する側」の役割を与え、反対意見や質問を言いやすくする
(2)リーダーが最初に自分の考える正解を示さない、また議論に影響を与えないように、会議に出すぎないようにする
(3)計画を策定するグループと評価するグループを分ける
(4)検討するグループを複数のサブグループに分ける
(5)同じ組織でグループ外の仲間や外部の専門家の意見を仰ぐ
(6)多数派の意見に反対や疑問を呈する役割(「悪魔の代弁者」)のメンバーを用意する
(7)まとまった時間を取って、ライバルや敵対する組織の分析を行なう
(8)一度議論がまとまったら第2ラウンドの会議を行ない、残された懸念事項についてチェックする
 例えば、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバ危機の際に集団思考を避けるため、実際にこれらを実践し、外部の専門家を招いて見解を聴いたり、メンバーが所属する別々の部門でも解決策について議論することを奨励、またグループをさまざまなサブグループに分けて議論させたり、自ら意図的に会議に欠席するなどし、柔軟な意思決定を目指しました。

 ぼくはかつて裁判員をやったことがある(一生のうちに裁判員に選ばれるのは60人に1人だそうだ。強運の持ち主!)。

 裁判官と裁判員が討議をするのだが、その討議の方法がまさにここに書かれているようなやり方だった。

  •  裁判長がうまく司会をして、発言の少ない人に意見を求める。
  •  素人である裁判員が先に意見を述べ、本職の裁判官は後に意見を述べる。その中でも裁判長は最後。
  •  裁判長はあえて少数派の立場に立って議論を活発にする。
  •  一度話し合った議題について、日を改めて見落としがないか検討する。

 おかげですごく話しやすかった。議論も深まった。裁判員制度ってよくできてるよ。



 後半はAI時代におけるルールのありかたについて。

 スコア化による差別や偏見の問題は、我々の身近にも存在します。
 2014年、アマゾン(Amazon)社が自社の採用活動に利用するために開発した採用AIツールが男女差別をしていたことが話題になりました。このツールは応募者の履歴書から、その人の職業適性をスコア化するものです。利用された機械学習モデルを詳しく調べると、履歴書に女性を想起させる単語が含まれているだけで、その候補者の評価が下げられていることが判明したのです。
 このAIは同社の社員のデータを元に作られましたが、その際「男性社員が多く、女性社員が少ない」という現実のパターンを学習し、「男性は多く、女性は少なく採用するようにスコアを調整する」ことが行なわれてしまったのです。
 計算機科学の世界では、"Garbagein,Garbageout.という言葉があります。これは、直訳すると「ゴミを入れると、ゴミが出てくる」という意味ですが、システムの入力として欠陥のあるデータを入れてしまうと、その出力は使い物にならないということを端的に表すフレーズです。
 AIを構成する機械学習のモデルにも同じことが言えます。機械学習モデルは「現実のあるべき姿」を出力するのではなく、あくまで「データとして与えられたパターン」を出力します。現実のデータには、既にさまざまな偏見や差別による偏りが含まれていることが多いため、それをそのまま学習させたAIを利用すると、そういった偏見や差別が維持・強化されてしまうリスクがあるのです。

 そうなのよね。ぼくも仕事でAIを利用しているけど、AIって過去から学習することは得意だけど、未来の変化を予測することはすごく苦手なんだよね。「これまでの傾向が今後も続くもの」として予測することしかできない。

 たとえば人材採用をしようとしてWeb広告を出稿する。最近のWeb広告は機械学習が進んでいるので、AIがターゲットを設定して予算を配分してくれる。

 でもそれだと、

高齢者が多く応募してくる(高齢者は採用されにくいので若い人より応募率が高い)
 ↓
AIが「高齢者は応募率が高い」と学習する
 ↓
高齢者に対して多く広告が出稿される
 ↓
ますます高齢者の応募が増え、AIがさらに「若い人より高齢者を狙ったほうがいい」と学習する


みたいなことが起こっちゃうんだよね。「応募しやすい人は採用されにくい人」ということが表面的な数字からはわからない。

 応募後の採用率も学習させればいいんだけど、あらゆるパラメータを入力するのは不可能だし、人間なら「若い人を集めたい」の一言で済む話なのに、AIに対してそのニュアンスを伝えるのはかなり手間がかかる。


 AIが犯罪捜査をすることもできるだろうが、それを進めると

ある属性(居住地や階層や家族構成)の人たちが犯罪率が高いことがわかる
 ↓
AIが、その属性に対して特に厳しくアラートを出すようになる
 ↓
その属性の検挙率が上がり、より犯罪率が上がる
 ↓
その属性の人たちが差別され、社会の中で不遇の扱いを受ける。そのため犯罪に手を染めやすくなる

……というループに陥ってしまう。犯罪率が高いことで差別され、差別されることでますます犯罪に近づいてしまうのだ。

「過去からの学習」を進めると、差別や格差がますます拡大してしまう。

 このへんはまだまだこれから考えていかなくちゃならない問題なので興味深い。「AI時代のルール設計」についてはそれだけで一冊の本にしたほうがいいぐらいのテーマだな。


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