2025年10月3日金曜日

令和に読むアラレちゃん

 小学6年生の長女が1年生の次女に「誕生日何がほしい?」と訊いた。次女は少し考えてから「『アラレちゃん』のマンガ」と答えた。

 なんでアラレちゃん知ってるの? と訊くと、学童保育に1冊だけ単行本があるのだという。

 なるほど。『アラレちゃん』はぼくも子どもの頃にテレビアニメの再放送を観ていた。低学年でも楽しめそうなギャグマンガだ。


 数日後、長女が本屋に『アラレちゃん』を買いに行った。

「買えた?」

「ううん、なかった」

「えっ、○○書店でしょ? あそこは漫画がかなり充実してるけどなあ。店員さんに訊いてみた?」

「店員さんには訊いてないけど、検索機があったから調べてみた。でもヒットしなかった」

「そうかー。前に行ったときにあったような気がしたけどな」


 その翌週。ぼくと長女がその書店に行ったときに探してみると、『ドラゴンボール』の隣にちゃんと『アラレちゃん』が全巻置いてある。

 なんだ置いてあるじゃないか、検索にヒットしなかったとか言ってたのに。

 だがすぐに長女が『アラレちゃん』を見つけられなかった理由がわかった。


 そうだった。『アラレちゃん』のタイトルは『アラレちゃん』じゃなかった! 『Dr.スランプ』だった。テレビアニメ版では『Dr.スランプ アラレちゃん』だが、漫画版のタイトルは『Dr.スランプ』だけだ。

 そりゃあ検索で引っかからないわけだ。これはむずかしい。入手難度G(グリードアイランドと同等)レベルだ。


 というわけで、長女は無事に『Dr.スランプ』を買うことができ、次女にプレゼントした。1巻から5巻まで。

 次女はむさぼるように読んで、2日で5巻を読んでしまった。おもしろかったらしく、さっそく「んちゃ!」などと言っている。


 ぼくも読んでみた。

 なるほど、これは子どもにとってはおもしろいだろうな。

 奥付を見ると1巻が刊行されたのは1980年だった。今から45年前。でもぜんぜん古くない(今では通用しなくなったネタも多いが)。絵が古びていないし、デフォルメがうまいので読みやすい。テンポもいい。今のギャグマンガよりもテンポがいいぐらいだ。

 残念なのはフォント。すべてのセリフが細めのフォントで書かれている。ボケセリフとか強めのツッコミとかも全部細めのフォント。なんかすごく白々しい。今のマンガだったら太字にしたり手書きにしたりするところだ。フォントって大事なんだなあ。

 あと驚いたのは、ほとんどルビがないこと。ふりがながふってあるのは、中学以上で習うであろう漢字ぐらい。

 ということは小学高学年ぐらいが想定読者だったのだろうか。でも内容的にはウンコとかパンツとかそんなレベルだしなあ。

 でも1年生の次女もふつうに読んでいる。たぶん読めない漢字もいっぱいあるだろうけど、だいたいで読んでいる。そういえばぼくも子どもの頃、習っていない漢字を読めることで大人から驚かれた。あれもマンガから得られたものだった。

 漢字は表意文字だが表音文字の要素も持つ(たとえば「鉱」という字を知らなくても「広」を「コウ」と読むことを知っていれば「コウ」と読める)ので、初歩的な知識があればそこそこ読めてしまうのだ。読めなくても文脈から推測してだいたいの意味を察することはできる。小説だと文章しか手掛かりがないがマンガだと前後の文章+絵がヒントになっているのでより読解しやすい。ダイナマイトを手にしている絵の横で「やめろー爆発するぞー」と書いてあれば、「爆発」の漢字を知らなくても「ばくはつ」にたどりつくのは難しくない。

 最近の子ども向けマンガはほぼすべての漢字にルビが振ってあるが、もうちょっとルビが少ないほうが勉強になっていいのかもしれないな。


『Dr.スランプ』を読んでいちばんおもしろかったのが、本編ではなく、間に挟まれていたおまけマンガ。

 鳥山明氏がどんな感じで仕事をしていたのかが描かれているのだが、愛知県の実家に住んでいたため

「まずラフ原稿を描き、コピーを取って空港に行く。航空便でコピーを編集部に郵送。するとその夜編集者(あの有名なマシリト氏)から電話がかかってきて、修正の指示がある。それを踏まえて修正し、アシスタントに手伝ってもらってペン入れをし、再び空港に行って航空便で送る」

というやり方をとっていたそうだ。

 そうかー。メールはおろかFAXもなかった時代、遠方の人に急いで絵を見てもらおうとおもったら空港に行かないといけなかったのか……。これを毎週やっていたなんてたいへんだ。


 しかしこのやり方だと、修正は一回しかできないだろう。それ以上だと週刊誌連載には間に合わない。たった一回の修正(それも電話での指示)だけであの完成度の高い漫画を毎週仕上げていたのがすごい。

 とはいえ漫画家の立場だったら何度も修正を命じられるよりも、一回だけの修正と決まってるほうがやりやすいかもしれない。あらゆることに言えるけど、チェックが増えるとミスは増える。

 修正が少ないと自由に描けるし。極端なことをいえば、編集部からの修正の指示をまったく無視して原稿を完成させたとしても、よほどのことがない限り編集部としてはその原稿を掲載するしかなかっただろう。

『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』のあのいきあたりばったりなおもしろさ(読者には先の展開が読めない。なぜなら作者にもわかっていないから)は、鳥山明氏が愛知県に住んでいたからこそ生まれたものなのかもしれない。



2025年9月30日火曜日

【読書感想文】藤井 一至『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』 / 土は生命

土と生命の46億年史

土と進化の謎に迫る

藤井 一至

内容(e-honより)
現代の科学技術をもってしても作れない二つのもの、「生命」と「土」。その生命は、じつは土がなければ地球上に誕生しなかった可能性があるという。そして土は、動植物の進化と絶滅、人類の繁栄、文明の栄枯盛衰にまで大きく関わってきた。それなのに我々は、土のことをほとんど知らない。無知ゆえに、人類は繁栄と破滅のリスクをあわせ持つこととなった。そもそも、土とはなにか。どうすれば土を作れるのか。危機的な未来は回避できるのか。土の成り立ちから地球史を辿ると、その答えが見えてくる。

 どうやって地球上に土ができたのか、土は菌・ウイルス・植物・動物とどう関わっているのか、人類の科学進歩によって土はどのような影響を受けているのか、そして土と共存していくためにはどうすればいいのか。

 タイトルの通り、土と生命の関わりについての46億年史をぎゅっと濃縮した本。すごく密度が濃い。おもしろかった。大地讃頌を歌いたくなる。




 まず文章がおもしろい。文章のおもしろさはこの手の本にとってすごく大事なことだ。専門家が素人に向けて書いた本って、書き手と読み手の知識の差が大きいから、往々にしてついていけなくなるんだよね。そんなとき、文章がおもしろければ、内容がいまいちわからなくてもとりあえず読む気にはなる。なんとか振り落とされずに済む。なんとか食らいついていけば、ちょっとずつわかるようになってくる。

 学校のグラウンドでキラキラと光って見えるのは砂粒であり、石英という造岩鉱物の結晶が日光を反射している。甲子園の黒土(火山灰土壌)もキラキラして見えるが、それはひたむきに白球を追う高校球児のまぶしさによるものではなく、園芸会社が混合した石英砂と火山灰(主に火山ガラス)の結晶が光を反射するためだ。手に取ってみるとどれも砂粒にすぎず、水晶玉のような輝きはない。球児のユニフォームを汚す黒土からは、縄文時代の人々の火入れによって残された炭が見つかることもある。炭の主成分は炭素だが同じ炭素からなるダイヤモンドのような輝きも経済価値もない。高校球児はそんな甲子園の土に特別な価値を見いだす。

「砂の中の石英砂と火山灰の結晶は光を反射する。土に含まれる炭素はダイヤモンドと同じ元素から成るが光を反射しない」だとぜんぜんおもしろくないけど、こう書いてくれるとがぜん興味が湧く。

 ひとりでも多くの人に土に興味を持ってもらおう! という著者の熱意がひしひしと伝わってくる。その想い、しかと受け取ったぜ! 土に関する記述も全部ではないけどなんとなく理解できたぜ!


 地学の話って鉱物の名前とか元素の名前がいっぱい出てくるのでかなりとっつきづらいんだけど、この本では少しでもイメージしやすいように、身近なものを使って説明してくれる。

 花崗岩+炭酸水=砂+粘土+ケイ素+塩(ナトリウム)
 
 この式は、何を意味しているのか。具体的な物にあてはめてみたい。愛知県には、織田氏の拠点となった濃尾平野、徳川氏の拠点となった豊橋平野の背後に花崗岩質の山がある。
 戦国大名の斎藤道三が押しのけた守護大名・土岐氏の名をいただく土岐花崗岩だ。花崗岩が風化すると、石英砂、長石、雲母の微粒子に分解し、重い砂は木曽川に運ばれ、まず山のふもと(扇状地)に堆積する。これが細長い大根(守口大根)を生む砂質土壌となる。
 長石が風化してできるカオリナイト粘土(白粉、ファンデーションの主成分)は水の力で運ばれて、かつて名古屋を含む下流域に広がっていた巨大湖(東海湖)に堆積した。それが陶器(瀬戸焼)に使われる粘土層となる。岩石から放出されたカリウムとケイ素は田んぼでイネに吸収され、米を育む。河口域・海へと流れこんだナトリウムは食塩となり、ケイ素は珪藻(植物プランクトン)の材料となってウナギ(椎魚のシラスウナギ)を育む。あわせると、名古屋名物のうな丼になる。
 山の恵み、海の恵みをもたらす山の神、海の神への感謝の思いを新たにする一方で、この反応武は一つ重要なことを教えてくれている。山の恵み、海の恵みは、岩石の風化速度に制限されているということだ。生命は土や海の栄養分の存在量よりも、その循環量によって支えられている。土や海に資源が無尽蔵にあれば気にならないが、循環量を超えて資源を利用すればやがては枯渇する。家計で収入と支出のバランスがとれていないと貯金が目減りし、やがて生活を維持できなくなるのと似ている。循環量を超えて地球は持続的に生物を養うことはできない。この原則に抗う地球史上唯一の生物が人類である。

 いい文章だなあ。理想的な教科書だ。この文章を読むだけで、我々の生活がどれだけ地層に依存しているかがよくわかる。土地ごとに名物があるけど、名物それぞれに自然環境要因があるんだねえ。大地を誉めよ頌えよ土を。




 土とは、鉱物が細かくなったものにくわえて、動植物の糞や死骸が分解されたもの(腐植)が混ざったものをいうのだそうだ。生物がいなければ土はできない。でも陸上生物は土がなければ生きていけない。鶏が先か卵が先か、みたいな話だ。生物が先か土が先か。

 うーん、おもしろいミステリだ。このスケールのでかい謎を、この本では見事に解き明かしてくれる。

 生物が次々に進化しているのと同じように、土もどんどん変化しているのだ。土が変化することで植物や動物が入れ替わり、動植物の行動が変わることでさらに土も変化する。このダイナミックな動きを紹介してくれるのだが、わくわくするほどおもしろい。


 ヒトは山に登るなどして、少し酸素濃度が低下するだけで高山病になるが、大気中のガス成分は地球史を通して大きく変動してきた。まず、酸性だった太古の海が中和されたことで、海には大量の二酸化炭素が溶けこめるようになった。今や海は地球最大の炭素貯蔵庫だ。次に陸上に進出した植物が炭素を固定し、土壌中に腐植として炭素を貯めこむ。土壌には、大気中の二酸化炭素ガスの約2倍、植物体中の約3倍の炭素が貯蔵されている。産業革命以前の地球では、大気中の酸素や二酸化炭素の濃度は火山、大気と海、そして植物と土のあいだの物質の循環によって決まっていた。大気組成はこれらの微妙なバランスに依存し、植物が光合成しすぎると大気中の二酸化炭素が減少してしまうし、微生物が土の有機物を分解しすぎると二酸化炭素が増加してしまう。
 これが杞憂ではないことは歴史が証明している。石炭紀には、リグニンの合成によって分解されにくくなった倒木や落ち葉が未分解のまま泥炭土として堆積し、石炭として化石化したこと大気中の二酸化炭素濃度が急減した。微生物による有機物の分解を上回るスピードで植物が光成をしたことで酸素濃度が上昇し、『風の谷のナウシカ』の世界のように節足動物は巨大化した。酸素濃度が高ければ、巨大化しても体中に酸素が行きわたる。しかし、やがてキノコの分解能力が高まると酸素濃度は低下し、巨大節足動物たちは姿を消した。

 土が変われば空気中の酸素が増え、節足動物が巨大化する。土が変わればまた別の生物たちが台頭する。『風の谷のナウシカ』で「土から離れて生きられないのよ」という台詞があるが、まさにその通り。土が変わったからあんな世界になったのだ。



 正直に言って、この本の内容をすべて理解できたわけではない。むずかしいので流し読みしたところもある。

 それでもおもしろい。文章がいいので断片的に読んでもおもしろいし、だいたいの流れを追っているだけでも地球のダイナミズムを感じられる。読めば読むほど、土と生命の違いってなんだろうという気になってくる。ほとんど生命と変わらないよな。

 実際、土の機能は、人間の脳や人工知能の自己学習機能と似ている。知性の源であるヒトの大脳は100億個以上の神経細胞それぞれが数万個のシナプスでつながることでネットワークを形成し、協働することで思考が可能になる。大さじ1杯の土に住む100億個の細菌もまたすみかと資源(エサ)を共有し、相互作用することで、有機物分解を通した物質循環、食料生産が可能になる。大脳を司る100億個の神経細胞の相互作用と大さじ1杯の土の相互作用。多様な細胞があたかも知性を持つように臨機応変に機能する超高度な知性を、私は脳と100億個の細菌の土しか知らない。


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【読書感想文】藤岡 換太郎『山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門』/標高でランク付けするのはずるい



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2025年9月29日月曜日

フルグラを愛する者として実質値上げにおもうこと

 カルビーが商品の実質値上げをするらしい。

 実質値上げとは、お値段そのままで内容量を減らす「一見値上げに見せずに値を上げる」手口のことだ。


 ま、値上げはいい。原料とか輸送量とかも高騰しているからね。値を上げないとメーカーもやってられないだろう。

 お値段そのままで内容量を減らすのも、理解はできる。なんだかんだいってもやっぱり値が上がれば売上は落ちるのだろう。

 ポテトチップスなんか「もうあんまりおいしいと思わないけど半端に残すのもアレだし、後半はいやいや食べてしまう」こともあるので、内容量そのままで値段を上げるより、値段そのままで内容量を減らすほうがいい面もある(ただあんなに袋に空気をいっぱいに詰めるのはずるいけどな)。


 問題はフルグラだ。

 カルビーが出しているグラノーラ。我が家ではこれを毎朝ヨーグルトに入れて家族全員で食べている。

 あのさあ。フルグラは一回で食べ切るものじゃないわけよ。700gとか入ってるからね。大袋で買って毎日ちょっとずつ使うものなわけよ。

 そういうものを「お値段そのままで内容量を減らす実質値上げ」してごらんなさいよ。どうなるとおもう?

 そう、ただ単に「なくなるのが早くなって、買う頻度が増える」だけなんだよ。


 これまで4週に1回買ってたのが、3週に1回買わなくちゃいけなくなる。

「もうフルグラなくなったのか。この前買ったばかりなのに」とおもいながら。フルグラはけっこう高い。「また買わなきゃいけないのか……」とストレスになる。

 正直、ぼくは日用品や食料を買うときときにいちいち値段を見ていない。「だいたい前といっしょやろ」とおもって買っている。だからちょっとぐらい値上げされても気づかない。でも買う頻度が増えるのははっきりわかる。フルグラがそろそろ切れそうだとおもったら携帯のメモに「フルグラ」と打ちこむから。


 カルビーさんよぉ!

 ポテトチップスはともかくフルグラに関しては素直に値上げしてくれた方が気づかれにくいぞ! 100%の人が「値上げしてもいいから内容量減らすな!」とおもっていることが報告されているぞ(私調べ)。


【映画感想】『悪い夏』

 『悪い夏』
(2025)

内容(映画.comより)
第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞した染井為人の同名小説を北村匠海主演で映画化し、真面目に生きてきた気弱な公務員が破滅へと転落していく姿を描いたサスペンス。

市役所の生活福祉課に勤める佐々木守は、同僚の宮田から「職場の先輩・高野が生活保護受給者の女性に肉体関係を強要しているらしい」との相談を受ける。面倒に思いながらも断りきれず真相究明を手伝うことになった佐々木は、その当事者である育児放棄寸前のシングルマザー・愛美のもとを訪ねる。高野との関係を否定する愛美だったが、実は彼女は裏社会の住人・金本とその愛人の莉華、手下の山田とともに、ある犯罪計画に手を染めようとしていた。そうとは知らず、愛美にひかれてしまう佐々木。生活に困窮し万引きを繰り返す佳澄らも巻き込み、佐々木にとって悪夢のようなひと夏が始まる。

 Amazon Primeにて視聴。以下、ネタバレあり。


 中盤ぐらいまですごくおもしろかった。まじめなケースワーカー・佐々木が、子どもに同情したことをきっかけにシングルマザーである愛美と接近。徐々にひかれあう二人……。

 ただ、佐々木が愛美にひかれていることは映像からでも明らかなのだが、愛美の本心はわかりづらい。はたして本当に好きになっているのか、それとも“計画”のために惚れた芝居をしているのか。

 おそらく両方の要素があるし、愛美本人にもわからないのだろう。何度か「自分の気持ちがわからない」と漏らしている言葉のとおり。自分の感情を素直に出すことのできなかった生い立ちのせいで、理想を直視できなくなっているのだろう。

 このあたりの「愛美の本心はどっち?」が絶妙なミステリとなって、物語にぐいぐい引き込まれる。幸福そうな佐々木と愛美たちの姿が描かれた後に、冷や水をぶっかけるようなタイミングでさしこまれる監視カメラ付きくまのぬいぐるみが不穏すぎる。いやー、ひりひりする。

 映像から伝わってくるまとわりつくような暑さの描写も実にすばらしい。ねばっこい映像にこちらまでからめとられていくような気になる。


 善良かつまじめな公務員であった佐々木が、その善良さ、まじめさがゆえに徐々に悪の道に引きずりこまれていく描写はほんとに見事。底なし沼に向かっていると知らずにどんどん深みにはまっていく姿は見ていて胸が詰まる。

 善良な人間がプロの悪に狙われたらひとたまりもないのだということが伝わってくる。

 だって佐々木にはほんとに何の落ち度もないんだもの。佐々木の先輩職員・高野も同様に転落人生を送るが、こちらは自業自得な面も強いので、その対比で余計に佐々木がたどる運命の理不尽さが強くのしかかる。



 と、中盤までのドラマがほんとにすばらしかっただけに、終盤の雑な展開がつくづく残念だった。


 まず、「金本たちに脅されて佐々木が生活保護受給詐欺の片棒をかつぐ」裏付けが弱い。だって佐々木はこの時点で何の悪いこともしてないんだもの。たしかにケースワーカーが生活保護受給者と肉体関係を持つのは褒められたことではないが、法に触れることではない。

 ふつうに考えれば「金本に脅された時点で警察に駆けこむ」という選択肢もぜんぜんあるんだよな。というかそっちのほうが自然。だって佐々木は脅されるほどのことをしてないもの。愛美に裏切られて自暴自棄になった、と解釈することもできなくはないが、それならそれで余計に愛美のもとから逃げ出したくなりそうなものだし。金本が子どもを材料にして佐々木を脅すとも考えにくいし。

 どうやら原作小説では佐々木が罠にはめられてもうひとつ脅される原因をつくるらしい。なるほど、そっちのほうが納得できる。


 脅されて悪に手を染めるようになった佐々木が生活保護申請者にキレるシーン。あれって佐々木が変わったというより、「余裕がなくなったせいで自分でも気づかないように覆い隠していた部分が発露した」シーンだとぼくはとらえたんだけど、それだったら佐々木の「実は困窮者を見下している」面を前半でもっと描いてほしかったとおもう(冒頭の山田と対面するシーンだけでなく)。


 そしてひどかったのが終盤の全員集合シーン。まるっきりドタバタコントじゃん。笑っちゃったよ。シリアスなはずのシーンなのに。コメディっぽく描きたかったのかなあ。偶然が重なっていいのは二回まででしょ。


 とってつけたようなハッピーエンドも好きじゃなかったなあ。やるなら徹底的に絶望を見せてくれるほうが個人的には好み。最後だけハートウォーミングな感じにされても白けてしまう。

 中盤まではすごくよかったのであの嫌な感じのまま最後までつっぱしってくれたらとんでもない映画になったのになあ。残念。でも総合的に見てもいい映画だったよ。後味悪い作品が好きな人にしかおすすめしないけど。


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【DVD鑑賞】『悪の教典』

昔の曲を主題歌に使うドラマ

  とあるテレビドラマの主題歌にポルノグラフィティの『アゲハ蝶』が起用され、新しいドラマの主題歌に昔の曲が使われるなんてめずらしい! と話題になっている。

……という記事を読んだ。


 え、べつにめずらしくないよね?

 ぼくはテレビドラマをまったく見ない。最初から最後までリアルタイムで見たドラマはひとつもない。放送終了後にDVDや配信で観たものも片手で数えられるほどしかない。

 そんなぼくでも、いくつか挙げられる。

 古くは、1993年の『高校教師』に使われた森田童子『ぼくたちの失敗』(1976年発表)。

 1993年・1997年の『ひとつ屋根の下』に使われたチューリップ『サボテンの花』(1975年発表)。

 1996年の『白線流し』に使われたスピッツ『空も飛べるはず』(1994年発表)。あんまり古くないけど。

 調べたところ、他にもいろんな例があった。書き出すときりがないのでもう書かないけど、『ふぞろいの林檎たち』(1983~1997年)に使われたサザンオールスターズ『いとしのエリー』(1979年)とか。

 いずれも大ヒットした有名ドラマだ。上記4ドラマはどれも観たことがないけど、それでも誰が出ていたかとか、どんなストーリーだったかとかはなんとなく聞いたことがある。それぐらい有名な作品だ。

 マイナー作品も挙げていったら山ほどあるはず。


 ここからは完全に憶測の話になるけど、もしかすると「古い曲を主題歌にするドラマはヒットしやすい」のかもしれない。

・古い曲/すでにヒットしている曲を起用することで幅広い年齢層を取り込める

・曲をよく知った上で起用しているのでドラマの雰囲気と曲がマッチしやすい

・レコード会社が売りだしたい新曲を使わなくていい=しがらみにとらわれずにドラマを作れるぐらい制作側(監督、脚本家など)が力を持っている、すなわち実力のある人が余計な配慮をせずに作っているからおもしろい


 ということで、『アゲハ蝶』が主題歌のドラマもおもしろいはず! タイトルも出演者もストーリーもまったく知らないけど!