2020年10月30日金曜日

いちぶんがく その1

ルール

■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




ペア型社会では婚外性交が不倫になるが、乱交型社会では純愛が不倫になる。


(立花 隆『サル学の現在(下巻)』より)




「そうだったのか、おれてっきりかっぱかなにかだと思った」


(今村 夏子『星の子』より)




つまりステーキはサラダなのだ。


(玉村 豊男『料理の四面体』より)




「ちょっとでもおくれたら九十四回もさかだちさせられちゃうんだから。」


(角野 栄子『魔女の宅急便』より)




「たいしたもんだよ、モッサリしているのに」


(森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』より)




そんな可愛らしいエピソードもあってか、アル中で股間濡らしで当たり屋だけど、意外にも人気者として通っていた。


(こだま『いまだ、おしまいの地』より)




そもそも、「説得する」ことと「騙す」ことの間に、明確な線など引きようもないのであるから。


(香西 秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』より)




これは圧倒的な知的選良の特性です。


(花村 萬月『父の文章教室』より)




気づけばヨーグルトパックは四方八方名前だらけで、まるで耳なし芳一のような有様だ。


( 櫛木 理宇『少女葬』より)




オウム信者たちは、私にないものをすべて手にしているように見えた。


( 雨宮 処凛 『ロスジェネはこう生きてきた』より)




 その他のいちぶんがく



2020年10月29日木曜日

キャッチャーの生きる道

ある高校の野球部。甲子園に何度も出場している名門校だ。部員数も多い。

彼はキャッチャーだった。チームで三番手のキャッチャー。

スタメンのキャッチャーは捕球技術に優れ、肩も強かった。広い視野を持ち、チームメイトからの信頼も厚かった。

二番手のキャッチャーはエラーが多かったが、バッティングの成績はチームでもトップクラスだった。
だから代打で起用されることも多かったし、一番手キャッチャーがけがなどで出場できないときは代わりにマスクをかぶった。

彼は、永遠に自分の出番はまわってこないであろうことを悟った。
キャッチャーとしての技術もバッティング技術もそこそこ。一番手、二番手にはかなわない。


彼は自分の役割について考え、ピッチング練習用のキャッチャーを買って出るようになった。

これが性に合った。
ピッチング練習は、彼にとって練習ではなかった。ピッチング練習こそが彼にとっての本番だった。

ピッチャーの肩の状態を見きわめ、無理なく調子を上げられるよう声をかけ、おだてたりアドバイスをしたりしてピッチャーの精神状態をコントロールした。

「いかにピッチャーを気持ちよくさせるか」だけを念頭に置いた捕球方法を身につけた。


彼のチームは甲子園に出たものの初戦で敗退した。
チームメイトのうちあるものは大学で野球を続け、あるものは野球をやめた。プロに入るものはいなかった。声すらかからなかった。

唯一プロに進んだのは彼だった。
ただし選手としてではない。「ピッチング練習専用のキャッチャー」としてだった。



という夢を見た。

だからなんだ、という話だが、夢にしては妙にリアルだったので書いておく。


2020年10月27日火曜日

姉という厄災

七歳の長女と二歳の次女を見ていておもう。

次女にとって、長女の存在は〝厄災〟かもしれない、と。


ことわっておくと、長女は基本的に妹に対して優しい。

自分のおこづかいで妹のために千円ぐらいのおもちゃを買ってあげたりする。誕生日でもなんでもない日に。優しすぎて涙が出る。ええ子や……。

そういう面もあるが、妹が自分の持ち物にふれると怒る。

まあ当然といえば当然だ。

なんせ二歳児ときたら、たださわるだけではあきたらず、折れるものは折り、曲げられるものは曲げ、書けるものは書き、はずせるものははずし、バラバラにできるものはバラバラにするのだから。キノコや細菌に匹敵するぐらいの分解者だ。

だから妹が自分の持ち物をさわっていたら、問答無用でひったくる。

親なら「ごめんね、これは大事なものだから遊ぶのはやめてね。その代わりこっちで遊んでいいから」といったソフトなアプローチをするが、姉はそんなことしない。
中国共産党のように強大な力のみで解決する。

妹は泣きわめいて、親に泣きついてくる。

わけもわからず遊び道具をひったくられて泣いている二歳児が気の毒ではあるが、だからといって長女に「学校の宿題のプリントぐらいびりびりに破かせてあげなさい!」と説教するわけにもいかず、次女に対しては「そっかー。せっかく楽しく遊んでたのになー。悲しかったんやなー」と共感してやることしかできない。


そんなことをくりかえすうちに、二歳児なりに学習したらしい。

姉が使っているものには決して手を出さない。
はるかに強い力でひったくられるだけだと知っているから。

しかし、姉が席を外すと、すかさず姉の机に近づき、おもちゃや勉強道具で遊びだす。
姉はぜったいにかなわない相手だと知っているので、ちゃんと目を盗んでいたずらをするのだ。

これは、〝厄災〟に対する人類の接し方といっしょだ。

地震だとか噴火だとか台風だとか猛暑だとかの天災に対しては、基本的に「やりすごす」ことしかできない。

地震や噴火を鎮めたり天候を操作することはできない。
だから大規模な厄災に対しては、「なるべく被害の大きい地域から離れる」「じっとしてひたすら身を守る」みたいな対応しかできない。

真正面から立ち向かっても太刀打ちできるはずがない。


妹にとっての姉の存在は〝自然〟のようなものなのだろう。

恩恵をもたらすこともあるが、ときどき猛威を振るう。そういうときにはどうあがいても対抗できず、ただ距離を置くだけが唯一の対策となる。

こうして圧倒的な力の前にはただひれふすことしかできないと学ぶのも必要だ。
世の中には理不尽なこともたくさん起こるのだから。

君よ、強く育て。


2020年10月26日月曜日

【読書感想文】社会がまず救うべきは若者 / 藤田 孝典『貧困世代』

貧困世代

社会の監獄に閉じ込められた若者たち

藤田 孝典

内容(e-honより)
学生はブラックバイトでこき使われて学ぶ時間がない。社会人は非正規雇用や奨学金返還に苦しみ、実家を出られない。栄養失調、脱法ハウス、生活保護…彼らは追いつめられている。

最近、この手の本ばかり読んでいる。

ニュースを見ていても、統計を見ていても、つくづく感じるのは日本は貧しくなっているということ。
物価は上がり(値上げではなく同じ商品の内容量が減っていることが多いので気づきにくいが)、学費は跳ね上がり、消費税は上がり、社会保険料は増え、もらえる年金は減り、公的支援は減っている。
どう考えても貧しくなっている。
ここまで環境が厳しくなっている以上、貧困は個人の問題ではなく社会の問題だ。


全体的に税金が上がっているわけではなく、法人税や配当所得に対する税は据え置きまたは下がっているので、要するに持たざる者から持てる者への所得移管が起こっているのだ。

持たざる者から持てる者へ、若い者から高齢者へ、という方向の富の移管が行われているのがここ最近の日本だ。
市場に任せていたら富の配分が不均衡になるから再配分するのが政府の役割なのに、市場と同じことをやっている。
公的機関に民間の論理を持ちこむやつはバカ」というのはぼくの持論だが(民間のやり方がそぐわないから公的機関があるのに)、どんどん民間の悪いところだけ真似してきている。




まじめに働いている(または働く意欲がある)若者が貧しいのは明らかに社会の問題なのに、まだ個人の問題としてしかとらえられない人がいる。

 しかし、若者たちの支援活動を行っていると、決まって言われることがある。「どうしてまだ若いのに働けないのか?」「なぜそのような状態になってしまうのか?」「怠けているだけではないのか?」「支援を行うことで、本人の甘えを助長してしまうのではないか?」などである。
 要するに、若者への支援は本当に必要なのか?』という疑念である。これは若者たちの置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことを端的に表している。

「選ばなければいくらでも仕事はあるんじゃないの」というのはその通りだ。
たしかに仕事はある。だがその仕事は「食っていけない仕事」「子どもを食わせていけない仕事」「心身の健康を維持したまま長く続けられない仕事」なのだ。

「選ばなければ食べ物はいくらでもあるよ」と言って、栄養のないものや腐ったものや毒物を勧めているのと同じだ。

 要するに、働いても貧困である以上、就労支援というものは、〝貧困を温存する〟役割しか持たないことを意味している。このことも、貧困世代に対して、いくらでも仕事があるのだから選り好みしていないで「早く働きなさい」という論調が、現代社会において決定的に間違っていることを明示している。
 近代は健康で文化的な最低限度の収入に満たない労働、劣悪な労働環境を排除するために、政府が介入したり、労働組合が是正を求めたりしてきた歴史そのものだ。しかし、このように働いても生活保護基準に満たない貧困から抜け出せない労働の存在自体を認めてしまえばどうなるだろうか。ワーキングプア市場はより蔓延するに違いないし、多くの若者が将来を悲観する労働に従事させられることだろう。
 そして、生活保護基準と変わらない賃金しかもらえない労働が蔓延すれば、当然ながら、生活保護受給者への攻撃や嫉妬などにつながる。最低賃金と生活保護基準が極めて接近していることも日本の特徴であり、働くことへのインセンティヴが見出せない状況が広がっている。就労支援に限らず、最低賃金の上昇や労働市場への介入を求めることが必要だろう。

二十数年前の不景気は「仕事がない」だったので、失業者への就労支援がそれなりに効果を持ったかもしれない。

だが今の若者をとりまく状況は「仕事はあるが、健康で文化的な生活を維持できる仕事が見つからない」だから、就労支援では解決しない。

「労基署の権限と人員を増やして労働基準法違反は実刑含めてどんどん処罰する。労働法を破るより守ったほうが得な社会にする」
だけで、労働環境に関するほとんどの問題は一発で解決するとおもうんだけどな。
今だと労働法に違反した者が得をするんだから。

「法律を守らせる」というシンプルかつあたりまえな話なのに、なんでそれをやらないのかふしぎでしょうがない。




若者の貧困対策として真っ先にやるべきは住宅政策だと著者は主張する。

 広義のホームレス状態とは、この定義にとどまらず、「ネットカフェ、ファーストフード店など、深夜営業店舗やカプセルホテルなどを寝起きの場として過ごす状態」を指す。過去に実家以外の場所で暮らしていたが、家賃滞納などによるホームレス経験を経て、結局は実家に戻ってきているのだ。
 そして、実家ではなく「社宅・その他」に住む若者たちのうち、ホームレス状態の経験者は23・4%に及んでいる。約4人に1人だ。低所得であるということは、住居を失いホームレス化するリスクがあるということだし、実際にそのような現象がすでに発生している。端的に言って、低所得の貧困世代は住居を喪失しやすい、ホームレス化しやすいといってよいだろう。

働いていなくてホームレスになるならともかく、働いていてもホームレスになりうるのが現状。

一年ぐらい前、娘の小学校の校区を変えるためにワンルームマンションを探した。
校区内にマンションを借り、住民票だけそこに移して、希望の公立小学校に入学させることを検討したのだ(結論から言うと今の住所のままで越境入学の申請をしたら通ったので借りなかった)。

不動産屋に事情を説明し「住むわけじゃないんで。住所だけが欲しいんで。たまに郵便物を取りに行くだけなので、どんなに不便でボロくてどんなに狭い部屋でもいいです。とにかく安い部屋で」と言って探してもらったのだが、驚いた。
いちばん安くても三万円を超えるのだ(大阪市内)。
超ボロいアパートなら一万五千円ぐらいであるかとおもっていたよ……。
まああまりに安い部屋は不動産市場に出回らないのかもしれないけど……。

東京都内ならもっと高いはず。しかも家賃だけでなく保証金や更新料もかかってくる。手取り十数万円の人がたやすく出せる金額ではない。

それ以上安い部屋を探そうとおもったら脱法シェアハウスのようなところしかないのだろう。
「高収入」や「頼れる実家」がなければあっという間にホームレスに陥るのだと思い知った。


だが若者に対する国の住宅政策はあまりにもお粗末だ。

 しかし、公営住宅には単身の若者が事実上入居できない。複数人世帯での入居を想定していたり、特別な事情を有する人々への入居を優先していたりするためだ。若者は住居を確保する面においては公営住宅からも弾かれやすい。
 彼らに対して、政府は従来通り、持ち家政策を主導してきたこともあり、働いて家を購入する選択肢を提示するし、それまでは社宅や民間賃貸住宅への居住を勧める。
 だが、そもそも彼らが家を購入できなくなっていること、企業が社宅などの福利厚生を削減してきていること、URなども低所得者向けの住宅供給を止めてきているという実態を、政府はどれほど把握しているだろうか。行き場を失った若者が大量に実家へ滞留していることを知っているだろうか。
 そして、根本的に近年の日本の政治課題に住宅が挙がることなど、仮設住宅建設時以外にあっただろうか。社会福祉領域でも、障害者のバリアフリー住宅や介護保険における高齢者の住宅改修、福祉施設における居住環境くらいしか議論がされていない。
 より一般的なレベルで公営住宅数をどうするのか、高額な家賃をどうするのか、持ち家誘導政策以外の議論がなされるべきだろう。政治的な上がらないというよりも、国民全体として、住宅というものに対する根本的な理解が欠如しているのかもしれない。

家がなければ仕事ができない。仕事ができなければ家が借りられない。
家さえあれば失業してもすぐに生活が立ちかなくなることはない。家賃が不要であれば、生活費ぐらいは「選ばなければ仕事なんていくらでもある」の仕事でも稼げる。

この本では、貧困者向けの住宅政策が充実していない国(たとえば日本)ほど出生率が低いというデータも紹介されている。

住む家は健康で文化的な生活の根幹にあるものだから、本来市場に任せるようなもんではないのかもしれない。
学校教育や水道と同じく、インフラとして「最低限度の住居を提供される権利」があってもいいのかもしれない。




 貧困世代が置かれている社会環境は、近年まれに見るほど、厳しい状況である。ここまで急激な社会構造や雇用環境の変化は、上の世代の人々がほとんど経験していないことだ。親の援助なくして大学進学は困難であり、大学に進学しても学費や活動費を捻出するために、アルバイトに明け暮れなくてはならない。
 そして卒業後も低賃金や長時間労働による厳しい雇用環境が待っている。また、結婚や育児など、過去にはごく普通のライフコースやライフスタイルだった生活を送れない若者たちが増加している。経済が成熟した社会では、一般的に少子高齢化は進展する。成長による果実を得られない人々や、将来の生活に展望が見えにくい状況が生まれやすい。だからこそ、政治や政策の出番であり、何とか是正をして社会を再生産可能な状況にしていくように工夫をしている国は多い。
 すでに指摘した通り、貧困世代は結婚や育児を放棄しているのではない。放棄させられているのである。これらの急激な社会システムや構造の変化は、社会を再生産させないばかりか、若者たちに過度なストレスや負担を与え、様々な精神疾患や自殺の要因となっている。多くは先行きに不安を覚え、将来に絶望しているのだ。

今、国立大の学費は年間約五十三万円だそうだ。
四十五年前、昭和五十年の授業料は年三万六千円。驚きの安さだ。
その間、物価は二倍ぐらいにしか上がっていないのに授業料は十倍以上。おまけに最近はずっと平均給与は下がり続けていることを考えると、とんでもない値上げだ。

もちろん生活が苦しいのは若い人だけの問題ではない。
中年だって高齢者だって苦しい。
だけど、どの年代を最優先で救わなきゃいけないかといったら、若い人と子育て世帯だとぼくはおもう。若い人が貧しかったら、今後数十年にわたってずっと支援を必要とすることになるんだから。

逆にいうと、今若い人を救っておけば将来の貧困高齢者を大幅に減らせることになる。
ちゃんと若い人に税金使ってよ。ぼくみたいな中年は後回しでいいからさ。


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2020年10月23日金曜日

【読書感想文】能力は測れないし測りたくもない / 中村 高康『暴走する能力主義』

暴走する能力主義

教育と現代社会の病理

中村 高康

内容(e-honより)
学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、教育内容が大きく変えられている。この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や学力といった従来型の能力指標の正当性が失われはじめたからだ。その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、“能力不安”が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が、「能力」のあり方が揺らぐ現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。

とにかく読みにくい文章だった。
「社会学者用語」がふんだんに使われているし、いろんな文献を参考にしすぎて何の話をしているのかわからない。

悪い意味で研究者らしい文章。
主題にとって重要でないこともめちゃくちゃ分量を割いて説明するんだよね。
正確ではあるんだろうけど、論文じゃないんだから。重要でないことは巻末の注釈で説明するぐらいでいいのになあ。

最後まで読んだが、最終的な結論が冒頭で説明した内容とほぼ同じ。
おーい! これまでの長い説明はなんだったんだ!
研究者以外は、序章と最終章だけ読めば十分じゃないでしょうか。




意味をつかむのには骨が折れたが、言わんとしている内容は興味深かった。
 現代社会に見られる多くの能力論議は、これからの時代に必要な「新しい能力」を先取りし、それを今後求めていこうとする言説の集まりである。本書では、これらが時代の転換を先取り、ないし適確に指摘した議論であるというよりも、こうした議論のパターンこそが現代社会の一つの特性なのだ、という立場を展開していこうと思っている。実のところ私は、新しい時代にコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった「新しい能力」といわれるものがこれまで以上に必要とされている、とはあまり思っていない。誤解を与えそうなので急いで補足しておくが、現代においてこれらの能力が不必要であるといっているのではない。ただ、それらはこれまでも求められていたし、これからも求められるであろう陳底な能力であって、新しい時代になったからはじめて必要ないし重要になってきた能力などでは決してない、ということなのである。理由は後述するが、ここでは私のスタンスだけあらかじめ明確にしておく。むしろ私の考えはこうだ。

 いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。

たしかにね。
「今の教育ではこれからの時代に通用する人材が育てられない。これからは新しい能力が求められる」
みたいな言説を聞いたことは、一度や二度や十度や百度ではない。
ずっと言ってる。
ぼくが知ってるかぎり二十年前から言われてるし、たぶん百年前から同じことを言われているのだろう。

百年間ずっと「これからは新しい能力が必要だ」と言われているってことは、つまりその「新しい能力」とやらは昔から求められている陳腐な能力であるってことだ。


「教育改革だ! これからは新しい能力が求められるのだ!」
なんて声高く叫ぶ人に「じゃあその新しい能力ってなんですか」と訊いても、
コミュニケーション能力」だの「問題解決力」だの「創意工夫できる能力」だのといった答えしか返ってこない。

逆に聞くけど、「コミュニケーション能力」や「問題解決力」や「創意工夫できる能力」が求められていなかった時代っていつ?




メリトクラシー(能力主義)は耳当たりがいい言葉だが、厳密に能力主義を実施しようとすれば

  • 能力を厳密に定義する
  • 能力を数値化して測定できるようにする
  • 数値化した能力ポイントで厳密に各人の処遇に差をつける

といった作業が必要になる。
あたりまえだが、そんなことは不可能だ。
まともな頭を持った人ならすぐにわかる。

仮に、能力の定義や測定が可能だったとして、果たしてそれを実行したい人がどれだけいるだろうか?

能力が明確になって困るのは「能力がないにもかかわらず高い地位にある人間」だ(そして決定権を持っているのはたいていそういう人間だ)。
自分の(不当に高い)地位を脅かす能力主義を、本気で導入したい権力者がいるはずがない。

ってことで「能力主義を導入しよう」と叫ぶ人は、なんも考えてないバカか、「おまえらはおれの胸三寸で評価するけどおれだけは別枠だぜ」という傲慢なバカかのどっちかだ。



大学入試なんかもバカほどやたらと改革をしたがる。

「おれが変えた」という実績を作りたいのだろう。
「改革すること」が前提にあり、そのために後付けの理由を探すのだが、それが「コミュニケーション能力」だの「協調力」だのなのだからちゃんちゃらおかしい。

近代的な学歴・学校・試験のシステムにとって代わるものが登場しないうちに、それらに依存しないメリトクラシーが完成することはありえない。そして、多くの人たちが「新しい能力」だけでこれからの時代を回していけると本気で思っているとも思えない。パーソナリティだけでAIの開発競争に勝てるとも思えないし、コミュニケーション能力がヒット商品を次々と生み出してくれるような感じもしない。チームワークだけで国際競争に勝てるわけもない。おそらくほとんどの人はそんなことは思っていないはずである。そうであれば、「新しい能力」は次の時代の中核的能力指標なのではない。しかし「新しい能力」に関する多くの議論は、そのあたりの自覚がないことが非常に多い。つまり旧来のシステムの否定に力点があることが多い。このようにみてくれば、一部を除くほとんどの「新しい能力」論が、むしろ、前期近代的な学歴・学校・試験を軸としたメリトクラシーを問い直すこと自体を常態とする、後期近代における再帰性現象そのものなのだと理解できるだろう。むしろ「新しい能力」を唱える人のなかでも現実感覚のある人は、前期近代的メリトクラシーのシステムを否定しないはずである。なぜなら、否定や批判に力点のある再帰的な能力論の本質にも薄々気がついていて、そこにはコアがないということも肌感覚で理解しているからである。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている。それではだめだ」という言葉を、何度も聞いたことがあるだろう。
こういうことを言うのはたぶんまともに入試問題を解いたことがないのだろう。

そこそこのレベルの学校や大学を受験したことがある人なら知っているとおもうが、難関大学ほど思考力が問われる問題が出される。
ちなみにあまりレベルの高くない大学ではもう何十年も前からAO入試が盛んにおこなわれていて、やはり知識詰め込みなど重要視していない。

個人的な印象でいえば、二流半ぐらいの半端な私大は「〇〇が××したのは何年?」といった重箱の隅をつつくような問題を出すけどね。


ぼくがおもう「知識の有無だけを問う単純な問題」がもっともよく出されるのはテレビのクイズ番組だ。
「出題者の理解力が低くても出せる」「採点がしやすい」という理由によるものだろう。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている」と語る人は、クイズ番組を観て日本の教育を語っているのではないだろうか。
あながち的外れともおもえない。




能力を公平・正確に測ることはできない。
これはまちがいない。どれだけ科学技術が発達しようと無理だ。
仮にできたとしても、誰も導入しようとはしない(だって導入して損をするのは権力を持っている人だもん)。

とはいえ入試や採用試験などではなんらかの指標を用いて各人に差をつける必要がある。

だから「これがベストではないが、ベストな指標など存在しないのでとりあえずこれを使う」という基準を用いることになる。
この認知が重要だ。

ここをちゃんと認識していれば
「これまで使い続けていて集合知によって微修正されてきた今のやりかたがとりあえずはいちばんいい」
という発想に当然至るはずである。

まちがっても「よっしゃ、改革だ! これからの時代に対応できる能力を重視するよう全面的に変えるぞ!」という発想にはならない、はずなのだが……。


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【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

採点バイトをした話



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