2019年8月29日木曜日

芸能オタク


会社に四十歳ぐらいの女性がいるのだが、やたらと芸能人の話をしてくる。
べつにどんな趣味を持ってようと勝手だが、うっとうしいのは「みんなが芸能ニュースに興味を持っている」かのように話をしてくることだ。
「○○が捕まったのショックだよねー」とか「○○と○○が結婚したのびっくりしなかった?」とか。

いや芸能ニュース観てないから知らんし。
っていうかそもそもその芸能人のことすらよく知らんし。
で、「その人よく知らないんですよね……」って言うと「ほら『□□』とか『□□』に出演してたんだけど」と言われる。
いやもっと知らんし!

話が拡がるのも面倒なので適当に「はあ」「あーそうですかー」とか言ってるんだけど、そんなことお構いなしに芸能人の話をしてくる。
こういう人、前の会社にもいた。学生時代のバイト先にもいた。

いや、いいんだよ。
芸能ニュース好きでも。ゴシップ好きでも。ドラマ好きでも。
ただ「自分はオタクである」という自覚を持って慎ましく生きてもらいたい。芸能オタクだと。

オタク同士なら好きなだけ話せばいい。
でも、サークル外の人に話題を押しつけちゃいけない。

ぼくは読書が好きだけど、相手が本好きかどうかわからないのにいきなり「○○が山本周五郎賞とったのどう思います?」とか「○○の新刊、過去作品に比べるといまいちですよねー」とか言ったりしない。

他の趣味を持つ人も同じだとおもう。
カメラ好きもアニメ好きも鉄道好きもアイドル好きも、趣味の話題をするときはちゃんと相手を選ぶ。
相手を選ばないのは、芸能オタクと、「阪神また負けたな」と言ってくるプロ野球好きのおっさんだけだ(後者は絶滅危惧種かもしれない)。

なぜか芸能人好きの多くは、芸能ニュースが一般教養だとおもっている。
「来年東京オリンピックだね」ぐらいの感覚で「蒼井優と山ちゃん結婚するのびっくりだよね」と言ってくるのだ。

ぼくが観測したかぎりでは、「芸能ニュースは一般常識」とおもっているのは例外なく1980年頃までに生まれた女性だ。
みんなが同じ番組を観て盛りあがっていた1990年代で時が止まっているのだ。

いや、トレンディドラマ全盛の頃でも人気ドラマの視聴率はせいぜい20%か30%ぐらいのはず。
当時からドラマを観ているのは少数派だったんだけどなー。なんでみんなが興味を持っているとおもえるんだろ(『おしん』は平均視聴率が50%を超えてたらしいから、『おしん』だけは一般常識だ)。

2019年8月28日水曜日

8月末になってあわてて宿題をやる小中学生向け 自由研究の書き方


ネットで検索してここにたどりついた君、もう大丈夫です。

自由研究だね? 何から手をつけていいかわからなくて困ってるんだね?

うん、わかるよ。
ぼくもかつては困っていた。困っていたなんてもんじゃない。途方に暮れていた。

でももう困っていない。
なぜかって?
学校を卒業したからだ。

そうだね、身も蓋もないね。

でもふざけてるわけじゃない。そのとおりなんだ。大人になったら自由研究で困らないんだ。

大人が
「学生の頃、ちゃんと英語やっとけばよかったなー」とか
「もっと歴史の勉強をしっかりやっておけばよかった」とか言っているのを聞いたことがないかい?

あるだろう。大人はいつも「もっと勉強しておけばよかった」とおもいながら、けれど勉強しない生き物なんだ。最高だね。

じゃあ大人が
「学生の頃、もっとちゃんと自由研究をしておけばよかったー!」
と嘆いているのを聞いたことがあるかな。ないよね。
それは、自由研究は何の役にも立たないからだ。

学生のときに自由研究に力を入れようが入れまいが、将来にはなんの影響もないんだ。


自由研究は役に立たないのに、どうしてやらなくちゃいけないのかって?

それは、役に立たないことをやる訓練のためだ。

大人になったら何の役にも立たないことをいっぱいしなくちゃいけない。
上司のつまらない話を興味深そうに聞くとか、断られるとわかっているのに電話で営業をかけるとか、妻の愚痴につきあわされた結果自分の意見を述べたら「そういうの求めてないから」と言われるとか。

大人は役に立たないことを我慢する対価としてお給料をもらったり、家庭内の平穏を保ったりしているわけだ。

君たちぐらいの年齢のうちから自由研究のように役に立たないことをやっていると、大人になって役に立たないことを押しつけられても動じなくなる。

だからこれはとても大事なことなんだ。
野球部がでかい声を出しながら走ったり、朝礼で校長先生が長いお話をしてくださったり、卒業式の練習にたっぷり時間をかけたりするのも、みんな「役に立たないことの修行」のためだ。

そこに疑問を持って「これに何の意味があるんですか」なんていうのは、君がまだまだ子どもだからだ。意味がないことに意味があることを大人は知っている。


【ここまでのまとめ】

自由研究は役に立たないことをする修行





君たちが「自由研究って何をやればいいの?」と困るのは、役に立つことをやろうと考えているからだ。
まずその前提を捨てよう。

自由研究は役に立たないことをする練習のためにあるんだから、研究の内容も当然ながら役に立たないものでなくちゃいけない。

たとえば「町内の道路標識の数をかぞえてみた」とか「神社の前に一日立って何人の人が訪れるか調べた」みたいなのがいい。

小学校低学年のとき、朝顔の観察日記をつけさせられなかったか? あれなんて「役に立たないこと」の代表みたいなものだ。
全国の小学生が何十年も観察しているものをいまさら観察したって新たな発見があるはずがない。キング・オブ・無用だ。
みんな朝顔の観察日記を入口にして「役に立たないこと」の第一歩を踏みだすんだ。

いくら役に立たないからといっても、おもしろいものはダメだ。
「コーラの缶をどれだけ振れば爆発するかやってみた」みたいなやつ。YouTuberがやっているようなやつだね。

おもしろいものは、先生から「こいつは自由研究を楽しんどるな。けしからん」とおもわれる。
さっきも言ったように、自由研究は精神を鍛えるための修行だ。
先生は、生徒が勉強を楽しむのが嫌いなんだ。
だから自由研究のテーマはつまらなければつまらないほどいい。

おすすめは、「誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないこと」だ。

そんなのつまらないよ、とおもうだろう。
でも研究というのはそういうものだ。

君たちは知らないとおもうけど、世の中にはたくさんの研究者がいる。たくさんのおじさんやおばさんが大学や大学院で一生懸命研究をしている。
研究者と呼ばれるおじさんやおばさんが何をしているかというと、ほとんどが
「誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないこと」だ。

考えてみてほしい。
役に立つことならとっくに他の誰かが研究しているはずだよね。
だから、ユニークな研究をしようとおもったら、誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないことを研究しなくちゃいけないんだ。

先生の立場にたって考えてみよう。

 めんどくさいことをした = がんばった
 誰もやらないことをした = ユニーク
 何の役にも立たないことをした = この子は自由研究の目的を正しく理解している

君の二学期の評価は爆上がりまちがいなしだ!


【ここまでのまとめ】

めんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないことを研究しよう





めんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないことをするのがいい、ということは理解してもらえたとおもう。

では具体的な研究方法について説明しよう。

たとえば
「コンビニの商品の数をかぞえてみる」
というテーマを選んだとしよう。

君は近所のコンビニに行く。
店員の目を盗んで、品数を数えはじめる。

断言しよう。
十分でめんどくさくなる。
もちろん、退屈な作業を根気強く続けられる人もいる。
だけどそういう人は夏休みの宿題をぎりぎりまでためこんで、あわててネットで検索したりしない。
つまり君たちはまちがいなくすぐに飽きる。

しかしピンチはチャンスだ。

人間はずっと面倒なことを乗りこえるために科学を発展させてきた。
すべてを数えるのが面倒なら、一部だけ数えるのはどうだろう。コンビニの棚の高さはだいたいどこも同じだから、一部だけ数えてそれを(数えた分の床面積/店全体の床面積)で割れば、概算ではあるが店全体の商品数がつかめるじゃないか!

……とはならない。
そういう知恵をはたらかせることのできる子はそもそも夏休みの宿題をためこんで(以下略)。

お店の人に聞く、チームを作って手分けして数える、コンビニ本部に問い合わせる……。
何度も言うけど、そういった気の利いた方法は君たちの仕事じゃない。七月中に自由研究に取り組む優秀な子たちの仕事だ。

だから君たちはただただ端から順番に商品を数える。
そして店員さんに言われるだろう。
「ごめん、他のお客さんのじゃまになるから買わないんだったら出ていってくれるかな」と。

ここで、あちこちのコンビニをまわって
「何分までなら店員に注意されないのか」「店員が注意するときの言葉はどんなものが多いのか」「セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートなどの店によって注意のしかたにちがいはあるのか」「注意されても無視しつづけたらどうなるのか」
を調べれば立派な研究報告になるんだけど、まあ君たちには無理だろう。

きっと君たちは注意されたことで、やめるためのいい口実ができたとおもって家に帰るだけだろう。


【ここまでのまとめ】

めんどくさいことはすぐに飽きる





結局、ほとんど何も調べられなかった。
君の手元にあるのは
「ジュース:40種類 コーヒー:13種類 お酒:33種類 何かよくわからない飲み物:2種類」
みたいなメモだけだ。

もう一度調べにいく気力はない。さっき店員に注意されたところだし、なにより外は暑い。一度家に戻ったら、もう二度と外には出たくない。

この一枚のメモをもとに自由研究レポートを書くしかない。

調査内容を適当にでっちあげるという方法もあるが、これはおすすめしない。

嘘をつくのがよくないからじゃない。嘘をつくのはたいへんだからだ。
それらしい嘘をつくためには知識や想像力や論理的思考力を必要とする。君たちにはないものだ。
もっともらしい嘘をつくぐらいなら、ほんとうのことを書くほうがずっとかんたんだ。

だから書こう。ほんとうのことを。

自由研究のテーマを決めたこと。コンビニまで行ったこと。はじめはちゃんと調査する気だったこと。すぐに飽きたこと。店員から注意されたこと。そのときの心境の変化。気恥ずかしくなってアイスを買って帰ったこと。暑さですぐに溶けてきたのでアイスを食べながら帰ったこと。溶けたアイスが手についてべたべたしたこと。とりあえず家に帰ったこと。家に帰ったらもう調べる気がなくなったこと。そのときの心境の変化。

これぐらい書けば、レポート用紙はそこそこ埋まるはずだ。
残すは、結論だけ。

結論、これが大事だ。
これがなければただの日記に過ぎない。だけど中盤がひどくても結論がそれっぽければ、一応研究レポートとしての体裁が整う。

それが書けないんだよ、とおもうだろう。
よしっ、特別だ。
ここまで読んでくれた君だけに、どんな研究にも使える万能の結論をお教えしよう。
このまま書き写してくれてかまわない。

 いろいろ調べましたが、結局よくわかりませんでした。
 ですが何もわからなかったわけではありません。「このやりかたで調べてもわからない」ということがわかったのです。
 かの有名な発明王トーマス・エジソンはこんな言葉を残しました。「私は失敗したことがない。ただ、一万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ」と。
 ぼくの研究は成功しませんでしたが、失敗を通して成功に一歩近づくことができました。ぼくの研究人生における大きな一歩だったことはまちがいありません。
 このことに気づけただけでも自由研究をしたことに価値があったとおもいますし、このようなすばらしい宿題を出してくださった先生に対して深い感謝の念を抱いたことをここに記録します。

どうだい。
気づき、もっともらしい小理屈、先生への媚び。どれをとっても完璧な結論だね。

ぜひ、この手法で自由研究のレポートを作ってくれ。
もちろん成果は保証しないよ。


【まとめ】

結論でそれっぽいことを書いておけばそれなりのものになる



2019年8月27日火曜日

スマホを持って三十年前にタイムスリップした人


あーこんなもんじゃないんだよ。ほんとに。

そんなもんで驚かれちゃこまるっていうか。
いや驚いてくれるのはうれしいんだけど。
でもほんとはこんなもんじゃないんだよ。


うん。この時代の人たちからしたら、こんなに小さな機械が時計とカメラとビデオカメラと電卓とボイスレコーダーとスケジュール帳と懐中電灯になるのはすごいよね。驚きだよね。

ほんとはね。
もっとすごいの、これ。
世界中のいろんな情報が一瞬で調べられるの。ニュース記事も読めるし、テレビも見られるし、百科事典も見られるし、漫画も読めるし、何万種類ものゲームができるし、こちらから情報を世界に向けて発信することもできるの。
本来ならね。今は無理だけど。

この時代に通信環境ないもんなあ。
携帯キャリアもないし、Wi-Fiも飛んでるわけないし。
通信できないからアプリも入れられないしな。そもそもアプリストアがないもんな。

電卓とかカメラとかはこの機械の本質じゃないの。
スマホ見て「電卓とカメラになるんだ。すげー」っていうのは、ドラえもん見て「動いたりしゃべったりするロボットだ。すげー」っていうようなものなの。それもすごいけど、いちばんすごいのはそこじゃないの。四次元ポケットのとこなの。

ドラえもんでいうところの四次元ポケットが、インターネットでありアプリなんだけど、この時代だとそれが使えないんだよなあ。ほんと残念。

あっ、ちょっと無駄に使わないで。
電卓なんかこの時代にもあるでしょ。
電卓機能で電池消耗させないで。電池なくなったら終わりなんだから。

電池あるよ、じゃないんだよ。
単三電池とかでしょ。この時代の電池って。
ちがう? えっ、ボタン電池かい!
ボタン電池なんてひさしぶりに見たわ。こんなの三十年後の未来じゃ誰も使ってないよ。だせー。

必要なのはバッテリーなの。いや車のバッテリーじゃなくて。いやピッチャーとキャッチャーでもなくて。それはわかるでしょ。
あー、充電器あればなー。
せめてちゃんと充電してたらなー。なんで残り5%のタイミングでタイムスリップしちゃうかなー。

え?
ああ、そうだね。そうだけど。
使ってるとちょっとあったかいからカイロとしても使えるけど。
それ、ドラえもんに「ちょっとトイレ行ってくるから荷物見といて」ってお願いするぐらいのどうでもいい使い方だからね!


2019年8月26日月曜日

【読書感想文】ふつうの人間の持つこわさ / 宮部 みゆき『小暮写眞館』

小暮写眞館

宮部 みゆき

内容(e-honより)
家族とともに古い写眞館付き住居に引っ越ししてきた高校生の花菱英一。変わった新居に戸惑う彼に、一枚の写真が持ち込まれる。それはあり得ない場所に女性の顔が浮かぶ心霊写真だった。不動産屋の事務員、垣本順子に見せると「幽霊」は泣いていると言う。謎を解くことになった英一は。待望の現代ミステリー。

写真屋だった建物に引っ越してきた高校生の主人公が、様々な心霊写真の謎解きを依頼され……というお話。
派手な犯罪や凶悪な登場人物などは描かれず、日常の謎系のミステリ。『ステップファザー・ステップ』みたいな味わい。

しかし、この謎解きはいただけない。オカルト頼り。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」って川柳があるけど、それならおもしろいんだよね。謎解きの妙があるから。
でも『小暮写眞館』は「幽霊の 正体見たり 幽霊だ」だからなあ。心霊写真が撮れたので調べてみたら正体は霊でした……ひねりがなさすぎる

 オカルトが好きじゃないんだよね、個人的に。 スパイス的に使うのならともかく、メインに据えられるとげんなりする。

怖いとかじゃなくて霊に興味がない。霊感があるだのどこそこのトンネルが出るだのこの部屋は前の住人が自殺して……だの言われても「あ、そ」としかおもえない。
見える人には見えるのかもね、自分には関係ないけど。
「南米の熱帯雨林に棲むイチゴヤドクガエルは強力な毒を持っているんだって。怖いよね」と言われても「ふーん。まあ自分には関係ないからどうでもいいけど」としかおもわないのと同じだ。

あと霊を感動させるための道具として使うことも気に食わない。なんかずるい。霊を出したらなんでもありになっちゃうじゃん。
宮部みゆき作品でいうと『魔術はささやく』もダメだったなあ。催眠術使うのはずるいでしょ。これも同じ感覚。





……ってな感じで上巻でずいぶんげんなりしながら読んだんだけどね。
でも下巻はおもしろかった。下巻はほとんど霊が関係なかったからね。わるいね、霊が嫌いなんだ。

上巻の伏線が下巻では生きて、幸せいっぱいそうに見える家族の病理も浮かびあがってくる。
下巻だけとってみれば、よくできた小説だ。


下巻には、我が子を亡くした母親が葬儀の場で親戚一同から追い詰められる様子が書かれている。
「どうして子どもを死なせたんだ」「なぜもっと早く気づいてやれなかったんだ」と。

追い詰めている人たちを駆り立てるのは悪意ではない。善意だったり、保身だったり、やりきれなさだったり、つまりはぼくらがみんな持っているものだ。
そういうあたりまえのものが、誰かを死の淵まで追い詰めてしまうことがある。

インターネットの炎上を見ていると、だいたいがそんなもんだ。
炎上する人も、させる人も、ほとんど悪意は持っていないように見える。正義感や見栄や義侠心や怯えが、炎上への引き金をひいてしまう。

『小暮写眞館』の読後感を一言でいうなら、よくある感想だけど「霊よりも生きた人間のほうがこわい」。
ふつうの人間のこわさがにじみ出た小説だとおもう。
くどいけど、霊が出てこなければもっとよかったんだけどなあ。


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【読書感想】杉浦 日向子『東京イワシ頭』



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2019年8月23日金曜日

【読書感想文】秘境の日常 / 高野 秀行『恋するソマリア』

恋するソマリア

高野 秀行

内容(e-honより)
内戦が続き無政府状態のソマリア。だがそこには、現代のテクノロジーと伝統的な氏族社会が融合した摩訶不思議な世界が広がっていた。ベテランジャーナリスト・ワイヤッブや22歳にして南部ソマリアの首都で支局長を務める剛腕美女ハムディらに導かれて、著者はソマリ世界に深く足を踏み入れていく―。世界で最も危険なエリアの真実見たり!“片想い”炸裂の過激ノンフィクション。

高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』は、とんでもなくおもしろい本だった。
紛争地帯でありながら氏族制度によって絶妙なバランスを保ち、海賊で国家の生計を立て、イスラム文化でありながらカート(覚醒剤みたいなもん)が蔓延している国ソマリランド(国際的には国家として認められていないけど)。

世界の秘境をあちこちまわった高野秀行さんがおもしろい国(国じゃないけど)というだけあって、なにもかもが異色。
西洋文明はもちろん、アラブやアフリカとも一線を画したユニークな国の姿を知ることができた。まだまだ地球には秘境があるのだ。そこに住んでる人もいるのに秘境というのは失礼かもしれないが、しかし想像の埒外にある文化なのでやっぱり秘境なのだ。
『謎の独立国家ソマリランド』多くの人に読んでほしい本だ。


で、その続編ともいえるのがこの『恋するソマリア』。
『謎の独立国家ソマリランド』を読んだ人には前作ほどの衝撃をないが、それでもソマリ人文化のユニークさはびしびしと伝わってくる。
 とはいうものの、客観的に見ても氏族の話はひじょうに面白い部分がある。特に私の興味を巻いていたのは氏族同士がいかにして争いを終わらせるかだ。一般には人が殺された場合、男ならラクダ百頭分、女ならラクダ五十頭分を「ディヤ(賠償金)」として支払うことで解決される。加害者ではなくその人が所属する氏族全員が分担して支払う(町では現金、田舎では本当にラクダで支払いが行われる)。交渉も氏族の長老が行う。事実上、これは国の法律にもなっている。
 これだけでも「現代にそんなことをやっている国があるのか?」と驚いてしまうが、もっと凄い解決方法が存在する。あまりに争いや憎しみが激しくなり、ディヤでは解決ができない場合、加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させるという方法だ。一九九三年、内戦がいちばん激しかったときも、このウルトラCで解決を図ったと言われ、また今現在でもときおり行われていると聞いていた。氏族依存症患者としてはなんとか、その具体事例を一つくらい知りたいと思った。
なんちゅうか、一見乱暴な制度だ。
人が殺されたらラクダ百頭分を支払わなきゃいけないってことは、裏を返せばラクダ百頭分を支払えば殺してもよいということになりそうだ(じっさいはどうかわからないが)。

「加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させる」はもっとひどい。
たとえば自分の親が殺されたら殺人犯の娘と結婚させられる、つまり殺人犯が義父になる(この本にはじっさいそうなった男性が登場する)。
それって賠償になるのか? 全員イヤな思いするだけなんじゃないの? という気もする。
まあ誰もトクしないからこそ痛み分けってことになるのかもしれないけど……。

しかし、現実にこのやりかたが今でも生き残っているということは、それなりに合理的な制度ではあるのだろう。

今の日本みたいに平和な国に暮らしていると、殺人事件が起こったら「どうやって加害者を罰するか」を考える。
でもソマリアのようにずっと戦いに明け暮れていた国だと、加害者の処罰よりも「どうやって報復の連鎖を防ぐか」のほうがずっと重要なのだろう。ひとつの殺人事件をきっかけに部族同士の抗争に発展して何十人もの死者を出すことになった、みたいな事例がきっといくつもあったのだろう。
「加害者の娘と被害者の遺児を結婚させる」というのは報復の連鎖を防ぐための方法なのだろうね。
当事者たちにはやりきれない思いも残るだろうけど「村同士の抗争を防ぐためだ。泣いてくれ」ってのは、それはそれで有用な知恵だとおもう。当事者の人権を無視した和解方法だけど、人権よりもまずは命のほうが大事だもんんね。



ソマリアで主婦たちに料理を教えてもらうことになった著者。
このへんのくだりはすごく新鮮だった。
 母語のことを訊かれて気分を悪くする人は世界のどこにもいない。イフティンもすっかり喜び、「こっちに来て」とか「これ、捨てて」などと教える。私がそれを覚えて、二人でやりとりすると、イフティンは得意満面、いっぽう、意味がわからないニムオは「感じわるい!」とむくれる。
 そこで今度はニムオに日本語で「元気ですか?」「ええ、元気です」と教えて、会話してみると、今度はイフティンが「タカノ、あなた、悪い人!どうしてあたしに教えてくれないの?」と怒る、というか怒るふりをする。そうして、三人でふざけているうちに、肉と野菜が煮えていくのである。
 いやあ、ソマリ語を習っていてよかった!! と珍しく思った。いつも「俺は何のために苦労してこんな難しい言葉を習ってるんだろう」と嘆いていたのだ。取材するだけなら英語で十分だからだ。でも、女子と通訳抜きで直接話したければ、ソマリ語を知らないといけない。英語を話す男子は掃いて捨てるほどいるが、女子ではめったにいない。そして通訳がいたら女子は距離をとってしまい素顔を見せてくれない。
 今さらながらに思う。ソマリの政治、歴史、氏族の伝統をいくら紐解いても、それは大半が「男の話」でしかない。月の裏側のように女性の姿はいつも見えない。いわば、未知の半分に初めて足を踏み入れた喜びを感じた。

日本だと「田舎に行ってその家に伝わる料理をおばちゃんから教えてもらう」みたいなテレビ番組がよくある。どうってことのない話だ。
これがイスラム世界だととんでもないことになる。
宗派にもよるが、イスラム教徒の女性は家族以外の男と話すことを禁じられていることが多い。まして夫のいない間に外国人を家に上げるなんて、宗派によっては殺されてもおかしくないような行為だ。

そんなわけで、外国人にはイスラム圏の女性の生活はほとんどわからない。
当然ながらどの国も人口の半分は女性だ。ソマリアに関しては多くの男が戦死しているので女性のほうがずっと多い。女性に触れないということはその国の文化の半分もわからないということだ。政治や経済のことは男性に聞けばわかるが、料理を筆頭とする家事や育児のことはヒジャーブ(イスラムの女性が顔を覆う布)に包まれたままだ。
そのガードを突破したのだから、うれしくないはずがない。

そういえばぼくが中国に留学していたとき、近くの商店街の二十歳ぐらいの女性と仲良くなり、「日本語を教えてくれ」と頼まれた。
今おもうと本気で日本語を学びたかったというより外国人がものめずらしいから話すきっかけをつくりたかったのだろうとおもうが、ぼくもうれしくなって商店街に通っては日本語を教えていた。きっと鼻の下は伸びきっていたはず。
母語を教えるのって楽しいよね。苦労もなく習得した言語なのに、特別な技能であるかのように教えられるもんね。女性相手ならなおのこと。



ソマリアは危険地帯のはずなのだが、読んでいるとずっと平和な旅が続く。紛争地帯っていったってこんなもんだよなあ、とおもっていたら急転直下、高野さんの乗っていた装甲車が武装勢力から銃撃される。
「逃げろ、逃げろ!」と知事が運転席に向かってわめく。だが、逃げられないのか、逃げてはいけないという規定があるのか、アミソムの運転手はその場で車を動かし続ける。やがて、ガクッと車は止まった。死のような沈黙と、巨大な鉄の棺桶を釘で打ち付けるような砲弾、銃弾の音。
「俺はこのまま死んでしまうのか......」と思った。こんな最期があるのか。ソマリアの状況を考えれば、何の不思議もない。今までが幸運だったとさえ言える。来るべき日が来たのかもしれない。待ち伏せは仕掛ける方が圧倒的に有利なのだ。後悔の念はなかったが、唯一ソマリランドの本を出版する前に死ぬのは悔しいと思った。
 正直言って、恐怖感はそれほどひどくなかった。あまりにも現実離れしていたからだ。ベトナム戦争の映画を音響設備のよい映画館で観ているような臨場感だった。
 戦場の死とは、こうして実感を伴わないまますっと訪れるのかもしれない。

開高健の『ベトナム戦記』をおもいだした。
ベトナム戦争に従軍した著者のルポルタージュだが、圧巻は後半の森の中で一斉に銃撃を受けるシーン。二百人いた部隊があっという間に数十名になってしまう様子が克明に描写されている。読んでいるだけで息が止まりそうな恐怖を味わった。

それまではどちらかというと物見遊山という筆致で、戦争なんていってもそこには人間の生活があって兵士たちも案外ユーモアを持って過ごしているんだねえ、なんて調子だったのに一寸先は闇、あっというまに死の淵へと引きずりこまれてしまう。


人が死ぬときってきっとこんな感じなんだろうな。
予兆とかなんにもなくて、少々あぶなくても自分だけは大丈夫とおもって、「あっやばいかも」とおもったときには手遅れで、きっと死をどこか他人事のように感じたまま死んでいくんだろう。
戦死した兵士も大部分はそんな感じだったんじゃないだろうか。


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