2023年2月24日金曜日

【読書感想文】SCRAP『すごいことが最後に起こる! イラスト謎解きパズル』 / 複数人推奨パズル

すごいことが最後に起こる!
イラスト謎解きパズル

SCRAP

内容(Amazonより)
ゆるーくかわいいイラストとは裏腹に、手強すぎるイラスト謎解きパズルの数々。解くには論理的思考だけでなく、ひらめき力も必要になります。1冊一通り解き終えたところで、前半戦終了。あっと驚く後半戦では、「最後のイラスト謎解きパズル」が待ち受けます。ヒントも大充実。パズルはリアル脱出ゲームのコンテンツディレクター荒浪祐太が制作。完成直後、「とんでもないものができてしまった」と彼は震えていました。途中であきらめず、この本の最後を見届けてください。


 イラストを使ったパズルを解いていくと、最後に「これまで解いたパズル」「途中にあった謎の記号」「本の表紙やカバー」などを使った大仕掛けのパズルが現れて最後には想像もしなかったことが起こる……という本一冊をめいっぱい使った趣向のパズル。

 タイトルに「すごいことが最後に起こる」と書かれているしAmazonの口コミでも「すごかったです!」といったコメントが並んでいたのである程度「すごいこと」を想像しながら解いていったのだけど、その想像を超えることが起こった。いい意味でまんまと予想を裏切られた。

 あんまりネタバレになるので詳しくは書けないけど、たしかにすごいことが起こる。2,200円とパズル本にしては高めだけど、これだけのことが起こるのならこの値段も納得、という感じだ。




 とはいえ。途中のパズルの質はさほど高くない。

 ぼくはパズル雑誌の最高峰『ニコリ』の三十年来の愛読者なので、ペンシルパズル(紙に書くタイプのパズル)には少々目が肥えている。そんなパズルファンからすると、この本のパズルは物足りない。

 つまらない難しさ、なのだ。どうしようもない難しさ、といったほうがいいかもしれない。

 この本に載っているのは基本的にイラストパズルで、描かれているイラストから「これは何の絵かを当てる」という作業が必要になる。これが、非常にかんたんなものもあれば、難解なものもある。「絵が伝わらない」問題だ。これはイラストパズルであれば必ず生じる問題なので、ここまではしかたない。

 良くないのは、この本に載っているパズルの場合、「絵が伝わらない」問題が起こるとそこで手詰まりになってしまうことだ。もう答えを見るしかなくなる。

 たとえばイラストクロスワードパズルであれば、「絵が伝わらない」問題がひとつふたつ起きても、他のイラストを読み解いているうちにヒントが増えてきてやがて解けるようになる。『ニコリ』のパズルにはたいていこういう配慮があるのだが。

 パズルが難しいことはいっこうにかまわない。時間をかけたり、一生懸命頭をひねったり、総当たりで解いていったり、あれこれ手を尽くして解けるような難しさであれば大歓迎だ。

 だが「この絵を描いた人は何を伝えたいでしょう?」という問題は、わからなければ永遠にわからない。どれだけ頭をひねってもわからない。「私は今何を考えているでしょう?」という世界一つまらない問題と同じだ。

 こういう〝世界一つまらない問題〟が散見されるのがマイナス点だ。




 とはいえ、どうしようもない問題はヒントや答えを見ればいいので、最後まで解けないということはまず起こらないだろう。

 途中のパズルの質は高くないが、それでも最後の〝すごいこと〟はほんとに圧巻なので、中盤のもやもやを吹き飛ばしてくれる。これ以上のネタバレは避けるけど、紙の本ならではの大仕掛け、とだけ言っておこう。


 ひとつ言っておくと、このパズルは絶対に誰かといっしょにやったほうが楽しいです。最後の感動を誰かと共有したくなるので。

 そして、たっぷり時間のあるときにやること。ぼくは娘とやったけど、ラストの一連の仕掛けを解くだけでも一時間かかったからね。


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マイバラードあるある

フライング

国葬義

アナグラム

秘技

首相

パイナップル味≠パイナップルの味

課金システム

逃走中

アシ絵

一を聞いて

共生関係

プラモデル

小泉先生

捨てどき

永遠のライバル

のりものあつまれ

持続可能

プリンセスプリンセス

アンパンマン



2023年2月16日木曜日

ディベートにおいて必要な能力

 小学生のときにディベートの授業をした。

 そのとき、自分は「ディベートが得意な人間」だとおもっていた。口が立つし、切り返しも早い。相手の論の瑕疵を突いたり、比喩を用いてわかりやすく説明するのもうまい、と。


 数十年たった今、とんでもないおもいちがいだったとつくづくおもう。はっきりいって、そんな能力ぜんぜん役に立たない。むしろマイナスだ。

 小学生のときは、「ディベート能力」=「話す能力」だとおもっていた。だけど大人になってみて気づく。話す能力なんかより、話さない能力のほうがずっと大事だ。


 話を最後まで聞く、意見を否定されても人格の否定として受け取らない、意見の相違を認める、仮に自分が正しいとしても相手をこてんぱんに言い負かさずに言い逃れの余地を与えてやる……。

 「攻め方」よりもそういう「受け方」や「攻めない方法」のほうがずっと大事だ。


 たいていの場合、相手を言い負かしていいことなんかひとつもない。消耗して、恨みを買って、(一部の取り巻きをのぞく)周りの人からも嫌われて、得られるのは「勝ったぜ」という何の役にも立たない自己満足だけ。失うことのほうがずっと大きい。

 Twitterで喧嘩をしている人なんかを見ると「弁論で他人を変えることができるとおもってはるなんて、人間に対する信頼が深くてよろしおすなあ」としかおもえない。

 Twitterで喧嘩をすると、味方は離れていき、敵ばっかり寄ってくる。なんもいいことない。


 言い負かす能力よりも、負けたふりをしてやるスキルとか、うまくはぐらかすスキルとかのほうがずっと大事だ。いちばんいいのは、敵対しようとしてくる相手と距離を置くこと。

 だから学校の授業でディベートをやるときは「ムードが悪いとおもったらその部屋から自由に退出してもよい」というルールを作ってやったらいい。

 で、最後まで残ってたやつが負け。



2023年2月15日水曜日

チョコハラ

 今年はついにバレンタインデーのチョコレートの受け取りを拒否した。


 ぼくの勤める会社には、まだ「女性社員数十人から男性社員数十人にチョコレートを贈る」という昭和の蛮習が残っている(平成にできた会社なのに)。

 数年前から、もらうついでに「こういうの、もういいですよ」「お互い無駄なんでやめましょうよ」「みんなからみんなに贈りあうってあほらしいでしょ。来年からはくれなくていいですよ」と迷惑であることを伝えていた。

 自分ではけっこうはっきりと伝えていたつもりなのに、本気だと伝わっていなかったのか、今年も女性社員からお菓子の包みを渡されたので覚悟を決めて「いらないです」と受け取りを拒否した。それでも冗談だとおもわれたらしく「いやいや~」みたいな感じで再度渡そうとしてきたので「これは女性みなさんでめしあがってください」と突き返した。


 一応言っておくと、ぼくは甘いものが好きだ。会社でもお菓子を食べるし、近くの席の人からお菓子をもらったり、あげたりもする。お菓子をもらったときは素直にうれしいし「ありがとうございます」と言って受け取る。ちょっとしたもののやりとりは、サルの毛づくろいといっしょで「私はあなたに敵意を持っていませんよ」という意思表示になる。人間関係を円滑にする上で必要なものだとおもっている。

 ただ、バレンタインデーのチョコレートの押し付け(あえて言おう、押し付けだと)に関してはもはやコミュニケーションとしての意味はない。どれだけうぬぼれの強い男であっても、会社で「女性社員一同から男性社員一同へ」のチョコレートを渡されて「おれは女性社員から好かれてるんだ!」とはおもわないだろう。


 バレンタインデーの「女性みんなから男性みんなへのチョコレート」のは、ただただ全員に負担を強いるだけのシステムだ。女性も、お返しをする男性も、みんな。

 労力を割いてお菓子を買いに行き、お金を払い、得られるのは「自分が選んだわけでもないお菓子」だ。どう考えたって割に合わない。自分のためにお菓子を買う方がずっといい。

 払った分よりずっと少ない額しか受け取れない年金。それがバレンタインデーとホワイトデーだ。


 もういいかげんこの悪習を断ち切らないといけないとおもい、今年はついに受け取りを拒否したのだ。

 当然ながら、拒否したときはかなり気まずい雰囲気が流れた。相手だってたぶん善意でやっているのだから、拒絶するのは心が痛む。善意とはたちの悪いものだ。しかしプレッシャーに負けて受け取ってしまうと来年からもバレンタインで嫌なおもいをすることになるので、心を鬼にして断った。はあ、疲れた。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないんだ。

 どう考えたって「いらないです」と言っている相手に贈りつける相手のほうが悪い。お返しがどうという問題ではない。

 逆で考えてみたらわかるだろう。女性社員が、会社で隣の男性から毎年毎年誕生日にバラの花束をプレゼントされる。「もういいです」と毎年言っても、ずっと贈られつづける。「お返しはいらないから」と言われるが、そういう問題じゃない。ただただ気持ち悪い。それといっしょだ。

 この「いらないと言っているのにバレンタインデーにチョコレートを贈られる」気持ちについて考えてみたのだが、そうか、セクハラをされる人ってこんな気持ちなんだろうなとおもった。


 セクハラにもいろいろあるが、「セクハラをする側はされる側に好意を持っている」ことが多いとおもう。上司が部下を執拗に口説くとか、上司が円満なコミュニケーションのつもりで性的な質問をぶつけるとか。

 そうすると、セクハラを受けた側はそれが好意にもとづいているがゆえに拒絶しにくい。「おい、一発なぐらせろ」は悪意から生じているから「嫌です」と断りやすいが、「今晩ふたりっきりで飲みに行かない?」は好意由来なので無下に断りづらい。たいていの人は断るにしても「嫌です」とは言わずに「今日は友だちと約束がありまして……」とか「明日早いので……」とかなんのかんのと理由をつけるだろう。

 それで引き下がってくれるならいいが、だったらいつならいいかと言われたり、毎週のように誘われたりすると、断るほうも神経をすり減らす。そういう相手にははっきり断らないと伝わらないが、その後も職場で顔を合わせることを考えると角が立つ断り方はしづらい。手ひどい断り方をして逆恨みされたり妙な評判を流されても困る。

 断りたい、けれど後々のことを考えると断りづらい……。セクハラはこうして生まれるわけだ。

 バレンタインデーも同じだ。おそらく「嫌だな」と感じながらも、断って人間関係にひびが入るのをおそれてしかたなく付き合っている男女も多いだろう。ぼくは「もらってもちっともうれしくないしお返しをするのは負担になるのでやめてほしい」と男性の立場から考えているが、「あげたくないけど周囲の圧力で半強制的に参加させられる」女性も多いようだ。

「チョコハラ」という言葉で検索してみたら、いくつもの記事が見つかった。同じように考えてる人がいっぱいいるのだ。

 セクハラで訴えられた人の多くは「よかれとおもってやった」「スキンシップのつもりだった」などと言うらしい。きっと本心だろう。よかれとおもってやっていることほど迷惑なものはない。バレンタインも同じだ。善意でやっているからこそたちが悪い。

 とある調査によれば半数以上の男女が職場のバレンタインデーの風習をやめたいと感じているらしい。


 ありがたいことに、世の中は少しずつ変わっている。無駄で、多くの人が嫌だと感じていることは徐々になくなってきている。

 昭和の会社員にとってはあたりまえだったお歳暮やお中元、年賀状も、今ではずいぶん滅びかけている。きっとバレンタインデーも同じような道をたどることだろう。


 まあやりたい人はやったらいいけど、半数以上が嫌がっているわけだから、せめて「やりたくない人が意思表示しなくちゃいけない」システムじゃなくて「やりたい人が意思表示する」システムになってほしいよね。

「チョコレートを贈りあう風習に参加したい人は二週間前からピンクのリボンをつけること」とかさ!




2023年2月14日火曜日

【読書感想文】岡崎 武志『読書の腕前』 / 精神がおじいちゃん

読書の腕前

岡崎 武志

内容(e-honより)
寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、トイレで読む、風呂で読む、目が覚めている間ずっと読む…。ベストセラーの読み方から、「ツン読」の効用、古本屋との付き合い方まで。“空気のように本を吸う男”が書いた体験的読書論。

 書評家による読書エッセイ。

「本好きによる本好きのための読書エッセイ」ってのはエッセイの定番ジャンルで、いろんな人が書いている。正直どれも似たりよったりの内容だが(この本もそう)本を書く人や読む人は当然読書好きが多いので、それなりに共感を得られてそれなりにおもしろがってもらえるのだろう。




 読書の効用はいろいろ挙げられるが、結局のところ「読みたい欲を満たしてくれる」ことに尽きる。あとはすべて副産物だ。おもしろいこともあるし、つまらないこともある。勉強になることもあるし、ならないこともある。人生を豊かにしてくれることもあるし、してくれないこともある。

 本にそれ以上のものを求めるのは、決まって本好きでない人たちだ。

 しかし世の中には、お金と時間を費やすんだったら、その分だけの見返りがないと事をはじめる気にならない、という人も多いだろう。たとえば、英会話教室へ通うなら、時候のあいさつや店員とのやりとりを英語でできるようになるとか、スポーツジムに通うなら、筋肉がついたりダイエットにもなる、といった具合である。そのような目に見えるメリットは期待できない。じつは、そこにこそ読書のおもしろさがあるのだが、そのことがわかるまでには、かなりの数の本を読む必要がある。

 そうなのよね。「読みたい欲を満たしてくれる」以上の価値は期待できない。何が得られるかは読んでみるまでわからない。それこそが本のおもしろいところなのに、あまり本を読まない人は本に実利を求める。


 また永江は、「すでに知られている本ほど売れやすい」というベストセラーの法則を提示する。芸能人をはじめとする有名人が書いた本、テレビ関連の本はその顕著な例。「無名作家のすぐれた小説よりも有名作家の駄作のほうがたくさん売れる」のも同様で、「クズ本をつかまされて、カネと時間を無駄にする可能性もある。だったら名前を知っている作家の新作を選ぼうと考える。消費者はリスクを回避する」というのだ。
 二〇〇四年は七年連続して書籍の売上げが前年割れした年だった。二〇〇五年に少し上向きになるのは、先に挙げたメガヒットや「ハリー・ポッター」シリーズ(静山社)の新作邦訳が出たためだ(が、その後は二〇一三年まで順調に下がり続けている)。人々は本に割くお金を年々削るようになっている。趣味や娯楽、食事、あるいは携帯電話の使用料など、使うべき場所はほかにいっぱいある。本は、ごくたまに買うもの、失敗するのはイヤ。永江の表現で言えば、「消費者はリスクを回避する」。結果、「すでに知られている本」を買うわけだ。
 しかし、それは本を買うというより、「話題」を買うというほうが近い。ベストセラーはもともとそういうものだ、と言えばそれまでだが、『バカの壁』など最盛期は一日に二回増刷していたなどという話も聞く。売れ方も部数もいささか異常で、ちょっと無気味な気さえする。それを指して「底が抜けた」と言ったわけだ。

「みんなが読んでいる本ばかりが売れる」のも同じ現象だ。要するに、失敗を避けたいのだ。

 年間何百冊も読む人は、一冊や二冊の失敗なんて屁でもない。たくさん読めばたくさんハズレを引くことを知っている。でも、年に数冊しか読まない人は失敗をしたくない。

 毎日行く食堂で変わったメニューがあれば、興味本位で頼んでみるかもしれない。まずくてもいいや、と。でも自分の結婚式の料理は間違いのないものを選びたい。一生に一度だから。そんな感覚だ。

 ま、これは読書に限らず、どんな分野でもあることだけどね。

 ぼくも、読書に関しては「十冊やニ十冊のハズレがなんぼのもんじゃい」という感覚だが、旅行に行くのは年に一回ぐらいだから入念に下調べをして、口コミなんかも参考にして、多くの人がそこそこ高評価なものを選ぶ。「行ってみてダメだったらそのときだ」とはおもえない。




 前半はそこそこ読めたが、中盤からは自慢話が多くてうんざりした。99%の自慢話がそうであるように、当然ながらまったくおもしろくない。

 新聞社から児童書の書評を頼まれたので、「小学生の娘が書いた」という形をとってわざと拙い文章で書評を書いた、という昔の話を書いた後で。

  悪ふざけギリギリで、ひょっとしたら担当者からクレームがつくかとも思ったが、無事、そのまま掲載された。これはおもしろがってくれた人が多く、「手帳に貼って、何度も読みかえし、そのたびに笑っております」と、わざわざ手紙をくれた友人もいた。してやったり、という感じだ。

 こんな話が続く。

 ああ嫌だ嫌だ、なんで年寄りの自慢話をわざわざ読まなくちゃいけないんだよ。

 とおもっていたら、あとがきで著者がこの本を書いたのは四十代だったと知って驚く。

 おじいちゃんだとおもってたよ。精神が完全に年寄り。昔とった杵柄の自慢と、回顧録がひたすら続くんだもん。誰からも褒めてもらえなくなったおじいちゃんが過去の栄光(と自分ではおもっているもの)を自画自賛してるのかとおもったわ。

 こういう四十代にはならないようにしないとなあ。いい反面教師になりました。


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