2021年9月6日月曜日

【読書感想文】乾 くるみ『物件探偵』

物件探偵

乾 くるみ

内容(e-honより)
高利回りのマンションを手に入れたはずが、オーナー生活はなぜか4ヵ月で終了。新幹線の座席が残された部屋、HDDから覚えのない録画が流れたり、バルコニーに鳩の死骸を見つけたり。全て何者かの嫌がらせなのか?格安、駅近、など好条件にも危険が。事故物件をチェックしただけでは見抜けない「謎」を宅地建物取引を極める不動尊子が解明。物件×人を巡る極上ミステリー6話。

 不動産物件をめぐるミステリ短篇集。

 お買い得とおもわれた投資用物件だが購入したとたん借り手が退去、全室入居済みとしかおもえないマンションが空室ありとして売りに出されている、事故物件を購入したら謎の女性がやってきた……。
 など、日常のちょっとした謎系ミステリ。真相も詐欺やご近所トラブル程度の話で現実にもありそう(ありえない話もあるけど)。

 不動産×ミステリという着想はおもしろい。
 ミステリの世界で不動産というと「××の館」みたいな奇想天外な建物で起こった殺人事件みたいな話が定番だが(古いか?)、ほんとにありそうな物件を題材にしたミステリというのはありそうでなかったかもしれない。
 業界用語の解説もあり、不動産の勉強にもなる。

 ただ中古分譲マンションしか扱っていないのが個人的には気に入らない。
 なぜならぼくは不動産を購入したことがない(そして購入したいという気もあまりない)から。
 ぼくにとって不動産屋といえばもっぱら賃貸のほうなんだよな。


 テーマはおもしろいんだけど、小説としておもしろいかというと、うーん……。

 決してつまらなかったわけじゃないんだけどね。ミステリとしての粗もないし。

 最大の問題は、意外性がないこと。
「宅地建物取引業法にはこんな意外な抜け穴があったのか!」
「この間取りを使ってこんな大胆な犯行ができるのか!」
みたいな驚きがないんだよね。
 まあそれをやると、それこそ××館の殺人になってしまうんだろうけど。


 あと個人的には探偵役が魅力的じゃなかった。
「物件の声が聞こえる」女性が探偵役なんだけど、好きじゃない。探偵役に超常的な能力を持たせちゃうと、ミステリとしての説得力がなくなるんだよな。
 超能力使って犯罪を見破ったら、それもうミステリじゃなくてSFだもん。
 西澤保彦作品みたいに、SF+ミステリがメインテーマであるならいいんだけどさ。

 乾くるみ作品は『リピート』や『セブン』がパズル的なおもしろさにあふれていたから期待したんだけど、これはそこまでじゃなかったな。


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2021年9月3日金曜日

ワクチン日記

 新型コロナウイルスワクチン。

 二ヶ月ぐらい前に接種券は届いていたものの「どうせまだ予約できないだろ」と悠長にかまえていたら、気づけば周囲に接種済みの人が増えている。えっ、もうふつうに予約できるんだ。

 で、はじめてちゃんとワクチン接種について調べる。
 市がやってるやつと府がやってるやつと国がやってるやつがある。で、それぞれ予約サイトが異なる。めんどくせえ。一本化して適当に割り振ってくれ。

 何度か予約を試みるも、いつ見ても満席。
 こうなるとちょっと不安になってくる。みんなが予約できてるのにぼくだけできていないような気がする。しかも明日にも感染するような気になってくる。一日でも早く接種したい! という気になってくるからふしぎだ。
 なんともおもっていなかった女友だちが、彼氏ができたと聞いたとたんになんだか急にいい女に見えてくるような感覚。

 そんなこんなで何度も挑戦していたらぽっかり予約が空いている日があった。9月3日。やった、金曜日だ。これなら発熱しても翌日ゆっくり休める。しかも週末は仕事の休みをとりやすい。好都合だ。
 よしっ、予約!
 はあよかった。

 胸をなでおろして予約票を見ていると、「2回目の接種は4週間後の同じ曜日となります」とある。
 9月3日のちょうど4週間後というと……げっ、10月1日。月初じゃねえか。業務が多くて月の中でいちばん休みをとりづらい日。
 あわてて別の日を探す。空いている日があったので予定変更。そっか、2回目の接種のことも考えてスケジュール組まなきゃならんのか。


 ということで市の集団接種会場へ。

 会場はインテックス大阪。大阪の咲州ってとこ。
 ほとんど行ったことなかったけど、この世の終わりみたいなところだね。

Google ストリートビューより
Googleストリートビューより

 真ん中に見えるでかい建物が大阪府咲洲庁舎(旧称大阪ワールドトレードセンタービルディング)。この、なんもない荒地にそびえたつ55階建ての建造物。
「周囲が発展することを想定して建てたのに見事大失敗」だということが素人目にもわかる。

 五輪招致失敗だとかバブル崩壊による目論見外れとか運営団体の経営破綻とか、要するに大阪の悪いところの縮図のような建物だ。
 ちなみに地盤がやわらかい(海に近い)ところにばか高いビルを建てたせいで地震でめちゃめちゃ揺れるそうだ。

 咲洲庁舎だけでなくこのへん一帯がアンバランス。でっかい建物がいっぱいあるのに静まりかえっている。道にぜんぜん人がいない。飲食店もコンビニもまったくない。
 市民のニーズを完全に無視してつくられた結果見捨てられた街、という感じだ。


 まあ咲州の開発失敗はさておき、インテックス大阪へ。

 入口で消毒、検温。受付で問診表などを提出。
 予約票はちらっと見られただけ。ちゃんとチェックしていない。ぼくは予約の時間帯より十五分ほど早く会場に着いてしまったのだけど、何も言われなかった。
 まあ厳密に入場制限するより、どうせみんないつかは打つんだから時間がずれててもどんどんさばいちゃったほうがいいということなんだろうな。いい判断だ。

 これなら予約なしで行っても接種してもらえそうだなーとおもう(実行しても私は責任はとりません)。
 受付横にウォーターサーバーがあってご自由にお飲みくださいと書いてあるが、受付はあわただしいので誰も飲んでいない。まあマスク外すのもあれだし。

 会場のスタッフは妙に慣れている。
 イベント運営会社のスタッフが担当しているとどこかで聞いた。コロナでいろんなイベントがなくなっているからええこっちゃ。
 だがウレタンマスクをしているスタッフもいる。ウレタンマスクは効果薄いってあれだけ言われてるのに、ワクチン接種会場のスタッフのウレタンマスクを許しちゃうんだ。
 会場内は涼しいんだし、せめてスタッフに対しては不織布マスク義務付けてほしいなあ。

 ぼくに接種してくれたのはやたら陽気な歯科医。
「どう? 緊張してる? はっはっはー!」
って感じ。
 性分なのかわざと明るくふるまってるのかわからないけど、こういうところで明るくしてくれるのはいいことだ。病院とかだとあんまり朗らかにできないけどね。

 無事に接種終了。ぜんぜん痛くない。
 経過観察のため15分待てと言われ待機。ウォーターサーバーはない。ここに置いてくれよ!

 

 帰宅してふつうに過ごしているうちにどんどん注射されたほうの腕がしびれてきた。
 すぐ反応が出るんじゃなくてじわじわくるのかー。
 翌朝になるとさらにしびれている。腕を上げるのがつらい。甲子園で150球投げた次の日みたいだ。投げたことないけど。

 だが二歳児は平気で「だっこー」とか「おんぶしてー。そのまま手を洗う―」とか甘えてくる。
 いつもはおかあさんに甘えることが多いくせにこんなときにかぎって「おとうさんがいい!」と駄々をこねる。ええい。かわいこまったやつめ。



2021年9月1日水曜日

【読書感想文】小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』

友だちリクエストの返事が来ない午後

小田嶋 隆

内容(e-honより)
人と人とがたやすくつながってしまう時代、はたして友だちとは何だろうか?永遠のテーマを名コラムニストが徹底的に考え抜きました!

 携帯電話やSNSにより、いつでも手軽につながれるようになった時代の〝友だち〟について考察した本。

 昔は、今ほど友だちの価値が重くなかったと小田嶋さんは書く(小田嶋さんの主観だけどね)。

 私が学生だった時代は「ぼっち」が基本であり、単独行動者であることがキャンパスを歩く大学生のデフォルト設定だった。私自身、昼飯はほぼ一人で食べていた。時間割によっては、一日中誰とも口をきかないままで帰って来る日もあった。それもそのはず、われわれの時代には、携帯電話が無かった。だから、特定のたまり場を持っていない学生は、キャンパス内で偶然知り合いに出くわさない限りは、「ぼっち」を余儀なくされた。(中略)
 とはいえ、誰もが多かれ少なかれ「ぼっち」であった私たちの時代の「ぼっち」は、現代のキャンパスを歩く「ぼっち」ほど孤立的ではなかった。
 わかりにくいいい方だったかもしれない。具体的な言葉でいい直す。つまり、誰もがつながれないでいた時代の「ぼっち」と違って、全員が携帯電話やラインを通じて常時ゆるやかにつながっていることが前提となっている現在の状況での「ぼっち」は、状況として「誰からも電話がかかってこない」本格的な村八分状況を意味しているわけで、だからこそ、「ぼっち」であることは、単なる暫定的な単独行状況ではなく、全面的な孤立ないしは村八分の恥辱として受けとめられているわけなのだ。
 私は、本書を「ぼっち」の人間の立場で書こうと思っている。


 ぼくは「大学生が携帯電話を持つようになった最初の世代」だ。ぼくの中学生時代は、大人も含めて携帯電話を持っている人はほとんどいなかった。高校一年生のとき、ポケベルを持っている生徒は半数よりやや少ないぐらい、PHS(携帯電話の簡易版みたいなやつ)を持っている生徒はクラスにひとりいたかどうか。
 だが高校一年生のときは「携帯電話を持っているのはクラスにひとりいるかどうか」だったのが、大学一年生では逆に「携帯電話を持っていないのはクラスにひとりいるかどうか」に変わっていた。その三年間で急速に社会が「携帯電話を持つ世の中」へと移行したのだ。


 そういう時代を生きてきたので「携帯電話のなかった時代」も知っているわけだが、小田嶋氏のこの文章には賛同できない。

 携帯電話によるコミュニケーションが一般的でなかった時代(つまりぼくの中高生時代)でも、やはり単独行よりも複数人で行動してるやつのほうが〝上〟という雰囲気はあった。
 まあそれは当人のキャラクターによるところも大きく、たとえばユーモアセンスがあったり運動神経がよかったりして周囲から一目置かれているようなやつの「ぼっち」は〝孤高〟という感じがして、何をやっても人より劣るやつの「ぼっち」は見下されていたわけだけど。
 それでも始終ひとりでいるよりも友だちに囲まれてるほうがいいよね、という感覚はほとんどの人が共通して持っていた。そこは古今東西いっしょだとおもう。


 だから携帯電話やSNSの普及と「ぼっち」の扱いの変化はあまり関係ないんじゃないか、というのがぼくの意見だ。

 むしろ今のほうが「ぼっち」が〝全面的な孤立ないしは村八分の恥辱〟と受け取られにくくなったんじゃないかな。
 だって今はキャンパスでひとりで歩いてる人が、数万人のチャンネル登録数を抱えるYouTuberだったり、世界中の人から注目されるインフルエンサーだったりする可能性があるわけでしょ。
「あいつはひとりで行動してるからさみしいやつだな」ってのはむしろ古い時代の価値観なんじゃないだろうか。まあ今の若い人の価値観なんて知らんけど。




 友だちとはガキのものだと小田嶋氏は喝破する。

 飯干晃一の言う「男の理念型」という言葉もほとんど同じ内容を指している。すなわち、「力」を崇拝し、「徒党」を好み、「身内」と「敵」を過剰に峻別し、「縄張り」に敏感な「ガキ」の「仲間意識」から一生涯外に出ない人間たちを、飯干は「男」および「ヤクザ」と呼んだわけで、別の言葉で言えば、男であることと、子どもであることと、ヤクザであることは、三位一体の鼎足を為す形で、完全に一致している。
 それゆえ、われわれは、子どもっぽく振る舞うか、悪ぶるかしないと「友情の芝居」を貫徹することができない。自然な、ありのままの大人の男であることと、誰かの友だちであることを両立させるのは、やってみるとわかるがひどくむずかしいものなのだ。なんと皮肉ななりゆきではないか。

 なるほど。言われてみれば、「男の友情」と「大人の付き合い」とは相反するものだ。
 ぼくも古くからの友人と話すことがあるが、話すことといえばウンコチンチンみたいな低レベルの話だ。仕事の悩みとか親の介護の話だとかを旧友に話す気にはならない。それは、中年になった今でも友人との関係が「ガキの仲間」であるからだ。

 そして「ワル」と「ガキ」が非常に近い存在であることも、まったくもってその通りだ。
 なわばりを張るとか、力で脅すとか、実利よりも面子を重視するとか、任侠の世界とガキの世界はよく似ている。
 そういや小学生のときは「この公園はうちの学校の校区なのに○○小のやつらが来てるぞ」みたいなことを気にしてたなあ。そうか、ヤクザのやっていることってあれの延長だったのか。


 仕事で知り合った人や娘の友人のお父さんと仲良くすることもある。酒を飲んだり、(子どもを含めてだけど)いっしょに遊んだりもする。
 でもその人たちのことを「友だち」とは呼べない。「親しい人」だ。なぜなら大人の付き合いだから。個人的には「忌憚なく悪口を言い合える関係」こそが友だちなのだが、仕事や子どもを媒介にして知り合った人とはそれはできない。親しくなることはできても友だちにはなれない。




 小田嶋氏は元アルコール依存症患者である。このままだと確実に死ぬと宣告されて完全に足を洗ったそうだが。

 酒をやめたのを機に、飲み友だちとの縁も完全に切れたのだという。

 ある年齢に達した男たちが、アルコール依存というわけでもないのに、どうしても酒場に通わずにおれないのは、たぶん、友だちがいないからだ。
「友だちだから飲むんじゃないのか?」
 違う。酒なら誰とだって飲める。たとえば、犬が相手でも、酒ならなんとか飲める。かなり嫌いな奴でも、酒を飲みながらだったら話ができる。ところがブツがコーヒーになるとそうはいかない。話の噛み合わない奴が相手だと、3分ともたない。
 というわけで、結論。
 コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。
 ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。
 たぶん、生前葬の列席者みたいなものだ。

 そうか。仲がいいから飲むのではなく、仲がよくないから飲むのか。
 そうだよな。大学の飲み会にしても職場の飲み会にしても、そこまで気心の知れない相手とめちゃくちゃ盛りあがることはある。それは酒があるから。
 酒は人間関係の潤滑油とはよくいったもので、潤滑油がないとギスギスする関係だからこそ潤滑油がいるのだ。元々スムーズにまわるのであれば潤滑油はいらない。

 ぼくはいっときは毎週のように誰かと酒を飲んでいたが、今ではほとんど飲まない。月に一度ぐらいになり、コロナ以後は三ヶ月に一度になった。
 なぜなら「無理して付きあわないといけない関係」をどんどん断ち切ってきたから。コロナのおかげもあるけど。
 家族とか旧い友人とかと話すときは酒はいらない。無理してテンションを上げる必要がないからだ。

 コロナ禍によって飲酒量が減った人は多いとおもう。
 それは単に感染拡大の場である飲み会が減ったからだけではなく、「緊張を強いられる相手と長時間過ごす場」が減ったからだろう。

 小田嶋さんは「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ」と書いているが、ぼくの定義では「同じ空間にいて5分沈黙が続いても平気な相手を友だちと呼ぶ」だ。


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2021年8月31日火曜日

名探偵コナン 変わりゆくものと変わらないもの

 八歳の娘が『名探偵コナン』にハマっている。
 きっかけは、ぼくの姪(つまり娘のいとこ。十一歳)が『コナン』のファンであることだ。アニメとはいえ謎解きなので八歳にはむずかしいだろうとおもっていたのだが、「おもしろい!」といって熱心に観ている。謎解きはぜんぜんできていないが。

 毎週土曜日のテレビ放送を録画して観ていて、それと同時にAmazonプライムで昔の作品を観ている。2021年のアニメと1996年のアニメをかわるがわる観ているわけだ。

 同じ作品といえども25年の時を経ているのでいろいろなところが変わっている。絵柄が変わったり声優が交代しているのは当然だが、時代のちがうアニメを交互に観ていると「この25年で世の中はずいぶん変わったんだな」と感じさせられる。

 男も女も肩幅の広いスーツを着ていたり、女子高生がルーズソックスを履いていたり、携帯電話がばかでかかったり、公衆電話でやりとりをしていたり、パソコンがまだめずらしかったり。第29話『コンピューター殺人事件』は、プログラマの男が社長のマンションのコンピューターシステムに侵入してエアコンを遠隔操作するというかなり乱暴なトリックが使われる。ユビキタス対応でもないエアコンなのに。コンピュータが身近でない分過大評価されていたのだろう。


 変わったのはファッションやテクノロジーだけではない。

 たとえば初期のコナンでは、いろんな人がそこかしこでタバコを吸っている。駅のホームでも吸うし、学校内で教師が吸う。子どもが近くにいてもおかまいなし。「マナーの悪い人間」の描写ではなく、ごく自然に吸っている。

 飲酒運転に対する寛容さも今とはちがう。酒を飲んだ後でも運転しようとするし、周囲も「もう! お酒飲んでるのに!」ぐらいで、たいして咎めない。そう、25年前って「ちょっとぐらいなら飲んでても(検問に引っかからないように)気をつければ平気」ぐらいの感覚がふつうだったんだよなあ。


 あと、毛利小五郎のコナンに対する扱いもずいぶん変わっている。ぞんざいに扱っているのは今も変わらないが、1996年に比べて手を上げることはずっと少なくなっている。
 1996年は頻繁にコナンをぶん殴っていた。ちょっとコナンが捜査に口をはさんだだけで容赦なくげんこつを食らわせていた。まだ「子どもは厳しくしつける必要がある。体罰も愛があれば許される」みたいな考えが生きていた時代だ。
 最近はいくらアニメとはいえ児童(しかもよその子)をぶん殴るのはまずいということになったのだろう。暴力描写は激減した。

 というか最近はコナンが堂々と捜査現場に入っている。昔はすぐ締めだされていたのに(まあそれをいうなら私立探偵である毛利小五郎が現場に入ってることもおかしいのだが……)。


 また、人権意識も変わっている。
 1996年版を見ていると「女が口をはさむんじゃねえ」「男らしくない」みたいな台詞があってドキッとする。
 まだ「男/女はこうあるべき」みたいなことを公言していた時代だったのだ。現代でも人々の意識には残っているが少なくとも「それを大っぴらに口にしてはいけない」という共通認識はある(認識していないおじいちゃんも多いけど)。


 同じ作品、同じ世界観のはずなのに時代にあわせて確かに変化は起こっている。それがわかるのも長寿アニメならではだ。

 ただ、25年前と今とで変わらないこともある。
 コナンの世界の住人が、ほんの些細なことで人を殺すことだ。
「殺された恋人の復讐」みたいな深刻な動機もあるが、我々が「舌打ちする」レベルのことでもあっさり殺す。すごくカジュアルだ。
 殺人の多さのわりに暴行や窃盗が多いわけではない。治安が悪いわけではなく、ただ殺人へのハードルだけが異常に低いのだ。
 勘違いで殺してしまって、後で真相を聞かされて犯人が嘆き悲しむこともしょっちゅう。


 ファッションは変わり持ち物は変わり人権意識も変わる。けれど時代が変われども人を殺したいという気持ち、それを実行に移すまでのハードルの低さだけは変わらない。

 腹が立ったときの解決法はいつもひとつ! 名探偵コナン!


2021年8月30日月曜日

読書感想文を教えてみて

 小学校二年生の娘。夏休みの宿題として、読書感想文の課題が出た。

「読書感想文はひとりでやるのはむずかしいから、おとうさんといっしょにやろう」
とぼくは言った。

 読書感想文にはちょっとうるさい。
 なにしろぼくは読書感想文の大家である。「読書感想文五段」を勝手に名乗っている。
 年間百本の読書感想文を書く。あることないこと好き勝手書き散らしているだけだから書評ではなく「読書感想文」だ。
 書評をたくさん書いている人はいるが、読書感想文を年に百本も書く人間はそうはいまい。


 娘が選んだのは、岩佐 めぐみ『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』という本だ。


 ぼくも読んでみる。
 ふんふん。読書感想文の題材としては悪くない。

 まず二年生でもわかりやすい。理解できない本の感想文は書きようがない。

 それから、ファンタジーなので変な展開がいくつもある。これは感想文を書く上でとっかかりになる。万事読者の予想通りに進む本よりも、妙な箇所が多いほうが感想文は書きやすい。
「○○をしたのがふしぎだとおもいました。わたしなら××するのに」と書けばいい。

 友だちがいなくて退屈していたキリンが、文通を通して最終的には遠く離れたペンギンと友だちになるというシンプルなストーリーもいい。わかりやすい教訓を引きだしやすい。




 さて。
 ぼくは娘に言う。
「まずはお話のかんたんな説明を書こうか。どんなお話か、読んだことのない人にもわかるように」

 ここはわりとうまくいった。
 二年生の書く文章なのでたどたどしいが、○○がいました、○○しました、と書いていくなので本の内容さえ理解できていればかんたんだ。

 ただ、説明が止まらない。
 八百字以内と決まっているが、四百字を使ってもまだ説明が終わらない。このままだと感想文ではなく要約になってしまう。それはそれで文章を書くトレーニングにはなるが、今回求められているのは感想文なのだ。

「感想文だから、本の内容だけじゃなくて、(娘)が考えたことを書かないといけないんだよ」
というが、これがなかなか伝わらない。
 二年生にとって「説明」と「感想」は不可分なもので、切り分けるのはむずかしいのだ。




「うん、これ以上書くと感想を書くスペースがなくなるから、『これがこの本のないようです』って書いて、ここからは感想を書こっか」
と、半ば強引に要約を終わらせる。

 さあいよいよ感想だ。
 もちろん「感想を書きなさい」「おもったことをそのまま書きなさい」と言っても書けない。読書感想文五段のぼくは知っている。
 感想を言語化するのは大人でもむずかしい。


 そこでぼくはいくつかの指針を示した。

  • 「このお話に出てくる人の中で、誰がいちばん好き? その理由は?」
  • 「もし自分がこのお話の続きを書くとしたら?」
  • 「登場人物のとった行動で、ふしぎにおもったところは? 自分だったらどうする?」
  • 「自分もまねしたくなることはあった? 逆に、まねしたくないとおもったことは?」

など、いくつかのテンプレートを用意した。
 完璧だ。このテンプレートを使えばかんたんに感想文を書ける、はずだったのだが……。




 やはり娘は書けない。
 ぼくが提示したテンプレートを見ても
「なにもおもわない」「わからない」
としか言わない。
 こっちもイライラしてくる。「なんもないことないやろ」「ちゃんと考えてるか?」と、きつくあたってしまう。


 ううむ……。
 大人だったら嘘でもいいから無理やり「それらしい答え」をひねり出すだろうが、二年生ではそれすらもできないのだ。

「こんなん嘘でもええねんで。まったくおもってもいないけど『この本を読んでわたしも知らない人と手紙でやりとりしたくなりました』って書いとけばええねんで」
といえばいいのだが、日頃「嘘をつくな」と教えてる手前「嘘でもええねん」とは言いづらい……。




 娘に「どこが変だとおもった?」と質問し、娘が「ここ」と言えば
「それは○○が××だから? それとも△△が□□だから?」とぼくが訊く。
「自分がこの立場だったらどうする? Aをする? それともBをする?」と重ねて訊く。

 結局、「ぼくが用意した感想の選択肢の中から娘が選ぶ」ような形でどうにかこうにか感想文は完成した。

 はあ疲れた。一日がかりの大作業になった。
 苦労してできたのは「一応最低限の形式だけ整えた読書感想文」。当初ぼくが思いえがいていた「見事な構成で、かつ子どもらしい瑞々しい感性をとりいれたすばらしい読書感想文」にはほど遠い。




 一夜明けて、反省した。
 教え方がまずかった。

 特にまずかったのは、「いくつかのテンプレートを出して、どれがいい?と決めさせること」だ。

 そんなのは生まれてから読書感想文を一度も書いたことの小学二年生にさせることじゃない。
 どれがいい? と言われたってわかるわけがない。書いたことがないんだもの。そもそも読書感想文が何かすらよくわかってないんだもの。

 選択肢なんかいらない。意思を尊重なんてしなくていい。そんなのはある程度書けるようになってからで十分だ。

 野球をはじめてやる子に「どんな投げ方がいい? オーバースロー? サイドスロー? アンダースローもあるよ。トルネードってのもあるけど」なんて尋ねてもわかるわけがない。
 最初はきっちり〝型〟を教えるべきだ。何も考えずにこうしなさい。やってるうちにわかるようになるから、と。




 教えてみてわかったけど、やっぱり読書感想文なんて宿題にすることじゃねえや。
 大人だって書けないもの。教師だって書けないんじゃない? 読書感想文の宿題を出す教師はいっぺん「これぞ正解!」っていう読書感想文を書いてみろよ。

 ぼくは毎週読書感想文を書いてるけど、これは趣味だから続けられていることだ。
 誰かに添削されるならとっくにやめている。
 だいたい感想だから「クソつまんねえ」とか「ケツ拭いた後のトイレットペーパーのほうがまだ見ごたえがある」でも正解のはずなのに、そういうのは許されない。おかしな話だ。上手に悪口を言うのはたいへん技術がいるのに。


 要約でいいとおもうよ、夏休みの宿題は。そっちのほうがはるかに文章力研鑽になる。


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夏休みの自由研究に求めるもの