逢坂 冬馬
ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。
この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。
ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。
ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。
たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。
歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。
人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。
ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。
生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。
おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。
そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。
もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。
『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。
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