2019年6月11日火曜日

無一文の経験


小学校一年生のとき、お祭りに行った。
近所のスーパーの駐車場でやっている小さなお祭りだ。小さなお祭りとはいえ小学一年生にとっては小さくない。
夜店をまわり、あれこれ食べてゲームをして、めいっぱい楽しんだ。

そろそろ帰ろうか、最後にあと一軒ぐらいまわろうか、という段になって気がついた。
財布がない。

母や友だちのおかあさんといっしょにさがしたが見つからない。

ぼくは号泣した。
財布には三百円ぐらい入っていた。

母や友だちのおかあさんは「まあしょうがないね」という反応だった。そりゃそうだろう。大人にとって三百円なんてそんなもんだ。ちょっとさがして、見つからなければ諦める。五分もすれば忘れてしまう。それぐらいの金額だ。

でも一年生のぼくにとって三百円を失うというのは、絶望的な出来事だった。
なにしろそのときのぼくの全財産だったのだから。


全財産を失ったことはあるだろうか。
無一文、すっからかん、すってんてん、すかんぴん、一文無し、オケラ(日本語ってやたら無一文に関する表現が多いな)。

ぼくは小学一年生にして無一文を経験した。
それはもう、絶望的な気分だった。これから先どうやって生きていけばいいんだよ……と地面に両手をついておいおい泣きたい気分だった。




今にしておもうと、いい経験だったとおもう。

無一文の気分なんてなかなか味わえるものではない。
ぼくは今三十代だが、今無一文になったら冗談にならない。誇張でもなんでもなく生きていけない。

小学一年生にして無一文の絶望感を知ったぼくは、お金に細かくなった。
お年玉にも半分ぐらいしか手をつけない。何かを買うときはじっくり検討してからにする。見栄のために金を使わない。借金はしない。ギャンブルもしない。リボ払いもしない。
財布を落としていないかも執拗に確認するようになったので、あの日以来一度も財布をなくしたことがない。
一度身についた倹約の精神は大人になっても残っている。


我が娘にも、大人になってから散財することがないよう、ぜひダメージの少ないうちに無一文の恐怖を知っておいてもらいたい。

こっそり娘の財布を隠して……ってそれはさすがにひどいか。


2019年6月10日月曜日

ニュースはいらない


ニュースを見るのをやめた。


新聞はもう十年ほど前からとっていない。
新聞を読むのは好きなのだが、
・廃品回収に出すのがたいへん
・新聞はその日のうちに読まないといけないので、読みたい本が後回しになってしまう
というのが新聞購読をやめた理由だ。

それでも社会人としてニュースは知っておかなければ、とおもって
・朝のテレビニュース
・夜のNHKニュース
・新聞社のオンライン記事
をみるようにしていたのだが、どれもやめた。

胸糞悪いニュース(政治の腐敗とか身勝手な犯罪とか痛ましい事件とか)を観るのがいやになったのと、
どうでもいいニュース(芸能人のスキャンダルとか地方のお祭りとかパンダの成長とか同じ話題を延々やるのとか)を観るのがいやになったのが理由だ。

ぼくは事実だけを淡々と伝えてほしいのに、やたら情緒に訴えかけようとしてくるのにうんざりしたのだ。

くだらないニュースは、ほんとになんとかならんのか。
NHKですら芸能ニュースとかやるし。
こっちは憤慨したり感動したりしたくてニュース観てるんじゃねえよ。だったらバラエティ番組観るほうがマシだわ。



そんなわけでニュースを観るのはやめた。
テレビのニュースも新聞のニュースも観ない。ネットニュースは目に入ってくることはあるが、見出ししか見ない。

朝はEテレを観ている。
これが実にいい。
気持ちの良い一日のスタートを切れるようになった。
夜は読書やパズルにあてる。

そしてわかった。
ニュースを観なくなっても一切困らない。
もう二ヶ月ぐらい観ていないけど、そのせいで困ったことなんかひとつもない。

「ニュースぐらいみとかなきゃな」とおもってがんばってみていたけど、害悪でしかないものだったのだ。
気分は悪くならないし、読書のペースは上がるし、静かに過ごせるし、いいことずくめ。


ニュースを観るなとは言わないけど、「ニュースぐらいみとかなきゃな」って気持ちで観てる人は、いっぺんやめてみるといい。
たぶん何も困らないから。
有意義に過ごせる時間が増えるから。

2019年6月7日金曜日

【読書感想文】ただのおじいちゃんの愚痴 / 柳田 邦男『「気づき」の力』

「気づき」の力

生き方を変え、国を変える

柳田 邦男

内容(Amazonより)
「孤独な時間」はなぜ大切か。人は孤独な時こそ悩み、苦しみ、寂寥感にとらわれ、それらを乗り越えるために懸命に考える。孤独なしに、考えるという「心の習慣」は身につかない。ネットの便利さやコンピュータが作る疑似体験に浮かれて、自己の内面と向き合う静かな時間や、現場体験によって自ら気づくことの意義を見失う現代人に、「目を覚ませ」と呼びかける警世の書。

ひさしぶりにどうしようもない本を読んだ。

そもそも、民俗学者の柳田國男氏の本だとおもって手に取ってしまった。
読んでいるうちに「あれ? 柳田國男さんってこんなに最近の人だったっけ? 明治とかじゃなかったっけ?」とおもって著者経歴を見てやっとまちがいに気がついた。

國男じゃねえのかよ! 誰だよ邦男って! まぎらわしい名前名乗りやがって!(本名なんだろうけど)



まあ、勘違いから出会った本が案外すばらしい本だったりして……とおもって読みすすめていたのだが、これがとにかくひどかった。

たとえば冒頭。
看護学生のエッセイを紹介し、その瑞々しい感性を絶賛する。そしてこう書く。
 佐藤さんは、自分の「気づき」をこう整理している。学生って、ひたむきだなあと、私は思った。「最近の若者は」などと、若者を一絡げにして批判するのは間違いだろう。いや、若者は捨てたものではない、希望をもてるぞ、と私は感じるのだ。
 高尾さんも佐藤さんも、進行したがん患者を担当するという厳しい試練を受けた中で、生涯の生き方にまで影響が及ぶような重要な「気づき」を経験している。とくに高尾さんは、患者の死というショッキングで悲しい体験をしている。そのことは若者にとっていかに現場体験が心の成長・成熟のために重要かを示している。これは看護学生だけの問題ではなかろう。
 このことは、広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られないということを示している。
は? なんで?

ことわっておくが、紹介されている看護学生のエッセイには、インターネットのイの字も出てこない。
実習を通して知り合った老人との交流と死別をつづったものだ。

それがなぜ「広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られない」になるんだ?
たぶんエッセイを書いた看護学生だってインターネットは使ってるだろうに(エッセイが投稿されたのは2007年だそうなので使っていないはずがない)。

どうしたの、おじいちゃん。
どうして、顔を合わせた交流だけが心の成長につながる体験で、ネットを通したらそうならないという短絡的思考なの? ゲームのやりすぎ?


この邦男おじいちゃんはその後も、手を変え品を変え「昔はよかった」をくりかえす。
「自分の頭の中にある美化された過去のイメージ」と「脳内でつくりあげた現代のかわいそうな境遇におかれた子ども」を対比しているのだから、前者のほうがいいのは当然だ。

そして、やたらとインターネットや携帯電話を目の敵にしている。
その攻撃材料がまた、「心が伝わらない」だの「忙しくて心のゆとりがない」だの「インターネットの便利さに漬かった若者は思考が浅い」だの、ことごとくうすっぺらい。もちろんなんのデータも示していない。
「よくわかんないけどおれが子どものときはなかったものをみんなやってるのが気に入らねぇ」なのがまるわかりだ。

きっとこういう人はいつの時代にもいたんだろう。
二十年前だったら「今の子どもたちはテレビゲームばっかりで……」と言ってただろうし、四十年前には「テレビばっかり……」と言ってたんだろう。そして六十年前は「今の子どもは漫画ばっかり読んで……」でそれより前は「小説ばっかり読んでるから……」だったんだろうな。
 私は、英文のこの絵本を持ち帰って、ゆっくりと再読すると、アメリカ人の作家と画家が、今という時代にこの絵本を創作して何を伝えようとしたのか、その意図がしっかりと私の心の中に浸み渡ってきた。そして、《これは日本の子どもたちはもとより大人たちにも、ぜひ読んでほしい絵本だ》という思いがこみあげてきた。
 ケータイ、ネット、ゲーム、勉強、競争主義といった一刻の余裕もない環境に取り巻かれ、何事につけ親から「はやく、はやく!」と急かされる今の子どもたちの状況に対し、何を取り戻さなければならないか、この絵本は、大事なキーワードを提示している。

昔の人は苦労していた。金や時間よりも大切なものを知っていた。それにひきかえ効率主義と拝金主義に洗脳された現代人は……。
こんな愚痴がひたすら並べられている。
いやいや、昔の人だってラクをできる方法があればぜったいそっち選んでたって! 昔の人は好きで苦労してたとおもってんのかよ、このおじいちゃんは。


まあ年寄りの愚痴に対していちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうが、驚くべきはこのおじいちゃんがノンフィクション作家を名乗っていることだ。おまけに「私はノンフィクション作家として論理的な思考ばかりを重視していたが、もっと人の心を見つめなければならない」的なことも書いている。

……。
論理的っていったいなんなんでしょう。



ことごとくゴミみたいな本だった(後半の河合隼雄氏の言葉を紹介しているところは興味深かったが、だったら河合隼雄氏の本を読めばいいことだ)。

この本から得られたものはただひとつ。

自分はこういう年寄りにならないようにしよう、という戒めだけだ。

ほんと、気を付けないとね。
五十年後に
「昔は連絡するためにはわざわざ携帯電話を使っていた。ものを調べるためにはパソコンやインターネットを使って一生懸命調べていた。たしかに面倒だったがその過程で得られるものも多かった。苦労していたからこそ、情報の裏にある人の心に気づくこともできた。それにひきかえ今は……」
とか言っちゃわないように。


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2019年6月6日木曜日

かぎりなくスパムに近いメール


2001年頃のお話。

当時、インターネットはあったものの主流はまだまだ「個人のホームページ」「趣味の掲示板」程度だった。

その頃ぼくは携帯電話を手に入れて(電話とメールと電卓ぐらいしか機能がないやつだ)、当時みんながそうだったようにメールに夢中になっていた。

もちろん必要事項の連絡にもつかっていたけど、それより情報発信の手段としてよくつかっていた。

おもしろい(と自分ではおもう)ことをおもいついたら、それをメールにして友人たちに送りつけるのだ。
「おもろいな」とか「またしょうもないことやってるな」とか返信があることもあれば、スルーされることもある。
それでもぼくは、コントやばかばかしいクイズを思いつくたびに、それを友人たちに送りつけていた。


そして2019年。

今もぼくはくだらないことをおもいつくたびに、パソコンや携帯電話で発信している。

変わったのは、送り先が友人ではなく、ブログやTwitterになったことだ。


すばらしい変化だ。

なぜなら、友人たちはぼくが書いたしょうもないことを読まなくてもよくなったのだから。

見たいときだけ読みにくればいいし、見たからといって気を遣ってコメントを返す必要もない。
ずっと見たくないならミュートにすればいい。

ぼくの友人たちは、もっとSNSに感謝したほうがいい。


2019年6月5日水曜日

【読書感想文】褒めるのがはばかられるおもしろ小説 / 池上 永一『シャングリ・ラ』

シャングリ・ラ

池上 永一

内容(e-honより)
加速する地球温暖化を阻止するため、都市を超高層建造物アトラスへ移して地上を森林化する東京。しかし、そこに生まれたのは理想郷ではなかった!CO2を削減するために、世界は炭素経済へ移行。炭素を吸収削減することで利益を生み出すようになった。一方で、森林化により東京は難民が続出。政府に対する不満が噴き出していた。少年院から戻った反政府ゲリラの総統・北条國子は、格差社会の打破のために立ち上がった。

大きな声では言えないけどおもしろかった。
スケールがすごい。
炭素の排出量を基準にした経済が世界の中心となり、実質炭素と経済炭素という概念が生まれる。
東京は地面を捨ててアトラスという巨大な人工台地をつくり、アトラスに暮らす特権的な人間と地面に生きるゲリラとに分かれる。
よくこんな設定おもいついたなと感心するばかり。

じゃあなぜ「大きな声では言えないけど」なのかというと、あまりにばかばかしい小説だからだ。
「ブーメランで敵をなぎ倒すゲリラの総統」「世界の炭素市場を荒らすシステムを開発した天才少女」「嘘をついた人間を殺す能力者」「外観を自由に変えることのできる装甲を持った軍隊」「人工地盤建設のための人柱」「炭素が生みだす新素材」「遺伝子操作によって種を飛ばして攻撃してくるようになった植物」など、設定が良くも悪くもマンガ的なのだ。
昨日の敵は今日の友、なストーリーも少年マンガっぽい。終盤の『ムー』感満載な展開も、中学生にウケそうな感じだ。
いい大人が読むもんじゃないなって感じの小説だ。いいおっさんが読んでおもしろかったんだけど。

それに登場人物がみんな超人すぎる。
なんなのこれ。脇役はばったばったと死んでゆくのに、主要な人物は何回殺されても死なない。肉体が滅びたのに甦るやつまでいる。ひでえ。
世界一速く走れて世界一バイオリンがうまくて世界一歌がうまくて世界一バレエがうまくて東大医学部を卒業して超絶美しい上に超強くてハーレーに乗って戦い、何度殺されても死なないお嬢様とか、このキャラ設定なんなの。
めちゃくちゃだ。

あとオカマで笑いをとろうとするのがすごく痛々しい。
安易にステレオタイプなオカマを出せばおもしろいんでしょ、という感覚は残念ながら今の時代にはあわなくなってしまった。すごく古くさく感じてしまう。
それが通用したのは平成中期までだね。

登場人物もストーリーもむちゃくちゃだけど、おもしろかった。

リアリティもへったくれもない小説なので、品性を疑われそうで手放しに褒めるのはなんだか気恥ずかしい。

これはあれだな、小説で読むもんじゃないな。漫画とかアニメ向きだな(じっさい漫画化もアニメ化もされたらしい)。



空中都市アトラス、炭素経済といった奇抜な概念もおもしろかった。
難民をほっといて、目先のイメージアップのためにオリンピック開催する政府とか。ぜんぜん非現実的じゃないか。

戦争を合法化するってアイデアもおもしろい。
 核と同じく環境を汚染する化学兵器は國子たちの生まれるずっと前に根絶したはずだった。今や戦争も国際法に則って行わなければ、厳しいペナルティが課せられる。国際社会は戦争を人間活動のひとつとして受け入れる代わりに、大量破壊兵器の所有を完全に放棄させた。戦争法は相手の降伏を待たずして勝敗が決まる。戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる。この戦争法の導入によって、奇しくも戦争は長期化することがなくなった。それはゲリラ戦にも適用される。千人の兵隊のうち三百三十四人が死亡すると、國子たちは戦争に負けたとみなされる。これを無視して戦闘を継続すると、国連が黙ってはいない。革命政府を樹立しても無効とされ、正当性を剥奪されてしまう。國子は出撃するとき、国連のサイトに戦争法に則って闘うことにサインした。相手国には非公開だが、国連のコンピュータはこの戦争をモニターしている。戦争は監視され制御を受けることで合法的な活動となった。ただし勝敗は国連が裁定する。國子たちが最後のひとりまで闘って勝利したとしても無効だ。それがわかっているから、迂闊にガスの中に兵を送り出せないのだ。

なるほどねえ。泥沼化を防げて、案外人道的かもね。
ただし「戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる」このルールだと、奇襲をかけて無警戒の市民八パーセントを一気に殺してしまうのがいちばん賢い戦略になってしまうので、そのへんは改良の余地ありだな。


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