2020年9月28日月曜日

キングオブコント2020の感想


【ファーストステージ】


■滝音 (大食いファイター)

大食い選手権の最中にラーメン屋の店員が接客をしてくるので邪魔になる……というコント。

やりとりはおもしろく、ワードセンスが光った。たっぷり時間を使った導入から「大食い選手権なのよー」で笑いをとってからは、持続的に笑いが生じる丁々発止のやりとり。
シンプルなセットで会話のみで笑いをとる。好きなタイプのコントだ。

ただ、芝居としての完成度を求めると、いくつか粗が目立った。

まず食材がラーメンであること。
なんでラーメンにしたんだろう。
はじめにラーメンの丼が二つ置いてあり、さらにお代わりを要求することで、観ている側は「ん? これはふつうの客じゃないな」とおもってしまう。ふつうの人はラーメンを二杯も三杯も食べないのだから。
その違和感があるので「大食い選手権なのよー」の驚きが目減りする。「そうだったのか!」ではなく「ああそういうことね」になる。
寿司とか天ぷらみたいにいくつも食べるものにしたらよかったんじゃないかな。天ぷらを大食い選手権で食うかは知らんけど。

そもそも大食いの選手がべらべらしゃべるのがいただけない。時間との戦いをしてるのにラーメンほったらかしで店員としゃべってはいけない。おまけにしゃべる姿から焦りとか苦しさとかがまったく感じられない。
たとえば、時間切れになり、店員に対して「おまえのせいで負けたじゃないか」と詰問する……という設定であればすんなり観れたのだが。

また「金とんのかい」のオチは首をかしげた。
そりゃ店側は金をとるだろう。おかしいのは金をとることではなく、出場者から金をとること。言葉のチョイスとして「金とんのかい」は不適切では。

このコンビの漫才を二度ほど見たことがあったが、そっちのほうが素直に笑えた。
凝りすぎた言い回しはコントの中でやると浮いてしまうので、そもそもこのコンビはコントが向いていないんじゃないだろうか……。
あの独特の口調もコントの中では不純物になってしまうし。
この大会で名前を売って今後は漫才で評価されてほしい。滝音の漫才おもしろいし、キャラが浸透するにつれどんどんおもしろくなるタイプのコンビだから。


■GAG (心が入れ替わる)

中島美嘉と草野球のおじさんがぶつかったことで心が入れ替わり、さらにはフルートを練習している少女の心とも入れ替わってしまうコント(こう書くとすごい設定だな)。

昨年大会の「公務員の彼氏と女芸人の彼女」がものすごくよかったので(あれは笑いと悲哀がふんだんに描かれていて昨年大会でいちばん好きなコントだった。オチも完璧だったし)期待していたのだが、今作は期待外れだった。

漫画的なばかばかしさは嫌いじゃないが、こういう方向にいくんならもっともっとばかをやってほしかった。
入れ替わりが明らかになってからの展開は予想通りで、「中島美嘉と草野球のおじさんが入れ替わる」というインパクトが強烈すぎるので、その後にフルートと入れ替わる、フルートになったおじさんを吹くぐらいでは驚かない。
またテンポも遅かった。深く考えずにこのばかばかしさを笑ってよ、とするなら中盤以降はテンポアップしたほうがよかったんじゃなかったのかな。

フルートとの入れ替わりというビジュアル的にわかりやすい方向にいくのではなく、入れ替わった後の心境を掘りさげて描いたらもっともっとおもしろくなったような気もする。
昨年のネタを見るかぎり、それができるトリオだとおもうし。

せっかくGAGの「流れをぶったぎる力強いツッコミで笑いをとる」スタイルが浸透してきた中で違うパターンを持ってきたのはもったいなかったな。


■ロングコートダディ (バイトの先輩後輩)

A1、A2、B1、B2、C1、C2、D1、D2の段ボールの中から指定されたものを取り出すバイト。マッチョな先輩の行動が明らかに非効率で……。

まず個人的な思いを書くと、『座王』というテレビ番組でロングコートダディの堂前さんはそのセンスの良さを存分に見せつけている。たたずまいもセリフもすべてがおもしろい。
なのでものすごく期待して観たし、どうしても贔屓目に見てしまう。

その上で感想を書くと、すごくおもしろかった。
都会的な不条理ネタかとおもいきや、先輩の「頭が悪い」ところが徐々に明るみに出てくるところはわかりやすく笑える。それでいて「ほら、おれ、頭悪いからさ」「段ボールはじめてか」のような絶妙に噛みあわない会話。

また、先輩が悪い人じゃないのもいい。すごく頭悪いし非効率だけど、仕事に対してはまじめだし、後輩には優しく教えてあげるし、「それぞれ好きなやりかたでやればいい」と自分のやりかたを押しつけようとはしないし。
めちゃくちゃ非効率だけどいい人だし結果的に他の人と同じぐらいの仕事をこなしてるから誰も注意できないんだろうな……。
この奇妙なリアリティ、すごく好きだ。

個人的には大好き。大好きだけど……大会で勝てるネタじゃないよなあ。
単独ライブの一本目でやるような自己紹介的なコントだ。
じわじわとずっとおもしろいけど、爆発的な笑いが起きるネタじゃないし。「めちゃくちゃ重い」というオチも弱い。

最初の笑い所までにあれだけたっぷり尺を使ったのだから、その後はよほど大きな笑いが起きるだろうと期待してしまう。
かといって強いフレーズや衝撃の出来事を後半に持ってくればいいかというと……それはそれでこの空気感が壊れてしまうしなー。
個人的には堂前さんのおもしろさが全国区に伝わっただけで満足。


■空気階段 (霊媒師)

霊媒師におばあちゃんを降霊してもらおうとするが、近くのラジオ電波を拾ってしまう……。

内容と関係ないけど、空気階段を見るたびにどうやってコンビを組んだのだろうとおもってしまう。コントがなかったら一生交わることのなさそうなふたりだもんな。コント以外に共通の話題があるんだろうか。

コントの内容だが、序盤のストーリー展開はわりとベタ。降霊術で別の人にアクセスしてしまうという発想は目新しいものではないし、おばあちゃんが出てきたのにチャンネル(?)を切り替えちゃうとことかは予想できた。
それでも飽きさせずに見せたのは、やはり鈴木もぐらという人間の持つ魅力のせいか。
風貌や語り口調のおかげで何をやってもおもしろいんだよね。圧倒的な存在感。芸人やめても役者として一生食っていけるだろうな。

中盤以降は、霊媒師がラジオのヘビーリスナーであることがわかったり、破産寸前であることがラジオネームからわかったり、霊媒師ラジオを通して自分の声が聞こえてきたり、ストラップの伏線を回収したり、霊媒師の変な名前を時間がたってから処理したりと、話がどんどん転がっていってひきこまれた。
キャラクターとスピード感で気づきにくいけど、めちゃくちゃしっかりした脚本だなあ。
終わってみれば非常に完成度の高いコントだった。
さほど笑えはしなかったが、芝居としてはここまででいちばん好きなコントだった。


■ジャルジャル (競艇場での営業の練習)

競艇場で歌うことになった新人歌手。ヤジに慣れるため、事務所社長にヤジを飛ばしてもらいながら歌うのだが……。

基本的には、社長が過激なヤジを飛ばす → 真に受けた歌手が歌うのをやめる → 続けるように言われる のくりかえし。
同じセリフをくりかえすあたりなど、ジャルジャルらしいコント。
基本的にやっていることは同じで、展開もだいたい読めるのに、それでも飽きさせずに客を引きつけていたのはさすが。同じ台本でもジャルジャル以外の人が演じていたらこううまくはいかないだろう。

基本的に同じことのくりかえしなので序盤でつかまれたらどんどん引きこまれるのだろうが、残念ながらぼくはあまりは入りこめなかったので最後まで笑えないままだった。
ジャルジャルは好きなんだけど。
この設定に入りこめなかった理由について考えてみたんだが、福徳さんの声質のせいじゃないかな。
競艇場のおっさんの声じゃないんだよね。ちょっと怪しい事務所社長の声でもない。少年の声。声質がぜんぜんちがう。
たとえばこの役を滝音・さすけやさらば青春の光・森田のような汚いだみ声(ここでは褒め言葉ね)の持ち主がやってたらずっとおもしろくなったんじゃないだろうか。


■ザ・ギース (退職祝い)

退職するおじさんのためにハープを演奏するコント。

序盤にしんみりした芝居をするネタフリ、舞台の夢を追いかけていたという伏線など、構成のうまさはさすが。コント巧者という感じ。
うまいコントをしながら、ラストはハープを弾きながら紙切りをするというシュールな絵で、このばかばかしさがおもしろかった。

個人的には他の番組でハープを演奏しているのを観たことがあったので「楽器ってハープか!」という驚きはなかった。
また、GAGがフルート吹いた(ふりをした)後だったので、余計にハープの衝撃が小さくなってしまった。

ハープはたしかにうまいんだけど、「がんばって練習したんだね」という余興レベルのうまさで、うますぎて笑えるというほどの技術には達していなかったのが残念。
ハープをコントの中心に持ってくるなら、東京03のハーモニカやにゃんこスターのなわとびのようにプロ級でなきゃ。
切り絵もクオリティが高くなく、ハープを弾き終わるタイミングと切り絵を切り終わるタイミングがずれていることなど細かいところが気になった。
この設定なら、驚くほどうまくないとダメだよなあ。

あと細かいことだけど、序盤の「この新聞販売所を辞めちゃうんですか」という説明台詞は個人的に大きくマイナスポイントだった。現実にはぜったいに言わないセリフなので。
こういうところを大事にしてほしい。


■うるとらブギーズ (陶芸家の師弟)

気に入らない作品を割ってしまう陶芸家。だが出来のいい作品まで割ってしまい、それを弟子のせいにする……。

昨年二位だったコンビだが、昨年の「サッカー実況」ネタはなんであんなに評価されたのかわからなかった。演技力こそあったものの「サッカーの実況と解説が別の話で盛り上がって試合を見逃してしまう」というのは安易な設定だったので(というか現実の解説者にもそういう人いるし)。

このネタにも似た感想を抱いた。
うっかりいい壺まで割ってしまうというのは、「陶芸家の師弟の設定でコントをつくってください」と言われたらまず思いつくボケじゃないか?
もちろん、師匠のキャラがどんどん変化するとことか、師弟の関係性が徐々に変化していって最後には逆転してしまうとことかはうまいんだけど、入口が平凡だった分、それを発展させたところで驚きはなかったかな。

あと、国宝級の壺を割ってしまう姿を見ると、それがウソだとわかっててもちょっと胸が痛むんだよね。「あっ、もったいない!」という気持ちがチクリと胸を刺す。
その胸の痛さを跳ね飛ばせるほどの不条理さがなかったかな。

ちなみに小学一年生の娘はこのコントでいちばん笑っていた。
そうそう、ぜんぜん悪くないんだよね。一般投票だったら上位になっていたかもしれない。
ぼくは「さあ次はどんな新しいコントを見せてくれるんだ?」と思いながら観ていたので、肩透かしを食らってしまっただけで。カトちゃんケンちゃんがやっていてもおかしくないコントだもん。


■ニッポンの社長 (ケンタウロス)

下半身が馬の少年。クラスのみんなから疎外されるが、ある日牛の頭を持つミノタウロスタイプの女性と出会い……。

いやあ、笑った。今大会でいちばん笑った。
ただコントのストーリーはあまり関係なく、ケツのあの風貌で全力でイキって歌やラップを披露する姿がおもしろかっただけなんだけど。

個人的に、ありものの曲をネタの中心に持ってくるコントが好きじゃないんだよね。曲とのギャップがおもしろいんだけど、それは曲の力じゃんっておもっちゃって。

票は伸びなかったけど、初期キングオブコントの芸人審査方式だったら相当高得点になったんじゃないだろうか。
今大会いちばんインパクトを残せたコンビ。もう一本見たかったなあ。


■ニューヨーク (結婚式の余興)

結婚式の余興のために一生懸命ピアノを練習したという新郎友人。ピアノの技術があまりに高く、さらにはハーモニカやタップダンスなど次々に余興とはおもえないレベルの芸を披露しはじめ……。

バカバカしくて好きだった。出番順も良かったのかも。ニッポンの社長のシュールなコントの直後だったので、わかりやすく笑えたのがよかったのかも。
根底にずっと「結婚式の余興なんてしょうもないもの」という底意地の悪さがあって、そのへんもニューヨークらしくてよかった。
よく考えたらべつに笑うようなことじゃないもんね。芸が見事だったからって。
じっさいの結婚式で玄人はだしの芸を披露した人がいたら、拍手喝采になるだけで、誰も笑わない。
ニューヨークって、そういうところをつっつくのがうまいよね。フラッシュモブで踊ってる人とかさ。本人はいたって一生懸命で、周囲の人も「まあおめでたい席だから」と優しい気持ちで見守っているのに、わざわざ「それってほんまに拍手に値するか?」と意地悪な指摘をしてくる。
その底意地の悪さ、好きだ。

また「芸のレベルがすごい」だけでなく、ばかみたいな歩き方をはさんだり、中盤からは大岩やドリルといった視覚的なボケ+「すごいけど危険すぎてひく」という新たな方向、とただばかをやっているようで意外と巧みな構成になっていた。

審査員にもウケて高得点だったけど、数年後に思い返したときに記憶に残っているコントかというと、どうだろう……。


■ジャングルポケット (脅迫)

男たちに監禁され、企業秘密を渡せと脅されるサラリーマン。男たちはサラリーマンの娘の情報を握っていることを明かして脅すが、その情報が深くなりすぎていき……。

娘を使った脅しから、ご近所ゴシップの話になり、どんどん話がエスカレートしていく展開はジャングルポケットらしい。
忘れた頃に脅迫の話に戻ったり、フリップを使った関係図を登場させたりと飽きさせない仕掛けがたくさん。

にもかかわらずぼくはまったく入りこめなかった。
前にも書いたけど、ジャングルポケットは芝居が過剰すぎる。
熱演をするのはいいけど、三人が三人とも早い段階でヒートアップしていくと、観ているほうはついていけなくなる。せっかく三人いるんだから、一人は抑えた芝居をしてほしい。
静かなやつがいるからこそ熱さが際立つし、熱いからこそ冷めたやつが不気味に写る。

やっぱりトリオでやる以上、「三人いる意味」ってのが常に求められるとおもうんだよね。
でもこのコントに関しては、三人いる意味がなかった。太田・おたけの役回りがいっしょで、一人の台詞をただ二人で分担して言っていただけだった。
あの二人が「ボス/手下」「感情的/冷静」「冷徹/まぬけ」のように違った役どころであれば、ぐっとおもしろくなったんじゃないかな。
交互にしゃべるだけでなくドラマ仕立てで不倫関係を再現してみせるとか。

「体育会系 宇宙系 劇団系 」というキャッチコピーがついていたけど、「宇宙系」の部分がぜんぜん活きてなかったな。せっかくバラエティ番組でキャラクターが浸透してきてるのに、もったいない。

ところで「企業秘密を出せと脅す」という設定で、「は?」と首をかしげてしまった。
企業秘密を探るのに直接的に脅さないでしょ。秘密はこっそり盗むから価値があるんでしょ。反社との付き合いに厳しい時代にあんなやりかたしたら、どう考えても秘密を盗んだほうが損をするだけじゃん。
マフィアの攻防とかでよかったんじゃないかなあ。


【ファイナルステージ】


■空気階段 (定時制高校)

定時制高校で、後ろの席の男性に恋をしている女子生徒。授業中にこっそり手紙のやりとりをしてお互いの想いをさぐりあう……。

……というストーリーを書くとどこがコントなのだという気もするが、じっさいボケらしいボケもツッコミもなく、変なところといえばただ「おじさんが何を言っているか(観ている側には)わからない」という一点のみだ。
と書くと大したことのないコントにおもえるが、いやこれはよかった。今大会でひとつ選ぶとしたらぼくはこのコントを挙げたい。

「何を言っているのかわからない」というボケ自体はさほど強いものではないのだが(ニッポンの社長のコントでも用いられていた)、しかし「手紙の読み上げナレーションもやはりわからない」「まったく日本語の音をなしていないのになぜか女性には完璧に理解できる」という不条理な設定をつけくわえることで、かえって観ている側にも理解できるようになるのがふしぎだ。
おじさんの言動が変であればあるほど、女性の想いの強靭さが伝わってくる。
伝えようとするのではなく、観客に「理解しようとさせる」表現。これはすごい。

コントとしての笑いどころは前半で終わっていて、後半はもはや完全に恋愛ドラマ。
表情やしぐさや間の使い方が実にうまい。ふたりの恋の行方はどうなるんだろう、と世界に入りこんでしまった。コントなのに、笑いどころがない。笑いどころがないのに、いいコントを見たとおもわせる。ふしぎな作品だった。

番組では化粧に時間をかけたことをつっこまれていたが、これは女性のほうがきれいじゃないと成立しないネタだから化粧はぜったいに必要な時間だった。

惜しむらくは、男性の想いが明らかになるところで安易にわかりやすい曲(『出逢った頃のように 』)に頼ったところ。
せっかく緻密な芝居でここまで世界をつくりあげてきたのだから、演技だけで見せてほしかった。

あと、すっごく細かいところだけど、後ろのおじさんが持っていたのがシャーペン(ボールペン?)だったのが気になった。
あのおじさんが持つのは短くなった鉛筆だろ!


■ニューヨーク (ヤクザと帽子)

ヤクザの親分と子分。ずっと帽子をかぶっているわけを尋ねられた子分は「髪を切りすぎたから」だという。帽子をとってみろという親分に対し、子分は強情なまでにそれを拒否し……。

本人たちがヤクザ映画みたいな芝居をしたかったんだろうな~という感想。
ヤクザ映画を好きな感じが節々から感じられる。いったん笑顔を見せてから脅しつけるとことか。

「それほど変じゃないんですよ」とか「八方塞がりなんすよ」とか微妙な心理描写はおもしろかった。
ただ、空気階段の強烈かつ繊細な芝居を観た後だからか、どうも小ぢんまりした印象を受けた。
「ヤクザが切りすぎた前髪を気にする」ってのはたしかにギャップがあるんだけど、笑うほどの落差じゃないんだよなあ。ヤクザって伊達男が多いからじっさい切りすぎたら気にするだろうし。

「たかが帽子をとるとらないぐらいで命を賭ける」ってのもばかばかしいんだけど、帽子をとりたくない側の論理もそこそこ筋が通っているから「筋を通すためならそこまでやるのもわからんでもない」ってなっちゃうんだよなあ。
どっちの言い分もわかるから。

その流れで殺すオチを見せられても後味の悪さしかない。
「それなら殺すのもわかる」でもないし、かといって「そんなことで殺すわけあるかいw」というほど無茶でもない。
コントに死を持ちこむなら、「死なせるだけの重大な理由」か「くだらない理由で死んでしまう軽妙さ」のどっちかが必要だとおもうんだよね。


■ジャルジャル (泥棒)

ある会社に泥棒に入った二人組の泥棒。だがひとりがなぜかタンバリンを持ってきたせいで大あわて……。

ううむ。これまでにジャルジャルのコントを三十本は見たとおもうけど、これはいちばん笑えなかったかもしれない。

ドジなやつがまぬけな失敗をくりひろげるわかりやすいドタバタ劇。古い。まるでコント55号のよう(ちゃんとコント55号のネタ見たことないけど)。

これは、令和二年の今あえて昭和感丸出しの古くさいコントをやるというひねくれた笑いなのか……?

感想を書くにあたって、いいところと悪いところを両方書こうと決めて書いていたのだが……。
ううむ。このコントにはいいところが見つからなかった。
笑えないだけでなく、意図すら理解できなかった。
あえて挙げるとしたら、「おまえ置いて逃げるわけないやん」の台詞と、金庫からもタンバリンが出てきたとこかな。
とはいえそれらも唐突に出てきて、その後の展開に発展するわけでもなかったのが残念。



総評

個人的に三組選ぶなら、ニッポンの社長、ロングコートダディ、空気階段かな。

まあコントは好みが分かれるものだし、審査にケチをつけるつもりはない。
ニッポンの社長やロングコートダディの点が高くなかった理由もわかるし。

ただ、全体の傾向として、ここ数年わかりやすいものが評価されているようにおもう。
新奇なものよりも、深く考えずに笑えるもの。
かもめんたるとかシソンヌとか、最近の審査傾向だったら優勝できなかっただろうな。

まあコントなんて千差万別だから本来同じ土俵に並べて点数をつけるようなもんじゃないもんな。それをたった五人の審査員がやればどうしても客席の笑いの量で決めることになってしまうのはしかたないのかもしれない。

だから審査員を変えろとは言わないけど、ぼくとしては、以前みたいに全組が二本ずつネタをする制度に戻してほしい。
一本目で下位に沈んだ組が逆転優勝をすることはまずないだろうけど、そんなことはどうでもいい。こっちはただいろんなコントが見たいんだ!


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キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理

(2019年の感想は書いてません)

2020年9月25日金曜日

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』

子どもは「この場所」で襲われる

小宮 信夫

内容(e-honより)
暗い夜道は危ない―子どもにこう教えている親は多いが、これを鵜呑みにすると明るい道で油断してしまう。犯罪者は自分好みの子を探すために明るい場所を好むのだ。親の間違った防犯常識や油断によって、子どもが犯罪に巻き込まれる危険性は高まる。本書は、本当に知っておくべき「危険な場所」を見分ける方法をわかりやすく解説する。近所の公園、通学路、ショッピングセンター…子どもの行動範囲の中で、どこが危ないのかが一目瞭然になる。

娘が小学生になり、防犯を考えることが増えた。

今まではほぼずっと親がそばにいるか保育園に預けているかのどっちかだったので、娘が誰かに連れ去られるかもしれない……と心配することはほとんどなかった。

だが小学生になるとそうも言っていられなくなる。
平日は基本的に学校または学童保育にいるが、学童保育は「来た子は預かる」というスタンスなので仮に子どもが来なくても連絡してくれない。預かってくれる時間も保育園より短い。
習い事の日はひとりでピアノ教室まで行かなくてはならないこともある。
これから先は子どもだけで遊びに行く機会も増えるだろう。

いやがおうでも「子どもを狙った犯罪」に巻きこまれないよう心配することになる。

……ということで『子どもは「この場所」で襲われる』を読んでみた。
著者は海外で犯罪学を学び、警察庁や文科省でも指導する立場にあるという犯罪学者。




「知らない人についていっちゃだめ」「暗い道には気を付けて」と言いがちだが(ぼくも言っていた)、あまり効果はないそうだ。
それどころか逆効果になることもあるという。

 しかし、そもそも周囲に住居がない場所では、通りが明るくなっても人の目は届かず、逆に、街灯を設置することで犯罪者がターゲットを見定めやすくなってしまいます。
 シンシナティ大学で刑事司法を教えるジョン・エック教授は、「照明は、ある場所では効果があるが、ほかの場所では効果がなく、さらにほかの状況では逆効果を招く」と指摘しています。照明をつけるのが有効かどうかは、その場所の状況次第ということです。
 街灯の効果は、夜の景色を昼間の景色に近づけることです。それ以上でも、それ以下でもありません。つまり、街灯の防犯効果は、街灯によって戻った「昼間の景色」次第なのです。昼間安全な場所に街灯を設置すれば、夜間も安全になりますが、昼間危険な場所に街灯を設定しても、夜だけ安全になることはあり得ません。
「暗い道は危ない」と子どもに教えると、「明るい昼間は安全」「街灯がある道は安全」という二重の危険に子どもを追い込むことになります。子どもの事件は、夜間よりも昼間のほうが多く、街灯のない道より街灯のある道のほうが多いことを忘れないでください。

子どもが犯罪被害に遭うのは暗い道より明るい道のほうが多い、子どもを狙った性犯罪者はまず子どもと接触して顔見知りになることがある、といったのデータが紹介されている。

「知らない人に気をつけて」「暗い道に気を付けて」と言うことは「何度か話したことのある人なら大丈夫」「明るい道なら気を付けなくていい」というメッセージを伝えてしまうことになりかねない。

だから「怪しい人に注意」のような〝人〟に目を向ける防犯ではなく、〝場所〟に注目することが重要だと著者は説く。

危険な場所を見分ける力をつけさせることが重要だという。
子どもが被害に遭いやすい場所とは、「入りやすい」場所と「見えにくい」場所。
たとえばガードレールのない歩道は車で連れ去りやすいので「入りやすい」場所、高い塀にはさまれた道は「見えにくい」場所。

この本を読んで、ぼくも道を歩きながら意識するようになった。
娘の送り迎えをしながら
「ここは歩道がないので入りやすいな」
「この道は人通りもないので見えにくい場所だな」
と考えるようになった。




特に共感したのは、犯罪機会論という考え方。

 このように「人」ではなく、「場所」に注目するアプローチの方法を「犯罪機会論」と言います。犯罪を起こす機会(チャンス)をなくしていくことで犯罪を防ぐという考え方です。犯罪機会論では、犯罪の動機を抱えた人がいても犯罪の機会が目の前になければ、犯罪は実行されないと考えます。人は犯罪の機会を得てはじめて実行に移すと言い換えてもいいでしょう。
 これに対して、犯罪を行う「人(=犯罪者)」に注目するアプローチの方法を「犯罪原因論」と言います。人が罪を犯すのは、その人自身に原因があるという考え方です。犯罪者は動機があってこそ罪を犯すということです。
 日本ではこれまで、防犯については「犯罪原因論」で語られることが常でした。つまり、人が罪を犯すのは動機があってこそなのだから、それをなくすことが犯罪の撲滅につながるのだという考えです。
 もちろん、犯罪者には動機というものは存在します。動機というのは、銃でいうと弾丸のようなものです。動機という弾丸が込められているからこそ、犯罪が起こるのですが、一方で、引き金が引かれなければ弾丸は発射されません。弾丸が込められたところに、引き金として、犯罪を誘発する、あるいは助長するという意味での環境(機会)が重なり、この2つが揃ってはじめて犯罪が行われます。ただ、この弾丸は、程度の差こそあれ、誰でも持っているというのが私の考えです。

大いに納得できる。

部外者からすると、「人」のせいにするほうが楽なんだよね。

「機会」が原因だとすると、絶えず自分や家族や友人が犯罪者にならないかと気を付けなければならない。
自分を戒め、周囲の人を警戒しながら生きていくのはしんどい。
でも「人」のせいなら深く考えなくて済む。
あいつらは生まれもって犯罪者の素質があったんだ、自分とは違う人種だ、絶対に許せない、ああいうやつに近づいてはいけない。はい終わり。

でも、どんな状況におかれても犯罪者にならない人はいないとおもう。

ぼくが(今のところ)犯罪者として生きていないのは、運がよかったからだ。
「あのとき、あいつから誘われてたらたぶんあっちに行ってたな」というタイミングがいくつもある。
書けないけど、「あれがばれてたらヤバかったな」ってこともある。
今ぼくが刑務所にいないのはたまたまめぐり合わせがよかっただけだ。

逆に、犯罪に手を染めてしまった人も、タイミングがずれていたらまっとうな人生を歩んでいた可能性が高い。

教師が児童に対してわいせつ行為をしたニュースに対して、「教員免許を剥奪しろ」という人がいる。
感情的でよくない意見だ。
でも「現場復帰させない」こと自体は悪くない案だとおもう。
教員に対する罰のためではない。むしろ救済措置として。

児童に性犯罪をしてしまう教師って、たぶんほとんどは学校にいなかったらやってなかったとおもうんだよ。
そもそも子どもに欲情しなかったり、したとしてもエロコンテンツで満足してたんじゃないだろうか。
でも学校で働いていて、「子どもが眼の前にいて」「人目にふれずに手を出せる機会がある」からやっちゃったんじゃないだろうか。
もし彼らが子どもとふれあう機会がほとんどないぜんぜんべつの仕事をしていたら、やらずに済んでいたはず。

だから、ただ教員免許を剥奪して放りだすのではなく、教育委員会とかで子どもと直接関わらない仕事につくチャンスをあげたらいいんじゃないかな。
本人だって「欲情してしまう職場」よりもそうでない職場のほうが働きやすいだろうし(それでも「欲情してしまう職場」を選ぶやつは放りだしたらいい)。


わざわざ人の家に入って一万円を盗まない人でも、道端に一万円が落ちていて誰も見ていなければネコババしてしまうかもしれない。
その人は「窃盗癖がある」わけではなく、機会があったから罪を犯した。
なくせる犯罪機会は少しでもなくしておいたほうがいい。
(だからといって「痴漢されるのは、痴漢したくなるような恰好をしている女のほうが悪い!」というのは暴論だけどね)

ぼくは車の運転に自身がない。
何年か乗ったことで多少技術は向上したけど「いつか事故を起こして死ぬか殺すかするんじゃないだろうか」という不安は少しも消えなかった。
だから、仕事で車に乗らなくて済むようになったのを機に、運転をやめた。車も手放した。今後もたぶん車を買うことはないだろう。仕事も家も「車を運転しなくていいこと」を条件に選ぶ。
ぼくという「人」はなかなか変わらないので、人を轢いてしまう可能性のある「機会」のほうを変えたのだ。

「人」ではなく「機会」を改善するという考え方は、防犯以外でもいろいろ使えるかもしれないな。

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【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2020年9月24日木曜日

カラス侵入禁止

 とあるマンションのごみ捨て場で見た貼り紙。


ナンセンスだ……。

いうまでもなく、カラスに文字が読めるわけがない。

カラスは頭がいいというが、それにしたってこれは伝わらない。
カタカナはともかく漢字は無理だろ……(カタカナもたぶん無理)。


これが「犬侵入禁止」ならまだわかる。

イヌが一匹で歩くことはあまりないから、飼い主に「ここに犬を入らせるなよ」と伝えられる。

だがカラスは基本的に野良だ。

この貼り紙はカラス本人に向けたものなのだ。


しかも、カラスにゴミを荒らされてかっとなり我を忘れて書きなぐった、というものではない。

パソコンでPowerPointを起動させて、テキスト欄を挿入して「カラス侵入禁止」と書き、中央に配置し、印刷設定で[印刷の向き]を[縦]に設定し、[部数]を[2]にして印刷し、出てきた紙が濡れたり破れたりしないように透明な袋に入れ、袋にパンチで穴を開け、穴に紐を通し、マンション管理組合の倉庫からカラーコーンとコーンバーを持ってきて、コーンバーに貼り紙を結わえつけてゴミ捨て場に設置する。

張り紙設置までにいくつもの工程がある。
その工程のどこかで「おかしい」とおもわなかったのだろうか。

ちゃんと文字は用紙の中央に印刷されているし、紐はほどくときのことを考えてちょうちょ結びにしている。
落ち着いた仕事だ。

冷静に、狂ったことをしている。

こういう人がいちばん怖い。




カラスに「ここに入るな」と伝えたいなら、「カラス侵入禁止」じゃだめだ。

たとえば、カラスが死んでいる絵を描くとか。


これがカラスに伝わるかはわからないが、少なくとも「カラス侵入禁止」の貼り紙よりはマシだろう。

あるいはカラスが怖がるものの絵を描くとか。
犬とか鷹とか。




百歩譲って、カラスが文字を読めて、その意味を十分に理解できるものとする。

だとしても、「カラス侵入禁止」では効果がないだろう。
これを書いた人はカラスの心理をわかっていない。

カラスに人間の法は通じない。

「カラス侵入禁止」と書いても、おとなしく従ってくれるとはおもえない。

むしろ「ここにはカラスの好きなものがあります」というメッセージを発信してしまうだけで、逆効果だ。


カラスにゴミを漁らせないような文章を書くとしたら、

「名物 焼きカラス販売中。おいしいよ!」

とかが効果的なんじゃないだろうか。
これなら文字の読めるかしこいカラスは近づかないだろう。

あるいは

「カラス様各位。いつもゴミ捨て場をきれいにお使いいただいてありがとうございます」

とか。


2020年9月23日水曜日

【読書感想文】調査報道が“マスゴミ”を救う / 清水 潔『騙されてたまるか』

騙されてたまるか

調査報道の裏側

清水 潔

内容(e-honより)
国家に、警察に、マスコミに、もうこれ以上騙されてたまるか―。桶川ストーカー殺人事件では、警察よりも先に犯人に辿り着き、足利事件では、冤罪と“真犯人”の可能性を示唆。調査報道で社会を大きく動かしてきた一匹狼の事件記者が、“真実”に迫るプロセスを初めて明かす。白熱の逃亡犯追跡、執念のハイジャック取材…凄絶な現場でつかんだ、“真偽”を見極める力とは?報道の原点を問う、記者人生の集大成。

清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 はどちらもめちゃくちゃすごい本だ。

どちらも、日本の事件ものノンフィクション・トップ10にはまちがいなく入るであろう。

すごすぎて「これは嘘なんじゃないか」とおもうぐらい。

だってにわかには信じられないもの。
『殺人犯はそこにいる』 では、警察が逮捕した連続殺人事件の容疑者が無罪であることを証明し、『桶川ストーカー殺人事件』では警察よりも早く犯人を捜しあてる。
しかも、週刊誌の記者が。

ミステリ小説だったら「リアリティがない。週刊誌の記者がそんなことできるはずがない」っておもうレベルだ。

でもそれを本当にやってのけたのが清水潔さん。
ぼくは『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』 、そして清水さんと元裁判官の瀬木 比呂志の対談である『裁判所の正体』を読み、足元が揺らぐような感覚をおぼえた。


警察も裁判所も善良な市民の味方であるとはかぎらないのだと知った。

たまにはミスをしたり、ろくでもない警察官もいるかもしれない。
だが全体として見れば警察や裁判所は善良な市民の味方のはずだ。正しく生きていれば味方でいてくれるはずだ。
そうおもっていた。

だが、警察も裁判所も、善良な市民の味方をしないどころかときには敵になることもあるのだと知った。

それもミスや誤解のせいではなく。
保身のために、無実の市民の命や権利を奪うこともあるのだと。



『騙されてたまるか』では、先述の足利事件(冤罪を証明した事件)や桶川ストーカー事件をはじめ、在日外国人の犯罪や北朝鮮拉致問題を追った事件など、清水さんがこれまでにおこなってきた取材の経緯が紹介されている。

日本で殺人を犯しながらそのまま出国しブラジルに帰った犯人を追った取材。

「とぼけないでください。浜松のレストランでのことを聞きたいんです」
 男は、私に背を向けると沈黙のまま歩き出した。
「日本に戻って警察に出頭するつもりはないか」
 何を問いかけても、無視を決め込み足早に離れていく。
 すべてのシーンはカメラに記録された。奴の仲間のジーンズの尻ポケットには、小型拳銃の形が浮き上がっていたのを後になって気づいた。
 車に戻って男を追跡する。ベンタナは車の窓を開けて、大声で何やら問いかけるが、男は動じない。途中でタバコに火をつけて、やがて建物の扉の中に逃げ込んだ。通訳が焦ったように騒ぎ出した。「あそこは警察だ、早く逃げましょう」。なぜこちらが逃げなければならないのかと訝る私に通訳は、「ここは民主警察です。市民に雇われた警察官は、我々を逮捕拘束する可能性があります。早く空港に戻らないと検問が始まるかもしれない」と説明した。
 納得できないが、この国の警察からすれば、海外メディアの取材などより自国民の保護が優先されるのだろう。私は取材テープを抜くと靴の中に隠してその場を離れた。

相手は拳銃所持の殺人犯一味、こちらは丸腰。おまけに場所はブラジル、相手のテリトリー。

そこに乗りこんでいって「警察に出頭するつもりはないか」と問う。

なんておっそろしい状況だ。
これを書いている以上清水さんが無事だったことはわかっているのだが、それでも読んでいるだけで脂汗が出てくる。

事件記者ってここまでやるのか……。

すばらしいのは、うまくいった事件だけでなく、無駄骨を追った事件のことも書いていることだ。
入手した情報をもとに三億円事件の犯人を追ったもののあれこれ調べたらでまかせだとわかったとか、他殺としかおもえない事件を追ったら結果的に自殺だったとか……。

答えがわかっていない中で取材するんだから、当然ながらうまくいかないこともある。
というかうまくいかないことのほうが多いだろう。

それでも追いかける、追いかけてだめだとわかったら潔く手を引く。
なかなかできることじゃないよね。



「記者」と一口に言うけど、『騙されてたまるか』を読むと、記者にも二種類いることがわかる。

清水潔さんのような「調査報道」をする記者と、警察・検察や企業や官庁の発表をニュースにする「発表報道」をする記者と。

当然ながら発表報道のほうが圧倒的に楽だ。
多少の要約は入るにせよ、基本的に右から左に流すだけでいいのだから。

この「発表報道」が増えているらしい。

 確かに最近は、会見後の質問も何だか妙である。
「ここまでで何かご質問があれば、どうぞ」などと、発表者に問われると、
「すみません、さっきの○○の部分がよく聞き取れなかんですけど……」
 内容についての芯を食った鋭い質問や矛盾の追及ではなく、ひたすらテキストの完成が優先されていくのだ。無理もない。話の内容を高速ブラインドタッチで「トリテキ」しながら、その内容を完全に理解、把握した上で、裏や矛盾について鋭い質問をするなど、どだい不可能な話であろう。少なくとも私には無理である。

「トリテキ」とは「テキストをとる」ことだそうだ。
要するに聞いた話を文字起こしする作業。

今なら自動でやってくれるツールがある(しかもけっこうな精度を誇る)。
はっきり言って記者がやらなくていい。

悪名高い「記者クラブ」では、機械がやってくれる仕事をせっせと記者がやっているのだ。(ところで記者クラブって当事者以外に「必要だ」って言ってる人がいないよね)


少し前にこんなことを書いた。

「発表報道」の重要性は今後どんどん下がってゆく。

にもかかわらず我々が目にするニュースは圧倒的に「発表報道」のほうが多い。
官邸の発表が「文書は廃棄した。だが我々は嘘はついていない。だけどこれ以上調査する気はない」みたいな誰が見てもウソとしかおもえないものでも、NHKなんかはそのまま流している。

テレビでの芸能人の発言をそのまま文字にしていっちょあがり、みたいな記事も多い(記事って呼べるのか?)。

新聞社などの報道機関が権力の監視役として民主主義の砦となるか、それともこのまま“マスゴミ”として朽ち果ててゆくのかは、この先どれだけ調査報道をするかにかかってるんだろうな。


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2020年9月21日月曜日

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