2025年11月18日火曜日

【読書感想文】逢坂 冬馬『歌われなかった海賊へ』 / あの頃憎んだ大人になった自分へ

このエントリーをはてなブックマークに追加

歌われなかった海賊へ

逢坂 冬馬

内容(e-honより)
一九四四年、ヒトラーによるナチ体制下のドイツ。密告により父を処刑され、居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団を名乗るエルフリーデとレオンハルトに出会う。彼らは、愛国心を煽り自由を奪う体制に反抗し、ヒトラー・ユーゲントにたびたび戦いを挑んでいた少年少女だった。ヴェルナーらはやがて、市内に敷設されたレールに不審を抱き、線路を辿る。その果てで「究極の悪」を目撃した彼らのとった行動とは。差別や分断が渦巻く世界での生き方を問う、歴史青春小説。

 ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。

 この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。

 ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。


 ヴァルディはラジオを慎重にチューニングして、拾いかけた電波を探った。ナチスの退屈なプロパガンダ放送と違い、イギリスを始めとする外国の放送局のドイツ人向けラジオ放送を聴くことは、体制に従順ではない人たちにとって特別な行為だった。彼らの報じる番組には、現実の戦況、ナチスが覆い隠す蛮行、さらには禁制文化もあった。ジャズを始めとする禁じられた音楽。それらを聴取することは当然ながら重罪であったが、最大の刺激だった。そしてこれら外国の放送電波は、昼よりも夜間の方が受信しやすく、毎夜各家庭ではラジオの電波を拾い、ヘッドホンを付けたまま毛布を被る人たちがいた。
 その夜が来た。やがてヴァルディの手が止まり、朗々としたドイツ語が聞こえた。
『……エーデルヴァイス海賊団、大胆不敵にもヒトラー・ユーゲントに戦いを挑み、レジスタンスとして戦う彼らは今や、ドイツにおける唯一の民主化勢力といっても過言ではありません。ナチス独裁体制を打倒すべく、自由と民主主義の理想に向けて戦う彼らの徽章は、その名の通りエーデルヴァイス。彼ら若き自由の戦士の存在は、ナチスの独裁者にとっては忌々しいものでありますが、ドイツ人にとっては希望であります。そして彼らは、戦後ドイツの礎を築いていくことでしょう!』
 明朗闊達なドイツ語がそこで終わり、ジャズの音楽が聞こえた。若者たちはニュースが続くのを待っていたが、これでエーデルヴァイス海賊団についての話は終わりらしく、音楽が終わると、ドイツの各地に連合国陸軍が進軍しており、戦況はドイツにとって絶望的であるという、その場の誰もが知る事実を伝え始めた。
 十一人の若者たちは、しばらく呆然としていた。彼らは互いに視線を走らせた。
 皆が、放送のうちに、どうやら自分たちに浴びせられたらしい賛辞を反芻していた。
 ドイツ唯一の民主化勢力。自由と民主主義。若き自由の戦士。
 ……そうだっけ?
 唐突に、リアが吹き出し、そのまま声を上げて笑い始めた。ヴァルディが続き、それを見ていたヴェルナーも笑い出した。やがてその場の全員が笑い出し、口々に先ほどの放送で聞き取った語句を反復した。
「俺たちがレジスタンスだって」
「違う」
「私たちは民主化勢力だっけ」
「まったく違う」
「戦後ドイツの礎になるの?」
「なるわけない」
 口々に笑うことで、彼らが安心していることが、ヴェルナーには分かった。
 俺たちは、そんなものじゃない。
 ひとしきり笑ったあと、リアはヴァルディにラジオ放送を消させた。
 笑い声も途絶えると、また元の静けさに包まれた。
 ベティが、ぽつりと呟いた。
「私たちはそんなんじゃないのに、どうしてみんな、自分の都合で分かろうとするんだろうね」
 うん、とエルフリーデが頷いた。

 ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。

 たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。


「ゲッベルスやリーフェンシュタール、ナチスの連中がつくるプロパガンダの映画って、よくできてるよな」
 沈黙を破ったのは、リアだった。再びギターを鳴らして、彼女は語る。
「まるで、編隊を組んで次々と急降下に入る攻撃機や、装甲師団の戦車連隊のように、一斉に行進するヒトラー・ユーゲント。旗を振ってそれを歓迎する大人たち。彼らが作る映像には、彼らが映したくないものが映ることはない。そして多分、このあとドイツが戦争で負けても、ずっとああいう映像が残るんだ。一国を単一の思想によって統一させることは難しいけれど、それが成功していると見せかけることはとても簡単なんだろう。まるでヒトラーやナチスが目指したドイツが、完成したようなその映像を見て、人々は思う。ナチスは、ヒトラーは、ドイツを思うがままに操った。皆はヒトラーを熱狂的に歓迎したし、ナチスは国民に支えられて戦争を戦った。ラジオが、映画が人々に噓をついた。この国はペンキで塗りつぶされたように、ただひとつの思想に乗っ取られていた。だからあのときは皆が騙されて、誰も逆らえなかったし、逆らわなかった」
「だけど、私たちはここにいる」
 リアの言葉を継いだのはエルフリーデだった。
「私たちは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ」

 歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。

 人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。



 ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。

 生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。

 おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。

 そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。

 もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。

『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。


【関連記事】

【読書感想文】逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』 / どこをとっても一級品

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿