2019年4月23日火曜日

五歳児の描く絵の構図


こないだ娘の保育園で発表会があった。

後日、教室の壁に園児たちの絵が飾ってあった。
それぞれが発表会の絵を描いたものらしい。

ほとんどの子の絵は、こんな構図だった。

A

舞台の上に、自分を含む園児たちがいる。
それを舞台下から保護者が観ている。

ぼくが描くとしても、こんな構図にするとおもう。

でもSくんという男の子だけ、まったくちがう構図の絵を描いていた。

B
こんなの。
手前に自分たちがいて、奥に保護者を描いている。

おおっ、と感心した。



感心した理由はふたつ。

ひとつは、Sくんが目にしたとおりの構図で絵を描いていたこと。
舞台の上にいた園児たちには、Bの光景が見えていたはず。

見えたものを見えたままに描くことは案外むずかしい。

前髪が長い人だと視界に自分の前髪が入っているが、「見えたままをそのまま描いてください」と言われても、まず自分の前髪は描かない。
無意識のうちに消してしまうのだ。

逆に、見えていないものを描いてしまうこともある。
馬を見る。自分のいる位置からは脚が三本しか見えない。
けれどその馬を描くときは、無意識のうちに見えていない脚を補完して四本脚の馬を描いてしまう。
「馬は四本脚」という常識が、見えたとおり三本脚の馬を描くことを妨げるのだ。

見たままのことを描くことはむずかしい。脳が勝手に補完修正してしまうから。

だから、見たとおりの構図で絵を描いたSくんに感心した。
子どもならではの視点かもしれない。
(とはいえSくんには見えていなかったはずの"自分"も描いているのでその点は見たままじゃないが)



ぼくが感心したもうひとつの理由は、
他の子たちが客観的な視点を持ちあわせているということ

Aの構図の絵を描こうとおもったら、「自分がどう見ているか」だけでなく「自分がどう見られているか」という意識を持たなくてはいけない。

五歳児がそんな意識を持っているとは、おもってもいなかった。
うちの娘を見ていても「常に世界は自分を中心にまわっているんだろうなあ」とおもっていたので、「他者の視点」を持っているということが驚きだった。

大人でも「他者の視点」が欠けている人は多い。

後ろから人が来ているにもかかわらず電車に乗ったところで立ちどまる人や、階段をのぼりきったところで立ちどまってきょろきょろする人は、「他者の視点で自分を見る」という意識がまったくないのだろう(少なくともその瞬間は)。

へえ。ちゃんと客観的に自分の姿を見られるんだ。



五歳児が子どもであることに感心して、同時に五歳児が大人であることにも感心した。


2019年4月22日月曜日

女装おじさんは何色か


街中でたまに女装しているおじさんいるんじゃないですか。

あれ、たいてい派手な赤やピンクのスカート穿いてるんだよね。なんでなんだろうね。

派手な赤やピンクのスカートなんて女の人でもほとんど穿いていない。
穿くのは幼い女の子か、女装おじさんだけだ。

幼い女の子と女装おじさんに共通するのは、どちらもまだ「女の恰好」に慣れていないこと。



娘が三~四歳のとき、もう恥ずかしいぐらいにピンクの服を着ていた。
「女の子はピンクを着なきゃ!」という意識に憑りつかれていたんだと思う。ピンクのシャツにピンクのスカート、ピンクの靴下。

「ピンクでかためるより、ワンポイントぐらいでピンクをとりいれたほうがより強調されてかわいいよ」とアドバイスしたこともあるが、幼児にわかるはずもなく。
ずっと林家パー子みたいなファッションをしていた。

そんな娘も五歳になってようやくピンクの波状攻撃から卒業して、黒の上下に靴下だけピンク、のようなまともなコーディネートをしてくれるようになった。

ようやく「女の子でいること」に慣れてきたのかもしれない。
慣れたことで「ザ・女の子らしい恰好」から脱却できたのかな。



慣れていないからこそ形にこだわる、という現象はよく見られる。

二十歳ぐらいの人のほうが「社会人たるもの、スーツのときはいちばん下のボタンをはずして、靴とベルトの色はそろえて、財布は……」と細かく気にしている。
スーツ生活の長いおじさんはそんなことは言わない。靴なんか歩きやすければなんでもいいやとか色の組み合わせなんかどうでもいいやとか思うようになる。よほど変じゃなければいいじゃないか。
それこそが板についてきたということなのだろう。自分のものにしたからこそ型をくずすことができる。
古い例えになるが、王貞治の一本足打法や野茂英雄のトルネード投法やイチローの一本足打法は基本をきっちりものにしたからこそたどりついた境地で、野球をはじめたばかりの人がそのスタイルだけを真似してもうまくいかない。初心者は型をきっちり身につけるののが上達へのいちばんの近道だ。

女装おじさんが「女らしい恰好」という型をくずすことができないのは、まだ「女であること」に慣れていないからだろう。



では、女装に慣れた女装おじさんはどうだろう。
もう三十年女装やっています、というおじさん。
たぶん派手なピンクはとっくに卒業して、ブラックとかグレーとかシックな恰好をしているんだろう。
フリルのついた服やスカートにこだわらず、Tシャツとかジーンズとかパンツスーツとかを上手に着こなしているはずだ。

その結果、傍目にはもうほとんど「女装おじさん」と認識できなくなる。

女装おじさんがみんなピンク色の服を着ているのではなく、ぼくらが「女装おじさん」と認識できるのは女装おじさんの中でもピンク色の服を着ている初心者だけなのだ。

もしかしたらそこにいるTシャツにジーンズのおじさんや黒のスーツのおじさんも、じつは女装おじさんなのかもしれない。

2019年4月19日金曜日

【コント】ケルベロスが現れました


「至急応援願います!」

 「まずは状況を報告せよ」

「寺町交差点にケルベロスが現れました!」


 「ケルベロス……? なんだそれは」

「神話に出てくる生物であります!」

 「なんだと! あれか、上半身が人で下半身が馬の……」

「お言葉ですが、それはケンタウロスであります! ケルベロスは頭が三つの犬であります!」

 「なるほど。キングギドラみたいなやつか……」

「キングギドラ……。それはなんでありますか!?」

 「ほら、ゴジラ映画に出てくるやつだよ。有名だろ」

「お言葉ですが、自分はゴジラ世代でないであります!」

 「いやおれだって世代じゃないけどそれぐらい知ってるだろふつう……」

「勉強しておきます!」

 「まあいいや、で、キングギドラがどうしたって?」

「キングギドラではなくケルベロスであります!」

 「ああそうか、ケルベロスだったな。何頭いる?」

「三頭であります!」

 「三頭もか。三頭とも寺町交差点にいるのか?」

「お言葉ですが隊長、ケルベロスの頭はつながっております。ですから当然ながら三頭とも同じ場所にいます」

 「待て待て待て。なに? 三頭って頭の数の話か?」

「そうであります!」

 「つまり身体は一つ?」

「そうであります!」

 「だったらおまえ、三頭ってのはおかしいだろ。それは一頭だろ」

「お言葉ですが、自分は頭基準で数えるべきだとおもいます! なぜなら一頭二頭の"頭"は"あたま"という字だからです!」

 「そうだけどさ。じゃあおまえ寿司はどう数えるの? 寿司一貫っていったら何個のこと?」

「一個であります!」

 「えーまじで? 一貫イコール二個でしょ」

「一個であります!」

 「ほんとに? おれは二個だとおもってたけど」

「自分、回転寿司でバイトしてたんですが、そのへんの解釈は人によってちがったであります! だから自分がいた店では"一個"や"一皿"と呼んで、"一貫"は使わないようにしていたであります! そもそも寿司を"一貫、二貫"と数えるようになったのは1990年頃の話で、それまでは"一個、二個"でありました!」

 「おまえくわしいな。寿司の例えはまずかったな。でもケンタウロスの場合は……」

「お言葉ですがケンタウロスではなくケルベロスであります!」

 「そうか。ケルベロスの場合は胴体基準で数えるもんじゃない? 頭三つでひとつの個体でしょ? たとえばさ、ヤツメウナギっているじゃん。あれ眼が八つあるからって四匹っていわないでしょ」

「ヤツメウナギはエラが眼のように見えるからヤツメウナギと呼ばれていますが、実際の眼は二つであります!」

 「えっ、そうなの。知らなかった。おまえウナギのことやたらと知ってんな」

「ヤツメウナギは生物学上はウナギではないであります!」

 「へーそうなんだ、知らなかった……」

「では頭の数基準で三頭ということでよろしいでしょうか!」

 「いや待て待て。まだ納得いってないぞ。……じゃああれはどうだ、鳥。鳥は一羽二羽って数えるだろ。でも羽根一枚につき一羽じゃないよな。つまり羽根が一枚でもあれば一羽」

「……」

 「な? だから頭がいくつあっても胴体がひとつなら一頭なんだよ」

「お言葉ですが隊長、ではウサギはどうなるのでしょう?」

 「ウサギ?」

「羽根が一枚でもあれば一羽とおっしゃいましたが、ウサギには羽根がありません。ですが一羽二羽と数えます。この点についてはどうお考えでしょう!」

 「いやおまえ、ウサギ持ってくるのはずるいだろ……。あれは例外中の例外というか……」

「もしも胴体がふつうのウサギで頭が三つあるケルベロウサギが現れたら、どう数えたらよいのでしょうか! 一頭か、三頭か、一羽か、三羽か……」

 「それ今決めなきゃだめ? 一体なんの話してんだよ……」

「あっ、隊長、それです!」

 「それ?」

「一体、ですよ。一頭二頭と数えるからややこしいのであります。一体、二体と数えれば解決であります。ケルベロスが一体現れました!」

 「あーよかった」

「お言葉ですが隊長、解決した気になるのはまだ早いであります!」

2019年4月18日木曜日

天才はいいぞ


ばかみたいに思われるから人には言わないけど、
ぼくは自分が天才だとおもって生きている

根拠はない。
だって既存のものさしで測れないから天才なんだもん

事実かどうかはどうでもいい。
大事なのは、自分で自分のことを天才だと信じること。


天才はいいぞ。

天才はいちいち腹を立てない。
仕事ができないやつを見ても、無駄に話が長いやつに出くわしても、出入口に立ち止まるやつを見ても、傘をふりまわしながら歩くやつを見ても、
「あいつは天才じゃないからしょうがないな」
とおもうだけだ。

ぼくとちがう。ただそれだけ。
赤ちゃんが上手にしゃべれなくても腹が立たないのと同じ。
後輩がミスをしても、同じ質問を何回もしても、腹を立てたりしない。
天才じゃない人は大変だなあと同情するだけ。

「なんでこんなかんたんなことができないの」とは思わない。だってぼくが特別天才なだけなんだもの。
ぼくにとってかんたんなことでも、天才じゃない人にとってはむずかしいんだろう。
ま、せいぜいがんばれよ。


今日は疲れたな。
まあ天才は人の何倍も頭を使ってるからな。疲れるのもしょうがない。

甘いもの食べたいな。
脳は糖分を大量に消費するからな。天才には糖分が必要だ。

天才は自分を大事にする。
だってぼくの脳は人類の貴重な財産なんだから。
たっぷり寝て休ませてあげるし、甘いものも食べる。お酒は脳に悪いので控えめに。


天才は本を読む。
いくら天才だからって知らないことはわからない。
たくさんの情報を仕入れないと天才が天才的発想をできないからね。


天才は失敗をおそれない。
だって天才だから。なんとかなるはずだ。で、たいていなんとかなる。天才が天才たるゆえん。

天才は失敗したって落ちこまない。
天才だからこの程度の失敗で済んだのだ。天才じゃなかったらどうなってたかわからない。天才でよかったー!


天才はいいぞ。
みんな天才になるといい。
ま、そうかんたんになれないから天才なんだけどね。


2019年4月17日水曜日

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

キング&クイーン

柳 広司

内容(e-honより)
「巨大な敵に狙われている」。元警視庁SPの冬木安奈は、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛依頼を受けた。謎めいた任務に就いた安奈を次々と奇妙な「事故」が襲う。アンディを狙うのは一体誰なのか。盤上さながらのスリリングな攻防戦―そして真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る。

(少しネタバレ含みます)

警察を辞めた元SPが来日中のチェス世界王者アンディ・ウォーカーの警護を依頼される。
どうやらチェスの世界王者は本国アメリカ大統領府と日本のヤクザから、それぞれ別々に追われているらしい。いったい裏には誰のどんな思惑が……?

というハードボイルドな感じで話が進んでいき、同時にチェスの天才アンディの生い立ちも語られる。
そして明かされる意外な真相……。

まあ意外といえば意外なんだけど、「おもってたよりスケールのちっちゃな話だった」という点で意外だった。
大統領から追われているというからどんな壮大な裏があるのかとおもいきや。

叙述トリックもしかけてあって、これも軽め。
内容紹介文には「真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る」とあるけど、ぜんぜんそんなことない。
「あーそうか」ぐらいのもの。

しかし「同名の別人」って、トリックとしてはルール違反すれすれじゃないか?
それで「やーい騙されてやんのー」っていわれてもねえ。
同じ名前が出てきたらそりゃあ読者は同一人物として読むでしょ。そこをいちいち疑ってたら小説が成立しない。
「あれ? 同じ人物のはずなのに前の記述と矛盾してない?」と思わせるような伏線をしっかり張ってくれていたらいいんだけど。



トリックや種明かしはともかく、ハードボイルド小説としてはおもしろかった。

舞台がめまぐるしく変わるのに今誰が何をやっているのかがすごくわかりやすい。
説明くさくない文章で、状況をさりげなく示してくれる。

すごくうまい小説だ。修辞的な文章が並んでいるわけではないが、読みやすい。こういう文章、好きだなあ。

文章がいいから、あっと驚くトリックや意外な真相がなくてもしっかりと楽しめた。
スリリングなチェスの対局を見ているような読書体験だった。チェスの対局見たことないけど。


あとこの小説を読むとチェスをしたくなるね。

小川洋子氏の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだときもおもったけど。

でもチェスってやりたくなるけど、やってみると「将棋のほうがおもしろいな」っておもっちゃうんだよなあ。
将棋を先に知っちゃったからかなあ。


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