2024年12月19日木曜日

小ネタ28 ( でかい顔の市 / おばけなんてないさ )

でかい顔の市

 日本三大「市のくせに県よりでかい顔をしている市」といえば、神戸市、横浜市、金沢市であることは全国民が知っているところだ(次点で仙台市)。

 奇しくも、神戸市には兵庫区があり、横浜市には神奈川区がある。「兵庫(神奈川)の中に神戸(横浜)があるんじゃない、神戸(横浜)の中に兵庫(神奈川)があるんだ」というために兵庫区(神奈川区)をつくったのだろう。あいつらならそれぐらいのことはやる。

 だが石川区はない。そもそも金沢市は政令指定都市ではない。

 金沢区はあるが、石川県ではなく、神奈川県横浜市の中にある。横浜はどこまでも貪欲だ。


おばけなんてないさ

 童謡『おばけなんてないさ』の一番の歌詞はみんなよく知っているように
「ねぼけたひとが みまちがえたのさ」だ。

 あまり知られていないが、あの歌は五番まであり、二番以降はAメロを二回くりかえす。

 二番は「ほんとにおばけが でてきたらどうしよう れいぞうこにいれてかちかちにちちゃおう」

 三番は「だけどこどもなら ともだちになろう あくしゅをしてから おやつをたべよう」

 四番は「おばけのともだち つれてあるいたら そこらじゅうのひとが びっくりするだろう」

 五番は「おばけのくにでは おばけだらけだってさ そんなはなしきいて おふろにはいろう」


 いい歌詞だ。世界の広がりがある。

 一番はただ今の心情を歌っているが、二番では「でてきたらどうしよう」と心配から空想になる。

 三番、四番はその空想を発展。「ほんとにおばけがでてきたら」「こどもなら」「つれてあるいたら」と想像の上に想像を重ね、ともだちになったおばけと歩く空想までしている。

 五番では「そんなはなしきいて おふろにはいろう」と一気に現実に引き戻される。夢オチみたいなものだ。ここだけ、前の章とのつながりが途切れているように感じる。

 だが、“おばけだらけだってさ” “そんなはなしきいて”を読むと、歌い手におばけの話をしてくれた者がいることがわかる。それは誰か。おとうさんやおかあさんとも考えられるが、ぼくは“おばけのともだち”じゃないかとおもう。おばけのくにの話を聴かせてくれるのはおばけだろう。

 つまり五番は現実に引き戻されたわけではなく、まだ空想の中にいるのだ。空想の中で空想のおばけから空想の話を聴いて、空想の中でおふろに入ろうとしているのだ。

 どこまでも広がってゆく空想。空想に終わりなんてないさ。


2024年12月17日火曜日

【読書感想文】村中 直人『〈叱る依存〉がとまらない』 / 叱らずに済む人は幸せである

〈叱る依存〉がとまらない

村中 直人

内容(e-honより)
「叱る」には依存性があり、エスカレートしていく―その理由は、脳の「報酬系回路」にあった! 児童虐待、DV、パワハラ、加熱するバッシング報道…。人は「叱りたい」欲求とどう向き合えばいいのか? つい叱っては反省し、でもまた叱ってしまうと悩む、あなたへの処方箋。


 人を指導する立場にある人がつい使ってしまう「叱る」。だが、指導される側を成長させるのにはほとんど役立たないことがわかっている。だがいまだに指導の現場では「叱る」は広く使われている。なぜなら「叱る」ことには(悪影響もあるとはいえ)効果があるとおもわれているから。




 著者は、「叱られることでがんばれる」「叱られることに慣れていないと社会に出てから苦労する」といった通念が誤っていると指摘する。

 では、なぜ「叱る」は多くの人に「効果がある」と誤解されてしまうのでしょうか?
 最大の要因は、ネガティブ感情への反応には即効性があることです。叱られた人(例えば子どもや部下)たちは、多くの場合、即座に「戦うか、逃げるか」状態になります。人間に限って言うなら、なんとか「逃げたい」と思う状態になることが多いでしょう。権力の不均衡がある中で、権力者に対して「戦う」ことを選択し続けるのは至難の業だからです。中には戦い続けるお子さんや部下もいますが、相当な「才能」の持ち主だと私は感じています。
 では「逃げる」とは具体的に何をすることでしょうか。一番手っ取り早いのは、言われた行動をしてみせることです。もしくは申し訳なさそうに「ごめんなさい。もうしません」と言うことです。それは「叱る側」の立場からすると、望んだ結果がすぐに得られたと感じる瞬間かと思います。「言っていることが伝わった。わかってくれた」とも感じるかもしれません。つまり相手が学んだと思うのです。また、その場に居合わせる第三者にも、わかりやすい「効果」を見せることができ、きちんと対応していると納得してもらいやすくなります。ここに「叱る」が効果的な方法だと誤解される原因があります。

 叱った相手が頭を下げて「ごめんなさい」と言った。こちらは「ああ、理解してもらえた」とおもう。だが相手は深く反省などしていない。「なんかこの人は怒っているからこれ以上刺激しないように頭を下げて嵐が通りすぎるのを待とう」とおもっているだけだ。

 これはよくわかる。ぼくはこれまでの人生で何千回と叱られてきたが、叱られている最中に深く反省していたことなんてほとんどない。反省したとしても「今度は叱られないようにしよう」とおもうだけで、行為自体を反省することはほとんどない。


 以前勤めていた会社でのこと。ぼくが最終退出者だったのだが、オフィスの電灯を消すのを忘れて帰ってしまった。

 翌朝、上司から怒られた。「昨日電灯つきっぱなしだったぞ」と。ぼくが悪いので「すみませんでした。気を付けます」と頭を下げた。だが上司の説教は止まらない。ミスがないように注意しなきゃだめじゃないかとか、電気代がもったいないとか、ねちねちと続けてきた。

 聞いている間、ぼくは反省などしていない。「今さらどうしようと消し忘れてしまった事実は取り消せないし、対策としては気を付けますとしか言いようがない。タイマーを導入してシステム的に消し忘れを防ぐことはできるかもしれないが、得られるものとコストを比較したら現実的じゃないしな」とおもうだけだ。

 ぼくが反省していない(いや最初は反省してたんだけど)ことが伝わったのか、上司の説教はさらにヒートアップしてきて、しまいには「火事になったらどうするんだ」なんてわけのわからないことまで言いだした。ぼくは「何言ってんだこいつ」とおもう。それが伝わり、上司はますます感情的になる……。

 いやー、実に不毛な時間だった。

 こういう不毛な時間を回避するには「深く反省しているふりをする」が最善の方法となる。いろんな組織に「怒りっぽい人」がいるが、その周りの人は「反省しているふり」ばかりがうまくなる。お説教を早くやりすごすために反省しているふりをする。叱っているほうは気分が「指導できた」と勘違いして気分が良くなり、味をしめてますます叱るようになる……。




「叱る」ことは意味がないどころか、指導という点では逆にマイナスの効果があると著者は指摘する。

 理不尽に耐え続けるということは、報酬系回路が活性化される「冒険モード」の機会を奪われ続けることも意味しています。危機からの回避や闘争は、「欲しい、やりたい」という心理状態とは両立しないからです。まして理不尽によって「諦め」を引き起こすことは、「欲しい、やりたい」という気持ち自体を奪うことです。そういった状態が続くと、人はそもそも「やりたいことが何かわからない」という状態になってしまう可能性が高くなります。

「冒険モード」とは学習意欲が高まった状態のこと。叱られることで学習意欲は低下し、やる気もなくなる。当然結果は悪くなるので叱る側はますます腹を立てて叱るようになり……という悪循環が生まれる。


 叱ることで得られるものは「相手を思考停止にさせる」ことだけ。

 だから「赤信号で飛び出そうとする子どもを叱る」のは効果がある。何も考えずに足を止めさせることができるので。

 ただしそこから「赤信号で飛び出そうとしたら車に轢かれるかもしれない。これからは交通安全に気を付けて行動しよう」という学びを得させることはできない。

 また、悪いやつが「いいからとにかくハンコを押せ!」というときも叱ることは効果的だ。思考停止にさせたほうがいいので。




 指導・教育をする上では効果がない(それどころか妨げになる)にもかかわらず叱る指導をしてしまうのは、叱られる側ではなく叱る側にあると著者は語る。

 しかしながら、その後の研究では、処罰行為は規範を維持するためだけのものではなく、相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰(Spiteful Punishment)もまた、報酬系回路を活性化させると報告されています。つまり単に相手を苦しませるだけの行為でも、人は気持ちよくなったり、充足感を得たりすることがあるのです。また、怒りの感情が背景にあって、その行為がなんらかの復讐の機会となっている場合に、報酬系回路の活動がより高まるという報告もされています。みなさんも、意地悪な相手やずるをした人に、仕返しをすることで気持ちがすっと晴れた経験があるかと思います。  どうやら、他者に苦痛を与えるという行為そのものが、人にとっての「社会的な報酬」の一つになっているようです。私たちはこの事実をどのように受け止め、どう向き合っていくのかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

 他人を叱ることが快楽をもたらすのだ。ネットの“炎上”もこういうケースが多い。やらかしてしまった人たちに無関係の人たちが群がり、非難の声を上げる。

 あれも「叱る」行為の一種だろう。自分とは関係のない出来事でも、叱ることが気持ちいいから叱ってしまうのだ。


 よく叱る人は、たいてい自分に問題があるとは考えない。「自分だってほんとは叱りたくない。叱られるようなことをするこいつが悪いんだ」という思考になる。

 だがそれは正しくない。あくまで原因は“叱る側”にあるのだ。酒自体が悪いのではなく酒を飲む側に問題があるのと同じく。

「何度言わせるんだ!」と叱りつづける人がいるが、問題は叱る側にあるのだから、自分が変わらないかぎり、叱る原因がなくなることはない。



 著者の書いてあることはよくわかる。

 ただなあ。現実的に、子どもを育てたり、多くの人を指導したりする上で、まったく叱らないというのは難しいんじゃないかな。

 進学校の高校教師が「叱らずに生徒指導をする」のはそんなに難しくないかもしれない。でも、いわゆる荒れてる学校、学習障害すれすれぐらいの子だらけの学校で「叱らない指導」はできないとおもう。

「叱らずに指導をする」ってのはある一定の知性や常識や意欲を持ちあわせている相手には有効でも、そうじゃない相手もいるわけで。野生のクマ相手に「話せばわかる!」と言ってもしかたないのと同じく、ある程度言葉が通じないと「叱らない指導」はできない。


 「叱る」は抑止力として予防的に用いることが基本です。つまり実際には叱らずに、予告だけするのです。実際に叱ってしまうと相手は「防御モード」になって、言い争ったり隠蔽しようとしたりする可能性が高くなります。ということは、実際に叱らなくてはならない状況を招いてしまった時点で、本来は「叱る人」の失敗だと考えるべきなのです。
 また、抑止のための「叱る」は、ただ特定の行動を避けるようになるという意味の効果しかなく、望ましい行動を身につけることにはつながりにくい点も忘れてはいけません。「何をしたら叱られるのか」を伝えると同時に、「どんな行動が求められているのか」「何を大事に考えるべきなのか」など、学んで欲しい具体的な事柄を伝えることが大切です。ただし、これらを「叱る」からの流れで伝えることはおすすめできません。ネガティブ感情で「防御モード」が活性化している時は、理解力が下がっていますし、攻撃的な気持ちになっているので素直に聞くことも難しいのです。

 これもなあ。ときどきほんとに「叱る」からこそ、抑止として使えるとおもうんだけど。原爆の怖さを知っているから核が抑止力になるわけで。


 著者は、人は叱られると「防御モード」になって思考停止・逃避・反撃に向かい、うまく褒められると「冒険モード」になって学習意欲が高まると書いてある。

 一般的な傾向はそうかもしれないが、例外も多い。

 たとえば叱らずに普通に話をしただけで「防御モード」になる人は大人でも子どもでもけっこういるんだよね。「なんでこれをしたの?」と(怒らずに)聞いても、攻撃されたと感じて言い訳や反撃をしはじめる人が。


 うちの長女がまさにそうで、こないだ風呂に入らずに寝ようとしていたので「お風呂入って」と言ったところ、「入ったし!」と怒りだした。一応確認したが、髪の毛も脱衣所もまったく濡れていない。そのことを指摘しても「乾かしたのっ!」とキレる。娘が洗面所に行ったのは5分ぐらいなのでその時間で髪と身体を洗って髪(肩を超える長さ)を乾かすことなんてぜったい不可能なのだが、それでも「入った!」と嘘をつく。

 さんざん話してもらちがあかないので、こっちも「おまえの嘘や言い訳なんかどうでもいいからさっさと風呂に行け!」と怒鳴って、半ば引きずるようにして風呂に行かせた。

 自分でも大人げない対応だったとはおもうが、この場合、他に方法ある?

 風呂に行かず、嘘をつき、嘘を指摘されたら逆ギレしてくる相手に対して「叱る」以外の対応ある?

 自分から風呂に行きたくなるまで何日でも何ヶ月でも待てばいいの?


 子育てしてたらこの類いの「子どもがすぐばれる嘘をつく」とか日常茶飯事だし、なんなら大人でもけっこういる。

 アドバイスされただけで「防御モード」になって牙を剥いて食ってかかってきたり、嘘に嘘を重ねて逃げようとする人間が。ぼく自身もそういう子どもだったのでよくわかる。

 無限の時間と忍耐力があれば辛抱強くつきあって心を開かせることができるのかもしれないが、現実的にそいつだけに向き合ってもいられない。

 ベストな方法ではないかもしれないけど、叱るしかないときってあるんだよね。

 叱らずに指導しましょうっていうのは「すべての国が武器を捨てればいいのに」っていうのと同じで、理想ではあるけど、現実的にはまずムリ。

 きっと著者の周りには、攻撃的な人や信じられないような嘘つきがいないのだろう。幸せなことだ。


 この本で書かれていることは理想論すぎるけど、「叱ることは快楽をもたらす」と知っておくことは大事だね。

 叱る前に「これは場をうまく収めるために必要な説教か、それとも自分が気持ち良くなるための説教か」と考えるようにしたい。できるかなあ。


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2024年12月13日金曜日

小ネタ27 (熱中症対策 / おばけと二酸化炭素の違い / 別の木管楽器)

熱中症対策

 制汗スプレーの説明に「汗を抑えてすっきり! クールミントでひんやり! 熱中症対策に効果的」みたいなことが書いてあった。

 いやいや「汗を抑えて放熱を妨げる」「クールミントで冷えた気分になるけど実際の体温は下がっていない」って、熱中症対策としては完全に逆効果じゃないか。

 無知ゆえなんだろうけど、さすがに厚労省が叱ったほうがいいぜ。


おばけと二酸化炭素の違い

 童謡『おばけなんてないさ』の2番の歌詞に
  れいぞうこにいれて カチカチにしちゃおう
とある。

 おばけは冷蔵庫でカチカチになるんだ。

 ということは5℃ぐらいで固体になるわけだ。

 液体のおばけというのは聞いたことがないから、気体からいきなり固体になるのだろう。

 ……おばけってほぼ二酸化炭素(冷やすとドライアイスになる)なんだな。

 ちがうのは、おばけは肝を冷やすのに対し、二酸化炭素は地球を温暖化させる点だけだ。


別の木管楽器

「これでわかった!? 今度のコンクールでクラリネットを吹くのはア・タ・シ! あんたはオーディションで負けたんだから別の木管楽器でも吹いてなさい!!」


 負け犬のオーボエ。



2024年12月11日水曜日

女子の遠慮、男子の欲望

 娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。

 女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。

 興味深かったのが、ピザの分け方。


 三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。

「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。

「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」

「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」

「いいって。△△ちゃんが食べて」

 遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。

 結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった


 その様子を見ていて、女子だなあと感心した。

 これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。

 男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。


 たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。

「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。


2024年12月9日月曜日

【読書感想文】櫛木理宇『死刑にいたる病』 / ミステリというよりホラー

死刑にいたる病

櫛木理宇

内容(e-honより)
鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。


 かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。

 刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。

 はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。



 よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。

 冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。

 冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。

『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。


 が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。

 これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。

 きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。


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【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』



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