2024年9月23日月曜日

【読書感想文】管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』 / わざと読みにくくしているらしい

冤罪と人類

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

管賀江留郎

内容(e-honより)
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった“二俣事件”をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか?アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、“道徳感情”の恐るべき逆説だった!事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。

 かつて静岡県警に紅林刑事という人物がいた。数々の難事件を解決したことで三百回以上も表彰を受けた“名刑事”。だが彼が捜査を担当した事件で、後に冤罪であったことが発覚。紅林刑事(およびその部下)が拷問で偽の自白を引き出していたことがわかり、現在では「拷問王」と不名誉な名前で呼ばれることもある。

 そんな紅林刑事が捜査に関わった「二俣事件」などを糸口に、冤罪につながった背景に迫る。



 無罪の人を拷問して自白に導き、真犯人を見逃すことにもなったため紅林刑事は極悪非道な人物だとおもわれがちだ。ぼくもこの本を読むまではそうおもっていた。浜田 寿美男『自白の心理学』という本で紅林刑事の存在を知ったのだが、なんてひどい男なんだろうと憤慨したものだ。きっと、逆上しやすく、知性に欠け、血も涙もない人物なんだろうと。

 ところが著者は、紅林刑事の捜査ミスを暴きつつも、通りいっぺんの残虐イメージもまた誤っていることを指摘する。

 一方の出張ってきた紅林警部補も、二俣署員を配下に加えて捜査を指揮したものの、あくまで自分たちは応援部隊だという建前を守って二俣署員には非常に気を遣っていた。 「誰れもやり手は無いだろうが、一応捜査はしなくてはならんでな。地元である二俣署の人にやって貰いたい。山崎君すまんがやってくれんか」
 仕事を頼むにもこんな調子だった。さらには、捜査方針に疑問を持った山崎刑事の進言を退けるときなどでも威張ったり莫迦にしたりすることはなく 「山崎君、捜査というものはなあ、そう深く考えては駄目だよ」 といった具合に柔らかく丁重に接していることが、紅林警部補を憎んでいるはずの山崎氏の著作『現場刑事の告発』からも読み取れる。
 現代の県警本部の捜査主任でも、捜査方針に口出しをしてきた所轄署の一番下っ端の刑事にこのような接し方ができる者はそうはいないだろう。ましてや、これまで難事件を次々解決して全国に名を馳せている犯罪捜査界の生ける伝説なのである。
 冷血そうに見える顔つきや、数々の拷問冤罪事件によって誤解されているが、紅林警部補は部下の面倒見が大変によく、また慕われており、たとえ小さな町の自治警相手でも気配りのできる人であった。むしろ、こういう周りに良い顔をしたい性格が、部下の働きに報いて自分の評判も高めるために無理やりにも成果を上げようとして、恐ろしい災禍を招いたとも云えるのであるが。

 ここで描かれる紅林刑事は謙虚で人当たりのいい人物だ。さらに知性派刑事であり、正義感の強い人物だったとも書かれる。いくつもの冤罪が知れ渡ったことで彼の刑事としての功績がすべて否定されるようになったが、それもまた逆方向に歪んだ見方であり、実際にまっとうな捜査で解決に導いた事件も多かったそうだ。

 紅林刑事は極悪非道な人物などではなく、むしろ正義感と責任感が強かったがゆえに違法捜査に手を染めてしまったのではないだろうか。

 紅林麻雄刑事が次々と冤罪を引き起こした根本的な原因に、この〈間接互恵性〉を成り立たせる原理である〈評判〉が関わっているのは明らかだからだ。
 紅林刑事は部下思いで誰にでも気配りのできる、〈共感〉能力の人一倍高い人だった。こういう人物が、マスコミにも注目される大事件で大勢の部下を引き連れて捜査をしているのに、一ヶ月以上も犯人を挙げることができず非難を浴びたらどうなるのか。〈浜松事件〉によって実像以上の権威に祭り上げられて、巨大なる虚構の〈評判〉をすでに得ていたらなおさらである。
 しかも、〈浜松事件〉の事例を見る限り犯罪捜査にはあまり向いていなかったようだが、彼の知性は極めて高く、また非常に熱心な性格であった。これらが組み合わさって初めて、あれだけの大掛かりな冤罪事件が引き起こせたのである。
 清瀬一郎弁護士も『週刊読売』で、こんなことを云っている。 「わたしは、紅林君には、なんの恩怨もない。熱心で、頭のよい、有能な刑事にはいる人でしょう。ただ、その方法が悪かった。そこを反省してもらわなくちゃあ」
 一連の冤罪事件でほんとうに怖いのは、紅林刑事が〈共感〉能力の高い、ある意味、善人だからこそ引き起こされた点にある。彼自身は悪を憎み、冤罪被害者をほんとうの犯人だと思い込み、でっち上げの意識は微塵もなかったと思われる。拷問や時計のトリックなども、彼の中では「真犯人」を逃さずにきちんと罰するためなのだろう。
 本書を読んで、自分が被害を受けたわけでもないのに紅林刑事を憎み、罰したいと思った読者諸氏の胸奥から突き上げるであろう感情は、〈間接互恵性〉の進化により人間が身につけた〈道徳感情〉だ。しかし、その同じ〈道徳感情〉が惨憺たる冤罪を生み出したのである。まず、この点を多くの人々が自覚せねばならない。

 このブログでも常々書いているが、正義は暴走する。これはまちがいない。とんでもなく非道なことをするのは、悪ではなく、正義だ。自分は悪だとおもっている人は、ほどほどのところで止める。なぜなら「これ以上やったら捕まるな」「結果的に損しそう」といった計算が働くから。だが正義はとどまることを知らない。どこまでも突き進んでしまう。

 以前、歩道橋の上で通路いっぱいに広がって「盲導犬のために募金をお願いしまーす」とやってる団体がいた。ものすごく邪魔だった。

 きっと彼らひとりひとりはふだんは常識人で「他の人の通行の邪魔をしてはいけない」という意識を持って行動しているとおもう。でも「正義」という大義名分を手にしてしまったとたん、「他の人の邪魔にならないように」なんて意識は己の正義の前にふっとんでしまい、平気で迷惑行為をできる人間になってしまう。

 ほとんどの人は平和を愛しているのに戦争が起こるのも、正義のせいだ。「隣の国を侵略してやれ」という悪意では、戦争のような大きな行動は起こせない。「愛する家族や友人を守るため」「殺された同胞の無念を晴らすため」という正義を掲げたとたん、ふつうの人がどこまでも残虐な行動をとってしまう。正義は法や常識や、もっといえば自分の命よりも強くなりうるので、特攻のような愚かな行動もとってしまう。



 断片的には興味深いことも書かれていたのだが……。

 とにかく読みづらい。話にまとまりがない。時代も空間もテーマもあっちへ行き、こっちへ行く。事実を事細かく並べているかとおもったら、著者の主張が滔々と展開される。

 なんでこんなに読みづらいんだろう。編集者のいない自費出版か?

 とおもっていたら……。

 本書はいくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに世に出すことができたものです。内容については誰も何も突っ込みを入れてくれなかったのですが、最初の編集者には「とにかく接続詞を入れろ」と、ただそれだけをうるさく云われました。
 仕方がないので、「だから」とか「そのために」とかの接続詞を入れていくと、バラバラだった話がどんどんつながって、ひとつの壮大なる〈物語〉になってゆくのにはいささか参りました。あらゆる事象を因果の織物として捉え、〈物語〉として読み取ってしまう人間の図式的理解を、すべての誤りの素であると批判する本書がそんなことで果たしてよいものなのか。
 もっとも、当方も、従来の冤罪本や歴史書の図式的記述が、それらの本で批判する冤罪事件や歴史的悲劇を引き起こした図式的理解とまったく同じ誤りを犯していたことを喝破する、という程度の〈図式〉は当初から用意して執筆をはじめたのでした。
 人間は、〈物語〉の形で提示しないと何事も理解はできないのですから致し方ありません。一冊でも多くの本を売ろうとする編集者が、バラバラの記述の羅列ではなく、ひとつの連なりとしての〈物語〉を要求するのは当然のことであります。かく云う当方とて、多くの人々に読んでもらいたいと思うからこそ本を執筆しているのであって、理解しやすい図式は用意します。また、読者も思った以上に〈物語〉を求めていることは、前著『戦前の少年犯罪』に対する反響で思い知ったことではあります。

 どうやら編集者は「もっと接続詞を入れてわかりやすく書け」と言っていたのに、著者の意向であえてわかりにくくしていたらしい。わざとまとまりをなくして、物語になるのを避けようとしていたそうだ。

 うーん……。裁判で「裁判員に予断を持たせたくないのでわざとストーリー性を排除した」とかならまだわからんでもないのだが……。でもなあ。やっぱり本として出版する以上は物語性って大事だとおもうぜ。時系列順に並べたり、時間や空間が大きく変わるときは章を区切ったり、接続詞を入れたり。

 物語性を排除した結果、読み終わった後の印象があまり残っていない。これでは元も子もないとおもうぜ。やっぱり何かを伝えるうえで物語性ってのは大事だよ。


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2024年9月17日火曜日

【読書感想文】森絵都『カラフル』 / ザ・ティーン小説

カラフル

森絵都

内容(e-honより)
生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。真として過ごすうち、ぼくは人の欠点や美点が見えてくるようになるのだが…。不朽の名作ついに登場。

 死んだあと、天使の世界の抽選にあたって、ある少年の身体に入って人生をやり直せることになる……というあほみたいな導入。まあこのへんはどう書いても嘘くさくなるので、このぐらいのハイテンポでさっくり片付けちゃったほうがいい。変にもっともらしい理由をつけようとするほうが見苦しい。

 

 導入がそうであったように、展開も結末もあくまでライト。悪いことは起こっても、あたりまえのように最後はすべて丸く収まる。しこりなんて残らない。生まれ変わる前の“ぼく”はどんな人間だったのかという謎もあるが、これも「そうなるだろうね」というところに結着する。

 とにかくきれいにまとまっていて、良くも悪くも“十代向け小説”だった。



『カラフル』では生まれ変わりを通していじめや身体や進路や恋愛など中学生の悩みが描かれるが、そこで描かれる悩みは「一般的に想像されるもの」の域を出ない。

 いじめも、援助交際も、進路の問題も、どこかで聞いたことのあるようなレベルの話。中学生のいじめ、と聞いて大人が想像するレベルのいじめ。

 だから読んでいて、頭を使わなくていい。想像の埒外にあるようなハードな展開は待っていないから。新聞の社会面やワイドショーで消化されるぐらいの深みしかない。読んでいて「これはいったい何が起こっているんだろう?」と頭をひねるようなポイントはない。


 とまあ、個人的には浅い小説だなという感想だったのだが、それはぼくがいろんな小説を読んできたおっさんだからであって、児童文学を卒業したばかりのローティーンには十分刺激的な内容だとおもう。

 実はこの小説、ぼくが読んだのではなく、小五の娘が読んで「おもしろかったよ」とぼくに貸してくれたのだ。

 せっかく娘が貸してくれたので最後まで読み、娘に感想を訊かれたら「いろいろ仕掛けがあってけっこうおもしろかったわ」とお茶を濁した。「浅いねー」なんて大人げないことはいいませんよ、もちろん。

 いや実際、ぼくが小学生のときに読んでたら十分おもしろかったとおもうしね。

 児童文学と大人向けの小説の橋渡し役のような、ティーン向け小説としてはすばらしい小説。つまりおっさんが読んでぶつくさ言うような小説じゃないってことです、ごめんなさい。


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すごろく向きのサイコロをつくる

  ふつうのサイコロを1つ振ったとき、出る目は1~6の6通りで、その確率はそれぞれ1/6ずつだ。


サイコロを2つ振ってその差を求め、それに1を加えたものを出目とする」としてみよう。この場合もやはり出目は1~6の6通りとなる。

 ただし確率はそれぞれ等しくない。1(つまり2つのサイコロが同じ目)になる確率は1/6。これは通常のサイコロと同じ。

 2や3になる確率は1/6より高く、6になる確率はかなり低い。

(分母を18にそろえるとわかりやすい。
  1:3/18
  2:5/18
  3:4/18
  4:3/18
  5:2/18
  6:1/18)

左の表は出目 右の表は出目の確率
ABS関数と参照の絶対/相対をうまく使ってるのがオシャレだね♪

「1~6の6通りの出目」を維持したまま、確率に傾斜があるサイコロができるわけだ。


 すごろくをすると「おもしろいイベントマスがあるのに、誰も止まらない」ということがままある。みんなが5とか6とかの大きい目を出して、すっ飛ばしてしまうのだ。

 この「(2つのサイコロの目の差+1)サイコロ」だと、5や6が出にくいので、指示のあるマスに誰も止まらないという事態が起こりにくくなる。

 それでいて2~4あたりはよく出るので「あらゆるマスに止まってしまう」というイライラ展開も防げる。

 すごろく向きのサイコロといえるだろう。




2024年9月13日金曜日

【読書感想文】唐渡 千紗『ルワンダでタイ料理屋をひらく』 / 念願の不便を味わえてよかったね

ルワンダでタイ料理屋をひらく

唐渡 千紗

内容(e-honより)
電子レンジを水洗いするスタッフ。施工代を返さないまま逮捕されたエリック。初めてのお客さんは泥棒!?今日もまた事件勃発。日本人シングルマザー、アフリカで人生を変える!一見ハチャメチャな彼らが教えてくれたルワンダフル・ライフ!戸惑いながらも働くうちに見えてきたのは、どんな過酷な状況も生き抜く彼らのたくましさだった。人生という「旅」の醍醐味を味わう傑作ノンフィクション!


 飲食店経営未経験で、ルワンダでアジア料理店を開いた女性の体験記。

 そんな風に、導かれるようにルワンダ行きを決めた私だけれど、一応プランはある。それもズバリ、タイ料理屋を開く!
 どういうこと?と驚くのもわかる。私も他人からそんな話を聞いたら、きっとそう思う。実は旅行で訪れた際に、ルワンダでタイ料理屋を開くところまではもう決定していた。はじめにルワンダに移り住みたいという願望があって、子どもを連れて一人で行くんだけど、当然生活の糧がいる。何かしないといけない。旅行中に気がついたのは、まずとにかく飲食店のバリエーションがない。単純だけど、レストランを開くのはどうだろう?
「タイ料理屋とか、絶対いいと思う」と現地に住む友人のマリコさん。よし、それならタイ料理屋にしよう。決定!

 この文章だけでもびしびし伝わってくるのだが、「私って人とはちがうことをやってるでしょ! すごく変でしょ! どや!」感がすごい。

 筆者の略歴を見て納得。リクルート出身。ああ、リクルートっぽいなあ。もちろん悪い意味で。

 ぼくも多くのリクルート出身者を見てきた(人前に出たがる人が多い)ので「この人リクルート出身っぽいなあ」とだいたいわかるようになってきた。

 とにかく「何者かになりたい!」っていう感が強いんだよね。今はちがうみたいだけど、以前のリクルートって数年で会社を辞めなきゃいけない、辞めた人はたいてい独立しているので、たぶん在籍中に「独立してこんなすごいことやってる人がいます!」って事例をさんざん見せられてるんだろうね。そのせいで「何者かにならなきゃいけない」病にかかってしまうのだろう。

 結果、この本の著者みたいにいい歳して自分さがしをしてしまう。

 ま、自分の人生だから好きにしたらいいんだけど。ぼくはこの人の息子じゃないし。


 とある候補者は、名前をアラファトといい、ルワンダに数店舗展開する有名レストランの現職のシェフだ。名前からわかるようにイスラム教徒で、頭にターバンを巻いている。
 野菜の切り方や鶏肉のさばき方などは、朝飯前といった腕前を見せていたが、レシピを渡されても、何のことか全くわからないという様子。材料を切る前になぜか鍋に油を敷いて強火で熱してから、はて、どうしたものか、と止まってしまう。
 まず野菜を切るところから、とヒントを出す。するとものすごい速さで野菜を切って、また最大火力で炒め出した。次はココナッツミルク五十ミリリットルの投入だが、まだ缶が開いていない。缶切りを渡す。上手く使えない。ナイフでこじ開けようとする間に、鍋ごと黒こげになってしまった。
 聞いてみると、レシピ通りに作るなんて、やったことがないようだ。 「普段はどうやってるの? 働いているレストランではもちろんレシピはあるでしょう?」 「ノー。そんなのありません」と、アラファト氏はキッパリと答える。
 え?? どういうこと? シェフがそれぞれ雰囲気で作ってるってこと? メニューはどれも「シェフの気まぐれスープ」みたいな感じなの? 頼むからうちでは気まぐれを起こさないでもらいたい。でもここまで説明しても全く気にしない人たちに、どう教えればいいのだろう。

 こんな感じで「ルワンダの常識は日本とぜんぜんちがう! 日本人だったらあたりまにやってくれることをルワンダ人はやってくれない! インフラもひどいし生活が不便だし困った困った!」と騒いでるんだけど、正直、共感できない。

 だってこの人はそういうのを求めてルワンダに行ったんでしょ? “人とちがう生き方を選択するアタシ”を求めてルワンダで飲食店を開くことにしたんでしょ? のっぴきならない事情でルワンダに住まざるをえなくなったわけじゃないでしょ?

 あれが大変だ、これで苦労した、と言われても、はあそうですか、望んでいた経験ができてよかったですね、としかおもえない。

 ルワンダの人には失礼な例えだけど、キャンプに行って、不便だ不便だと騒いでるように見えちゃうんだよね。そりゃそういうものでしょ、としかおもえない。日本と同じような文化を享受できることを期待してルワンダに行ったわけじゃないでしょ?

 というわけで、前半の「私ルワンダでこんなに苦労しました」話は、わざわざお化け屋敷に行って怖い怖いと叫んでる人を見るような目で読んでしまった。楽しそうでよろしおすなあ。



 中盤以降の、生活者視点でルワンダという国を観察した章はわりとおもしろかった。

 アフリカというと、物価がとにかく安いイメージがあるだろう。だがルワンダの場合、日本人が日本人の感覚で、最低限快適・安全に暮らしたい場合、「東京で暮らすよりもだいぶ不便だけど、ちょっと安い」くらいの感覚でいた方がいい。東京のような快適さを求めれば、東京で暮らすよりも確実に高くつく。
 コストが高くつく理由は様々あるが、やはりまずは物流だろう。日本では気づきにくいが、「島国である」というのは、実はすごい恩恵なのである。私もルワンダで暮らして初めて、内陸国の苦悩が少しずつ見えてきた。
 先述のように、ルワンダはアフリカ大陸のほぼ真ん中、内陸に位置し、港がない。地の利がとにかく悪い。陸路だけでも、近代的な物流が整っていれば、なんとかなるんじゃないかと思われるかもしれない。ただ、鉄道、高速道路などが見事に整備されている日本では想像し難いが、まずルワンダには鉄道がない。道路も、中国企業がルワンダ全土にせっせと道路を作っているが、丘だらけなので簡単ではない。場所によっては崖に近いような山道を、日本では走っていないようなオンボロトラックが行き交う。実際、事故も多い。
 そうなると、製造業が育つのはかなり厳しい。そもそもモノを作ろうにも、資源に恵まれているわけでもなく、材料に乏しい。それでも頑張って材料を輸入して作るとする。そうして作られたものは当然高くなる。そうした商品を国内で買える層などごくごく一部だ。では外に輸出しよう、と考えるかもしれない。するとまた、輸送費や関税が乗って、消費者に届くころにはすごい値段になっている。つまり成り立たない。日本のように材料を輸入し、加工し、輸出してビジネスが成立するのは、島国だからこそできることなのだ。
 ルワンダでは、輸入品がとにかく高い。例えば、日用品。中国からの輸入品が多く出回っているが、日本の百円均一で売られているものの品質を三分の一にして、値段が三倍であれば良い方だ。もっとも、これについては、日本の百均がすごすぎるとも言える。

 なるほど、内陸国ってのは貿易をする上ではすごく不利になるんだな。そういや先進国で、海を持たない内陸国はほぼないんじゃなかろうか。主要都市もたいてい海か大きな河川を持ってるしね。

 あまり意識することはないけど、我々は海洋国のメリットを享受しながら生きてるんだな。



 

 ルワンダといえば1994年のルワンダ虐殺。当時730万人いたルワンダ人のうち、100万人ほどが約3ヶ月の間に殺されたという空前の大虐殺事件だ。それも爆弾や空襲のような大量破壊兵器を用いず、人々が武器を取り隣人同士で殺しあったという凄惨な事件だった。

 30年前のこの事件は、今もルワンダに深い傷跡を残している。当時生きていた人で、事件に巻き込まれなかった人はほぼいない。親しい人を亡くし、生き残った人も暮らしが一変した。大量の孤児が発生し、教育を受けられずに育った人も多い。


 この本ではルワンダ虐殺を経験した人の語りが紹介されるが、その胸の内は想像もできない。「隣人だった人々に殺された」は、「戦争で死んだ」「敵国に殺された」よりずっとずっとキツいだろう。家族の仇が今もすぐ近くで暮らしている、なんて例もあるんじゃないだろうか。想像を絶する世界だ。とてもこれからは手に手を取って平和な世の中を築いていこう、とできるとはおもえない。

 だがルワンダ人はそれをやってのけている。人間ってどこまでも残酷になれるし、人間はどんなことでも許すことができるのだと、ルワンダ人の暮らしぶりを読んでいておもう。

 どんな環境にも適応できるのが人間。いい面でもあり、悪い面でもある。


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2024年9月11日水曜日

小ネタ26 (ハンマー投げ / 砲丸投げ / プールサイドを走ってはいけない理由)


ハンマー投げ

 陸上競技の投擲種目について。

 古代オリンピックは軍事演習みたいなものだったそうだ。当然、投擲に使うものは武器だ。

 槍はもちろん、砲丸も武器として使える。円盤もギリわかる。

 よくわからないのはハンマー投げだ。

 どう考えても武器として優れているとはおもえない。あんなぐるぐる回って放り投げて、狙ったところに当てるなんてほぼ不可能だろう。へたなやつがやったら味方を攻撃してしまいそうだ。おまけに回っている間は隙だらけだ。

 ハンマーブロスみたいな投げ方をするのならわかるのだが。


砲丸投げ

 学生時代、砲丸投げをしたことがある。

 投げ方について「決して野球のように肩で投げてはいけない。肩を壊すから」と何度も念を押された。

 まああんな重いものを肩で投げたら肩が壊れるだろう。

 だが世界は広い。砲丸を肩で投げられる人がどこかにいるんじゃないだろうか。めちゃくちゃ肩と腕を鍛えたらソフトボール投げみたいなフォームで砲丸を投げられないだろうか。そしてふつうの砲丸の投げ方よりも遠くへ飛ばせるんじゃないだろうか。

 肩が壊れるかもしれない。だが今大会で引退を決めている選手だったら「もう肩がぶっ壊れてもいいからこの一投に賭ける!」みたいな気持ちでやったりしないのだろうか。


プールサイドを走ってはいけない理由

 プールに行った。「プール内で子どもを持ち上げて放り投げる」という遊びをしていたが、監視員に注意されることはなかった(もちろん周囲に人がいないのを確認してから投げていた)。

 プールによっては注意される行為だ。ここは監視がゆるいんだな、とおもっていたのだが、プールサイドを走る子どもに対しては異様に厳しくて、監視員がでかい音でホイッスルを鳴らして怖い声で「走らない!!」と注意していた。

 そういや子どものころから「プールサイドを走るな」と口を酸っぱくして注意されたものだが、なんでだろう。

 他人とぶつかると危ないから?

 でも走ってて他人とぶつかる可能性があるのはプールサイドだろうが公園だろうが公道だろうがあんまり変わらない。公園や公道で小走りしたぐらいで笛を鳴らして「そこ走らない!!」と厳しく叱責されることはないのに、プールサイドだけは親の仇のように厳しく注意される。

 すべって転びやすいから?

 たしかに濡れた地面はすべりやすい。でもすべりやすい場所をすべって転ぶのは、はっきり言って自業自得だ。「気を付けなよ」みたいな言い方ならともかく、赤の他人が叱るほどのことか。アイスクリームをたくさん食べている子どもに赤の他人が「こらっ、そんなに食べたらおなかこわすだろ! 食べるな!」と怒鳴りつけていたら頭のおかしい人だ。それがなぜか「プールサイドを走ること」についてだけ許容されている。

 プールサイドを走っていると異常に厳しく注意される理由としてもうひとつおもいついたのは「笛を持っていると吹きたくなってしまうから」というものだ。

「笛を持たされるけど吹いてはいけない状態」というのはしんどいものだ。だから理由をつけて吹いてしまう。案外これが正解かもしれない。