2019年3月1日金曜日

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』

『夜明けの街で』

東野 圭吾

内容(e-honより)
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。ところが僕はその台詞を自分に対して発しなければならなくなる―。建設会社に勤める渡部は、派遣社員の仲西秋葉と不倫の恋に墜ちた。2人の仲は急速に深まり、渡部は彼女が抱える複雑な事情を知ることになる。15年前、父親の愛人が殺される事件が起こり、秋葉はその容疑者とされているのだ。彼女は真犯人なのか?渡部の心は揺れ動く。まもなく事件は時効を迎えようとしていた…。
『赤い糸』では介護、『手紙』では加害者家族の生き方、『さまよう刃』では少年法など社会問題とからめたミステリを手掛けてきた東野圭吾さん。
『夜明けの街で』はミステリ×不倫。
ミステリと他のテーマをかけあわせることによって、次々に新鮮な味わいを提供してくれる。そしてそのどれもが高い水準を保っている。
名料理人、という感じ。

ちなみにこのタイトル『夜明けの街で』は、サザンオールスターズの不倫をテーマにした『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』の歌詞の一部から。
舞台が横浜だったり、『LOVE AFFAIR』の歌詞に出てくるスポットが使われていたり、「秘密のデート」という言葉が何度も出てきたり……と、ずいぶん曲へのオマージュを感じさせられる小説。曲を知っていたほうがずっと楽しめるので、読む前に聴くべし。



「不倫相手の女性が15年前の殺人事件の犯人かもしれない」というのが本書のいちばんの謎。
でも正直いって、殺人事件の真相よりも不倫の行方のほうが読んでいて気になる。
はたして妻には気づかれていないのか、気づいていて素知らぬふりをしているだけなのか……。読みながらゾクゾクしていた。

ぼくは不倫をしたことはないが、どんなことがあろうとも自分はぜったいに不倫はしない! と言いきれるだけの自信もない。魅力的な女性に言い寄られたら毅然としてつっぱねることができるかどうか、我が事ながらたいへん心もとない。まあ幸か不幸か、独身時代も含めてそんな機会はないけど。

ぼくは自分の意志をぜんぜん信頼していない。だから、そもそも浮気のきっかけになるような状況に近寄らないようにしている。女性と一対一で会うなんてことはしない、どうしても会わなければならないなら昼間にする、飲み会が終わったら二次会三次会に行かずにさっさと帰る(飲み会が嫌いだからだけど)、好みの女性と会ったらまず子どもの話をする(自分に言い聞かすため)……。
まあそんなことしなくてもぼくみたいなしみったれと不倫してくれるような女性はいないとは思うが、気をつけておくのに越したことはない。

ぼくはタバコを一本も吸ったことがないし、パチンコを一度もやったことがない。麻薬も一度もやったことがない。
それは自分の意志にまったく信頼を置いていないからだ。「一度やったらハマってしまうかもしれない」とおもっているから、意識的に遠ざけるようにしている。不倫もそれと同じだ。ハマってしまいそうだから怖い。

不倫なんてしても99%良いことはない。誰もがわかっている。
バレれば家庭や金銭を失うし、へたしたら仕事や友情も失うことになる。バレなくたって罪の意識は残るだろう。

それでもしてしまう。もう本能的なものとしか考えようがない。麻薬と同じで、理性で太刀打ちできるようなものではないのだろう。こえー。



ミステリとしては、正直イマイチ。
東野圭吾作品の中でもかなり下位に位置する出来栄えだった。「十五年も××をしていた」(ネタバレになるため伏字)というのは無理があるし、真相が明らかになったところで「えーまさかあの人が!?」というような驚きもない。

ホラーとして読む分にはじつにスリリングでおもしろかった。
ぞくぞく。

ただ、結末ははっきりいって生ぬるい。さんざん身勝手な立ち居振る舞いをしてきた男がこれだけで許されるのかよ、と拍子抜けする。ぼくはもっとえげつない展開が見たかったぜ。
東野圭吾氏も男なので温情を見せてしまったのかなあ。

女性作家ならきっとこういう結末にはしなかっただろうな。

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【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』



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2019年2月28日木曜日

【読書感想文】宇宙時代なのにテープで録音 / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』

たったひとつの冴えたやりかた

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア (著)
浅倉 久志 (訳)

内容(e-honより)
やった!これでようやく宇宙に行ける!16歳の誕生日に両親からプレゼントされた小型スペースクーペを改造し、連邦基地のチェックもすり抜けて、そばかす娘コーティーはあこがれの星空へ飛びたった。だが冷凍睡眠から覚めた彼女を、意外な驚きが待っていた。頭の中に、イーアというエイリアンが住みついてしまったのだ!ふたりは意気投合して〈失われた植民地〉探険にのりだすが、この脳寄生体には恐ろしい秘密があった…。元気少女の愛と勇気と友情をえがいて読者をさわやかな感動にいざなう表題作ほか、星のきらめく大宇宙にくり広げられる壮大なドラマ全3篇を結集!

ほんとにしゃれたタイトルだね(原題は『The Only Neat Thing to Do』)。翻訳SFってかっちょいいタイトル多いよねえ。
『夏への扉』『世界の中心で愛を叫んだけもの』『星を継ぐもの』『あなたの人生の物語』とか。
その流れを受けているんだろう、星新一のショートショート集もしゃれたタイトルがついていた。『だれかさんの悪夢』『ちぐはぐな部品』『おのぞみの結末』『ありふれた手法』とか。スマートだよなあ。



『たったひとつの冴えたやりかた』

両親に内緒で宇宙探検に出かけた少女。だが、あることをきっかけに脳内にエイリアンに寄生されてしまう。とはいえそのエイリアンはとっても紳士的・友好的で、害をなすどころか体内の掃除までしてくれる。すっかり友だちになった少女とエイリアンだが思わぬ罠が……。

少年冒険小説のような明るい導入から、意外性のある展開、徐々に迫る不気味な予感、そしてさわやかな悲哀が漂うラスト……とめまぐるしくテイストが変わる小説。
うん、おもしろい。
ところどころに挟まれる「たったひとつの冴えたやりかた」という台詞が、最後の最後で重い意味を持つ。




『グッドナイト、スイートハーツ』

凶悪な敵に襲われた宇宙船を助けに向かった男。そこで出会ったのは、数十年前に別れた恋人(冷凍睡眠や美容手術のおかげで互いに老けていない)、さらに賊の人質になっていたのはかつての恋人のクローンだった……。

うーん……。
「宇宙が舞台なのにめちゃくちゃ世間せまいな!」という感想しか出てこない。
宇宙の果てで数十年前の知り合いとばったり。さらに知り合いが数十年前につくったクローンともばったり。
正月に田舎町に帰省したときぐらいの頻度で知り合いに出会うスペース・オペラ。



『衝突』

異星人とのコンタクトを、「万能翻訳機」みたいなものに頼らずに、基礎的な言語だけでおこなうもどかしさを描いていたのはおもしろかった。テッド・チャン『あなたの人生の物語』を思いだした。あちらのほうがずっと説得力があったが。



三篇すべてに言えることなんだけど、え? それだけ? という感じで終わってしまう。もうひと展開あるだろうな、と思って読んでいたら何もなし。

三十年以上前の小説だからしょうがないんだけど。
少年少女向けかも。まっすぐに前を向けなくなったおっさんにはちょっと単調すぎたよ。


小説の味わいとはあんまり関係ないけど、宇宙を縦横無尽に飛びまわる世の中が舞台なのに、録音をするときにテープを使っているのがおもしろい。長時間の録音をするときはテープ入れ替えたりしてんの。はっはっは。ダセぇ。
宇宙飛行とか冷凍睡眠とかエイリアンとのコンタクトとかに関しては自由自在に想像して書いているのに、録音はテープ。カセットテープしかなかった時代には、音をデータのまま保存しておくというのは想像できなかったんだろうなあ。

人間の想像力には制限がないようで、やっぱり制限がかかってしまうということがわかるおもしろい事例でした。

2019年2月27日水曜日

【読書感想文】話しかけてくるなり / 俵 万智『生まれてバンザイ』

生まれてバンザイ

俵 万智

内容(e-honより)
俵万智さんが、赤ちゃんを生んで、唄った母の歌。
妊娠中、出産後、子育ての間に詠んだ短歌を集めたオムニバス。

俵万智さんは好きなので『プーさんの鼻』は読んだことがあったはずだが、当時は子どもがいなかったのであまりぴんとこなかった。
五歳と〇歳の二児の父となった今では、同じ短歌を読んでもやはりいろいろ感じるものがあっておもしろい。
朝も昼も
夜も歌えり
子守歌
なべて眠れと
訴える歌
子どもが生まれる前は、子守歌ってほのぼのした優しい気持ちでうたう歌だとおもっていた。
でもじっさいはそうじゃない。
頼むから寝てくれ。おい早く寝ろよ。切迫した懇願であり脅迫であり祈りである。
子守歌をうたっている時間は、こちらの睡眠が削られている時間。戦いの時間なのだ。

ついてってやれるのは
その入り口まで
あとは一人でおやすみ
坊や
子どものとき、怖い夢を見るたびに母親のところに行っていた。「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてくれた。

今、娘が「こわいゆめをみた」とぼくをおこしにくる。眠いのに起こすなよ、と思う。めんどくせえな、と思う。でも「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてあげる。

そうか。母親もこんな気持ちだったのか。

記憶には残らぬ今日を
生きている
子にふくませる
一匙の粥
子どもにいろんなことをしてあげながら、「どうせこいつはおぼえてないんだろうな」と思う。
〇歳児はとうぜんだし、五歳児だって今ぼくと遊んだことや行った場所をほとんどぜんぶ忘れてしまうかもしれない。
子どもを持つ前のぼくなら、だったら意味ないじゃんと思っていたかもしれない。でも今はそうは思わない。
ぜんぶ忘れられたっていいさ。だってこっちはずっとおぼえてるからな!

みどりごと散歩をすれば
人が
木が
光が
話しかけてくるなり
子どもと歩いていると、それまで気づかなかったことに気づく。
タンポポが咲いていることや、街路樹に鳥が巣をつくっていることや、小さい段差があること。
ひとりで歩いているときは目に入ってもまったく意識をしない。だけど、子どもに世界を教えるつもりで歩いていると、タンポポが鮮明に意識される。まるで自分も生まれてはじめてタンポポを見たかのように。

それを「話しかけてくるなり」と表現するのはさすが。



赤ちゃんの歌を集めたオムニバスのはずなのに、なぜか後半には恋の歌が集められている。しかも初期の『サラダ記念日』や『チョコレート革命』などから。
子どもとの関わりを詠んだ歌の後に「恋の歌」を読むと、ずいぶんうすっぺらく感じてしまう。
いやべつに子育てのほうが恋愛より崇高だとかいうつもりはないんだけど、やっぱり同じスタンスでは味わえないよね。なんでこれ収録したんだ。じゃまでしかない。

収録されている短歌は子どもが三歳ぐらいまでの歌ばかりなので、「恋の歌」を入れるぐらいなら幼児~少年期の歌ももっと入れてほしかった。

後半さえなければいい本だったのになあ。

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【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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2019年2月26日火曜日

不公平な姉弟


ぼくの姉には子どもがふたりいる。
八歳の姉と四歳の弟。きょうだいでありながら性格はぜんぜんちがう。一言でいうと、お姉ちゃんは神経質、弟はおおらか。

お姉ちゃんは弟に厳しい。自分と同じものを求める。
大人からすると八歳と四歳なんてまったく違うのだから、何をするにも弟はできなくて当然。だけどお姉ちゃんはそれが許せない。
「なんでわたしはできないと怒られるのに弟は許されるのよ!」という不満を抱えて生きている(ように見える)。

こないだその姉弟とすごろくをした。
やはりお姉ちゃんは弟に厳しい。
「待ってるんだから早くサイコロ振って!」「4が出たんだからそこじゃないでしょ!」と弟を叱責する。
さらに間の悪いことに、弟はいい目が出てお姉ちゃんは悪いマスにばかり止まる。
弟はトップ、お姉ちゃんはビリ。すごろくは運ですべてが決まるのでこればっかりはどうしようもない。

お姉ちゃん、だんだんイライラしてきて、露骨に弟に当たりちらしはじめた。
サイコロを弟に投げつけるように渡したり、弟のコマをわざと倒したり。
しかし弟のほうは、姉が自分に向けてくる悪意にまるで気づかない様子で、いつもと同じようににこにこしながら「やったー、6だー!」と喜んだり「お姉ちゃんがんばれー!」と応援したり(しかしそれがお姉ちゃんには煽っているように感じるのだが)。

もしこれが、悪意に気づきながら華麗にスルーしているのだとしたら相当な大物だ。


さてさて。
当然ながらその場にいる大人は、弟に気を遣う。
お姉ちゃんに「もっと優しくサイコロを渡しなよ」と注意をし、弟に「ゆっくりでいいからね」と声をかける。親も、おじいちゃんおばあちゃんも、叔父(ぼく)も、弟に気づかう。
その結果、お姉ちゃんはますます不機嫌になる。
きっとお姉ちゃんからしたら「弟がやるべきことをできてないから注意してやってんのに、周りの大人は弟ばかり甘やかす」というふうに映っているのだろう。

弟に厳しく当たる → 周囲の大人が弟に優しくする → ますますイライラして弟に厳しく接する

というスパイラルだ。
しかしお姉ちゃんは、自分の行動が「弟甘やかされすぎ」現象を生んでいるとも知らず、今日も弟に冷たくあたる。
つくづく損な性格してるなーと傍から見ていて思う。



子どもは、不公平であることに異常に敏感だ。
いつも周りと見比べて、自分が享受すべき利益が他人に渡っていないかを厳しくチェックしている。
「よそはよそ、うちはうち!」
と言われずに育った子どもはまずいないだろう。

世の中は不公平なものだが、それを認めるには時間がかかる。
世界は不公平だと学ばぬまま大人になってしまっている人も多い。
「おれをスピード違反で捕まえるんだったら他のやつも捕まえなきゃだめだろ!」
「私は努力してるのになんで大した努力もしてないあいつがいい目にあってるのよ!」
と考えてしまうタイプは一生幸せになれない。
完全に公平であってほしいという気持ちを満たそうと思うなら、誰もが不幸な国に行くしかないのだから。

かわいい姪にはそんな不幸な大人になってほしくないと思うので、
「弟に優しいお姉ちゃんって思われたら、みんなが優しくしてくれるよ」
と言ってみたのだが、はたしてどこまで伝わっているのやら。

2019年2月25日月曜日

【読書感想文】貧乏クジを引かされたのは読者だよ / 香山 リカ『貧乏クジ世代』

貧乏クジ世代

この時代に生まれて損をした!?

香山 リカ

内容(e-honより)
その数、なんと一九〇〇万人!「第二次ベビーブーマー」「団塊ジュニア」と称される一群を含む70年代生まれ。いま二十代後半から三十代前半の彼らは、ひそかに「貧乏クジ世代」とも揶揄される。物心ついたらバブル景気でお祭り騒ぎ。「私も頑張れば幸せになれる」と熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたが、世は平成不況で就職氷河期。内向き、悲観的、無気力…“自分探し”にこだわりながら、ありのままの自分を好きになれない。「下流社会」「希望格差社会」を不安に生きる彼らを待つのは、「幸運格差社会」なのか。

この本でとりあげられる「貧乏クジ世代」とは、いわゆる第二次ベビーブーマーであり、いわゆる団塊ジュニア世代であり、いわゆるロストジェネレーション世代である。
1970年代生まれ、だいたい中高生ぐらいにバブルを経験している時期。「大人たちがバブルに浮かれているのは見ていたけど、自分たちが社会に出たときにはバブルははじけていてその恩恵にあずかれなかった世代」だ。

その世代について分析した本……かと思いきや。

いやあ、ひどい本だった。
ぼくもいろんなひどい本を読んできたという自負があるけど(どんな自負だ)、この本は相当上位にランクインするな。

なにしろ「こんな話を聞いた」とか「私の周りにこんな人がいる」とか「私はこうだった」レベルの話がひたすら並び、それをもとに世代論を展開している。
 ところが貧乏クジ世代の場合、どうもその視線がいきなり現実の未来や社会を越えて、霊的世界や運命的世界にまで飛んでしまうことがあるようなのだ。「私がツイていないのは守護霊がよくないから」「今年は私みたいな水星人は最悪の運勢らしい」「オレはAB型だから対人関係がうまくいかないのはしたない」。こうやって、「うまくいかないのは家族や周りの人のせい」から、「社会のせい」を飛び越えて、いきなり「霊や宿命のせい」と結論づける。内向き志向と並んで、貧乏クジ世代の思考パターンにはこの“超越志向”もあるようだ。
 考えてみれば、彼らが生まれた一九七〇年代は、七三年のホラー映画『エクソシスト』の公開や『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)の出版、UFOや宇宙人の大ブームなど、オカルトや超常現象への人びとの関心が一気に高まった時代でもあった。
 しかし、このころは高度成長に支えられ、「私にも未知なる超能力があるかもしれない」「いつかUFOに乗れる日がくるかもしれない」と、人びとはそこに自分たちの新しい可能性や未来を見つけようとしていた感がある。そして貧乏クジ世代は、七九年に創刊されたオカルト雑誌『ムー』(学習研究社)を眺めたり、「口裂け女」のウワサを聞いたりしながら、子ども時代を過ごすことになったのである。
は?
言っておくが、この文章の前後のどこにも「70年代生まれはオカルトにはまりやすい」ことを示すデータはない。ないのはあたりまえだ。著者の頭の中にしかない思いつきなんだから。
だいたい70年代にオカルトへの関心が高まったんなら、オカルトにはまってたのは70年代生まれじゃなくてその上の世代じゃねえか。乳幼児がオカルトブームを牽引してたと思ってんのか?
著者の頭の中がいちばんの “超越志向” だよ。

 いまはどうなのだろう。国内にも世界にも、問題は山積み。むしろ私の時代以上に、大きな事件や戦争が次々に起きる。しかし、貧乏クジ世代の人たちは、内面化しがちなこの年齢特有の視線を、なかなか外向きに変えられずにいるように見える。
 書店に行っても、その世代向けに書かれた本の多くが、「社会をこう読む」ではなくて、「上司とはこう話す」「彼女にはこう接する」といった、あまりといえばあまりに等身大なマニュアル本。あるいは、いわゆる自分探し、自己啓発系の本。視線はさらに足下に、もしくは心のなかにと向きつつあるようだ。
 これはいったいどうしてなのか。私が三十歳だったころのように、彼らは「こうしちゃいられん!」などとそう単純には立ち上がらないということか。そうやって立ち上がっては結局、社会をよくすることができなかった”先輩“たちを、あまりにもたくさん見すぎたということか。いずれも理由の一つだとは思うが、もうちょっと別の原因もありそうだ。
これもひどい。ツッコミどころしかない。
私の時代」ってなんなんだよ。それ言っていいのは天皇だけだよ。
その世代向けに書かれた本」ってどうやって判断したんだよ。
ように見える」「あるようだ」「ありそうだ」って大学生が論文に書いてまず怒られるやつだよ。Wikipediaなら[要出典][未検証]とかタグつけられまくるやつだよ。
大きな事件や戦争が次々に起きる」「本の多くが~」も根拠ゼロ。「最近の若者はなっとらん」レベルの意見。

「自分の観測範囲内の人たち+根拠のない推測」と「私が三十歳だったころ+美化された思い出」を比較して、「この世代は~」と語っている。あきれて話にならない。

また、この「この根拠ゼロの分析」の後に、「精神科医からのアドバイス」みたいなのがくっついていて、余計に不愉快。
著者の妄想でしかない症状に対して、対策を教えられてもねえ。

この根拠ゼロ+クソつまらない話が延々続いて、この前置きはいつまで続くのかとおもっていたら、とうとう中盤までこの調子だった(半分ほどで読むのをやめたので最後がどうだったかは知らない)。
ぼくは「よほどのことがないかぎりは一度読みはじめた本は最後まで読む」ことを心がけているので途中で投げだすのは五百冊に一冊ぐらいなのだが、これはその貴重な本の一冊に見事光り輝いた。

エッセイとしてならまだしも、これを新書として出すなよ……とため息が出る。ここまでひどいと、もう著者に対しての怒りは湧いてこない。どうしようもない人なのだから。
これをノーチェックで出版した出版社に怒りが湧いてくる

この本の刊行は2005年。そういやその頃って新書ブームとか言われて質の低い新書が濫造されていた時期だったなあ……。新書貧乏クジ世代だ。

いやあ、ほんとひどい本だった。この人の本は二度と読まんぞ!