2020年3月23日月曜日

倍倍菌

中学校の数学の授業で「文字につく1は省略して表記する」と教わった。

「2x」とは書くが「1x」とは書かない、「x」と書けばそれは「1x」のことなのだ、と。

数式にかぎった話ではない。

「おれは億を稼ぐ」といえば1億円のこと。2億円ではない。
「箱」とか「ダース」とか「カートン」とかも、特に数字をつけない場合は「1箱」「1ダース」「1カートン」だ。

単位につく係数(3xの3の部分が"係数")が省略されている場合は、係数は1である。
どんな単位でも。


ところがひとつ例外がある。

「倍」だ。
ただ「倍」という場合、それは「2倍」のことだ。「1倍」ではない。

「1倍」の場合はわざわざ「等倍」なんて言葉を使う必要がある。

「倍」だけが1ではなく2を省略する。
ちょっと考えてみたけど、ほかにこんな言葉はおもいつかない。

「倍々ゲーム」といえば、それは[1 , 1 , 1 , 1 , 1 ,……]ではなく[1 , 2 , 4 , 8 , 16 ,……]のことだ。



ところでふとおもったのだが「倍々ゲーム」ってなんなんだ。
「ねずみ算式」とか「等比級数的に増加」ならわかる。
でも何かが倍倍ペースで増えてゆくゲームなんか見たことも聞いたこともないぞ。

ひとつおもいつくのは、むかし北杜夫氏が書いていた『ルーレット必勝法』だ。
カジノのルーレットで、赤に1ドルを賭ける。はずれたら今度は赤に2ドル賭ける。それでもはずれたら次は4ドル賭ける。次は8ドル、その次は16ドル……。
とやっていけば、いつかは当たる。そうするとこれまでの収支で1ドルだけプラスになる。
という理屈だ。

一見もっともらしいが、これは「資金が無尽蔵にある」ことが前提の話だ。
はじめは1ドル2ドルであっても、13回目の賭け金は1,000ドルを超え、15回目には10,000ドルを超え、18回目には100,000ドル、21回目には1,000,000ドルを超える。
20回もはずれつづけることはめったにないが(赤になるのが1/2の確率だとしても100万回に1回ぐらい。実際は赤でも黒でもないこともあるのでもっと多い)、長くやっていればいつかは訪れる。資金が尽きればそこでジ・エンド。
「必ず1ドル稼げる必勝法」は「途中で降りるに降りれず莫大な損失を生みだす賭け方」になる。
(北杜夫氏の名誉のために書いておくともちろん氏はこれが必勝法でないことはわかって書いている)

「倍々ゲーム」とはルーレットのことだろうか。
しかし倍々に賭けていくのは戦略のひとつであって、ほとんどの人は倍々ゲームをしない。

なんで「倍々ゲーム」なんだろう。「倍々方式」でいいんじゃないか。
ゲーム理論の「ゲーム」だろうか。
それにしても倍々になっていくゲーム理論なんて聞いたことないけどなあ。

2020年3月21日土曜日

ツイートまとめ 2019年5月


懐中電灯

痴漢

コロンブス

地平線

古本市

怨念

負けっぷり

連休明け

象徴

育児

コンテンツ

タワーマンション

うそみたいなほんとの話

うそだとおもうなら

下着

京都

ダービー

見た目

なんもしてないのに

2020年3月19日木曜日

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』

平成の通信簿

106のデータでみる30年

吉野 太喜

内容(e-honより)
平成元年。消費税が施行され、衛星放送が始まり、日経平均株価は史上最高値をつけた。それから三十年、日本はどれくらい変わったのか?家計、医療費、海外旅行、体格、様々なアングルからこの三十年間の推移を調査。平成日本のありのままを浮き彫りにする。

昨年、『FACTFULLNESS』という本を読んだ。
さまざまなデータを示して、「みんな悲観するけどほらじっさいは世界はこんなに良くなってるんだよ~」と紹介する本だ。
病気で死ぬ人は減った、戦争も減った、子どもは教育を受けられるようになった、豊かな暮らしができるようになった、と。

その本に載っているデータはもちろん本当で、世界が多くの人にとって生きやすい世の中になっていっているのはまちがいない。
でもその一方でぼくは「いや世界は良くなってるんだろうけど、でもぼくらが生きる日本についてはどうなのさ」ともおもった。

たとえば1989年(平成元年)の若者と2019年(令和元年)の若者、どっちが生きやすいんだろう?
もちろん物質的には2020年のほうが豊かだろう。スマホあるし。それだけで圧勝。写ルンですでは勝負にならない。
でも「将来に希望を持てるか」とか「周りと比べて自分は恵まれない境遇にあるとおもう人はどっちが多いか」とか「今の社会は自分にとっていい社会か」とか尋ねたときに、令和元年の若者からより前向きな答えを引きだせるだろうか。

世界は全体的によくなっている。それはまちがいない。
でも人が幸福を感じるのは絶対的な尺度よりもむしろ相対的な優位性による面が大きい。
日本人は、三十年前と比べて幸福になったのだろうか?



ということで『平成の通信簿』。
平成のはじまりと終わりで比べて、日本をとりまく状況がどう変わったのかをデータで示す。
「日本版・FACTFULLNESS」といった内容だ。

で、ぼくがもともと悲観的な見方をしていたからかもしれないけど、やっぱり残念なデータが目立つ。
 1989(平成元)年の日本の一人あたりGDP(名目)は、世界第4位であった。1988年の第2位からは少し下がったものの、米国やイギリス・フランス・ドイツを上回り、スイスや北欧諸国など、欧州のトップグループと同じ層にあった。
 では現在は、どうなっただろうか。一人あたりGDPの順位は、2000年の第2位をピークに低下をつづけ、2017年のランキングでは日本は25位となった。このランキングには、マカオ、アルバなど、国家ではない地域も含まれているので、これらの扱いによって順位の数字は微妙に異なりうるが、傾向は変わらない。現在の日本は、かつて首位を争った欧州のトップグループからは引き離され、イギリス・フランス・ドイツなど欧州の一軍グループからやや後れをとりつつある。そして、イタリア・スペインなど欧州の二軍グループや、韓国・台湾が後ろに迫っている。
 1989(平成元)年当時、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で、3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり、米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。
 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは、米国、中国に次ぐ世界第3位となり、世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。
 日本のGDPは、1989年から2017年の間に1.6倍に増えている。これだけを見ると、「失われた20年」とはいえ、なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界の中でみると、日本はこの3年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 世界全体のGDPは、この間に4.0倍になった。中国は26.1倍、インドは8.7倍、韓国は6.3倍、米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりも低いが、それでもドイツ3.0倍、フランス2・5倍、イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目である。ちなみに、日本よりも下位は、中央アフリカ(1.4倍)、ブルガリア(1.3倍)、リビア(1.1倍)、イラン(1.1倍)、コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク、アフガニスタン、あるいは北朝鮮など、このデータには含まれていない国もある(3-2)。
経済力だけでいえば「没落」の一言に尽きる。「凋落」でも「零落」でもいい。
もちろん他国が伸びたから、というのもある。日本は早い段階で成長しきっていたからのびしろが少ないのもある。
とはいえ。とはいえ。
「日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目」ってのはあまりに衝撃的なデータだ。
日本より下位の中央アフリカとかリビアとかコンゴ民主共和国って、クーデターや内戦があった国だからね。それらの国よりちょっとマシってのが日本の30年。
大きな自然災害があったとはいえ、戦争もないのにこの数字ってのは相当なもんですよ。
ちなみに高齢者人口が増えてるのは日本だけじゃないからね。同じくらい高齢化が進んでても経済成長してる国もあるからね。高齢化だけのせいにしちゃだめよ。

国の経済が伸びていないのだから、もちろん国民の暮らしは悪くなっている。
支出の内訳でいうと、家賃、インフラ代、家賃、交通費、医療費などの「生きていくために必要なお金」の額が増え、被服費、教育費、娯楽費、交際費などの「余裕のある暮らしをするためのお金」が減っているそうだ。
うーん、せちがらい。ほんとに貧しい国になってるんだなあ。

これを「失政」と呼ばずして何を失政と呼ぶって感じだけど、為政者が責任をとるどころか総括すらしないわけだから、日本の凋落は令和の世になっても止まらないだろうな。

せめて認識だけでも改めないとね。先進国という意識は捨てないと。
モンゴルとかポルトガルといっしょですよ、日本は。
はるか昔に世界の覇権を手に入れそうになった国。それだけ。今は見るかげもない小国のひとつ。

もっとも、個人的にはそれでいいとおもうんだけどね。
没落した中小国家のひとつとしてやっていくならそれなりに幸せにやっていける道はある。小国には小国の幸せがある。
そこでオリンピックだ万博だと身の丈にあわないことを言いださなきゃ、ね。
そういうのは先進国さんや成長中の国家さんに任せましょうよ。ねえ。



国債について知らなかったこと。
 国債には、建設国債と赤字国債(特例国債)がある。公共事業など後世に残る資産を作るために一時的に資金を借りるのが前者、単なる借金が後者である。ただし建設国債で作ったものが本当に資産になるかはわからないので、この区分はかなり恣意的なものである。とはいえ、昭和の日本には、後世のために何かを作る建設国債ならともかく、後世の負担にしかならない赤字国債を発行してはいけないという矜持が一応はあった。
 高度成長期はおおむね均衡財政を維持してきたが、70年代から低成長期に入ると悪化、1975(昭和62)年度、ついに赤字国債を発行するに至った。財政規律はいったん緩むと歯止めがかからない。国債残高はたちまち増加、当時OECDで最悪の水準にあったイタリアと肩を並べるに至った。これに危機感を持った当時の政府は、国鉄や電電公社の民営化など財政再建に取り組んだ。バブル景気の税収増加にも助けられ、1991(平成3)年度の赤字国債の発行額はゼロとなった。
ぼくなんか物心ついたときから日本が借金まみれだから、借金があるのがあたりまえだとおもっていた。国の財政ってそういうものなんだと。
でもそうじゃないんだね。
1975年までは赤字国債を発行していなかったし、1991年も赤字国債はゼロだった。
借金がないのが健全なのだ。そんなあたりまえのことを忘れていた。たぶんみんな忘れている。財務省の人間なんかもう完全に麻痺しちゃってるんだろう。
「借金があっても大丈夫ですよ」と主張するための言い訳は必死で探すけど、借金を返す方法なんて考えようともしていない。



いちばん悲しくなるのがこれ。
 数の少なくなった貴重な人材を、今の日本はどう育てているだろう。教育費の公費負担額の対GDP比をみると、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位、未加盟国を含む40カ国では39位である。トップの中米のコスタリカは、建国当初から教育熱心な国として知られ、教育費にGDPの6%を使うことを憲法に明記している。
 教育費を公私どちらが負担するかは、国によって異なる。欧州の大陸系の国は公費負担の比率が高く、英米系の国は公費負担の比率が低い。そして総額は、英米系のほうが多い。日本は公私の比率では英米系に属するが、私費負担はとくに高等教育で英米ほど多くなく、結果として総額が少なくなっている。私費負担を含む教育費の総額でみても、日本はGDP比で4.1%と、OECDの34カ国の平均5.0%を下回っている。
はああ。
教育費の公費負担分は、コスタリカはGDPの6.6%、アメリカと韓国は4.1%(先進国はだいたいその前後)、そして日本の公費負担分は2.9%……。

情けなくなってくるね。
貧しいのはしかたないにしても、未来に投資しなくなったらもう終わりじゃない。小泉純一郎が総理時代に「米百俵」とか言ってたけど、その話はどうなったの?

子どもに投資するどころか、老人が子どもから借金してる(そして返す気はない)のが日本の状況だからね。
つくづく憂鬱になる。


ほんとに平成ってまるまる日本没落の時代だったんだな。
何がつらいって、その没落が止まる傾向がまったくないことなんだよな。

他人事みたいに言ってるけど、責任の一端はぼくにもあるんだけどね。はぁ。選挙行ってるんだけどなあ。変わんねえなあ。

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バブルでゆとり



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2020年3月18日水曜日

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

何者

朝井 リョウ

内容(e-honより)
就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから―。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて…。直木賞受賞作。

もしも過去に戻れるとして、いちばん戻りたいのはいつ頃だろう。高校生のときがいちばん楽しかったし、でも何も考えていない小学生の頃も幸せだったし、結局うまくいかなかったあの子とのデートの日に戻って……。なかなか決められない。

でも「ぜったいに戻りたくない時期」は即決できる。
就活をしていた時期だ。

あの頃はほんとにつらかった。
こないだ、昔友人たちと会話をしていたBBS(ネット掲示板)を久しぶりに見てみた。そこには就活中のぼくがいた。ほんとうにイヤなやつだった。周囲全員を見下し、自分だけが特別な人間であるかのようにふるまい、攻撃的な言葉を隠すつもりもなくまきちらしていた。うげえ。とても見ていられなくなってBBSを閉じた。
「こんなやつとよく友だち付き合いをしてくれていたな」と友人たちに感謝をした(ほとんどは今でもときどき会う友人だ)。

ぼくは、高校までは友だちも多くて勉強もできて「おまえはおもしろいやつだな」とか「個性的だね」とか言われて(「個性的」は必ずしも褒め言葉ではなかったとおもうが)、難関と言われる大学にストレートで入って、ほんとに調子こいていた。
自分は周囲の人間とはまったく違う、いずれ世に広く名前を知られる存在だと本気で思い込んでいた。何も成し遂げていないのに。

で、そのぼくの出鼻がこっぴどくくじかれたのが就活だった。
就活をすると、ぼくは何者でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。誰もぼくを特別扱いしてくれない。
面接でがんがん落とされる。上っ面だけ調子のいいやつが次々に面接を突破しているのに、誰よりも誠実な自分は落とされる。

なんなんだ就活って。仕組みがまちがってるとしかおもえない。
毎日がめちゃくちゃ苦しかった。
だからまったく聞いたこともないような会社の社長から「君こそうちにくるべきすばらしい人材だ!」みたいなことを熱く語られて、すぐに飛びついた。社長の言葉に共感したから、というのを自分への言い訳にしていたがほんとは一日でも早く就活を終わらせたかっただけだった。

今にしておもうと、肥大化しきった自尊心を叩き潰してくれたという意味で就活はいい経験だったといえるかもしれない。
でもそれは十年以上たった今だから言えることで、やっぱり当時は毎日つらかったんだよ。



『何者』は読んでいてつらかった。
この小説には、周囲をうっすらと見下している人物が出てくる。
自尊心のかたまりみたいな人間で、何もしていないくせに自分だけは他と違うとおもいこんでいて、自分だけが繊細で物事を深く考えている人間だと思っていて、真正面から就職活動に取り組む同級生を見下し、かといって就職せずに世捨て人になるほどの覚悟もなく傷つかないような鎧をたくさん着込んでから就活に勤しむ。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。
二十一歳だったぼくそのものだ。

この登場人物はことあるごとに、社会の矛盾に対して一席ぶつ。それを周囲が感心して聞いている、と当人は思っている。「個性的だね」「いろいろ考えてるんだね」といったお茶を濁す言葉を、額面通りに受け取って。
でもじっさいは、自分が見下している周囲の人間から見下されている。理屈だけこねまわして自分が傷つかないように必死に逃げ回っているのだということを見透かされている。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。

たぶん世の中に何万人といるんだろう。
自分だけは他の就活生とは別の考え方で就活をしている、と思っている人間が。

『何者』は、そんなありきたりな人間を容赦なく切り捨てる。
 たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。
 俺は、自分で、自分のやりたいことをやる。就職はしない。舞台の上で生きる。
 ギンジの言葉が、頭の中で蘇る。就活をしないと決めた人特有の、自分だけが自分の道を選んで生きていますという自負。いま目の前にいる隆良の全身にも、そのようなものが漂っている。

「『企業から採用してもらうために自分を型にはめて偽りの仮面をかぶって就活するなんてダサい』という考えこそがダサい、と。
そうなのだ。
就活をしている人間は何も考えずに就活をしているわけではない。
「自分を偽って面接に臨むことが正解なのか」なんて考えをとっくに通過した結果として面接に臨んでいるのだ。
何も考えていないのは、それをばかにするぼくのほうだったのだ。

読んでいると過去の自分を殺したくなってくる。つらい。



これだけでもぼくにはグサグサと刺さったのに、後半の展開はすごかった。もう息ができないぐらい苦しかった。
「こういうイタいやついるよねー」って半分客観的に読んでいたら、「いやこれまさしくおまえの姿なんだよ!」って小説の内側から指をつきつけられた気分。
観察しているつもりになっていたら、いつのまにか観察される側になっている。

やめてくれえ。
これ以上傷口を広げないでくれえ。痛い痛い痛い痛い。

タイムマシンで過去に戻って就活をやっているぼくの姿を見せつけられているような。いちばん戻りたくない時期なのに。地獄だ。



この小説を貫くキーワードは「就活」と「SNS」だ。
ぼくが学生のときはSNSは誰もやってなかった。卒業ぐらいのタイミングでやっとmixiが広まった。FacebookもInstagramもtwitterもなかった。せいぜいさっきも書いたようなBBSぐらい。

SNSのある時代に学生生活を送らなくてよかった、とおもう。『何者』を読んで余計に。

だってSNSっていやおうなしに「何者でもない自分」を突きつけてくるツールだもん。
すごい人がすごいことを発信している。どうでもいいことをつぶやくだけで何千という「いいね!」をもらう人がいる一方で、自分の渾身のツイートには誰も反応しない。
すごく残酷だよね。

一方で、かんたんに自分をとりつくろうこともできる。だけど無理していることがみんなにばれている。ばれていることにも気づいている。でもやめられない。

ぼくはもう老いて「何者でもない自分」として生きていく覚悟をある程度身にまとったから(完全に捨てられたわけではない)なんとか耐えられるけど、「もうすぐ功成り名遂げるはずの自分」として生きていた学生時代だったらとても耐えられなかった。

でも逆にSNS慣れしてる若い人のほうがそういうくだらない「自己と世間の評価のギャップ」をあっさり乗りこえてたりするのかなあ。それはそれでちょっと寂しい話だなともおもう。
現実を見るのは大事だけど、現実ばかり見なきゃいけないのもつらいよなあ。



就活のときに味わった苦しさをもう一度味わわされた気分だ。
それどころじゃない。
苦しさを何倍にも増幅されて与えられたようだ。

めちゃくちゃひりひりする小説だった。
三十代の今だからなんとか耐えられたけど。
これを二十五歳ぐらいで読んでたら発狂して自傷行為に及んでいたかもしれないな。それぐらいの殺傷能力がぼくに対してはあった。

朝井リョウ氏のデビュー作『桐島、部活やめるってよ』は特に何の感情も揺さぶられなかったので油断してた。ぐわんぐわんと揺さぶられた。

就活が嫌いだったすべての人におすすめしたい。
いやーな気持ちになれること請け合い。

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2020年3月17日火曜日

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

ララピポ

奥田 英朗

内容(e-honより)
みんな、しあわせなのだろうか。「考えるだけ無駄か。どの道人生は続いていくのだ。明日も、あさっても」。対人恐怖症のフリーライター、NOと言えないカラオケボックス店員、AV・風俗専門のスカウトマン、デブ専裏DVD女優のテープリライター他、格差社会をも笑い飛ばす六人の、どうにもならない日常を活写する群像長篇。下流文学の白眉。

内容説明に「下流文学」とあるが、まさに下流文学。
登場人物がみんな社会の下層にいる人間ばかり。ただ貧しいだけじゃない。向上心がない、モラルにも欠けている、地道な努力は嫌い(風俗のスカウトマンだけは地道に努力してるけど)、でも他人への嫉妬心は強い、濡れ手で粟だけは夢見ている。
なかなかどうしようもない連中だ。

しかしそれがリアル。
清貧なんて嘘。貧しい出自で懸命に努力を積み重ねて成功を手にする、なんて例外中の例外。
貧しい環境にある人ほど明日が見えなくなってゆく。明日が見えないのに将来に向かっての努力なんてできるわけがない。
まともな方法で人生大逆転なんてできない。大博打を打つにも資本がいるのだ(金だけでなく時間とか教育とか人脈とか)。

貧困からの一発逆転手段といったら非合法なやりかただけ。
で、違法スレスレ(またはアウト)の方法に手を染める。
それはそれで成功を手にするのはむずかしい。まして非合法なやりかたで継続的な成功を収めるなどまず不可能だろう。
かくしてひとつの過ちをごまかすためにまた別の悪事に手を染め、あとはどんどん転落の一途……。

といったのが全篇に共通するおおまかな展開。
しかしじめじめせずに乾いたユーモアで包みながら物語は目まぐるしく動くので、読んでいて楽しい。
けっこう陰惨なエピソードもあるのだが(介護老人の死とか放火とか売春とか逮捕とか盗撮とか……。よく考えたら陰惨なやつばっかりじゃないか)、でもからっとした筆致のおかげで気が詰まらない。

最後は下流なりの小さな幸せをつかむ……みたいな展開にはなるのかとおもったら、そうはならずに、最後まで救いのない結末だった。個人的にはこのほうが好き。とってつけたような救済を与えたって嘘くさいしかえってみじめったらしいもん。とことん突き離してどん底に叩き落とすほうがいい。フィクションなんだし。

ストーリーはおもしろかったんだけど、性描写が多くて(全篇にある)電車の中で読みながら「これは窮屈な満員電車で読む本じゃなかったな」と後悔した。

性描写があるエンタテインメント小説というより、もはや明るく楽しいポルノ小説。



ちなみにタイトルの「ララピポ」とは「a lot of people」のことだそう。
たしかに早口で言うとそう聞こえる。
だからなんだって話だけど(この小説本編にもあんまり関係ない)、タイトルに使いたくなる気持ちはなんとなくわかるなー。

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