2023年3月17日金曜日

いちぶんがく その19

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



だけど……と、六十男はグズグズと決心がつかなかった。

(内館牧子『終わった人』より)




つまり、糞野郎だった。

(西 加奈子『漁港の肉子ちゃん』より)




サンタクロースは、一種の破壊神として、クリスマスに忍び込んできた。

(堀井 憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』より)




樹海に早く着きたいから、その理由だけでポルシェに乗っている人はほかにいないだろう。

(村田らむ『人怖 人の狂気に潜む本当の恐怖』より)




赤手拭名人と呼ばれる腕利きの職人がいて、店の亭主は赤手拭親方などと呼ばれて、誰もが赤手拭を欲しがった、などという過去があったのだろうか。

(本渡 章『大阪市古地図パラダイス』より)




もし、人間の部分しかなかったら、生き延びられなかった。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(著) 三浦 みどり(訳) 『戦争は女の顔をしていない』より)




老後破産してればいいのに。

パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史 ニッポンの社長、社員、職場』より)




ここには、異性と親しくなりたいという、邪念をはらんだ気持ちで男女が集まっている。

(石神 賢介『57歳で婚活したらすごかった』より)




母親がにわとりの素早さで振りむく。

(荻原 浩『海の見える理髪店』より)




これは読書の永久運動だ。

(岡崎 武志『読書の腕前』より)




 その他のいちぶんがく


2023年3月16日木曜日

白米食堂

 ぼくはごはん、つまり白米が大好きだ。ベタなギャグだけど、三度の飯よりごはんが好きだ。

 そんなぼくが、出現を待ち望んでいる店がある。

「白米食堂」だ。


 とにかくごはんにこだわった食堂。おいしいお米を、職人が釜で炊いて出してくれる。なんなら高性能の炊飯器でもいい。最近の炊飯器はすごいから。いろんな品種のお米を選べる店。

 つくるのはごはんだけ。おかずは一切つくらない。

 といってもおかずがないわけではない。おかずはすべて市販の「ごはんのおとも」である。

 海苔、納豆、漬物、ふりかけ、生卵、鮭フレーク、海苔の佃煮、食べるラー油、サバ缶、ちりめんじゃこ、いかなごのくぎ煮、明太子、そぼろ肉、かつおぶし、醤油、味噌……。

 そのへんのスーパーに置いているものばかりだ。とりたててめずらしいものはひとつもない。珍味はあるけど。

 でも、だからこそ、ごはんのおいしさが引き立つ。


 ほら、酒場とかバーであるじゃない。厳選したいろんな種類のお酒を置いてるけど、食べ物は缶詰とかナッツぐらいしか出さない店。

 あれの食堂版。おいしい白飯を食わせることだけに特化した店。


 そういう店がほしい。

 自分ではやりたくない。近所にほしい。誰かがやってほしい。

 誰かやってくんねえかな。わざわざ電車に乗って食べにいくほどではないから、うちの近所で。

 高級食パンブームの後は高級ごはん。どうでしょう。



さよなら週刊朝日

『週刊朝日』が五月で休刊するそうだ。

 一抹の寂しさを感じる。ほんの一抹だけ。


 ぼくは一度も週刊朝日を買ったことがない。母が好きで、毎週買っていたのだ。

 週刊朝日は総合週刊誌としてはかなり硬派な部類で、エロい記事もないし、芸能ニュースだとかゴシップ的な記事も載っていない。政治や社会問題についての記事が多く、かなりハイソ向けの週刊誌だ。週刊誌を読まない人からすると「週刊誌ってぜんぶ下品なんでしょ?」という認識だろうが(まあだいたいあってる)。

 昔は今よりもっと週刊誌が身近だった。病院や銀行の待合室には必ず週刊誌が置いてあった。多いのは『週刊新潮』や『週刊文春』などで、それらはエロい記事やゴシップニュースも載っていた。


 汚い話だが、うちの実家では週刊朝日はトイレで読むものだった。母は週刊朝日を買ってくるとまずトイレに置いていたのだ。手持ち無沙汰なトイレ時間を有意義に過ごす工夫だ。

 だから家族みんなトイレで週刊朝日を読んでいた。編集者たちには申し訳ないが、ぼくにとって週刊朝日はトイレの雑誌だった。

 

 そんなわけで小学生の頃から週刊朝日を読んでいた。

 最初はマンガやイラスト。山科けいすけ『サラリーマン専科』『パパはなんだかわからない』や山藤章二『似顔絵塾』『ブラック・アングル』など。

 そのうち、漫画やイラストのある文章も読むようになる。『デキゴトロジー』、西原理恵子・神足裕司『恨ミシュラン』、ナンシー関『小耳にはさもう』、東海林さだお『あれも食いたいこれも食いたい』。はじめのうちは絵目的で読みはじめたのに、文章もおもしろいことに気づく。大人向けの文章を読むようになったきっかけは週刊朝日からだった。

 そしてぼくが中学生の頃は『ダウンタウンのごっつええ感じ』が学校で大流行している時代。そんなときに松本人志『オフオフ・ダウンタウン』の連載がはじまり、ぼくは「クラスのみんなはテレビでしか知らない松本人志の裏側をぼくだけが知っている」とひそかに優越感を感じていた(この連載は後に『遺書』『松本』として大ベストセラーになる)。ほんと九十年代後半は黄金時代だったなあ。


 連載が良かったから人気があったというより、人気があったから才能が集まる場所になったという感じだろう。今、才気あふれる書き手が週刊誌を選ぶとはおもえないもの(週刊誌側もそれに見合った待遇を用意できないだろうし)。

 週刊朝日の休刊は寂しいけど、「あのときああしていたらこの先何年も続けられていた」みたいな転機はなく、誰がどうやってもこのへんで終わることは時代の必然だったのだろう。


 ところで雑誌が終わることを「休刊」っていうのいいかげんやめねえかな。休刊した雑誌が再開することなんて1%もないんだからさ。つまらない見栄張ってないでちゃんと「廃刊」って言おうぜ。



2023年3月15日水曜日

働きものの保育士

 姉は保育士をやっている。 

 大学で管理栄養士の資格をとって栄養士として保育園で働いていたのだが、保育にも関わりたくなって働きながら保育士の資格もとった。

 栄養士として給食を作り、夕方には手が空くので保育をするのだそうだ。

 弟のぼくが言うのもなんだが、姉はとても働きものだ。栄養士をしつつ、保育士もしつつ、家では家事や子育てもしている。


 昔から行動的な人だった。ぼくなんか一日中家でごろごろしてるのに、姉は常に身体を動かしていないと気が済まない。大学時代は、せっかく実家に帰省したのに朝六時ぐらいに起きて掃除をしたり料理を作ったりしていた。横にいて落ち着かないぐらいの働き者だ。

 ま、それはいい。姉がなまけものだと困ることもあるだろうが、姉が働きもので悪いことはない。


 姉は働きものなので、遅くまで仕事をするし、休みの日にもやれ勉強会だやれ保育サークルのイベントだとかでよく出かけているらしい。もちろん家事もやっている。

 まじめに一生懸命働くのはいいことだ。それはいいのだが、「こういう人が上にいると下の人はたいへんだろうな」とおもう。

 若い保育士さんが働きはじめたら、先輩の保育士が朝早くから遅くまで仕事をして、家にも仕事を持ち帰って、休みの日にも手弁当で保育関連のイベントをやっているとする。

 若い保育士さんが「定時になったらさっさと帰りたいし、自宅では仕事をしたくないし、オンとオフの区別はつけたい」という考えの人であれば(そっちがふつうなんだけど)、姉みたいな先輩保育士がいたらやりづらいだろう。「あんたも同じことをしなさいよ」とはっきり言われなかったとしても、繊細な人であれば無言のプレッシャーは感じるだろう。

 そして、働きもののペースについていけない人は辞めてゆき、ついていける人だけが残る。そうするとますます働きものにあわせた働き方になってしまう。


 保育士は離職率が高いという。女性が多いということもあるが、高くない給与、楽でない仕事、大きな責任もその理由だろう。

 姉のような働きものが給与分以上にどんどん働くのは雇用者からしたらありがたいだろうけど、保育士全体の待遇改善という点でいえばいいことじゃないのかもしれない。

 ま、個人が業界全体のことまで心配することはないから好きにしたらいいんだけど。



2023年3月14日火曜日

【読書感想文】東海林 さだお『がん入院オロオロ日記』 / ドッジボールはいちばん野蛮

 がん入院オロオロ日記

東海林 さだお

内容(e-honより)
ある日、肝細胞がんと告知されたショージ君。40日に及ぶ人生初の入院生活を送ることに。ヨレヨレパジャマで点滴のガラガラを連れ歩き、何を食べるか悩む間もなく病院食を出される。それは不本意の連続だった…。認知症時代の“明るい老人哲学”にミリメシ、ガングロ。そしてついにオリンピック撲滅派宣言!?


 小学五年生の誕生日、リクエストしていた誕生日プレゼントとは別に、母から二冊の文庫本をプレゼントされた。一冊は北杜夫『船乗りクプクプの冒険』、もう一冊は東海林さだお『ショージ君の男の分別学』だった。

 どちらもめっぽうおもしろかった。それまでのぼくが読んでいたのは児童文学、祖父の本棚にあった星新一、母の本棚にあった椎名誠『岳物語』や群ようこ『鞄に本だけつめこんで』などで、「おとなが読んでいる本はまじめでむずかしいもの」とおもっていた。

 ところが北杜夫氏のユーモア小説とショージさんの軽妙なエッセイは、その認識をひっくりかえしてくれた。ぜんぜんむずかしくない。ちっともまじめじゃない。そしてめっぽうおもしろい。

 ショージさんのエッセイの何がすごいって「これぐらいなら自分でも書けそう」とおもってしまうところなんだよね。小学生のぼくはやってみたよ。東海林さだお風エッセイ書いてみたよ。もちろんぜんぜん足下にも及ばなかったよ。かんたんそうに書いてるけどすごいんだよなあ。


 すっかりショージさんのとりこになったぼくは、彼のエッセイ集を買いあさった。うちで購読していた週刊朝日の『あれも食いたい これも食いたい』も欠かさず読むようになった。

 今では積極的に買い集めることはなくなったが、実家に帰れば『あれも食いたい これも食いたい』を読むし(週刊朝日も休刊なんだってね。さびしいなあ)、ときおりエッセイ集も買って読む。




 そんな三十年来の東海林さだおファンなので『がん入院オロオロ日記』という書名を見て「ショージさんもついに危ないのか!? 今のうちに読んでおかなきゃ!」とあわてて読んだのだが、この本が出されたのは2017年のことで、それから六年たった今でももちろんショージさんは元気に活躍されている。ああ、よかった。


『がん入院オロオロ日記』というタイトルなので心配したのだが、このエッセイを読むかぎりあんまりあわてふためいてしてない。タイトル通り、ちょっとオロオロしているだけだ。トイレが見つからなくてオロオロ、とか、どの改札から出たらいいかわからなくてオロオロ、とかその程度のオロオロだ。

 これでこそショージさんのエッセイだ。

 ショージさんの文章に、激しい感情は似合わない。恥ずかしいとか、うらやましいとか、もったいないとか、なんとなく得した気分とか、「小市民的な感情」はよく書かれるんだけど、心の底から憤るとか、大爆笑するとか、世を憂うとか、そういう強い感情はまず描かれない。これこそが長年愛されている秘訣なのだろう。

 そんなわけで、がんを宣告されて、命がけの手術をすることになっても、オロオロしているだけだ。もちろん内心では慟哭とか悲嘆とかあったのかもしれないけど、そんなものはおくびにも出さない。

 病院の中や入院患者のことを、いつものごとくユーモラスな目で観察している。

 今回の入院のときも、パンツにカタカナで自分の名前を書きながら、ほんの少し、晴れがましいような気分になったっけ。
 そもそもあのあたりから、気分が幼児還りをし始めていたのではないか。病気をするということは、ある程度自分を人に託すことである。
 入院ということになれば、自分を人に託す部分が更に大きくなる。
 また、託さないと成り立たない生活であるともいえる。
 一度、大人を捨てる。
 大人を捨てて幼児に戻る。
 今回入院をして初めてわかったことだが、一度大人のタガをはずして幼児に戻ると、とたんに急にラクになる。
 本当にもう、あたり一帯、急にラクになるんですねえ。
 何しろこっちは幼児であるから、何を曝け出してもいい。
 どんな恥をかいてもいい。
 苦しくて唸りたければいくら唸ってもいいし、おならをしたければあたりかまわずしてもいい。
 異界というんですか、よく考えてみると、まさに異界なんですね、病院というところは。

 病院は大人を捨てるとこ。なるほどね。

 たしかに入院中の生活って、保育園での生活に似ているかもしれない。自分がいつ何をするかを決める権限はまったくない。決まった時間にご飯を出され、決まった時間に片づけられ、決まった時間にお着替えをし、決まった時間に移動させられ、決まった時間にお風呂に入る。人によってはトイレの時間まで決まっていたりする。

 今日は何をしようかな、と考える必要もないし、「今日のスケジュールは……」と確認する必要すらない。時間が来たら看護師さんが教えてくれる。

 何を着るかも考えない。用意された服を着る。

 何を食べるかも考えない。用意された食事をとる。

 およそ判断力というものが必要とされない。ぼーっとしていても「何をしたらいいか自分で考えて動かなきゃだめだぞ! 指示を待ってちゃだめだぞ!」と怒られたりしない。むしろ指示通りに動くことが求められる。

 ぼくはまだ入ったことがないけど、たぶん刑務所の生活もそんな感じなんだろう。

 保育園と病院と刑務所はけっこう似ているのかもしれない。




 がんで入院した話ばかりかとおもったら、入院エッセイは少しだけで、ほとんどはいつもの東海林さんのエッセイだった。

 のほほんとしているようで、ときおり切れ味鋭くえぐったりするのもショージさんのエッセイの魅力。

 初詣の話より。

 この、お札やお守りや絵馬に、はっきりした有効期限があることを知っている人は少ないのでないか。
 「そりゃ有効期限はあるだろうよ。そんなことわかってるよ」
 という人も、「はっきりした有効期限」ということまでは知らないのではないか。有効期限は「はっきり一年」である。
 一月三日に買って帰ったお札やお守りは、きちっと翌年の一月三日に効き目がなくなるのだ。
 電池なんかだと、使わないで取っておけば、一年たってもまだ使える。
 だが、お札やお守りはそういうわけにはいかない。
 お札を柱に張ったり、お守りを財布に入れておけば、それだけで〝使っている〟ことになるのだ。
 電池は使っているうちに少しずつ寿命が減っていくが、お札やお守りも効き目が少しずつ減っていって、一年後、ピタッと〝電池切れ〟になる。
 ただの紙切れになる。
 「なーんか怪しいなー。そのピタッというところが怪しーなー」
 と思うでしょ。
 怪しいんです。
 業者につけこまれて、してやられているんです。

 ほんと、そうよね。

 お守りやお札には有効期限がある。で、一年後に奉納しに来い、ついでにまた新しいやつを買え、と言ってくる。

 よく考えたらおかしな話だ。なぜ一生ものじゃないんだ。なぜ一年更新なんだ。「長年使ってるうちにだんだんと効き目が減ってくる」ならわかる。電化製品みたいに「最近この御守り調子悪いな。もうずいぶん使ったもんな。そろそろ新しいの買おうかな」ってなるのなら。

 でも、ぴったし一年で期限が切れるってことはどう考えても人為的なものだ。「有効期限はきっかり365日です。一日でも過ぎたら無効です」なんて神様、みみっちすぎてまったく信用できない。

 最近サブスクなる言葉が流行ってるけど、神社の商売はサブスクの元祖かもしれない。

 



 冒頭のがんの話もそうだけど、勃起不全とか認知症とか、テーマがずいぶん後期高齢者寄りになっている。ショージさんも老いたなあ、とちょっと寂しくなった。

『ミリメシはおいしい』『流行語大研究』なんて、雑誌かなんかを見て書いたようなおもしろみのないエッセイだったし。

 さすがにもう若い頃のように好奇心を刺激してくれるエッセイは書けないか……とおもっていたら、ガングロカフェなるものを訪問する『ガングロを揚げる』があった!

 これこれ、こういうのを求めていた。

 ショージさんといえば食べ物がエッセイが有名だけど、こういう訪問記もおもしろいんだよね。すごくめずらしい場所に行くんじゃなく、ちょっと変わった趣向のレストランとか、野球場とか、芸者遊びとか、パックの旅行とか、日常の延長のようなルポ。


「メイド喫茶やガングロカフェは芸者遊びといっしょ」という考察もおもしろい。

 たしかになあ。大の大人が高い金を払って幼児遊びのようなくだらないことをする、という点では同じだよなあ。




 巻末の、岸本佐知子さんとの対談『オリンピック撲滅派宣言「スポーツって醜いよね?」』もおもしろかった。

 岸本佐知子さんといえば東海林さんと並ぶほどのエッセイの名手。このふたりが対談しておもしろくならないはずがない。

 リュージュやボブスレーは地球の重力の話であってお前の力ではない、水泳の高飛び込みがあれこれ動きをつけるのは電車の車掌がアナウンスに変なアレンジが入れるのと一緒、冗談で競技を作ってもまじめな人たちが本気の競技にしてしまう、など鋭い視点が光る。

 中でも、岸本さんの「ドッジボールは暴力行為を正当化している」という言い分はおもしろかったなあ。

 たしかにそうだよね。ボールを直接敵にぶつける競技って他にないよね。結果的にぶつかることはあっても、人めがけておもいっきりボールを放つ競技はぼくの知るかぎり他にない。バスケットボールとかアイスホッケーなんて格闘技に例えられることもあるぐらい激しいスポーツだけど、それでも敵にボールやパックをわざとぶつけたりはしない。

 ドッジボールだけが、相手めがけておもいっきりボールを投げることが認められている。いや、認められているどころか推奨されている。

 そんな野蛮なスポーツが、よりによって全国の小学校で低学年の子たちにやらせているわけだから、ずいぶんな話だ。

 いや、野蛮だからこそ子どもたちが好きなのかな。原始的な攻撃性をむき出しにできるから。こえー。


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