2021年6月3日木曜日

【読書感想文】最後にいきなりカツ丼出されるような / 桐野 夏生『夜の谷を行く』

夜の谷を行く

桐野 夏生

内容(e-honより)
山岳ベースで行われた連合赤軍の「総括」と称する凄惨なリンチにより、十二人の仲間が次々に死んだ。アジトから逃げ出し、警察に逮捕されたメンバーの西田啓子は五年間の服役を終え、人目を忍んで慎ましく暮らしていた。しかし、ある日突然、元同志の熊谷から連絡が入り、決別したはずの過去に直面させられる。連合赤軍事件をめぐるもう一つの真実に「光」をあてた渾身の長編小説!

 はじめにことわっておくと、山岳ベース事件(凄惨な事件なので苦手な人は閲覧注意)を知らない人には何が何だかわからない小説だとおもう。

 山岳ベース事件の生き残りの四十年後を書いた小説だが、事件に関する説明はこの本には書かれていない。事件の内容を知っていることを前提に書かれているので、この本を読む前にWikipediaでもいいから事件の概要を知っておくことをお勧めする。




 山岳ベース事件にはなぜか惹きつけられる。
 事件はぼくが生まれるより前の事件だが、知れば知るほど「特殊な状況に置かれた人間がいかに異常なふるまいをするか」ということをまざまざと見せつけてくれる。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のDVDも買った。フィクションだとわかっていても身の毛がよだつほどの生々しさを感じた。
 人間ってこんなにかんたんに狂えるのか。思考能力はこんなにたやすく奪われてしまうのか。

 ちなみに、「山岳ベース」よりもその後の「あさま山荘事件」のほうが有名だが、あれは追いつめられた人間が人質をとって立てこもっただけなので異常性は感じない。
 「山岳ベース」事件は怖い。
 人間が潜在的に持っている残酷性をはっきりとつきつけられるので怖い。人間って集団になるとこんな残酷なことをやれるのか。三十人近くいて誰も止めないのか……。

 もし自分が山岳ベース事件の場にいたらどうしていただろう……という考えを拭い去ることができない。戦ったり逃げたりできただろうか。殺されていただろうか。それとも、殺す側にまわっていただろうか。

 自分がどうしていたかはわからない。
 ただ「おれは絶対その場にいてもリンチには加担しなかった」というやつだけは信用できないとおもう。真っ先にリンチに加担するのはそういうやつだ。きっと。


 少し前に清水潔『「南京事件」を調査せよ』という本を読んだ。
 南京大虐殺と山岳ベース事件は似ているとおもう。命令されれば(場合によってははっきりと命令されなくても)、人間はどこまでも残虐になれる。特別に凶暴な人でなくても、ごくふつうの人がかんたんに他人を殺してしまう。




『夜の谷を行く』は、山岳ベース事件の生き残りである西田啓子(架空の人物だがおそらくモデルはいる)を主人公にした小説だ。
 舞台は二〇一一年。東日本大震災の前後。
 西田啓子は指導部ではなかったもののリンチに加担したため服役し、学習塾講師を経て、今ではひとりで暮らしている。ジムに通うのと焼酎を飲むのが好きな、老婆の静かな暮らしだ。
 しかし彼女の生活に四十年前の事件はずっとついてまわる。親戚の縁を切られ、唯一付き合いのある妹とは四十年たった今も事件をめぐって諍いが絶えない。姪の結婚にも啓子の過去が影響を及ぼす。

 彼女は「あの事件はすべてまちがいだった」とおもっているわけではない。もちろんすべてを肯定しているわけではないし、誤ちを犯したことは認めている。とはいえ、すべてが誤りだったとおもっているわけでもない。しかたなかったことや、正しいこともあったとおもっている。

 このへんの心の動きがすごくリアルだ。
 人間って、そんなにかんたんに過去の自分を全否定できるものじゃない。
 戦争に行って戦った人が、終戦後に「あの戦争はすべてまちがいでした」と言われても全面的に受け入れられたわけじゃなかっただろう。まちがいもあったけど、彼らが国や家族を守るために戦いに挑んだことまでもが誤りだったと受け入れられた人は少なかったんじゃないだろうか。

 山岳ベース事件は、外にいた人からしたら
「なんでそんなことしたんだ」
「自分だったらぜったいにそんなばかなことはしない」
と言いたくなることばかりだ。

 でも当事者である西田啓子にはそうおもえない。過去に対して線を引いてきれいさっぱり忘れることができない。
「間違いだったとされていることをしてしまった」とはおもっているが、「間違ったことをしてしまった」とはおもっていない。

「心からの反省」だとか「過去を悔やんでの改心」なんてしたことがあるだろうか。
 ぼくはほとんどない。
「もっとうまく立ちまわればよかった」ぐらいのことは考えるが、「あのとき自分はなんであんなばかなことをしてしまったんだろう」とまではおもわない。それをしてしまうと今の自分の存在が揺らいでしまうから。

 裁判所や刑務所で改悛の意志とかいうけど、あんなの噓っぱちだよね。まあ一パーセントぐらいは本気で改悛する人もいるのかもしれないが、ほとんどは「へたこいた」ぐらいにしかおもっていないとおもう。




 この小説、わりと平坦に話が進んでいくんだけど最後に大きなどんでん返しがある。
 たしかにびっくりしたんだけど、そういう小説だとおもってなかったのでかえって肩透かしを食らったような気になる。
「ははあ、元連合赤軍メンバーの心情を静かにつづる小説なんだな」とおもっていたら最後の最後で急にミステリになるというか。
 コース料理でスープと前菜と魚と肉を味わって「そろそろデザートかな」とおもってたら、突然カツ丼が運ばれてくるような。
  えっ、あっ、いや、たしかにカツ丼好きですしすごくおいしそうなカツ丼ですけど、今はそんなの求めてないんですけど。


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2021年6月2日水曜日

【読書感想文】全漫画中最高の1コマ / つの丸『モンモンモン 8巻』

モンモンモン 8巻

つの丸

内容(e-honより)
モンモンたちを追いかけてきたくまチョン&チャラ子を加え、世界一周の旅は続く! 砂漠、大海原、芸術の都に西部の荒野。やっと日本に帰りつくはずが、モンモン兄弟がたどり着いたのは…なんと北極! 雪と氷の世界をサバイヴして、ぶじ故郷の土を踏むことはできるのか!? ハイパーモンキーギャグ、ここに堂々の完結!!

『モンモンモン』の8巻について語る。

 なぜ8巻なのか。
 それは8巻には『モンモンモン』の最終話が収録されており、そして『モンモンモン』の最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』こそ週刊少年ジャンプのあらゆる漫画の中でもっともすぐれた最終回だとぼくがおもうからだ(いうほどたくさん読んでるわけじゃないけど)。

 だが『モンモンモン』の最終話のすばらしさはあまり知られていない。
 作者のつの丸といえば、『モンモンモン』の次回作である『みどりのマキバオー』のほうが圧倒的に有名だし(アニメ化もされた)、連載当時にジャンプを読んでいた人でも『モンモンモン』の最終回を知らない人は多い。なぜなら、『モンモンモン』の最終回はジャンプ誌上に載らなかったから。

『モンモンモン』は話半ばでジャンプ連載を打ち切られ、単行本刊行時に書き下ろしとしていくつかの話が追加された(ちなみに終盤も決してそのおもしろさは衰えてないとぼくはおもう)。最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』は書き下ろし作品だ。だからジャンプを毎週読んでいた人でも、単行本を手に取っていないかぎり最終話の内容は知らないわけだ。




 8巻の話をする前に、もう少し『モンモンモン』全体の話をしよう。

『モンモンモン』はチンチンやうんこやおならがたくさん出てくる下品なギャグ漫画だ。主人公は(猿とはいえ)チンチン丸出しでいつも鼻をほじりながらおならをしている。ここまで下品な主人公もそういない。
 前半は過激な暴力シーンも多かった。下ネタ、暴力、悪ふざけ。PTAが嫌いなものだらけだった(エロはない)。

 だが同時に、作品全体を強烈な「兄弟愛」「家族愛」が貫いていた。

 主人公・モンモンはかなり身勝手なキャラクターだ。傍若無人で気配りは皆無。そんな性格だから弟であるモンチャック(こちらは常識的なキャラ)に迷惑をかけつづける。だがモンモンは「兄貴として弟を守る」という姿勢だけは崩さない。結果的にモンチャックを困らせることになろうとも。

 ここに感じるのはほとんど「母性」だ。

 モンモンにとって弟・モンチャックは常に庇護する対象でありつづける。モンチャックのほうが頭もいいし世渡りもうまいが、モンモンはモンチャックに嫉妬や負い目を感じることはない。理由はない。母が母であるがゆえに子を愛するように、モンモンはモンチャックを守りつづける。
 モンモンはモンチャックの兄貴というより母なのだ(中盤で実母モンローと再会するが、モンローの存在感は薄い。再開後もモンチャックにとっての母はモンモンといえる)。

「ピント外れな愛情を注いでくる兄貴」は、『モンモンモン』を支えるギャグのひとつとなっている。岡田あーみん『お父さんは心配性』のお父さんと同じ構図だ(ただしあのお父さんの愛情には嫉妬も含まれているのでどこか生々しい。『モンモンモン』のほうがより純粋な愛情といえる)。




 さて、そんなモンモンの「母性」がギャグとしてではなく、シリアスに描かれるシーンが作品を通じて一箇所ある。それが最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』だ。ふう。やっとここに話が戻ってきた。

 ネタバレになるが、海に落ちたモンチャックを、モンモンは身を挺して守ろうとする。おならを吸いながら弟を助けようとするこのシーンは、くだらないギャグと自己犠牲精神とが融合したすばらしいシーンだ。

 で、この行動がすっごく自然なのだ。
 ふつうに考えたら「他人のために命を賭ける」って異常な行動じゃん。フィクションだったらよくあることだけど、でもどっか嘘くさい。1巻の第1話で、めちゃくちゃ強いはずのキャラが知り合い程度の少年のために片腕捨てたら「なんでだよ」ってなるわけじゃない(シャンクスのこととは言ってません)。
 だけどモンモンの場合は、最初っから最後までずっとモンチャックを守るために動いてるんだよね。だってそこには「母性」があるから。損得や、防衛本能すら超越した「母性」で動いてるから。
 それがずっと描かれてるから、命を賭けて弟を守ろうとするモンモンの行動はすごく自然だ。むしろこれ以外の行動をとることは考えられない。

 自分の命も危ないのに助けにきた兄・モンモンにモンチャックは問う。「自分も泳げないくせになんで助けにきたのさ!」と(記憶だけで書いてるので細かい言い回しはちがうかも)。
 それに対してモンモンは答える。「おれはおまえの……兄貴だからだ!」(この台詞ははっきり覚えている)と。

 この台詞がすごい。質問に対する論理的な答えになっていない。だがこれ以外の答えはないし、この台詞でモンチャックはすべてを理解するし、読者も納得する。なぜなら母性とはそういうものだから。




 さて。
 モンモンとモンチャックがどうなったかはここでは明かさない。
 なぜなら、最終巻・最終話の最後のコマを読めばすべてがわかるからだ。

 このラストシーンがほんとうに美しい。
 うんこちんこおならはなくその汚いギャグ漫画をやってきたのは、このシーンのためのフリだったのではないかとおもうぐらいオシャレなエンディングだ。
 数々の伏線が最後の1コマでぴたっとはまり、数年間の出来事がすべて読者の前に提示される。たった1コマで。
 ああ、あの酒場の占いはこれだったのか、くまちょんのあの態度はこういうわけか、チャラ子のあの台詞はそういうことか。

「ラスト数行のどんでん返し系」の小説はいくつも読んだが、いまだに『モンモンモン』を上回るものには出会っていない。あれほど1コマで様々な感情を喚起させる漫画にも出会ったことがない。


 この感情を味わうために、多くの人に『モンモンモン』の最終巻の最終話の最後のコマを見てほしい。もちろんこれだけ見てもわからないから、1巻から読んでほしい。
 1巻とか絵も汚くて内容も下品でギャグもいまいちでほんとにどうしようもない漫画だけど、そこをなんとか辛抱してつきあってほしい。


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2021年6月1日火曜日

ツイートまとめ 2020年11月


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2021年5月31日月曜日

【読書感想文】意志は思考放棄 / 伊藤 亜紗ほか『「利他」とは何か』

「利他」とは何か

伊藤 亜紗  中島 岳志  若松 英輔
國分 功一郎  磯崎 憲一郎

内容(e-honより)
コロナ禍によって世界が危機に直面するなか、いかに他者と関わるのかが問題になっている。そこで浮上するのが「利他」というキーワードだ。他者のために生きるという側面なしに、この危機は解決しないからだ。しかし道徳的な基準で自己犠牲を強い、合理的・設計的に他者に介入していくことが、果たしてよりよい社会の契機になるのか。この問題に、日本の論壇を牽引する執筆陣が根源的に迫る。まさに時代が求める論考集。


「利他」をキーワードに五人の執筆陣が論考をめぐらせた本だが……。

 正直、それぞれが好き勝手に書いているだけなので本としてのまとまりはない。しかも後半の執筆者になるにつれてどんどん話は抽象的・哲学的になってゆく。まあそりゃそうか。「利他」を語るなら、哲学の話になるのは必然か。

 とはいえ「コロナ禍によって世界が危機に直面するなか……」なんて説明文だから、もうちょっと即時性のある内容かとおもったぜ。




 伊藤亜紗さんの文章がいちばんおもしろかった。

 共感といってもいろいろありますが、それが近いところや似たものに向かう共感であるかぎり、地球規模の危機を救うために役立たないのは、彼らが指摘するとおりです。
 加えて共感は、もっと身近な他者関係でも、ネガティブな効果をもたらすことがあります。なぜなら、「共感から利他が生まれる」という発想は、「共感を得られないと助けてもらえない」というプレッシャーにつながるからです。これでは、助けが必要な人はいつも相手に好かれるようにへつらっていなければならない、ということになってしまいます。それはあまりに窮屈で、不自由な社会です。
 以前、特別支援学校の廊下に「好かれる人になりましょう」という標語が書いてあって、愕然としたことがあります。もしこの言葉が、「助けてもらうために」という前提を無意識に含んでいるのであれば、障害者には自分の考えを堂々と述べたり、好きな服を着たり、好きなことをしたりする自由がないということになってしまいます。これは、障害者の聖地カリフォルニア州のバークレーの街角で見かける、髪を紫に染めてタバコを吸いながら悠然と車椅子に乗って進むパンキッシュな障害者の姿とはまったく対照的です。

 よく「相手の立場に立って考えましょう」なんていうけど、あれは良くない。もちろん優しさにつながる面もあるけど、同時に他人の行動を縛るためにも使われる。
「自分があなたの立場に立ったらそんなことはしない。だからあなたもやめるべき!」という方向に容易に進んでしまう。「自分が障害者だったら他人に迷惑をかけないように暮らす。だから障害者はつつましく生きるべきだ!」となってしまう。

 想像力や共感は、他人の行動を制限するためにも使われるのだ。

〝想像力のある人〟が、「自分が車椅子ユーザーだったら電車に乗る前に駅員に連絡をする。だから連絡をせずに駅員に迷惑をかける車椅子ユーザーは非常識だ!」と叫ぶのだ。
 その想像はせいぜい「短期的に車椅子に乗ることになったら」ぐらいで、「一生車椅子に乗って生活する」ことまでは想像できていないことがほとんどなんだけど。

 利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。
 重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。 思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。
 つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になります。「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。

 親切にするとき、見返りを求めてしまう。べつに金銭的なものだけでなく「喜んでもらう」「感謝される」ことを当然のものとおもってしまう。

 被災地に入ったボランティアが、被災者の気持ちを無視して親切心を押しつけようとする、なんて話をよく聞く。利他的にふるまうときこそ他人に迷惑をかけやすいのだ。


 ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』という本に書いてあったが、人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすいそうだ。
 私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「国のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなる。金儲けのために殺人はできない人でも、「国のため」と言い聞かせれば戦争で人を殺せるわけだしね。

 虐殺や残酷なリンチはたいてい〝崇高な目的〟のためにおこなわれる。
 募金活動をしている人が通行人の妨げになっている。
 よりよい未来をつくるはずの人が選挙カーで大音量で自分の名前を連呼する。

〝モラル・ライセンシング〟 という言葉がある。
 何かよいことをすると、いい気分になり、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうという現象を指す言葉だ。
「自分はいいことをしている」とおもっている場合は要注意だ。




 國分功一郎さんの文章より。

 意志の概念を使うと行為をある行為者に帰属させることができます。たとえば「ずいずいずっころばし」という歌では最後に「井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれ」と歌われます。ある少年がお茶碗を割ったことが分かったとしましょう。「自分の意志でお茶碗を割ったんだな?」と訊ねられて、少年が「はい、そうです」と答えると、お茶碗を割った行為はその少年のものになります。そして少年に責任が発生する。自分に帰属する行為であるから、その行為にも責任があるというわけです。
 しかし、実際には少年は母親にガミガミ叱られて腹が立ったのでお茶碗を割ったのかもしれません。そして母親が少年をガミガミ叱ったのは、少年の父親と夫婦ゲンカをしたからかもしれません。夫婦ゲンカになったのは父親が仕事で上司から責められてムシャクシャしていたからかもしれません。そうやって行為をもたらした因果関係はどこまでも遡っていくことができます。
 しかしどこまでも通っていくのでは誰にも責任がなくなってしまう。だから、意志の概念を使ってその因果関係を切断するのです。少年が自分の意志でやったとすれば、因果関係はそこでぷつりと切れて、少年に行為が帰属することになります。切断としての意志という概念は、行為の帰属を可能にすることで、責任の主体を指定することができるわけです。

 ほう。この考えはおもしろい。

「私の意志でやりました」というのは、潔いように感じる。
 だけどそれは、本当の原因を隠蔽する行為でもある。
 もちろん原因なんてひとつじゃないし、やろうとおもえばいくらでもさかのぼれる。最後は「人間が誕生したことが悪い」にまで行きついてしまう。
 だから現実問題としてはどこかで因果関係を切断する必要がある。それが「意志」だ。

 あいつが良からぬことをしようとした。だからあいつが悪い。それ以上はさかのぼる必要がない。
 これはすごくわかりやすい考えだが、危険でもある。もっと奥深くにある原因にたどりつくことができず、また同じ過ちをくりかすことにつながる。

 官僚が文書を改竄した。悪いことだ。
 だが、その官僚の「意志」でやったということになれば、責任を問われるのはその官僚まで。彼に指示した上司も、その上司の上司も、さらには「こんな文書があるとまずいことになるな」と忖度させた総理大臣も、責任をとる必要はなくなる。

「意志」は潔いことではなく、責任放棄、思考停止のための手段なのかもしれない。


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2021年5月28日金曜日

【読書感想文】旧知の事実を再検証しなくちゃいけない徒労感 / 清水 潔 『「南京事件」を調査せよ』

「南京事件」を調査せよ

清水 潔

内容(e-honより)
戦後70周年企画として、調査報道のプロに下されたミッションは、77年前に起きた「事件」取材。なぜ、この事件は強く否定され続けるのか?「知ろうとしないことは罪」と呟き、西へ東へ南京へ。いつしか「戦中の日本」と、「言論の自由」が揺らぐ「現在」がリンクし始める…。伝説の事件記者が挑む新境地。

 

『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 などで知られる著者が(どちらも上質な骨太ノンフィクションなので超おすすめ)、テレビ番組の取材のために「南京事件」を調査することに。その調査報告(+清水さんの個人的な体験)。


 書かれていることに目新しさはない。すでに先行研究者が明らかにしていることを、清水さんが改めて検証したという内容だ。
「裁判所や警察にもまったく知られていなかった真実」をいくつも明らかにしてきた清水さんが書いたものとしては、正直にいって新鮮さがない。
 結論としては「南京大虐殺はあったとしか考えられない」というものだし、その内容はぼくが小学校のときに習ったものとほとんど同じだ。

 じゃあなぜ改めて「旧知の事実」を再検証しなければいけなかったのかというと、それを認めない人がいるからだ。

「南京大虐殺」「南京事件」で検索するとわかるとおもうが、「論争」だの「嘘」だの「デマ」だの「疑念」だのといった言葉が出てくる。『南京事件論争史』なんて本もあって、論争自体が歴史を持っているのだ。

 いやこれを論争といっていいのだろうか。
 もちろんぼくはこの目で見たわけじゃないから「南京大虐殺は100%あった!」と断言はできないが、数々の資料や証言を見聞きするかぎり、「99.9%あったんだろう」とおもうし「なかった!」と断言することは絶対にできないとおもう。

 だって中国側の証言だけでなく、日本人側にもいっぱい「あった」と言っている人がいるし、第三国の記者も証言してるし、虐殺を伝える当時の新聞や日記もある。
 もちろん、細かい状況だとか人数だとかに関しては不正確な部分はあるのだろうが、大筋として「日本軍が中国人捕虜や民間人に対して残虐な行為をおこなった」という事実は否定できないだろう。

 だいたい中国側はともかく、日本人には「虐殺をした」という嘘の証言をするメリットはないだろうし(隠蔽するメリットはいっぱいあるが)。

 第一報を伝えたニューヨーク・タイムズのF・ティルマン・ダーディン記者は、陥落後の15日に船で脱出。上海に停泊していたアメリカ海軍軍艦オアフ号から電信で記事を送稿していた。
 ニューヨーク・タイムズ 1937年12月18日版
 見出し<捕虜全員を殺害><民間人も日本軍に殺害され 南京に恐怖が広がる><中国人による統治と軍事力が崩壊し、南京の中国人の多くは日本軍の入城を期待し、その後に生まれる秩序と統治を受け入れるつもりだった><2日間の日本支配が大きく見方を変えた。無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した。南京を恐怖の街に一変させた><多くの中国人は妻や娘が誘拐され、強姦されたと外国人に訴えた。中国人は必死に助けを求めたが、外国人はなすすべもなかった>
 同じニューヨーク・タイムズ1938年1月9日版では、
<日本軍による大量殺戮で市民も犠牲――中国人死者33000人に>などと特集されていた。もちろん日本人のほとんどはこんな記事を目にすることもなかった。

 にもかかわらず「なかった!」と主張する人がいる。

 写真についているキャプチャがおかしいとか、殺された人数が不正確だとか、細部の疑惑をとりあげて「だから虐殺自体がなかった!」と主張する人だ。
(ちなみによく聞く「当時の南京の人口は20万人しかいなかったのに30万人も殺されたはずがない!」という主張の有効性はこの本の中で明確に否定されている。)


 この本の後半で清水さんも書いているが、求めているものが違うのだ。

「事実」ではなく「イデオロギー」や「損得」を求めている人にとっては、「虐殺があったことを指し示す証拠」なんてものは見る価値がないのだ。
 そもそも「事実」や「証拠」なんて求めていなくて、「虐殺はなかったと信じさせてくれるもの」しか求めていないのだから、多くの研究者がどれだけ丁寧に証拠を並べてても否定派には届かない。

 だから、この本を読んでいると徒労感がぬぐえない。
 清水さんの調査方法は「そこまでやるか」というぐらいに慎重だ(一次資料にあたる、一次資料も誤りがないかあらゆる方法で検証する等)。
 それでも「でもここまでやっても否定派が考えを改めることはないんだろうなあ」と感じざるをえない。

 どれだけ丁寧に証拠を並べても「日本人がそんなことするはずがない」「それでも私はなかったとおもう」で否定されてしまう。はっきりいって虚しい作業だ。まともな研究者からすると、割に合わない作業だ。事実を求めてない人を相手にしなくちゃならないんだから。

 それでも言いつづけなくちゃならないんだろうな。
 さもないと「事実よりイデオロギー派」がどんどん増えていくばかりだから。




 多くの本を読み、多くの歴史を知ったことでわかったことがある。

「人間は命じられれば平常時には信じられないぐらい残虐なことをする」

「人間の記憶は、自分が信じたいものに改変される」

ということだ。

 調査を続けた小野さんから、こんな経験を聞いた。
 一人の元兵士の家を探し当てて訪ねた時のことだ。
 本人はこころよく調査に応じてくれたが、虐殺については最初から完全に否定したという。そこで「日記」の存在を尋ねると、男性はふと思い出したように、奥の部屋からダンボール箱を引っ張り出した。するとその中に三冊の日記があったのだ。男性はそれを開いて読み始めた。ところがあるページまで読み進むと……、突然に日記をバタリと閉じてこう言ったという。
「俺は絶対にこれは見せられない。見せられないんだ」
 彼は急いで日記を仕舞い込むと、二度と出すことはなかったという。
 興味深い話であった。
 紙面には自身の字で記された「何か」があったのだろう。だが、その人はいつの間にか自分の記憶の書き換えをしてしまっていたのだろうか……。

 だからぼくは自分の意思を信じていない。

 南京大虐殺の場に日本兵としていたら虐殺に加担していたかもしれないし、ナチスやクメール・ルージュにいたらジェノサイドに参加していたかもしれない。山岳ベースにいたら仲間を処刑していたかもしれない。

 そして矛盾しているようだけど、こういう「良心への懐疑」を持つことが、周囲に流されて暴力を振るうことへの抑止力になるともおもっている。

 積極的に虐殺に加担するのは「おれはどんな状況におかれてもあんな残酷な行動はとらないぜ!」って信じてる人だとおもうよ、ぼくは。


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